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不正を謝罪するダイハツ工業の奥平総一郎社長ら(2023年12月)/(C)共同通信社 

 

【企業深層研究】ダイハツ工業(下) 

 

 トヨタ自動車は2016年8月1日、ダイハツ工業を完全子会社にした。これを機に元会長の白水宏典技監がダイハツを去った。軽自動車でスズキに次いで万年2位のダイハツを一気にトップに引き上げた立役者が経営の第一線から退場した。 

 

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「トヨタの帝王」(豊田章男トヨタ自動車会長)が「ダイハツの天皇」(白水宏典氏)からダイハツの経営権を奪い返したと評判になった。 

 

 白水氏は1940年8月、佐賀県鳥栖市生まれの83歳。63年、九州大学工学部造船科を卒業、トヨタ自動車工業(現・トヨタ自動車)に入社。田原工場第2製造部長を経て、92年に取締役に昇格。常務、専務と昇進を重ね、2001年取締役副社長に就いた。 

 

 03年、舌禍事件を起こす。「英国人労働者はフランス人に比べ働かない」と英紙フィナンシャル・タイムズに語ったのだ。 

 

 日本の新聞も大きく報じた。記事によると白水副社長は、〈「英国の工場は仏などに比べると20%も生産性が低い」と指摘。「タイ人が仕事へ適合しようと努力するのに対して、英国人は仕事をえり好みし、直ぐに職を変える傾向がある」〉などと発言していた。〈トヨタは「報道された生産性に関する発言は当社の公式見解とは異なるもので大変遺憾」〉とおわびのコメントを発表する騒ぎとなった。 

 

 経営陣の国際感覚のミスマッチはグローバルに展開するトヨタにとって、はなはだ不都合である。白水氏の処遇に注目が集まった。 

 

 05年6月、白水氏はダイハツ工業会長に天下りした。白水氏がダイハツで真の権力を確立したのは07年。軽自動車のトップシェアを34年間守ってきたスズキを抜いて初の首位に躍り出た時だった。07年はダイハツの創業100周年の節目の年だった。 

 

 11年が最大の転換点となった。ホンダが広い室内を売り物にした「N-BOX」を発表して軽に本格参入してきた。迎え撃つダイハツは、従来の車の半分のわずか18カ月の開発期間で「ミライース」を送り出して対抗した。 

 

「ミライース」のように、短期の開発期間でヒットするクルマをつくり上げたことが白水氏の最大の遺産だ。 

 

 だが、皮肉なことに短期開発に突き進む動きに呼応するかのように不正が14年以降に急増する。 

 

「白水“天皇”がつくった体制と成功体験が、不正が生まれる土壌になった」とする現役社員の告発が、メディアにあふれた。 

 

 白水氏は11年に会長職を退いた後も、16年まで相談役技監という肩書で、事実上のトップとしてダイハツに君臨し続けた。 

 

 白水氏はトヨタの出身だが、彼のエネルギーの原動力は「アンチ・トヨタ(トヨタの否定)」だった。トヨタが営々として築き上げてきたケイレツ(系列)の解体を主張した。「生き残るために系列を解体して、1台当たりのコストを削減する」を言行一致でやってみせた。アンチ・トヨタを標榜するものづくりへの執念は、当然の帰結だが、「社内外に軋轢を生んだ」(トヨタ&ダイハツの関係者)。 

 

 トヨタはダイハツを完全子会社にすることを急ぎ、「白水天皇」の放逐という荒療治を断行した。 

 

 トヨタはダイハツの永遠のライバルであるスズキと資本・業務提携した。トヨタとスズキは創業家同士が親密だ。事実上、スズキはトヨタの傘の下に入った。次にくるのは何か?  

 

 トヨタグループの日野自動車の不正は、三菱ふそうとの統合という大型車(トラック)再編に結び付いた。 

 

 ダイハツの不正の行き着く先は、スズキとダイハツの軽自動車の合併。軽の世界で100年に一度の大変革をもたらす可能性が高い。 

 

(有森隆/経済ジャーナリスト) 

 

 

 
 

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