( 131058 ) 2024/01/21 15:25:43 2 00 松本人志擁護が“芸と人格は別”論では不可能なワケ。過去には「女は95人アホですね」と放言女子SPA! 1/21(日) 8:46 配信 https://news.yahoo.co.jp/articles/787cd65be2d17042374e068f9ff7216c705531fd |
( 131059 ) 2024/01/21 15:25:43 1 00 松本人志の様々な発言について、批判や擁護の声が上がっている中、立川志らくのコメントや、松本の著書『遺書』や『松本』、そして『松本人志 愛』から彼の考え方や言動についての洞察が紹介されている。 | ( 131061 ) 2024/01/21 15:25:43 0 00 『松本人志の怒り 赤版』集英社
収束する気配がない松本人志の騒動。各界の有名人も批判、擁護それぞれの立場から発言をしています。
【画像】自らの才能に対する病的なほどの自信とこだわりを吐露した松本人志
なかでも、立川志らくのコメントが注目を集めました。1月9日に自身のX(旧ツイッター)で、「松本人志さんは芸人。芸人はどれだけ常人には経験出来ない事を経験できるかが勝負。非常識に生きてこそ芸人。」と投稿し、松本に“エール”を送ったのです。
またしても“芸と人格は別”論です。
けれども、松本人志も同じ方法で擁護することはできるのでしょうか? 筆者は大いに疑問を抱いています。
松本の著書を読むと、むしろ芸と人格が密接につながっていることがわかるからです。『遺書』(1994年)、『松本』(1995年)に続く、『松本人志 愛』(1998年)という本があります。(いずれも朝日新聞出版)
一般的にはベストセラーの『遺書』、『松本』が有名ですが、今回の一件に至る本質は『松本人志 愛』に強くにじみ出ています。松本がいかにして社会現象となり、カリスマ性を身につけていったかがさらに理解できる一冊なのです。いくつか発言を引いてみましょう。
週刊文春の第一報で衝撃的だったのが、松本が初めて会った女性に対して「俺の子供産めや」と迫っていたとされることでしょう。その前段階で、自分のように才能豊かな人間が一夫一婦制に縛られるのはおかしいと語っていたとも同誌では言われています(2023年12月27日発売『週刊文春』より)。
『愛』では、“オレ”が特別であり、他の追随を許さない存在であること。その他大勢は踏み台にしかならないかのごとき論法を展開しています。
もっとも顕著なのが女性に対する考え方です。ミソジニーなる言葉が一般化するはるか昔からあけすけに告白しています。
<僕が思うには、男は100人おったら、そうやなあ、70人か80人くらいがアホですよね。女はね、95人アホですね、うん。(中略)おもろい女いますか? こいつ、ほんまおもろいわって女。天然とかでなくて、ちゃんと計算して、フリもきっちりできて。そんなヤツいませんもん。なぜかというと、性欲がないからじゃないですか。つきつめていったら、笑いと性欲はつながってんじゃないかと思いますけどね。>(p.14-15)
これこそ、松本人志の芸と人格が表裏一体であることを認めた発言だと言っていいでしょう。自己と他者を上か下かの関係でしか判断できない思考法。笑いのセンスの有無のみで人の優劣を決めることに何のためらいも感じていない様子からうかがえます。
しかも、その「笑いのセンス」自体、松本個人の中でしか完全に理解できないものなのに、異論を寄せ付けない頑(かたく)なさがある。
自らの才能に対する病的なほどの自信とこだわりを持っていると感じる理由です。
対女性以外でもこんな発言がありました。
<たとえば、「なんじゃ、こいつ」ぐらいのヤツに比べて、僕の収入が100倍やったとしましょうよ。でも「オレの才能はこいつのたかだか100倍か」と思うんですよ。>(p.107)
傲岸不遜(ごうがんふそん)。強烈なプライドの根拠となっているのが、確固たる自己認識なのですね。
<笑いということについて、「誰もやったことのないことをやろうとしている」って、これだけ言ってますよね。>(p.137)
つまり、松本人志の本分は、唯一無二かつ孤高であること。他に何もないのです。それをコントやフリートークなどの芸と、思想や哲学を包み隠さずに語る“私人”としての両面から固めていった。
いわば、芸と人格が深く依存しあうことによって生まれた特異なタレント、それが松本人志だったのです。
自らを特別な存在、スペシャルワンだと語る松本の言葉はさらに続きます。
<やっぱりね、「俺は人とは違うんや」というのが、まずあるわけですよね。俺自体、人と違うのに、その俺を助けられる人間っていないと思うんですよ。>(p.134)
<お笑いタレントで努力してるヤツいますか。矢面に立ってるヤツ。>(p.24)
他者とは違う、もっと言えば、他者から抜きん出た存在であるとの認識が、個性を持つことへの歪(ゆが)んだ傾倒にあらわれている点は見逃せません。
“自分はゴッホの生まれ変わりなのではないか”と語るところはご愛嬌としても、次の発言には違和感を覚える人も多いのではないでしょうか。
神戸の小学生殺害事件の報道について、中継先でピースをして映り込むふつうの人たちよりも、犯人にシンパシーを抱く理由をこう語るのです。
<こんなこと言うとあかんかもしれへんけど、犯人の方がまだ好感もてますもん。いや好感もてる言うたらあかんな、あかんけども……、まだ自分もってるだけマシなんかなと思ってしまうんですよ。(中略)でも僕は、自分をもってないということを人以上に恥ずかしいことやと思う人間なんですよ。だから、自分を持っているということだけの物差しで言うと、彼の方が長いですよね。>(p.98)
よく活字になったなと思うぐらい危うい発言です。これも、松本が論理の飛躍を自覚しているのではなく、むしろ自らに課したハードルが呪縛となり、本質を見誤っているのではないかと感じるのです。
このように、女性は“アホである”と公言する人物は性をどのように取り扱うのでしょうか? 身勝手かつ稚拙(ちせつ)な女性像を介した性と笑いがつながっているのだとすれば、松本人志の「笑い」とは何なのでしょうか?
自分以外は「アホ」、自分の「笑い」を理解できないヤツは「アホ」。そうした「笑い」の中に、誰にも譲れない個性や自我が存在すると感じているのだとしたら、そのプライドはポジティブな原動力たり得たのでしょうか?
そもそも、それは松本が考えるように、彼に勝利をもたらしたのでしょうか?
つまり、当時私達が圧倒的強者として見ていた松本人志とは、実はその逆で、完全なるルサンチマンに突き動かされていたのではないかと考えられるのですね。
本来、自分はもっと世の中に認められてしかるべきだ、という欲望を持ちつつも、それを正当な言動によっては成し遂げることができない、弱者のひがみと言ったら言い過ぎでしょうか。
しかし、松本人志には決定的な鬱屈が巣食っているように見えるのです。
<僕が死んだら、どんなふうに書かれるんでしょうね。生まれながらのヒールですから。ほめられたことないですから。それでも死んだらくさされへんから、気持ち悪いぐらいええこと書いてくれるんかなあ。>(p.120)
ダウンタウンは、こうした満たされなさを逆手に取り、ルールを書き換えることで、お笑いの覇者になりました。その事実は揺らがないし、革命的でもありました。
一方で、唯我独尊のパブリックイメージに本人が乗っ取られてしまった可能性はないでしょうか?
“松本人志はオンリーワンであり、その人物が生み出す笑いも同様に他の何物にも影響を受けていない、全く新しいものである。それゆえに、言動も圧倒的に個性的であらねばならない。”松本のカリスマ性は、いわば極端に狭いマイルールの中で肥大していったのです。
しかし、幸か不幸か、陰湿な世界観が共感を集め、信者が増えるほどエコーチェンバーは大きくなり、客観性は失われていきました。もともと他者性に欠けていた松本人志の言葉にとって、それはあまりにも危険な媚薬でした。
『愛』を読み返して、松本人志の破綻は必然だったのだと思いました。
<文/石黒隆之>
【石黒隆之】 音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。いつかストリートピアノで「お富さん」(春日八郎)を弾きたい。Twitter: @TakayukiIshigu4
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