( 131718 ) 2024/01/23 22:05:37 0 00 母からの最後の手紙を読み、笑みをこぼす梨菜さん(2023年12月、福岡県で)=貞末ヒトミ撮影
5歳で母を亡くし、松山市のファミリーホームで育った大学生の梨菜(20)には、ずっと大切にしている手紙がある。母の順子が34歳で亡くなる直前、将来の娘を思い浮かべてしたため、20歳まで毎年の誕生日に届けるよう弁護士に託していた。その最後の1通が2023年12月、梨菜の元に届いた。
【写真】児童養護施設に入所していた頃の梨菜さん。あまり感情を表に出さなかった(2010年、神戸市で)=梨菜さん提供
梨菜は今、児童福祉司を目指し、福岡のマンションで一人暮らしをしながら、大学に通う。アルバイトをかけ持ちし、課題のリポートや実習をこなす。化粧品の販売員をしていた母の影響だろうか。メイクの楽しさを知り、鏡を眺めていると、「お母さんに似てきた」と思う。 たった一人の家族だった母を亡くしてから14年余り。困難に直面した時、さみしさで押しつぶされそうな時、母からの手紙を読み返し、その字を指でなぞってきた。
〈少しずつ大きくすてきな女の子になっていくのがとてもうれしい〉(8歳) 〈もう立派な女の子です。お母さんは天国で見守ってるけど、りな自身もきちんと自分を守る事をおぼえてね〉(11歳) 〈あこがれる男の子の1人くらいはできてしまったかなあ〉(16歳) 手紙は成長に合わせて漢字が増え、涙なのか、文字がにじんだ部分もあった。 〈梨菜。心から愛してます〉 今月の誕生日。最後の手紙にも温かな言葉がつづられ、母が空から見ているような感覚に包まれた。 「お母さん。私もう20歳だよ。お母さんが願っていた大人になれているかな」
梨菜は神戸市出身。幼い頃、いつも母にべったりだった。台所で料理をする母から離れず、困らせたことをよく覚えている。 順子に子宮頸がんが見つかったのは08年7月、梨菜が4歳の頃だった。子宮を摘出したが、がんは肺や肝臓に転移。翌09年3月、医師に「余命3か月」と宣告され、順子はまもなく市内のホスピスに移った。 両親は離婚し、梨菜は市内の児童養護施設に預けられた。施設の職員に連れられてホスピスに通ったが、面会は週に3回、たった1時間。病室で横たわる母を見ると、うまく言葉が出なかった。さみしくて帰りたくなかったが、そんな「わがまま」は口にすることはできなかった。 順子が亡くなる1か月前の09年5月、梨菜がホスピスに泊まることが許可された。さみしそうな娘を案じ、母がかけあってくれたのだ。病室の畳に敷いた布団の中で、久しぶりに2人で寝た。母に抱きしめられた梨菜は声を絞り出した。 「お母さん死なんといてね。一緒にいて、ずっとギュッとしていてほしいもん」
順子さんを見舞いに行った時の梨菜さん。折り紙と似顔絵をプレゼントした(2009年、神戸市で)=梨菜さん提供
母の体調は日に日に悪化した。別れを覚悟したのだろうか。ある日、梨菜に言った。 「一度この世で会った人は、また次の世界で会えるんだよ。梨菜の赤ちゃんに生まれ変わるかな。だから悲しまないで」 順子が病を押して、梨菜に宛てた手紙を書いたのはこの頃のことだ。 09年6月6日朝。梨菜は施設の職員に呼ばれ、病院にかけつけた。「お母さん、起きて。起きて」。懸命に体をさすったが、目を覚ますことはなかった。 「まだ小さいのにかわいそうに」。母の葬儀で大人の言葉が耳に入ってきたが、泣くのを我慢した。悲しまないと母と約束したからだ。
施設では、梨菜と同じように親と暮らせない約40人が共同で生活していた。個室はなく、夜は10人ほどが同じ部屋で布団を並べる。 梨菜のように親を失った子もいれば、貧困や病気が理由で親が育てられなくなった子、そして虐待を受けた子もいた。子どもたちはストレスを抱え、毎日けんかが絶えなかった。 梨菜はなじめず、一人で絵を描くことが多かった。毎夜、布団で気づかれないように泣いた。
がんが全身に転移し、座ることもできない中、梨菜さんに手紙を書く順子さん(2009年5月、神戸市で)=順子さんの友人提供
ソーシャルワーカー(相談員)として施設にいた神野八重子(70)は、感情を表に出さず、周囲の顔色をうかがう梨菜を覚えている。ストレスからか、指の皮をめくる癖があった。職員が絆創膏を貼ろうとすると「自分でするから」と断る、そんな子どもだった。 神野は順子の生前から梨菜がホスピスに見舞いに行くのを送り迎えしていた。母を亡くし、ふさぎ込む梨菜を見かね、自宅に招いたことがある。神野の娘とトランプで遊び、一緒にお風呂にも入った。梨菜を抱き寄せ、背中をなでると、突然大声で泣き出し、泣き続けた。神野が初めて見た涙だった。 「お母さんと同じにおいがした気がして」。梨菜はそう振り返る。今は施設を離れ、ボランティアで施設出身者の居場所作りをしている神野は「お母さんを亡くしてから、ずっと一人で我慢していたんでしょう」とおもんぱかる。
手紙を広げ、母への思いを話す梨菜さん(福岡県で)=佐伯文人撮影
母の死から半年がたった6歳の誕生日。弁護士の佐藤が施設を訪ねてきた。花束とともに手渡された手紙には見慣れた字があった。 <おたんじょうびおめでとう! おかあさんは、りなのこといつまでもあいしてるからね。ずーっとおそらからみまもっているからね> 順子が死の直前に手紙を書き、佐藤に預けていたことを初めて知った。20歳になるまで毎年届くという。その夜は寝付けず、何度も母の言葉を読み返した。涙があふれた。うれしいのか悲しいのかわからなかった。 翌10年夏、小学生になった梨菜は、母の故郷である愛媛県で開設したばかりの「ファミリーホーム」に移ることになった。 「自然の中でのびのびと育ってほしい」。順子の願いだった。 梨菜は松山市の山あいにあるホームで、里親夫妻の愛情を受け、少しずつ成長していく。その節目節目で、梨菜を支えてくれたのは、母から届く手紙だった。 (文中敬称略)
※この記事は読売新聞が制作し、Yahoo!ニュースが企画したテーマに参加したものです。
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