( 135962 )  2024/02/04 23:48:11  
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島田紳助氏 

 

 年末の風物詩となったM-1グランプリ。そんなM-1をつくった元吉本社員の谷良一氏が、実現までの道のりをつづった『M-1 はじめました。』(東洋経済新報社)を上梓(じょうし)した。M-1を作った谷氏に、イベントを成功させる秘訣などを聞いた。(清談社 沼澤典史) 

 

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● M-1開催のきっかけは 島田紳助のアドバイス 

 

 2023年12月24日、若手漫才師の日本一を決めるM-1グランプリの決勝戦が開催された。19代王者に輝いたのは結成5年の令和ロマン。トップバッターからの優勝は第1回大会の中川家以来ということで、大きな話題となった。M-1は、今や多くの国民が勝負の行方を注目する大会だが、これを企画したのが谷良一氏だ。 

 

 まずは、谷氏がM-1を創設するまでの道のりを見ていこう。 

 

 谷氏は1981年に吉本興業に入社後、横山やすし、西川きよしなどの芸人のマネジャーや劇場のプロデューサー・支配人などを務めていた。現場に出て、芸人たちとバリバリ仕事をこなしていた谷氏だったが、2000年以降は制作部の補助やアシスタントといったデスクワークを命じられていた。そんな「毎日会社に行くのがつまらなかった」と、くすぶっていた谷氏に転機が訪れる。 

 

 大﨑洋(元吉本興業会長)とともに漫才ブームを築き、ミスター吉本と呼ばれていた木村政雄常務(当時)に「漫才を盛り上げるプロジェクトをしてくれ」と頼まれたのだ。このプロジェクトが、のちのM-1になる。 

 

 「プロジェクトの命を受けた後、劇場での漫才イベントなどを行いましたが、かつての漫才ブームのような大爆発が足りない、中心になるものが足りないと感じていました。そんなときに、以前私がマネジャーをしていた島田紳助さんの楽屋を訪ねたんです。すると、紳助さんは『若手のコンテストをやったらどうや』『優勝賞金を1000万円にしよう! 金の力で漫才師の面をはたくんや!』と提案してくれました。私も、『いいですね。ぜひやりましょう』と言い、開催に向けて動き出したんです」 

 

 以後、谷氏らプロジェクトメンバーは、賞金を提供してくれるスポンサーや放送してくれるテレビ局探しに奔走することになる。当時、お笑いのコンテストで1000万円という賞金は破格だったため、特にスポンサー探しは難航したという。 

 

 「今でこそ、大きい大会になりましたが、当時はまだ形のない企画段階とあって、なかなかスポンサーが見つかりませんでした。私は『こんな面白い企画に、乗ってこない企業やテレビ局がないわけがない』と思って、楽観していましたが、現実は甘くなかったですね」 

 

 数社に断られ続けたのち、結果的にオートバックスがスポンサーを引き受け、放送局は大阪の朝日放送に決まった。ただ、どちらも決まったのは、2001年8月の開催記者発表ギリギリという、「綱渡り」の状況だった。 

 

 その後、予選には1603組の芸人が参加。中川家の優勝で幕を閉じ、大会は成功を収めた。 

 

 

● 演出プランを突っぱねて こだわったガチンコ勝負 

 

 このように、国内最大のお笑いコンテストを創設した谷氏だが、成功の秘訣(ひけつ)は何だったのだろうか。 

 

 「正直、すべて見通しを立てて、計画的にやっていたというわけでは決してありません。これがない、あれがないというふうに、次から次に発生する問題を解決していったのです。オートバックスの住野公一社長との出会いも、本当に運が良かったのだと思います。ただ、強いて成功の秘訣を言えば、『漫才の復活』という志を曲げなかったことでしょうか。そういう大目標があったことで、他にはないコンセプトの大会になったし、我々の熱量もスポンサーやテレビ局に伝わった結果なのではないかなと感じています」 

 

 スポンサーになったのはオートバックスだったが、当時は住野社長以外、同社の役員・社員は全員がスポンサーになることに反対していたのだそう。 

 

 「住野社長は社員に厳しく接するのではなく、優しさや笑顔を重視するような『笑いの経営』を目指しており、吉本興業やお笑いの分野に興味を持っていました。そのため、全社内の反対を押し切って、8000万円近くの予算を出してくれたんです」 

 

 谷氏の言う熱意が住野社長にも伝わったのだろう。 

 

 また、テレビ局探しにおいて、M-1のコンセプトが決してぶれることがなかったことを示すエピソードがある。 

 

 あるテレビ局に話を持ちかけた際、「若手漫才師のガチンコ勝負なんて視聴率が取れないから衝撃的なことをしないといけない。例えば、M-1出場予定の芸人が決勝当日、『大会会場に行くか、重病の母親が大手術をしている病院に行くかで悩む』みたいな展開と演出が必要。そのために親が病気になっている芸人を見つけて決勝に残したらどうか」と構成作家に言われたという。 

 

 「そのような演出プランに従えば、すんなり放送は決まったかもしれません。しかし、それは到底ガチンコの勝負とは言えませんし、そんな形にしたらM-1は一回きりで終わると思いました。我々が目指しているのは、漫才の復活であり、そうした瞬間風速的なテレビ番組を作ろうとしていたわけではありませんでしたから。ただ、そうこうしているうちに時間がたってしまい、放送局が決まらないまま、記者発表は目前に迫っていました。そして、記者発表の一週間前、朝日放送の和田省一執行役員(当時)が『谷さんが、一生懸命説明しているうちに、漫才番組を大阪の局がやらなくてどうするんだと思って』と、特番の枠をくれたんです」 

 

 

● 予選会場の集客では 客より芸人が多いことも 

 

 谷氏がM-1開催において最も苦労したのは、参加者を募ることだった。 

 

 「やはり、『吉本がやる大会だから吉本所属の芸人が優勝するに決まっている』という空気は多くのプロダクションでありました。私は『ガチンコです』と何度も他のプロダクションに連絡していたんですけどね。そのなかで、1000万円という賞金にひかれて、事務所の反対を押し切って参加したコンビもいたので、紳助さんが言った『金の力で漫才師の面をはたく』という言葉は、的を射ていたんだと改めて思いました。ただ、大阪、東京以外の地方の参加者は本当に少なかったですけどね」 

 

 また、予選会場の集客にも苦慮した。 

 

 「予選会場の中には、お客さんが4~5人と、予選に出場する芸人よりも、お客さんのほうが少ないケースもありました。当時はSNSもないですし、ネットで拡散させることも難しい。なので、私も含めてスタッフが当日に会場近くで呼び込みをしたこともありました」 

 

 大会のコンセプトと面白さを信じ、時に泥くささも混じった熱量で、周りを巻き込んでいった谷氏。その結果、今やM-1は国民的イベントに成長した。苦労していた参加者数も、23年は8540組と史上最多を記録。プロの芸人だけではなく、子どもから大人までアマチュア漫才師の参加も増加した。そんなM-1の現状を谷氏はどう見ているのか。 

 

 「本気度の差はあれど、漫才の裾野を広げるという意味では、アマチュアの参加者が増えているのはいいことだと思います。実際にアマチュアが漫才をやってみて、プロの漫才師のすごさがわかることもあり、その結果漫才を好きになってもらえればいいんです。ただ、現在のM-1に対して一つだけ言うとすれば、私は参加条件を結成10年以内に戻したほうがいいと思います(現在は結成15年以内)。10年以上になると話術などのテクニックで、笑いを取れます。そのため、若手が斬新なネタを作っても、テクニックで負けてしまうことがあるんです。M-1のコンセプトは当初から変わっておらず、常識をひっくり返すような新しい漫才師を生み出すことにあるのですから」 

 

 当初からのM-1のコンセプトと意義を信じて突き進むことができるなら、これからも国民的イベントとして、多くのファンたちに愛され続けるだろう。 

 

沼澤典史 

 

 

 
 

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