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「句読点はオバサン構文」にチクリ 俵万智さん、目から鱗の一首 「さすが」「全日本人に読んでほしい」

スポニチアネックス 2/8(木) 10:06 配信

https://news.yahoo.co.jp/articles/9ec82ffd553e912852bd7544b22ab77f116f153f

 

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歌人の俵万智さん(61)がツイッターで新聞社の「マルハラスメント」報道に言及し、句点を使った一首を投稿した。

報道では若者が句点を使う文に恐怖心を感じると報じられており、これに対し俵さんは句点を使わずに優しさを表現する日本語を称賛された。

(要約)

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俵万智氏 

 

 歌人の俵万智さん(61)が8日、自身の「X」(前ツイッター)を更新。新聞社が報じた「マルハラスメント」に触れ、“目から鱗(うろこ)”の一首を投稿。称賛の声が集まっている。 

 

 今月6日、産経ニュースが「文末の句点に恐怖心…若者が感じる『マルハラスメント』」と題し、句読点の使用が与える印象について報じた。若者は「。」で終わる文に恐怖心を感じるという。 

 

 この報道が話題となると、「句読点を多用するのは『おばさん構文』」とネット上で話題に。多くのメディアで特集された。 

 

 俵さんは、「句点を打つのも、おばさん構文と聞いて…」とこの件に言及。「この一首をそっと置いておきますね~」と、一首を投稿した。 

 

 俵さんが投稿したのは、 

 

 「優しさにひとつ気がつく ×でなく○で必ず終わる日本語」 

 

 という歌。「バツ」でなく「マル」で終わるのが日本語だ…と、その優しさを表現した。 

 

 この投稿には「間違いないです」「感覚は人それぞれですが、この句を是非知ってほしいです」「イライラがすーっと消えました」「たしかにそうですね、とても素敵で好きです」「さすがです!マルハラ言うてる子は英文の最後に愛を込めて使われるXXX(キスマーク)も怖いのかな?」「国語の教科書の1ページ目に載ってほしい一首です」「そう思うと素敵ですよね」「マルハラなぞと言われて、いかがしようかと思っていましたが、ありがとうございました」「そう、日本語の優しさですよね」と、称賛するコメントが寄せられた。 

 

 

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(まとめ)若い世代と中高年世代で句読点に対する感覚や使用法に違いがあることが多く見られました。

若い世代はチャットやSNSなどでのコミュニケーションにおいて句読点を省略することが多く、見た目の印象や語気を表す記号としてとらえられ、逆に一部の中高年世代には句読点の省略に違和感を感じる人もいました。

一方で、文章の形式に応じて使い分けることが求められるという意見もあり、TPO(Time, Place, Occasion=地域、場所、場面)で使い分けることの重要性も指摘されました。

 

 

句読点に対する感覚をめぐる個々の意見や、どのようにして相手の感じ方を理解し、コミュニケーションを円滑に図るのかという点について意見が分かれた一方で、文字を介したコミュニケーションでの誤解や不明確さを避けるためにも、句読点を使うことの重要性が指摘されていました。

また、言葉や言葉の使用法に対する個人の感覚や認識の違いを尊重し合うことや、適切なコミュニケーションを図るための配慮も重要であるという意見も含まれていました。

( 137204 )  2024/02/08 14:59:50  
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・若い人たちが怖がる、オバサン構文、などと言われても、文の終わりに「。」をつけるのは日本語としてごく当たり前の表記であるし、そもそも誰もハラスメント(嫌がらせ)はしていません。 

いじめやセクハラはよく、「された方がそう感じたらそうなのだ」と言いますしそれはそうだと思うが、マルハラなんて本当にいいかげんにしろと思う。 

 

 

・素敵な一首ですね。令和の国語の教科書に載せた方が良いのでは。友達間のゆるいラインのやり取りならまだしも、仕事において句読点がないと社会人としてはやはりなんだか幼稚な印象を抱いてしまいますね。敬語や句読点の文法も元を辿れば相手を敬い思いやる気持ちが原点の素晴らしい日本文化であったはず。自由な口語体も文語体の言葉も相手を見下すような使い方であったり、逐一粗探しするかのように相手をつついて窮屈な想いを強いるのはどうかと思いますが、仕事においては最低限のマナーは大事だと思います。 

 

 

・40年くらい前に小学校で句読点をつけると習った。 

今の20代だって同じような教育を受けていると思うのだけど、違うのかな? 

小学校で習っていないとか、『。』をつけるとハラスメントになります。と教わっているなら仕方ないと思うけど、句読点をつけない理由がわからない。 

俵さんの一句はまさにその通りで、さすが美しい表現をされているとは思うけど、あくまでも若者に寄り添った表現。 

自分はメールでもなんでも、文面に句読点をつけない後輩がいたら、理由を聞いてきちんと叱る。 

将来の事は知ったこっちゃないが、少なくとも今はそれが他人には通じないのがわかっているから、うるさいオッサンだと思われようが、伝えることは伝えないとと思う。 

 

 

・私はいわゆるZ世代というやつですが、「マルハラスメント」という言葉を知ったのは今週に入ってからです。 

 

小1の国語でもちろん句読点は習います。 

作文も、レポートも、論文も、就活のエントリーシートももちろん句読点をつけました。 

就職してからのビジネスのメールも当たり前のように使っていますし、私の後輩たちもちゃんと文章を書くことができます。 

 

思うに99%の人は「。」に意味を見出してはいないのですが、残りの 

ごく少数の声を切り取って「マルハラスメント」という言葉をでっち上げているのではないでしょうか? 

 

 

・昔はマルをつけなかったら怒ってるようで怖いと言われたものだけれど、若い方は全く逆にとらえられてるのですね。怖いと言われたからマルをつけるようにした。同じようにマルが怖いなら若い方にはつけないようにしたい。 

怒ると敬語使う人とかいるし、堅苦しさに怖さを感じるのはわからないでもない。 

SNSでのやり取りなど、目くじら立てるほどのことでもない。相手を尊重すればそれでいいと思う。 

 

 

・とういうか、全世代が、若い子に合わせないといけないっていう意味が分からない。別に、若い子に合わせる必要なんてないと思うんですけど。若い子も年を取ります。その子たちにまた同じようなことを言うと思う。 

 

 

・さすがですね。 

若者が。を怖がる原因は、絵文字のインフレだと思います。文面を盛るのが当たり前になった結果、普通の文面だとマイナスのように感じる。だから若者を責めるのも違う気がする。要は、人(特に世代)によって感じ方は違うということを理解してそれぞれを尊重するしかないと思う。 

 

 

・句読点が怖いという感覚を是正して貰うために、このようなニュースとか記事をもっと掲載して欲しい。美しい日本語、正しい日本語、この辺の定義はともかく、社会人になったら句読点は当たり前という感覚を教育することが必要だと思う。 

 

 

・とても素敵な歌。こういう視点が持てるのは素晴らしいですね。 

。をつけることは当たり前に育ってきた私たちが、普通に「。」をつけることをハラスメントと言われるなんて、それこそこちらに対するハラスメントだと思います。 

中学生の息子のお友だちと何人かLINE繋がっていますが、みんな「。」ついています。 

息子は「。」なしの一文で送ってくることが確かに多いので、文化的にその世代はそうなんだと思いますが、お友だちは送る相手に合わせているのだと思います。 

日本の最高学府行っている子も、くだけていてもきれいな文で送ってくれるので、きちんとしている子はきちんとしているのだと思います。 

偏った情報を流すマスコミに惑わされたくないですね。 

 

 

・それまでポスターなどのコピーに付いていないのが普通だった句読点を、最初に付けたのは確か糸井重里さんだったと記憶しています。それからはほとんどのコピーに句読点が付いていて、それがカッコいいという風潮でした。つまりはその時その時の流行ですね。時代によって人の感じ方は変わるんだなぁ、面白いなぁと思います。 

 

 

 

・今の若い人たちが大人になりやがておじさんおばさんとなった時には「句読点が打てないイタイおじさんおばさん」となるんだろうね。 

句点もそうだけど読点も読みやすいように息継ぎしやすいようにという優しさからできていると思います。 

優しい人間でいたいから、句読点を大切にしたいです。 

 

 

・句読点って、学校で習って「そういうものなんだ」と思って日頃から使っていますが、文章を読まれる人へ伝えやすくわかりやすくするための「心遣い」でもあるのだと感じています。 

句読点が怖いとか苦手とかオバサン構文だとか言っている人たちは、今一度、「なぜ句読点があるのか」を考え直した方が良いと思います。 

 

 

・怖いという感覚がよくわからないが、句読点がないと読みずらいんじゃないかな。古文を読むと句読点も段落もなくひたすら文字が並んでいる。文字を読める人が少ないし、紙も貴重だったからだろう。文章の区切りだからなくても多すぎても読みづらい。 

空白とか絵文字とか別な区切り方があるのだろうか。仲間内で読みやすいなら構わないが、いろんな人が読むなら句読点が一番読みやすいと思うけどね。 

 

 

・句読点はオバサン構文だと断定し、句点に恐怖を感じるのは人それぞれだから仕方がない。 

ただ社会人となり文書を書く際に、どれほど難しい言葉を駆使したとしても、句読点なしの文章は評価されないし、そもそも読みづらい。 

 

日本語も時代の流れで言葉の読み方やその意味が変化しつつあり、認定されるようになってきているが、書籍や新聞等は句読点の有無は時代の流れで省略できるものではないし、今後も変わらない。 

 

LINEなどは言葉のやり取りであって、あたかも会話のようなので句読点なしは構わないと思うが、少なくとも使い分ける事は必要だと思う。 

 

 

・ハラスメント認定をする基準が「受け手がそう感じたから」で通るような風潮が存在するから、マルハラのようなめちゃくちゃな単語が発生する。何でもかんでもハラスメントと感じました、と言えば上からの指摘や指導を封殺して好き放題出来るという甘い考えでこのようなハラスメントとは到底呼べない代物までハラスメントの枠組みに組み込もうとしている。 

 

これからは受け手基準ではなく、論理的で明確な基準を元にハラスメント認定する具体的なラインを定める必要があるように思います。 

 

 

・若い方とのLINEやDMでのやりとりで、どこでこの文は区切られているのか解読が難しいことが何度かありました。しかし、若い世代はこういうものだろうと納得してたんですが、30代後半の方から若い子を真似た句読点のない文章を送られてムカついた経験がありますね。 

行間を読むとか、「、」と文字の空間の間を読む余裕とか情緒を感じてほしいですね。 

 

 

・江戸時代など毛筆で文をしたためていた当時は句点はありませんでした句点は明治以降に導入されたものでしょう一つの文であれば読点はともかく句点はなくてもいいでしょうしかし複数の文からなる文章では句点がないと読みづらいですね文ごとに改行すればいいですが紙幅の無駄使いです今でも挨拶状では句点を付けないことがマナーとされていますが適宜空欄を設けたり改行して誤解を防いでいるようです複雑な論を展開したり文章量が多い場合は句点がないと不親切ですね確かにラインで文章ではなく短く平易な文しか送らない人にとっては句点は不要でしょうが句点自体に嫌悪するというのは理解に苦しみます長い文章を作ったことがない人でしょうか 

 

 

・もともと句読点は明治以降に導入されたものだが、打ち方はきちんと学ぶべき。 

句点(。)を打たないのは論外だが、読点(、)の使い方が気になる人がプロの文筆家にも多い。特に、読点の打ちすぎ。 

読点は論理的なまとまりや文法的修飾関係を明確にするために打つ。長い文章でも、論理や修飾関係が明確なら読点なしですらすら読める。あとは朗読すれば息継ぎが必要な箇所とか。 

適当に読点をたくさん打つと、文が細切れになってかえって読みづらい。 

 

 

・通信技術の発達で頻繁にやり取りができるようになったことから、手紙やメールで長文を書くことが少なくなり、句読点を目にする機会が減ったせいですかね?ただ、日常生活では不要でも仕事などでは書類として文書を残す場合、それなりの文量を残すことは珍しくありませんし、今後も続くでしょう。スペースや改行では補えないこともありますし。 

TPOにはなりますが、どうしても気にする人は、社会に出る前に耐性を付けるなりした方がいいのかもしれません。もしくは、逆に句点を付けない人間に対して厳しく指導する必要があるかもしれませんね。 

 

 

・一世代前に比べたら今の若者は格段に文章を書く(打つ)機会が増えている。メールもスマホも無かった頃には友人とのコミュニケーションに文章が介在することはあまりなかったのだ。学校のノートや答案、仕事の書類以外に何か書くとしたらせいぜい日記や年賀状くらい…という人も少なくなかったはず。 

誰かに手紙を書くとなると緊張した。漢字や句読点はもちろん、自分の文字そのものが気に入らず書き直す。なぜならば書く文字や文章に人間性が出るという共通認識が世の中にあったからだ。 

メールならフォントを選ぶだけで読みやすい文字が作成される。漢字を忘れても勝手に変換してくれる。句読点の打ちどころまでは教えてくれないが、書いた本人がその文章の見た目の汚なさに打ちのめされるようなことは少ない。なんとなく書けているように見えてしまう。 

「、」や「。」が怖いという人は、潜在的に自分の無知無能を恐れているのではないかという気がする。 

 

 

 

・俵さんの見方は、とても共感出来ました。句点を丸と見るなんて、流石です。 ハラスメントと感じてしまうことには過剰と感じていましたが、若い世代が、田原さんのような見方も出来たなら緊張感も解けるのではないかと思います。若い人たちの受けとめ方も一理有るのでしょうが。 自分は、学校で習ったから云々ではなく、ただ、文章の終わりとして単純に句点を付けていましたが。田原さんの見方には、表現者らしい面白さと見識を感じました。 

 

 

・「表情・声色・言葉の内容っていうコミニュケーションツールのうち、一つ失うごとに正確に気持ちを伝えることは難しくなる」とは以前から言われていて。全てを兼ね備えた対面会話、表情が見えない電話、表情も声色もわからないメール、とどんどん相手から提示される材料が減って自分で想像しなくちゃいけない余地が増えてくる。そこの想像力には普段からの相手との関係が不可欠で、相手を「苦手」と感じていれば想像の余地はどんどん悪い怖いもので埋まっていってしまう。なんなら苦手とまでいかなくても、人間は「わからない」を「怖い」に振り分けがち。ハラスメントだ!向こうの伝え方が悪い!じゃなくて、AIみたいにちゃんと自分の経験で正しい情報を積み上げて「わからない」を減らしていくのが怖さを無くす近道だと思います。 

 

 

・句読点の歴史は短い。その優しさは明治以降だ。 

 

日本語は英語と違って、読点を意味の区切りと違うところにおいても構わない。例えば話し言葉で間を置くところに入れたりするが、それを間違いだと言われない。 

 

改行や段落については、アメリカでも緩くなってきている。ピリオドを省略することもあるそうだ。 

 

使われている言語は生きているのだから、変わっていって当然。それは当然だが、古い用法を好む人がそれを表明するのも構わない。 

 

丸に恐怖を感じる人は、自分を理解して欲しいと希望するが、丸をつけたい人を理解しようとはしているだろうか?言葉はコミュニケーションだ。違いのないところにコミュニケーションは無い。ぶつけて、認識して、擦り合わせて、がコミュニケーションだ。恐怖は良い発端と言えるだろう。 

 

 

・絵文字や記号に関してはある程度理解できるのですが、日本語の文法を脅かすようなハラはどうかと思います。 

時代と共に、言葉は姿や使い方が変わってきたものだとは思うんですが、句読点なんて文法そのもの。 

受け取る側の感覚だけを正義にしていたら、全くキリがないです。感覚的で、主観的。 

 

ただ、なんでもかんでもハラつけて報道しているメディアにも問題あるとは思います。 

 

 

・素敵。 

言葉を操るお仕事の人ならではの、言葉への愛情とリスペクトを感じます。 

そうなんですよ、言葉というのは受け手のために発せられるもので、拒絶したり喧嘩したりするためのものじゃない。 

それを忘れず、いつまでも正しい日本語を守らなければなりませんね。 

 

 

・自分は高校生ですけど、こんな句読点の有無でオバサン構文とは思わないし、そもそも日本語の基本中の基本であると思う。 

同級生にも文の最後に「。」がついてると威圧感を感じるって人がいたけど、普通に文として必要な句読点すらもこうしてハラスメントにするのは日本語への侮辱に相当すると思う。普通に学校でも句読点は習っているというのに、こうして若い世代が句読点を無視して、それが次世代にまで続いてしまい、いつの日か「ら抜き言葉」のように本来あるべき言葉の姿を見失うことがないのか心配です 

 

 

・娘世代に聞くとLINEって会話と同じ感覚で使ってて、上の世代は文章で打つ限りはメールの簡易版のような感じなんだと思うとのこと。私達が怒るとあえて敬語を使うようなイメージを受けるのかな?と思います。だからと言って上の世代に無理して合わせてもらったり、勝手にハラスメント気にして気を遣われるのも、逆に疲れるみたいですよ。みんながそうじゃないしわかってる子も多いんだと思います 

 

 

・文の最後に丸がないと本当に文が終わったのかわからないから問題がある。 

 

英語だって書き言葉にはカンマ、ピリオドは必須です。 

 

いくらライン文が話し言葉の延長扱いとはいえ、 

書いた文章である以上怖がっている場合ではない。 

スラング等の言葉の乱用も問題だが、 

文法は大切にしないと、後々訳がわからなくなるほどの歯止めが効かない改変に繋がりかねないのだから。 

 

 

・チャットなどの文字のやり取りでありながら会話の延長線上にある文章の場合、句読点を使うと文章のやり取りに思えてしまう。そこに堅苦しさを感じる方もいる。堅苦しさを一種のハラスメントとして受け取ってしまう 

という事だとは思いますが、だとすれば、むしろ相手を好ましく思っているからこそ、句読点を用いた文章に距離を取られたように考えてしまう 

そもそも相手を嫌っていたり、堅苦しい関係であるならば、ハラスメントと感じる事もないと思いますから 

その時に感じた寂しさや悲しさといった感情をハラスメントというに置き換えているだけなんじゃないかと思います 

信頼関係が崩れる事はないと思うので、〇ハラスメントという言葉はすぐに消えると思いますよ 

 

 

・ずっとずっと昔は、文章には句読点をつけないのがデフォルトだったらしいですね。毛筆文化だったから。 

その名残が、賞状の文面。長々と書いてあっても、句読点ないですよね。 

 

それが、文章を色んな人が読みやすくなるように記号として句読点がつけられ、今は「怖い」と言われる・・・ 

言葉って、どんどん変化していくんだなぁと実感。 

 

 

 

・若い世代も、マルを付けるのが正式だということはもちろん分かっているんですよ。なので、取引先とのメールや、社内でも報告書などの正式な文書ではきちんとマルを付けます(学生であればレポートやテストの答案なども同様)。 

一方で、LINEやインスタのプライベートなコミュニケーションで句読点を「正しく」使うと、過剰に丁寧なように感じられます。上の世代の感覚に翻訳すると、メールの冒頭でいちいち時候の挨拶をしているような違和感が近いと思います。 

マルを付けないのが正しいと思っているわけではなくて、むしろマルを付けるのが正しいと知っているからこそ、過剰に「きちんとしている」という印象を受けてしまうのです。 

そして、社内でのちょっとした連絡で句読点を「正しく」使われると、「ただの会話なのに妙に堅苦しい→距離を取られている→もしかして怒ってる?」という推測が働いてしまうのだろうと思います。 

 

 

・最近この手のハラスメントハラスメント(ハラハラ)が多い気がします。 

 

そもそも、マルハラという言葉もどこかの仕掛人が作ったのでしょう。 

面白おかしく煽って対立させて話題にしたいだけ。 

怖いと感じる若い人も、ハラスメントとは思ってないかもしれない。 

 

多様性を学んできているはずですし、ましてや正しい日本語表現を 

している人たちを排除しようとするのは矛盾しています。 

 

俵さんはこの一首で「大丈夫だよ、みんな過剰反応しないで」と伝えて 

くれているように思えます。 

 

 

・確かに最近メッセージのやり取りする時に丸つけるつけないで悩むね。特に1文だけ送る時、そこで文の終わりって事は明確だから付けなくても良いわけで、敢えて付けるってことは何かしら感情を込めてる気もしなくもなく。例えば、丁寧な言い方にしたいとか、何か言い切りたいとか。そう考えると、子供の頃から文章に絵文字で感情を乗せるのが当たり前の若者なら、余計にその丸に何か特別な意味を感じてしまうのかもしれない。 

 

 

・40代だけど気心知れた人へのチャットでは省略することもある。若い人も同じでほとんどの人がTPOでちゃんと使い分けていると思う。古くはポケベルやメールで!や絵文字で閉めるコミュニケーションが増えた事の延長だと思うし、。が付いてることに対して過剰な反応を示す人もメディアが取り上げるほどはいないと思うが。 

 

 

・日本語の美しさですね。 

アラサーですが、若い人達がこの美しさを捨てて簡略化した記号的な言葉になり、理解の幅がどんどん狭くなっているのは残念です。 

とはいえ言葉は生もの。アップデートには抗えないのですけれどね。 

それでも個人的に日本の1番好きなところはことばの美しさなので、やはり寂しい気持ちです。 

 

 

・さすが俵万智さん、文章に対する愛を感じますし若い人にも伝わりますように。句読点を打たない場合は行間を変えるのでしょうか。そうでないと長い文は読むのが難しいですね、LINEで短い言葉を話しているようなスピードでやり取りする場合は必要ないかと思いますが、このコメント位の文字数だとあった方が読みやすいと思います。 

 

 

・俵さんは歌人なのでこの表明には大いに賛同できる。 

 

でも、数年前から箇条書きやひと言コメントには句点を付けない人が多くなってきているなと感想を持っていたのも事実だった。Z世代が句点だと怒っているように感じると言っていた記事も目にしたけども、句読点をつけるかつけないかの些細な違いで文意を読み取ろうとするのは興味深い。大人に対する抵抗とまではいかないけども、主張が控えめな大人しいZ世代の感性の一つだと思う。 

 

「オバサン構文」という表現には悪意があるが、これはSNSの一部の人や週刊誌やスポーツ紙が過剰表現しているだけで、Z世代すべての人が悪意を持っているわけではないと思う。まんまと乗せられないように注意した方がいい。 

 

 

・ビジネスにおいて文章に句読点つけるのは常識でしょう ついていないと あ この子は教養ないのか常識ないんだなって内心思います 以前務めていた会社ではつけない20代の子がちらほらいましたがやっぱりそういう子は態度が生意気だったり人によって態度を変えたりそれなりの印象でした こんなことを言っていたら裏を返せば句読点がついていないと礼節に欠けていて目上の方に対して逆ハラではないですか?仕事においてある程度の距離感は大事です 公私混同して仕事の質をおとさない為にも 敬語などの言葉遣いは利にかなっているものだったはず おかしな時代になったものです 

 

 

・こればっかりは、なぜ恐怖なのかわからない。 

以前はEメールだった連絡も、現在ではLINEを仕事で使用する事も多いだろうが、業務上のやりとりでも。は駄目なのかしら。 

何歳の世代からなのか、時と場合や相手によるものなのか、色々知りたい。 

 

 

・LINEは、画面上の「フキダシ」の中に言葉が入るから、「。」を入れないんだと思う。漫画のコマのフキダシも普通はよほど長かったりしなければ短いキャラクターのセリフの最後にいちいち「。」入れないでしょ? 

だから〇が怖いっていう子は、紙の文章でのやりとりとして見てるんじゃなくて、漫画のコマの中のセリフと同じ感覚で見てるんだよ。 

だから〇が入ると漫画のセリフの中に急にきちんとした文章の手紙をブッ込まれたみたいに感じるから怖いんだと思う。 

本とかの紙の読書がメインで来てる人(や世代)と、主に漫画で育ってきてる子との認識の世代ギャップもあるけど、伝達する媒体の単なる形式の問題でもあると思う。 

 

 

 

・18歳若者(?)です。 

今までの人生で数えきれないほど文末に句読点つけてきたし、見てきたけど、恐怖なんか1ミリも感じたことないです。句読点を文末につけることは小学校の時から学びます。私の周りでもこんな話聞いたことありません。確かに、LINEなどのやり取りでは省略したり代わりに絵文字を使ったりしますけど、だからといって句読点つけても違和感感じません。このことは最近話題に挙がってようやく知りました。歳が上の方がこうやって『若者』と一括りにして取り上げるのは正直気分のいいものではありません。おそらく句読点に恐怖を感じている人はごく一部だと思います。アンケートの母集団の数が少ないんでしょうね。『若者全員』がそうなわけではありません。私が若者代表みたいな感じで話しちゃってますけど、どうかご理解いただきたい。 

 

 

・わかいせだいのこたちはくとうてんもないぶんしょうじゃないとはらすめんとをかんじるみたいだからこんごはぜんぶひらがなでおくらないとだめなんだむずかしいねどこでくぎるのかはんだんつかないしおわりがどこかもわからないよいみふ 

 

入社試験に小論文がある会社もあります。その際、句読点を使わずに提出しているのでしょうか。友人間では好きにすればいい。でも、日本語には句読点が必要ですし句読点をつける位置でもニュアンスが微妙に変わるところが醍醐味だと、個人的には感じています。 

 

 

・句読点は文章を読みやすくするため、内容を正しく伝えるためにに付けるものです。なぜ恐怖を感じるのか全く分からない。 

学生の頃は読書感想文やレポートを作成する際に当然句読点をうちますよね。恐らくLINEやメールを文章ではなく会話として捉えているんだろうなと思う。 

そもそも文章から感情を読み取ろうと思う感覚が分からない時点でおじさんなのかもしれないが文章はあくまで用件を伝える手段であって感情を伝えるものではないと思う。 

子供のころからLINEなどで絵文字字を使っている世代は社会人になっていきなり句読点だけの文章になるから不安に感じるのかもしれないですね。 

 

 

・今の若者は、LINEなどのチャットを多用するので、文章を書き言葉ではなく話し言葉として捉えている。 

その前提の上で、句読点を語気を表す記号として使っているらしい。 

例えば、 

帰りにちゃんと牛乳買ってきてね。 

帰りにちゃんと牛乳買ってきてね~ 

だとだいぶ印象が違うのは、我々中年にも理解できるのではないだろうか。 

この場合「~」をつけるのは、怒ってはいないという語気を相手に伝えたくて付け足しているわけだが、そういう気配りが当たり前の状態で育った若者は、更に感性が進化していて、「。」だと敢えて怒りを伝えているように感じるらしい。 

この様に既に進化してしまった感性に対して「それはおかしい」と声を上げても若者は困ってしまうだけだろう。 

そもそも我々はすでに「~」等で、文中の語気をコントロールして、相手に気遣いをしているので、若者のこういう感覚を理解した上で、「。」も使わないように気を遣えばいいだけだ 

 

 

・句読点があったほうが読みやすいし、あってもまったく恐怖は感じたことがないが、言葉というのは結局は受け手がすべて。この数十年でインターネットが当たり前になり、手紙や、年賀状すら出さなくなってきたいまの世の中で、言語というのも大きく変化しつつある過渡期なのかもしれない。 

 

 

・句読点を付ける事を、誰が何時からオバサン構文と言い始めたのでしょうか? 

そして「。」で終わる文章に何故恐怖を感じるのかサッパリ分かりません。 

まるでいけない事・恥ずかしい事のように扱われる事に、物凄く違和感と日本語に対する危機感を感じていました。 

スマホの普及で良くない点が露出してしまったように思います。 

私はオバサン構文と言われようと、使い続けて行きます。 

 

 

・メールと違ってLINEとかTwitterのDMとかは掲示板やチャット板で会話している感じが強い。もちろんビジネス場面はきっちりした文章となるのが当たり前だけど、そこに触れてこなかった人からすると「。」は「l(シャッターどーん)」や「/(袈裟斬りばっさり」のようにぶつっと切れているように感じるのだと思う。「○○だよね~」と「○○だよね。」は印象が変わって当然ではある。 

もう少し先を考えると。むしろ「。」と終わるのはビジネス的という認識がしっかりあるからこそプライベートでは硬すぎるように感じるのかもしれない。〇〇構文なんて言い方するからややこしくなってるだけで、結局の事は相手との関係性が構築できていないだけではないだろうか。 

 

 

・言語の乱れはどの時代もあるし、使い分けがきちんと出来ていれば良いのでは 

公的文書や社内文書などできちんと句読点を使えないような人は論外だけど 

ネット掲示板やSNSでは句読点や顔文字多用はうざがられる傾向あるので避けた方が無難なのかな 

でもそのコミュニティの雰囲気によるよね 

 

 

・さすが俵さん、うまくまとめますねー。 

 

私見を。 

句読点、特に句点に焦点が当たっています。 

その使い方やそこから何を感じ取るか等、世代ごとの感覚の異なり様は、如何にも現代的と思います。 

個人的には、句読点の有無などの字面より、行間から何を読み取るかの方が大切な事と考えています。 

一方、近現代日本語の比較的正統派の用法としては、句読点はあって当然のもの。その有無で相手に対する態度が変わるなど、過敏過剰な反応だし、そもそも無意味。 

メールにしろショートメッセージにしろ、長文にしろ短文にしろ、文字列を使って相手に用件を伝えるのが目的ですから、それを日本語で行う限り、きちんとした日本語を使用したいものです。 

 

 

・私の家族にこのマルハラについて話をしてみたところ、「何じゃマルハラって。だったら、逆にマル付けまくるわ!」と言っていました。 

 

「なんで?」と聴くと、「何も怖くないから、慣れさせないと。あとで直接話した時にフォローが必要ならフォローすればええ。」とのことでした。 

 

本人曰く、コミュニケーションがうまく取れれば、誤解も防げると。 

 

うーむ、なるほど、たくましい。と思いました。 

 

 

 

・そもそも「。」に問題があるのか、その文章に問題があるのかにもよるのでは??面と向かって話す、モニターごしで話す、電話で話す、手書き文章、メールなどのデジタル文字と伝わる温度はどんどんと下がっていく。文章1つで冷たくも伝わるし、優しくも伝わる。受け取り側の性格、その時の体調、心理状況にも左右される。「。」も問題だって言うのであれば、その人は文章から何も感じない人??なのかもしれない。絵文字などで感情を理解するタイプ?あって話さないとダメかもですね。そういう人だと理解して接して上げないといけないのかもしれません。。。 

 

 

・句読点を正しく使うのは難しい。だから、句読点が怖いのかな?句読点苦手派がマルハラを主張されたのでしょうかね。個人にやり取りするLINEやSNS等で、句読点を入れるのが面倒で省略するのは別に悪いこととは思いませんが、句読点をつけると「マルハラ」などと言って、相手を貶めるのは明らかにやりすぎで我がままとしか思えません。 

 

 

・アルファベット系と違って日本語は単語間にスペースを入れないから、読点がないと読みにくくなる。句点も行間のセパレーションのためには必要。 

といっても確かに、俳句には句読点は必要ないし、文章のスタイル次第で適材適所なのかも知れない。 

 

 

・うまい! ちょっと理屈っぽいけど、それは仕方がない。鮮やかですね。 

 一部の人がLINEのマルを嫌う意味が、どうも分かりません。コロナでマスク生活が長引いたため、幼稚園で先生がマスクを外すと、園児が「おくちが怖い」と怯える話を聞いて、驚くと同時にかわいそうになったことがありますが、その恐怖の方がまだしも理解可能です。 

 マルを嫌う人はもともと、ワンセンテンスのメッセージしか書かないのかもしれませんね。それもご自由ですが、人の文章を批判する理由にはならないよね…。 

 

 

・SNSやLINEによる文章が原因していると思われます。最後にマルをつけると、そこで区切ってしまう事を示しているため、常に現在進行形で言葉を残していたい、つながっていたい依存の若者は、最後にマルを付けて文章を終わらせる事を恐れているのだと思います。また句読点はタイムパフォーマンスを重視する時代において、文章がくどくなる印象を避けるためだと考えられます 

 

 

・先日テレビでもやっていましたが、これって要は 

「本を読まない」 

「本を読めない」 

「ネットに夢中」 

「長短文のどうでもいいやり取りを延々と文字だけで続ける」 

 

こういう人達が声を上げているだけの事で気にする必要ないと思います。 

学生や若い人でも普通に読書をする能力のある人はこんな発想にならないでしょう。 

その時の時流で聞かれたらそう答えていても、本当は本人も大して気にしていない方が多いのでは。 

まぁ、この風潮が広がるようなら学力どころか社会全体のレベルがもっと下がるでしょうけど、オッサンの私にはもうどうでもよくて困るのは若い人たちの方。 

 

ただ、うろ覚えですが、 

句読点を使う文章の書き方は「日本語の歴史からするとごく最近の事」だったと思いますので、他の方も言うようにあまり厳しく「正しい日本語の使い方、誤った使い方」みたいに言い過ぎるのもどうなのか、とも思います。 

 

 

・文章には句読点をつけるのが当たり前。 

句点「。」、読点「、」は文章を読みやすくする効果がある。 

古文などは句読点がないから読みづらい(主語が明確に書かれていないというのも原因の一つだが)。 

この句点に恐怖を覚えるというのはどういう感覚なのか理解に苦しむ。 

もしかして「モーニング娘。」の名前も見ると怖いのかな? 

LINEなどでは音声の代わりに文字で会話しているようなものだから句読点がないのも違和感がないが、それと一般の文章を同一に見なすのはどうかと思う。 

 

 

・こういう機転の利いた諭し方ができる人は「オジサン・オバサン」とは呼ばれないのだろう。むしろ尊敬される存在。 

 

昨今ハラスメントとうるさいが、大半は表現の問題ではなく「言い方」や「人間関係」によるものが大きいように思える。日頃からそういうことが言い合える関係ならば問題ないし、注意が正しくても皆が見ている前で大声で行うと相手からすればハラスメントとみなされる。 

 

ただ、その注意も災害時のような大声でしなければならない場合を除いては普通に言えば済むケースがほとんど。何度言っても治らないケースならば大声を出しても、当人は騒いでも周囲は「ハラスメントではない」とサポートしてくれる。 

 

ハラスメントか否かを判断するのは言った側ではなく、言われた側と「周囲」。日頃から周囲に気をかけた言い方をしていれば、たまにきつい言葉を言っても周囲は分かってくれる。 

 

 

・他の国の言葉のことはよく分かりませんが、日本語はホント表現が豊かだと思う。 

ひらがな、カタカナの使い分けや、口語、敬語、丁寧語、女性言葉、方言などなど。 

時代、時代ごとの若者言葉も日本語の多様性の現れかなぁと思う。 

 

 

・さすが歌人の俵万智さんだな、と思う言葉ですね。句読点の「。」に恐怖を感じる、というのは人それぞれだと思いますが、みなさんのコメントなどを見て思ったのが、こういうことが問題視されるようになっているのは、書いた人の思いなど、読み取る力が弱くなっているかな、ということです。SNSの発達とともに言葉の裏にある思いとかまで目がいかない感じになってしまっているのかな、とも感じます。 

 

 

 

・新しい習慣だから、新しい文化だから正しい。 

古い文化や形式は失くなってもかまわない。 

そういう若い人たちが、どんな功罪があったかも知らず、「昭和」を懐かしんでいたりする。 

知らないことを知らないままにして良しとする。 

源氏物語を原文で読んでみたらいい。 

句読点を生み出した昔の日本人の知恵が分かるかもよ。 

 

 

・さすが歌人の俵万智さんだな、と思う言葉ですね。句読点の「。」に恐怖を感じる、というのは人それぞれだと思いますが、みなさんのコメントなどを見て思ったのが、こういうことが問題視されるようになっているのは、書いた人の思いなど、読み取る力が弱くなっているかな、ということです。SNSの発達とともに言葉の裏にある思いとかまで目がいかない感じになってしまっているのかな、とも感じます。 

 

 

・たまに「。」の事を句読点って言ってる人がいるが、「。」は句点 

 

自分の場合は読点は読みやすさに関係するからどこでも使う 

句点を使うかどうかは場所や相手との関係値による 

ヤフコメやXでは句点は使わない 

ブログやメールでは使う 

LINEだと友達や家族には使わないけどビジネス関係の人とかには使う 

改めて考えてみると句点を付けると堅苦しくなるのかも 

 

昔の匿名掲示板では句点を使わないのが当たり前で、句点を使う人は掲示板慣れしてない新参だから空気読めない発言もするし、句点≒ヤバい奴みたいな風潮はあった 

今でも掲示板によっては句点付けてるだけで叩かれる 

 

 

・日本語ってのはそのものが生来優しい物だと思っています。 

そして俳句は世界一短い歌とされています。文字数で韻を踏み句読点を表す。もしこれが無くなったら文化としてここまで発達する事は無かったでしょう。 

こんな小さい島国の言語を、世界中で学びたいという人達がいるんです。 

日本語、もっと興味を持って誇っても良いのではないでしょうか……。 

 

 

・普段の国語の学習の時は、句読点どうしているのでしょう?私は国語の模試採点の時には、必要な句読点がないなどや文のねじれは減点してました。大学受験で採点する教授たちは読みにくい文章であればバシバシ減点すると思います。社会に出ても、取引先などにメールや郵送連絡する必要がある人は、句読点がまともに使えないなら評価されない。結局は自分に返ってくるのに変な風潮できてしまいましたね。でも、それでも構わない人達は放っとくしかないのかも。 

 

 

・私は句点はつけるが読点はつけないし、「コンピュータ」などの最後に伸ばす長音もつけない 

何故ならキーパンチャーに入力を依頼する際に、読点や長音記号も1文字扱いされるので省略するように指導されたから 

区読点をつけるかどうかに正解不正解を持ち出すのは不毛だし、その人はネット上でそういう文章を書く人なんだと思えばいいだけのこと 

文章の書き方も一つの個性と認識すればいいことで、「おばさん構文」という言葉を使ってスルー出来ない人がいるんだと思った 

 

世代のよって今の時代はといいたがる人っているけど、こういう人たちって自分たち世代が中心と考えがちな人 

自分たち世代もそのうちに歳をとるわけで、こういう考えの人ほど自分たちよりも下の世代が出てくると、「近頃の若者」とか「自分たちの頃は」とかで下の世代に厳しかったりする 

上の世代に寛容でない人間が下の世代に寛容になるのは相当難しいと思う 

 

 

・おばさんの句読点の丸が怖いのであれば、他の色々なものも怖いはず。これは、仲間内でやるSNSの独自ルールぐらい、社会に優しくしてほしいという甘えかもしくは悲鳴の表れでしょう。厳しい意見かも知れませんが、社会はゆるーい戦場で、みんなお金を稼ぐという生存競争をやっているので、傷つかないように、仲良くするためにやっているわけではないんですよね。怖くても、面倒でも、やったことなくても、立ち向かって乗り越えて責任を果たすことで、居場所と収入を確保しているんです。後から来て丸の有り無しみたいな押し付けで揚げ足取りする奴なんか、邪魔なだけなんです。 

 

 

・どうしたもんかねぇ…。常識であれば時代や国、人などによって違うし変わるのは理解できるんだけど、国語の授業で正しい知識として、句読点についてはそう習ったんだから仕方ないじゃんとしか言えない。 

だから、あくまでビジネスシーンではメールでのやり取りだろうが、LINEでのやり取りだろうが、本来の正しい文章(文語)の構成でやり取りしてるけどね。 

逆にプライベートであればタメ口でやり取りする相手もいれば、一応年上だから敬語でやり取りするものの、適度に文末に絵文字や顔文字入れることもある。 

これだけの話なんだけどね。相当難解で重大な問題として捉える人もいるんだね。逆にめんどい。 

 

 

・書き言葉じゃなく、打ち言葉になり、いちいち〇を打つのが面倒なんでしょうね。書き言葉だと、最後の丸や点は非常にスムーズなんですけどね、打ち言葉だと蛇足なのでしょう。ただ、私が若者だった時代より何もかも全て便利になっているのに、これ以上何をまだ面倒くさがるのだろうかとちょっと心配になります。 

 

 

・感受性が強いんでようね。。。今の若者は… 

いいんじゃない、マルハラ言ってても。←これもか;汗 

感受性が強いのならば、マルハラと言っているうちにちょいと無駄な時間つかっていることに気付いてもいいかなとも思います。 

自分は〇付ける癖があって、けっこうまわりからも言われたりしますが、 

あまり気にしないです。 

だって、〇があろうがなかろうが、わかればいいのですから(LINEやSNSならね)。 

しかし、俵万智さん、さすがプロですね。 

優しさに溢れる一首です♪ほっこりしました。 

 

 

 

・SNSが皆に行き渡った事で誰にでも発想1つで 

注目を浴びるチャンスがある時代。 

何かにつけて流行らそうと言う意図が 

このハラスメント?でも感じられます。 

 

話題がないでも人の注目を浴びたい人気がほしい 

そんな若者が無理矢理、新しいワード、トレンドを発信して大多数に認知してもらおうとやっきに 

なっている。 

昨日もラジオで若い女性が『おじさんってバレるからマルはやめた方がいいです、私はおじさんですって言う人はいいですけどね』と自分達若者はイケてるみたいに得意になって言っていて聞いていて凄く恥ずかしかった。マルが怖いなら日本はマルだらけだし生きていけないはず。表現の自由とは別にしっかりとした言語統制を国として教育すべきだと思う。間違ったムーブメント起こして鼻高々にハラスメントしているのは本人達だと思う。 

実際にはまるハラスメントだと言われた人の方が 

ハラスメントを感じています。 

 

 

・俵万智さんの意見だけで、若者の意識が変わるはずはない。 

句読点の。と◯には心理的にも受けるイメージに違いがある。 

私は人一倍文学作品も嗜みますし、ライン等の短文サービスもよく利用します。 

この俵万智さんの文をそのまま取るには、 

素晴らしいです◎ 

おめでとうごさいます 

とのようなものでは無いでしょうか。 

これが 

素晴らしいです。 

おめでとうごさいます。 

 

これに変わると若者からの受けるイメージが変わってしまうということはご理解いただけると思います。 

 

 

・句読点の話を聞くたびに「アルジャーノンに花束を」を思い出す。 

急激に知能が発達していく主人公が、句読点の意味を知り知識レベルが上がることでその重要性に気付くところがある。 

句読点や文章の改行の使いこなしって一つの知性だと思う。 

まさに「行間を読む」ために必要な装置だと思うのだけど、世の中における文章の速度感がそこまで求めていないのかなと思ったりもする。 

時代と共に言葉は変わるのは仕方ないけど、句読点がないがしろにされたり恐怖を覚えたりというのはちょっと悲しい。 

 

 

・友達同士のやり取りであれば、自分達の印象だけでやり取りすればよいですが、 

上司や取引先等相手に送る文章には、正しい日本語をつかって欲しいです。 

句読点が怖いと言われることは、逆の立場からすれば、それもハラスメントになるのでは? 

 

 

・なんでも省略するのがチャット。もちろん句読点も。昔はチャットを使うのなんてパソコン通信オタクかオンラインゲームにはまってる人くらいだったけど、ラインで一気に一般化した。そしてそれはほかの文章にも影響を与える。 

省略がチャットの流儀というわけでもない。単に時間短縮の手段。でもそれが当たり前になると省略なしに違和感を感じるようになってしまう。 

 

 

・俵万智さん、ステキです。 

。を「嫌がらせだ!」と言われることにハラスメントを感じる私のストレスはどうすればいいのだろうか。 

だって日本語の文法上で使われる記号なのだし、ほんの少しも嫌がらせをしている気持ちがないのよね。こんな事言われたら怖くてメールもLINEもできなくなる。 

この一首、好きです。 

 

 

・句読点が苦手とか、そんな事に気を使うつもりは毛頭ありません。基本絵文字も使わないし、必要なら思いっきり長文で送るのも普通です。ソコから何を相手が汲み取るか、ソレはその人次第でしょう。面倒と思われるならソレも結構で構わない。別に好かれようとも嫌われようとも思ってない。こちらは必要最低限伝えたい事をこれらのツールを使って伝えてる。ソレ以上でも以下でも無い。ただソレだけの事。タイパでも何でも、好きにすればイイ。私は私のやりたい様にやる。だから何だって話。 

 

 

・メールは文章のやりとりだったし、メール感覚でLINEを使ってる人は、いまでも文章を送ってるつもりだろう。でも、若者のLINEはメールじゃなくチャットだから、文章のやりとりじゃなく文字による会話だものね。そりゃ会話なら句読点はないし、会話してるつもりの人に文章を送ったら「なにこれ怖い」ってなるのもわかる。 

 

 

・この話題を聞いて、親戚の20代前半の子とやりとりしたラインを見返したら確かに『。』をつけてなかった。かわりに『!』がかなり使われていて、こちらから見るとなんでこんな確認程度の内容なのにテンション高いの?と不思議だった。 

違和感あるけど若々しくて可愛いと思ってたけど、悪くとっていちいちテンション高くて怖い。高圧的な『!』ハラスメントだっていったらどうなるんだろう? 

 

 

・職場でのいじめや迷惑行為を「ハラスメント」と言うが、、日本語の文法にしたがって文末に「。」を打つことに、何のハラスメント要素があるというのだろう。 

 

他の記事では「圧を感じる」などといったコメントがあるそうだが、これこそが「あなたの感覚ですよね?」と言いたくなる。繰り返すけど、すでに文法として成立しているものを、一部の世代、あるいは一部の人たちが主張する「マルハラ」を、まともに相手する必要はあるのだろうか? 

 

 

 

・昔、目上の人には句読点をつけずに手紙を書けって聞いたことかあります。句読点があると相手に学がないと思って無用な配慮をしているのが失礼とのことだった。 

日本語は漢字、ひらがな、カタカナで書き表すから句読点がなくても確かに文書は読めるとは言っても、俵万智さんが言うように文章の終わりが○で終わるって言うのは素敵な考えだと思います。 

 

 

・正直、どちらがダメ、ということはないと思う。 

句読点をつけない習慣としては、結婚式関係だったり、年賀状も、つけたりつけなかったりしますよね。 

今は、SNSとか、投稿みたいなのは、読みにくくならないようにと、1文毎に改行するのがマナーみたいになっているので、マルは、必要なくなっている。 

だから、あえて丸をつけると、なんか違うニュアンスを読み取っちゃうんだろうな。 

 

いずれにしても、相手への配慮の結果なので、双方が了解しているなら、それでいいのでは。 

若者も、年配の人も、お互いに、そういう習慣なのね、と汲み取ってあげれば良いかもですね。 

 

 

・二十歳の者です。 

 

確かに、句読点を使われることに抵抗があります。 

 

教授から「よろしくお願いします!」というメールが来るのと、「よろしくお願いします。」というメールが来るのは、学生にとっては印象が違います。 

 

主観ではありますが、学生のコミュニティでは相手がどう感じるか、どのように文字を打てば自分の意図や感情が誤解されないかを強く意識した言葉遣いをします。それは、ちょっとした既読スルーや誤解がいじめや不信感につながる可能性を持つからです。 

 

読みにくい、文章が理解しにくいという指摘に関しては、「!」などの記号を使うことで解消する事ができます。 

 

もちろん、会話する相手や状況によって正しく言葉を使うことは重要ですが、どのような背景からこのような事が話題になっているのかを考えて頂けると幸いです。 

 

 

・句読点に恐怖を感じるとなると、ニュース記事も教科書も試験問題も恐怖しながらでないと読めないのか。 

精神疾患なら仕方ないけど、習慣の問題なら慣れて是正した方がいいと思う。 

母国語の書き言葉における基本文法を受け入れられないのは、大人になって支障が多そう。 

 

 

・ジャンプやマガジンの漫画の吹き出しには。はありませんが、 

サンデーにはあります。 

 

サンデーを出版している小学館が学習誌も出しているからとのこと。 

 

そういえば、読書をしない今の若い子は漫画の文字すら読めないらしいですね。 

 

 

・面と向かってのコミュニケーションの機会が圧倒的に少ないからだと思う。携帯ごしなら不特定多数の多くとつながってる(と思い込んでる) 

句読点から色々考えるのは受け手の勝手だが、それをハラスメントと呼ぶのはもはや鬼畜の沙汰。 

面倒くさいとかタイパがとか言ってる先に、何か面白いものはあるのか?と思う。 

例えば木造の住宅を売ってるとよく分かる。 

美しさ(本物感)と手入れの簡単さとは比例しない、どっちを選びますか?ってね。少し脱線した 

 

 

・良い返しだなぁと思う。 

オバサン構文に「何をぉ?」となるのではなく、こんな感じに受け止めたらよいと思わない?と流してあげる、実に優しい返しだなと感心した。 

こういうのを自分にも身に着けたい。 

 

 

・日本語構文に句読点は含まれている。それは大前提で動かない。 

 

大事なのは、ハラスメントの意図は無いと言う事をお互いに理解し合う事。 

 

俺らおっさんおばさんはそれを伝える事。若い奴らはそれを受け止める、消化する訓練をする事。 

 

何故なら、客にもおっさんおばさんは当然いる。彼らは構わず句読点を使って来る。今は客ともLINEでやり取りする事もある時代だ。その度にハラスメントと逃げるのか?言う事。 

 

このケースに限っては、安易に若者に迎合してしまえば最終的に困ってしまうのは彼ら。根気よく訓練するしかない。 

 

 

・文章には句読点をつけるものだと思ってましたが…。若者は長い文章でやりとりせず、単語だけのような文でやりとりするから必要ないように感じるんですかね?本来の正しい使い方をハラスメントと言われるのはおかしいし、なんでも若者に合わせてあげる必要ないと思います。 

 

 

・自分は文章の区切りに 。がないのが不自然なのと、。があることごく自然な感覚なので付けますけどね。 

。がない文章を見るようになって最初に思ったのは、。付けないくらいのテキトーな感覚でコメント書かれたのかな?もしかして自分にだけ。付けずに対応されな?ということです。いつの間にか。がある方が異質なやり取りになっていたとは…時代も変化するんですね。自分はアラフォーです。 

 

 

 

 
 

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