( 138343 ) 2024/02/12 12:13:36 0 00 おしゃれをして百貨店を訪れた成田幸男さん=名古屋市で2023年9月27日
淡い紫のシャツに薄いグレーのジャケット、胸ポケットからのぞかせたハンカチーフが人目を引く。通りかかった若い女性が思わず「わあ、すてき」と笑いかけた。 成田幸男(ゆきお)さんは、名古屋の繁華街・栄を足取り軽く歩く。90歳を超えても張りのある肌は、母譲りだ。 「元気に長生きできるのも遺伝かな。やっぱりうれしいね」
【写真まとめ】お茶の間の人気者になった「きんさんぎんさん」
楽しそうに妹の蟹江ぎんさんと語らう成田きんさん(左)=名古屋市の自宅で1998年9月14日
30年あまり前、テレビCMをきっかけに国民的な人気を集めた長寿の姉妹がいた。成田きんさんと蟹江(かにえ)ぎんさん。幸男さんは、きんさんの四男だ。 母はいつもにこにこして、誰からも愛された。自由奔放さに振り回されることもしばしばだったが、自身も長く生きて、母に教わったと感じることもあるという。 昨年9月末、栄の百貨店に着くと、幸男さんはまっすぐ1階のアクセサリー店に向かった。女性店員から小箱を受け取ると、水色の石が埋め込まれたプラチナのネックレスを胸元にあてた。 「この石の色、いいでしょう? 自分で選んだんだよ」 そうつぶやき、笑った。翌週に控えた93歳の誕生日のために頼んでおいた、自分への贈り物だった。 「長寿にはね、しゃれっ気が大事なの。それは、母も同じだったよ」
母と叔母の「デビュー」は、1992年に放映されたダスキンのCMだった。1892(明治25)年生まれの双子の姉妹が床の間の畳にちょこんと並んで座り、「きんは百歳、百歳。ぎんも百歳、百歳」とはにかむ。「きんさんぎんさん」は、またたく間に全国のお茶の間の人気者となった。 きんさんは4男7女をもうけたが、5人は生後すぐに亡くなり、3人の姉は嫁いで家を出ていた。海軍帰りの長男は「道楽者で、よく母に金を無心していた。包丁持って暴れることもあった」(幸男さん)。きんさんはそんな兄を勘当して自宅を引き払い、「おみゃあが一番優しい」と末っ子の幸男さん宅で同居していた。
春の園遊会で成田きんさん(右から2人目)声を掛けられる天皇、皇后両陛下(当時)=東京都港区の赤坂御苑で1993年5月20日
フィーバーが始まった当時、幸男さんは61歳で、定年退職の翌年だった。きんさんの「マネジャー」としての日々が始まった。 講演やイベントに呼ばれ、全国を飛び回った。台湾では高速道路を警察車両が先導した。東京・浅草で天ぷらを食べていると、どこで聞きつけたのか、外に人だかりができていた。「『触ると御利益がある』と言われてね。みんな母に触りたがるんだよ」。そんなきんさんにいつも付き添っていたのが、幸男さんと妻の菊枝さんだった。 個人情報の概念が薄く、住所もオープンだった時代。面識のない人が「会いたい。お祝いしたい」と急に自宅を訪れることもあった。それでもきんさんは断らずに受け入れてしまう。そのたびに幸男さん夫婦が右往左往した。 こだわりも強かった。取材やイベントのために菊枝さんが選んだ着物を、出かける間際になって「こりゃあ違う。あっちの出せ」と振り回されるのはしばしばだった。 言いたいことを歯切れ良く言った。名古屋市長に「あんたもしっかりやりゃあよ」と注文を付けた時には場が沸いた。「緊張して何も言えなくなったのは、天皇陛下に会った時くらい」と幸男さんは振り返る。
成田幸男さんが百貨店で購入した指輪=名古屋市で2023年9月27日
そんなきんさんの大往生は2000年、107歳だった。自宅でいったん起床したが「眠てえで、もうちょっと寝てるわあ」と言って再び目を閉じた。30分後、そのまま息を引き取った。 「前日もテレビ局の取材を受けて、自分で風呂にも入った。最期はあんなふうに逝きたいね」。別れはさみしかったが、長く続いたフィーバーが終わることに、どこか安堵(あんど)するような気持ちもあったという。 自由に振る舞いながら親しまれた母を見て「俺も長く生きてみるかな」と思うようになった。おしゃれに精を出し始めたのは、それからだ。両手には三つの金色の指輪が光る。外出や趣味の写真にも忙しい。 「どこに行っても70代に見られる。60代って言われることもある」
外出を前に帽子を選ぶ成田幸男さん=名古屋市で2023年9月27日
しゃれっ気以外にも、長寿の秘訣(ひけつ)があるという。 14年、妻の菊枝さんが亡くなった。3年後、86歳で会社員時代の部下だったよし子さんと内縁になったが彼女も3年前に逝った。かつて母と同居した家に一人で暮らし、何でも自分でこなす。食事、洗濯、掃除。特に料理が楽しいという。食材は自分で買い、週に2、3回は好物のマイタケの天ぷらを揚げる。「食い気も大事だよ」 月に何度かは、80代の「ガールフレンド」と喫茶店で落ち合ってデートをする。「いつも服、買ってやるんだ」。最後の秘訣には「色気」を挙げた。 いつまでも若く見られたい。うまいものも口にしたいし色も失いたくない。そんな欲が日々の張りを生むと幸男さんは気付いた。長く生きていれば、思わぬ楽しみがある。母に教わったことだった。 きんさんの子で健在なのは、幸男さんだけになった。「120歳まで元気だったら、私にも取材、殺到するでしょう」。今も丈夫な白い歯を見せて、笑った。【春増翔太】
◇ きんさん死去の翌年の01年に108歳で亡くなったぎんさんには、5人の娘がいた。生後すぐに亡くなった次女以外の4人は、全員が90歳を過ぎても健康で、10年ほど前までは「長寿4姉妹」として雑誌やテレビにもよく出ていた。 親族らによると、唯一健在だった三女の津田千多代さんが、105歳になったばかりの昨年10月に天寿を全うしたという。16人いたきんさんぎんさんの子どもで存命なのは、幸男さんだけになった。
※この記事は、毎日新聞とYahoo!ニュースによる共同連携企画です。
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