( 140798 )  2024/02/19 13:19:15  
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産経新聞の取材に応じる垂秀夫前駐中国大使=東京都内(原川貴郎撮影) 

 

垂秀夫前駐中国大使は産経新聞のインタビューで、菅直人政権の平成22年に尖閣諸島(沖縄県石垣市)付近で起きた中国漁船衝突事件の際のエピソードにも触れた。中国人船長を釈放する超法規的な措置には「忸怩(じくじ)たるもの」があったという。 

 

【図でみる】尖閣諸島は日本領であるということを示した地図 

 

■だました中国に反論 

 

--「文芸春秋」で連載中の回顧録には、安倍晋三元首相が「台湾有事は日本有事」と発言した際、中国外務省が抗議のために呼び出してきたときのエピソードが書かれている 

 

「大使だから普通、行かざるを得ない。行かないと『今後、何も協力しない』とか『面会をアレンジしない』とか脅してくるんです。だから行かざるを得ない。ただ、単に行って言われっぱなしというのは…」 

 

「その日は、大使館の同僚に『中国側は、私が中国外務省に出向いたことを表に出すのか』と聞くと、『確認したら、出さないと言っています』ということだった。でも、普段はめったなことで夜中に私を起こすことはない同僚が深夜の1時ぐらいに電話してきて、『中国外交部は、噓をついて出しました。新華社通信が流しています』と。それで『わかった。悪いが政治部のチームは公邸に集まってくれ。広報文化部にも連絡しろ。われわれも朝までに反論を出す』と指示しました」 

 

--北京で日本の大使が呼びつけられた際に反論の広報をするようになったのはこの件がきっかけか 

 

「多分そうだったと思う。中国の一方的な主張しか世に出ないのは問題だと思っていたし、そのときはとにかくだまされたという思いがあったのでね」 

 

--昨年12月の北京での離任記者会見では外交記録が30年後に公開されることから、歴史家がどう判断するかを基準に外交に取り組んだと話していた。昨年記録が公開された平成4年の天皇陛下(現在の上皇さま)のご訪中は、外務省の小和田恒事務次官や谷野作太郎アジア局長、橋本恕駐中国大使らがメディア工作までして推進したが、結局、中国に利用されただけではなかったか 

 

「当時の時代背景の中、一生懸命やられていたのだと思う。それが正しかったかどうかという議論はあるかもしれないが、今の基準で判断するのはフェアではない。そんなこと言い出せば、昭和47(1972)年の国交正常化自体が本当によかったのかということにもなりかねない。ODA(政府開発援助)が中国というフランケンシュタインを作ったんじゃないか、という議論もあり得る」 

 

 

「ただ、ひどかったのは当時の中国外相だった銭其琛が『外交十記』という自伝を出して、(中国のためにご訪中を)うまく利用したというようなことを書いた。ご訪中の実現に向けて一生懸命やった人からすれば、『がくっ』とくるところがあったのかもしれない」 

 

■一人だけ尋常ではなかった 

 

--では、外務省中国・モンゴル課長時代の平成22年9月に起きた尖閣諸島沖の中国漁船衝突事件の後、超法規的に中国人船長を釈放させた菅直人政権の対応は日中関係に役立ったか 

 

「あのときは『そんなことをすれば、政権は持ちませんよ』ということを、大きな声で思わず叫んでしまった。一言で言えば忸怩たるものがある。誰のせいで日本政府があんな対応を取ることになったか。それは、はっきりしているでしょう」 

 

--当時の前原誠司外相は産経新聞のインタビューで菅氏が強い口調で「釈放しろ」と言ったと明かしている 

 

「早く解決するようにと執拗(しつよう)に指示していたのは事実だ。前原氏をはじめ外務省は適切に対応していたと思うが、一人だけが尋常でなかったと記憶している」 

 

--前原氏は、菅氏に呼ばれて外務省幹部と首相公邸に行ったと述懐している 

 

「仙谷由人官房長官、前原氏、福山哲郎官房副長官、佐々江賢一郎外務事務次官、齋木昭隆アジア大洋州局長が菅氏の近くに座り、私は隅の方の見えないところでスチール椅子に座っていた。菅氏が仙谷さんにワーワー怒った後、外務省の3人に『外務省、何やっているんだ!』と怒り、『外務省には専門家はいないのか』と言った。すると全員が私の方を振り向いた。前原氏が『中国・モンゴル課長です』と紹介したら、近くの席に座らされた」 

 

「菅氏は『(中国は)何をやろうとしてるんだ』と怒鳴っていたので、『中国は、圧力をかければかけるほど日本の政権は降りる(譲歩する)と思っています。これから中国はどんどん圧力をかけてきます』と説明した。そうしたら『何を言ってるんだー』と怒るので、『いや、現に1年前、天皇陛下との会見は1カ月前までに申請する慣例(30日ルール)があるのに、中国の強い要請で(民主党議員からの)いろいろ働きかけがあり、皆さん、降りられました』と言い返した。すると彼はほとんど何も言えなくなった」 

 

 

「次の日には外務省に自分の椅子はないかなと思ったら、逆にあれで仙谷さんにえらくかわいがられました」(聞き手 原川貴郎) 

 

たるみ・ひでお 昭和36年、大阪府生まれ。京大法学部卒。60年4月、外務省入省。国際情報統括官付国際情報官、南東アジア第1課長、中国・モンゴル課長、駐中国公使などを歴任。平成28年に交流協会台北事務所に出向した後、領事局長、官房長を経て令和2年9月から5年12月まで駐中国大使を務めた。現在、立命館大招聘教授を務める。 

 

=おわり 

 

 

 
 

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