( 142918 )  2024/02/25 15:00:00  
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浪人や就活、さまざまな苦難を乗り越えた海洋さんの現在は。写真はイメージ(写真: bee / PIXTA) 

 

浪人という選択を取る人が20年前と比べて1/2になっている現在。「浪人してでもこういう大学に行きたい」という人が減っている中で、浪人はどう人を変えるのでしょうか? また、浪人したことによってどんなことが起こるのでしょうか?  自身も9年の浪人生活を経て早稲田大学に合格した経験のある濱井正吾氏が、いろんな浪人経験者にインタビューをし、その道を選んでよかったことや頑張れた理由などを追求していきます。 

今回は、6浪で私大の工学部に入学したあと、海洋系の大学に30歳で入学。32歳で航海士になった海洋さん(仮名)にお話を伺いました。 

 

【写真】海洋さんが32歳でかなえた夢 

 

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■年齢が原因で内定取れず 

 

 多浪を経験した人が一度は気になるのが、「就活」の問題だと思います。 

 

 新卒一括採用の仕組みがまだ根強い日本企業では、年齢を重ねるほど、採用が不利になると言われています。今回お話を伺った海洋さん(仮名)も、6浪を経験した後の就職活動で、年齢が原因で内定が取れませんでした。 

 

 しかし彼はその絶望を乗り越えて、32歳で長年の夢であった航海士になるという夢をかなえました。 

 

 今回は、彼がどん底に陥った20代前半までの6年と、そのロスを取り戻すため猛烈に頑張った20代後半~30代前半にかけての8年について深掘ります。 

 

 海洋さんは東京都23区の下町に生まれました。 

 

 「両親は戦前生まれで、どちらも地方の出身者です。母は専業主婦で、父は大学進学とともに東京に出てきて、卒業後は有名電機メーカーで開発エンジニアとして定年まで働いていました」 

 

 父親は大企業に勤めていたものの、姉と兄が1人ずついたことで教育費がかかったこと、東京でマンションを購入して住宅ローンを抱えていたこともあり「すごく裕福だった感じはない」と語る海洋さんは、普通の公立小学校に通っていたそうです。 

 

 

 小学校時代の成績は、中学受験を経験した姉と兄には負けていたものの、男子20人のうちで3位と好成績だったようです。 

 

 小6で身長がすでに170cmあった海洋さんは、スポーツも万能。進学した公立中学校では、240人中10位以内と上位の成績をキープしながら、バスケットボールに打ち込む生活を送ります。 

 

 「荒れた学校だったのですが、人懐っこいところがあったためか、いびられることもなく、平穏に中学生活を送れました。中3のときには、周囲に推薦してもらって生徒会長になりましたし、バスケで高校の推薦ももらっていました」 

 

■MARCHの付属校からスカウトされたが… 

 

 海洋さんは中学2年春に身長181cm。周囲と比べてひときわ大きかった彼は、「伝説の巨人」と言われていたそうです。 

 

 その体型を武器に区のバスケ選抜に選ばれていた彼は、MARCH(明治大、青山学院大、立教大、中央大、法政大)の付属校からスカウトされ、「将来はバスケットボールで実業団に入ろう」と考えていたそうです。しかし、順風満帆だった彼の人生を左右する出来事が起こります。 

 

 「高校進学後のことも考えて、引退してからも部活に出続けていたのですが、夏休み明けに膝を大怪我して、松葉杖が必要になってしまったんです。それで、推薦先の学校の監督が来て、『中学のときに膝をやったらもう(選手生命が)ダメになるから、今回の話はなかったことにしてください』と言われました」 

 

 中学3年の2学期に入って早々、奈落の底に突き落とされた海洋さんは、慌てて高校受験向けの通信教育を開始しました。 

 

 「週の半分は徹夜しながら勉強した」という彼はひたすら暗記科目を詰め込み、生徒会長で内申点も高かったことから、学区内の都立進学校を受験して合格しました。自分の力で軌道修正を図った彼でしたが、またしても思わぬ事態が起きます。 

 

 都立進学校に入学した彼は、膝が完治したと思ったこともあり、バスケ部に入ります。 

 

 「選手層が厚くない都立高校の部活なら、バスケを続けることができると思っていました。結果、入部してすぐにレギュラーになれたのですが、やっぱり治ってなかったですね。ゴールデンウィーク明けにまた膝をやってしまい、入院することになりました」 

 

 この入院が、本格的に彼の歯車を狂わせます。 

 

 「手術のために3週間くらい学校を休んだことで、授業についていけなくなってしまいました。入院期間に高校数学のコアとなる一次関数の授業が始まっていたのですが、その授業に出れず、関数のことを理解できなかったので、さっぱりわからなくなってしまいました」 

 

 

 理系の進路を考えていた海洋さんにとっては、数学初期の単元で理解ができないことは致命的でした。当時はまだ丁寧に数学の解説をしてくれるアプリもYouTubeチャンネルも何もない時代。優等生だった彼は一気に劣等生になってしまいました。 

 

■できる子から、できない子に転落 

 

 「授業が苦痛で仕方なくなり、ほかの科目もやる気がなくなりました。今までは『できる子』という扱いを受けていた自分が、最下位から3番目の『できない子』集団に入ってしまったのです。中学でプライドが高く、天狗になっていたから余計やる気がなくなりましたね……」 

 

 「勉強ができなかった思い出と、バスケ部の思い出しかない」と語る海洋さん。高校3年間で両膝を計3回怪我したものの、最後は主将でチームをまとめ、東京都ベスト16まで勝ち上がるなど、バスケに明け暮れる生活を送りました。 

 

 バスケに打ち込む中で、将来の夢が見つかる貴重な経験もあったそうです。 

 

 「部活を頑張りながら、アルバイトで稼いだお金で自動二輪の免許を取得しました。趣味が高じて高校2年生のとき、バスケ部の友達とバイクで北海道に行ったことがあったのですが、これが大きく自分の人生を決定づけるきっかけになりました。 

 

 青森から北海道に行くときにフェリーに乗ったのですが、乗船するときにタラップにいた船長さんが挨拶してくださったんです。そのときに、船長さんの着ている制服が格好よかったことと、船旅がとても楽しかったことが印象に残って、船乗りになりたいと思ったんです」 

 

 それから船乗りになるために情報を集め始めた海洋さん。航海士になるために大型船の海技免状取得の近道である海洋系大学を目指そうと思い、東京にある海洋系の大学を志望するようになりました。 

 

 しかし、部活に打ち込んでいたこともあり、勉強が後回しになってしまい、高校3年生のときの模試の成績は偏差値40、受けたセンター試験の結果も3割でした。 

 

 前期と後期で国公立大学を受験するものの、ほとんど何も解答できずに不合格だった彼は、駿台予備学校の国立理系コースに入って浪人を決断します。 

 

 海洋さんに、浪人を決断した理由について聞いてみると「海洋系大学に行きたかったから」とためらいなく答えてくれました。 

 

 

 高校時代の遅れを取り戻そうと、意欲を持って授業に臨んだ海洋さん。しかし、毎日しっかり授業に出たものの、ここでも授業についていけず「センター試験の前になったら成績が上がると思い込んでいた」ために、この年のセンター試験も4割台の得点率に終わってしまいました。 

 

 「プライドが高かった」ため、海洋系大学の前期後期と早慶の理工学部を受験したそうですが、全落ちして2浪が確定します。 

 

 「親からも2浪までは予備校代を出してやる、と言われていたのでそのまま駿台で頑張ろうと思いました」 

 

■飲酒運転のトラックに突っ込まれる 

 

 2浪目に必死に勉強を頑張った海洋さんは、なんとか代々木ゼミナールの模試で偏差値が50台後半を超えるようになります。この調子でいけば志望する大学に入れるかもしれないと思ったそうですが、年の瀬に大きなアクシデントが彼を襲いました。 

 

 「年末に車でお歳暮を親戚のところまで届けに行くとき、飲酒運転のトラックに突っ込まれて頭と首を打つ大怪我をしたんです。赤信号で止まっていたときなので完全に相手の過失でした。怪我の療養で受験どころではなくなり、人生どうしてくれるんだと思いましたね……」 

 

 受験ができずに終わった2浪目。事情が事情だけに親も3浪を許可し、代々木ゼミナールの単科コースで数学・物理の授業だけを受講し、あとは宅浪をしていたという海洋さん。しかし、事故の後遺症は当初の想定よりも深刻だったようです。 

 

 「事故のむち打ちの影響で、肩こり・頭痛、目がぼやけることも頻繁に起こるようになりました。勉強が何も手につかず、精神的にも日陰に閉じこもっていました。アルバイト中心の生活で、この年も受験はできませんでした」 

 

 翌年には代ゼミの本科コースに入りおなし、浪人生活を延長しますが、この年も勉強が手につかずに不合格で終わります。 

 

 そのまま就職する勇気もなかったため、5浪目はアルバイトをしつつパチンコで生計を立てるようになりました。さらに、この年、銀行に入った中学の同級生に彼女を取られてしまう憂き目にも遭います。 

 

 「その男と彼女の浮気現場に居合わせたんです。そのとき、男からも『大人になれよ』と言われました。中学時代の自分を知っている人間に、髪が伸び放題で風呂も入らず、酒浸りになっていた今の自分を見られて、すべての心が折れてしまったんです。本当に人生でいちばんひどい生活をしていて、精神的にもつらい時期でした。あのとき、彼女がゴミを見るような目で私を見たのが忘れられません」 

 

 

 
 

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