( 143238 ) 2024/02/26 14:31:33 0 00 3社の不正、トヨタの責任は?
2022年の日野自動車を皮切りに、23年4月のダイハツ工業、明くる24年1月の豊田自動織機と、グループ内で不祥事が続いたトヨタの話をしよう。
【画像】ダイハツとトヨタの共同会見
まずは日野、ダイハツ、織機の3社の不正は、手違いやミスのレベルではなく、意図的に不正を行ったもので、どう見ても庇(かば)い立てできる話ではない。
そしてこれらの関連会社グループの上に位置するトヨタの責任は当然のごとく問われることになるのだが、まずはそのあたりの整理から始めたい。実は筆者はこれを書くのが少しばかり憂鬱(ゆううつ)である。他人事として正義を笠に糾弾(きゅうだん)するのは簡単というか、摩擦がなくてとても楽な道だ。
今の状況下でなら、この不正について、噂(うわさ)と憶測を元に誹謗中傷だのゴシップ記事を書こうとも、トヨタは立場上反論できない。叩き時というか、破邪の剣をノーコストで振るえるバーゲンシーズンだ。
なのだが、筆者はそういうのは虫が好かない。そんな表層的な正義を押し付けたところで、書き手の溜飲(りゅういん)は下がるかもしれないが、社会は何も改善しないと思うからだ。だから筆者に与えられた課題は、一回正義だ何だを置いて、それらがなぜ起こったかを、リアルな人間の行動をベースに考えることだと思う。ただ、そういう作業はサブコンテクストが読めない人には、まるでトヨタを擁護しているように見えることは容易に想像がつく。だから憂鬱なのだ。
この件、報道やネットを見渡すと、「親会社には監督責任がある。悪いことをした子会社の責任は親会社の責任」という批判が少なくない。
そりゃまた随分と紋切り型の批判だと筆者は思う。まあそもそもにおいて、トヨタには関連会社が200社ある。常識的に考えて、その200社をマイクロマネジメントで管理するというのは無理があり過ぎる。まあ正義に依拠するなら「200社あろうが2億社あろうが監督責任はあるのである」ということになるのだろうが、ここではリアルワールドでそれが可能であったのかなかったのかの話をしている。そのためには、善悪の話を一度置かないと原因が分からない。
とりあえず、第一の段階として200社のマイクロマネジメントは無理だ。そこから先、だったら200社も関連会社を作るべきではなかったのではないかみたいな話は次のステージである。ひとまず目の前の分析が先で、責任追及は後回しにする。
もちろん「一般論としての監督責任」があるということは筆者も同意するが、だからといって「その監督責任の行使で不正を防止できなかったのか」という詰め方には、とてもではないが同調できない。
子会社であろうと、それは独立した会社だ。それを連帯責任で処理するならば「子会社は親会社に絶対服従であれ」ということになるし、それは「親会社は子会社を絶対服従させろ」ということになる。上司と部下で置き換えてみれば分かるが、今時そんな個性と人格を無視した話はそれこそパワハラそのものではないか。
記者会見の質疑応答で何度か出た話でもあるが、「トヨタでは不正のない認証ができているというならば、そのやり方できっちり管理してダイハツを監督すればよかったではないか」という意見は少なくない。しかし、同じ自動車メーカーといっても、仕事のやり方は各社で違う。意外に忘れられているが、そこが同じではないからこそ、多様なメーカーの多様な製品が世に出てくるのだ。
クルマの設計思想も、手順も、使う技術も、認証のやり方も、全部トヨタのやり方で強制的に統一したら、その時、ダイハツの存在意義は何なのだろうか? そうやってできたクルマにダイハツのエンブレムを付けたところで、それはトヨタ車ではないのか。
トヨタには金があるし人もいる。別にトヨタの手の内にあるやり方だけでいいのであれば、トヨタブランドで軽自動車やコンパクトカーを作ればいいだけで、何も異質の文化を持ち込んでくる違う血の会社、ダイハツをアライアンスに組み込むまでもない。人類の歴史を見ても、異なる文化は必ず摩擦を起こすから、そもそも面倒事の種を含むものだ。わざわざそんなリスクを取る必要はない。
しかし、実態としてトヨタはそう考えていない。トヨタのエンジニアは「ダイハツの技術をリスペクトしている」という。安価なコンパクトカー作りにおいて、トヨタはダイハツにかなわない。それは以前、経営階層の技術者からはっきりと聞いた話である。
そしてそういうリスペクトがあるからこそ、トヨタは自社にない異文化を持つダイハツを選んで、100%子会社にしたのである。
かつて、スズキがフォルクスワーゲンとの提携を解消するために法廷で争い、膨大な違約金を払ってまで離脱したのは、フォルクスワーゲンがスズキの文化を上書きしようとしたからだ。それは実質的にスズキの消滅を意味する。鈴木修氏が高齢を押して社長の座に留任してまでフォルクスワーゲンと戦い抜いた理由はそこにある。そして「提携には今回の件で懲りた」と明言していたにもかかわらず、後に自らトヨタを訪ねて提携を申し入れたのは、トヨタのダイハツに対する扱いを見ていたからだと筆者は思っている。
ダイハツの100%子会社化の時、当時の豊田章男社長に尋ねたことがある。トヨタはダイハツを子会社にして何をやらせたいのか。その問いに対する豊田社長の答えは明確だった。「トヨタが何をやらせたいかではなく、まずはダイハツが何をやりたいかです。それが最初にあって、トヨタは協力できることに協力するのです」
一連の会見の中で、トヨタの佐藤恒治社長が何度か言及した「ダイハツの技術に対するリスペクトが逆効果になった」という発言はそこを捉えたものだ。良かれと思ってダイハツの文化と技術を尊重し、遠慮をし過ぎてしまった。本当は、一歩踏み込んででもSOSを発信したかった現場の声を掬(すく)い上げて、能動的に協力すべきだったということを意味している。しかしながら「まずはダイハツが何をやりたいか」を優先するあまり、彼らがSOSを発信してくることに対する「待ちの姿勢」に甘んじてしまい、これだけの不祥事につながってしまった。佐藤社長はそう見ているわけだ。
そこが分かってくると、「親会社トヨタのブラックな押し付けが不正を生んだのではないか?」という疑問の不自然さに気付くのではないか。トヨタはダイハツを尊重し、新興国小型車カンパニーを任せようとした。ただでさえ人手不足と短納期開発で疲弊している現場に対し、トヨタは結果的にさらなる業務の追加を要求してしまったことになる。しかしそれをブラックの文脈で読み解いても意味が通らない。むしろ彼らの自主性と自己管理能力を過信したがゆえに起こった問題である。
さて、そして今、トヨタはこうした過剰労働問題を何とか解決しようと知恵を絞っている。佐藤社長の説明によれば、無理が常態化している部分を改善するために、仕事のペースをダウンするのだという。
今、目の前にある現実に対する対症療法としてはそうすべきだ。筆者も出版社勤務時代、1人でしかも2カ月で1冊作れみたいな無茶な話を食らったことがある。しかもまだ編集経験がなかった取次営業職時代に、通常業務と並行してやれという無茶振りである。経営的には決算の調整のため売掛けを作りたいことは分かるのだが、やらされる側は堪(たま)ったものではない。徹夜の連続で本を作った。とうに絶版となっている『I love7 part2』というスーパーセブンの本だ。
ヘロヘロになりつつも業務を完遂すると「なんだできるじゃないか」でそれが常態化する。最悪のケースでは「あいつにできたのだからお前もやれ」式に被害が拡大する。緊急事態に対する一時的対策だったはずの話が、いつの間にか当たり前になっていくのは非常にマズい。こうした状況を放置すれば不正は必ず再発する。
豊田会長は、不正のあった3社の認証部門に自主研究グループを立ち上げた。各社にトヨタの生産調査部が入って、それぞれのグループの中で正常な認証の工程を確認し、その状態把握情報がどう流れているのかを検証して標準化を行う。それに応じた能力マップを作ることで、一人当たり作業量の原単位を確定する。この基準があれば、業務量の異常がはっきり確定でき、その異常を検知できるようになるはずだ。
これは異常管理の考え方に基づいている。不具合や不良が発生してから気付くのではなく、いつもの状態、つまり正常管理の範囲に綻びが生じて、いつもと違う些細(ささい)な異常が起きていることを早期に検知して、不具合や不良を未然に防ぐ考え方である。
難しく考えなければわれわれも普段からやっている。クルマに乗っていて「何か異音がする」とか、「アクセルの吹けが悪い」とか、そういう前兆を捉えて、事故の前に手当をする話である。
少なくとも、目前の連続不正の引き金となった「過剰労働」を即時是正するという意味では、業務の一時的なペースダウンには効果があるし、避けては通れないと思う。
しかし、とここから疑問と反論を展開する。対症療法としての効果については大いに期待するのだが、これがそもそも問題の真因解決なのかという点には疑問がある。企業経営において生産性の向上は極めて重要である。リーダーシップ理論の基礎の基礎であるマネジリアル・グリッド理論では、リーダーの関心は「人への関心」と「業績への関心」の2つをバランス良く見ることだとされており、どちらか一方に傾くとマネジメントは破綻する。
徹夜で本を作った時、筆者は確かにキツかったけれど、そこには大きな達成感があった。仕事の喜びがそこにある。それは社会人なら多かれ少なかれ感じたことがあるはずだ。そしてトヨタがいう「モータースポーツからのクルマづくり」もまさにそうで、レース開催日までに開発を終えなければ開発の意味が失われる。レースの翌週になってスゴい性能の車両ができ上がっても無価値である。
業績を上げようと思えば、どうしたってそこに無理は生じる。その無理をさせてあげることも「人への関心」ではないかという、常識はずれのことを筆者は今主張している。
その仕事の高揚感を全面的に無視した時に、働く人たちのモチベーションは続くのだろうか? 善悪の話を置いて、例えば会社に内緒で休日出勤してプロジェクトを進めている時、そこには自分しか知らないヒロイズムが確実にある。そういう人間の心理を全部無視して、働き方改革の正義だけを推し進めることが、本当に働く人にとって、そして企業にとって良いことなのか、筆者は疑問を呈したい。
と、「無理もモチベーション理論」をぶち上げつつも、この無理は紙一重であることも筆者は分かっている。ほんのわずかないき過ぎがあると、辛さが限界を超えて体や心を壊してしまう。先ほどの異常管理の話と同じく、「無理を正常に楽しめている時」と「無理が楽しめなくなった時」を切り分ける異常管理がここで必要になってくる。
しかしながら、トヨタにはそこに素晴らしいソリューションがあるではないか。それこそがトヨタ生産方式(TPS)であり、特に「アンドン」である。何か異常が発生したら、本人または周囲の人がアンドンを引く。その昔は工場の天井から紐(ひも)が下がっていて、その紐を引くとランプが点く。そこで異常が起きていることは周囲に知らされて、仲間が自主的にヘルプに駆けつける。あるいはラインを止める。今では紐ではなくボタンであり、コンピュータ制御のもっと多機能のシステムになっている。
TPSは、基本概念として、中央集権的管理ではなく、分散的管理が根幹にある。現場でアンドンを引き、現場が相互にヘルプする。そこで管制塔の指示を待つフェイズは挟まない。異常が起きた時だけ機能する管制塔は不要になり、コストも下がるし、管理する側される側という分断も防止できる。豊田会長は自らの14年間の社長時代の仕事を振り返って「主権を現場に戻した」と表現する。それだけの時間を掛けて、現場の人たちがものが言いやすい環境を整えたのだ。
通常、製造業でラインを止めるのは、会社に大損失を与える大罪なのだが、TPSでは止めることは不良品の大量発生を食い止めた"勇者”として称賛される。だから今回の一連の不正が発覚した時、筆者はごく自然に「なぜアンドンを引けなかったのか」と疑問を持った。
十中八九、彼らの中では業務を止めるのは大罪だという認識があったのだと思う。ダイハツの第三者委員会報告書を見れば、異常を報告しても「自分でなんとかせよ」という論外な上司の存在も明らかになっている。筆者はここが最大の問題であり、裏返せば解決の糸口だとも思っている。
そもそもアンドンがちっとも引かれないことは「異常」である。現場には必ずトラブルがある。アンドンが引かれる頻度を見れば、問題が現場でもみ消されていることを「異常値」として検知できるのではないか?
だとすれば、TPS本部が軸となって、頻度をベースに常時業務をモニターし、アンドンが引かれない部署に対して「異常管理」の査察に入れば、そこで問題を把握できるはずだ。そして引かれたアンドンを黙殺する組織があってもみ消されるのだとすれば、縦割りの組織内でアンドンを見るのではなく、アンドンの灯る場所をTPS本部にしたら良い。まずは今回の不正があった3社から、TPS本部によるモニタリングを開始するべきではないか。
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