( 143563 ) 2024/02/27 14:02:12 0 00 写真はイメージです Photo:PIXTA
● 対外的には立派でも内部では嫌われるリーダー
昭和の時代の有力政治家・田中角栄(第64・65代内閣総理大臣)は、ライバルの中曽根康弘(第71・72・73代内閣総理大臣)のことを「富士山のよう」と例えたといわれている。この比喩は、中曽根が外から見ると品格があり、立派にみえるが、実際には政治的な野心や利益追求に強く動かされていて“美しくない”という意味である。当時、富士山は登ってみるとゴミだらけでひどい状況にあった。
この人物評はさておき、世間には「かつての富士山」のようなリーダーが、今もあちらこちらにいる。
昨今、企業の有名経営者や業界の第一人者などが、実際には人格的に問題があったり、現在の倫理基準に照らして明らかに不適格な言動をしたことが明るみに出たりして、トップの座から引きずり降ろされるという事象は珍しくなくなっている。
このようなタイプのリーダーは、おおむねメディアや公の場での印象はすこぶる良い。聞き手の聞きたいこと、喜ぶこと、面白いこと、言ってほしいことを巧みに話せる機知があるからだ。ところが、こと内部に目を向けると部下やチームメンバーからの支持を得られず、多くの社員が本当は嫌っているというケースがある。そして、しばしば、部下のニーズや感情を無視し、組織内の信頼や士気を損なってしまう。また私生活に大きな問題があることが多い。外部のイメージと内部の実態が大きく乖離(かいり)しているのだ。
では、なぜそんな人を組織のリーダーとしていただいているかといえば、当人の社会や業界に対する発信力が大きいからである。下手をすると会社や商品が大量の情報の中で埋もれてしまう現代にあっては、リーダーの発信力は、それだけで大きな価値を持つ。
このようなリーダーを抱えている組織は、外部向けの良いイメ―ジを維持するために、リーダーの「やらかした」諸問題を徹底的に隠す。迷惑をかけた相手にさまざまな補償をする。具体的には、広告費で黙らせる、ネガティブな記事を書いた記者には必要な情報を流さない、高額の袖の下を包んで沈黙してもらう……といったことが、かつてはある程度有効な方法だった。
ただ、時代が急速に変わってしまった。
● 人の口に戸は立てられない、情報の拡散は止められない
新型コロナウイルスの感染拡大を契機にYouTubeなどで、発信力のある識者やYouTuberたちが自由に情報を発信し、そこではマスメディアでは扱われない人物評価の情報も提供されるようになった。個人のSNS等の発信も、面白いネタであれば、情報が拡散され、あっという間に世間の知るところとなる。かつてのようにマスメディアを金と力で統制しても、隠匿したい情報の拡散を防げない。さらには、確度の高いタレコミ情報が有力週刊誌に寄せられ、記事にされたら、その真偽はともかく、一巻の終わりである。
だから、近年は、リーダーの選定に当たって、人間性についても入念に評価すべきであるという意見が強くなってきた。発信力があったとしても、リスクの発現によるダメージを考えると、問題の起こる可能性の高い人をリーダーにするのはやめておくべきだというわけである。しかしながら、歴史をさかのぼると、大業を成した多くのリーダーが、倫理面で問題を抱えていたといわれる。
例えば、古代ローマの英雄・ジュリアス・シーザーは、私生活においては多くの愛人を持って放蕩(ほうとう)生活を送っており、そのプライベートな生活で生じる問題は、当時の社会規範においてもしばしば批判の対象となった。フランスの皇帝・ナポレオン・ボナパルトもヨーロッパの多くを征服したが、彼の私生活には浮気や権力への激しい執着が見られた。英雄色を好む、といわれるが、色だけならまだましな方で、常人の発想の枠にとらわれることがないだけに、それ以外にもさまざまな問題を引き起こすのである。
現代でも、会社の資金を私的に利用し、世界各地の不動産を自分のために購入するような経営トップもいれば、意思決定に関与する重要な立場にありながら、コンサルティングと称して賄賂を受け取るような人物もいる。あえて社員に派閥を作らせ、派閥対抗で業績を競わせ、そのうえに胡坐をかいて私的にも懐を肥やす社長もいる。このようなことが行われていれば、昔ならばともかく、現代社会で情報の外部流出を防ぐのは不可能だ。
● リーダーに倫理性は必要か否か
そこで、リーダーに倫理性が必要かどうか、「必要」と「必要なし」の両方の議論が展開される。
「必要あり」の意見は、以下のようなものになる。
リーダーは、部下や社会に対して模範を示す役割を担っている。個人としての行動が倫理的であれば、その行動が他者に良い影響を与え、組織内にポジティブな行動基準を設定することができる。また、リーダーの公私にわたる一貫した倫理的行動は、組織全体に波及し、会社としても倫理的に整合性の高い行動を実現できる。もし公的な行動と私生活の間で倫理観に乖離があることを許容すると、二重基準を容認することになって、組織内に一貫した行動基準を浸透させられない、といった意見だ。
一方、「必要なし」論者は、リーダーはリーダーとして任された仕事において成果を出せばよいのであり、違法行為は許容できないものの、それ以外であれば重要視すべきでないという。そもそも論として、リーダーの私生活は個人的なものであり、会社の業務とは別に扱われるべきだともいう。また、これこそが問題の核心なのだが、倫理性に問題のない人は、なぜ問題がないかというと、大きな挑戦をせず、窮地に追い込まれたことがなかったからだともいえるのである。これからは、明らかに混迷の時代であり、そのような安全パイの人をリーダーにすると、ジリ貧になって組織が生き残れないという。
● 倫理性と実力者を併存させる折衷案
いずれの意見もそれなりに一理あるといえるだろう。そこで両者の意見の間をとった対策として、折衷案が採用される例が多くなってきた。それは、裏と表のリーダーを据えるというケースだ。
表看板のリーダーには、一般受けする見栄えの良さと如才ない話術を持ち、かつ身辺が「清潔」で誠実な印象を与える危険性のない人を任命する。明らかな広告塔、お飾りといってもよい。そして、その裏で、実権は酸いも甘いも知り尽くしている百戦錬磨の実力者が握るというものだ。
このような宮廷ドラマによくあるリーダーシップのパターンは、権限と責任の所在が不明確になるため、米国型リーダーシップが席巻したこの四半世紀は避けるべきこととして否定されてきた。しかし、昨今の状況を鑑みるに、これからはこうした役割分担のパターンが再び増加することになるだろう。
混迷が深まり、問題の多発する時代である。その傾向はますます加速している。
リスクマネジメントを本業とする私の立場からは、倫理的リーダーの出現を望ましいとは思う。しかしながら、倫理性の高さと常人を超える発信力を併せ持つリーダーがめったにいないこともまた事実のように思える。組織はこの両面において秀でた、可能性のあるリーダー候補を、より早く発見し、育成していくことがこれから特に重要になるだろう。
(敬称略)
(プリンシプル・コンサルティング・グループ株式会社 代表取締役 秋山 進、構成/ライター 奥田由意)
秋山進
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