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カンニング竹山「人生で一度も古典が役立ってない」発言に賛否…歴史好き公言してるのに「わざわざ否定」の違和感

SmartFLASH 2/28(水) 15:29 配信

https://news.yahoo.co.jp/articles/75d63018a6b80d473d431dfb115215d18b6fb2cc

 

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2月25日に放送された「ドーナツトーク」に出演したカンニング竹山が、古典の授業が役に立ったことが1回もないと話し、物議を醸している。

竹山は、高校生の頃から古典が役に立ったことを感じたことがないと述べ、さらに大学受験において古典が関係ないとして0点でも問題ないと主張している。

一部の視聴者からは賛同の声が上がる一方で、古典の知識が歴史理解に繋がるとする意見もある。

竹山は以前のコラムで歴史を知ることの重要性を語っており、古典や歴史教育に対する考え方は賛否両論がある。

(要約)

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 2月25日、カンニング竹山が『ドーナツトーク』(TBS系)に出演。古典の授業は「役に立ったことが1回もない」と話したことが物議を醸している。 

 

 番組後半では、「無くしたムダな時間」というテーマでトークを展開。現役の女子高生がムダな時間として「古典の授業」をあげると、竹山は「めっちゃわかる。高校生のときから思ってた」と共感。 

 

「今年で53歳のおじさんだけど、いまだ古典が役に立ったなと思ったことが1回もない」と述べ、スタジオの笑いを誘った。さらに竹山は「大学受験に古典が関係なかったら、0点でもいいんだよ」と発言。 

 

 ヒコロヒーが「面白い瞬間もあるかもしれない」とフォローすると、竹山も「興味ある人もいるから。面白い人もたくさんいる」としたものの、SNSでは「古典が役立ったことがない」との発言に賛否が渦巻くことになった。 

 

《古典、というか古文はまだ僕の人生でも授業や試験以外で役に立ったことない》 

 

《古文と漢文はマジでいらないと思うけどね…。「興味を持つ人がいるかも知れないから触り程度を紹介する」ものであって、教科にするレベルじゃない》 

 

 と賛同する声があがる一方、批判的な意見も。 

 

《美術館とか展覧会に行くと、古文書を見たり、杯を見て「葡萄美酒夜光杯・・・」と思い浮かべるなど、古文漢文を知っていると何倍も楽しめる》 

 

《学校の授業って大半が普段の生活で使わないけど、何気ないところで使ったり教養として知ってるものって結構あるのよね。物事を知らないと騙されやすい人になるだけだしなぁ》 

 

 竹山は、2022年6月8日の『AERA dot. 』の連載コラム『言わせてもらいますけどね!』で、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』を見ているとしたうえで、こう語っている。 

 

《僕は個人的には歴史は好き。歴史は知っておいた方がいいとは思っていて、なぜなら、人間は同じ過ちを犯すということを学べるから。鎌倉時代であれ室町時代であれ、どんな時代でも人間は権力に目がくらんで人を殺すんだとか、そういうことは現代においても人は殺さないにしても同じような構図のことはたくさん起きている。 

 

 歴史教育は改革していくことはあったとしても、歴史を知ることは止めなくてもいいのではないかと思う。歴史の勉強を嫌うという人の意見もわかるけど、なんか、嫌だなというか、ちょっともったいないなと思ってしまう。》 

 

 そのため、竹山が「古典は役に立ったことが1回もない」と発言したことに、SNSではこんな意見も。 

 

《いやまぁ確かに古文読まなくても歴史は追えるけど、歴史好きならわざわざ否定せんでも……その歴史を立証できるの、古文知識の延長線よ……?》 

 

《高校のとき古典は嫌いだったが、古典のおかげで今年の大河がおもしろいと思える。アイデンティティの一つだと思うよ》 

 

 放送中のNHK大河ドラマ『光る君へ』は、『源氏物語』を書き上げた紫式部の物語。まさに古典の世界だ。「はんにゃ」の金田哲や、「ロバート」の秋山竜次らお笑い芸人がハマり役として登場し、ドラマを盛り上げている。 

 

 番組を盛り上げるためだったとはいえ、竹山も、古典が嫌いな人に「もったいないな」ぐらいのアドバイスでよかった気がするが……。 

 

 

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(まとめ) 

意見は様々でしたが、古典や古典文学に対する考え方は、目の前の役に立つかどうかだけでなく、教養や礼儀作法、考える力などを身につけるための過程として捉える声も多かった。

古典に限らず、学問は将来の可能性を広げ、自己成長や他者とのコミュニケーション能力を高めるために重要だという意見が多く見られました。

「古典は自己成長や人生に役立つものづくりの一環」という捉え方が広く共有されているようです。

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・私は「逆上がり」ができてよかったことは人生で一度もありませんが、小学生の時に「逆上がり」の練習を必死でやったことは今でも覚えていますし、できた時の喜び、達成感は一生の宝物だと思っていますよ。それそのものの価値は薄くても、身につける過程で様々なものを学ぶという経験は誰にでもあると思います。勉強も同じようなものではないでしょうか? 

 

 

・古典に限らず学校で習って役にたってない学科はいくらでもある。極端な話しが掛け算の九九を言えなくても生きていける。三角関数も普通は使わない、化学記号も知らなくても支障はない。しかし学校の勉強は世の中で役立つことだけではなくて、頭のトレーニングなんだと思う。人は成長するには頭も体もそれなりぬ鍛える必要があると思う。その中から自分に合った道を選んでいくのだと思う。 

 

 

・古典や漢文は好きで、成績も良かったです。 

実は、この教科を担当していた先生が、とてもあでやかで、美しい先生だったからでした。その先生は、茶道や日本舞踊なども嗜んでいた様で、その立ち居振る舞いが、まるで、歴史の教科書から出てきたような先生に見えました。 

確かに、漢文については、それを、きっかけに、「三国志」とか孔子の教えなどは、哲学的考え方が、自分の人生には役に立っている事もある気がします。 

古文は、百人一首を全てとは言えないが、大体を記憶していたおかげで、「ちはやふる」と言うマンガを、深く、面白く没頭して読めました。 

アニメも、実写映画も、楽しめました。 

人生で役に立たないかと言えば・・・ 

子供達に、百人一首を知っていたおかげで、「尊敬」されました。 

教養には、ムダはないと思いますよ。 

これは、竹山さんにも言える事です。 

 

 

・日本では小学校から高校に至るまでに学校教育があるわけなのだが、古文漢文だけではなくて社会理科数学など人生に役立たないからやらないという選択は人生経験上よくないと思います。 

竹山さんは苦手だから古文は意味がないと言いたいでしょうが、それを乗り越えて克服して意味のあるものにした人もいるでしょうし、日本の文化を学べて有意義だった人もいると思います。 

古文じゃなくても?という人がいると思いますけど、どの分野にしても同じ事が言えると思います。 

全て意味があるかどうかは人それぞれだと思います。 

 

 

・知識というものは、受動的に役立つためにあるものではなく、能動的に役立てるためにあるものである。 

役立てるかどうかはその人の心がけ次第であり、沢山知識を蓄積していることで役立てるチャンスが増え、人生が豊かで楽しいものになる。 

その好例がタモリ氏であると思う。彼は豊かな知識で人生を楽しんでいる。 

 

 

・根本的な認識不足による問題だと思います。 

学校教育を初等・中等・高等教育と分類した時、中学高校は中等教育に分類されます。 

中等教育では、大学という「高等教育」を受けるにあたって必要な「基礎学習」をする場所である訳で、どの分野に進路を決めたとしても「最低限の基礎学習」は済んでいる!というレベルに達していなければ、高等教育を受ける事など出来る訳がありませんよね? 

勿論、中学高校の段階で明確に「自分の将来は医療系しかない!」「建築関係以外の仕事に就くつもりはない!」って人にとって古典の授業など無意味にしか感じないでしょうが、大半の学生さんは将来を模索中なのでは? 

様々なジャンルの基礎を学ぶ事が、様々なジャンルに進む可能性を広げている訳で、可能性は沢山あった方が良いに決まっていますよね? 

自分に必要なものだけ勉強したいというのであれば、高校進学の必要性は特にないと思いますけどね? 

 

 

・役立つか役立たないか、あるいは役立たされるか役立たせないかはその人の人生や価値観によって変わってくるだろうとは思う。 

ただ個人的には古典とか昔の文章に触れるのは大好きだし、今とはまた違った価値観が書かれていたり、その時の時代背景を考えたりしてその文を見ると胸がアツくなる。確かに古典や漢文のような文法は今ではなかなか使わないかもしれないが、日本のこれまでの歴史の中に古典があったことを学ぶことは有意義だと思う。英語とか学ぶ前に、まず自国の言葉、日本語の文法や文化、歴史を基礎として学ぶのは必要だと思う。 

 

 

・古典や漢文は言葉の意味や文法を覚えることも必要だけど、ほとんどの場合は現在とは異なる価値観や時代背景で文章が書かれていることが多い。 

 

実際同じ国でも色んな価値観の人がいて、外国だとさらにその傾向は大きくなる。そういう状況でもコミュニケーションを取らないといけないから、単に外国語の文章上の意味は分かってもそのニュアンスを理解できないと誤解につながる可能性がある。 

 

全く価値観や背景が異なる文章の読解という点では現代文の読解とはまた違って、古典や漢文を学ぶ意味はあると思う。 

 

 

・学ぶということは役に立つかどうかだけで判断されるものではない。古典を学ぶことは母国語である日本語の成り立ちや文化を学ぶために大切なことだと高校の国語の先生がおっしゃられていたな。大学受験後理系に進んだこともあり、古典があまり役に立ったことはないけれど自分の知識として蓄積されたことは日本語を使っていく上で良かったと思う。 

 

 

・私は40数年前に、旧帝大理系を卒業した。 

入試科目には、現代文、古典、漢文、日本史、物理、化学、数学、 

英語があった。 

実際のところ、文系科目や数学を実際の仕事に活かすことは 

ほとんどなかった。しかし、物事を理解したりする上で、 

どの科目もある程度、勉強していたほうが良いと思う。 

 

実学だけが学問でもないし、やはり、知的興味と言う面は 

いくつになっても持ち続けるべきだと思う。 

 

 

 

・芸能の世界も古典から脈々と伝わってきた流れがある。お笑い芸人であればなおさら言葉を扱う職業、さらりとでも通っておけばそれがタレントの知性や品格に如実にあらわれる。勿論必要ないと言えばそうかも知れないが、着物の裏地に凝るみたいに、実際見えないところに中身が詰まっているかどうかはとても大切なことのように思う。 

 

 

・生きるために役立つことだけ学べばいい、という人もいると思います。昔から「微分積分は何にも役立たない」言われてきましたしね。 

でも、いろいろなことを学ぶことは、その人の心の引き出しを増やしたり、考える経験を増やしたりすると思います。心の引き出しや考える経験が多い方が、何かやろうと思う時の選択肢の多さにもつながると思います。 

 

 

・古文が外国語みたいな扱いになっちゃってるのが問題だと感じる。歴史ともう少し紐付けて、言語学的に、現代までの日本語の「変化」に着目すると非常に理解できるし楽しめるはず。 

例えば、上代日本語なんて言われる平安時代の日本語(我々が古文と聞いて思い浮かべるもの)と戦国時代の日本語も随分違うし、江戸時代と現代でもだいぶ違う。 

また、古文を習うときは現代的な発音で習うけど、そもそも当時は今と全く異なる発音をしていた、とかも習うと面白いはず。 

 

 

・約50年以上前に高校生でした。自分は理系で工学部に進みましたが、古文・漢文は入学試験の国語で出題もあり授業もまじめに受けていました。百人一首を覚えさせられ何度も試験がありました。今でも歌を諳んじられるし、歌の解釈の説明も一通りできます。古今和歌集か新古今和歌集のものかも区別が明確にできます。万葉集由来のものは勿論。 

理系でもあり、確かに特に何かに役立った覚えはありません。しかし作者の心情などに思いを馳せたり、色々心に残っています。恋の歌が多いですが、例えば、源実朝の心痛や追加任官式に落ちた人の悲哀など、今の世に通じるものもあります。自分の人生で言うと、若い頃に色んな人達に出会った思い出と同じく、一つの財産になっています。 

 

 

・その後の人生、職業によるよね。 

同級生や親戚からは、数学や物理なんて生きることに必要ない、などよく聞きますが、エンジニアである私は毎日数学物理使ってますよ。ていうかそれが出来ないと仕事にならない。 

そんな私も、若い頃は国語なんて不要だとよく言っていたもんですが、今は自分の開発技術を人に説明したり記録に残すためには国語力が大事なのだと痛感しています。 

将来どの方面で活躍するか分からない学生たちだからこそ、全科目の履修が必要だと思いますね。 

 

 

・日本もイギリスやドイツのように12歳ぐらいで労働者用の学校と、大学進学者用の学校に分けて教育するなら、竹山氏の言うように、労働者階級には不要として古典を教科から外しても良いと思うよ。でも、海外に出て英語で海外の人たちとつきあう場合でも、古文・漢文などの古典の知識は教養として必要だと思う。 

 

 

・現在も触れることのできる古典は永きにわたって語り継がれ読み継がれ、多くの人に共感され何らかの影響を与えてきたものです。 

それは言い換えると、一種の普遍性を持っているということ。学校の授業を受動的に受けていただけの教養のない人間が、知った顔で言うものではない。いい歳した大人なんだから自分の知らない分野に対してもっと謙虚な姿勢を示してほしい。 

 

 

・教え方の問題なのかもね。 

大抵は読み方と単語の意味するものは何かというテスト主体の教え方になっているからだと思う。 

国語の長文読解が好きな人は、そもそもがその本なり題材の内容が好きだから好きなわけで 

数学好きな人はパズルのようにハマっていく公式と応用とかが好きなのだろうし 

古典や漢文は題材となる歴史書などが重要になると思う。 

読めることで広がる見識。 

これは英語にもつながること。 

もちろん好き嫌いが一番作用するけど、基本的に将来役に立たない勉強はないと思う。 

様々な話題についていける博識というのは人間関係を充実させる。 

古典や漢文も応用すれば中国語の構成に繋がっていたり、資料館にある貴重な歴史の資料などを見るときにも全く意味が分からないのとなんとなく分かるのとは別世界。 

大人になって子供がこれはどういう意味?を答えられるのもまた大切なこと。 

 

 

・歴史好きと、役に立つ立たないは別の話だと思いますが。 

役に立つ教科の方が少ないような気もします。 

古文漢文に限らず、歴史の授業だって、知っているから何なんだという時代も多々あるでしょう。 

限られた授業の枠の中で、一般的に役に立つ事が少ないであろう教科を削ることは、社会に出た際に役に立つ事が多いと思われる教科に比重を置くことができる点では、検討しても良い点だと思います。 

ただ、義務教育は、役に立つ立たないという損得だけの観点ではなく、教養という観点でみてはいかがでしょうかと思います。 

色んな子供たちが、様々なことを学ぶ中で、興味を持つ分野を発見する事はその子供の可能性を広げるきっかけになるやもしれません。 

仕事に役立つだとか損得なんて考えず、ただただ、教養を身につけることだけでいい年代だからこそ、役に立たない教科を学ぶチャンスなのかもしれないなと思いました。 

 

 

・学習科目は時代に合わせて変えていってもいい気がする。自分が大人になって、学校でプログラミングとか、投資とか、医学とか社会制度とかを教えてもらったらよかったと思ったりする。 

とはいえ学習科目として子どもの時に大人から与えられるものが「受験で出るか」とその先に「大人になって実益があるか」だけっていうのは子どもの興味や可能性の幅を狭めてしまう気もする。そもそも選択肢がないものから自分の興味のあるものを選べというのも難しいでしょう。 

 

 

 

・数年前から図書館でやってる古典の勉強会に参加しています。 

元高校の国語の先生だった方が教えてくれるのですが、古事記が終わって今は万葉集をやっています。 

 

元々古典は苦手だったのですが、神話に興味があって参加したのですが、言葉の成り立ちや当時の文化、風習など、高校の時に歴史と一緒に学べたらもっと面白かっただろうなと思います。 

 

役に断つか立たないかではく、知るって楽しいから勉強するんです。 

 

 

・大学で非常勤講師をしている者です。学生に「政治学や経済学は役に立つが歴史は役に立たない」と言われたことがあります。次の年の学生にはこう言いました。「歴史は役に立たないという人がいるが、そうではなく、歴史を役に立たせる力を身に着けてほしい」と。古典も同じことです。〝役に立つ〟学問(自然科学)でも使いようによっては人類を滅ぼしかねません。歴史や古典を有意に役に立たせる力とは、どう生きるか、どう判断するか、といった局面で過去の事例を引用でき、目の前の判断に活かせるかどうかです。 

 

 

・文字を読める、書けるというのは学問の基本だから教養として知っておくのは大事。論文なども英語から直接情報を取れる人は翻訳されたものしか読めない人に比べて知識の速さと精度が段違いになる。同じように古典や漢文も直接読み書きできる方がニュアンスが掴めるようになったり想像しやすくなる。活かせる場面は少なくても大昔の人の書き残したものを読解できるというのはすごいことだし絶やしちゃいけない能力でしょう。 

 

 

・役に立つか立たないかで言えば役には立たないかもしれないが、確実に自分の引き出しは増えていく。私は文系で古典が好きだったので文学部に進んで平安時代の作品をテーマに卒論を書いた。就職にも家庭生活にも役には立たないが学んだことは後悔していない。学ぶ事は損得勘定で語れる物ではないし、せっかくの学びの機会を若人達には大切にして欲しいと思う。 

 

 

・学問は自分で何かを生み出すためのツールなので、使う機会がなければ役に立つと実感することはない。わかりやすく例えるなら、他の人があらかじめ食べやすいように調理してくれたものだけを食べて生きていくなら調理器具は必要ない。確かに分業が当たり前のことになっている現代では消費者の立場を貫くことができるかもしれない。 

 

だが仮に、調理器具があるということを全く知らなかったらどうだろう?美味しい物は食べられるけれど、どうやって作られたか全く想像できないということになる。それって冷静になると結構不安じゃないか? 

 

いろんなことを勉強することで、世の中のことを完全にわかることはできなくても、みんな頑張って上手くいってるんだなと信じるための材料が増える。それによって自分がやるべきことに安心して集中できる。つまり、使わなくても実は役に立っている。それに気づきにくいだけなのだ。 

 

 

・確かに役には立っていない。 

ただ、私も40くらいになりますけれど、鎌倉や京都を訪れたときに歴史で習ったものを間近でみると感動はあります。10代、20代ではそこまで思わなかったかもしれませんw 

海外で訪れたときに歴史背景が分かってると、その土地の面白さはもっと深くなるかもしれませんね。 

 

ただ、どの強化のどの知識がどこでいきるかは分かりませんから、ある程度広く子供のころに学んでいくのはいいのではないでしょうか。 

 

 

・なるほど、賛否両論の意見からまとめると古典は専門スキルと考えるとよい。 

古い書物はいまや翻訳されて誰でも読める。 

しかし翻訳するには古典を知っていないといけない。つまり翻訳や歴史の仕事に関わる人だけが必要となるスキルという事ですね。 

結論、一般的には役に立たない。 

 

実は高校レベルで習う事も一部は生活に必要でないモノも多い。必要になった時はネットで簡単に知識を得られる時代なので、わざわざ高校で全部学んでから社会人スタート、というわけでもない。 

 

車の運転やスマホの操作を学ぶにあたり、内部の電子機構まで把握する人なん 

てそうそういません。全部知る必要はないというのが現実ですね。 

 

 

・ひらがな、カタカナ、漢字、すべて文化で、文化の趣を味わうツールである古典に幼少期から触れることで未来の国語学者、文学者が生まれてる。 

自分も古典は苦手だったけど、そういう素養があるからこそ、大人になって萌えに気づく機会も多いと思う。 

高知の偉人坂本龍馬だって教科書から省かれたら、若い子は龍馬の志に触れる機会がまるまる無くなるので、幕末のロマンに触れる機会がガッツリ減らされる。 

なんでも役に立つ、立たないで選別する人はさみしい人生を送りそう。最終的に人間にもその理屈を突きつけてきそう。 

 

 

・数学だって中学までのは必要な時もあるけど 

高校の数学が役に立つような高度なことしてない。三角形の面積や円周はたまには必要だけど 

一般人に微分積分は必要ない。三角関数はごくたまに必要かもしれないかなあ。 

結局、その道に進む人や、それに興味を持つ人には必要なんだけど、高校生じゃ、まだ進路や興味が、固まっていないからみんなが勉強するんだと思うけど。 

理系の大学に古文の試験は必要ないとは思う。 

 

 

・今の時代で役に立つ立たないではなく、古典を面白いと思い専門のその道に進むきっかけの為にあると思う。そして新たな発見があるかもしれない。それはどんな教科でも一緒で、きっかけを作るための勉強だと思う。 

 

 

 

・勉強は必須と選択があって良いと思う。古典は大学入試の必須科目なので、実質的に必須になる。 

 

古典を勉強するのは自由だが、選択制で好きな人が学べば良い。 

 

必須のものは実務的なものや国の競争力を向上させるものを中心にして欲しい。 

 

古典、漢文、高度な数学より、公民・経済・保健などをしっかり学んだ方が良いと思う。 

 

 

・古典は、そろそろ芸術科目にしても良いかもしれない。 

必要無いわけではないけど、多くの子どもにとって優先順位としてはそんなに高くには来ないでしょうし・・・ 

理系に行くなら古典勉強する時間あるなら、理科三科目四科目やった方が絶対役には立つ。 

もしくは文系科目にこだわるなら社会二個とか。 

 

文系(古典専攻する人以外)なら古典やるくらいなら、二次で社会ニ科目必須とか数学必須とかにする方が役立つ人は多いと思う。 

 

古典が要らない訳じゃないけど、時間は有限な事考えると・・・ 

個人的には(理系なのに)漢文は得意で好きだったから全く苦ではなかったけど、 

 

 

・これは、数学でもよく言われること 

受験までの勉強は、次のステップの基本。 

だから、次に進まない人には関係なく思えますが、 

次のステップを楽しむのは、実は人生をかけるくらい楽しい  

古典や漢文、原典や、それに近いものに触れると歴史上の人物がドラマ以上に身近になりますしね 

音楽家やバレエダンサーもそうかもしれません 

使わない、使ったことない、は、いろいろもったいないのは確かです 

 

 

・文学自体はいいと思う。 

それは知識教養とか情緒とか感性を磨くものだから。 

ただ、文法の五段活用とかはなくてもよかったかもなぁ。 

あれは大人になってから使わないし、自身は教師だったから、五段活用も子供たちに教えたけど、これを覚えて何の意味があるのかなぁって思ってた。 

大学受験のためなんですよね。 

ほんとに国文学科に行って、古典文学専攻とかにでもならない限り、文法とかは一般の人はやらなくていい気がします。 

 

 

・学生時代に勉強したことで、目に見えて役に立ったこと、立たなかったことを並べてみれば、役に立たなかったと思えることの方が多いのではないか。しかし、その役に立たなかったことをもし勉強しなかったら、今の自分はどんなだったろう。もう少し違う自分だったのかも知れない。 

自分の浅はかな知恵で目先で役立つだろうことだけを選んで、それ以外のことを何も知らずにいたら、それは知性と言えるのだろうか。科学的に必要とされる栄養素だけを毎日サプリで摂取して生きていて、そんな人生が楽しいだろうか。 

本当に無意味なことであれば、長い歴史の洗礼を乗り越えて遺り続けるとはあまり考えられない。少なくとも、自分の浅はかな知恵よりは信頼できると思う。そもそも学んだことに意味を与えるのは自分自身である。客観的事実としてはっきり言えるのは、少なくともお金儲けのためには何の役にも立たなかった、ということぐらいのことだと思う。 

 

 

・高校大学時代、同じ発想でした。 

 

古文漢文なんて役に立たないし、英語数学に時間割いた方が余程マシだと 

 

難関校や共通テストの古文漢文、いま再度見返すと、論理的分析だけでなく、長年培われた情緒的な心理的分析も問われていることに気付きました。 

 

論理的分析による最適解を求めるなら、近い将来、人間はAIに抜かれてしまうと思いますが、心理的分析による最適解を求めるには、恐らく、そう短期間では人間の知性を追い抜かれないと思います。 

 

古文漢文、また小説文は、AIが卓越する時代こそ、AIが追い付けず、かつ必要不可欠な心理的分析に大いに役立つと思います。 

 

 

・大丈夫です。竹山さんが気づかないだけで古典はちゃんと役に立っています。例えば古文の格助詞を覚える時に「こんなの絶対役に立たないよ」って思いながらもその授業を乗り越えさらに役立たないと思いながらも中間、期末テストのために勉強したと思います。 

それが忍耐力という武器になり後に偉そうな先輩、上司などの毒にも薬にもならないお説教、お小言を耐えて凌いで乗り越える礎になってますから、役に立ってますよ 

 

 

・高校までの学習を役に立つかどうかで議論してもほとんどが役に立たないものになる。 

古典や数学は考える力を身につけるためのツールとして捉えた方がいい。 

考える力を身につけるのにどの科目のどの単元が向いているかは人それぞれなので普通科に入ったのであれば古典もやって然るべき。 

 

 

・古典って、授業でやるのは高校以降ですよね。 

ついつい忘れがちになるけど、そもそも高校とか大学って義務教育でなく「お金払ってでも勉強したい人がいくところ」だからな。生活には直接必要のない知識かもしれないが、教養としてプラスアルファで学びたいと思う人が進学するという前提であれば、所謂「一生生活には使わない知識」がカリキュラムにあったとしても不思議ではない。 

確かに実態として高校への進学率は9割を超えていて、必ずしも特別知識欲のある人がいくところてはなくなっているが、それは進学する側の意識がズレてきてしまっているからであって、それで高校本来の存在意義が揺らぐのは本末転倒。 

要は、古典でも数学でもいやならやらなきゃ(高校行かなきゃ)いいだけ。でも高卒の身分が欲しいなら割り切って勉強しとけ。 

 

 

・役に立つかはその人がその後どういう人生を歩むか次第で、古典に限らずたくさんのものが人生で役立っていないのは事実。 

ただ、だからそれが無駄かと言うとそうではなく、学生時代の勉強はまだ何に興味をもつか、どんなポテンシャルがあるかわからない子どもたちの可能性を広げるために行っているものであり、それで役立つものが出てくれば有益に活用すればいいし、いらないとわかればそれもまた学びだ。 

 

 

 

・「役に立っていない」と言えるのは知識を持っているからこそ。 

今後役に立つ可能性もある。 

逆に知識がなければ役に立つ時は永遠に訪れない。 

なので古典に限らず知識は持っていて損はない。 

 

競争の最前線にいれば役に立つ知識は皆が持っている。 

そこから頭一つ抜け出すヒントは意外と役に立たない知識の中にあったりする。 

「できる人」は知識を化学反応させて新たな知恵を生み出すのが上手い。 

 

 

・「古典は人生で役に立たない」というステレオタイプの発想をする前に、今まで勉強した全ての科目について、役に立っているかもう一度検証してみたらどうでしょう。例えば、物理や地学は生きていくのに役立っていますか? 私は高校の頃物理に苦労しましたが、直接役立ったとは感じません。でも、物理をやらなければよかったとは全く思っていません。また、「役に立たない」といって、自国の文化に基礎知識も関心を持たない人が増えていったら、やはり寂しいと思います。 

 

 

・世の中で教養がもてはやされますが、教養は、具体的に何かの目的との関係で役に立つか分からないけど、身につけたことが意外なところで役立つものだと思います。 

 

例えば理系の人は、漢文は役に立たないから、受験科目から外すべきなどと言われたりもしますが、全く別の分野でヒントになることもあるはずです。 

 

実際、ノーベル賞を受賞した湯川博士は、現在の科目でいうところの倫理で学ぶ老子・荘子の思想をヒントに研究のアイディアを見つけました。 

 

著名なアメリカの企業の経営者たちも、ギリシャ哲学やペロポネソス戦争記といった古典を現在を理解するスキーマの1つとしています。 

 

そういう分野という概念を超えて考えられる人間にとって、教養は大切な財産だと思います。 

 

教養の対象とする内容が本人に役立つかどうかは、そういう既成概念を超えた新しいものを生み出す活動をしているかどうかが1つのポイントになると思います。 

 

 

・確かに殆どの人にとって、その後の人生に直接的に役に立つ事はなく、 

無駄と言えば無駄なのかもしれないね。 

 

例えば、水泳とかも殆どの人にとって泳げなくても問題はなく泳げるようになる努力もしなくて良いのかもしれない。 

 

学校の勉強が苦手な人でも体育が得意な人、古典が得意な人にとってはそれで自信に繋がったりするし、 

出来ない事を努力して出来るようになったっていう成功体験の積み重ねが自信に繋がっていたりするはずだし、 

今の自分の人格形成の一部になっているんじゃないのかな… 

 

一見無駄で意味のない事のように思える事でも 

本当に何の意味もなく無駄な事ってないような気がするよ。 

 

 

・学校で色々な科目、色々な授業の種類があるのは、将来に向けて、より多くの選択肢を持たせるためだと思います。役に立つとか、役に立たたないとか、知っていることが、知らないことに勝っているとは思えません。竹山さんも知らなければ古典のことを嫌いになったりしないでしょうし、もし好きになっていたら古典文学の道に進んでいたかもしれません。個人の意見に他人が”違和感”覚えてもって思いますけど。 

 

 

・文献として見る古典(漢文)は殆ど現代語訳されてるから、確かにそのまんまの古典を習う必要があるのかと言われれば、確かにないかなと。勉強してきた皆も、歴史資料館に行って、何となく雰囲気程度読めるかなってレベルだと思うんだよね。だったら読み方とかの勉強に時間をかけるより、内容や時代背景の勉強に時間をかけるべきだと私も共感します。学問としては必要でも、中学生からの授業には要らないと思います。 

 

 

・わたしは古典も好き。漢文も面白い。 

 

ただ要は「教育課程の中における優先順位」って話なんじゃないかな 

今の生徒たちはとかく忙しい 

情報の流通量も以前とは比較にならない 

その中で、古典や漢文を学ぶ時間を多くとる必要があるのかなと 

 

もちろんこれらは含蓄に富んでいたり、素晴らしいものなのだけど、 

現代社会にはもっと他に学ぶべきものがある 

ネットリテラシー教育や、コンプラ議論の深化など、日々刻々と変化する 

世の中の対応が「より」必要なんじゃないかな 

 

そう考えると、どうしても優先順位は下がってしまうし、残念ながら 

優先順位を下げるべきだと私は思う 

 

現代文の課程の一つとして古文漢文の時間を若干とって、興味を持った 

学生が研究を深めていく・・・というのが良いと思う 

 

 

・この年になって思うのは、学生時代の勉強って直接役立つことは少い。が、思考を深めることに物凄く役立ってるということ。 

 

例えば数学の因数分解も様々な公式も、実生活で使うことはまずない。が、解答を求めるためにあらゆる面から物事を考察すること、手段を考えること、いかに速やかに論理的に解へたどり着くか。そういう思考力の訓練だったんだなーと思うようになった。 

 

国語のよくある「作者は何を言いたいのか、100字以内で書け」ってのも、作者の気持ちなんて分かるか、問題出した人がどう答えてほしいかじゃん!と思ってたけど、相手がどういう考えを持っているか、を推察する能力を高めるために役立つ。 

 

古典も、今となっては難解な古語がどう組み立てられ、その言葉でいかに古人が思考していたか、それを考えることは現代にも通じる推察力だと思う。 

こう思うようになったのは40過ぎてから。 

もっと勉強しとけばよかったと思うよ。 

 

 

・私は竹山さんよりほんの少しだけ年下ですが、50を超えて古文や漢文にひかれるようになりました。とくに高校の時は大嫌いだった漢詩については、もう一度学び直したいとも思っています。若い時には無意味に思えても、年を重ねると次第にその重要さがわかるようになるものもあります。そもそも、役に立つか立たないかでは、学問の価値ははかれないように思います。 

 

 

・人生で使える時間は有限だから投入した時間コスト比のリターンの高い知識を優先すべき 

という大前提を置くと、古典はかなり優先順位が低い知識と考えられる 

ITやプログラミング、PC等のハードウェア、税制、申告に関する知識の方が仕事に直結し即時的な利益につながるため圧倒的にタイムパフォーマンスが良い 

無駄に思える知識でも知っておく事で視野が広がるという考えの元に古典を教えているけど、有益な知識を習得しても同様に視野が広がるのでできるだけ有益性の高い知識を優先させた方が良い 

 

 

 

・古文は赤点でしたね。すらすら出来るなら古書の原文を読めるのだろうけど、私にとっては敷居がかなり高いですね。草書体など崩した書体だとさらに敷居が高くなりますね。役に立つというのも何に役に立つかというところで和歌とか記憶にあって「知っている」のを役に立つというのか、仕事で利用することを役に立つというのか、まあ、どちらもありでしょうけど実務というのならほぼ皆役に立っていないかと。 

 

 

・大人になって特定の分野の勉強が仕事に直結しないことはあるけど、学生のうちは可能性の塊なんだから、何でも学べばいいし、そこから始まることもある。学生と大人では状況が違うんだから、もちろん笑いのためのコメントだと思うけど、この辺はちゃんとおさえてほしい。 

 

 

・そこまで役には立っていないと思うが,直接会話もできない昔の人が同じ気持ちを共有していると知った時には感動した。自分が人類の歴史から切り離された孤独な存在ではなく,みんなも同じ感性を共有しているんだと。人生のほんの一時期学ぶ機会があっても損にはならないと思う。 

 

 

・ただ単に役に立つ立たないで言うならば、ほとんど学校の授業なんていらないから職業訓練の学校にしろというはなしになるのでしょうね。 

愚かな話だと思います。 

 

パンのみにて生きるにあらず 

人を人たらしめているものは 

文化、芸術その他の生きていくために必要なもの以外の無駄なもの。 

無駄に見えるけれど、それこそが生きがいってもの沢山ありますし、 

それをより良く選ぶためには先人のことを知る必要があります。 

 

 

・確かに漢文はよその国の事で、しかも太古の昔の事。 

だから勉強する必要ないような気がしないでもない。 

日本の成り立ちには東洋文化が大きな基になっているし、 

漢字を使う国民として漢文を勉強するというのはわかってはいるけども。 

学生時代も親近感や学習する意義を感じにくくて、学習意欲が湧かなかった。 

今となっても英語などの今に活きる外国語を勉強した方が有意義だと思ってしまう。 

 

 

・私も授業で習う古典はあまり面白くなかった。でも、松尾芭蕉、吉田兼好、清少納言らは分かりやすかったし、無駄とは全く思わなかった。彼らのことは大人になって調べてみようと思っていた。そして、何十年か経過し、奥の細道を読み返してみたり、様々な古典を読んできた。これが学校で習ったからか、それとも本屋で見たり、テレビの教養番組らの影響かは、よくわからない。興味がある時期は人それぞれ。古典はもう少し大人になり、国文学が本格的に好きになってからでも良いかもしれないが、好きにならない人は出会う機会がないだろう。大人になって、松尾芭蕉や清少納言らを全く聞いたことがない、知らないのは、日本人的にちょっとまずい気もするのだ。というわけで、学校で古典を少しは学んだ方が良いかもしれない 

 

 

・自分の人生に役立つかの話で言えば義務教育の範囲内での話で、古文を始めとしていくつか不要と感じた物はあるし、逆に具体的な納税方法等、生きていく上で直ぐに必要になる事を義務教育で教育して欲しかったとも感じる。 

それ以上の教育では各々自分の興味や生活に必要な物を学べる体制があれば良いが、それを教える側の負担や環境等を考えれば即座に整えるのは難しいと思うが。 

ある人に役立たないからと行ってその学問が不要かと言われれば違うが、私が教育を受けた当時は優先順位が違うかなと感じた中に古文は有ったかなと考える。 

 

 

・意味があるかないかは本人しか分からない話なので、良くも悪くもないです。 

ただ、人前でわざわざ言う事か言わなくていい事を判断できる大人にはならないといけないと思います。 

例えば、テレビで若い人のタメ口に意見するのであれば、自分自身が尊敬語、謙譲語、丁寧語を正しく使わないといけないし、これは古典の勉強に通じる所ではあります。 

 

 

・私は歴史が何の役に立つのか分からないと思っている人間です。って言うか、そもそもいま習っていることは本当の事なのか?って疑いながら勉強してたし。 

ちゃんと古文書に書いてあるとか言っても、それが本当の事なのか執筆者の創作なのかも分からないし、何千年前の地層から出てきたから何千年前の物とか言うのもいまいち信用できない。 

誰かが掘り出した物を埋めていたとしたら時代が狂うし。 

その点、古典はそもそも創作物だから「へぇ、昔の人も接しやすい人はすぐに仲良くなれるけど簡単に離れて行くとか思ってたんだ」とか面白いことが書いてある。 

 

 

・古典が好きなら古典に意味があると思える 

体育が好きなら体育に意味があると思える 

数学が好きなら数学に意味があると思える 

勉強が好きなら勉強に意味があると思える 

 

結局、この方の言っていることもそうですけど、無駄かどうかなんて自分の価値観によりますよね。私は体育が嫌いなので意味が無いと思ってます。嫌いだから、体育の嫌なところしか思いつきません。この方も学生時代の古典の授業に特に深い思い出がないんじゃないですかね。 

心の中で思うのは自由ですが、わざわざ人が見るような公の場で、声を大にして言う必要はあったのでしょうか。いくら言論の自由と言えど、日本の文化や先代が築いた歴史を軽視することになるのでは? 

 

 

 

・役にたつ立たないよりは日本人としての教養とか日常会話の深みとかだと思うんだけど。 

他の教科も、役に立つかどうかは学んでいる時に判断するのでは無くその後の進路や職業でも変わるし人によって何が役にたつかは変わると思うんだよね。 

だから十把一絡げに役に立たない、で片付けて良いモノでは無いと思うよ。 

 

 

・仕事の取引先で会った偉い人が能の舞台が好きとのことで自分が読んだことのある本の作者と作品の名前をポロッと出したところ、自分と話したがってくださり、契約がまとまり以降お付き合いが続いています。割と今生きているおじいちゃんらとのコミュケーションに役立ったりします。ゲームやマンガや小説で中国と日本の古典を知ってたりするとそういうことがあります。古典の読み方は必要かどうかわかりませんが、古典は役立ちます 

 

 

・結局、学校の勉強が役立つかどうかはその人の進路や生き方次第でしょ。数学を全く使わずに仕事や生活をしている人もいれば業種によっては当然必要だったりするし、また希望する職業になるのに資格が必要でその受験資格に高卒や大卒の学歴が必要とされているのならその勉強は夢を叶えるために必要なものとなる。 

また役に立つ、立たないは仕事面だけではなく、趣味や興味に関することでその人の人生を豊かにするものもある。今回の古典もそうだし、音楽や家庭科だって仮に仕事に繋がらなくたって生活を豊かにするきっかけや基礎になるかもしれない。 

最後に一つ加えると自分にとって役に立たないからといって全ての人の役に立たないわけではない。 

 

 

・漢文は中国文化で面白くなかったけど読むに中国語の意味が少しだけ解るのでその意味ではよかったかな。 

古文は、日本を知る上でロマンあり好きでした。万葉集はセンス光りまくり。 

世界最古の女流作家が残した作品を読めば、自由の国な事はわかりますし、当時、それを楽しみに読む女性がいたのを想像しながら読むとワクワクします。 

昔も今も文学は日本が一番ですね。その他も文化は日本が抜き出てますね 

 

 

・脳科学の先生が言っていたけど、脳の仕組みとして、脳は応用を利かせるのが得意なので、一見無駄に思える出来事や、知識、体験、経験も後々役に立つ事が多いと言っていた。 

特に学校の勉強なんて、本来自分の興味のない事をやらされる事も多いので、それらが返って脳の領域を広げているのだとか。 

一見無駄に思える事は無駄ではないのは、脳科学的には正しいらしい。 

 

 

・今の大河の「光る君へ」は完全に古典を知らないと難しいものだし、日本史の 

特に奈良から平安を経て鎌倉に至るまでの時代の補完として役に立っている。 

 

歴史好きは大河の傾向を見ても戦国や幕末など武家社会の時代が中心になるが 

だからと言って古典で習う貴族社会の時代が苦手という事もないだろう。 

 

また漢文にしても中国語を習うなら基礎的な知識になるので結局は役に立つ。 

歴史好きでも古文書を解読する上級者コースなら必要ではないだろうか? 

 

 

・たしかに役に立たないかもしれないけど、いつどこで興味を持ったり役立つかはわからないから中学高校の授業くらいは真面目にやっておいて損はない。 

家庭科の裁縫の授業も、別に既製品買えばいいと思ってボーっとしてたけど、ひょんなことからハンドメイドが好きになり真面目に授業受けておけば良かったな〜と思う。家庭科以外でも大人になると学校教育って真面目に受けておけば良かったと思うことが多いから不思議。 

 

 

・教養・知識としていわゆる古典文学などの内容・思想・世界観を学ぶのは意義があると思うけれど現代日本語の文法も怪しい人が多い昨今、古典の文法や単語を暗記して原典で読もうとする授業に意味はないと言う考え方はありだと思う。 

 

 

・それだけ日本には人生の選択肢があるという証拠。他の国だと古典が役に立つのかと問う前にそもそも古典を学べる機会が無いとか古典そのものが無かったりする。触れる機会があってそれを学ぶとか、長い人生の中で自分の知識欲の一つにしていくとかそういう事が出来る社会だから言える言葉が竹山氏のそれ。自分の判断で要らないと選択できる社会は選択肢が豊富にあるからこそ言える事。 

 

 

・古典にギャル語訳が付いてれば変わったかも。内容を主に学習していれば知識として蓄積しても意味があったかも。 

微分積分はどこで使うの?式の形で問題が出されるから使いどころが判りません。問題文から答えを導き出すとき何を使うかで微分を選択できるのが理想です。「微分ってどうやるんだっけ」で、やりかたを調べることが可能です。日常生活で式の形で問題は提起されません。 

 

 

 

・飛鳥の万葉仮名からカナ文字を経て漢字かな交じり文に至るまで、日本語は変化しながら連綿と続いていて、その中で古いことばが方言として残ってきました※。 

ですから、九州や東北など京から遠い地方には古語と呼べる方言が今も息づいていますし、それとは知らずに使っている古語もあるわけです。 

※柳田国男『蝸牛考』 

 

芥川賞作家又吉さんが私淑する芥川などの明治大正期の文豪の作品も、古典を底本にしたものがあるように、現代のカウンターカルチャーにも日本や中国や欧州の古典を底にした作品が山のようにあります。 

 

即それが役に立つかどうかはともあれ、基礎研究と同じくそこを疎かにすると応用のステージに立てないという意味では、古典は文化の継承に役に立っているわけで、自分が興味のないことを役に立たないと言い換えることは大人げないと思います。 

 

 

・こういうのって教わった人にもよる気もするな。科目そのものの興味の有無もあるけど、先生が面白かった授業の科目は社会人になってかなり経った今でも思い出す。 

古典作品が1000年以上にも渡って読み続けられていて、今の現代文化に影響を与えていることはすごいことだと思うのよ。 

 

 

・遥か昔の高校生の頃、自分が使っていた古典の参考書だったと思いますが当時東工大だったかの教授の小西甚一先生の若者向け文章の中にこういうのがありました。「君達の多くはこれから科学技術や法律経済の分野で活躍する人材になるだろう。是非そうなって欲しい。その仕事をする大人になって、特に40歳50歳以上になって人と人の間で仕事をする頃、今は学ぶ意味が分からないだろう古典が君たちを重厚にし肥やしになっていてより円滑に進められると確信している。それが教養の意味だ。」というようなものがありました。 

自分はたいして大きな人間にはなれませんでしたが、若い頃身に付けた諸々の知識や思考は確かに自分の仕事や対人関係に役立っていたように思います。 

 

 

・先日、竹取物語を解説してくれるYOUTUBE に出会いました。その時の貴族の背景から、裏に隠された意味が込められている事を知り、とても賢く教養が必要な物語である事を初めて知りました。京都弁の裏の意味よりも奥深く、また、現代人に近い思想であったことが新鮮な驚きでした。 

 

全てを間に受けているわけではありませんが、学生の時にこの辺まで話をしてくれていたら、古典が現代に伝わる教養になるのになと思いました。 

私は少しづつですが、上記の機会を得て学び直している所です。 

 

 

・義務教育の小学校から中学校までに学習する内容全てを、実生活で役に立てられている人はいないだろう。一方、大学教育やその先の研究などは、ほぼ全ての分野において義務教育期間に学習した内容の延長線上にある。古典などと同様に『因数分解が何の役に立つのか』みたいな意見は多々見受けるが、この言葉は『私の人生において因数分解が役に立った機会は無かった』であり、つまり『因数分解を活用する方向に人生を進めなかった』でしかない。古典も漢文も同じ事。 

そもそも学校教育とはどのような才を持つか分からない子供という大地・畑に、学問や体育、芸術などといった才能の種をまく場であり、9割の畑で花が実らないからといって種をまく事をやめてしまえば、様々な才が芽生えなくなってしまう。逆に言えば、一部の子供の才能を開花させる事が出来れば9割無駄になっても良いのが教育の本質。竹山氏には古典や漢文の才が芽吹かなかったというだけの話。 

 

 

・学習を有益無益の視点だけで評価するのは、見識が狭い。 

 

私自身、古典は苦手で嫌いだったが、だからといって、時間の無駄遣いとは思わない。授業が無ければ、一生出会わなかっただろうから、苦手だったが良いきっかけだった。 

 

時々、古文をスラスラ読みこなす方を見ると、すごいな!と感心する。自分が苦労して身につかなかったのに、そこまで極めた努力に尊敬の気持ちで見てしまう。それは、私が苦手な体育や音楽でも同じ。敢えて苦労したから、極めた人の凄さに驚く。 

 

社会学者の古市氏の持論に乗ったのだろうが、社会学こそ無用。経済学のように利益を産まず、芸術のように感動も造らず、ただ他人を批評するのみ。 

 

論は心を顕すと云うから、社会学者の古市氏自身が無用だと怖れているのだろう。その批判の矛先を古典に向けただけの弱虫論理。 

世間に無用な学問は無い、得意不得意はあるけど、みな有用だ。 

 

 

・全員にとって役に立つ必要はないと思う。何に興味を持つか、何を職業にするかのきっかけが小中高時代に見付かる場合は少なくない。中には国文学の道に進もうと決心する人もいる訳だし、授業すら無くなったら、そういう人が出て来なくなるかもしれない。漢文は当時も面白かったし、あれはやっておくと中国語に出くわした時に役立つから、そこまで不要とは思わないですよ。 

 

 

・自分は理科を教えてますが、「布教者」と思っているところがあります。「蒸留なんて習っても使わなくない?」と言われたことがあり、「いやいや、石油が採れない日本は、どれだけ無駄なく蒸留でガソリンなどにするか命かけてるんだぞ?」と話しました。アルコールの蒸留で1滴1滴蒸留されるのを真剣に見ること見ること。 

 

学問は、人を幸せにするためにあることは、かの福澤諭吉が学問のすゝめで説いたところですが、古典・漢文についてもそうあるはずですので、布教者たる国語科教師がその魅力を伝えていってほしいと思います。 

 

 

・私も歴史好きだけど、古典は実際社会に出て役にたったことないな 

現国は好きだったし、得意だったけど、古典は意味がわからなすぎて、全然身にならなかった 

城の展示物を観てる時に古典をわかっていた方がいいと、コメントしてる方いますが、展示物には大抵現代文役がついてますし、古典わからずとも、楽しめます。それより、歴史的背景や歴史的道徳観が分かっていた方が楽しめますよ。それは古典じゃなく、現国的な歴史書でね。 

古典は学びたい人だけ学ぶ選択制科目でいいと思う 

 

 

・古典は1000年以上前の人たちが俺たち以上のどスケベなことを考えていたことを教えてくれた。脈々と受け継がれてきたHENTAI遺伝子に矜持を持てるようになった。今や世界のオタク文化…をけん引してると言っても良い。 

実生活では、暖かくなってきたら、春眠暁を覚えずですなぁ…と言いながらしみじみと茶をすすって古風さを醸し出したりしてみたり。愛猫の名前は睦月にしたし、俺はそこそこ影響受けてる。 

 

 

 

・古文漢文は文法を覚えるのが嫌だから古文漢文自体も嫌いというひとが高校時代結構いた。自分は古文漢文を読み解くのは謎解きの一種と思ったから意外と楽しかった。 

人生の役に立ったかと言われると具体的事例と明確な因果関係は説明できないし、「古文漢文を習わなかったら今の自分はいなかった」とこれまた因果関係を説明できない。ただ、もしかしたら無意識に役立ったのかもしれないし、人生を楽しむのに貢献していたのかもしれない。 

 

 

・欧米はラテン語を学ぶ。今は使わなくても文化の基礎だからだ。 

最近はコスパとか言ってすぐ役に立つものをスマホでググって表面的な事だけ知る。 

国や企業は手っ取り早く金になる事に投資し、基礎研究はおざなりだ。 

今はその方が有利だけど将来必ず行き詰まる。 

興味が持てないのは教え方が悪いからだ。 

実績を求められる予備校の先生やYouTubeなどは、実にわかりやすくコンパクトにまとめてある。 

歴史は暗記ではなく国や人類の未来を知るためのものだ。数学は計算の速さではなく論理的思考を学ぶものだ。 

なぜ学ぶのかを教えれば、人間の能力なんてほとんど変わらないから、驚くべきスピードで楽しく学べる。 

 

 

・祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり から始まる琵琶法師の語りは日本の文化であり、学生の時から大好きだった。今も諸行無常とおごれる者も久しからず、を日々感じている。竹山氏も歴史を本当に学ぶんであれば古典に触れる必要があるのに、ただの要略歴史者で史実を知ることだけが歴史教育ではない。 

 

 

・歴史は紆余曲折あり間違えだらけだけども、歴史を振り返るとこういう間違えがあって、こういう反省をしたかと。 

こういうふうに反省して、なんとかかんとか上手く行ったかと。 

でも、結局間違ったと、そういう経緯の中で、そうかと、考え方、やり方としてね、こう考える、こうやるのがどうも知恵あるやり方のようだな、と。 

もちろん、過去のことですから、状況は(当時と)今は違いますからね、過去をそのまんまに再現出来ないんだけども、(過去は)大いなる参考になるでしょう? 

あぁいうやり方はやり過ぎで、こういうやり方はちょっとね、臆病過ぎたと。『参考』にしてみんなで責任をもって、こう行こうという。 

やっぱり、歴史が残した普通、『伝統』と呼ばれるもの、歴史のwisdom(ウィズダム=知恵)、知恵と言えば、知恵は、いま進む道を正確には教えてはくれないけども、大きな参考材料になるな、といってみんなで議論をして 

 

 

・学校で学んだことは、教科もそれ以外も、無駄なものは一つもない。実際に役立ったもの、人生を豊かにしてくれたもの、気がつかなくても学校で学んだ「何か」を使って生きている。何より、「◯◯なんて無駄じゃーん」とか言わない賢さを身につけた。 

 

 

・高校のときは古文漢文苦手だった。テストの度にやだなあ、と。でもなぜか古語辞典や漢和辞典の付録ページは好きだった。 

衣冠束帯(文官・武官)、十二単、直衣(だったかな?)、狩衣といった当時の衣類、昔の武器や防具など。面白かったなあ。 

苦手だけど文章読めたら面白いだろうなあとは思う。役には立たないかもだけど、教養として覚えるのは至極結構と思う。 

 

歴史が好きなら古文漢文がリンクしてるのは当たり前なんだが・・・・ 

この人は上っ面だけなのかな。よく分からんけど。 

 

 

・古文は古典文学をを理解するために必要です。言語は文化と言えるので、古い日本語、古文を知らないと日本語をよりよく理解することができません。 

また中国や日本由来の故事成語があります。これらも古文や漢文からきています。今でも使うものが多くあります。 

古文、漢文がが全く役に立たないということはないと思いますが、いかがでしょうか? 

 

 

・「学ぶ事」に本来教科は無いと思います。 

 

 どんな学びも「良く生きる」為のものであり、教科はそれを様々な視点や角度からアプローチするものであって、今の教育事情で勝手に分けられたものですよね。時代が変われば教科の分け方も違うはず。でも、必ずそれぞれの教科は繋がりがありますね。 

 彼の物言いは、今の教育の問題点を浮かび上がらせてますね。受験の為だけの学習活動になってしまってる。 

 今の日本の学び方か問題有りなのではないでしょうか? 

 

 

・確かに日常使う機会はないですよね。日本の歴史に関する知識として知っておくことは必要と思いますが、教科として全員が勉強し採点される必要はないと思います。知りたい人は深く勉強すれば良いこと。 

数学云々言ってる方も多いですが、正確に知らなくても数学やプログラミングの概念を知っているかい否か生活していくうえで大きな差が生まれますよ。 

 

 

・私は母方の家系が江戸時代からの医者家系で、勉強を舐め切っていて、大学予備校までまともに勉強せず生きてきて、12年分の借金を抱え頭をかかえましたが、数学ⅡⅢは専門家以外必要ないんじゃないのか?とうんざりし、専門家以外必要ないだろ、と思いましたが、古文と漢文は読み終えると楽しかったですね。生物も面白かったです。結果、現在鍼灸師をしています。人それぞれですよね。 

 

 

 

 
 

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