( 144293 )  2024/02/29 14:56:42  
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モノの価格の上昇は一服したが、今後も乱高下し得る。日々の暮らしのために持続的な賃上げが不可欠だ(PHOTO BY KYODO NEWS/GETTYIMAGES) 

 

 世の中には「社会通念(ノルム)」というものがある。「こうあるべき」「こうあらねばならない」という人々の暗黙の了解であり、それらは時に(強力な)社会の規範にもなりうる。 

 

 日本社会でこれが典型的に表れていたものの一つが賃金と物価(の抑制)である。「賃金が上がらないのは当然だから我慢して働くべき」「企業はいいものを安く売るのが当たり前だから1円も値上げしてはならず、物価は据え置かれるべき」──。こうした人々が当たり前だと思っていた意識が昨今、急速に変化し、20年にもわたるデフレの時代から、インフレの時代への転換が本格的に始まろうとしている。 

 

 日本の物価は2022年の春から上昇し始め、22年末の消費者物価指数(CPI)は4%を記録した。消費者物価は食料品などの生活必需品に該当する「モノ」と、飲食やホテル、医療、娯楽、交通などに該当する「サービス」に大別される。 

 

 日本のインフレは海外から輸入した原材料やエネルギー価格の上昇が原因であり、企業がそれを価格転嫁したことでモノの価格が上昇した。輸入物価の上昇はすでに一服し、23年8月から9月をピークに少しずつインフレ率が下がり始めている。輸入物価の上昇は、果てしなく続くものではない。 

 

 一方、サービス価格も上昇している。サービスの原価は人件費の割合が高く「賃金の塊」とも言われており、輸入価格上昇による影響は限定的で、当初はそれほど伸びなかった。ただ、コロナ禍明けのインバウンドや国内旅行需要の増加によって、宿泊料金などのサービス価格は上昇しており、サービスのインフレ率はモノと同程度になっている。昨今の人手不足もあり、今後はじわじわと上昇していくだろう。 

 

 23年はインフレを起こす〝主役〟がモノからサービスに移行した年であり、今年はさらに顕在化し、インフレが緩やかに持続していくはずだ。 

 

 日本列島が「賃上げ」のニュースに沸いてから1年が経ち、今年も春季労使交渉(春闘)が本格化している。昨年の春闘では連合の集計で平均賃上げ率が3.58%と約30年ぶりの高い水準となった。消費者のインフレ予想や値上げに対する耐性は高まっており、今年の春闘でも大幅な賃上げの実現は既定路線である。 

 

 大企業の多くは原材料やエネルギー価格の高騰を価格転嫁し始めている。また、コロナ禍明けの決算も堅調であり、人件費の上昇分を十分に吸収できるため、大幅な賃上げをするはずだ。「安いニッポン」の賃金版のようだが、大企業の中には、「グローバルに見て日本の賃金が低すぎる」という問題認識がある。特に、若くて優秀な技術者を抱える企業では、海外企業との賃金格差から人材流出が進むという課題に直面している。賃金の大きな差を埋めるためにも、賃上げは今後も持続的なものになるだろう。 

 

 

 むしろ、変革が求められているのは、国内の雇用者数の7割を占める中小企業である。多くの中小企業はこれまで、大企業を相手に原材料のコスト増や人件費上昇分を価格に十分に転嫁できなかった。大企業側が交渉のテーブルにすら着かない場合もあったほどだ。 

 

 しかし、今年の春闘に向け、政府の旗振りの下、中小企業が価格転嫁しやすくなるような環境づくりが進められた。公正取引委員会は大企業と中小企業の悪質な取引を是正するための取り締まりを行っており、大企業の独断専行を防ぐ「抑止力」にもなっている。経団連は会員企業の取引慣行を改めさせるルールづくりを急いだ。これまで「価格は上げられない」と受け止めていた中小企業が「おかしいと言ってもいいのだ」と思えるようになり、ノルムがガラリと変わりつつある。正しい方向に向かっていると言えるだろう。 

 

 また、政府は昨夏、最低賃金の全国平均を30年代半ばまでに時給1500円まで引き上げるという目標を示した。中小企業の経営者は、それを念頭に先々の経営を考えることになる。実際に、今年の春闘でも、ある労働組合が「1500円」と書いたのぼり旗を掲げている光景が見られた。最低賃金が上昇する将来像を見せたことがテコとなり、中小企業の持続的な賃上げに寄与する可能性がある。 

 

 当然、物価が上がることに反対する勢力もいるだろう。例えば、年金生活者の中には、「物価が動かない社会の方が望ましい」と考える人も少なくない。また、中小企業の中にも「値上げしたら商売が成り立たない」と考えている企業がある。賃上げの原資を確保できず、「2年連続で賃上げしたのでこれ以上は難しい」と判断するケースも考えられる。 

 

 だが、今は、賃金も物価も硬直したままの「古い日本経済」から、好循環が成り立つような「新しい日本経済」に移行する過渡期にある。 

 

 確かに〝居残り組〟のノルムを変えることはそう簡単ではなく、時間もかかる。だからこそ、政府はその手助けを怠ってはいけない。 

 

 岸田文雄政権の大型経済対策には批判の声が多いが、私は〝居残り組〟を救い出すための政策としては非常に良い着眼点だったと見ている。前述の通り、22年来のインフレは原材料やエネルギーなどの輸入価格が上昇し、企業が価格転嫁することで発生した。言い換えれば、日本人の所得が海外に流出したことになる。外に逃げた所得を補填し可処分所得を上げることが目的であれば、定額減税や給付金には一定の効果がある。 

 

 問題は、政策の目的を国民に分かりやすく伝えられなかったことだ。「何をやっているかが分からない」「目先の内閣支持率を上げたいだけではないか」と感じる国民も少なくなかっただろう。この反省は今後に生かすべきだ。 

 

 日本の財政規律の再建は急務である。ましてや、選挙目当てのバラマキは言語道断だ。しかし、「賃金と物価の好循環」を定着させるためには、今後も濃淡をつけた「意義のある財政出動」を検討すべきである。マイナンバーの普及が拡大する今、全国民に一律ではなく、ターゲットを絞り重点的に減税や給付を行うことは可能なはずだ。中小企業についても価格転嫁の困難な先に絞り込んでピンポイントで支援することができるはずだ。 

 

 

WEDGE Online(ウェッジ・オンライン) 

 

 今年の春闘を経て、「賃金と物価の好循環」が実現する確度が高まれば、日銀のマイナス金利解除が現実味を帯びてくる。実際、日銀の関係者やエコノミストは、今年の前半には金融正常化に向かうと予想している。しかし、金利上昇がゼロ近傍にとどまるようでは、「異常」であることに変わりはない。急速な利上げは現実的ではないし、日銀も正常化後に物価と賃金の動向を丁寧に点検するだろう。その上で、金利も2%以上に上昇させていくロードマップを早々に打ち出すべきだ。 

 

 これまで賃金と物価をセットにして語ってきたが、本来のあるべき姿は、それらに金利も加えた「3点セット」が三つ巴となり、バランスがとれている状態だ。賃金・物価・金利が全て2%以上となることで、日本は賃金も物価も上がらず、金利もゼロという「異端の国」からようやく脱却し、「まともな国」になれる。 

 

 図は、世界の主要国について、各国の中央銀行が最も重視する金利である「政策金利」の高低を順位付けしたものだ。日本は00年以降、ほぼ一貫して最下位かその近くだ。日本がいかに異端だったかがよく分かる。 

 

 現代の日本人は「金利のある世界」を知らずに今日まで生きてきた。特に若い世代は、銀行預金や住宅ローンで超低金利以外の経験はほとんどないだろう。そのため、金利の上昇を不安視している人もいるかもしれない。しかし、この流れは不可逆的である。「金利ゼロ」という異常な状態には戻らないことを前提に、これからの日常生活を考え、これまでとは異なる家計管理のプランを立てる必要がある。 

 

 例えば、マイホームを購入する場合、今までは変動金利の住宅ローンを低利で組むことができたが、今後は金利上昇のリスクに無頓着ではいられない。今のうちに固定金利のローンへの借り換えを一考しておくべきであろう。 

 

 企業経営者も同様である。これまではゼロ金利の下で多額の資金調達を行い、設備投資できたが、今後はゼロ金利に戻らないことを前提にするべきだ。中小企業は労働生産性向上に真剣に取り組まなければならない。信用力の高い企業は低金利で資金調達でき、そうではない企業は少し高めの金利で資金調達せざるを得ないという競争原理が働く社会に戻る可能性がある。 

 

 金利が上がることへの人々の不安は根強いものがある。ただし、金利が上がっても、同時に賃金が上がっていけば、生活困窮に陥るリスクは低減される。賃金と物価が緩やかに上がる経済に移行し、それに伴って金利も上がるというのはごく自然なことだ。金利の上昇を災いのように受け止めるのは筋違いだ。金利の上昇は日本経済が正常化するプロセスで起こることと、前向きにとらえるべきだ。 

 

 労働者にとって、賃金が上がることは働く上でのモチベーション向上になる。また、企業にとっても価格を上げられる環境があれば、新しい商品開発や設備投資への強い動機付けにもなり、企業活力の向上と成長への源泉にもつながる。 

 

 今年の春闘はあくまで通過点に過ぎない。引き続き、いかに賃上げトレンドを持続させていくかを視野に入れるべきだ。そのためにも、消費者や中小企業が「物価が上がる社会」を受け入れ、その機運を国民全体で盛り上げていくことが求められている。(聞き手・構成/編集部 鈴木賢太郎) 

 

渡辺 努 

 

 

 
 

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