( 144320 ) 2024/02/29 15:25:22 2 00 古典の授業は「無駄」? SNSで議論白熱、あるタレントの発言きっかけにLASISA 2/29(木) 7:10 配信 https://news.yahoo.co.jp/articles/259c1c21539402f680831336d5a2eee270b3251b |
( 144323 ) 2024/02/29 15:25:22 0 00 古典の授業は「無駄」? SNSで議論白熱
SNSでは日々さまざまな議論が展開されています。2024年2月27日(火)頃から注目を集めているのは、「古典の授業は“無駄”か否か」。とあるお笑い芸人がテレビ番組で発言した内容がきっかけになりました。
【議論】「えっ…!」 これが『古典は無駄』派の意見です(画像10枚)
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お笑いタレントのカンニング竹山さんが同月25日(日)、23時30分から放送のTBSテレビ系のトーク番組に出演。その中で、「なくしたい無駄な時間」として古典の授業が挙がると竹山さんは共感。「古典が役に立ったと思ったことが1回もない」と見解を述べました。
この内容をスポーツ紙のウェブメディアが翌26日(月)に記事化し配信。それがX(旧ツイッター)に転載された27日(火)以降、X上で侃々諤々(かんかんがくがく)の議論が展開されるに至った――という流れです。
議論を追うと、「古典は無駄」に対して異議を唱える意見が優勢のようです。
・実用性は低くても知っていると楽しいことはある ・古典で「枕草子」を習ったからこそ「春は揚げ物」など語呂合わせを面白いと感じられる ・教養は役に立つというより人生を豊かにしてくれるもの ・“芸能”人にとっても古典はネタの宝庫なのでは? ・誰にも役立つことしか学ばなくなると世の中が殺伐としそう
など、役に立つか否かで判断する尺度を疑問視する声や、教養として身に付けているからこそ視野や視点が広がるといった意見が多く見られました。
一方で、「古典は無駄」について一定程度の理解を示すアカウントも少なくありません。
・「役立つかどうかでない」のは、どの教科も同じ。優先順位は付けるべきで、古典漢文は必修ではなく選択科目にする時期では ・現実的に授業時間が有限の中で「情報」などの履修科目が増えるなら必然的に何かを削らざるを得ない ・「春は揚げ物」が理解できる程度のメリットしかないなら廃止すべきでは?
また中には「どこまでが番組の台本か分からないし、さらにその一部を切り取ったネット記事だけを読んだだけで議論するのは危うい」と警鐘を鳴らすアカウントもあります。
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2024年現在、学習指導要領における高校国語の科目では、小説や古典、漢文を含む「言語文化」(2単位)は必修科目、「古典研究」(4単位)などは選択科目となっています。
あなたは、古典・漢文などの授業は無駄だと思いますか? 学ぶべき内容だと考えますか?
LASISA編集部
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( 144324 ) 2024/02/29 15:25:22 0 00 ・今まで役に立ったことがないから無駄なんて言ってたら、役に立つ教科は1つもなくなるんじゃなかろうか。 日常生活で物理を役立てたことがない人もいれば、美術なんて腹の足しにもならないと言う人もいる。 問題は将来使うかではない。 自分の好きなもの、向いているもの、興味を引くものの選択肢を広げるために必要かどうかだ。 たしかに少ない授業時間を受験対策や、将来役に立つ教科に振り分けるべきだという意見も一理ある。 でも何万人に一人でも興味が湧いて研究者になったり、新しい発見でもあれば、その授業は役に立たなかったとは言えない。 何でも自分基準で考えるのは視野が狭いと思う。
・教養としての古文漢文は必要だし 中高生にも教えるべきだとは思うけど 体育や音楽、美術などのように主要な受験科目からは外してほしい 受験科目にすることでどうしても文法中心の試験問題になり授業も文法中心になりがちで、面白みがなくなる 文法や解釈は学者に任せて、その中身に多く触れさせて当時の人々の気持ちや風習を教えることに主眼をおいてほしい
・自分は完全に文学系で、現文も古典も楽しんだ方なんだけど、確かに日常的に役に立っているかと言われると古典に関しては悩ましいところは確かにある。 けれどそれを言ってしまったら数学の「証明」とかも日常で役に立っているのか?と問われたら全く以て使う機会なんてないし、何のために習ったのか不明なものになる。少なくとも自分の生活の中では加減乗除があれば問題ない。 何が役立つか、或いは何を学んだことで楽しめるようになるかは当人次第なのではないかと思った。
・竹山さんは福岡県の御出身でしたね。 私は福岡に旅行した際は必ず太宰府天満宮へお参りに行くのですが、この時期咲いている飛梅を見て、高校時代に習った大鏡を思い出し、天神様の無念さに思いを馳せるのです。
学生時代には興味関心が無かったような事であっても、社会人になってから興味関心が芽生える事も往々にしてあるでしょうから、無駄か否かという尺度で判断するのは残念というか勿体無いと思います。 かく言う私は学生時代、「天満宮は学問の神様が祀られている」という理由で、自分で調べることもなく合格祈願のお参りをしていましたが、実は、菅原道真公が学問の神様であると同時に、復讐の神様でもある事を知ったのは、社会人数年目の事でした。
・古典は別の言語として学んでて楽しかった。特に古文は共感も強い。歴史方面からの情報と併せどんな時間軸で生きていたのか、イメージを膨らます事もできる。 しかし美術、音楽、書道のように選択制で良いと思う。不要だと決めつける必要もない。大人になってから興味が出てから学んでもいい。
日本は出稼ぎの国になっていく。他に必要なこともあるだろう。 学生が自分の人生を選択して生きていく学びが有ってよい。
外国人に日本のルーツを説明するのに必要だと力説される方が多数おられますが、外国人と仕事をしても十二単衣の説明をした事はないし、中世の話になったことは一度もない。 それより相手の宗教、人種、地理的歴史背景と風習は知っておくべきだ。
・古典に書かれていることは少し前の日本人が少し前の日本語で語ったことで、役に立つ立たないといった土台で考えるべきことではありません。災害の多い日本においては古典文学の記述こそが歴史的な無形の遺産ともなっていることは論を俟ちません。その読み方の初歩ぐらいは日本語の一環として学ぶべきです。
学校教育という有限のリソースの中で何を取捨選択するかはもちろん議論が必要ですが、土地の古典や文化、歴史といった過去のことを振り返る学問の類は、全員に役立つかという視点ではなく、全員が役立てうる人になっていた方がよいかという視点で考えた方がいいと考えています。
・自分が教わった古典の先生は、英語のグラマーのように文法を解説して翻訳していく方法だったのですが、たまに代理で来るベテラン先生は、もののあわれを高校生が興味を引く言葉で説明してくれて、先生によってこうも違うものかと感じました。古くからある町並みや観光地、海や山など、昔と変わらぬ風景を、カメラもない時代に読み手に伝える言葉はとても情緒があります。日本はサブカルが数多流行っていますが、古くから続くものも絶えず学んでいくのも、長い人生の楽しみになるかもしれません。英語は翻訳機にまかせればよいくらいの時代になったと思います。古語は、今あるものしかありませんから、歴史を学ぶように一般教養として続いていけばいいなと思います。興味を持たなければ社会人になってふれる機会もないままになる科目です。なくすのは簡単で、今度また教える人もいなくなってしまったら勿体ないと思います。
・子供の頃は、自分が何に興味を持つか、その中から何を目指すのかを探す期間。 触れる機会すらなければ、それが自分にとって興味のあるものか、さらには将来に役立つものか考えることもできない。 そのため一般的に有用度の高くないと思われる科目も一通りやった方が良い。 そういうのは義務教育までで良いのではという意見もあるかもしれないが、ある程度の知識があって初めて理解できるものもある。そう考えると、高校まではそのような機会があって良いと思う。
・古典が好きになると普通の小説の様に内容を楽しめる。昔から有名なものはやっぱり面白い。 日本の古典に興味が出ると海外の古典にも興味が湧く。日本の小説だって現在、昭和のものなら十分古典でしょう。 そういうものが読めると読めないじゃあ経験値に差がつく。精神面も成長する。 何かを読むというのは自分が経験しなくても他人の考えや感情を知ることのできる実にコスパのいい行動だと思うけどね。 実用書じゃなくても、本を読む、過去から蓄積されたものを読むというのは知識とか教養の基礎でしょ。
・知識と教養を身につけるのが豊かな人生を送るには大事だと思いますよ。 古典はどちらかというと教養の部分。 ものの見方、心の留め方等役立つと思います。もっとも、役立てることができるかも人それぞれ。 芸の道を極めるにも教養がないと浅薄なものになるんじゃないかな。 福岡出身のタモリさんなんて、言ってみれば無駄な教養の塊みたいな人。 でも、滲み出る教養が芸の根幹にあると思うし、説得力がある。無駄と切り捨てない姿勢が大事なんだなと思います。
・役立つか役立たないか、あるいは役立たせるか役立たせないかはその人の人生や価値観によって変わってくるだろうとは思う。 実際に数学でもその後の人生で使わないようなものがかなりあるけど、とある科学者とか一部の分野の方々には役立っていたりそういう方々によって科学が発展していったりもしてた。確かに古典や漢文のような文法は今ではなかなか使わないかもしれないが、日本のこれまでの歴史の中に古典があったことを学ぶことは有意義だと思う。英語とか学ぶ前に、まず自国の言葉、日本語の文法や文化、歴史を基礎として学ぶのは必要だと思う。
・自分の現在の生活に直結してないから要らない、は早計だとおもいます。
歴史に学べと言われるように、過去を知るには古文漢文は必須です。 これをするにはまず間口を広くしてまずは触れてもらわないと。
地域の身を守るための伝承なども古文の世界。 過去を知るのは無駄じゃ無いです。
いま手に取ってるスマホ含む、日常生活が便利になっているのは一部であれども「そこまでやらなくても生きていけるよ?」みたいな研究を積み重ねてくれた方々のおかげだと思います。
動物的に生きる為、生活に直結する事だけでいいと言うなら、小学校程度でなんとかなるんじゃないですか?
でも、それじゃ新しいものを創り出す人が育たなくて何も発展しなくなってしまうと思います。世界からどんどん遅れをとってしまいには…
・古典は、書き物だけしか無いのですが、自分としては当時の日本人が、どのような話し言葉で実際に会話していたのか?という方に興味があります。枕草子でも、では、実際に宮中ではどのような言葉で会話を交わしたのか?もう知るすべも全く無いのですが。古文でいうと和歌、俳句そのようなものは大切だと思います。
・外国語を学ぶ際に言われるのは、母国語の能力以上には決して上手くならないので、母国語のレベルをあげておくのが大事、というもの。 子供の頃から学校や個人で学ぶものは将来そうやって何かを成し遂げる為の器作りだと思う。色んな分野を平均的に知るという事は、それだけ丸く大きく深い立派な器になるって事かと。その中には誰よりもたくさん他の知識や物事が入る、知らない人よりすごい事が成し遂げられる可能性が出来るという事かと思ってます。 それを日本人に平均して教育を施してきたからこそ今の国力に繋がってるはずなので、他国にはない「無駄な教科」が違いを生んでるかもしれませんよ。
・役に立つか立たないかだけで言うなら、投資の勉強だったり交通ルール、マナーに関する事を学ぶ時間に何割かを当てても良い様に思う。交通ルール、マナーに関しては電動キックボードなんかは交通ルールを全く知らない状況で走り回ってる訳だし、投資に関しては世の中のお金の流れを学ぶ機会になるだろうし。ただ、古典を学ぶ機会を全く無くす事はどうかと思う。今の生活に直接は関係しなくても、日本人がどの様に生きてきたかを学ぶ機会は、少ない時間でも有った方が良い。
・学校の授業、大人になって役に立たないことの方が多いんじゃない? そもそも学校の授業って、読み書き計算が最低限出来るのが一番の目的で、あとは子どもたちの興味関心を広げるためにあるものだと思う。 古典は…確かに重要性は低いかもしれないけど、それに興味を持って専門的に学びたい・研究したいって子どもが一人でも育てば、社会的にはとても意味があると思う。 大人になって役に立たなくても、面白いと思える授業・学習なら、子どもたちの「その瞬間」にはすごく大切だとも思う。
・学ぶということは役に立つかどうかだけで判断されるものではない。古典を学ぶことは母国語である日本語の成り立ちや文化を学ぶために大切なことだと高校の国語の先生がおっしゃられていたな。大学受験後理系に進んだこともあり、古典があまり役に立ったことはないけれど自分の知識として蓄積されたことは日本語を使っていく上で良かったと思う。
・受験対策での古典はツラい方が多かったのが 正直なところですが、 それから解放されると面白さや発見もある。
1000年経って文明も全く違うのに、 人の愚痴や悩みは現代とほとんど変わらない。 どんなに科学が発展しようが、 人の思いは変わらないという事に ロマンを感じます。
本格的に古文書を読むとなると大変ですが、 日本人が繋いできた願いや悲しみ喜び等が 今にも伝わっているし 古典文学をきっかけとして古都を旅すれば より深く楽しむ事も出来ます。
古典は現代人にとって 難解なのは間違いないですが、 歴史を追体験出来るツールです。
そして日本語のルーツも解るのだけれど、 やっぱり歴史好きの 上級者向けなのかも知れない。
・古典を好きな方や勉強している方もいるの中で、わざわざ不特定大多数が見るところで「無駄」と言ってしまったのが悪かったと思う。 自分は勉強全般苦手だったし、両親がいなかったので現実を見ないといけないことやアルバイトで勉強に励む時間もなかったのもあり、高校は卒業と同時に調理師免許が取得できる公立へ進んだ。調理科は調理の授業が多く、栄養学や衛生学などがあるので普通の授業が少ないし、わたしにはぴったりでした。 大人になって歴史が好きな今の旦那と出会い結婚したら、歴史の奥深さを知ったし楽しいことも分かった。 無駄なことはない。
・古文や漢文が得意だった側の人間です。 こうした意見が出てくる背景には、文法中心の指導があると思います。 文法は古典を理解するための手段であって、目的ではないはずですが、記憶では(いわゆる進学校でも)時間の多くを文法に割いていたと思います。 グローバル化の時代、古典を学習する目的は伝統文化の理解のはずです。折しも大河ドラマで国風文化を取り上げていますが、当時の文章に触れることで理解できることは多いはずです。 ぜひ時間をそういった古典経由での理解に割いてほしいと思います。
・自分語りですが、初めて天橋立に行った時に小式部内侍の歌が自然と頭に浮かび、旅館の窓から降る雪を見ていたときは清少納言が簾をかかげたのもこんな気分だったのかな、と思いを馳せました。 真剣に勉強したのは高校までですが、その程度の知識だけでも京都に行ったり博物館で国宝や重文等の古文書を見ると今でもワクワクします。古文のおかげで人生が豊かになったのは間違いないです。
・古典はむかしの文学で文学は功利性をもとめるものではないので。でも昔の貴族の恋文をなんの批判的な目線もなく暗記させられるのが無味乾燥なのはそうなので時代背景とか歴史ともっと絡ませる国語と社会の融合学習とか外国には似たようなものはあるのかないのかとか日本人だから日本の伝統文化学べみたいなおしつけから一歩踏み出したことをやれば面白くなると思う。古典は国語の教師だけじゃなくて社会の教師にも教えさせたほうが面白い授業になる。
・学校の授業を職業訓練と捉えると古典いらないとかって話にもなっていくのだろうかね。 でも、もし海外の人と話をする環境になったら、自分は何者なのかっていうルーツとかアイデンティティーみたいなものを語れる事は必要だろう。 古典をちゃんと学べばちょっと深い所からそういうのを語れるようになると思う。 国際化するなら、古典はさらに重要になってもよい。
・どのように学ぶのかにもよるのではありませんか。 高校授業の多くは受験目的化していますが、実社会ではアニメや漫画に多く取り入れられています。言葉そのものは少ないかもしれませんがキャラクターや時代背景を理解するには大変役にたつのではないでしょうか。単に歴史を学ぶだけでは得られない楽しさがあると思います。
・古典の授業は、日本の文学の歴史や、伝記なら日本における実際の出来事の詳細に触れる授業でもあります。現代語訳は難しいですが、訳された文章が読める楽しさもあり、全くの無駄とは個人的には思いません。 それに、将来使うか否かを考慮すれば、全ての授業が無駄となり得るわけで、そんな考えを認めろと言うなら、高校以上ではある授業を無駄と感じたら授業を受けなくても構わないが代わりに赤点を付けて、それが複数の授業で溜まれば落第あるいは強制退学にする、それぐらいにしてもいいのでは考えます。
・無駄かどうかというより、何が必要かを考えたほうがいいと思う。英語が特に必要とされ、国語が減らされる流れが続いたけど、確実な即時翻訳ができるよになったので、簡単な日常会話習得くらいのカリキュラムで十分だし、その分、情報やら投資やらの授業を新設したり、国語なら読解力を身につけるための国語表現の単元数を増やしてもいい。ある程度は、学校ごとの裁量が認められてもいいと思う。ちなみに、無駄と思えるつまらないものに向き合うという学びも、無駄とはいえないかと。
・竹山さんはそういうキャラのタレントだから役に立たなかったのでしょうが、たとえばタモリさんとか他のタレントさんとかだと役立てている人も多いと思う。私も古典は生活必需の知識ではないとも思うが、それでもお正月に百人一首カルタする時やそこに出てくる場所に旅行に行った時とかに興味や楽しみも、知らない場合より断然増していることがよくあるから、学んでおいてよかったと思っている。 ちなみに音楽のリコーダーとか数学のサインコサインとか、その後私の人生で使うことはなかったしこれから使うこともまずないと思うけれど、習わなくてもよかったとは思わない。 ただもしその時もっと他のやりたいことが絶対的にあって、これらを学ぶことでその時間が取れずにいたとかなら学ばない選択をしてもいいとも思う。ただそこまでのものがまだないなら、古典とも幅広く学んでおくことは良いことと思う。
・学校の勉強って「役に立つ」「役に立たない」ではないと考えてます 特に高校以降は自分で仕事ではなく勉強の道を選んだ(しかも普通科を選んだ)わけですから 目的は「さまざまな状況に対応できるよう、又仕事の選択肢を増やせるように基礎となる知識や教養を増やす」ことです
やりたいことがあって目的がはっきり決まってるなら普通科の高校ではなく 専門学校や高専、普通科ではない高校にいったり、中卒でプロに弟子入りしたりすればいいかと思います
目的がないのであれば不要必要ではなく単純に選択肢としての「武器」を増やすためと割り切って教えられることを全て学んだ方が良いですよ
又、前にもどこかで書きましたが、たくさんの教科を勉強することで 効率の良い学び方、吸収の仕方という類のスキルも身につくので勉強そのものが無駄にはなりません (単純作業延々繰り返すような仕事についたら別ですが)
・中高生になって少し生意気になり、「古典なんて意味ない」とか言い出す前に、幼稚園で方丈記や徒然草のさわりを丸暗記させるのがいいと思う。
子どもが小さい時、NHKで「にほんごであそぼ」を見ていて、親子で『寿限無』を丸暗記した。 それが意味があるかないかではなく、古典落語の有名な部分を知ってることが教養で、豊かな人生になるという事だと思う。
・役に立つかどうかって、その人の感性によるんじゃないかな。確かに算数とか国語みたいに誰の生活にも直結した素養として必要なものではないけど、勉強したほうが絶対いい。単純に楽しいじゃん。古典ってエモいんだよ。自分は今でも思い出して、こんな漢詩なかったかなーとか、探して読むことがある。基礎知識として知っているのといないのでは、文化に対する意識が異なってくる。歴史だけでは学べないものがある。日本の教育として必要だと思う。
・私は小学校の授業は生きていくために必要な知識を学ぶ内容、中学校の授業は、これからなりたい将来の仕事の色々な分野の最初の基本的知識を学ぶ内容だと思っている。だから中学校に古典が入るのは良いことだと思う。古典や歴史などに関心がある人たちは、そこから興味を広げてその専門分野の学校を探せば良いからだ。ところが、高校は専門の学科や文系理系に分かれており、すでに将来の選択肢が狭まっている。その中で古典を学ぶ必要性がない子供はいるわけで、情報や外国語などさまざまな学習量が増える今、高校古典は文系の一定層だけでよいのではないかと考えている
・役に立ってるとは思わないし、当時は苦手だったけど受験のために勉強しました。ただ、あれから数十年経って改めて読んでみたりします。面白いし少しづつ勉強したことを思い出したりして、物語なんか割とスムーズに入ってきます。なんでもそうですが、学生の頃に習うことで、後に「理屈がわかる」ってやっぱりプラスだと思います。
・私達が毎日使う日本語は永久不変のものではなく、これまでも変遷してきたことや、昔の日本語を解読してみれば、いつの時代においても人間は下らないことを考えて書き残す生き物であることを現代人に教える意義はあります。また、文献の解読が地球物理学や天文学等の理系の学問にも関連していることを理系志望の生徒に教えることも有意義です。古典に触れることで、言語学や史学に目覚める生徒もいるはずです。 全く無意味な学問ではありませんが、興味のない生徒にまで必修にする意義があるかどうかは、皆で議論すればいいことです。 日本には優れた漫画文化があり、これまでも幾多の漫画家が古典をビジュアル化してくれているので、初学者には、漫画を使ってエッセンスを教えれば充分であり、大学で専門的な勉強をしたい生徒が、選択科目で古典文法や筆文字の読み方を習えばいいと思います。
・まぁ古典と思うから必要無いと思うし、漢文の読み方が複雑で読みにくいところから学ぶんで敬遠されてしまうが、源氏物語にしても枕草子や土佐日記などにしても優れた作品、読み物ではあるのだから、現代口語訳をまずは読んで内容を理解してから原文の仮名遣いを学ぶようにしたら理解も深まるかもしれない
・役に立つ、立たないのコスパで言えば大半の授業はムダなんでしょう。そんなの学生でも分かる。 が、人によってはそれが役に立つ。それで進路が決まったり、そもそもムダだからこそ人生を豊にしたり。 夢がない奴ほど何かやりたいときのためにありとあらゆる経験、勉強しとけと高校の時の担任がいった時は私は府に落ちた。だからムダに大学時は単位をとり、他学部の授業とったり、頭下げて大好きな教授の特別講義にこっそり出さしてもらった。朝から最終講義、下手したら帰れと先生に言われる程学校居たがとても楽しかったよ なんでも感でもコスパ重視にしたらきっとつまらないだろう
・古典を選択科目化して英語を増やすというのは違うかなと。 英語の古典(例えばシェークスピアの原典とか)に触れるとかなら面白いなとは思う。 ラテン語とかも面白いかもしれない。 でもそのための教員を各学校に置くなんてお金がかかる。 やはり古典の教員を置くのが良いのだと思う。 日本の学校なんだから日本語・日本文学を大切にすべきではと。
・役に立つか、立たないかは、人それぞれ 竹山がお笑い芸人でなく、国文学の大学教授だったら役立って良かったになるだけの話。音楽、体育、美術、家庭科らでも、家庭教育や地域活動らで体験出来るかもしれないが、学校でなければ全ての生徒が平等に学べないだろう。また、数学の公式や化学実験、枕草子や邪馬台国らが何の役にたつかも、生徒本人次第。若い時に様々なことに出会い、何かに興味を持ち、やりたいことを発見し、より専門的に学ぶためのきっかけ作り。その選択肢は多い方がよいから色々科目がある
科目が多いと生徒も負担に感じたり、大人の都合により受験科目を変えられたりする高校生なら、受験に不要な授業を無駄と考えるのももちろん理解できる。 逆に、一発勝負の入学試験より、日々の学習結果を反映させた内申書の成績をより重視し進学できるようにしたり、選択可能な科目をより柔軟にしていくなど改良の余地はあるだろう
・古典を読んでみると、1000年前ぐらいの人も自分達と同じような事考えて生きていたんだ、普通の人間なんだと身近に感じて、またその当時の風俗や生活、習慣なども、いまの若者の流行りを「そうなのね、面白い!」と感じるように面白く感じるのですがね。たまたま言葉が違うから抵抗があるんだろうけど、一種の方言とでも捉えたらとっつきやすくなるかな。
個人的にはまず古典の現代語訳や漫画バージョンを読んでもらって興味を持ってもらえたところで文字の読み方や意味を知るほうがいいと感じる。 英語もだけど、日本は言語教育が下手くそだとは感じるし、嫌いにさせない工夫はすべき。
・私は古典が好きで、高校時代は古典の授業を心待ちにしていたくらいだから。 それに、古典を知ることが、自分のルーツを知る手掛かりにもなるのではないか、とも思っている。 古典と歴史とは切っても切り離せない関係にある以上、是非興味や関心を持ってもらいたい。
・古典教育の目的が達成されてるか文科省は検証する必要があると思う。文科省HP掲載の古典文学の教育目標には「古典としての古文と漢文を読解し鑑賞する能力を養うとともに、ものの見方、感じ方、考え方を広くし、古典に親しむことによって人生を豊かにする態度を育てる。」とあるが本当に今の教育手法で達成されてるのか。単に古典文学に触れるだけなら現代語に翻訳された作品を読むだけでも充分な気もするし、考古学研究を深めたいなら大学で古典文法を学んでも遅くはないと思う。少なくとも共通テストの受験科目にする必要は無いと思う。
・古典を学ぶことに意義はあると思いますが、比重は音楽と同じぐらいで良い気はします。 古典と言っても古代と近世の違いなどもありますし、「これは入試に出やすい」とか「源氏物語のこの部分は入試に出ることはほぼない」とかで勉強のポイントを変えていくのも違うと思います。
・自分の子が競技かるたを題材にした漫画にハマって、そこから百人一首が好きになったんだけど、更にそこから源氏物語をはじめとした古典文学にも興味を持つようになったんだよね。そして今大河ドラマをやっているけど、人物の名前はもちろんその相関関係なんかも覚えている。 要するに興味って色々な方向に派生していくんだよね。自分も古典がきっかけで現代国語や日本史はもちろん、英語の文法の勉強にもプラスになった記憶がある。 学んだことを活かせるかどうかはその人次第。中高の数学だって、受験以外に役に立てていない人は山ほどいるよね。
・国語の一環だからね。 日本語の学習が役に立たないっていう人はいないし、社会人になって、少しフォーマルで綺麗な文章を書かないといけないときは、古典を学んで、どうしてこういう文法になっているか、というのを感覚的に理解していると、自然な文章が書ける。 体育で言えば100メートル走や持久走みたいなもので、直接生活には役に立たないかも知れないけど、ネイティブの日本語話者としては間接的に気付かない内に役立っていると思う。
・古典を紐解いた時、現代の私たちと変わらない感覚を昔の人も持っていたと感じることがあります。
心に響く和歌に出会った時、その美しい響きと卓越した表現方法に、諸外国に引けを取らない独特の豊かな文化が日本にあることに気づき感動しました。
この2点だけでも古典を習えて良かったなと私個人は思います。
芸術の素晴らしさに触れて陶酔することも人生には必要ではないでしょうか? その機会を奪うことを私は許容できません。
・お金を稼げるかどうかという視点で見れば確かに古典や漢文は少なくとも不要と言われても仕方ない。 それだけ余裕がないところに今の日本があるから。 人が学習に使える時間には限りがあり、できるだけ多くの人に役立つ知識を得ることが高校までの教育で求められると考えると古典に使う時間をもっと別に割り振ったらという考えは理解できる。 古文の文法を覚えるよりも各時代の文化として学ぶ形で歴史の中に簡易的に組み込むだけでも良いのかもしれない。
・すべての授業がすべての人に役立つわけではないです。たとえば私にとって、高校の数学はまるで意味がないです。笑 ですが誰かにとっては高校数学は人生に関わる出会いになっているはずで、それは古文漢文も同様です。 授業で触れたことで、その方面への興味を大きく喚起された研究者などもいるかもしれないし、そこまででなくても基礎を覚えたことで人生が豊かになった人もいるはず。私自身、今になって源氏物語とか枕草子とか徒然草など、学校で触れたものをあらためて読んだりしていますし。 勉強は裾野を広げること。古文漢文の基礎を学ぶ触機会を作ることは重要だと私は思います。
しかし「歴史好き」と公言するタレントさんが、古文漢文を役に立たないと発言したのは純粋にびっくりです。古文漢文読めなきゃ昔の資料とか読めないのに。自分で資料に触れたいとか、昔の人々の思いを使った言葉や文章から感じたいとか、そういう思いはないのかなあ。
・確かにほとんどの人にとっては無駄。
でもその中で古典おもしろいなと思ってその道に進む人がいれば授業の存在じたいは無駄じゃない。色々やってみて、好きなものを探すお手伝いをするのも学校の役割の一つだと一つだと思う。
時間が許せば、もっとたくさんのジャンルの授業があって良いと思う。
・過去の出来事は歴史(日本史・世界史など)で学べるから、古典(古文・漢文)の授業は無駄ということのなのだろうけど、もったいない考えですね。古代を含めて歴史となった時代(戦前くらいまでかな)の人たちの生活・文化などを知るのは、古典の授業で出てくる資料がもっともわかりやすいのだけどね。それこそ、源氏物語・枕草子・徒然草・聖書とかね。言葉遣いや文法が現代語と異なるから意味がないというなら、芸能における昭和歌謡も同じになる。現代のコンプラ意識や情報環境からすれば、非現実の用語・用例があるんで
・一律に同じ教科を詰め込むから、竹山さんや古市さんのように一点突破の才能を取りこぼすのが今の学校教育で、その問題意識がたまたま古典をターゲットにする発言になったのかと想像します。 少子化でもあることですし、今までのような全部乗せの総花的な学習指導ではなく、適性をはかり興味に耳を傾け個性にあった学習指導をする段階だと思います。
古典は現代に続く日本語がやまとことばから万葉仮名になりそれがカナに変じ漢字かな交じり文となり渡来人から外来語を取り込んでさらに身分がなくなり文書がカジュアルになることで口語が取り込まれてきたことばの歴史学でもあります。 これを無駄という人はいません。
ただ、古文漢文はそれだけでひとつの言語体系ですから、現代に使われない言語と将来的に必要になる言後とを比較すれば、有限の時間をどちらの習熟に充てるのがベターかという問題提起にはなろうかと存じます。
・温故知新という言葉があります。古典の面白い部分は現代人がふと思う事や日常的になってる事の原点になってると言うことですね。 古典を知らなくても今を生きるのは困りませんが、言葉遊びや由来を知っていれば多くの物事に気付く事が増える気がしますね。
・そもそも学校の勉強なんて直接役立つものはほとんど無いんじゃないかな。 だからと言って勉強が無駄ではなくて分からないことを分かろうと努力したり効率よく覚えたり、分からなければ解る人に聞いたり相談できる人脈を作ったり、そう出来るように時間を自己管理したりすることが社会へ出た時に役立つんだと思う。 なので学校の勉強は古典であっても社会へ出る為の訓練と思えば意味が有ると私は思います。
・昔の価値観とか文化などにふれると、新たな発見や現代につながるものの発見もあって楽しいですけどね。私は理系で仕事上はなんの役にも立たないですが、枕草子や源氏物語などは好きです。高校でしかやってないけど、漢文も『あの四字熟語はここからきてたのか!』など発見があって楽しかったです。受験のためと思うから辛くなるのでは?まずは文学として楽しんで読んでみたらいいのでは?
・そう言われてみれば、役に立つたたないってのはおもしろい視点だね。 子供が勉強したくなくていいわけに言うのはよくある話で、よくある話しすぎて右から左に聞き流してきちゃった。 子供の言い訳に対しては「役に立つたたないんじゃないんだ」っていうのも定番なわけだけど、本当は役に立たないものを、長い時間かけて学ぶ意味っていうのを真剣に考えてみてもいいかもね。 教養だとか人生を豊かにするってのは、まあそうなんだけどそれってほんとに必要?『源氏物語』知ってるのはほんとにポケモン全部言えるのより素晴らしいことなの?
・私の息子が学習障害です
私は学生時代、古典とか歴史が嫌いで、記憶力が大事な教科が嫌いで、面倒でした。たぶん、数学とか国語は得意だったので、記憶力じゃない、その年齢相応の思考力でとく科目のほうが楽だったからだと思います。
でも息子は逆のようで、人って色々なのだとこの数年色々学びました。
息子は歴史とか古典だけならなぜか点数は取れます。 国語や数学はさっぱり5点とか10点とかの世界です。 なんで?と聞いてみると、面白い、と言います。
「面白い」って思える教科があるだけましかな、って思いますが、小学生までは国語と算数中心なので、一切教室に入らず支援級で過ごしました。
今は楽しいと思える授業があるから教室にも入れるし通学もできてます。
このタイトルをみて、息子の好きな科目がなくなっていくのは切ないなと思っただけですが(昔の私なら、なくてOKとか絶対言いそうだけど)なくなりませんように。
・その場限りの学問で考えるか人生の尺度で考えるかで異なると思う。 個人的には、「役に立たない=無駄」と思う考えがつまらないかな。
とは言え、私も高校時代は勉強にさほど興味はなく。 プログラミングや簿記は好きでした。 授業の一環だったので、エクセルも一通りは使えます。 でも事務員で働きだした時は会社はパソコンすら導入しておらず「エクセルなんて役に立たない」と言ったのを覚えています。
あれから20年。 仕事でパソコンは必須になりましたが、同じ年代や若者でもエクセルやパソコンが使えない人は結構いることを知りました。 プログラミングの思考や構造は財務システムを覚える上で案外役立ちました。 簿記については、FPを勉強するなどしたときに初めて会計の構造を振り返りました。
その時のみで終わっていたものが、いつどこかで巡ってくるかは分かりませんね。
・「なぜそれを学ぶのか」という問いに、学ぶ側も、ヘタをすると教える側の一部も「テストで好成績を獲得すること」という解答以外の考え方を持てなかった結果が表出する具体例が、こうした不要論なんじゃないだろうか
語彙力を増やす、文化のルーツを知る、現代に生きる自分たちとは異なる思想に根ざした文化に触れる、というのはいずれも応用の幅が広く、それらを包括的に学ぶことができるのが古典、漢文という科目なのだと思う 芥川龍之介の著作に古典や漢文から換骨奪胎したものが多いことなんかは好例で、自身の価値観を構成する過程で思考を深める素材としても有用なところが多い
自分の生き方を定めた後で、そのための専門的な知識技術に特化した修得を目的とする大学、専門学校以降では重要度が下がる、ということなら理解するけど、それ以前で省くのは損失が大きいと思う
・古典の授業を受けたことがあるから、『無駄』という考えが生まれるのでしょう。 何が無駄で、何が無駄でないか、一切触れることがなければそれすら知らないままです。 知識という面だけでなく、選択する力をつけるために様々な物事に触れる必要があると思います。
・古典は,立場,年の差,国籍,そういった違いを超えて自分と違う人と仲良くする力を養うための教科だと思う. 古典の世界の人間と我々は違う.季節の移ろいに涙する,なんて,現代人の感覚としてはクレイジー.ジェネレーションギャップなどめじゃない. でも,時代背景,生活様式などを深く勉強すると,自分との共通点や相違点が見えてくる.それによって,何百年も昔の人に共感することができるのだ. 人間関係の第一歩たる,自分とは違う人間を理解する力を養うために必要な教科.
・映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー2」の中で主人公が鉄板を使うシーンがあるが、これはクリント・イーストウッド主演の「荒野の要心棒」のオマージュである。さらに「荒野の要心棒」は黒澤明の「要心棒」の(無断)リメイクだ。
その出典を知っていれば面白さが二倍三倍になることがあるように、古典や漢文を知ると知らないとでは、現代国語の四字熟語や諺の理解度が違ってくるだろう。
それこそ試験のためだけの勉強なら古典や漢文は無意味かもしれない。だが教養というのは試験のために身につけるものではなく、自分自身を豊かにするために身につけるものだ。
無教養であることを恥と思わず、気にもしない人たちはそれでも良いのだろうが。
・義務教育の授業は個人で見ればすべて将来の役に立つものではなく、誰かの役に立ってればいいと思う 文系職業に就いた人から見れば、数学も四則演算できればそれ以上いらなかったり、理科の授業も役に立つこともないでしょうし ただ、その授業も理系職業に就いた人にとっては役に立つわけです 義務教育の時期は広く浅くやっていき、その中から自分の将来進む道にあったものを見つけられたらいいと思います そういう意味では古典は役に立たない人のほうが断然多いと思うのですが、ゼロではないのでさわりくらいは義務教育でやってもいいのかなと思いますけどね それで本格的にやりたい人はそちらの専門に進んでいけばいいわけですから
・私自身古典好きで中学の頃から趣味で源氏物語などの古典読んだり百人一首暗記したりしていたけど、実益という意味で役に立ったことはないかな 人生を豊かにするもので音楽とか美術とか、副教科に近いんだよね 義務教育として学校で学ぶのはいいけれど、大学受験の共通テストや二次試験で必須でなくてもいいかも
・無駄と言うのが「古典」なのか、「現在行われている学校の古典の授業」なのかで話は違ってくると思う。 前者ならば自分は決して無駄とは思わない。人生を豊かにしたり、面白がるために不要な知識などないから。 しかし後者について言っているのなら、なかなか微妙な話になってくる。社会人になって自身に不足していると感じるのは、日本語の語彙、例えばひと頃盛んに言われていた言い換えのスキルとか、英語の日常会話の能力、自分の国の歴史(特に近現代)の知識などだ。 これらをしっかり身に付けるための時間以上に、現行の古典の授業の時間が有益かと問われたら、自分は多分ノーと答えると思う。
・面白い記事ですね。特に、笑わせてもらったのが、枕草子の出たしの「春はあけぼの」が「春は揚げ物」ってダジャレなりそこから、さらに、そのぐらいのメリットしかないのなら、やめた方がいいのでは。と進んだのは、正直、笑ってしまいました。 私の意見しては、古典の授業は必要だと思います。明確な理由ではありませんが、昔の四字熟語でも「温故知新」というのがあるように、昔の知識や優れたものを読んだり、見たりすれば、今の自分がやっていること、学習だったり、仕事だったりに、活かすことできるのではないかと、考えるからです。
・学生の頃、古文も漢文も大好きでした。昔の人の気持ちやその頃の情景などを古語を通じて感じられるのが楽しかったです。学校で習わなかったら、興味も持たなかったし、触れる機会もなかったと思います。 無駄とか無駄じゃないとかではなくて、何事も満遍なく学べる機会があってよかったなぁと感じます。
・他コメでいろいろな方が古典が必要な理由を書かれているので必要である事は前提として問題は古典を学ぶハードルが高い事だと思う。
動詞の活用から覚えなければならず大人が外国語を学習する苦痛と似ている。そこで幼稚園か若しくは小学校低学年時代に例えば百人一首の時間を作って子供に古典に触れさせてはどうか。子供なら意味が分からなくても丸暗記出来る。百人一首ならゲーム感覚の競技会も出来る。
のちに古文法を習ったらこういう事だったのかと学びも深くなるし古典が苦痛という事は無くなるのではないだろうか。苦痛でなければ無駄だと切り捨てるような思いにはならないだろう。
人は突然現代人になった訳ではない。様々な知見文物は過去から連綿と続いてきたものがあり、実生活に直接役立たないように見えて先人の知恵を拝借している事は多々ある。文化継承を断絶させるような教育課程がダメな気がする。
・娘が古典が大好きで、愛読書が資料集でした。が…悩みに悩んで理系に進み、大学も理系学部にしました。将来的に古典を生業にするのは難しいと思ったからです。国語の先生になるのは自分の適性ではないと感じたらしく…。
ですが、本当に『豊かな社会』というのはこういう分野を一生極めたいという人の願いがかなう社会なのかもしれないですね。
・古典を始め、いわゆる教養と言われる分野は、すなわち生きる力に通じると年を重ねるごとに痛感します。ある程度高学歴になり、世界とつながるようになると、相手に一目置かれるためには「自国のことをどれだけ話せるか」が大切です。日本人は西洋の音楽・芸術には詳しいのに、自国の文化にはめっぽう弱い。戦争の敗戦教育に通じる部分だと思いますが、もう少し日本人は日本に目を向けて誇りを持った方がいいのではないでしょうか。
・選択制にしてしまうと触れることもないので面白さにも気付けない。 学習してみて、もっと深めたいと思った人が、その先の選択制を選べばいいと思う。 高校くらいまでの授業は何が自分にあっているか、今後を見据えていろんなことに触れていくための授業なんじゃないかな。
・古典を生業にしてる人や研究者へのリスペクトが全くない無神経な発言だと思いました。 古典に限ったことではなく、学校の授業で学んだことで興味を持ちそれを突き詰めていこうと自分の将来を決めた人だってたくさんいる。何が将来役に立つか、どんな道を選ぶかなんて分かるわけがないので学校で広い範囲の物事を習うのはきっかけとして必要だと思います。
・勉強は可能性と多様性をつけるたもあると思うし、義務教育の勉強内容なんかは、あったら役に立つかもしれないが何割かは使わないと思う。でも将来どの道に進むかの取捨選択のために万遍なくあるものでは? 古典は教養や当時の文化、習慣なども垣間見れるし語呂合わせや俳句、短歌など面白かったけどね。 竹山さんにとっては役に立たないかもしれないが、他の人には違うかもしれない。 自分にとっては数学の平方根や三角定理、2次関数因数分解などの方が役に立ってるとは思はないけどね。
・古典などの教養を無駄と思考する人は、 文化的な視点が欠けてると思う。 文の成り立ちには現在に繋がる沢山の要素がある。 私は想像の世界が広がって、ワクワクしました。 はなから否定しないで、何でも好奇心を持って学べると楽しい。役に立たないから必要ないって、切って捨てるのも勿体ないです。
でもね、良い先生に当たらなくて学ぶ意味が見いだせない人もいるだろうから、こういう議論で学びの場が改善するのも期待したいです。
・無駄とまでは思わないけれど、プログラミングや情報などより実用的で重要度の高い新しい科目が出てきているので、活用場所の限られる古典はどうしても優先度が低くなっちゃうよね。国語・社会と重複する部分の多い科目だし、選択授業でいいのではないかな。もちろん全部を学べたら一番いいけど……限られた授業時間の中でのやりくりにも限界はあるよ。
・古典の授業は、昔の日本人がどんな風な考え方や生活をしていたか、またどんな文化を持っていたかという事に触れる大切な授業だと思います。 海外で数年生活した経験から言うと、日本って日本の国自体の勉強を学校で教わることが少ないです。 敗戦の影響からか、愛国教育=軍国教育になってる気がします。 愛国教育とは本来そのようなものでは無くて、自分の生まれた国、ルーツを理解して大切にする事だと思います。 海外ではルーツはとても重要視されます。上手く説明できませんが、多様化社会の中では、まず自分をしっかり確立して、その上で他者を受け入れないと、アイデンティティの崩壊となってしまうからだと見ていて思いました。その為に自らのルーツを理解する事は重要です。 差別とかでは無く、普通の会話の中で、「どこの出身?」と聞かれ、話題が発展する事もあるので、国際化の意味でも知識教養として勉強しておいて損は無いと思います。
・高校までは将来どのような仕事をするか不確定なので、その為のサワリみたいな位置づけと思うので、現在、使わないから無駄とは言えない。
とはいえ、例えば、数学の複素数を使って仕事している人知らないし、古典や漢文もしかりだしは、その通り。
ただ、受験に必要かは議論が必要と思う。 また、大学の一般教養も必要性を感じないものも、ある。
高校も、広く浅くより、好きな事を深くの方が良いと思う。 落とす受験より、拾う受験を目指してほしいものだ。
・確かに今の社会で役に立つことはないですね。 ですが、文化を蔑ろにしていく民族が廃っていくのはよくあることではないでしょうか?
古典で昔の生活の様子を知ることができます。火鉢が温まるまで寒いなぁとか、昔の恋愛の様子とか… 何千年と日本があり続けたのには昔から変わらないものを大切にしていたからだと思います。また、この長い歴史や独自の文化の継承は海外からも尊敬されていると思います。 今後はもっと人口が減っていきます。この文化財が観光資源にもなっていますし、やはり古文古典は必要な知識ではないでしょうか?
新海監督の君の名はは確か古典文学ではなかったでしょうか?とても楽しいアニメですよね。昔から日本では面白い本が沢山あったのですよ。
・古典って国語領域なのがずっと違和感なんですよね。いっその事歴史を社会から独立させて古典とひっつけた方が良いような気がするし、歴史が好きな人は古典にも興味を持ちやすいと思うし、親和性が高いと思うんですけどね。
国語としての古典は不要だと思いますが、歴史教養としての古典は重要な領域だと思います。
・その人には無駄だったけど、他の人には人生を変えたくらいに重要なモノだった場合がある。
なぜ、自分には無駄だからだったと、必要無いと言えるのか? ぶっちゃけ、自分には数学も物理も社会も全く必要は無かったけど無駄だったとは思わない。 sin,cos,tanや微分・積分なんて必要無かったけど、その道に進んだ人には必要なモノだった。 それは、古典だろうとその道に進んだ人がいるから、今でも古典がある。
なぜに、無駄だと言えるのか理解に苦しむ。。。
竹山には必要無くて無駄だったからと、他の人にもそれを強要するのは全くのナンセンス。
・いらないのは、一部の無駄なレクリエーションとか校長先生の長いお話とか学校行事の見栄でやってるようなのとかの方が深刻じゃないかなあ… 古文、発想のもとになることもあるし、微積も三角関数も物理も一通りやっとかないと適正もわからないし 学問は触れることも大事だと思う
・古典は大事だという意見が多いようですが、わたしは義務教育で必須だとは思いません。中学までで履修する他の義務教育と比較すると重要性は低いように感じます。
興味を持つ方に選択科目として提供することは否定しないので、高校以降で学んでも良い気がしています。
・やったほうがいいかなレベルなら、古典だけで時間割を割くのは「無駄」 ついでに、他と「現文」とか「漢文」とかに分けないで『国語』一択でいい。 その中で優先順位を付けたとき、答えがわかるのではないかな?
あと、申し訳ないが、「古文」「漢文」の原文を読み書きの必要は全くないと思う。 読書レベルで良いし、漫画にもなってるし、そちらでOK。
実は、これらは子供たちのためではなく、古典の先生たちのための教科であります。授業が無くなれば、困る人が居るのです。
「英語」「情報」がすでに増えてるので、教科をスリム化には賛成です。
・職業能力だけ考えるなら、無駄。無駄だと考える人は、高校に行く必要はない。中卒で就職するか、専門学校へ行くなりすればいい。 高校は、基礎的なものではあるが教養を身につける場でもある。大人になった後に何か興味が出たとき、様々な方向に最低限の足場を作ってくれている。必要なものだと、私は思う。
・役に立つかと言われれば、自分の仕事の上では役に立った記憶はない。 ただ、無駄かと言われれば無駄だとは思わない。
知識は多いに越した事ない。 使わない機会が今まで無かっただけで、今後絶対に使わないと言う事が言い切れないから。
自分の仕事上、ある程度の数学知識は必要だけど、だからと言って大学受験で学んだ内容全ては必要ない。(と思ってる…) ただ、思ってた以上に数学が出来ないと辛い…
無駄かどうかは、その後学んだ内容をどう活かせるかによると思うので、一概に無駄だと決めつけるのはどうかと思う…
個人的な話(プライベート)だと、最近読む本・マンガ、大河ドラマとかを見てると、歴史の授業はもっと真面目に聞いておくべきだったと思う事もあるので… (むしろ、授業の内容位じゃ足りない…)
・親の望ぞむ様に子供が育つ例は少ないように、教育も、それを与える側がどんな理想を持っていても子供は理想通りに受け取らない。逆に親が望まなくとも子供が主体的に興味を持った事、楽しいと感じた事は、放置していても子供自ら継続し、上達していくもの(分かりやすい例がスポーツやゲームだが、勉強を楽しいと思う子供も少なからずいるし、芸術や芸能に関しても同じ事)。 学問でもスポーツでも芸術でもあらゆるものに関して『学びの最良の教師は楽しさである』ように、楽しいという実感を得られた子供は勝手に育っていく。そして、子供がどんな事に興味を持てるか、またどんな事に才能を発揮できるかは育つまで分からない(結果論でしかない)以上、様々な事に触れる機会を与える事もまた重要。古典や漢文を排して英語の授業を増やしても、英語に興味を持てない子供には意味が無い。 大人や老人が何を言っても、子供は育って欲しいようには育たない。
・日常に役立たないとか、知識教養豊かさのためというコメントが多いですね。私は主語がない日本語を適切に操るために古典が必須の学問だと思います。
漢文や英語は主語がはっきりしていますが古典は主語の省略が多く、文脈や言われ方から主語を察する力が必要です。そして現代語でもそういう場面は多々あります。
敬語は日常生活に必要です。私は古典が得意だったので、ビジネスマナーの敬語はさして困りません。電話対応が嫌だという人が増えてるそうですが、古典のスキルはビジネス敬語、謙譲語、丁寧語の使い分けに役立ちます。
また対面で話し手が尊敬語を使う時に、話し手の口調や様子から、真に立場ある人なのか、話し手が主観的に尊敬しているのか、実は怯えているのか、を考えます。とっかかりとなるのは敬語表現です。
日本語を話すには察し、英語を話すには自分の意見が必要であり、その違いが学べる点でも文系の学問はどれも大切です。
・役に立つかどうかはわからないけど、確かに退屈だったわ(笑)歴史の授業もそう。特に興味がわかなかった。ただ、文化として触れたり楽しんだりする時間の余裕があまりなく、先生達も詰め込む方法だけ。テストに出るところとか、社会的問題とか、大人として子供達にしっかり正しいことを教え、テストの点を上げる、これしかない授業で、だからつまらなかったのかなぁと思う。もちろん先生が悪いわけではなく、時代なのかなと。大人になってから歴史や古典に触れてみたら楽しかった。ただ好みもあるよね、いまだに私は物理と化学は興味ない(笑)
・そりゃ古典が日常生活で必須か否かと言えば必須ではないということになるでしょう。 でもそれ言い出したら高校までの勉強に限れば理系科目は専門職以外の人は必要ないし、営業職や広報、マーケティング、事務職、公務員なら現代文、算数とおまけで政治経済を勉強すれば問題ないし英語はグローバル企業でなければ必要ありません。 弁護士は現代文と算数、医者は現代文、数学、化学、生物のみ勉強すれば仕事はできるのです。外国の論文を読む時はスマホの翻訳機能を使えば問題ないのです。 要は国公立受験の文系理系5教科以上の勉強は実社会では不要となります。
・知識は様々な事に応用、転用が可能なので、古典を学んで損をするとは思わない。知識の引き出しが多ければ多いほど、発想や会話も豊かになり、人生も豊かになるとは思う。 ただ、学校で学ぶことが全て実生活に役立つかと言ったら、そうではないとは思う。 実際に、小学校で習った「デシリットル」なんて、今まで一度も使った事がない。 その点では、限られた時間内で学ぶべき事の優先度はしっかりあった方が良いと思う。
・古典がどうこうより役に立つ授業をしてほしかった。 スーパーの値引きの計算を電卓なしでやるとか、職業の種類や内容、プラスマイナス面とか年金など将来絶対役立つことを。 英語だって何年もやるけど苦手な人ばかりですよね。 どうせやるなら役に立って身につくものがいいです。
・高校時代の授業で、直接実社会で役にたつ授業なんて、あるのでしょうか。物理、化学、数学などどれをとっても、必要だとは到底思えません。私は古典の中でも漢文が好きです。李白や杜甫などの詩にロマンを感じます。また方丈記、徒然草、枕草子などの名文を読むと心が豊かになります。古典は心の栄養になります。
・竹山さん、たまには良い事言うじゃん! 大賛成です。古典は好きな人だけ学べる選択制にして欲しいと思います。 今の子は学ぶ事が沢山あって、大変だなぁと日頃から感じてました。 ある程度絞って、本当に必要な知識は何か考えていく事も大切かも。
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