( 145343 ) 2024/03/03 22:16:55 0 00 震災の犠牲者名が刻まれた碑に触れる男性=2015年3月11日、仙台市若林区、日吉健吾撮影
直接の死者数は1万5900人、今も2523人が行方不明のまま――。東日本大震災は戦後の災害史上、最悪の規模となった。想像もしなかった「大量死」に、最前線で向き合った人々がいた。(敬称略)
【写真】震災の2日後、宮城県東松島市で見つかった遺体を運ぶ自衛隊員
元宮城県警本部長の竹内直人さん=2023年9月12日、東京都内、吉田耕一郎撮影
「1万人 地獄 これから本番」 大津波が東北沿岸部をのみこんで、一夜明けた2011年3月12日朝。 宮城県警本部長だった竹内直人(66)は、手帳に緑色のペンで、そう書き込んだ。 この時点で報告されていた県内の死者数はわずか。警察、消防、自衛隊が、懸命の救出作業を始めていた。だが津波の映像を目の当たりにし、救助を求めて殺到する110番の入電状況を聞いていた竹内は、前例のない数を予期した。 県警の幹部会議で告げた。「これは地獄だ」
雪の中、行方不明者を捜索する自衛隊員=2011年3月16日、宮城県南三陸町、西畑志朗撮影
前日のうちに編成された検視班16班が、仙台市中心部にある県警本部を出発した。総勢約200人。自然災害による死とはいえ、変死として死因や身元を調べる必要がある。 検視をする遺体安置所にはまず、県内で一番大きい利府町の県総合体育館が確保された。県庁の災害対策本部会議で、竹内は追加を強く求めた。「当該場所は、大きければ大きいほどよい」 安置所の設置は一義的に市町村の仕事だが、事前に安置所の候補地を決めていた自治体は皆無。代わりに県教育庁が、県立学校の体育館などをリストアップした。いくつかは住民の避難所と重なり、変更を迫られた。 いったい、遺体はどれだけの数になるのか。 県警はこの日から、住民から行方不明者の情報を受けつける「相談ダイヤル」を設けた。臨時回線を最大50本引き、オペレーターには県警の事務職員らを招集した。捜している人の名前や身体の特徴を聞き取り、エクセルで表にしてゆく。 行方がわからない人の全体数をつかめれば、このあと何人を捜し出し、検視の人員や場所をどれだけ確保すべきかがわかる。竹内のアイデアだった。 ことは簡単ではなかった。友人や知人に電話が通じないだけで問い合わせてくる人が殺到し、エクセルはやがて数万人まで膨らんだ。
地震発生直後、宮城県庁で開かれた第1回災害対策本部会議=2011年3月11日、仙台市青葉区、宮城県提供
12日夜。 壊滅状態とされた県北部の南三陸町の情報が、ようやく県庁に入ってくる。「避難所に7500人がいる」。町の人口1万7600人から差し引いた数字が、「南三陸町で1万人安否不明」とのニュースになって発信された。衝撃が駆け巡った。 何もかもが足りない――。竹内は焦りを募らせた。 水が引かない場所で遺体を運ぶボート、検視に使う注射筒、ゴム手袋、照明、死体検案書を書く医師、身元確認用に歯を調べる歯科医師。本来なら補充の要望を警察庁に上げ、関係省庁に手配してもらうのが、官僚機構のしきたりだ。 だが、待てなかった。 13日午後、東京から駆けつけた内閣府副大臣や省庁職員らが出席する県の本部会議で、SOSを発した。 「遺体は万人単位になるのは必至。装備資機材や医師が大至急必要だ」 南三陸のニュースも念頭にあった。だが数字に確たる裏付けはない。発言は竹内の意図を超え、「万人単位」の大見出しになって、翌日の新聞の1面に載った。
清月記社長の菅原裕典さん=2023年8月8日、仙台市宮城野区、石橋英昭撮影
仙台市に本社がある葬儀会社・清月記の社長、菅原裕典(63)は、11日の地震直後、取引先だった高松市の棺(ひつぎ)メーカー大手に電話をかけた。「とりあえず棺を1千本、届けてくれないか」 翌12日朝、同業者や県の担当課と打ち合わせを持つ。副理事長を務めていた県葬祭業協同組合は、震災の数年前、葬祭用品を供給する災害協定を県と結んでいた。1995年の阪神・淡路大震災で応援に赴いた経験のある菅原が、提唱した。しかし、零細企業が多い地域の葬儀業者には、棺のストックはほとんどなかったのだ。
遺体安置所となった宮城県総合体育館。棺の上に、衣類などを入れた袋と花が置かれている=2011年3月18日、宮城県利府町、高橋正徳撮影
四国から第1便の棺134本が届いたのは、13日。清月記の葬祭会館の一つを基地にして、各地にできた安置所に配送した。 社員の西村恒吉(50)も担当した一人。トラックで運んだ先の安置所では、納棺を手伝った。検視が終わった遺体が床に並ぶ。まぶたを閉じ、腕を整え、額や頰にごく簡単な化粧を施した。 そんな余裕のない安置所も少なくなかった。日がたつと、死に化粧すらできない遺体が増えてゆく。同じ災害で亡くなったのに――。 「死はなんて不平等なんだ」。西村は思った。
宮城県食と暮らしの安全推進課課長補佐だった武者光明さん=2024年2月14日、仙台市青葉区、石橋英昭撮影
さらに深刻なのは、火葬場が絶対的に足りないことだった。 県内には27の火葬施設があったが、津波や揺れで壊れた所や、燃料や電気が途絶えた所があり、一日に火葬できるのは15日時点で計50体ほどだった。身元がわかって家族に引き渡されても、遺体の行く先がなかった。 「ある首長が『土葬にしたい』と言ってきた。調べてくれ」 県庁で埋火葬を担当するのは、食と暮らしの安全推進課。課長補佐だった武者光明(59)は、「えっ」と上司の指示を聞き返した。
仮埋葬される犠牲者に別れを告げる人たち=2011年3月22日、宮城県東松島市、長島一浩撮影
日本の法律は土葬を禁じておらず、場所によって数十年前まで当たり前だった。部下がネットで奈良県に土葬習慣があった地域の例を見つけ、奈良県庁にも相談をして、土葬マニュアルをつくった。各市町村に流したのは17日だ。 「冷たい水の中で亡くなった人を、また冷たい土の中に入れるなんて、つらい」 ただし、この時はあくまでも「土葬」の想定。いったん地中に眠らせた2千体以上の亡きがらを、すぐ掘り返すことになると、武者は思いもしなかった。
宮城県内の死者・行方不明者数は、最終的に計1万757人。県警本部長・竹内の予想は不幸にも的中した。 竹内は「ご遺体を家族のもとに帰すことが、次への一歩になる」とした上で、警察と市町村との連携や、行方不明者の情報把握の点で課題があったと話す。 今年1月に発生した能登半島地震で直接死は200人以上に上り、東日本大震災後の地震災害では最多となった。切迫しているとされる南海トラフ地震では最悪32万人超、日本海溝沿いの巨大地震では19万人超、首都直下型地震なら2万3千人の死者が出ると、政府は想定する。 震災後、自治体の地域防災計画は大幅に改定され、安置所の候補地や遺体を扱う分担、手順について、細かく書かれるようになった。大災害時に火葬の余力がなくなった地域から、他の地域に遺体を運ぶ広域火葬計画も、全都道府県で策定された。 ただ、どれだけ死者の尊厳を守れるかは、起きてみないとわからない。 災害には、対策を重ね、犠牲をゼロに近づけることが第一で、「大量死」への備えは語りにくいテーマだ。それでも、千、万単位の犠牲は起きうる。 私たちに、向き合う覚悟はできているだろうか。
(この記事は、朝日新聞とYahoo!ニュースによる共同連携企画です)
朝日新聞編集委員・石橋英昭
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