( 146643 )  2024/03/07 14:09:18  
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NHKを辞めて「ジャパンハートこども医療センター」(国際医療NGO「ジャパンハート」がカンボジアで運営する病院)で働く藤田陽子さん(撮影:原悠介) 

 

「転職」と聞いてどんなイメージを思い浮かべるだろうか。 

「キャリアアップのために」というポジティブなイメージ。はたまた「過酷な労働環境に耐えかねて移る」ネガティブなイメージ。 

今の自身の仕事や職場環境、置かれている状況により様々だろう。 

そんな転職だが、ここに一人、NHKの正社員の記者職から、国際医療NGOの「ジャパンハート」に移り、カンボジアの病院で契約社員として働く女性がいる。 

彼女はなぜNHKから飛び出したのか。その本音に迫ってみた。 

 

【写真を見る】NHKを辞め「カンボジアの病院」で契約社員として働く藤田陽子さん(30歳)その素顔と、現地の子どもたち・病院の様子 

 

*この記事のつづき:NHK元記者が見た「カンボジア医療」超過酷な現実 

 

■NHKを辞めて、カンボジアの病院へ 

 

 NHKといえば、日本国民の誰しもが知る公共放送局であり、日本の報道の中枢を担っていると言っていいだろう。 

 

 そんなNHKで記者を勤め、ジャーナリストとして本格的に歩み始めた最中、NGOに転職を果たした異例の人物がいる。 

 

 藤田陽子さん(30歳)。現在、「ジャパンハート」のカンボジアの病院で広報スタッフとして勤務している。 

 

 いったい、なぜ彼女はジャーナリストとしてのキャリアから離れたのか。 

 

 彼女の話を聞くうちに見えてきたのは「自分自身が本当に幸せを感じること」を仕事にどう結び付けるのか、そして今の日本人の仕事に対する価値観と生き方に対するメッセージだった。 

 

 藤田さんが「国際的な仕事をしたい」と思ったのは早く、小学生の頃だった。 

 

 「大きなきっかけがあったとかではないのですが、なんとなく小学生の頃から興味があったんです。英語ができるとカッコイイなと思ってました」 

 

 「英語で仕事をする」ということに、なんとなく憧れていたという。 

 

■「職人の父の背中」を見て育つ 

 

 「父は、脳性麻痺などで身体が不自由な人のために椅子や車いすを造る職人なんですが、自営業なのに、経営は二の次、みたいな感じで。母が幼稚園の先生をやっていたので、それで一家の生活は支えられてましたね」 

 

 町田にある自宅近くに工房を構え、黙々と車いすなどを仕上げる父を見て育った。 

 

 手造りの椅子や車いすは、使う相手に合わせて繰り返し調整が必要で、月に1~2台仕上げるのがやっと。当然、儲けはほとんど出ない。 

 

 

 使う人や支える家族のためにと工夫すればするほど費用がかさんでしまうが、相手のことを考えると最小限しか請求できない。曰くボランティアみたいなものだったという。 

 

 国際的な仕事はもとより、今現在、カンボジアでほぼボランティアのような形で小児がんの子どもたちを救う仕事をしているのには、こういった原風景が背景にあるのも関係しているだろう。 

 

 「お金はたいして儲からなくても、父もすごく楽しそうに仕事をしていて。そういうところに本当に自分のやりたい仕事、やりがいみたいなものがあるんだろうなって、知らず知らずに学んでいたというか。振り返ってみて、そう思いますね」 

 

 「将来は国際的な仕事をしたい」という思いはあったものの、中学に行ってからも特別に英語が話せる環境にいるわけでもなく、他の学生と一緒に普通に授業で習う程度。 

 

 ただ、「英語を話せるようになりたい」という想いは強く、思いきった行動に出ることになる。 

 

 それは、いきなりニュージーランドの公立高校に進学することだった。 

 

■いきなりニュージーランドの公立高校に進学 

 

 「もう本当に大変でしたね。今思うと勢いで何も考えてなかったというか……。英語のレベルも英検3級程度だったと思います。高校では日本人が学年で自分一人しかいないという本当に地元の公立校でした」 

 

 いわゆる期間を決めた短期留学といったものでなく、完全な現地の高校への進学。 

 

 授業はもちろん、ホームステイ先でもすべて英語。 

 

 最初の1年間はコミュニケーションをとるだけでも精一杯だった。 

 

 だが、授業についていくために必死に勉強して、2年目の半ばには現地の学生と同じ国語の授業を受けられるまで、英語力は上達。 

 

 卒業する頃にはネイティブ並みの英語力をマスターしていた。 

 

 そんな藤田さんの転機となったのは、遠くニュージーランドの地で知った、東日本大震災のニュースだった。 

 

 

■東日本大震災で「報道の仕事」に興味を持った 

 

 「そのまま英語圏の大学進学も考えていたのですが、3.11の東日本大震災のニュースを見て、報道の仕事に興味を持ったんです。それがスタートですね。それで『報道の仕事をするには、法律を勉強しないといけない』と思って、北海道大学に進学しました」 

 

 北海道大学の法学部に帰国子女として試験を受け、見事合格。今度は3年間分の日本語の勉強に明け暮れた。 

 

 「大学に入ってからは、まずは漢字の勉強してました。先生の言っていることが(日本語なのに)逆にわからなくて恥ずかしかったですね」 

 

 それも当然だろう。3年間、英語しか話せない環境下で学んできた中で、突然、法律用語が飛び交う日本語でも難しい講義を受ける。日本で普通に過ごしていたって、やさしいものではないはずだ。 

 

 だが、それも日々の努力で克服し、大学生活を謳歌した。 

 

 「就活はほんと準備していなくて、4年生になってからだったんです。ほとんど受けていない中で、運よく最初に北海道のテレビ局に内定をもらったので、それですっかり安心していたんです。NHKを受けたのはその後ですね」 

 

 テレビ局に内定をもらうくらいだから、さぞテレビ番組を研究していたかといえば、実はそうではなく、内定をもらうまでは家にテレビのない生活を送っていたという。 

 

 「NHKを受けたのは、当時、会長などが批判されていた時期で、『中の人』たちと直接話したいと思ったんです。イメージだけで『堅い人たちしかいないだろう』と思ったら、面接官がみなさん人間として非常に魅力的な方々ばかりでした。それで『NHKで働きたいな』と思ったんです」 

 

 地元テレビ局に続き、NHKにも記者職として内定をもらい、面接官の人柄に触れ、NHKに就職することを決めた。 

 

 それまでに受けた企業はほんの数社という、学生であれば誰もがうらやむようなスムーズな就活である。もちろん、本人の努力あってのことではあるが、なかなかできることではないだろう。 

 

 「NHKに入局して最初に配属されたのは福井支局でした。記者としての基本を学びましたね。本当に福井はいいところで、今でも大好きです」 

 

 

 NHKは伝統的に新人は地方局に配属され、そこでスタートを切るという。藤田さんも福井支局で県内の事件や事故、お祭りやイベントなどを取材して、地元のニュースを届けてきた。 

 

 「記者の仕事は基本的に、現場に出向いて取材をして原稿を書きます。現地からのレポートもあれば、ニュース記事としてWEBに掲載するなど、映像の撮影、編集以外は全部やるって感じです」 

 

■福井支局で出会った「外国人労働者の子どもへの支援」 

 

 およそ5年間、福井支局で記者としてのキャリアを積む。なかでも印象に残っているのが、外国人労働者の子どもたちへの支援に関するものだった。 

 

 「主に日系ブラジル人の方たちが働きに福井に来ているんですが、その子どもたちが日本語が一切できないまま、地元の小学校などに入っているんです。当然、その子たちは苦労しています。私も高校の頃、『英語ができない外国人』という立場で苦労していたので、何とかしたいなと思いました」 

 

 取材ではなく個人のボランティアとして、外国人のための学習教室のお手伝いなどにも行き、支援してきた。そして、そういった場を通じて地元の多くの人たちと出会い、コミュニケーションをとってきた。 

 

 思えばこの頃から、自分自身の「次のキャリア」を漠然とではあるが考えていた。 

 

 約5年間の福井勤務を経て、東京へ異動。社会部の警視庁担当となる。 

 

 これまでの地方局で様々な取材とはいっきに変わり、大きな事件や事故を扱う部署となった。 

 

 「生活安全部の担当でした。主に少年事件の取材ですね。いつ事件が起こるかわからないので、お風呂のときもスマートウォッチを外さずに連絡が来たらすぐに飛び出すという、そんな生活でした。それまでの人生では出会うことのない人たちと出会いましたね」 

 

 毎朝5時に新聞の朝刊をチェックし、事件があればたとえ夜中であろうが駆けつける。今までの生活スタイルとは言うなれば真逆の形となった。 

 

 だが、NHK記者のキャリアとしてみると、いわば出世へのストレートコースに乗ったとも考えられ、やりがいはあった。 

 

■「やりたい仕事」と「求められる仕事」が違う 

 

 「もちろん日々忙しくてもやりがいはあったのですが、なんというか『不条理な世界の中で生きている人たちの生活を知りたい』という想いがずっと一貫してあったんです。戦争ジャーナリストになりたいとかそういう崇高な形とは違う、自分とは違う世界のことを知りたいなと……」 

 

 

 
 

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