( 149441 )  2024/03/15 14:17:46  
00

「文学は役立つのか」論争、SNSで何度も再燃する訳 前提が「定義」されていない議論は結局すれ違う

東洋経済オンライン 3/15(金) 9:02 配信

https://news.yahoo.co.jp/articles/2858fa9cae58ef685ae74c44af9ab6cff937381a

 

( 149442 )  2024/03/15 14:17:46  
00

SNSで頻繁に起こる議論の不毛さについて、ビジネス数学の第一人者である深沢真太郎氏が数学的な立場から語っています。

彼は、SNS上の議論が前提や定義を欠いているために通じ合わないと指摘しています。

数学的には、定義や前提がない文章や議論に価値がないとし、それを読む必要はないと述べています。

また、良いコミュニケーションをとるためには、最初に定義をすることが重要であり、ビジネスコミュニケーションも数学的なアプローチが必要だと主張しています。

(要約)

( 149444 )  2024/03/15 14:17:46  
00

数学的な立場からSNSの「不毛な議論」の正体を言語化します(写真:bee/PIXTA) 

 

「数字に弱く、論理的に考えられない」 

「何が言いたいのかわからないと言われてしまう」 

「魅力的なプレゼンができない」 

これらすべての悩みを解決し、2万人の「どんな時でも成果を出せるビジネスパーソン」を育てた実績を持つビジネス数学の第一人者、深沢真太郎氏が、生産性・評価・信頼のすべてを最短距離で爆増させる技術を徹底的に解説した、深沢氏の集大成とも言える書籍、『「数学的」な仕事術大全』を上梓した。 

 

【写真】すべてのビジネスパーソンの仕事が劇的に変わる、「数学的なビジネススキル」を徹底的に解説! 

 

今回は、SNSで定期的に盛り上がる議論を取り上げ、それらが「不毛な議論」である理由を数学的に解説する。 

 

■SNSには「不毛な議論」がはびこっている 

 

 ついこの間、「文学は役に立つのか」というトピックがSNSを中心に盛んに議論されていました。 

 

 同様の問題提起は、私のメインフィールドである数学でもしばしばなされています。数年前、ある議員がSNSで「高校生は三角関数よりも金融経済を学ぶべき」と発信したことで(悪い意味で)話題になってしまったことがあります。 

 

 この議員の発言に、いわゆる数学ファンたちがSNS上で批判をしていたのです。このような出来事はこれまで何度も起こっており、個人的には「またか……」という残念な気持ちでした。 

 

 このような議論は、はっきり言って「不毛な議論」であると思っています。そこで、今回は数学的な立場からSNSの「不毛な議論」の正体を言語化します。 

 

 ただしそれはあくまでビジネス数学教育家の立場からという前提があり、私の提唱するビジネス数学とは人材育成やビジネススキルの向上を目指すものと定義します。読者であるあなたの前提や定義が異なることも多いに考えられますのでその点をご了承ください。 

 

 まず、私はSNSなどで誰かが発信している文章などはほとんど読む価値がないと思っています。なぜならその前提が何か、どんな文脈でその主張をしているのか、その背景は何か、といったことが一切わからないからです。 

 

 

 どういうことかご理解いただくため、「高校生は三角関数よりも金融経済を学ぶべき」という発信について詳しく見ていきましょう。 

 

■「前提」がわからない議論はすれ違う 

 

 なぜこのような発言に対してネガティブな反応が寄せられたかというと、三角関数をちゃんと学ぶことにたくさんの時間と努力を費やしてきた人が、確かに存在するからです。 

 

 「三角関数なんて勉強して意味あるの?」といった言説は、彼らのこれまでの人生を否定することになってしまいます。「お前たちがやってきたことは意味がないんだ」と言われていることと同義であり、これまで大事にしてきたものや信じてきたものを軽視されたことに対して怒っているのです。もちろんその気持ちは理解できます。 

 

 しかし、おそらくこの議員は、「特定の職業ではなくすべての高校生がいろんな職業に就く可能性を高めるためには」という文脈、あるいは前提で件の発信をしたのではと私は推察します。 

 

 SNSで批判を続けた人たちに残念ながら少しだけ足りなかったのは、その発言の前提を理解してから「高校生は三角関数よりも金融経済を学ぶべき」という発言に意味づけすることでした。 

 

 「エンジニアリングとしての数学」「経済を理解するための数学」「人材育成としての数学」など、数学にはいろんな側面があります。数学をどのような定義のもと、どの角度から語るかによって表現したことへの意味づけも変わってきます。 

 

 例えば「エンジニアリングとしての数学」という前提であれば、三角関数が不要などとは誰も思わないでしょう。もちろんあの議員もそんな発信はしないはずです。 

 

 しかし「人材育成としての数学」という前提であれば、三角関数を理解することより大事なものは確かにあります(ちなみに私はまさにそこで教育者をしています)。 

 

 「人材育成としての数学」という前提で語っている人の言葉を、「エンジニアリングとしての数学」という立場しか考えられない人が受け取ったら、それは共通認識が取れません。 

 

 

 この事例が教えてくれることは、前提が共有されていない文章をそのまま読んでもおそらく通じ合うことができないということです。 

 

 物事は多面体です。たくさんある面の中からどの面を選んでいるのかがわからないと、正しい・間違いの議論は成立しないのです。そもそも議論が成立していないので決着がつかず、再燃を繰り返す結果になっているのです。 

 

 ですから、私はこの記事の冒頭で前提を確認しています。それにより読者は「ああこの著者はその立場の人なのね」「この著者の前提は自分の前提と違うな」と理解します。 

 

 前提や立場が異なるのであれば、意見が異なることは自然です。どちらが正しい・間違いという議論自体、ナンセンスでしょう。 

 

■良いコミュニケーションには「定義」がある 

 

 このように、SNS上の議論は前提が欠けているから、「SNSの文章は読む価値がない」と考えているのです。 

 

 「前提を確認する」という行為は、数学だと「定義」にあたります。 

 

 数学は最初に定義をしないと始めることができない学問です。素数の性質を明らかにしたければまず素数とはどのような数かを定義しなければなりません。まず冒頭で定義する。これは極めて数学的な作法なのです。 

 

 最初に定義がされていない状態の文章は、読む価値がない。 

 

 数学的にはこのような結論になります。読む価値がないものは、読まなくていいと思うのですがいかがでしょうか。 

 

 私は常々、「ビジネスコミュニケーションは数学である」と公言しています。ビジネスで円滑にコミュニケーションをとるためには、数学的に、最初に定義をする必要があるのです。 

 

 たとえば、私は本業で研修やセミナーを開催しますが、冒頭で必ず定義を行います。具体的には数学をどの立場から扱うのかを明確にしたり、使う言葉の意味について共通認識を図るなどします。 

 

 私は前者を立場の定義、後者を言葉の定義と呼んでいますが、これをすることでようやく参加者と同じ認識と言語でコミュニケーションができます。 

 

 教育者として思うのは、まず相手の定義を確認する(まず定義をしてからコミュニケーションを始める)という感覚がなく、いきなり正しい・間違いの議論で白黒をつけたがる人があまりに多いということです。立場や言語が異なるのですから白黒つける必要などありませんし、もっと余裕のある態度でいたいものです。 

 

 SNSの例が、コミュニケーションの方法を見直すきっかけになればと思います。もちろんSNSの使い方は人それぞれで自由であり、私の考えを強要するものではありません。しかしSNSの「治安」の悪さは社会問題にもなっています。多くの人が、心地よく楽しめるものになってほしいと願っています。 

 

深沢 真太郎 :BMコンサルティング代表取締役、ビジネス数学教育家 

 

 

( 149443 )  2024/03/15 14:17:46  
00

文章の中には、読書や文学に対する肯定的な意見や、文学を楽しみながら知識や情報を得ることの重要性について述べられているものが見られます。

一方で、情報の伝達や議論において前提や共通理解が不足していることによるすれ違いや、実務やビジネス的な観点からの役にたつか否かに関する意見もあります。

教育のあり方や学問の役割についての議論や、現代社会における文学や学問の価値についての異なる見解が示されています。

 

 

(まとめ)

( 149445 )  2024/03/15 14:17:46  
00

・文学である必要はありませんが、読書はありとあらゆる分野において必須です。何故なら人間社会で情報の伝達において最も汎用的で最も用いられるものが文字だからです。 

つまりありとあらゆる知恵や情報へのアクセスで文章を読むことが要求される訳です。 

そして文章を読む速さや読解力は他の物と同じ様に訓練すればするほど上がっていきますので読書は常に人生の役に立つでしょう。 

しかし、速読と読解力を鍛えるために無機質な文章を読み続けるのは苦痛に感じる人も少なくないでしょう。 

したがって文学を読むことで楽しみながら鍛えるのは合理的と言えます。 

 

 

・そもそも前提なんて始めからないものと思って会話してる人が多い印象です。 

リアル世界でそうなのだから、SNSではもっと単純に話すようになる。 

察する文化と世間体がずっと居座る限り、ごく限られた人同士でしか通じない会話のスタイルは続いていくと思います。 

後一つ問題なのは、議論の上で役立つ前提は考慮しないのに、その相手の人格を定義づけるのは簡単にしてしまう人が多い。 

ですので、赤の他人と話す時はよりマイルドに的確な話題しか話せない事が度々ある。 

少し深い話をしただけで、この人小難しいなとか面倒くさいなと思われたりしますからね。 

議論をする土壌が育っていないのかもしれないですね。 

 

 

・私は、研究者、エンジニアで、今は経営者でもあり、文学愛好者でもあります。私の中では考えるという行為において、全て同じ。 

 

物事を形式化する数学は、構造論的な思考においてとても重要ですが、今、本当に重要なのは文学的思考(現象学的思考と言ってもよいか)だと感じます。不確かながら、私から始める思考。物事を多面的に捉えるには、構造と私、社会と個人の両方の面から考えるのが大事だと思います。残念ながら、物事を文学的に捉える志向が失われつつある現状を切に感じます。 

 

 

・筆者の仰る通り、ある議員がSNSで『高校生は三角関数よりも金融経済を学ぶべき』と発信していたのだから、その政治家の漠然とした視点、例えば「政治家になって、金融経済は役に立ったが、三角関数は全く役に立たなかったので」のような省略された前置きがあって、主張の前提になっていたのだと思います。 

議論がすれ違わないように、或いは不毛な議論とならないように、前提の有無、真偽を確認したり、補足したりすることは大切だと感じました。 

 

 

・役に立つと思います。知らない、わからないことは、自分がそれを知らない・わからないことに気づけない。ちょっとでも知っていたらある時にそれに気づいてさらに調べたり勉強もできる。もっと前に知っていたら…と後悔することは多々ある。その日、その時に役立てられないからその後もずっと役に立たないものではない。知識とは関連して広がっていくものと思う。 

 

 

・実用的な考え方は必要ですが、他人にも自身も含めて、数値化できないひとのこころを学ぶことは、他人に惑わされない自身の生き方を見つける意味で、決して軽視してはいきられません 

我々人類は数値でいきているのではなく、感情で皆生きています 

そもそもシステマ化されたコンピュータではないからです  

私も理系ですが、医療に携わるものとして思います 

あなたが言うことは正しいと 

議論の上で前提は大事ですが、どちらも正しいのでは 

軸がずれても議論するのは良いことかと? 

傷つけるのみの批判はもってのほかですが 

数値化できない不安定で不確かなものを受け入れる力もまた 人間力であり、いつか必ず必要になると思います 

 

 

・私は契約社員なのですが。出社したら机の引き出しの中に「ワキガ 臭い」というメモ書きが置いてありました。 

 

ショックを受けつつ、上司に相談しようかと迷いましたが、やめておきました。 

このようなことを上司に相談し大きいトラブルにでもなったら、4月の契約更改の際に切られてしまうと思います。とりあえず契約社員の間は、トラブルを避けてやりすごすしかないと思っています。悔しいですが仕方ありません。見なかったことにして、我慢することにします。 

 

この対応で良いのでしょうか? 

 

 

・数学が得意でも、論理的に言葉で話すことが苦手な人たちもいる。商品説明文が特にそうだ。で、論理的に話せる人が必ずしもすべて数学が得意とは限らないのも、よく経験する事実だ。 

 

たぶん、数学と論理学と文学(特にレトリックなどの修辞)は甲乙つけがたく、どれもかじっておくべきだと思う。それらに〈互換性〉を持たせられる思考力と文章力が必要なのだ。 

 

世の中には〈必ずしも数学的でも論理的でも無い人〉がいて、彼らが〈必ずしもそれらに熟達できるとは限らない〉という現実から考えて、比喩や事例を通して語れるように自分を仕込むのは、決して無駄ではないと思う。〈どんな前提となる知識がないと理解できないものか〉という想像力があって、語彙や比喩の選択につながる。 

 

もちろん、言葉の定義や解釈は人によって異なるので、少しでも相互理解の可能性を広げるという意味で、言葉の選択と定義、適切なロジックが大切になるんじゃないかな? 

 

 

・人間は機械ではないので、論理よりも情理が大事です。論理は機械的なことに役立ちますが、人間的なことには役立ちません。人間は精神をもとに行動する生命体であり、その精神は1+1=2のように成り立つ世界ではないのです。精神を磨くには先賢の書を心で読むことが必要であり、文学も芸術もその一つの手段です。 

 

 

・確かにね。文系の議論でありがちなのは「私の定義では含まれる」「僕の定義では含まれない」というベン図で書けば、全く重ならないのに、「同じ言葉」を使って、平行線の議論をしているケースが散見されること。 

数学・科学系では、あり得ないけれども、文系ではよくある。それを痛感していて「定義」を先に決めるのは「法律学」。日本語とは一線を画した「別の言語」的な様相を呈していて「一つの言葉は一つの意味」としている。 

これは、裁判官によって法律文言の解釈が違うと、公平な裁判が出来ないから、絶対に必要。ただ、時々、変な判決が出て、法曹界では「独自の解釈」と扱われる。 

文系の議論では「それって、どういう意味?具体的に説明して」と質問する場面はある。相手が、どんな意味で使っているのか?分からないと賛成も反論も出来ないから。そして最も困るのは、使っている本人も理解していないケース。これでは無視する以外に方法は無い。 

 

 

 

・「文学は役立つのか」の場合は、文学とは何か、役立つとはどういうことかを定義する必要があると思うし、人と話をする時に、前提となるものを共有していない相手とは、確認しあう必要があるのは確か。しかし、小中高校や塾・予備校の先生にそうしたことをたずねると「そんなこともわからないのか?」と怒られて長い間説教されて、結局のところほとんど何も教えてもらえないということが多かったと昭和の古い世代の人からよく聞いた。 

 

 

・「文学は役立つのか」 

この問いにはもう答えが出ている。 

文学は人の生活において何の役にも立たない。 

しかし、人を変える。しいては世界を変えるものだと。 

哲学者のローティは分断される社会において虐げられた人々の声を代弁するのは理論家ではなく詩人や小説家であると言っている。 

何故なら彼らは理性ではなく感情に訴えかけるからである。 

そしてそこに共感を生み出すことができるからである。 

そして、その共感こそが分断から連帯への道を開くものだと。 

 

 

・物事を論理的に理解し、論理的に話ができる人は本当に少ないです。多くの人は、散文的に理解して散文的に話すので、話す量は多くても、その内容がよく理解できないことが多いです。そこで推し量るという作業が必要になりますが、その結果その推し量りが間違うと話がかみ合わないということになります。 

 

 

・SNSの議論はアテにならない。高校や大学は学力で振り分けられて、話がある程度合う知的レベルで振り分けられてるのに対してSNSではそういうものがない。その上に意を尽くしてキッチリ話し合う場を設けようとしても、一方が面倒になったら「中座します」の意すら見せずドロンと消えることもできる。 

本当に活用したいと考えている人が傍観している可能性は常に考えて、手抜かりのないよう意見を言いたいとは思っているが、目の前の人間を説得すること自体については意が報われる可能性はそれほど高くない。 

変わりたいと思える人が自分で変わる事は出来るが、自分の意を通したいばかりの人を説得するツールとしてはSNSは最悪では?ということ。 

 

 

・文学は言うなれば創造性の原点であり、創意工夫などのインスピレーションをもたらすための着火剤のような存在です。 

それを現実のものとして具現化させる方法として数学が用いられている。 

例えば、〇〇を作ったら便利なのではないか?みたいな発想は生活、ひいては文化の中で誕生する。 

いきなり白紙に数式を書き並べて〇〇を作ったら便利!という回答はできない。 

SF作品に登場するような未来的な科学技術も先に想像から始まり、それが理論上可能なのか?という問を数学によって裏付けている。 

高度な計算ができる電卓があれば自分達は数学を勉強しなくても良いという考えにならないのと同じことです。 

 

 

・じつは最も重要であり、価値の高いのは「文学芸術」であり「思想哲学」なんだけどね。それに比べたら科学技術や経済実業は金を稼ぐための手段的役割しかない。 

 

歴史を振り返れば分かるが、歴史の名前の残っている人たちはどんな人たちか。仏陀やイエスキリストは宗教思想家だよ。イギリスのシェークスピア、ドイツのゲーテ、スペインのセルバンテス、イタリアのダンテ、日本だと紫式部とか夏目漱石とか。みんな文学者だよね。ロシアだって、世界中の嫌われ者だが、ドストエフスキーやトルストイなどは尊敬され続けるだろう。 

 

「文学や哲学なんて何の役にも立たない」と思って軽視するなら、それはそれでいいと思う。でも40過ぎたくらいから、そんな人たちも気づくんだよね。 

 

大学でも一番大切なのは、本当は文学部なんだよね。現実には一番偏差値低いけど。でも学問芸術の本質は文学部にある。 

 

 

・そもそも文学とはいったい何なのか?と言うと、文学とは小説、戯曲、エッセイ、あるいは歴史文学、SF、海外、現代、古典、これらの理解を深めるための学問等々と、文学は確かに存在するが、これが文学であると言う前提が曖昧な抽象的な分野 

 

三角関数は、三角関数という学ぶべき前提が存在して、そのうえで要不要の議論は可能ですが、文学に関しては、前提が多すぎて文学自体の要不要という議論にはできない 

 

また、現代文学に絞ったとしても、ある本Aに関して強い興味を持つ方にとってその本に関する文学は必要であるが、興味がない方にとっては不要。だが、その本に興味がなくても、別の本Bには興味がある場合、今度は逆にBに興味がある方にとってBに関する文学は必要であるが、Aに興味がある方にとって、Bの文学は必要ではない 

 

よって文学というジャンルにおいて、要不要論自体が成立しない 

 

 

・文学にせよ数学にせよ、もともとそれ自体が(その人にとっては)面白いから存在価値があるのだ。わかりやすく言えば「知的好奇心」ということだ。そしてそこから得られるインスピレーションは単なるビジネス教育より深く広いものだろう。 

この人はなんでも「人材養成」に役立つかどうかで考えている。つまり、この人の言っていることはその発想、価値観からして一面的なのだ。なのでこんな人が前提だの言っても意味が通るわけがない。何でもビジネス本位で考える価値観でしかない。 

言っておくが、これまでお金に関する教育が日本でおろそかにされていたことは確かで、その点については金融工学的なものは必要だと思うがそれは個人の経済的な人生設計として必要なのだ。純数学である「三角関数」とどちらが重要かという問題ではない。 

 

 

・自分も若い頃は文学に興味があったけど、中高年になった今では遠ざかった。若い頃は文学で、死について学びたかった。死とは何なのかを文学から知りたかった。でも今はそれは完全に諦めた。 

 

文学では、「人間は死についてどう考えてるのか」は知ることができる。でもそれは「死が実際にどういうものであるか」とは無関係だ。そしてそれを教えてくれる力は、自然科学にしか無い。 

でも自分は数学ができないので、自然科学は理解できなかった。文学も自然科学も選択肢から消えて、宗教だけが残った。 

 

今は歎異抄的立場に落ち着いてる。人間に自由意志は存在しない。全ては他の誰か・何かが決めてくださってる。自分にはどうすることもできないから、考えても仕方が無い。 

そして自分が死んだ時、自分は既にこの世界には存在してないのだから、「死んでいる自分」は自己矛盾だ。だから死についてはそもそも考える必要が無い。自分とは関係の無い話だから。 

 

 

・>数学は最初に定義をしないと始めることができない学問です。素数の性質を明らかにしたければまず素数とはどのような数かを定義しなければなりません。まず冒頭で定義する。これは極めて数学的な作法なのです。 

 

昨日見た同性婚の問題もそうだな。そもそも結婚の定義が何も定まっていない状態で差別だ違憲だって言ってみても無意味だと思う。 

まず結婚を定義して、その定義と現状を照らし合わせて不要なら廃止すべきだし(それが一番平等じゃん)、必要ならその定義に基づいて同性婚を認めないことが差別に当たるのかどうかを判断すべき。 

本来こういうのってマスメディアが提示すべきなんだけど、マスメディアの質もネット世論並みに低下しているのでただ上っ面だけで議論するしかない。本当の問題はそこだと思う。 

 

 

 

・この方って頭がいいのかなぁ…なんかものすごく狭い感じがします… 

無理やり狭くして、分かりやすく端的にしようとしてるみたいな… 

 

前提を定義するって大事ですけど、それがものすごく難しいことはほとんどの人が分かっていると思います。 

そうなれば、テーマを話し合いたいときには、一旦ほんの少しの前提の定義や共有でいいのかもと思います。 

とりあえず「文学は役に立つのか、ということに意見を持っているとか関心がある」とかから、論争するのでもいいと思います。 

 

「不毛」とか簡単に切り捨てるのも、短絡的だなと思いました。 

 

そもそも、役に立つ、立たないというのを一つの正解を出したいわけでもないのでしょう。 

喧々諤々でいい。 

ずっとそれについて、考えて話し合う、また考える、それが目的だと思います。 

 

 

・この記事が、「前提の定義」をふりかざしての「議論のすれ違い」ともなってしまっているのではないか。 

「事は多面体」であるように「世間の話は粗雑」でもある。口頭でのコメントなどは大概そんなもんであろう。字面で定義などされなくとも、議員の発言の趣旨は分かるし、それへの批判も「暗黙の前提」のうえに展開されている、と大方の誰もが承知している。もちろん、「その前提」から外れた不毛な論議も多いことは認めるが、問題はやはり「論議の質」であって、「手続きではない」かと。ここでは、はからずもこの記事自体がすれ違いの代表事例となってしまっているかとも。 

 広告やノウハウセミナーなどでの、この手の「疑似科学」が横行し、本来の学術的場面での議論が偏狭化・衰退化している現状が残念です。 

 

 

・数学の三角関数がわからないと、物理がわからない。 

物理が分からないとは、自然法則が分からない、ということで十分でしょう。 

 

小学校・中学校で学ぶことも、役に立たせることができるかどうかはその人次第ではないでしょうか。世界や人を自分で知ったり調べたりするための最低限必要な読み書きはできるようになるはずでしょうから。 

 

 

・殆どの場合前提は定義できないというかどちらの前提に立って話し合うのかの合意を取れないかなと思います 

強制力を持つ誰かが強制的にこの前提以外は発言するなと言えば定義はできますけど、そうするとその前提には興味は無いと居なくなるので結局話し合いにならないと思いますし 

 

 

・SNSで学問の有益性を語るのはナンセンスだと思いますね。 

 

いろんな学問がある中で、不特定多数でかついろんな人生を 

歩んできた個人が現在おかれている状況によって 

学生時代に学んだ内容が活きているかどうかは個人の考え方に 

終始するはずだと思っていますので・・・特定の学問を不要だと 

断言したり持ち上げたりする必要はないでしょう 

 

言えるのはいろんな学問を通じて視野を広げたり 

授業を通じて同じ学生や教員との関係を深める事は出来るから 

だいたいの学習は役に立つでしょ?くらいの意見に留まります 

 

 

・人が何かで成功するためには周囲の人と「上手くやっていく」ことが必要ですよね。そのためには円滑にコミュニケーションが取れることが不可欠です。 

 

文学にはその助けになる「ボキャブラリー」と「デリカシー」がたくさん詰まっています。どんな人にもある程度は役立つと思うのですが・・・ 

 

 

・文学の素養は文章の表現力に影響するだろうと思います。 

文学でも小説、エッセイ、批評など用途が分かれる。 

広い意味で考えれば法律文書や取説でさえ文学とも言える。 

 

 

・役に立つっていうなら人によるとしか・・・ 

たとえば歌舞伎とか大好きな人が知り合いにいますが、私は全く意味が分からないので興味がなく・・・彼ら的には面白いらしく何かのモチベーションになっているみたいなのですが、そういうことなんじゃないのでしょうか 

その人の役に立ってるならいいんじゃないですか?別に理解しあう必要もないと思いますけどね・・・ 

 

 

・議論には「前提の共有」が必要だ。と言うのは同意だが、自分の感想としては「論理的前提」とか「定義」だとか言う事よりも、議論のために共通土俵としての「教養の共通ベース」というものが現代の日本に欠落しているように思う。たとえば、林真理子氏と成田悠輔氏との対談の中で、林氏から「活字離れを憂慮する」という発言があったが、成田氏は「ツイッターで、けっこう活字は活用されていますよ」という反応だった。林氏の本意は「活字離れ」の中に「読書離れ」「文学離れ」という意味を含めて語っているのにもかかわらず、成田氏は「活字」だから「活字」のことでしょ。という理解のレベル。「教養のベース」が共有できていないとこういうことになる。 

 知識人の劣化がここまで来ているということなのだろう。 

 

 

・エンタメは役立つのか 

多くの人が一生実生活で使わないであろう微積分や酸化剤の半反応式は役立つのか 

絵画やクラシック音楽は役立つのか 

舞台俳優や歌手、お笑い芸人を目指してバイト生活をする若者の生産性は高いのか 

経済性を考えたら、本当に役立っているものはほんの一握りのように思います。 

経済性を基準にするのなら、そんな金にならん芸事に時間を潰すのなら、製造業について実体経済に貢献しろということでしょうか。 

 

 

 

・今の世の中は、特に西側諸国は、そういう文学を否定し、実利に直結した事だけを追求した人等が今日を招いています。 

そういう人等はドストエフスキーとか読まないのです。だから一般庶民大衆を無駄飯ぐらいと世界で公言して、AIやロボット、ドローンを礼賛している。 

そしてそうこうしている内に、ネットは検閲、本も本屋が減り図書館も減り、本も処分されていっている。書き換え改竄可能なデジタルが進むのは焚書でもあるのです。 

いつまでそんな浅はかな実利主義で生きるのか。そのなれの果ては人間機械の融合と言われ、公然と今も政府HPでムーンショットと隠すことなくされ、CMでdocomoが他人の力と遠隔操作技術でピアノが弾けますと誇らしげに言う。食べ物も虫ときたもんだ。 

数字だ何だは大事だが、そいつらは嘘をつくために数字をこねくりまわしているだけで、人間の情緒、文化、歴史を軽んじたから、回り回ってきてると感じてます。 

 

 

・まぁ、「教養」を高めることは、どこかで何かで生きる。 

なお、高校のクラス編成で理系と文系とに分けるのはやめとけ。私は教員組合が強い時代に高校生活を送ったが、文系進学クラスだったが数Ⅲを学習させられた。当時は不満だったが、微分積分は後に経済学で役に立ち助かったね。そんなものだ。 

 

 

・学問として成立してるって事は間違いなく世の中の役に立ってきた証左だよね、たいてい学問はオレの知らない所で役に立ってるんだと思う。 

いろんな分野で大御所とか名人がいるのかと想像すると楽しいね。 

 

 

・役に立つか立たないかで教育を問うなら、教育内容のほとんどが実生活においては役には立たないよ 

音楽だの美術だのなんてその最たるものだ 

大学の講義も同じ話で、文学部・法学部・経済学部・教育学部……社会に出て仕事をする上で何かしら役に立ってる人ってどれほどいるやら 

教養とは何か、で考えないとさ 

 

 

・いいじゃん、役に立たなくたって。好きな事を勉強したい時に、それが文学だっただけのこと。それを、絵画、芸術はサラリーマンにとって役に立つのですか? 役に立つかどうか、損か得か等、そんな、近視眼的な発想でしか考えられないことが、役に立たない人間を作るのです。 

 

 

・そうですね「前提が違うからすれ違う」同意致します 

 

SNSでは大部分がこれですね 

 

SNSでは殆どが演繹法で語られますので、この前提が違えば交わる事はありません 

 

対立を避けるためにお互いの前提確認を相互理解されていれば反証が論理立ってきますが、そこがない所が炎上のきっかけとなるのでしょう 

 

 

・記事のいわんとすることには概ね賛成だけど、世の中的にも、あるいは学術分野でも定義がひとつに決まっていないものがワラワラありますよね。「情報とは~」「文化とは~」などなど、人によって定義は様々です。「前提」をすりあわせるにはどうしたらいいんでしょう。 

 

 

・偏差値30のワシから見たら数学も文学も全く同じものにしか見えない。 

どちらも、 『誰かに何かを伝えよう』 という手段の一つであって、 一つの同じリンゴを指して、 「赤いリンゴ」であろうが「50グラムのリンゴ」だろうが「甘いリンゴ」だろうが「3割引きのリンゴ」だろうが、 ワシのようなあほからすると 「安くて美味いリンゴ」 しか鼻から求める解答など無いやん。  

結局、リンゴを売って儲ける賢い側の奴らが、  

「糖度15なのに3割引で、とにかく甘くて安くてお買い得!」  

といった数字と文章を組み合わせてくれないと、ワシらあほ側には分からん。  

一方で「糖度15で三割引」や「とにかく甘くて安くてお買い得」のどちらかでも判断して用が足せる売買専門のプロも居る訳や。  

『役に立つか』という問いであるなら、『末端現場でスムーズに用を足せるものは、全て役立つ』としか思えない。 

 

 

・学校の勉強は将来の役に立つからやっているわけではない。やれと言われているからやっているだけ。そして優秀な生徒は、やれと言われた科目を最短時間で習得する方法を考える。 

 

 

・小説含む本を読むと、想像力が広がり、思考が深くなると思う。自分が経験しないことや、経験できないことを本で疑似体験できて視野が広がる。 

最近は、文学軽視みたいだけど(お金稼げない)ね。 

理数系のイエスとノー、正解と間違いがはっきりしていて、規則化ばかり進む社会は、スッキリしているのかもしれないが、冷たい世の中になるというか、まあ大切なものが欠ける気がする。うまく書けないが。 

 

 

 

・そもそも役に立つか立たないかで学問を論じるからこうなるんですよね 

実学はどの部分で役立つのかわかりやすく、形而上学みたいなものはわかりにくい 

直接的に役に立ちそうなものばかり学んでも、枠の外に出ない気はするんだけどな 

 

 

・文学は金儲け社会から見たら無駄に過ぎないだろう。でも人生には無駄が必要だ。というか、文学は人間の夢を虚構の世界で表す貴重な手段だ。社会生活のなかでは夢はことごとく蒸発して消えてしまっている。 

 

 

・役に立たせる気がないから役に立たない、では? 

もしくは、役に立ったことに気付いていない、では? 

文学とか数学とか勉強のために便宜的に分野を分けてるけど、色んな分野が混じり合っているのが人生だから。 

 

 

・個人差、文化・習慣、生活様式、生育過程など様々な要因によって「……は役に立つのか」の答えが異なる。だいたいこのようなことを考える時というのは、それを究めきっていない時で、自分にとっての価値が分からない時だと思う。 

究極は「この人生は自分の役に立つのか」。 

 

 

・馬鹿げた論争です。平安時代の日本が残したもので今も生きているのは「源氏物語」。それほど古くなくとも,シェークスピアやドストエフスキーなど偉大な文学が今でも世界の人々に多大な影響を与え続けていることは自明のこと。文学以上に人類の役に立っているものはありません。 

 

 

・良質な文章を自分の中に蓄積するメリットはなかなか数字化できないので、どういう意味で「役立つ」なのか、場面を限定しないと不毛だろうね。 

 

個人的には、ネットのコタツ記事や個人のSNSを読むよりは自分にとってプラスであると思っている。 

 

ヤフコメで「そうゆう」と書く人が一定数いるが、「あぁ、本を読まない人なんだな」とすぐ認定できる(笑) 

 

 

・そもそも人生に意味なんてあるの? 

 

まあ極論まで行くと「そりゃ個人による」だよな 

文学が役に立たない人生もあるだろうが、それを決めるのは他人ではない 

まあ学校の勉強をクリアする程度には必要だろうけど 

 

 

・〇〇は役に立つのか。その前提に合致する人にとっては、役に立つし、必要なものである。その環境、状況に遭遇するかどうかはわからないが、その場面に遭遇した際、それを知っている事で、それらに適応する、或いは適応しやすい状況を作り出しやすくなる。その切っ掛けを与える為に主観ではなく、客観的な考え方で教育をしていると言う事を理解する必要がある。当然、そのような場面に出会う事がなかった人にとっては、全く無駄なものになりやすくなると言うだけの話。 

 

 

・でもねー、仕事とかでもきちんと前提を共有しようとするとイライラされるんだよねw 結果話が血迷った方向に行っちゃうので事前にちゃんとしたいと思うんだけど、うまくいかないよねー。人間ってコミュニケーションに不向きなんじゃねとか思っちゃう。 

 

 

・文学学びました、大学院にも行きました、でも関連する職に就職できないし奨学金だけが残りましたってのは違うってことだろう 

世の中はその手の不満を書いて税金で助けろと言う人が多すぎるから役に立たないのを学んだくせにという声が出る 

 

 

 

・この手の議論は簡単だ。 

 

文学は役に立つ。 

たたし、日本の大学の多くは、職業には役に立たせるには、方向性が違いすぎるし、レベルが低すぎる。 

 

それだけのこと。 

 

 

・最近また人身事故が増えているように思うのですが、もっと文学に親しんでほしいと切に思います。 

 

 

・そもそもSNSなんて議論する場所ではない。議論って互いに理解し歩み寄るためのものなのに、相手を言い負かすものと勘違いしてる人が多い。 

 

 

・文学っていうけど言葉の表現を学ぶ訳でしょう。 

話が通じない人が多いのは、その辺りが軽視されているからなのか? 

 

 

・〉文学は役立つのか 

 

人生の意味も価値も人それぞれなのだから「何の役に立つのか?」と問うこと自体が、そもそも不毛で無意味な話だ。 

こういう愚問を投げかけてくる輩には「(文学は)おまえの人生と同じぐらい意味も価値もないよ」と返すことにしている。 

 

 

・>>〜という文脈、あるいは前提で件の発信をしたのではと私は推察します。 

>>残念ながら少しだけ足りなかったのは、その発言の前提を理解してから〜 

 

筆者も勝手に前提を推測するような人でした 

 

 

・抽象的過ぎる!コレでは分かってる人にしか分からない。分からない人は分かった気になるだけ! 

 

まあ、そうでないと継続的に儲からないのかな。分かる人が増えたらパイが減る。 

 

 

・必要不必要論はさておいて、古文なり歴史を研究して何に発展するのかは疑問 

娯楽としてやる意義は分かるけどね 

 

 

・筆者が数学の専門家だから数学に寄せて書いてるけど、これって論理学の話だよね? 

数学も論理学に似ているからいいけど。 

 

 

・活字離れで本さえ読まない国民が増えてる中でこの論争は意味があるのかな。 

読書好きだけの論争か・・・ 

 

 

 

・法律でも、プロの作った法律は必ず最初に言葉の定義がありますね。 

(議員立法だとないこともある) 

 

 

・「役に立つのか」っていう問いかけを文学に向けて問うということ自体、なんだかなぁと思ってしまう。 

 

 

・直接役立つかは分からないが、本を読んでる人の方が深みがある気がする 

 

 

・ガッコのベンキョー派役に立たない、なんてそれも勉強しなきゃ〜分かんないもんね。 

 

 

・※記事内容からかけ離れたトンチンカンなコメが多いですが、むしろ記事のテーマ通りです 

 

 

・マス・大衆はもう消え去ったと考えなければビジネスできない時代になってしまった。 

 

 

・”役に立つ” という言葉の定義が必要であると常々思っている。 

 

 

・文章理解できないと契約書や重要事項説明書も理解でき無い! 

 

 

・SNSで議論しようってのがそもそも無理じゃね? 

 

 

・役立つってのは、現代では金を稼ぐって意味なの? 

 

 

 

・文学の話が出てこない。 

 

 

・何を基準に生きるんだ 

 

 

・とりあえず、古典と漢文は絶対不必要だろ。 

 

 

・文学が役に立たないのではなく、役に立たない文学部卒が多いんだろ。 

文学を学んできたとは思えないほど、文章を書くのが下手だったり、読解力がなかったり、物事の関連性や分類分けが苦手な奴が多けりゃ、学んできた学問までそういう目で見られる。 

真っ当に文学を勉強している学生は本来は遊ぶ暇なんてないだろ。一生をかけても読み尽くせないほど世の中に溢れている文芸について調べるんだからさ。 

 

 

・>前提を提議していない文章は読む価値が無い。 

 

というより、その文章から『前提』を読み取る力の方が重要なのでは。 

『前提』が分からないのなら、普通は反論できない。 

反論するってことはその『前提』を理解しているか勘違いしているかの場合。 

 

かみ合わないのは『理解力の無さ』の現れ。 

 

 

・役に立たないと考えられて戦争末期に赤紙来たんだよね。自らの文化を守れない国など滅んでも仕方ない。 

 

 

 

 
 

IMAGE