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バブルの象徴、狂乱のディスコ「ジュリアナ東京」跡地はどうなった? かつての倉庫街に押し寄せる巨額の投資マネー

47NEWS 3/18(月) 11:02 配信

https://news.yahoo.co.jp/articles/f1713921237a0e412715223b43ecd12486c28fc7

 

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写真やインタビューを通じて、バブル期に活況を極めたディスコ「ジュリアナ東京」があった東京・芝浦の変遷が明らかにされた。

ジュリアナ東京跡地は不動産投資が流入し、産業が変化している。

現在はタワーマンションやシェアオフィスが建設され、芝浦地区の景観が変わっている。

周辺地域の人口増加や都市機能の転換が進む中、新興企業が活動する場所として芝浦が再注目を浴びている。

(要約)

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ディスコ「ジュリアナ東京」で踊る女性たち=1994年8月、東京・芝浦 

 

(写真:47NEWS) 

 

ジュリアナ東京があった建物の入り口。赤い屋根は当時のまま残っている=2月、東京・芝浦 

 

取材に応じる折口雅博氏=2月、東京・六本木 

 

芝浦地区に林立するタワーマンション 

 

芝浦地区に新設された小学校 

 

運河が多い芝浦地区を案内する芝浦1丁目町会の岡田祥男会長(左)=2月 

 

シェアオフィスのラウンジ。青い椅子はジュリアナ東京で使われていた=2月、東京・芝浦 

 

IT企業が入居するシェアオフィス=2月、東京・芝浦 

 

 日経平均株価が日本経済の「失われた30年」を経て、バブル経済絶頂期の1989年末に記録した史上最高値を更新。一時、未知の領域だった4万円台を付けた。バブルの高揚感を象徴する存在とされたのが東京・芝浦の倉庫街にあったディスコ「ジュリアナ東京」だ。ワンレンのヘアスタイルに、体のラインを強調したボディコンのファッションを身にまとった女性たちが羽根付きの扇子を振りながら狂喜乱舞した。 

 

【写真特集】それは絶頂と崩落だった 平成経済30年史 次代の教訓 

 

 営業期間がわずか3年の短命に終わり、バブルのあだ花ともいわれるジュリアナ東京の跡地を訪れると、バブルの再来かと思うほど不動産に投資マネーが流れ込み、産業も構造変化が進んでいることが見えてきた。(共同通信=越賀希英) 

 

 ▽無料券配り満員を演出 

 

 ジュリアナ東京はJR田町駅から徒歩約10分のビルの1階にあった。現在は博報堂と外資企業のジョイントベンチャーが入居している。ビルの入り口には当時のままの赤い三角形の屋根があり、「昭和」をほうふつとさせる。 

 

 芝浦地区は埋め立て地で、物流の拠点として発展してきた。地元に詳しい関係者は「田町駅の海岸側はいわゆるブルーカラーの街。倉庫のほか、立ち食いそばなどの飲食店や商店が軒を連ねていた」と振り返る。倉庫はコンテナ船から小型の船に移し替えた荷物の保管に使われていたという。 

 

 ジュリアナ東京があったビルも倉庫だった。1200平方メートルとテニスコート6面分ぐらいの広さがあり、使いやすい長方形。そして天井高が8メートル以上。日商岩井(現双日)の社員だった折口雅博氏はオーナーから有効活用策を相談され、ディスコにぴったりだとひらめいた。「倉庫街で普段行かない場所。非日常感がある」というのが理由だった。折口氏は総合プロデューサーとなってオープンにこぎ着けた。 

 

 当時の店内を振り返る映像では、人がひしめき合って踊る様子が印象的だ。だが満員の裏にはある仕掛けがあった。 

 

 折口氏は「常に満員にすること」が人を呼び込むヒットの条件だと読んだ。平日でも満員にするために、顧客の主なターゲットを会社員とし、有力企業に招待券を配りまくったという。 

 

 当初は来店した千人の客のうち、有料で訪れたのはたったの1割。折口氏は「最初はそんなににぎわっているとは思わず、それほど期待せずに来る。話題のディスコだから来るだけ。そして来てみたら満員でものすごく迫力があって『これはすごい』となるから、次は招待券がなくても来る」と述懐する。 

 

 熱気にあふれたダンスホールが刺激を求める客を次々に呼び込み、1991年5月の開店から1年たたずに全員が入場料を支払って来るようになった。平日は女性が4500円、男性は5千円だったという。 

 

 バブル経済が終わりを迎えたのは1991年2月ごろとされ、ジュリアナ東京が開店したときには景気は既に下り坂だった。だが世の中はバブルの余韻に浸っていて、経済の低迷がまさか30年も続くとは気付きもしなかった。折口氏が「自分がいかに目立つかということにためらいがなかった」と思い起こすように、女性たちは名物の「お立ち台」で競い合うように踊った。 

 

 

 ▽タワーマンション建設ラッシュへ 

 

 芝浦地区はこの頃、物流の構造変化に伴って港湾機能が必要なくなり、レジャー施設や企業のオフィスを中心とした都市機能に切り替える計画が進みつつあった。 

 それを後押ししたのが、2013年ごろから押し寄せた巨額の投資マネーだ。日銀が当時の黒田東彦総裁の下で大規模な金融緩和政策を開始した時期と重なる。住宅ローン金利は歴史的な低水準に押し下げられ、市場にあふれた巨額の投資マネーは不動産開発へと向かった。地元でビルを所有する男性が「土地代が上がり始めたのはここ10年くらい前からではないか」と振り返るように、住民の実感とも符合する。 

 

 ウオーターフロント再開発と題した東京湾岸地区開発の目玉の一つとなったのが、芝浦アイランドと呼ばれる芝浦4丁目の一角だ。四方を海に囲まれた人工島にタワーマンションが林立し、人口が1万人増えた。タワーマンションの建設ラッシュはその後、周辺地域に広がった。 

 

 ジュリアナ東京のあった芝浦1丁目の現在の人口は約3600人。そのうちタワーマンションの住民は約2千人と過半数を占めるという。投資用のワンルームマンションも10棟ほどある。芝浦周辺の2022年の路線価は10年前と比べると7割余り上がった。 

 

 JR田町駅は東京駅まで電車で約10分。羽田空港までも30分程度の距離だ。住宅購入サイトによると、マンション価格は70平方メートルのファミリー向けの部屋だと1億円を優に上回る。だが通勤に便利な立地は、パワーカップルと呼ばれる高収入の共働き夫婦から支持を集め、住宅ローンの低金利の恩恵もあって人気は根強い。 

 

 人口の急増で2022年4月には小学校が新設された。地下1階、地上9階建てのビルで、校庭は屋上にある。地区の二つの小学校を合わせると児童数は約1400人。建築中のマンションもあり、児童数はまだ増えそうだという。 

 

 JR田町駅周辺は広い公園が整備され、病院やスーパーもできた。芝浦1丁目町会会長の岡田祥男さんは「住民の声を聞きながら開発が進み、非常に住みやすい場所になった。こんな街並みになるとはバブル当時は思い描けなかった」と話す。 

 

 

 ただ課題もある。岡田さんは「自ら汗をかいて地域のために動こうという意識が薄い人が多く、十分な交流ができていない。災害が起きたときにお互い顔の分かる関係が築けていなければ、いざというときに助け合えない」と指摘する。昔から住む人同士の結びつきは強いが、新たに移り住んできた人とのつながりをどう持つのか模索中だ。 

 

 ▽新興企業が切磋琢磨する場所に 

 

 ジュリアナ東京のあったビルは2024年に竣工から50年を迎える。大規模改修で一部がシェアオフィスとなり、起業直後の経営者が集う。ビルの管理会社によると「ジュリアナ東京があったというストーリーを面白がってくれる企業もある」という。 

 もともと倉庫だったため、部屋の大きさを自由に変えられるほか、一般的なオフィスに比べて割安で借りられることも評価され、借り手が途切れない。入居した企業の中には、業績を拡大して巣立っていく例も多い。 

 

 入居中のIT企業関係者は「(賃料などの)固定費を抑えられることは(今のビジネスが)ちゃんと商売になるか分からない新興企業にとっては大きい」と話した。入居者同士が交流できるラウンジには、ジュリアナ東京で使われていた青い椅子が再利用されている。 

 

 新たな価値を見いだした芝浦地区。バブル経済期の面影を残すこの場所では今、将来の日本を代表する可能性を秘めた新興企業が切磋琢磨している。 

 

 

( 150514 )  2024/03/18 23:36:32  
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(まとめ) 

これらのコメントから、ジュリアナ東京はバブル期の象徴として捉えられており、当時の華やかで派手な時代を懐かしむ声や、バブル崩壊後の社会の変化についての意見が表れています。

一部にはジュリアナ東京が閉店した際の狂乱や後日談に関心を持つ声もあり、過去の時代に対する様々な思いや記憶が反映されています。

さらに、バブル期に、楽しみや興奮、経済の変動など様々な要素が混在していたことが伺えます。

( 150516 )  2024/03/18 23:36:32  
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・ついこの前のことですね。中学の卒業アルバムでジュリアナのコスチュームで写真撮りました。 

こうして、時は必ず過ぎ去るから、今やりたいことは、今すぐ遠慮なくやっておかないといけないですね。定年になったら…なんて言ってると、そのときにはもう気力も体力も足腰も視力もついていかない。一番大事な意欲、好奇心がそもそも無くなっていく。45歳でさえ、衰えはひしひしと感じます。あと25年ほど、数えるほどしかない人生をどう生きるか。仕事一筋は、カッコいいけど、やはり違うんだろうなと思います。 

 

 

・ジュリアナ東京があった場所にスタートアップ勢が押し寄せてくるとは、東京都心の時代の変化は大きい。スタートアップ勢の大半はジュリアナの存在を知らない世代が大半で、彼らが日本再生の主役としてジュリアナの跡地を中心に動いている。対してジュリアナで踊っていた人々は今や個々の場所で自分の人生や家族、それに社会やビジネスの今後の先行きを案じる世代になったものだ。都市の姿も人間模様も大きく変わったものだ。 

 

 

・アルバイトで田町と浜松町の間にあるくらいのビルに行ってたとき、中間地の高架下が恐ろしくうるさかった思い出があります。 

先日、モノレールに乗ったとき、その上を通過しました 

当時と変わらない様子。 

ただ、タワマンでグローバルフロントタワーというマンションが増えていたのが印象的でした。他、田町駅近くもタワマン増えてて。 

浜松町は倉庫会社、物流関係へのアクセスになりますね。紀文、マリンフード、山星屋始め東京物流センターへ行く人も多いと思います。空港利用者だけではないモノレールです。 

 

 

・当時子供だったから、詳しい場所まではわからなかったけど、 

けっこう外れの方にあったんですね。 

 

そういえば、この世代の人に、 

冗談で「当時ジュリアナで踊ってたんじゃないですか」って言ったら。 

 

「いや私はGOLD行ってたから。 

あの辺り行くと、見た目と服装でジュリアナかGOLDかわかったのよね」 

って、マジメに生々しい答えをされてビビったことがある。 

 

 

・近くで働いてました。 

金曜日の帰りに田町駅に歩くとフェイクファーのコートの女性が沢山いて、コートの内側は下着みたいなものしか着てないのがチラチラ見えて、完全に変質者ルックでしたね。車で乗り付ける前提のファッションだから電車で来て駅で仲間と待ち合わせなどすると異様でしかない、、 

「メディアに踊らされる」ならあの格好で電車にも乗れるって凄いなって思います。 

 

 

・ジュリアナ東京は日曜日がレディースデーで無料だった 出入り自由になってた 

女性が集まると自然に男性が集まるというのが道理だった時代 

儲かる儲からない別にして今は何だかんだ言われるんだろうな 

バブルははじけてたけどまだ余韻があっておおらかな時代でした 

 

 

・今は仕事でよく行ってますが、もうあの頃の面影もありませんよね。Daiwa芝浦ビル周りのヤナセさんや地下に止まっている高級外車の方がやたらと目立ちます。田町駅、三田駅につながる屋根付きのストリートで夜も飲食している人達が多勢いますが、ちょっとお金持ちの人たちかなとも思ったりします。今は落ち着いたいい感じの場所になってます。 

 

 

・ジュリアナ東京は一度行きました。同じビルのたしか最上階の「東京ポートボウル」で会社のボウリング大会があり、その後に数名(男性7名、女性1名)で行ったのです。 

 

入場の際、店の黒服の方々にドレスコードで一旦拒まれましたが(女性がジーンズだったため)、何度か訪れている先輩社員の交渉で、なんとか入場しました。 

 

交渉して入った価値は十二分にありました。83年にオープンしたTDLは初めて入ったときの100倍くらい感動しました。今は、30代の良き思い出となっています。 

 

 

・いわゆるバブル期と大きく違うのは、過去の株価高値になってた時は実質的に好景気だった、実質化今は景気は低迷しており実質賃金が下がって会社だけが安い人件費で儲かる仕組みに変わったことで、その利益が海外の株主に流れてしまい株価だけが上昇して独り歩きしていることですね 

例えばバブル崩壊のち平均株価が1万だった頃と今では4倍になっているが私達日本国民の平均賃金が4倍になってるなんて聞いたこともありません。それどころか、物価だけが上がってしまい更に実質賃金が下がってしまうありさま。 

移民など受け入れているような余裕もあるはず無いのに労働力不足と安い賃金確保のために軽々しく受け入れている 

普通ならば賃金を上げるか、設備投資が当たり前が当たり前ではなくなっているのがとても残念に思えてなりません 

 

 

・できた当初に友人に無料で行けるからと誘われて一度だけ行きました。倉庫街はたしかに非日常感があってワクワクしました。迷ってうろうろして、ここかなと思って聞いたらそこはゴールドでした。(これまた懐かしい。) 

開店当初だったのでその後のジュリアナの定型イメージみたいのはまだできてなかったのですが、みんな同じ振り付けで踊ってて、なんかいいやという感じで、これまたタダで飲めたドリンク飲んで帰りました。いい思い出です。 

 

 

 

・バブル経済は既に崩壊していたが団塊の世代Jr.が成人するタイミングでもあり客層は新社会人を中心としたサラリーマン達であった。お立ち台の女性達は全てでないにせよサクラとして雇われた者だった。そう考えると色々と仕組まれた大衆店であった事が記事からも読みとれる。それとは逆に当時少し先に同じ芝浦でオープンしていたGOLDは曲調も異なり所謂業界人やクリエイター系の人が集っていた。大体同じ頃にお互い閉店したが思えばそのあたりから本当の失われた30年が始まったのではなかろうか。 

 

 

・久々に「ボディコン」を思い出しました。 

 

かつては、あんなに数があったDISCOも 

今じゃ跡形もないほど姿を消しました。 

 

ジュリアナ東京より六本木や新宿に行く方が多かったです。 

そしてあの頃は、今の自分とは違い細かった……恥ずかしくてお立ち台に上がって踊ることはしなかったけど、あの雰囲気好きだったな~。 

 

本当に懐かしいほど、自分にとって良き時代でした。 

 

 

・当時まだ20代後半で内装業界に勤めていたのでバブル期はひたすら忙しく、遊ぶどころかいつも終電まで働いていた印象しかない。それでも終電を逃すたびに1万円超のタクシー券がでていたのはバブルならではなのだろう。当時、都内のあちらこちらに仮説の店舗やイベント会場が出来ていたのだが、街の変貌と共に今では何処にあったのかすら思い出せない。ジュリアナもその一つだろうが、事故や事件もなく、シェアオフィスとして良い余生を送っているのではないだろうか。 

 

 

・ジュリアナ東京、日比谷ラジオシティ。還暦の私が仕事終わって時々遊びに行きました。 

当時弾けていた世代も今や還暦前後となり女の子より孫が可愛いと思っている方も少なくないことでしょう。東京は常に進化している街なので良い思い出ある時間と記憶してこの先生きていく事にします。 

 

 

・2004年辺りまでこの地域に通勤で通っていたが、橋を渡ると高速の高架下でひっそりとしており、昼食を買いに行くのはローソンぐらいしか無かった。 

非常に寂しい地域で仕事で銀行に用事がある時は、いつも昼食を都会で食べてから会社へ戻って来るようにしていた。陸の孤島という言葉がふさわしかった。 

ずっと忘れていたが、どうなったんだろうか。ってふと想い出したりする時もあるので、この記事を読んでもう20年も経って変わったんだなって思った。 

 

 

・バブル時代のディスコと言えば、ジュリアナ東京とベルファーレ六本木。 

バブル時代に私は高校生で、1988年~1991年の田町駅は通学途中の駅でした。 

部活帰りにワンレンボディコンのお姉さまが沢山いて、ハラハラドキドキしていたのを記憶しています。 

四谷に住む親戚の家には最近「地上げ屋」が復活していて、バブルの再来となっているそうです。 

 

 

・友人がジュリアナ東京に通う女性のアッシー君でしたが、結ばれて結婚したのを思い出しました。私は麻布十番マハラジャ本店(特大のプリンが女子に大好評)や、六本木のディスコエリアが大好きでした。エリア跡地は現在バーレスク東京の模様で、地下に通じる階段や踊り明かした広間がとても懐かしいです。 

 

 

・ジュリアナの最初の頃は、実は男もお立ち台で踊れたんです。ルナマティーノの派手な色物のスーツを着て‥そんな時代でした。あれはあれで楽しい時代でした。今ではそんな場所もなく、今の若者は少し可哀想にも思えます。我々が若い頃は、ジュリアナだけでなく、遊ぶ場所がとにかく多かった。 

 

 

・ジュリアナ閉店後、しばらくはスポーツ用品店でしたね。 

 

何回か行きましたが、長いエントランスはそのままで、店内にある謎の段差がお立ち台の跡だったり、トイレはジュリアナ時代そのままだったり、痕跡を楽しめました。 

それも15年くらい前に閉店してしまいましたが。 

 

 

・エイベックスからリリースされたジュリアナ東京のCDがかなり売れていたんだよな。ジュリアナをはじめ、マハラジャやスーパーユーロビートのCDセールスが成功した事でエイベックスが飛躍するきっかけとなった。これが無ければその後の小室ファミリーも浜崎あゆみやELTも無かったかもしれない。 

 

 

 

・ここは東運ビルですね。 

ジュリアナ東京があった当時ここに入居している企業と取引があり打ち合わせのための訪問を何度かしました。 

打ち合わせが夕方を過ぎて夜になると、ドコドコと響いてくる音があってそれはビル全体を震わせているジュリアナ東京の音でしたね。 

取引先の社員の方々は困り顔でした。 

 

自身の勤務地も最寄駅が田町駅でした。 

芝浦側の変化ははげしく、80年代はアルファレコードや棭済会(公益社団法人日本海員掖済会)病院がありました。いまは全部建て代わってしまいましたね。 

 

芝浦口に小学校があったのですが、1986年に伊豆大島の三原山が噴火したときは全島避難があり、そのうちの一部の方々の避難先がこの小学校でした。 

 

 

・ジュリアナは先輩に連れられて良く行ってました。 

ロッカーに、ジュリ扇を羽が飛ぶからビニールに入れ 

いつも入れてました。ジュリアナは特に音響が良かったです。 

ジョンロビンソンがノリノリだった姿が今も思い出されます(笑)。 

そして、ジュリアナにはデッカイ階段があって、 

その周辺が暗くなってて、陰で怪しい事もやってた。 

まだ若かったので色々社会勉強になりました(笑)。 

過激化がエスカレートして閉店に繋がったのもある?かも。 

全身網タイツ状態とか、殆ど丸見えの人とか色々出現してたし。 

あと、お立ち台の直ぐ下にカウンター席とかあって、 

サラリーマン風の男性達が凝視してたり。 

今思うと浮かれてて凄い時代だったなぁと思います。 

またジュリアナは、営業が終わるとフロアは羽だらけ。 

従業員がほうきで羽を集めてて 

赤い羽の山が出来てた光景を今も思い出します。 

 

 

・ジュリアナ東京は芝浦の倉庫街にあったのか。 

 

騒がれていた当時、こちらは田舎の高校生。 

トゥナイトとかの深夜番組で熱狂ぶりを見て「すごいなあ」と思っていた。 

ワンレンボディコン、身体の横に布が無い服とか、羽根つきセンスとか荒木師匠とか憶えているけど 

テレビの中の出来事で自分が行く場所とは思ってなかった。 

 

その後東京で就職したころには、主流派ディスコからクラブに変わっていた。 

 

芝浦付近は、仕事とか、ゆりかもめや東京モノレールで通ったりしていて 

場所自体は知っているのにジュリアナ東京があったことは今知った。 

 

そうかあそこだったんだ、と何だか感慨深い。 

 

 

・懐かしいです。当時は中学生でボディコンのお姉さんとかいましたね。 

通学していた当時、7時過ぎに都内の某所でトタン張りの個人商店からボディコンのお姉さんが出てきて違和感がありすぎたのに驚いたことがあります。そのお店の娘さんでしたが、今思うとすごい時代だったなと思います。 

 

 

・当時、学校帰りにJR田町のトイレで着替えて行っていました。 

 

エイベックスからジュリアナのCDを購入して無料の半券が付いていたので、それで入店してました。 

派手なお姉さまたちに負けじとドキドキしながら15センチくらいの高いハイヒールを履いて行った懐かしいバブルの思い出です。 

 

 

・ジュリアナですか・・・・当時物珍しさもあり、たった一度だけ会社の同僚と行ったことありました 

お立ち台ではテレビでもよく見たジュリ扇片手のボディコンギャルがこれでもかと踊っていたのをやたら覚えてます 

あの有名な「ジュリアナ〜TO〜KYO〜」の生音(生声?)が現場で聞けた時は流石に少し感激しましたね 

ただとんでもない人数でごった返す人達の余りの熱気と、聞いたことないような腹に響く音の凄まじさにすっかり気圧され、「ここは俺たちのような人間が来ては行けない場所だったな」と遠い目で周りを見渡しながら呟いた同僚の言葉に激しく同意し、飲み物を二杯ほど飲んだだけで一切踊ることもなく立ち去りました 

今となっては良い思い出です 

あの頃踊っていた人達のエネルギーって相当凄かったんだろうなと改めて思います 

 

 

・行こう行こうと思いつつ 

仕事が忙しかったりで行かないまま。 

当時あれだけかっこいいと思っていたワンレンボディコン 

今見ると笑ってしましますね。 

女子が眉毛を太く描くのが流行っていて、 

どんどん太くなっていきましたね。 

ジュリアナで踊る女子とは違う方向のファッションでしたが。 

ハウスマヌカンとかかな。 

眉毛どんどん太くなって、最後右左つながって1本にする強者が出てきて。 

ちょーかっこいい!と思ってましたが。 

今、考えられないですね(笑) 

 

 

・跡地がスポーツショップ兼カフェになってた時代に 

ランチで何度か行ったけど今も建物残ってたんだ。 

 

バブル前の芝浦は治安や風紀悪くて夜に女性が一人歩くの危険だったけど 

ジュリアナ人気で東口にも活気出て雰囲気変わったと聞いた。 

周辺の再開発も進んで今ではタワマンに富裕層も住むようになったよね。 

 

 

・地方だから行ったことないけど、音楽は好きでコンポやカーステで良く聴いてました。この年はJリーグ、ジュリア東京、ジュラシックパークと3Jってのがありましたね。お立ち台で有名だったお姉さん達が後にテレビに出ていましたが、普通の主婦とかしてて、ほっこりしました。 

 

 

・ジュリアナを作った折口は、グッドウィルという搾取に搾取を重ねた派遣バイトの会社を作って濡れ手に粟の大儲けをしたやつ 

 

現場への交通費も自己負担で、高額な社名入りトレーナーやTシャツを労働者に買わせてそれをユニフォームとして作業させてた 

現場の都合で仕事が無くなっても本人には知らされず、無駄になった交通費は労働者には支給されなかった 

勿論バイト代もやたらと安かった 

 

後に天罰が下って廃業する事になったけど、折口本人は大儲けした後だから痛くも痒くもなかっただろう 

久々にこいつの名前を見て本当に気分が悪くなった 

 

 

 

・マハラジャに行くとダンスの上手な人が先頭で踊り、後の者が真似て踊っていた。ビートの効いたサウンドに、煌びやかな照明、皆の熱気がホールに溢れかえり不思議な共感を生みだしていた。お立ち台の女性軍は皆、扇子を振り優雅に踊っていた、ボディコンシャスがセクシーだったなぁ。 

 

活気に溢れていた時代の儚い夢みたいなものだった気がする。しかし置き換えることのできないよき時代でもあった。 

 

 

・バブル当時田町に通勤してたけど、 

ジュリアナには全く縁がなかったなあ。 

仕事が忙しくてディスコどころじゃ無かった。 

一方で有給とって海外にたびたび出掛け、 

結構充実してた。 

周囲にはヒンシュク買ってたけど。 

給料上がってたしバブルの恩恵受けてた世代。 

あの頃の田町はどこか下町っぽい雰囲気が漂ってた。今は随分変わり、自分の会社のビルも新しく建て直されて昔の面影が消えちょっと淋しい。 

 

 

・ジュリアナの閉店で「バブル崩壊」がようやく一般化していったんだが、 

あのままバブル経済が続けば、日本人ももう少しマシな「贅沢」の味わい方を理解するようになり、 

ジュリアナ東京も洗練された社交場に進化していたのかもしれない。 

今はもう、貧困まっしぐらで経済面も精神面もしみったれてしまった。 

 

 

・有名な松尾芭蕉の俳句の「夏草や兵どもが夢の跡」ではありませんが、ジュリアナ東京はバブル期の夢の跡ですね。 

もしも今でもジュリアナ東京があったら訪日外国人観光客や訪日外国人富裕層専用ナイトスポットになっていたかも。 

 

 

・ジュリアナはバブルの象徴としてマスコミの格好の餌食になっていた印象。 

中学の頃、学校から帰ってきてワイドショーをつけたらその映像が頻繁に流れていて、カラオケに行くと私達もTRFのEZ DO DANCEをよく歌っていた。バブル崩壊はしていたがまだバブルの余波みたいな新社会人になった人は、それを謳歌してみたかったのかしら。 

でも急速に経済は悪化して、95年には地下鉄サリンテロが起こった。優秀な若者が未来に絶望しか感じられず、新興宗教にのめり込むしかなかったのだろう。そんなのほんの数年のジュリアナがバブルの象徴言われるが、バブル後の最後の悪あがきだったんだよね。 

 

 

・バブル期の象徴のようにマスコミでは報じられていますが、これ違いますよ。ジュリアナ東京は1991年5月開業で、東京ではバブル期が終わって1年以上経っていました。どちらかと言うと、バブルよもう一度という感じです。1989年末の史上最高値の株価は、1990年秋には半額になっていました。1990年夏には、年末までには赤坂と銀座で200件以上の飲食店が閉業するだろうと言われていましたから。 

 

 

・タクシーでジュリアナ東京までワンレン、ミニスカボディコンのお姉さんが合い乗りで沢山ぞろぞろと降りてダンスホールへ消えて行く時代が懐かしいです。ボディコンでも水着か?下着の様な衣装を纏い踊り狂っているのを見ては?ドキドキした思い出もあります。 

足っ~しい君もあったも時代で世間も盛り上がっていましたが、 

現代の株高でもバブル期の様な好景気ではなく、ジュリアナ東京の様な風景がなく時代の変化が伺えます。ジュリアナ東京も復活して欲しいな~ 

 

 

・ジュリアナ東京よくいきました。ラスト30分のDJジョンロビンソンが大盛り上がりでした。VIPルームに当時有名なプロ野球選手が居てホールにいる女の子を全員をVIPルームに入れて楽しんでましたよ。羨ましかったです。 

 

 

・このジュリアナがオープンしたのって、バブル崩壊が89年とか90年だと 

したら、92年でバブルの狂乱が終わったくらいなんだよね 

実際94年の冬まで統計上はバブルが続いたとなっているみたいだが 

80年代と90年代前半は、明らかに空気感が変わっていました。 

テレビ番組で頻繁にジュリアナやJメンズ東京なんかが特集されていたころ 

1993年はもう就職氷河期でしたしね 

 

 

・90年にメーカーに就職していきなり地方配属になりジュリアナは行かず終いだった。配属された事業場はすでに入社時から業績悪化で汲々としていた。 

4人部屋の寮住まいでバブルの恩恵など何も感じなかった。配属された10人が3年で半分になった。東京でジュリアナ行ってるとか言う同級生が羨ましかった。でも彼らを含め、その後10年ぐらい、特に金融・証券組は大変だったようだ。他の業界でも安穏と一社で過ごせたというのは少数派。私も今まで海外含め10数回転勤、転職した。我々はバブル入社組で確かに就職は楽だったが、その後それぞれの人生はまさに激動、同級生の消息を知るにつけ、お互い何とか生きているだけですごいと思う。ジュリアナのその後より、踊っていた人たちの人生のほうが興味深い。 

 

 

 

・私も以前に「ジュリアナ東京」のビデオを見て、一度でもいいから、行ってみたいと思いましたし、「お立ち台」が撤去されてから、ボディコンとワンレン姿の女性がいなくなって、大人向けのディスコに変わったけど、閉店されてから、立ち寄るお客さんがいないと思いましたね。 

 

 

・バブルと言うと、よくジュリアナ東京が 

出てくるけど、ジュリアナ東京がオープ 

ンしたのはバブル真っ只中じゃなくてバ 

ブル崩壊後なのはその世代の人なら皆だ 

いたい知ってると思うけど、それにして 

もいつの間にか随分と時間が経ったもの 

だよね。 

 

バブル崩壊後も、暫くは世の中バブルの 

余韻が残ってたというか、バブルの残り 

香がまだ香ってたというか、バブルを引 

きずってたというか、そんな感じの時期 

があったけど、ジュリアナ東京はそんな 

時期の象徴っちゃ象徴だね。 

 

 

・バブル期入社のオヤジ。 

あの時代はホント、異様だったね。 

「バブルへGO!」という映画もあるが(観てないけど)、面白おかしく振り返ることはできても、あの時代が良かったとは別に思わない。 

 

バブルは、ハジケて「就職氷河期」世代を産み出した、とんでもない毒酒だったということ。だって結局次世代に何も有機的なもの残してないでしょ。 

 

そういえばジュリアナ東京じゃないけど、ミラーボールだかシャンデリアだか天井から落下して、確か死人も出たデスコあったな。因果だね。 

 

 

・ジュリアナの頃は大学生だった。 

音楽好きで、それより以前はディスコって新しい音楽の発信地だったけど、ジュリアナにはそう言う側面は無かったので行かなかったですね。 

 

それより寧ろ、インクスティック芝浦ファクトリーに行って、P-MODELやサンディー&ザサンセッツ、ルースターズを見た事の方が印象に残ってますね。 

とにかく面白いバンドがズラリ出てたと思います。 

 

芝浦って以前は工場街で、特にプレス屋が多かった気がする。 

そっちこっちでドカンドカンとプレスの音が響いてた。 

80年代初頭には、この芝浦に有ったアルファレコードのスタジオAで、YMOがそれらの機械音をサンプリングして、かの傑作『テクノデリック』を作ってました。 

 

音楽好きにはジュリアナとは別の音楽発信基地だったイメージがありますね。 

芝浦には。 

 

 

・株価高騰よりOLや公務員が金融商品買い始めたらバブルだろうと思う。 

更に為替レートが円高ドル安に振れると、海外リゾートブームが再来して、狂乱の感じが出てくる。 

今の所みんな慎重で、その兆候は見受けられない。 

 

 

・まさにバブルの象徴でした!このとき、世の中がなにか起こっていたかはっきり言ってわかりませんでしたが、よく覚えているのは、地下鉄六本木近くて勤務していて、帰り際、地下鉄の入口から沢山の人が溢れ出ていたことだけは記憶にあります。これもバブル景気の現れだったでしょう! 

 

 

・ただただ懐かしい 

一時的の快楽に溺れるさまは、ある意味「ソドムとゴモラ」のリアル版で、ジュリアナ含めバブルを享受しまくった日本人の姿だったのかも 

 

それから30年すぎて、このような悲惨な日本になるという現実を叩きつけられた 

 

間違いなく言えることは、バブル時期にこそ「節制かつ不動産等投資を規制」すべきだったけど、もはや遅し 

やはりというか、あえて規制かけた国が今やいい具合に発展している 

日本人はもっと過去歴史から学ばないといけない!! 

 

 

・子供の頃、テレビでやってたけど、周囲は貧困で節約節生活だった。 

浮かれてたのは一部の富裕層だけだよ。 

なので、バブルを懐かしむ気持ちが全く理解できん。 

 

そこそこ働いている皆が不安感なく暮らしていける未来があると良いけどね。 

 

 

・プロデューサー折口雅博氏の思惑がうまくいった 

娯楽施設でした 

当の本人は、産業界の表舞台からいなくなりましたが、ジュリアナ東京が閉店したあとも、建物自体は、立地条件がよいので、企業の事業所としては適当な場所です  

近いうちに、また新たな娯楽施設が できるかもしれません 

 

 

・同じビルの反対側のテナントで働いていました 

自分が配属された頃はもうスケボーやサーフボードを扱うスポーツショップになっていました 

今は亡き田町ハイレーンと並ぶ芝浦のボウリング場東京ポートボールが最上階にあるんですよね 

 

 

 

・ジュリアナはディスコと言うよりクラブだよね。ディスコと言えるのは、70年代東亜会館中心に歌舞伎町に乱立してたのがディスコ。中学生や高校生中心に十代の若者が朝まで楽しんでたのがディスコ。未成年ばかりが集まるから一斉補導があったな。マイクロバスに乗せられ新宿警察に連行。それ故深夜0時で閉店に成った。ジュリアナは社会人の大人が集まるクラブ。踊りの中心はボディコンの女。お立ち台の下には男が群れる。純粋に踊りを楽しむ十代の若者は居なかったでしょう。 

 

 

・しもしも石黒賢いるぅ〜おったまげーから、「アッシーくん」「メッシーくん」「ミツグくん」、ジュリアナではサラリーマンが毎晩シャンパンにロレックスを沈めていたと言う逸話もあった。まさに狂乱乱舞の時代、今のバブルは今後どうなるんだろうか?株価が上がり企業は内部留保を膨らまし、給料が上がらない中小企業と大企業の格差益々広がるばかり、少しでもなけなしの資金を増やそうと投資と言う博打や時計レンタルに手を出して痛い目を見る。そんなバブルがくるのかなぁ? 

 

 

・当時田町にメーカーの研修センターがあって、夜な夜な行ってました。 

ドレスコードもあったけど、私は入れなかったことはなかったです。 

あのころは遊ぶのが仕事だったと誰かが言ってたけど、まさにそんな時代でした。 

 

 

・インクスティック芝浦ファクトリーや東京ベイゴーゴーで花開いた東京湾岸カルチャーはGOLDやジュリアナ東京に進化していきました。 

ジュリアナ東京で内で知り合った女性とは、手っ取り早くジュリアナ東京の前にある五十嵐冷蔵が経営するYum-Yumに行ったり、六本木やみなとみらいのゴルフドームに繰り出したりしていました。因みに声をかけた女性がバッティングした場合は、常に持ち歩いている源泉徴収票で源泉バトルが始まります。 

そんな中、ジュリアナ東京内で女性に声をかける男性をゲッター、ジュリアナ東京から出てきた女性に声をかける若い(年齢やドレスコードでジュリアナに入れなかった)男性はコゲッター君と呼ばれていました。多くのコゲッター君はリーバイスのデニム、ラルフのブレザーを身にまといハイラックスサーフで女性が出てくるのも待ち構えていました。個人的には、コギャルのコは、このコゲッターから来ていると思います。 

 

 

・ジュリアナといえば荒木師匠と呼ばれたお立ち台ギャルの姉御格みたいな女性が話題になったな。当時テレ朝の深夜番組「トゥナイト」でも取り上げられて、一時期レギュラーで出てましたよね。今頃どうしてるんだろう? 

 

 

・バブリーな景気を聞くようになった87年のギリ前の85年前後に円高不況というものがあり、その円高不況対策から産業構造を製造業から非製造業に変えようと躍起になった当時の政府。 

基本中の基本、米国のように食料を作ろうと思えば食料自給率数百%も可能な土地もなければ、石油もない日本が先進国になれたのは製造業の技術があったから。 

その製造業から非製造業に変えようとバブリー泡景気を起こし技術の海外流出を起こし、当然泡のバブリーは続かないのは判った上の、今に思えば「狂気の沙汰としか言えない」政策だが。 

 

そのジュリアナ東京も僅かない時期だったようにバブリーな泡景気も僅かな時期。 

記事にも91年からとありますが製造業が少なくなり空いた港湾の土地と倉庫の短期活用策だったという事。 

場所からウォーターフロントと呼ばれたが、現実はその時期にそれに浮かれさせられ後は風俗の仕事という意味のウォーターフロントの意味も 

 

 

・芝浦倉庫街のあった場所だよね。 国鉄の汐留貨物駅から貨物列車専用の線路が敷設されていた。 確かに、銀座や汐留周辺と比較すれば、オフィスの賃貸料金は割安かもしれないけど、ちょっと駅からの距離があるよね。 波止場だから仕方ないか。 

 

 

・大阪のほうの大きなディスコだったところは、その後まんだらけになってた。 

まんだらけの方にしか行ったことなかったから前身が何だったのかは知らないけど、キラキラのエスカレーターと舞台があった。アニソンを歌えた。 

 

 

・バブル時代に世間から白眼視されてた漫画やアニメが今では世界的な人気コンテンツになった一方、ディスコはすっかり潰れてスキーゲレンデに閑古鳥が鳴く時代になるとは想像出来なかったなあ。 

 

 

・田町の駅降りて、途中のたしかロッテリアだったと思うんだけど、ハンバーガーで腹ごしらえしてジュリアナに行ってたなぁ。若かったから元気もあったし、仕事のストレスを解消するには良いところだった。 

 

 

 

・ジュリアナ、懐かしいわぁ。 

 

私はマハラジャ派だったけど、当時六本木では、ギリギリでパツパツのボディコンを着たワンレンが、平気で街中を歩いていた。 

 

あれから30年たち、ようやく株価は最高値を迎え、賃金や物価も上がりつつある。 

 

これらが上がらないと、国などの債務も増えるばかりで、物も買い控えが起き、それこそ経済成長しない。 

 

それもこれも円安が要因。 

 

ようやく日本経済が復活しようとしている。 

 

 

・バブル全盛期に流行った感じがあるけど実際は完全に崩壊した時なんだよね。営業期間は短かったのにここまでの知名度があるのはすごい 

 

 

・当時はバカになれてはじける事が出来る人は割と極一部。昭和史を振り返る映像だと誰もかれもがジュリアナに行ってたように見えちゃうけど実際は殆どが固定客だった。それでも一大ムーブにしたのはホント凄いなと思う。 

 

 

・まだ当時は中学生ぐらいだった記憶がうっすら残ってます。子供心にも随分と勢いがある様な絵面に映りましたが、今振り返るとバブルって言ってもジュリアナ東京の頃はもうバブルも終焉期だったですわね。 

弾けた後も数年は余韻でダラダラとそれなりの生活水準が維持出来ていた様に思います。 

で、ワシらがいざ就職探そうって頃になったら「就職氷河期」の到来ですわ…。 

振り返るとあの頃からもうすぐ50歳に手が届きそうな年齢になった今日まであっという間に過ぎてしまったので、人生なんか儚いもんだなって実感致します。 

 

 

・ジュリアナ、ワイルドブルー横浜、東京マリン、ザウス、 

なんかバブルを彷彿させるフレーズですよね。 

ザウスはすでにバブルが弾けてましたが、あの価格設定は十分バブル価格だとおもいます。 

 

 

・ジュリアナ東京のお立ち台やボディコンもインパクトが強いけど今までに無かったド派手な音楽の衝撃が強くてロック大好き少年だった自分には時代が変わる瞬間でした 

 

 

・そういえば芝浦で建設中の巨大オフィス、恐らく失敗するだろうな。 

 

まず駅から微妙に遠い。環境が汐留に似ている。 

浜松町駅近くでは別の巨大オフィス建設中。 

さらに隣の高輪ゲートウェイ駅では直結のオフィスビルをJRが建設中。 

 

どこにそんな需要があるのか。資金ばかりが集まって、建てることが目的になっていないかね。 

 

 

・もはや田町をジュリアナ東京と結びつける人はいないように思う。 

その頃の人たち以外。 

そもそもジュリアナ知らない世代が多くなってきているし。 

芝浦は今や開発がガンガン進んで全く違う様相。 

港区のスポーツセンターや愛育病院、森永製菓の本社など、新しい建物もできて、かなり変わった。 

 

 

・当時、東京の大学に通うために地方から上京した私の後の職場の先輩は、ジュリアナお立ち台で毎週末踊ったと言ってました。 

閉店まで踊り、帰るためにジュリアナの出入り口に差し掛かると男性がズラリと並んでいて花束をくれたりされたそう。 

だけど、デートは女性に選択権利があり 

スルーしたりしたと言ってました。 

 

 

・いつまでも我々、昭和の亡霊をつけ回すんじゃない。ジュリアナはもうないんだ。 

令和の若者達は、新たに令和の「踊り場」の5W1Hを、自らの手で作り出すべきだ。少なくともそれはジュリアナの跡地ではないはずだ。 

令和がお上品でしょぼいのは、作り出す情熱と熱狂する狂気とバイオレンスがないからなんだよ。 

世界にどこにもない物、世の中でサイコーの物、究極の世界ランク一番。それらを追求し続ける姿勢だよ。 

 

 

 

・あの時は小学生が不動産しても儲かると言われてた時代ですね。知り合いのお兄さんも佐川急便で働いてフェラーリを買って辞めたりとか なんか儲かる話しかなかったですね。バブル弾けて にわか不動産屋が全滅してましたね。 

ただバブル弾ける前は今と違ってほんとか嘘かわかりませんが景気良い話のオンパレードで日本に活気があった様に思います。私はバブル弾けてからの社会人なんで経験はしてませんが。 

 

 

・バブルの頃 20代後半でした 麻雀屋を経営していて 売上もそこそこ良かったですが 

お客さんの金の使い方が凄かった(^^; 

ジュリアナにも 良く行きました。 

路駐当たり前 高級車があちらこちらに路駐してました。もう2度とあのような時代は来ないと思いますね(^^) 

 

 

・バブルが崩壊し、国外に流出した日本の富は 

1,000兆円を超えると言われている 

 

将来、バブルを知らない世代が同じ目に合わないように 

地震と同じように教訓として未来に引き継ぐべきだと思う 

 

 

・還暦目前ですが、当時仲間の結婚式の二次会はほぼディスコ貸切でやりました。 

定番は青山のKing & Queen、私は神楽坂のツインスター。 

それと札幌の釈迦曼陀羅、ここも楽しかった。 

 

 

・ジュリアナに集まっていた女性たちは決して踊りが上手い訳ではなかった。ただビートに合わせて身体を不器用にくねらせていただけ。特にお立ち台に登りたがる人ほどそうだった。かかっている曲に合わせてカッコよくて踊る女性というのは当時「クラブ」と呼ばれた小さめのハコに大勢集まっていましたよ。それもジュリアナなんかより全然オシャレな人達がね。とにかく当時は、どこに夜遊びに行ってもメチャ混みだったし、花金の六本木の歩道なんて大袈裟ではなく満員電車のようだった。体を横にして人混みを縫うようにしないと前に進めなかった。あの「バブル」は何よりも人々の精神を解放した。だから誰もが財布の紐を緩めたし、何か面白い事を求めて繁華街に繰り出した。今の株価バブルがいったい人々の何を解放しているでしょうか。 

 

 

・当時は、田町と新宿を梯子していました。 

ジュリアナは、それまでのクラブやディスコでいう『〇〇ナイト』的なイベントとは、全く異なるスタイルの斬新なイベントが行われていたという印象が残っている。 

 

 

・当時は東京とはかけ離れたところに住んでおり、テレビでしか存在を知らなかったので、六本木あたりかな(いったことないけど)とぼんやりおもってました。 

今ではあちこち回ってるので、駅名、地名を見れば、あの辺りかとわかるようになりました。 

芝浦の倉庫でしたか。 

 

 

・ここでこんなにGOLD通ってた方達が見れるとは思わなかった(^_^) 

わたしも登場大学生でした。HouseダンスやっててGOLDも良くいってたな。ラリーレヴァンのプレイを生で体験できたの感動でしたね、たしかフランソアKもプレイしてた気が 

何もかもが懐かしい 

 

 

・東京育ちで、既に会社員になっていましたから、「ジュリアナ東京」に行く気になれば可能でした。ただ、別にディスコに関心がなかったので、行くことはありませんでした。今にして思うとネタとして、一度は見に行っても良かったかな。 

 

 

・ジュリアナは好景気の象徴でしたね。 

 

そして、いま日本にはバブルが再来しています。 

不動産価格上昇、株価戦後最高値、インフレ経済、大手企業の賃金上昇、中小はこれから。 

社会情勢が80年代バブル初期と酷似している。 

 

今のスピードで不動産価格が上昇したら、普通の人は家買えなくなる。 

既に株式を持っている人、持ち家の人達、5000万円の物件が倍になったら普通に売るだろうし。 

バブルは投資しなきゃ儲からない。 

真面目に働いてるだけじゃ意味が無い。 

 

80年代バブルは5年間だった。 

できるだけ早く動いて乗り遅れないように。 

あとは引き際が大事です。 

 

 

 

・ジュリアナがバブルの象徴? 

バブル崩壊後のストレス発散の場では? 

 

バブルの頃は社員旅行で家族連れて海外旅行や会社でのイベントが多かった気がする。(私の勤めていた会社は社員負担1万で5泊7日だった) 

それはそれでリフレッシュ出来てたな… 

有休も使わなければ買取ってくれてたし… 

 

 

・小学校5,6年の頃だったか、クラスの女子の一部が机の上に昇って「ジュリアナ東京~」と言いながら踊るマネをしていましたね。男子連は「何だそれ?」と意味が分からず。随分と経ってから「このことか!」と分かりました。でも、調べてみるとジュリアナ東京のような露出度高めのボディコンって本当のバブル景気の頃にはあまり見られなかったみたいですね。(ボディコンにも流行の移り変わりが有ったようです) 

 

 

・ジュリアナには行った事ないが、近くにゴールドというディスコには何回か行った。 

35年前オープンの日にゴールドに行ったら芸能人が来てた。懐かしい。 

成人式に5階のフロアでSMやっていて、見てる時オナラしたら怒られて皆んなの前で正座した、スーツ着て。思い出の20歳 

 

 

・ジュリアナ東京が全国的に認知されたのはバブル崩壊後 

しかもとっくに時代は平成になっていた。 

当時を知っていれば誰でも分かる事。 

 

バブルの象徴で昭和の香りと言えばマハラジャの方が時期も合っていて全国的な流行り具合も含めてふさわしい。 

 

ジュリアナ東京がバブルの象徴とか昭和の香りがとか言うのは女性が裸のような格好で扇子もって踊り狂う絵がインパクトがあるので時代背景をちょっとずらして明らかにストーリーを都合よく創作してしまっている。 

 

 

・バブルって背伸びして借金重ねて遊んでたなぁ。多分ジュリアナ連中も大して変わらないと思います。ホントにバブリーなのはごく一部で、デパ地下で働いてましたが、田舎から出てきた人たちがみんな背伸びして生きてました。バブリー捕まえて結婚して破産した女性も複数名いましたね。田舎帰った人の方が幸せになってる感じがしますね。 

 

 

・ジュリアナ東京のそばに東京ボーラー(名前はうろ覚え)って言うボーリング場があって看板のピンがジュリアナ東京の場所を示す目印になっていた。ただ、芝浦には田町ハイレーンって言うボーリング場もあって、田町ハイレーンの道路挟んで隣でバイトしていたので、よくジュリアナに来ただろうって思える恰好をした人が田町ハイレーンの周りをウロチョロしているのを見かけた。 

 

 

・ジュリアナ東京はどちらかといえば昭和ではなく平成ですよ。 

過去の思い出遺産がなんでも昭和ではありません。 

そしてジュリアナ東京が閉鎖したのは平成3年ですから。 

昭和の時代のディスコとジュリアナは一線を画しています。 

 

 

・大学生の頃、丁度バブル真っ只中だったが、何故かバブルの恩恵とは無縁だったし、お恥ずかしながらジュリアナもデッセジェニも、ディスコなんて行ったこともない。 

何だか、ああいう場所は場違いな感は否めなかったし、苦手だったので… 

 

 

・本当に狂乱の時代だったな。ワンレンボディコンのオネェちゃん連中が、羽根扇子を振りながらステージ上で踊り(あれはダンスと呼べるものじゃなかった)、それを男どもが下から見上げる、という構図だった。当然オネェちゃん達の下着は丸見えで、それをオネェちゃん達も承知の上で、中には過激な下着(紐パン)だったり、ノーパンの人もいたっけ。 

 

 

・オフィス街のとあるビルが勤務先。 

当時はコンプライアンスなどの言葉もルールもなく、金曜の終業後は女性の一部は社内で股下◯cmとかのボディコンスーツに着替えてビルから退社していった。 

もしも今の時代ならオフィスビルからそんなのが出てきたら「このビル、風俗店でも入ってるのか」と思いそう。 

 

 

 

 
 

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