( 150685 )  2024/03/19 13:34:53  
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車いす(画像:写真AC) 

 

 3月16日、映画館チェーン「イオンシネマ」を運営するイオンエンターテイメント(東京都港区)は、従業員が来館者に不適切な対応をしたとして、謝罪文を発表した。 

 

【画像】えっ…! これが60年前の「海老名サービスエリア」です(計16枚) 

 

 謝罪文では来館者に対して、従業員が移動を手伝う際に不適切な発言をしたと報告。「楽しみに当劇場にお越しいただいたにも関わらず、不適切な対応により大変不快なお思いをさせてしまいました」と述べている。 

 

 謝罪文では触れられていないが、問題となったのは前日の15日に「車いすインフルエンサー」の女性がエックス(旧ツイッター)で公表していたトラブルだとされる。 

 

 女性によると、イオンシネマで映画を鑑賞した際、これまで従業員が車いすの移動を手伝ってくれた。しかし、この日の映画鑑賞後、段差が危険であること、スタッフが限られていることを理由に、従業員が今後は別の映画館に行くように求めたという。女性はこの問題を提起し、実質的な“入場拒否”ともとれる従業員の発言に問題提起を行った。 

 

 女性の問題提起に対してイオンエンターテイメントはすぐに対応し、謝罪文の掲載に至った。この素早い対応から察するに、従業員への車いす来館者への対応も指導が進むと期待できる。 

 

 しかし、これで一件落着とはならなかった。このニュースがインターネット上で広まるにつれて、 

 

「悪質クレーマーのカスタマーハラスメントである」 

「車いす利用者は事前に連絡すべきだ」 

「炎上商法にしか見えない」 

「車椅子対応の研修には莫大な費用がかかる」 

 

といったように、問題提起をした女性に対する誹謗(ひぼう)中傷が相次いだのである。SNS上では、「車いすを持ち上げて移動するのは危険」という医療・福祉関係者の意見など、一見論理的な意見が「錦の御旗」にされ、問題提起をした当事者の方が非難されている。 

 

 当事者からの問題提起は、企業側にとっても問題点を洗い出す上で価値あるものであったはずだ。にもかかわらず、当事者をあたかも悪質なクレーマーであるかのようにみなす悪質な意見がまん延しているのが現状なのだ。もはや異常としかいいようがない。 

 

 

SNSで誹謗中傷を行う人のイメージ(画像:写真AC) 

 

 この問題でSNSでやたらと見かけるのが 

 

・感謝 

・思いやり 

・配慮 

 

といった言葉だ。特に、車いすに乗っている場合は、事前に施設に連絡し、配慮してもらうべきだという意見に賛同する人が多いようだ。筆者(昼間たかし、ルポライター)からしてみれば、「またこれかよ」といいたくなる。 

 

 しかし、これは大きな間違いである。健常者が映画館に足を運んで映画を見ることは問題なくできる。それと同じことを、移動に車いすが欠かせない人もできて当たり前だからである。 

 

 当事者に感謝や配慮を求めるのは時代遅れである。日本の制度設計は、すでに車いすを使うことを「当たり前」とする方向にシフトしているのだ。2024年4月に施行される「改正障害者差別解消法」がその一例だ。 

 

 今回の改正の大きなポイントは、これまで事業者の努力義務であった障害者への合理的配慮の提供が“義務化”されたことである。配慮ではなく、義務である。義務と聞けば、イオンシネマの件で当事者からの問題提起を否定する人たちは、 

 

「障害者の要求に全面的に応じなければならないのか」 

 

と反発するに違いない。そうではない。合理的配慮義務で求められるのは“対話”である。内閣府が作成した障害者差別解消法のウェブサイトやリーフレットには、こう説明されている。 

 

「合理的配慮の提供に当たっては、社会的なバリアを取り除くために必要な対応について、障害のある人と事業者等が対話を重ね、共に解決策を検討していくことが重要です。このような双方のやり取りを「建設的対話」と言います」 

 

内閣府では、いくつかの事例を用いて 

 

「過去例等を踏まえると当初は対応が困難に思われるような場合であっても、建設的対話を通じて個別の事情等を互いに共有すれば、事業者と障害のある双方にとって納得できる形で社会障壁の除去が可能になることもあります」 

 

としている。 

 

車いす専用の駐車場(画像:写真AC) 

 

 障害者差別解消法は、2013(平成25)年に障害者権利条約・障害者基本法に実効性を持たせるために成立した法律である。この法律では合理的配慮とならんで 

 

「不当な差別的取扱の禁止」 

 

が定められた。これは、障害を理由としてサービスの提供を拒否したり場所や時間帯を制限、障害者以外にはない条件をつけることを権利侵害として禁止するものである。その上で、施設や事業者が実情の中で解決策を考えるために、合理的配慮すなわち当事者との対話をしなくてはならないとしたわけである。 

 

 この法律が重要なのは、障害者に対する対応や施設の整備は健常者側の思いやり・友愛・同情によるものではなく 

 

「当然の権利」 

 

であり、当事者の意見の反映が必須であることを明確に示したことだ。いわば“同情融和”的な障害者対策との完全な決別である。 

 

 一見すると、強者や健常者が社会的弱者である障害者に同情し、思いやりの表れとして施設や特別待遇を提供するのは合理的に見える。しかし実際は、強者が弱者に同情しているに過ぎない。いわば 

 

「一種の差別」 

 

である。社会福祉史研究者の樋原裕二氏の論文に、こんな記述がある。 

 

「むしろ障害者を守ろうとする論理と殺そうとする論理とは(現代の我々の感覚からみるとなぜ同居し得るのか不思議だが)表裏一体のもの、同じ考え方に根差すものだったと考えたほうが実態に近いのではないだろうか。差別と友愛は、実は同じものの異なる側面に過ぎないという見方である。そうだとすれば、差別を否定するには、一見友愛に思えるかのようなものをも克服する必要がある」(「近世障害者史研究の成果と課題 : 生瀬克己の研究を事例に」『障害史研究』3号) 

 

 結局のところ、思いやりとは強者による自己満足に過ぎないし、それに反発すれば当事者は悪質な障害者とみなされる。そこには、当事者の声に耳を傾け、反映させようという意識がない。今風にいえば、非常に“上から目線”なのである。 

 

 

「川崎バス闘争」の現場。「車いすのまま乗車を」と路上に寝転ぶなどしてバスを止めて抗議する身障者らを排除する警官ら。神奈川県川崎市の国鉄川崎駅前。1977年4月12日撮影(画像:時事) 

 

 筆者は以前、当媒体に「「障害者をバスに乗せろ!」 乗車拒否貫くバス会社と対峙、バリアフリー化の礎を作った「川崎バス闘争」とは何か」(2022年7月1日配信)という記事を書いた。 

 

「川崎バス闘争」が行われた1977(昭和52)年当時、バスによる車いす利用者の乗車拒否は全国各地で起きていた。当事者は運輸省(当時)などと話し合いを持っていたが、解決は見られなかった。 

 

 そこで当事者らによる「全国青い芝の会連合会」の呼びかけで実施されたのが、この闘争であった。当日、当事者と支援者約100人は、川崎駅前のバスターミナルで一斉にバスに乗り込み、アジテーションを行った。バスの前に立ちふさがる者や、ハンマーで窓ガラスをたたき割る者も出て混乱は23時くらいまで続いた。この“過激”な運動には当時も批判が殺到したが、車いす拒否の問題が広く知られ、状況が改善される契機となった。 

 

 今日、多くの人々は実力闘争そのものを避けている。しかし、当事者がこうして声を上げなければ、この問題は知られることはなかった。手続きや秩序ある話し合いで解決すべきだという冷めた態度は、強者のそれである。本質的な問題を提起できるのは当事者だけである。そして、それを知らしめるために禁じ手もない。 

 

 こうした歴史を踏まえ、障害者差別解消法は合理的配慮として対話を義務としている。したがって、まずは対話ができる環境を整えるために、あらゆる手段を講じることを求めるのは正しい。 

 

 障害者差別解消法の改正により、事業者に合理的配慮が義務付けられたことは大きな前進である。しかし、障害者が自由に移動する権利すらないのが現実である。 

 

バリアフリー対策のイメージ(画像:写真AC) 

 

 大都市圏ではさほど意識されないが、地方の公共交通機関では人員が足りず、車いす利用者の乗車対応ができない。あるいは、事前に連絡しなくては利用できないといった問題が、何度も話題になっている。これは 

 

・移動権 

・交通権 

 

の保障が明文化されていないためだ。 

 

 交通事業者に対しては2021年に施行された改正バリアフリー法によって、地方の鉄道の駅やバスターミナルなどのうち1日平均の利用客が2000人以上3000人未満の施設について、新たにエレベーターやスロープなどの整備が進められたり、若干の前進が見られたりする。 

 

 しかし、障害者の移動の権利に関しては、権利を保障する仕組みや財源の確保に、国民のコンセンサスが得られていないとして、確保には至っていない。公共政策研究者の岩本(持田)夏海氏は、この権利確保のために以下の提言を行っている。 

 

「交通政策基本法は,交通に関する施策について、基本理念及びその実現を図るのに基本となる事項を定め,並びに国及び地方公共団体の責務等を明らかにすることを目的とする法律である.同法 2条は「交通に関する施策の推進に当たっての基本的認識」について定めている。筆者は、同条に2 項を新設する形で「障害者の移動の権利」を明文化する法制上の措置を提言する」(『日本の科学者』57巻3号) 

 

 障害を理由に、当事者が移動手段や娯楽を断念せざるを得ないのは合理的ではない。むしろ、繰り返し問題を提起し、対話を通じて解決していくことこそ合理的である。 

 

 イオンシネマの件は、未解決の問題の多さを改めて認識させたはずだ。すべてを健常者と同じように利用できるシステムを作ることは容易ではない。しかし、少なくとも移動の自由は確保されるべきだ。ここでは、保守派もリベラル派も関係ない。 

 

 さて、今から数十年後、障害者を取り巻く環境が今より劇的によくなっていると仮定しよう。相互理解が進み、障害者に手を差し伸べることが当たり前になった。誰もが生き生きと暮らしている。インターネット上で罵倒されることもほとんどない。よい社会だ。数十年前の混乱はいったいなんだったのか。あなたはそのとき、ふと当時を思い出し、自問自答する――。 

 

「あのとき、自分はどちらの側に立っていたのか。同情を装う強者側か、それとも声を上げる当事者側か」 

 

昼間たかし(ルポライター) 

 

 

 
 

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