( 156932 )  2024/04/06 22:46:43  
00

(まとめ) 

障害者の声を反映させることの重要性や、ユニバーサルデザインを通じた共通化に対する期待が見られます。

障害の多様性や障がい者の視点の重要性、バリアフリーやインクルーシブ社会の構築に関するコメントが多く寄せられています。

また、障がい者の生活や権利を守ることの必要性や、社会全体での取り組みの重要性についての指摘も見られます。

障がい者の立場や経験に基づいた意見・提案が社会においてどう受容されるか、また、政策や法制度のあり方に対する様々な考察や懸念が示唆されています。

それぞれの立場からのコメントが集約され、障がい者に対する社会の関心や対応の在り方に対する多角的な視点が浮かび上がっています。

( 156934 )  2024/04/06 22:46:43  
00

・障害者の声が反映されるのはとても良いことである。しかし、障害の多様性を鑑みれば、ある障害者にとっては便利であるが、他の障害者にとっては不便と言うこともある。 

まちづくりのデザインとしてユニバーサルデザインが共通化し、高齢者も、障害者も等しく、安全安心で暮らせるコミュニティーが作れると良いですね。 

 

 

・障がい者が快適に過ごせる社会は誰でも快適な社会だと思います。 

障がいがなくても誰しも歳をとったら目や耳、足などどこかが悪くなります。 

ケガをして一時的に不自由を経験した方も多くいるでしょう。 

今は健康な方もいつかは不便を感じることがあります。 

特に女性は妊娠し大きなお腹を抱える時期があります。男性もご自分の子どもや孫を抱いての外出が考えられます。 

障がい者はそんな誰しも抱えるであろう不便を毎日感じながら生活しています。 

障がいの内容によっていろんな視点から障がい者の数だけ工夫を持っています。 

その意見を取り入れを国が動いて取り組めれば人生100年の今だからこそ不便があっても健康寿命は伸びると思います。 

 

 

・やっぱり当事者に聞かなければわからないことというのは多いと感じます。バリアフリーと言っても、健康な人の目線で考えたバリアフリーと、障害者の目線で考えたそれとは違うと思います。バリアフリー社会を構築する時には、障害のある人の意見をよく聞くことが大事だと思います。ノーマライゼーションと口で言うのは簡単ですが、そのような社会の真の実現化のためには、健常者障害者の垣根を越えた、相互理解が必要不可欠であると感じます。 

 

 

・障害者が生き生きと働ける環境の整備位は政治で何とか出来そうですが、やりませんね。最低賃金無視して、小遣い程度しか与えない。身体障害者は優遇されて精神障害者は敬遠されるのも差別です。自宅でなら働ける人も結構いると思いますが、自分から行動出来ない人もいます。そもそも通勤が困難な方もおられます。このハードルがもっと低ければ自身も家族も未来も明るいと思います。 

 

 

・インクルーシブ。子供時代に経験するほうが、子供たちは対応能力を自然に身につけるように思う。 

ただ、インクルーシブをするには、学校で障害のある子をサポートする支援員の先生をもっと配置したり、たん吸引を必要とする子には看護師をつけるなど、結局マンパワーが必須。それなしにインクルーシブは、私も子が障害がありますが、かなり無理があると思う。我が子は支援学級ですが、支援員の先生がいるから交流級での授業も参加できる。 

教師だけだと、対応の手が足りない。 

インクルーシブのためには、まずは人員確保だと思う。 

 

 

・例えばの話ですが、車椅子の方が車椅子のままで移動できる街や建物というのは、足腰の衰えてきた高齢者にとっても優しい街や建物になります。 

 

元気に二足歩行できているうちは、何も思わないような段差でも、車椅子の方には通行不可能であったり、足腰の衰えた高齢者にとっては転倒のリスクが高かったりします。 

 

街並みを作ったり、建物を作ったり、を計画する人は元気な人だったりしますので、どうしても気づかないことがあります。そういう時に障がいのある方の意見などを参考にしたら誰にでも優しい街ができるのかもしれません。 

 

 

・インクルーシブすら知らない人が多いんだろうなぁ。 

障害者に対しての知識そのものが、むしろ小学校でとりあげられて学んでる子供たちのほうが詳しかったりする。 

 

大人の方が無知。 

もっと新聞なり読んだほういいと思うけど、タイパだので自分が興味あるニュースしか見ないしね 

 

 

・これって国政でも必要なチェック機能だよね。ウェブサイト上で国会議員ごとの公約の達成率が見たい。で、達成率が高い人を次の選挙で選ぶ。誰かやってくれないかなぁ。 

 

2020年のつくば市長選と市議選では、事前に2年以上を費やして6つの提案をまとめ、全候補者に公開質問状として投げ掛けた。それぞれの回答は選挙期間中にウェブサイトで公表。選挙後は、回答通りに活動してくれているか、市長や各議員の行動をチェックすることも続けている。 

 

 

・私は右半身麻痺の肢体障害者です。外を歩くには、補装具と杖は必須です。 

私の悩み。 

一つは麻痺側のつま先が上がらないこと。なので、ちょっとした段差にすぐ引っかかります。なので点字ブロックは怖い。でも、無くせなんて言えないですよね 

もう一つは歩行が遅いこと。怖いのは信号のある横断歩道。青のうちに渡るのは結構厳しい。片側二車線あったらまず無理です。 

なので、もっと歩道橋を作って欲しいのです。しんどいけど、手すりがあれば階段の上り下りはできます。怖い思いをして、信号のある横断歩道を渡るより、安心できます。 

 

こんな声。障害を持つ当事者でないと出てこないですよね。 

 

 

・こういう意見が強いので、そもそも意見を言えない重度の障碍者の施設が不足しているのも気付いてほしい。高齢の親が24時間医療ケアをしたり、生活全般の介護をやり、自分たちが死んだらこどもはどうなるのか不安の中過ごしています。街がやさしくなるだけでは解決できないことがあることも知ってほしいです。 

 

 

 

・「車椅子」ではなく、それに変わる補助器具が開発される方が良いと思う。例えば、高い階層にいて、地震や火事等でエレベーターやエスカレーターが使用出来なくなった場合、足が不自由で自分で歩けない人をおぶって、階段で下りるのは、余程の力と体力がある人でないと無理だと思う。はっきり言えば、自分で動けない人は、見捨てる事を考えないといけない。 

 

 

・今はよくても後々に車椅子生活になったり、我が子が先天的にハンデを抱えていたり、まだ若い自分の親が突然歩行できなくなることも十分起こり得る。 

もし設備面で備えがなければ、数人で担ぎ上げたり、あるいはその人を見捨てるという残酷な判断をする羽目になるかもしれない。  

そんな骨折りや不幸を経験するくらいならあらかじめ社会が用意できるものはしておいた方がいい。自分のためでもある。 

縁起でもないことを言うと、誰しもピンピンコロリが理想的な最後だと思う。最後までできる限りその人の自立独立を維持することが、地味に全体の幸福追求に寄与することにもなると思う。 

 

 

・障害の程度によって訓練または介護が必要な子にきめ細かく対応できるよう人員をあつめたのが特別支援学校です。 

また、医療などの介入がない子や軽度の自閉症や知的障害は近くの支援級にかよえ、支援級もうちの子の学校では3対1ほど先生がつき、 

科目によっては一緒に普通級とやるし、逆に普通級でついていけない子はひとつの学科だけ支援に行ったりしている。 

ある意味できる範囲のインクルーシブはしている。例えば知能は普通だけど車椅子が必要で教室移動が難しいなら、 

足が悪くて車椅子の子がいるクラスだけ学年にかかわらず一階に教室を配置するのは合理的配慮だとおもうが、 

完全に普通級に来るのが難しい子、多分事前に進学前に支援級や支援学校が望ましいと判定されている子は判定に従い適切な支援をうけるべきで、普通級に行きたいから健常の子は手を貸す練習でよろしく!看護師がいるから常に1人配置してね!は配慮の範疇を超えてます。 

 

 

・民間事業者に障害者の合理的配慮が義務化されたと言われても 

事業者によって バリアフリーとかできる事業者と金銭的に余裕がない事業者では無理だろうし 

県や市町村によっても 障害のある子供を健常者と同じ学校へ通わせる環境にできてもしないか 

どうしても無理な学校とか違いが出てくるでしょう。 

国が こういう法律を決めたなら 

街の整備とか 障害者に便利な街にする為 税金を投入すべきでしょう。企業にも障害者の為にお世話できる従業員を雇用する為 

給与が発生するのだから きちきちで運営してる企業に支援金とか国が投入するしかないのでは?それは国民の税金から投入されるのですが 庶民の多くは 

物価高と電気代高騰等で余裕がありません。税金も上がったりしたら 健常者も精神的に 参ってしまい 鬱病とか増えて 精神障害者が増えて 悪循環では? 

もっと緻密な計画案で障害者も健常者も住み良い街や暮らしを国に望んでいるのに 

 

 

・障害者の方の生活と権利を守るのは理解出来る。しかし事業によっては費用もかかるし作り自体が無理な場合がある。うちの会社が経営する店舗は2階で靴を脱いで上がるる使用になっている。階段はゆるやけで短いので数人で車椅子を持つ事は出来るが、外用の車椅子で室内に入られると絨毯や床材が破損したり、汚れたりしてどうにもならない。それらを全てやり直す費用がかかるなら閉店した方が良い。権利もわかるけど、受け入れる方の事も考えて欲しい。エレベーター無しの2階以上の店舗は車椅子対応は現実的に無理。 

 

 

・障害者のためと言って、社会リソースを使っていくことには私は否定的なのですが、僅かな投資で実現する障害者視点ならではの工夫のようなものや、タクシーから公共交通機関の例のような、リソース使用の合理化はどんどんやるべきと思います。 

 

それと、合理的配慮の合理的というのは投資>回収を意味すると思います。配慮を求めることには、この不等式を成立させる責任が伴います。障害者側でこれが出来て、初めて社会参加であるということは意識してもらいたいと思います。 

 

 

・これは健常の人も将来的に自分が歳を取った時、万一どうにかなった場合にも整っていれば助かる様な事です。今は元気だから障害者のためにやってあげてると言う考えに至るかと思いますが。 

どう言う自分になっても、今までの友達や家族と同じところに出かけられるのは、良いと思います。 

私が子供の時代、もっと何もなくて、兄弟が遊びに連れてってもらっても、トイレがない、段差があるなどの理由で母と常に留守番って思い出が多いです。 

 

 

・私が小学生の時の避難訓練で、縄梯子を使って室外に避難するという訓練があったけど、脳性まひで左半手の握力がないに等しいので、担任に『僕はどうするんですか』と聞いたら『死にます』って言う返事が返ってきた。 

災害が多くなった日本で、就労や車いすなどのを考えるのも良いが、いざという時に、障がい者が避難できる経路や、体制を構築することも、重要な事だと思う。 

 

 

・車椅子の家族の為にアパートを借りようと探してたしら、どこもかしこもエントランスに階段があって、こんなにスロープが普及してないのかと驚いた。また自分が必要になってみないと気がつかないものだなと。マンションやアパートの管理団体はできるところは階段の一部をスロープにする工事を早めにした方がいいと思います。いつか自分も車椅子を使う時が来るかも。 

 

 

・精神の障害者二級ですが、同じ二級の方でも病名や症状が異なります。障害等級が違ったら症状が異なると思います。精神障害だけしかわかりませんが、身体の障害者の方は更に症状が異なると思います。このようなことから障害者に万能に対応する事は難しいと思いますがこのような取り組みが全国に広がっていくことを願っています。 

 

 

 

・長期入院で筋力低下や背骨を3箇所圧迫骨折して車椅子生活を体験しました。 

 

車椅子で病院のコンビニに買い物に行った際に思った事は 

・通路が狭くて通りにくい 

・棚の上の商品が見えない&取れない 

・セルフのサービスを使いにくい 

等、色々と勉強になりました。 

そして当たり前に買い物を出来ていた事が物凄く幸せに感じられましたね。 

 

健常者目線では分からない事が沢山あります。 

体が不自由な人が暮らしやすい社会は健常者も暮らしやすいので一歩ずつより良い社会になってほしいです。 

 

 

・障害の当事者です。 

障害に対する合理的配慮という言葉ですが、合理的かどうか、本当に自分だけで出来ないかを考えず、一方的に過剰なサービスを求める人の声が大きくなっていると感じます。 

 

これは他の障害者に対して決しても良い傾向ではありません。 

この様な社会を作るためにも、どこまで第三者が配慮すべきかの線引きをする事も重要かと思います。 

 

 

・実情で言えば大きい企業は雇うことが当然で見かけ上人数は雇っては法を守ってますよと使ってはいるがいざ仕事教えたり面倒見る側からすれば手間でしかない。言うこと聞かないしちょっと目を離すと居なくなる。何か起きればこっちのせいになる。こういう意見ももっと国は考えてほしい。 

 

 

・ベビーカーを使うようになり、思っている以上に行動に制約があることを感じているので、特に車椅子の人は毎日大変だろうと感じているところです。 

障がいがあるからと制約ばかりになるのはとても辛いだろうし、子供だとお友達との過ごし方にも大きく影響するだろうから、ユニバーサルデザインが増えると良いと思います。 

 

ただ、やはり提案の仕方は大切だなと思う。 

こんなふうに意見を出し合って提案していく形だとすんなり受け入れられるけど、先日話題になったことのような形だと、攻撃的な主張にも感じて受け入れがたくなる。 

排除したいとは誰も思ってないと思うので、みんなで良い形を考えていきたいですね。 

 

 

・まあ日本と言う土地の狭い所でバリアフリーってなかなか難しい面も大きいんだよな 

アメリカは車椅子でもフロアが広くて快適だ!とかよく見るけど単純に店舗面積もそもそもデカかったり 

祖母が骨折れた時に車椅子だったから買い物に付き添いした時はイオンは通路幅も広いし入口も広いしで良いなと思ったけど他のスーパーはそもそもフロア面積狭くて通路幅取るのも厳しいだろうなとなる 

この辺り、広い土地があれば解決するであろう話を広い土地がない国で考えると解決方法は別を考えないといけなくて難しい 

 

 

・みんな遅かれ早かれ車いすには乗るでしょう。高齢者になる。あとは目が見えんくなるか、耳が聞こえんくなるか、内臓が悪いかがついてくる。 

細い道、段差がある玄関、いつまでお金があるかわからんし。こんなとこまで整備がいるのか?とか、点字ブロック置かんでとか言うけど、明日は車いすに乗って、自分が通る道。って思えば、出来る工夫は駆使して整備しておいてほしい。 

 

 

・その前に障害者はただ自治体を頼るのではなく何が出来るかを聞いて国や自治体は伸ばす協力をすればいいのでは。 

自宅にいながら頭が良い人ならPCのみで設計やデザイン、文字入力や資産を運用、芸術やそれを活かしたビジネスへの展開などサポートしてあげるのが良いかと。 

 

 

・茨城県つくば市での活動。 

興味深く読ませていただきました。 

多角的な視点を持つやさしい社会には、気付きと創意工夫と、思いやりが生じます。 

誰しも、身体や心が病気になったり、事故に合ったり、年老いて、障がい者になる可能性があります。 

情けは人のためならず、でしたっけ?そんな格言がありましたね。 

誰しも住みやすく心地よい社会にするために、自分が置かれた状況で、今出来る事があれば、したいなと感じます。 

 

 

・体験活動には色々参加してきたが、当事者の方々にしか分からない御意見はたくさんあるだろうと感じた。その意見はお年寄りや他の健常者の方々にとっても有意義だったりする。他の市でも、こういう取り組みは広げて欲しいな。 

 

 

・私の職場が入居するビルは、バリアフリーということになっているが、台車にちょっと重い荷物を載せて運ぶだけでも、扉部分にあるおそらく2CMも無い凸部に止められる。バリアフリービルなのになんでこんなものがあるのかというと、消防法で定められているのだとか。防火戸能力を持たせるべき扉ではこのようになる。新入社員から定年退職まで在籍しても火災に遭うことなどめったにない。「この凸部を車椅子が通行することは、どれくらいの頻度であるのだろう? 車椅子にとって障害になるのかどうかも私にはわからない」 

 

要するに、どういった思惑が最優先されるかだけの話である。 

なんでもかんでも障がい者対応が優先されるのが良いとは思わない。 

しかし現実は、社会的弱者と位置付けられている人が大声を上げたら通ってしまう。それでは、間違った方向へ行く可能性が高いと思う、 

 

 

 

・既に利用出来るサービスも沢山あります、ヘルパーさんをつけて行くとか事前に連絡するとか障害者側も自分に出来ることを考えたらいいと思いますが、、、合理的配慮がとか差別だとか拒否されたとか入館、入場拒否されたとか(されてないのに)SNSで会社や店舗名を晒しあげる中嶋涼子さんみたいな方が増えると障害がある側はやりたい放題なのもなんか企業だけ気の毒で不公平です。晒された側は対応に追われるし小さなお店なら潰れかねないので、この前のことがあって一部の方のせいで制度はいいと思うけどなんだかモヤモヤします 

 

 

・結局身体の重度に関する方向性ですかね。これは昔から考えないといけない題材ですよ。目で見える障害者への配慮さえも今の社会ではできていない。そして、精神の人間などに過去にどんなことがあってそうなったのか。などをオープンにしている人も会社では配慮されない。逆にいうとできてしまうから任されることが増えることは人それぞれです。周りがどこまでやらせていいのか。任せていいかを判断できるように学ばないと何も始まらない 

 

 

・健常者が当たり前のように自転車で交通法規を守らない姿を 

毎日毎日目にしている。それも平均5台も・・・ 

健常者が今のところ事故を起こさないのは、おそらく本人は 

自分の自転車の操り方が上手だからだと思っているに違いない。 

しかしこちらから見てると、車のほうが交通法規をしっかり守り 

事故を起こさないよう慎重に運転し、ある時は急ブレーキで止まり 

あるときは自動車側がよけている。つまり自転車は運転が上手いわけでなく 

自動車側が細心の注意を払って運転しているからこそ事故が起こらない。 

つまりは、自転車側が守ってもらっているということで、 

それが当たり前のように思えばいずれ大事故を起こし片足を失うかもしれない。 

なにが言いたいかというと、この場合、交通弱者は自転車側だが 

自分は守られていることを肝に銘じるべき。 

手が足が1本無くなった時を想像してごらん。世界観が大きく変わるから。 

 

 

・歩道と車道の段差解消はしてほしい。 

車椅子の人への配慮だけではなく、子どもからお年寄りまで幅広い人が利益を得られる。 

…といったように、障害のある人がただぶつける一方的な要求ではなく、お困りごとの解消として多くの人が幸福に感じられる社会の不便さ解消につながってほしい。 

障害者の住みやすい街は、障害のない人にも住みやすい。そんな街づくりが進んでいくといいな。 

 

 

・つい1時間ほど前のことですが、電動車いすの女性が車と接触して倒れてました。片側一車線の道路の右側を逆走していて、すれ違いでぶつかった様子でした。バリアフリーや専用道路などを提案しても、根本のルール違反をどうにかしないことにはどうにもなりません。この場合でも車の運転手の罰則が大きいのもなんだかなと思うばかりです。 

 

 

・この手の記事には毎度モヤモヤしてしまう。 

肢体不自由な方は発言や読み書きに不自由がないひとが多く政治的な要求を出しやすい。聴覚、視覚障害があると伝える力が不十分になりやすく政治的な要求が出しにくい。うろ覚えだがそんな内容の記事を以前読んだ。 

「障害者の提案で」と平気で書かれているが、意見を聞きやすいところからしか聞けてないのでは?と思ってしまう。現実的に聞きやすいところから聞いていくしかないし、十分意義のある活動なのだろう。けどやたら持ち上げた書き方をされていると、それで良いのかなと。対案があるわけでもないのでもやもやしているだけですが。 

 

 

・ノーマライゼーションが当たり前になるのがほんとうのダイバーシティだから。健常者は気がつかないことが多い。予期せぬ病気や事故で明日ら障がい者に誰だってなるかもしれない。ただこれは本当に教育。駅のホームの凹凸をぼこぼこしてこれ邪魔、と叫んでる小学生ぐらいの子どもを見たことがありますが親はニコニコしてそうだねーとか言ってる。そういう家に育つとそういう子になるんだなと。みんなめが見えなくなったら家に引っ込んで健常者の通行の邪魔するなって?生産性と効率性ですか。 

 

 

・障害を取り巻く人々の意識は急速に変わりつつあるのを感じている精神障がいの当事者です。 

東京都で始まった「ヘルプマーク」は、発足当初は認知度も低かったのでしょうが、最近では都内を中心に周辺通勤圏から都内の職場に通う私は見ない日は無く駅で必ず見かけます。 

この3月までは、自らも障がい者雇用に携わっていたこともあり、1000万人近い手帳保持者がいること、まだそのうちほんの一部しか「働いて自立する幸せ」を味わえていないことを知りました。 

基本的にお荷物扱いされてきた人たちが自立的に行動できるようになってきたことは手放しで喜ぶべきことです。 

本当に差別のない社会が出来れば、障がい者はその多くが社会の力、労働力となって貢献するでしょう。お荷物ではなく戦力である、この認識がもっと広まることを切に願います。 

 

 

・民間事業者に障がい者への「合理的配慮」が義務づけられた? 

その前に行政が障害者への「合理的配慮」を義務づけて欲しい。 

妻が病気が原因で身体に障害を背負ってしまいました。病気自体治る見込みが無く、自宅にて、機械に接続され、ほぼ寝たきり状態に。当然身の回り事も出来ない身体になり、夫である私が介護離職する事になった。今現在無収入。病院から直ぐに障害者認定を受けて、障害者年金を申請するよう指示されました。障害者認定はすんなり認定され、今後の医療費は免除される事になったが、障害者年金は不支給となった。色々な専門家ので方々に相談した結果、病気による内部障害は非常に審査が難しく、審査官次第、運が良ければ、審査官が専門外の人がやっているなど、とても信じられない回答が多々聞かれた。 

このままでは今ある蓄えが尽きた時点でもThe End。 

民間事業者云々の前に行政がしっかりしてもらいたい。 

 

 

・健常者から50歳で障害者となった身からすると、如何にこの世の中が健常者のみの社会十なっているかを身にしみて感じました。地下鉄のESも登りはあっても下りは無い所が多く、その度に「利用者の声」に意見を投じて来ました。私の障害者期間も20年を超えて都内の交通網もES,ELが各駅に出来てきています。只、その取り組みが遅かったためか駅改札から遠い場所の所が多くあります。私は杖で何とかなる位までリハビリをしていますが、車椅子の友人は遂に電動となってしまいました。段差は無くても高低差があって手動では動けなくなったそう。それを聞くと今の自分は未だ恵まれている、と感じています。せめて今の状態を保てるよう頑張らねば!と思うのです。 

 

 

 

・参考になる取り組みですし、それを受け入れは役所が素晴らしいですね。 

健常者も自分達目線での利便性のために要望や提案をするのだから、障害者が自分達の目線で要望や提案をするのは当たり前だ。 

しかし、少ない予算を取り合うわけなので、どうしても母数の多い健常者が優先されてしまうのは民主主義の構造上仕方がない。 

それを改善するには、少数意見を実現する優遇、寛容性が必要になります。 

 

 

・>>つくば市は人口25万人余り。2023年には人口増加率が全国の市・区で1位となった 

 

実際問題、色んな意味でフレッシュな住民が多いからこそとれる方策でもあるのかなぁとも思います。 

移住者村八分問題等の田舎の固まりきった人間関係では難しいと思うので、つくばをサンプルとして全国に。という流れにはしてほしくないかな…。 

 

他の人がおっしゃるような自宅にいながらの就労の支援等のもっと関わる人間が少ないシステムからせめて動いてほしいなとは思います。 

 

 

・記事の中に出てくる市議。 

何をしたのかと最後まで読み進めたが、単に「活動に参加している」というだけで、特段何もない。 

この市議が当選する前に「市議会へ提案した」ということだから、その時に関わった市議がいたのでは?何故この市議だけ、しかも何の実績も無いのに名前を出すのか、筆者にその意図を聞きたい。 

 

 

・この障碍者の問題って実は深いんだと思う。多数派と少数派と考えたらいいんだと思う。それぞれの立場で言い分がある。お互い本当は譲りたくない。関わりたくない人も多いと思う。でも双方の立場のグループが社会にはある。それを知っていないと社会生活、国際間交流、経済行為が成り立たなくなる。グローバルスタンダードで考えたらこうなんだと思う。もうモノをつくる社会ではなくなってきている。日本人が国際競争に後れを取っている原因の一つともいえるんだけど、ピンとこない人たちも多いんじゃないかな。健常者の側のみならず、障害者の側もね。 

 

 

・この記事の様に社会にどんどん自分達の声を上げて住み易い環境を整えるのは、障がいを持っている人達自身なのだという事を忘れないで貰いたい。 

当事者で無ければわからないのはどの世界も同じ。 

それは健常者にも言える事。 

必要な制度や環境は必要としている人達が主体となって周囲を納得させて初めて導入されると思う。 

それが健障変わらない自立という事。 

障がいを持っても国会議員を輩出し国政に声を届ける人が必要。 

思いやりのある社会も大事だが、それだけでは国力が落ちている今難しいと思う。 

だからと言って諦めずに、どんどん声を上げて社会に参加して貰いたい。 

 

 

・私の子供が障害者です。 

月に何回か病院に通います。 

髪の毛切るのも暴れて大変なんで休みます。 

休みの日も子供の世話です。 

もう22年間頑張ってます。 

多分死ぬまで頑張らないといけないと思います。 

育児休暇や介護休暇があるのに、障害者休暇がまだまだ普及してません。 

母の介護申請は隣の市で子供の障害者の申請は今住んでいる市。 

どちらも、申請しに行く度に思うことは、母の様子も子供の様子も何も聞かずに、申請書だけのチェックではい大丈夫ですで終わり。 

多分、人間の申請受付でも犬の申請受付でも多分同じなんだろうなあ? 

って。 

いつも思ってしまう。 

多分、物と一緒扱い。 

何か心配やこうして欲しいことありますか? 

って聞いてくれたら、もしかしてもっとよくなるような気がしてならないんだけどね。 

 

 

・いつも気になるのですが、比較的狭い歩道にも点字ブロックが設置されているが、本当に必要なのでしょうか?ろうあ者の方々に伺いたい。絶対に必要な箇所はあると思うが、ここでもかという具合に設置するのはどうかと思う。実際、殆ど活用されているのを見たことは無い。寧ろ、お年寄りには躓いたり、自転車の方は滑ったりするのでは?また、自分で何処でも行ってください、みたいな感じで冷たい社会になる気がする。目の悪い方々のための施設や活用することの多い施設には設置はひつようだが寧ろそれ以外は、出来るでけ声をかけお手伝い出来るような社会が望ましいのでは?ただタクシーを活用できる様に無料券の支給が必要とは思います。 

 

 

・普通学校と、特別支援学校や特別支援学級へと子ども同士が分けられる『分離された社会』 

 

支援校はその昔通常の学校教育を受けられない障害児のために保護者が設置に尽力した経緯があったと思う 

支援校や支援級の否定だけはやめてほしい 

分けてあるからこそ、のびのび過ごしているお子さんも多いのでは 

 

 

・この記事のよくないところは障がい者側の発信だけで、それを進めると全体にとってどんな良いことがあるか。と言う視点が書かれていないこと。選挙を活用するのは良いけどちょっと脅しにも感じた。自分はそこじゃなくてこっちをやりたいと思ってると言う候補者がいても、インクルーシブを持ち出されたら嫌ですとはいいにくい。この記事からだけではなんとも言えないけどもう少し深掘りした記事を又読みたい。 

 

 

・今普通に暮らしてる人が、突然障害者になる事もある。 

個人的には健常者が、障害者優しくすると言う図式が間違ってる気がする。 

障害者が暮らしやすい世の中にする事が、健常者の人の暮らしをも良くする制度であって欲しい。 

苦労するのが健常者、恩恵を得るのは障害者と言うのは間違ってる。 

誰しもが困った時に優しい世の中であって欲しい。 

夢物語かも知れないが… 

 

 

 

・障がい者であっても平等、だがしかしこういう風に障がい者の為に自治体が法例を作るのは違う。 

先のイオンシネマの件もあるけど、他の選択肢があるにもかかわらず職員に業務外の事を強要した事が問題なのに、何でもかんでも障がい者の為にってのは違う。 

平等は平等だけど、そうしたことで障がい者びいきになり逆に不満が出るのは明らかであり、元より障がい者差別している人はより障がい者差別するようになる。 

やり方が間違っている。 

 

 

・公的機関のバリアフリー化は何処でも進んでいるだろ 

全ての環境をバリアフリー化はまず無理だよ 

かつ全てのタイプの障害者の方に対する対応も 

その点は健常者だけに依存しないで障害者の方も工夫してほしい 

 

特に介助者のレンタルなど自治体が努力してほしいな 

それと障害者が意見すれば、なんでもかんでも受入れなければいけないような社会は健常者も困るからさ 

互いに気を遣って生きていきましょ 

 

 

・何らかの障害を持つ人は日本の人口の約7.4%といわれていて、少なくない人数。老化や事故や病気でいま健常者でもいつか障害者になる可能性があるし、弱者と呼ばれる立場になる可能性がある。 

インクルーシブな社会なら自分自身がいつどうなっても大丈夫と安心して暮らせると思う。 

他人事ではないなと感じる。 

 

 

・ちょっとした気遣い、わずかな費用で出来ることは、どんどんやるべきですね。 

弱い者を助けるノブレスオブリージュ的精神は大切です。 

障害者のような社会的弱者を自分の出来る範囲で助けてあげるのは、市民の義務みたいなものです。 

 

障害者からの感謝はなくとも、実践していきたいです。 

 

 

・こういう感情的なものじゃなくて建設的なものはいいですね 

誰でも歳をとれば目が見えにくくなったり耳が聞こえにくくなったり足腰が衰えていくし、ベビーカーでもバリアフリーがあったほうがいい 

障害者が不便しないってことは将来の自分たちやその子や孫が不便しないってことだよね 

 

 

・申し訳ないけど 

市民一人一人の声ってのはなかなか反映されないのが現状で 

社会全体で良い様になっていくことに注力を注ぐのが行政になると思うんですが・・・ 

働くにしても働きたいから介助を必要とするためにお金を使うなら 

それを援助金にすれば良いと思うしね。 

普通に社会で生きていくうえで働かないで暮らせるなら働かない方を選ぶ人は多数いるわけで。。。 

障がいがあるから出来ないことをしたいのは分かりますが 

それを行政に求めて税金を使って履行するのはどうなのかな?って疑問に思う 

 

 

・これからの社会は様々な分野でのバリアフリーが必要不可欠だと思います。争い合う社会ではなく、助け合える社会こそ人間らしい社会のあり方だと思います。 

 

 

・病院の看護師でさえ、健常者目線で考えてしまいがち。 

「ベッドの横のものを取るくらい自分でやってください」って 

患者に言っている看護師を見かけるけど、 

医師は動かないでと言っているし、リハビリの先生もまだ動かせないと言っている中で、やはり当事者目線では自分でやるのは難しいと思うし、 

世の中、健常者目線がはびこっているなあと感じます。 

 

茨城県つくば市は研究学園都市として整備された場所が多く、 

歩道も多く、広々と整備された場所が他の自治体よりも多い場所です。 

つくば市では可能なことでも、他の自治体では難しいこともあると感じます。 

 

自分たちが小学生のころは、特別支援学級と普通学級は区別されていなくて、 

同じクラスに障害のある子も一緒に学んでいました。 

話ができないレベルの障害がある子も一緒に授業を受けて、 

一緒に給食を食べ、一緒に休み時間は遊んでいました。 

 

障がい者目線で考える。大事なこと。 

 

 

・眼鏡くらいの負担で義肢が作れたり、再生医療で生やしたりできれば身体障害は個性の一種になる。私は0.04の強度近視だが、眼鏡のおかげで健常者でいられる。 

 

バリアフリーも大切だが、個人的には障害の無害化に金銭を注ぎ込んで欲しいところ。 

 

 

・やはり障害といえど一括りではない。この団体はそれも踏まえて、様々な障害を持っている経験専門家として、それぞれの目線から提案をしている。そのために健常者にはわからなかった本当の意味でのバリアフリーが、現在進行形で作り上げられていることに感心しました。 

 

 

 

・高校は通信制高校出身で色んな人たちと知り合えた。芸能人から親が暴力団の組長だったり身体障害者も知能障害者も高知脳自閉症?の人もいた 

 

高校時代は受験でどえらいハンデを背負ってなんだよくそとばかり思っていたけど、大人になって振り返ると自然と多様性を身につけることができた 

 

障害者が生きやすい社会を!みたいな政治主張のレベルではなくて、身近にいて密に接すれば自然と気にするようになるもんで、この階段アイツ登れないだろうなとか 

 

頭ごなしの政治主張ではなく障害者と自然と触れ合えるそういう機会をいっぱい作っていくことが大切だと思う 

 

その上で現実論としてどこまで実現して金を使うかを建設的に議論できたらいい 

 

 

・この記事を読んで「なるほど」と考えさせられるいい記事でした。 

ただ、まだまだ障がい者を「意識」しなければいけない社会なんだなと。 

例えばスロープのあるお店。 

これって車椅子で生活している人を「意識」してのことですよね。 

だけど、車椅子で生活している人は変な言い方すれば障がい者の中でもメジャーな人たちですよね。 

障がい者の中でもやはりマイナーな方はいるわけで、ではその人たちの立場はどうなるのでしょう? 

恐らく一つ一つぜんぶ対応していくと際限なくなるのでは?どこまで行っても対応しきれないのでは?って。 

もっと言うと普段健常者の部類でも怪我をして松葉杖の状態だってあるし、単に体調不良時もある。 

何が言いたいかと言うと、結局は困っている人を助ける、助けてもらうと言う当たり前のことをみんなができるか、ってことではないかな? 

その上でスロープ等がある、ってことなんだよね。 

どこか逆になってる気がする。 

 

 

・誰かが言っていたけど、障害っていうのが自然に受け入れられる世界って 

目が悪いからメガネを掛けている人くらいに理解してもらえればいいって言葉が素敵だと思いました 

 

 

・私が嫌いな言葉、メディアや世間では称賛されがちだが、抵抗なく残酷なことができるひどい言葉、それは、 

 

「平等」 

 

だ。 

高い基準の「平等」を設定して、一点でもそれに達しないか逆に著しく上回る個体を「排除」する、それが「平等」の本質だ、間違っても「包括」ではない。そして、「平等」という言葉には「正しさ」がつきまとう。つまり、「排除」をしながらそれを「正しい」と主張できる。「平等」は極めて残酷な言葉だ。私のブロフィール欄の「異質排除招く平等より不平等な包括支持」はこの点を指して「包括が欲しい、平等は要らない」という願いを込めて書いている。 

 

話を戻すが、障害者の包括においては「平等」は不要だ、まずは包括、不平等でもいいから包括、その上で当人が平等を欲するなら自ら手に入れてくれ、でいいと思う。突き放しているように感じる人もいるかもしれないが、こういう場に平等を持ち込んでもかえって包括の妨げになる 

 

 

・批判覚悟で 

様々な取り組みは素晴らしいとは思う 

ただ障害の程度は人それぞれ違いはあると思うけど障害者の方がどれだけの仕事ができるんだろう?障害者の方の自己満足に付き合って健常者の従業員が疲弊すればそれはまた違う話になる 

社会人として見るなら会社は営利を追求する企業であって介助が必要な人が正直働く場所ではないと思う 

自立支援って制度がちゃんとあるんだし 

会社だってそう 

障害者だからって理由で就職できてその割を食って雇われない健常者もいるはず 

適材適所って言葉もある 

障害者は働くなって言いたい訳じゃなく介助が必要な人が働ける場所が少ないのは当たり前だと思う。 

会社はボランティアじゃない 

ボランティアが身近にいる障害者は自分たちの主張ばかり言う 

健常者だって色々な事を我慢したり自分の中に溜め込んで生活してる 

 

 

・インクルージブは世界的流れ。 

合理的配慮も制度化され、障がいを持つ方々の可能性が広がった。 

 

ここで、雇用者、障がいを持つかた、双方とも「合理的配慮」の「合理的」について、正しく理解しないと、折り合いがつかなくなる。 

 

「合理的」のひとつとして、配慮できるのにしないのはダメ。反対に過度の負担が発生する配慮ができないこともあると言うことです。 

 

「前はしてもらっていた」でも、「うちでは設備的に無理です。」や、「うちならここまでならできます」など、折り合いをつける必要があります。雇用側も「できません」を言う余地はあります。 

 

先日の映画館の件は「できません」が正解。 

 

できることはする、できないことはできない、が原則です。 

 

今までは、できるのにしなかった例が多かったのかもしれません。 

 

働ける人が増えるといいですね。 

 

 

・これが本当に大事だと思う 

バリアフリー、ノーマライゼーションといったことは 

双方の歩み寄りと建設的な提案と改善の先にあるもんだ 

仮に本人は提案や提起のつもりがあったとしても 

SNSで晒し上げて 

「皆さん!こんな不愉快なことがありましたぁー!」 

では何も解決しないばかりか、敵を作ることにもなる 

その事例を我々は目の当たりにしたばかりだね 

 

 

・全員の希望を最大限聞いてたら社会が破綻するから、対応するコストや対象の割合、対応した事による利便性の向上次第だと思う。 

ユニバーサルデザインなんて典型だけど、障害者に使いやすくすると健常者にも使いやすくなんて嘘で、障害者や弱者に対する優遇は、それを強要される方には負担になる。 

記事の例だと働くのに介助者を派遣するとかは実態の効率は多分マイナスだろう。 

 

個人的には重度障害者より遥かに割合の多い、少し大きいだけの人とか小さな人が過ごしやすくしたり、どんどん増える老人という軽度の弱者が自助出来る範囲を増やした方が良いと思う。 

 

 

・一番のリアルって「負担はどうするのがいい?」ここに尽きる。 

たしかに対応していくのは大切なのだけど、一番はそのコストは?とか、人を受け入れる民間会社とかだと誰が世話するの?というのが大きい。 

 

以前軽度の精神疾患を持つ障がい者を会社に受け入れたことがあるのだけど、ちょっとしたことで暴れ出す等仕事に支障をきたすことが多く、サポートしている周りの方が病みそうな状況に陥れられた。 

最悪なことに、日本の会社は1回採用すると本人が辞めたいと言うか、懲戒理由を作らないと辞めさせることができないから、中々辞めさせることが出来ず。 

結局暴れて器物損壊したところで懲戒解雇して縁を切った。 

民間で受け入れてほしいのは理解はするけれども、民間は利益追求をする団体で、社会奉仕する団体ではないことを理解して動くことも重要。 

深い関係性を持てるのは身体麻痺等が限界。 

 

 

・また、投稿者は自身の使うリソースよりリターンを多く生み出しているのだろうか。 

健常者で働いているから、(当然のように)リソースよりもリターンを多く産み出している、社会参加している、という前提が成り立つのかは疑問。私自身もですが。人間って一生の間に障害があろうがなかろうが、使用するリソースと産み出すリターンのバランスが変わって、トータルで採算取れたらいいんじゃないの。自分からすれば、おそらく大方の健常者の社会参加も、ただ己の自己実現でしかないように思う。資本主義なのでそういうものだと思いますけど。 

 

 

 

・ディズニーのアトラクションもそうだよね。 

障害者だけで入園した際どんな障害とわずアトラクションへは基本健常者がいない場合ライドへの乗車は原則禁止とされている。 

 

当然自力で歩行困難であったり明らか要介護が必要な場合は本人もよくわかっているため入園したとしても無茶言って無理やり乗り込むことはしない。 

しかし障害というのは全く同じ症状はこの世にふたつと存在しない。 

みんなそれぞれ出来ること出来ないことの範囲は当事者が理解しているがディズニーは頑なに拒否している。 

そう言ったところにもメスを入れるべきかと思うけどね。 

実際アメリカのディズニーは特に制限してないんだから。 

同じディズニーでありながら制限をかけるのはおかしいと思う。 

性同一性障害とかで今色々動いてるけどそれと同じくらい早急に解決すべきだよ。 

 

 

・明日は我が身かもって思えば多様な社会の在り方は誰かのセーフティネットになりうるけど、税金のために働くんじゃなくまず自分のために無理なく普通にお金稼いで暮らせる社会であってほしい。 

 

 

・障がい者も健常者もまず声をあげよう 

お互いのことは言わないとわからない 

察してちゃんは察する能力高くても疲れるし、良かれと思って「してあげた」ことが的外れだとお互いモヤモヤするんだよ 

声をあげても断られることもあるかもしれない 

すぐにSNSで晒すのは止めて、相手の権利も考えてあげて 

 

 

・人間歳とると思う様に体が動かなくなってくるし、場合によっては車椅子にお世話になる人も現実いる。 

そしてそういう人は増える一方だろう。 

障害者に優しい街づくりは、介護にかかる手間を減らせる街づくりにもなり、介護に割かれる人的資源を圧縮できる事につながると思う。 

ただ、残念ながらそこまで考えられる政治家更には役人がほんまに少ない。 

 

 

・自治体の制度を動かすって…、わざわざニュースになるとかそんなに珍しいことなの? 

自治体は言われなきゃ動かないの?  

この話だけでなく、もっと住民の意見に耳を傾けて積極的に制度を時代に合わせて改善していってほしい。 

 

 

・インクルーシブ社会? 

そもそも先日もあったが、電車に座っていて高齢者夫婦が乗ってきた。座っていた中年の女性が奥様に席を譲った。私も御主人様に席を譲ろうとしたが気の毒そうに結構ですと言われたので座ったが、奥様にどちらまでと聞くと30分以上かかる駅までだったので御主人様に席を譲った。 

その間、周りの若者たちはスマホばかりして誰も席を譲ろうとしなかった。 

そんなもんだ。 

ベビーカーが邪魔だとか、自分さえ良ければいいという世の中なんだよ。 

 

 

・その為に設備施設を整備なんてしてたら金がいくらあっても足りん。 世界最先端になんかならなくていい。 この人らが騒げば役所は対応しなくちゃならず会議などむちゃくちゃ金が掛かる。そもそも今だって色々支援受けてるじゃないか。私らからもっと税金取るのか? 財政を考えて欲しいよ 

 

 

・街なかで障害者であることを視認しやすい身体障害者や知的障害者に対して、一般的な反応は冷淡。 

背後にはその何倍もの視認しにくい精神障害者や難病者等々がいる。 

インクルーシブ教育は進んているが、実際の教室はインクルーシブになっておらず国連から指摘を受けているレベル。 

「合理的配慮」一つとっても、それさえ理解できない人が少なくない。 

余裕のない現代、インクルーシブ社会実現には、まだまだ時間が必要だと思う。 

 

 

・素晴らしいと思います 

ただ、いろんな議論があっていいから否定する意見を頭ごなしに否定するのもこれまた前進じゃないと思います 

 

例えばVR,ARと教育の親和性 

学校教育であればそういった活用もある 

 

 

・障害者が不自由なく幸福に生活出来る社会にするのは同意します 

 

ただ健常者が支えられるのには限界があることもご理解をお願いします 出生前診断を否定したり重い障害でも産めば幸せや生命の選別を行ってはいけないとする主張に全く同意が出来ません 

 

 

 

・当事者の声を記事のように親身に聴き、政策、実践に努めなければ、政治の裏金かき集め、宗教や一部権力者との癒着、不倫に口移しの金渡しなど、おおよそ国民の民意と程遠いことばかり熱心に犯している。 

日本の国、行政、お役所、そこに勤める人は、国民の話を聞かない。 

正しくは聞いているようなふりで、実際の当事者の立場、現場の声を全く聴かない。 

民意が反映されていない政策に国民は振り回されているのではないか。 

 

 

・聞き入れない自治体がほとんどの中 

素晴らしい 

自分も、自治体の障害者雇用など、市長宛のメール等で、その日目にした障害者や、高齢者の困っている事など、訴えているが、本庁から各区役所担当課に回り、検討の文字すら入らず、返信がくる 

健常者さえ良ければいいと 

ウチの自治体に未来や希望は無い 

だから、若者は出ていくばかり 

 

 

・「障がい者が街で暮らすと社会は必ず変わる」 

これは本当にそう思う。 

 

それから 

「健常者と障害者の相互の理解」という言葉は、健常者の側から使うつもりはありません。 

 

記事にもあるように、健常者は障がい者がどれだけ不便か、どれだけ苦痛か知りません。 

まずは障がいのある人が、普通に街角に出て来られるようにする。そのとき、やっと見えるようになる。 

 

当然、こんなひどいこと、という告発もあるでしょう。それを「極端だ」「言いすぎだ」と健常者のものさしで叩いていては、インクルーシブは進みません。 

きれいごとなら誰でも言える。厳しく指弾されたときに、ちゃんと答えられるか、試されているのです。 

 

 

・いや、実際、それが良かっても最後にはお金の問題。 

そのお金は何処で作るの? 

言うのは簡単。 

実行するにはまた議員の賄賂や裏金。 

そして莫大な税金が使われる。 

この市議とか議員とか出て来ると問題が多くなる。 

AIで多分、予算も計画も出来るはず。 

何故しない? 

安くで出来るはず。 

 

 

・つくば市って市民の意見反映がすごいんですよね。研究機関も多く高学歴高所得も多いし、福祉関係の研究も盛ん。 

 

10年くらい前に水戸市に替わる総合運動公園を巨額の税金投入してつくる際に市民投票にかけて市民に判断を仰ぐほど。普通の市なら行政の独断でやる。でもつくば市の場合民意を無視すると次の選挙ではまず当選できないからね。 

 

ちなみに総合運動公園は否決 

 

 

・バリアフリーへの取り組みは、これからの我が国の「成長のタネ」となり得ます。 

 

国内には、身体障害者・精神障害者合わせておよそ1000万人で、人口の一割近くを占めます。決してマイノリティではありません。 

更に後期高齢者も含めれば人口の2割に達し、バリアフリーはある意味巨大な「マーケット」を潜在しているのです。 

 

今までは健常者・若者を中心に国造りを進め、経済発展してきました。 

これからは視点を変え、弱者対応を中心にした国造りを行うことで、まさに「高度成長」の再現も可能になるのです。 

 

バリアフリー化は、インフラ面の整備はもちろん、ITなど技術の発展を促し、健常者にとってもどんどんラクで便利な世の中になっていきます。 

 

障害者や高齢者は、我が国のこれからの成長を呼び込む大きなチャンスをもたらしてくれるのです。 

 

 

・本当にこれは大事だと思うんだよなぁ~。自分が障害者になって始めて気がつくんだよなぁ。観光地、神社仏閣に行くと景観を気にしてなのか手すりが案外無いんだよねぇ~。階段に手すりはつけて欲しいんだよなぁ~。現地行って断念するとか、人の肩を借りるとか何とかなる場合もあるけどね。 

 

 

・まさに社会を設計するときは「無知のヴェール(自分がその社会で何者かわからない)」の前提に立って考えるべきかと。 

 

インクルーシブ的な施策に対する批判の多くは「自分が障がい者ではない立場」である特別な視点からの意見を,あたかも「自分は社会全体の利益を考えて導き出しているんだ(という格好をつけている)」という類のものが多いように思う。 

 

役ぎめのくじ引きでたまたま当たりを引いた後に(当たった時にだけ),くじ引きの正当性を主張しているようなもの。 

 

 

・別に障害者の意見はそこまで聞かなくていいと思う。生活保証はすべきだとは思うけど。仕事して普段の生活が出来ればそれ以上は求め過ぎだと思う。 

障害者っだけでわりと特典があるし。 

 

 

・「街を世界最先端のインクルーシブ社会に」ーー障がい当事者の提案が生んだ茨城県つくば市 

 

単位を「街」ではなく、「国」にしなければならないです。 

国は民の規範たるべくちゃんと障害者を雇用して、霞ヶ関あたりでは世界最先端のインクルーシブ雇用、インクルーシブ設備を見せてほしいですね。 

 

 

 

 
 

IMAGE