( 157525 ) 2024/04/08 15:22:48 2 00 「全然大丈夫」「全然良い」は間違いか? 名だたる文豪も使った“全然”+肯定語 正誤を有識者に聞くラジトピ ラジオ関西トピックス 4/8(月) 8:30 配信 https://news.yahoo.co.jp/articles/6dbcbfdce0f0f83f0e7207736a85ea16f3b2bf32 |
( 157526 ) 2024/04/08 15:22:48 1 00 新社会人がビジネスマナーの1位として気にしている「敬語・言葉使い」の中でも、最近気になるのが、「全然良い」「全然できる」などの使い方。 | ( 157528 ) 2024/04/08 15:22:48 0 00 今ドキの「全然」の使い方、アリ? ナシ?
新年度が始まりました。新たな職場・学校で新生活がスタートする人はもちろん、先輩や上司として新入生・新社会人を迎えるこの時期は新たな人間関係を築くチャンスでもあります。そこで改めて見直したいのが“正しい言葉使い”。健康食品や化粧品を取り扱う「株式会社グラフィコ」が新入社員に向けて行った意識調査によると、新社会人が心配だと感じているビジネスマナーの1位が「敬語・言葉使い」だそうです。そんな中でも筆者が気になっているのが、「全然良い」や「全然できる」などといった“全然”の使い方です。
【写真】「全然+肯定」を使っていた文豪 お札にもなっていた人です
主に否定として使われる“全然”に肯定や可能を表す動詞・形容詞を組み合わせることについて、「大丈夫」「ダメ」という両極の意見を聞きますが結局どちらなのでしょうか? 文化庁国語課の国語調査官・武田康宏さんに話を聞きました。
☆☆☆☆
時代によって言葉の使い方は変わっていくなか、「全然」の使い方について武田さんは「間違いだとは言えない」と言います。
「多くの辞書は『全然』の使い方について、基本的には否定や打ち消しの表現と組み合わせて用いると説明していましたが、新たに改訂された際には否定を伴わない使い方にも言及されています。また、言葉は時代と一緒に変わっていくものであり、現在の『全然+肯定』の使い方も若者言葉ではなく広く使われているものとなっています」(武田さん)
例えば「敷居が高い」という言葉は「高級なために入りにくい」という意味の誤用だと考えられていますが、広辞苑では改訂された際にこの意味でもあることが追加されています。
同様に「全然」の使い方も時代によって変化してきたのですが、武田さんによると「全然+肯定」の表現は「許されやすかった時期」と「許されにくかった時期」が繰り返されてきたそうです。
「『全然ダメだ』のような打消しの表現と組み合わせる使い方は、戦後に定着したものだという研究もあります。かつて、一部の文豪たちが否定的表現を伴わず“全然”を用いた作品も存在します」(武田さん)
実際、夏目漱石の『趣味の遺伝』(1906年・明治39年初出)では「全然同格である」、太宰治の『鷗(かもめ)』(1940年・昭和15年初出)には「全然新しい」という表現が使われています。このことから、「全然+肯定」は「誤用→正用」とストレートに変わっていったのではなく、誤用だと考えられた時期もあれば正用だと考えられた時期もあり、それが繰り返されてきたことがわかります。
その上で、武田さんは「誤りとまでは言えないですが、必ずしも誤用ではないとも言い切れません。それを踏まえた上で、言葉で大切なのは『全然良い』のような表現を、話す相手がどう感じるかだと思います」と話してくれました。
☆☆☆☆
「全然+肯定」は、使っても良いのか悪いのかはっきりとした答えは無いようです。武田さんいわく現在は「良い」がやや優勢とのこと。ですが丁寧な言葉使いを目指すのならば、あえて使用する必要はなさそうです。
ラジオ関西
|
( 157527 ) 2024/04/08 15:22:48 1 00 (まとめ) 以上の意見から言葉の変化や使い方の適切さに対する見解は多様であり、時代や個人の感覚によって異なることが分かります。 | ( 157529 ) 2024/04/08 15:22:48 0 00 ・言葉は昔から変わっていくもので、特に話し言葉=口語の変化スピードが早い。時代の流れなのだから他人が使うのは理解したほうがよい。ただ、自分が使うかどうかは個人の判断であり、極めてフォーマルな場など場面に応じて使い分ける判断ができればそれで十分。
・そういう言葉使いが当たり前になって来ているし、入学試験とか面接、会社での上司とのやり取りなどきちんとした言葉使いがどうしても必要になる時だけ使えれば良いんじゃないかなと思う。家族とか友人など親しい仲同士で正しい言葉を意識し過ぎると疲れるから。それでお互いうまくコミュニケーションが取れていれば問題ないと思う。
・「全然」には「相手の想定しているであろうことに反して」というニュアンスがあるという論文を読んだことがあります。例えば迷惑をかけた相手への謝罪に対して「全然大丈夫、全然平気」などという回答があり得ます。謝罪者が自分は不快に思っているだろうという前提に対し、その想定に反して自分は気にしていないという意味になります(真意は別ですが)。副詞には下に特定の表現(“打消、推量、逆接、比況など)を伴って一定の意味を構成する「呼応」表現もありますが、それ以外が誤用とは限らない例も多くあります。それが受け入れられるかどうかの問題で、「全然」の単独用法は比較的古くから用例があります。
・言葉は時代とともに変化していくんでしょうね…とは思いつつも、「全然+肯定」の使い方は過渡期なのかなと。私はちょっと気持ちが悪いと感じることがあります。 その他ですけど…以前から見かける「普通に美味しい」とか「普通にすごい」もちょっと気持ちが悪いかな。これも過渡期なのかもしれませんよね。もう少し経つと慣れてくるのかなとも思います。
・言葉は普遍的なものではなく変化していくのはよくわかります。 今は伝播速度が昔とは比べ物にならないほど速くなり、情報量も半端なく増えただけに、言葉の変化はとても大きい。 だから辞書を調べるまでもなく雰囲気で使っている人も多い気がします。単語単体ではなく文脈で使えばなんとなく理解できるので。 ただその一方で、どちらとも捉えられる言葉をそれだけで使って周りを混乱させる人もいますが…。
・主に職場で、ただでさえコミュニケーション取りにくくなったと感じているのに、こういう細かいことば使いを気にしていると疲れてしまいます。 役不足や煮詰まっているなども誤用している人が多く、意味が真逆になるので前後の文章から考えて対応しています。 私も間違って使っている言葉たくさんありそうで、気にしていたら生きづらいです。 でも、きちんとした日本語使える人になりたい!
・昔、気象予報士の福井敏夫さんがサンフェスタという飲み物のCMで「サンフェスタはぜんぜん美味しゅうございます。」と言っていた。もちろんセリフで言ってるのだけど、それを聞いて子供だった自分が母に「全然の使い方間違ってるよね?」と言うと母が笑っていたのを覚えてる。何となくだけど、あの頃からこの全然+肯定をよく聞くようになったと記憶している。
・言葉は 意思を疎通させるための道具なので コミュニケーションがとれているなら 全くよろしい(← わざとですww)
ただ、僕は、そこそこ昔の人間なので 全然、全く……ときたら、その後には否定語がくるものだと体に染みついている なので、会話でもしっかり最後まで聞かないと…… 言葉を変えて再確認しないとおかしなことになる
違う言葉だが、昔、若い担当者の子に、「ダメ押しの確認です」と電話したら…… 翌日来なくて……問いただしたら、 「ダメになったって、確認の電話くれたじゃないですか?」って……
それ以来、できるだけ小学生にもわかるような言葉で話すようにしている 勿論、こいつバカにしてるのか?って思われることもあるだろうけど、その後何度も会う事もない人であるなら、正確さを優先する方が得策だと思う
・言葉は時代で変化していくものです。古典の国語という学問があることが証明してますね。つまり、本質的に言葉に絶対的な「正誤」という概念は馴染みません。この場合「正しい」は「多数派の共通認識」と考えた方が実情により近いと思います。
ただ現代においては、ネットやSNSの存在がその変化を超加速していると思われ、中高年世代と若年層の言語感覚の乖離が数十年前までと比べ激しくなり過ぎていることは確かでしょう。そのため、違和感や拒否反応が強くなることも致し方ないことかと思います。
今はその違和感や拒否反応に、個人々々が互いに寛容になる必要がある時代なのかも知れませんね。残念ながら、ここを断言出来るのは何百年か後の人達でしょう。
・私はこれは過渡期だと耳にする違和感をも楽しんでいます。 全と然で「全く然り」「全くその通り」ですから肯定との組み合わせも構造的には間違ってませんが、経緯としては「全然そんなことない大丈夫」の中間の省略に始まっているように私は思います。 間違いとするのは用例によるものですから用い方が変化するなら間違いとならなくなることもあって良いはずです。 既に世はビフォア組とアフター組に分かれていて、ビフォア組はこの記事に集い意見し、アフター組はきっと何のことを話題とする記事なのか?とキチンと説明しなければさっぱりわからない状況なのではないのでしょうか。
私の若い頃に「マジ?」が出現し流行りましたが、一説では200年前の歌舞伎の台詞に「まじな心を」というものがあったと言われています、もちろん現代と同じ意味で。
意外に全然と肯定の組み合わせもどっかの昔には全然オッケーだったかも知れません。
・これに近い文として、「普通に」+肯定文 があると思います。 「普通に美味しい」「普通に楽しい」といったニュアンスのもので、本来「普通に」とはどちらでもない、特段、という中庸な意味合いのものです。 しかし昨今の「普通に」とは、その言葉の語尾に閉じ込められた「普通に考えて」という副次的な要素も含有されており、どちらかと言うとポジティブな言葉に変容しつつあります。 太古より言葉とは言霊を表すものではありましたが、近年の文体から読み解くに恐らく文章の効率化も採用された結果で、全て伝えなくても幾分か伝達し得る機能的な要素も構築されているものと思います。 それが言語の進化でもあります。 百年以上前の会話が分かりにくいのもその一例だと考えます。
・文化庁は公文書などでの書き方の指針を提示することはあっても、「正書法」を定めて正誤を決めることはしませんので(言語学でいう記述論法寄りの立場)、「間違いか?」と尋ねても「実際に使われている以上間違いとは言えない」と答えるのは当然だと思います。
私も「言語に正しいも間違いもない、単に社会で許容されているか否かに過ぎない」という考えです。現代においては、「全然は否定語と共に使われることがメインだが、全然+肯定形も強意の副詞として市民権を得つつある」というのは事実だと思います。
「元々は肯定形でも使っていたから正しい」のように由来こそが絶対だと考えてしまうと、「あたらしい」は本来「あらたし」なので現在の用法は誤用だということにもなってしまいます。
ただ、言語は単なる意思疎通のツールだけではなく、自己表現の方法でもあるので、社会の許容度が低い用法を多用すれば人格を疑われる恐れもありますが。
・私は年配層だが見解としては”全然”と言う言葉を「まったく問題ない」という言葉に置き換えて解釈するのが一番スムーズに伝わりやすいと考えています。 ところが若い層に言わせればそれ以外にも多数の使い方があるという事を指摘されます。 時代と共に使い方も幅広くなっていくのかなとは感じますが、なんとなく慣れ親しんだ使い方が否定されると少しばかり悩みます。 これ以外ではもう20数年くらい前に使われ出した「がっつり」という言葉も最初はかなり戸惑いました。 何となくこれは自分の発する言葉の範疇には入らないと思い、自分では決して使っていません。
・コミュニケーションというのは相手に自分の考えや置かれている状況などを伝えるためのものだから、ある程度は相手に合わせて対応していかないと駄目だと思うんだよな。 『全然出来ますよ』というのが正しいから誰でも彼でも使うぞ、ではなくて相手を見てそれぞれに合った表現を選んでいく能力も必要だよ。
・森鴎外だったかも、少しではあると思いますが、確か肯定形で使ってたはずです。
高齢の方とか子供とかには分かり辛く感じる人もいると思うので、相手を選んで使うのが良さそうですね。
この場合の「全然」という言葉は、後の単語を否定してるわけではなく、その「全然」という言葉の後には、使われてないですが「問題無く」などという言葉が隠れてる様に思います。 例えば、全然良いですよ、という言葉の中には、「全然(問題無く)良いですよ」といった感じで、見えない単語が含まれており、あくまでもその言葉を否定しているという意味だと感じます。
全然大丈夫です ↓ 全然問題無く大丈夫です
全然できるね ↓ 全然問題無くできるね
こんな感じの印象を受けますね。
・この「全然」の用法は基本的に相手の問いに対する返事に使われて、 実は言葉の前に「そんなことはなく、むしろ」という意味合いが隠れています。
「こんなものしかないけれど・・・」という言葉に対して 「(そんなことないです むしろ)全然ありです!」 というニュアンスで使われますよね。
だから、この全然の用法を、「とても」とか「断然」とかに置き換えてしまうとニュアンスが変わってしまうわけで、お互いに余計にコミュニケーションの齟齬が生じてしまいます。
・私自身は「全然+否定」でしか使わないが,「全然だいじょうぶ」と書いてるのを読めば「完全にだいじょうぶ」と解釈する。「めっちゃだいじょうぶ」でも構わない。すなわち,正しいかどうかは別にして,「意図は通じる」。
古典日本語の文法では,係助詞「ぞ・なむ・や・か・こそ」を使ったときには,後ろには決まった活用形が対応する。現代日本語ではそういう感覚が薄れ,「全然+肯定」とも言うようになったのではないか。コトバの変化の根源はそこに求めるべきだと,私は考える。
・古代日本は中国から文字表記法を輸入した。現在の中国語(公用語である共通話)にも「全然不~」(まったく~ではない)という形は残っており、常に否定形で使われる。古代日本でも輸入された当時は否定文として使われていたのだが、漢字とカナが混じり合った表記法が時代とともに一般化すると、「全然不~」という組み合わせが解体して、「全然」が否定語「不」を伴わないで独立した強調の言葉として使われるようになったと推測される。
それゆえ、「『全然ダメだ』のような打消しの表現と組み合わせる使い方は、戦後に定着した」のではなく、戦前までは「全然・否定文」と「全然・肯定文」の混交状態が続いていたが、(どのように契機によってかは不明だが、主に教育現場からではあるまいか?)戦後になって「全然・否定文」こそ本来の中国語だと唱えられ始めたと推測される。
(結論)どちらが正しか決めるべき(決められる)問題ではない。お疲れ様。
・相手方の受け取り方というのは理解できます。
自身の経験として、SNSのコメントなどでフォロワーから「配偶者」の呼称でツッコまれたことがあります。 自分の配偶者を「自分の嫁」と表現したら、「その使い方は間違い」と指摘されました。 自分としては配偶者を「嫁」ではなく「妻」と表現するのが正しんだろうとは理解していましたが、 特に会話の中で親しい間柄の人に向かって「妻」と言うのは、 抵抗感や他人行儀というがあり、リアルな友人もフォロワーなのでSNSでも同じ表現をしていました。
その方に毎回突っ込まれるんで、その方はそこそこ交流があったのですが、それ以外でも指摘を何回かされたこともあり疎遠になってしまいました。
・そもそも、現在放送中の大河ドラマで書かれているような古語から、数多の変遷を経て京都弁に至っているし、共通語といわれる言葉にも長州弁が反映されたりしている。他人に伝わらなかったり、誤解を生むような使い方はどうかと思うけど、これは正しい、これは間違いと白黒つけるものでもないのかもしれないね。
・以前にNHKで放送された日本語バラエティ的な番組でこの話題が取り上げられた時、こんな一言でまとめられていたことを記憶しています。
「『全然いい』でも全然いいけど、『断然いい』なら断然いい」
「全然」を肯定として使うことの是非や、それを許容する上での言語感覚について、うまく表現されてるなと感じた記憶があります。
・こういうのって大抵「間違いではない」とか「どちらでもOK」って結論になるよね。 誰に気を使っているのか。 昔の人がその使い方してたって記録があると言うけどその人も誤用してたのでは?って思う。ある程度の人数がそれなりの頻度で使っているなら昔からその用法があるって言えるけど、膨大な昔の資料の中に数件の使用例があるだけならそれも誤用ってだけでしょ。 最近は否定に否定的な風潮が強い。 それ間違ってるよって言われて傷つくのが嫌だからお互いなるべく否定的なことは言わず肯定しあうようになっている。 言葉の使い方を「間違いではない」って言うのもそのうちの一つで、おかしな言葉の使い方をしていても無理やり肯定している。
・文豪が使った全然+肯定は表現として敢えて使った可能性もある 肯定的な言葉に「まったき」があるが それよりも表現的な違和感とインパクトを狙って使ったのかもしれない あくまでも個人的意見ですが
言葉は時代により変わるものですが ちゃんと「こういう使い方が適切」と分かっているのといないのとでは 「いいんだよ言葉は生き物で時代とともに変化していくんだから」 という言い訳は捉えられ方が大きく違ってくると思います
・まあ、義務教育の場で正しい日本語とその用法が 教えられていれば良いという話。友人同士で、どんな 会話をしようともそれで通じているなら問題も無いだろう。
只、それで通じない相手には正しい用法で会話できるスキルを 身に着けておくべき。一言の言い間違え?で人間関係がおかしくなる 事も十分あり得る。
「君の事が全然好きだ!」と告白された相手がどの様な 気持ちになるものか、(事前に)想像してみる必要はあるだろう。
・いつの時代も若者の言葉遣いに対する賛否は議論の対象になるものなのですね。 かくいう私も50歳を手前にして若者の言動に疑問を持つようになりました。 当時の自分のことはさておいて。。。笑 話が逸れましたが、是非はともかくこういった議論で自国の言葉を考え直すきっかけがあることはよいことだと思います。
・たとえ表現に違和感を感じる人でも、「伝えようとしていること」「強調して伝えようとしていること」はハッキリ伝わるので他人に使われても気にしないし、目くじらを立てることでもないと思います。 他人同士、伝えたい内容が伝わったかが大事と考えれば問題なしです。
それよりも最近、長い話や文章を受け付けない人(高齢者や若い人)が増えた気がします。 そのほうが意思疎通ができなくて苦労します。
話を3行で纏められるのは、共通認識が確立した近しい間柄だけなのに。 他人同士、意思疎通の前提になる事前認識を確認しようとしても「話をまとめられない人」扱いされたりして非常に困ることも。 そういう人に限って、相手がなんのためにわざわざ長々と話しているのか?と考えないんですよね。ひどい場合には「俺の常識が世界の常識」みたいな感覚の人もいて困らせられます。
・例えば、ら抜き言葉やい抜き言葉ももう半世紀以上使われており 徐々に市民権を得ているように思えます。 この手の議論でよく言われるのが言葉は時代とともに変わると言うこと。 ただしそれには一定の時間が必要だと思います。 全然に関してはもうかなりの時間使われていると思いますが だからといって何でもかんでも許していれば日本語が破綻してしまいます。 一定の線引きは必要だと思います。
・文化庁がかつて「言葉に関する問答集」という小冊子のシリーズを出していて、こうした用語の問題を多数、事実・資料に基づいて記載してて大変面白く、私はほぼ全冊蒐集した(いまでは絶版だけどアマゾンで古書なら買える)。
そのシリーズでは、誤用なら誤用でなぜ誤用なのか、あるいは誤用と思われてる用例がじつはそうでもないということが、資料を元に論証されていた。この記事の「全然」についても同シリーズ第2集に収録されている
よくマナー講師が押し付けてくる「ください・下さい」という使い分けも、国語的・歴史的にまったく根拠がないということを明確に記述している。
こういう本をぜひ電子書籍化・kindle化、もしくはwebで読める形にしてほしい
・名だたる文豪であっても言葉使いがすべて正しいとは限らないのではなかろうか。彼らは、その小説の中身で人々を感動させてきたものと思う。 又、少々間違った言葉遣いと思ってもその内容が素晴らしければあまり気にならないのではなかろうか。
言葉は時代により変遷するというのは、高校の古文で 「愛し(かなし)きもの 小さきもの・・・」という文章を私は好きである、と言っていた男性の先生(150cm位であったと思う)を思い出す。
現代で「かなし」と言えば「哀し」或いは「悲し」を連想すると思う。
言葉の変化のスピードに取り残されている年寄りの単なるボヤキです。
・言葉遣いって難しいですよね。 自分はどう思ってようが、社会人になると 相手にどう伝わるかが大事だと思います。 書く文字もそう。相手にどう見えるか。 私自身は使い分けてます。 全然〜は、対する事への否定と思ってますので 、、これはダメですよね?、、とかって質問には、 全然大丈夫!とか答えますが、 年配の方へは使わないです。 逆に若い子にそう言われたら、 気にしないで下さい、大丈夫ですよ!の気を使った略語かなと違和感ないですが、 年配なら方に言われると違和感ですね。
・言葉が変遷してきたことは肯定するものの、現代では国語の授業で統一的な用法が教えられている。言葉はコミュニケーションのツールとして皆が同じ意味で解釈する方がいい。 例えば「1時間弱」。1時間よりやや短いという意味だが、これを最近は1時間とちょっとと解釈する人もいるらしい。これも多様性か。
・時代で使い方変わるものですからね。
自分がどうしても受け入れられないのは「耳障りがよい」という使い方。 聞こえた音が気持ちいいという新しい意味の使い方だとは思うが、その場合はせめて「耳触り」と漢字を変えてくれぇ〜と心がザワザワする。 障り=支障がある、問題がある なんだからさぁ…口語がかわるのは仕方ない、漢字も意味に合わせて変更して!変換で出てきたものは元の意味なんだから、漢字見たらわかるやろがい!となってしまう。
・個人的には、きちんと趣旨が通じているのであれば、本来は誤用である使い方でも問題はないと思う ただ、全く逆の意味になるような誤用を使われると困る それと、誤用を指摘したら、今はその使い方で通じるから誤用の方が正しい使い方とすら言うようなのは正直どうかと思う
・言葉は生き物なので変化していく。 今では当然のように使われる漢字の「送り仮名」も、昭和48年に当時の文部省が世相に合わせるべしという内閣告示を受けて整備したもの。それ以前は例えば「少ない」を「少い」と書いても間違いではなかった。それが幼稚な書き方だとして批判する動きもあったし、かなり後年になっても文筆家が「過剰な送り仮名は気持ちが悪い」と愚痴っているのを読んだことがある。 そんなわけで全然間違ってないというか全然アリなんだけど、年配の人ほど新しい言葉に抵抗感があるのも事実。礼儀が重んじられる場やビジネスの場でわざわざ印象の悪い言葉を使うのは得策ではない。
・「〜しか」を使って短い文を作りなさい。
小学校二年生の時に国語のテストで出た問題です。 後ろには否定の言葉が続くのが正解なのはわかっていましたが、私はそこをあえて、 「あ、あそこに、しかがいる。」と答案用紙に書きました。 丸つけして戻ってきた答案用紙には丸がついてました。 先生、分かってるぅ〜。とにんまりした事を覚えてます。
今思うのは、日本語の「揺れ」は遥平安時代にも問題視されてきた、古い問題です。が、あえて正論を言い続けないと、将来的に日本語が別の言葉になってしまう可能性があるという事。平安時代の文章は古典としてあえて学ばないと解読できない物になってしまった様に、今の言葉も、そうなるだろうと思うのです。しかもその変容速度はとても早くなって。
・表現そのものとしてどうこうというより、TPOで使い分けられていれば、個人的にはあまり気にならないかな。家族友人等フランクな間柄での会話、もしくはそこまで行かずともちょっとした雑談くらいなら、それこそ『全然大丈夫』。大意は伝わるからOK。 しかし完全にお硬いビジネスの場や明らかに目上のひとと接する際に『全然大丈夫です』が出てきたら『おいおい…』となる。大意として伝わるのは変わらないかもしれないけれども、このような『本来の意味/使用法として疑問』という話題で取り上げられがちな言葉がさらっと出てくるのはマナーとしてちょっと…と感じてしまうのが正直なところ。こういう細かいところで『失礼』だと感じるひとも多かろうし。 こういった差異が『意味/使用法の変遷』に繋がるのかな、と思ったりもする。
・これ私が小学生くらいに、とんねるずの番組で「全然オッケー!」というのが初めての「全然+肯定」だった
当時、私には凄く違和感(否定なの?肯定なの?って)だったんだけどとんねるずが凄く流行っててみんな真似して一気にスタンダードな使い方になった気がする
全然ってそれまでは否定にしか使わなかった 全然できないやーとか全然だめだったとか
同じ感覚の方いると思うんだけど 言語って変化するんだなってまさに体感した出来事 金田一先生が「言葉は生き物、変化していくもの」みたいなこと言っていたがまさにと思いました
・現代,「全然美味しい」という場合,「たいして美味しいとは思っていなかったけれども,意外にも・存外・結構いただける」という別のニュアンスを含んでいる場合があります。「全然大丈夫」という場合は,もっと自然で,「(相手から抱かれる)大丈夫かどうかの心配・憂慮・危惧に反して,大丈夫だ」というニュアンスがあります。単なる強調用法とは,異なります。 実際の言語生活は,そこに至るまでの会話の文脈や,声の大きさ・イントネーション,あるいは表情や身振り手振りを伴います。「全然」の意味用法をあらためて整理しなおさなくても,単なる強調の用法はそのままに通じます。しかし,文字通りの文字情報である,書き言葉の場合はどうでしょうか。何度も読み返すこともあるでしょう。さらに書き言葉でなくても,不特定の人に,余念を許さず,間違いなく内容を伝えたい,といった場面もあります。そういう場面には,ふさわしくないこともあるのです。
・「全然〜ない」が文法的に正しいとはわかった上で、「全然〜ある」と間違った使い方をすることで「ある!!」ことを強調するつもりで使用していたが…「全然〜ある」が普通に市民権を得たんですね。 言葉は変わるものだから仕方ないのかな。 今はまだ変わることを受け入れられない世代が多いけど、しばらくしたら辞書にも「こういう使い方もある」と載ってくるのではと思う。
・ウィキペディアによると↓↓
1990年代前半に、学生を中心に自然に広まっていったといわれているが、「全然」という言葉が中国から入ってきた江戸時代には、既に肯定で使用されることがあった。 ただし、広まったのは明治時代である。 その後、昭和中期には肯定用法の使用が減り、「全然」を否定表現で使うことの方が多くなっていった。
・正しいかどうかを語るのは言語学の範疇ではないのですが…少し。 そもそも全然という言葉は、 「全く、然り」
「全く」も否定を伴うことがありますが、「全くもってその通り!!」「全くだ!!」みたいにも使うことからもわかるように、「100%」の意味であれば、古来肯定でも否定でも使う言葉でした。
小学校の頃に辞書で調べたら、「全然おもしろい」のような言い方はやや古い言い方とありました。
正しい正しくないで言えば、実際に使われて誤解なく通じているわけで、それでいいんじゃないかと思いますし、事実としては「否定を表す専用の表現ではない」のは間違いないところです。
・そもそも高校一年生が教科書で必ず読むと思われる芥川龍之介の『羅生門』のなかで「下人は始めて明白にこの老婆の生死が、全然、自分の意志に支配されていると云う事を意識した。」(青空文庫から抜粋)と肯定表現で使われている。今どきの若者が違和感抱かないのはこういうところにもあるかもよ。
・言葉は時代で変化する。全然の後の肯定は今では普通に違和感ない。でも、何回聞いても違和感があるのは、「~だそう」で終わるフレーズ。結構、日本放送協会の番組でアナウンサーがよく使っている。何か国家的な意図があるのかと勘ぐってしまう。「~だそうです」と何故言わないのか疑問。歴史的にそういう言い方もあり間違ってはいないのかもしれないが、明らかに締まりのない言い方です。
・個人的な見解だけど、これの変わり目ってCMのキャッチコピーだったと思う。なんのCMかは忘れたけど「全然」に否定ではなく「全然オッケー」みたいに肯定語をくっつけたキャッチコピーを使ったCMがあったんだよ。 その時、自分は多分小学生くらいだったと思うが、それでもかなり違和感はあって「全然の後には否定語だろ」って思ってた記憶がある。そういう意味では凄く優秀なコピーだったと思うが、なんかそっからみんな「全然+肯定語」を使い始めた印象があるね。
・文豪は、間違ったあるいは一般的ではない日本語は使わないのだろうか。あえて使う場合もあるかもしれない。
最近では、小説家が新聞に載せたエッセイと、フリーマガジンの編集長の編集後記で、「元旦の能登震災」という記述があった。日本語のプロのような方でも間違いはあるのかなと思った。
・何か気持ちを聞かれた時に否定の意味で「全然」と答えるので、肯定の意味で使われるのは違和感があります。でも確かに言葉は時代と共に変わる事があるので仕方がないことなのでしょう。 しかし今よく使われている「やばい」には違和感というより不快を感じます。肯定や賞賛の意味で使っているのでしょうが、私には貶(けな)されているように感じます。
・言葉は変化する物なので柔軟に受け入れていきたいとは思いますが、最近の言い回しとして気になるものがあります。 「◯◯です」とは言わずに「◯◯…というのが…正直なところです…」とか「◯◯…というのが…現状です…」など。「◯◯というのが」まで言って(あれ?どうしよ)みたいになって 苦し紛れに正直な所とか現状とか言って 声も尻すぼみになってますよね。 何でわざわざ難しく言うのかなあ、作家じゃないんだから、普通に言えばいいのにと思ってしまいます。 後は「感謝しかない」とかも。
・昔調べた時に出てきたのは 日本語と英語の単語突き合わせる時に全然というものをneighter?だかなんだか否定形の単語を割り当てたから逆に日本語が否定形の意味に固定されたみたいなものだった 全然ってまったくもってしかりと読めるから誰かの問いかけに応答で言う通りで大丈夫とかダメとかにつけるものだったのではと思う
・まあ言葉は変わっていくのが当然だ。 「絶対」だって否定語と一緒に使われていたが、現在において肯定語と一緒に使ったときに「誤りだ」と指摘する人はいないだろう。 「敷居が高い」も誤用であっても、まあ意味は通じる。
ただ、意味が正反対になっていくのは結構困る。
たとえば、「おもむろに(徐に)」は、字のとおり「ゆっくりと」という意味だが、どうも「急に」という意味で使っているひともいるようだ。
若い人が使う「やばい」も文脈を正確にとらえないと反対の意味に解釈してしまうので、特に年配者は注意が必要だ。
・全然大丈夫は全然問題ない、大丈夫。の略と思って使ってます。大丈夫に全然がかかっているわけではなくて、省略的な感じ。 全然いいよ!も全然問題ないよ、むしろいいよ!の意味合い。でも正しい本来の使い方ではないってことですし、役員と話すときは、全然!大丈夫です…って言うか正式に?全然問題ないです。ありがとうございます。って言うよね。やっぱり目上でもちょっと先輩とか家族とか、同僚後輩くらいなら使っちゃうけど、役員までいくと違和感。
・言葉の誤用については、過去に使われていた例があればOKとする説明がよくされています。
言葉は生き物だと言われますが、使われる方への変化だけじゃなく、流行り言葉のように使われない方への変化もあるわけですね。
単に意図を伝えるだけなら前後の文脈から勘違いされることはないでしょう。堅苦しかったり誰が読むかわからない文章では、避けた方がいいんでしょう。
・言葉は変わりゆくものだから線引きは難しい。私は50代のおっさんだけど、“全然OK“とか、全然を否定系にしない言い方はよくしてるし、“あの店は高級そうなのでちょっと敷居が高いなあ“など、もっと年齢が上の方にはたしなめられそうな言い方はよくしてるかもしれない。ただそういう自分も、若い方が肯定的に使う“やばい“という言い方や、店員さん等に勧められた時に断る意味の“大丈夫です“と言う言い方にはすごく抵抗感があって使うことはない。
・こういうの見ると「正しい日本語って何?」っていつも思う。言葉は時代や環境によって容易に変化する事がよく知られてるし、その時代によく使われる表現や言葉が正しいと言えるんじゃないかな。 やたらこういうのにうるさい人いるけど、じゃあ貴方は日本語が始まった何千年前からずっと一字一句違わずに使ってたんですか?って聞きたい。まぁそこまでとは言わずも明治大正くらいの言葉だって変化してるものもあるし、これが当たり前だと思わないと。
・自分は全然〜の場合は否定する言葉しか用いないが、言葉が時代と共に変化するのは世界共通のことだろう。要するに相手に意味が正確に伝わればそれでよいということだろう。個人的には「ら抜き言葉」や「二連勝」等同じ意味を重複する表現は気にはなるが。
・現代的な全然+肯定文は、大抵の場合は文脈のなかに否定的な含意があって、それを打ち消すニュアンスがある。「天気は悪いけど、全然歩けるよ」というのはわかるけど、「良い天気だから、全然歩けるよ」と言われたら、足腰が悪いのかな?とか、かなり遠いのかな?と感じる。
興味深いのは、肯定文であっても平気で全然がつく用例はかなり多いことだ。その好例が文中にも挙がっている「全然ダメだ」である。「ダメだ」っていうのは文法上は肯定文なのだ。
言い出すときりがない(論文が書ける)のであまり突っ込まないが、「不」で始まる単語は全然が自然についたり、不自然だったりする。「小麦粉が全然不足してて困ってるんだよね」はなんだか自然に聞こえるけど「猛暑日のうえに湿度も高くて、全然不快なんだよね」というとなんだか不自然な気がする。
個人差はあるでしょうから、違う感覚の人も多いと思うけどさ。難しいし、だから面白いよね。
・漢字の意味からすると、「全く + 肯定」が許容されるなら「全然 + 肯定」も認められるのが自然。(「然」はその状態を表す)
私は「敷居が高い」の意味をいわゆる誤用の意味で覚えてしまい、恥をかいたことがあるので、意味の範囲が広がったことは少々感慨深いものがある。
・『全然』を分解して考えた時、全て、全部がすべからく、問題なくと分解できると考えます。その時、何の問題もないと言う事を表現する際、全然大丈夫などの用い方が出来ると思いますよ。
・時代によって言葉は変化することはよくある その言葉が定着するまでの過渡期にはいろいろな問題も起こるだろう 言葉は相手に意味を伝えることが重要であって相手や状況によって使い分ける事も必要
・否定的な事柄や事象を、提案や質問されて、 それを肯定する時に、 「全然+肯定」 を使用するように思います。
否定(マイナスなこと)を、「全然」でマイナスの意を受けとめて、 マイナス足すマイナスで、マイナスをなくし、 さらに、肯定語を足すことで、 肯定となる言葉の進化のように思われ、 日本語すごいなと思いました。
・「全然+否定」が正しいと習った世代ではあるが、「全然+肯定」でも現在は使っている。
ただし、記事中での文豪が使った例にあるように、現代でも基本的にはそれまでの話の流れに対して「反対」の意図を表明するのに使うような気がする。
つまり、会話で相手が「こんな格好ではいけない」という否定の意図を示した際に「全然大丈夫だよ」と反対の意図の「肯定」を表す場合。 「これ古臭くない?」という否定の意図の言葉に対して反対の意図を示す時「全然新しいよ」というやはり反対の意図を示す使い方になっている。
ずっと誤用が今になって言葉が変化してつかわれるようになったと思っていたが、過去に文豪がつかっていたといいう事はただ単に否定の言葉をつなげるのではなく、それまでの流れとは反対の意見をだすさいに使われるのが「全然」という言葉の使い方として普通であったのではないか?とも感じた
・全然は「全然〜ない」で呼応の副詞の一つと文法で習った記憶があります 「決して〜ない」みたいな使い方ですね ただ言葉も進化し今では肯定的表現をなさる方は多いので、そこまで違和感を感じなくなりました
今言葉遣いでものすごく違和感があるのは「違くない」という表現 これは40代、50代でも結構な割合で使われています 要するに「早い」「やさしい」など形容詞の活用を持ってくるので当然「違かった」みたいな変な表現になってしまうが、これもよく聞きます 今のところ「違い」は名詞、「違う」は動詞だし、「違くない」は公式文書にはおそらくまだ登場していませんが、市民権を得ようとしているように思えます
・どんな言葉に気持ち悪さを感じるかは、個々人の感性によるんでしょうが…「全然+肯定」は、わたしは何とも思わないですね。使わないように…と意識してる訳でもないので、口語で使ってるかもしれません。
わたしはどちらかと言うと「すごい」ことに対して「普通に」とつくのが気持ち悪いです。「すごーい!」と褒めるとか、感動するとか、そういう次元を超えて、「凄い」みたいな時に使うんだな、という、ニュアンスは分かるのですが… でも、これも慣れてきたら何も思わなくなるのかもしれません。言語って進化(変化)していくわけですからね。 今、例で挙げた「凄い」についても、語源は「すさまじ」から来ていて、もともとは良いことに対して使う言葉ではなかったらしいですし。 言い出したらキリがないんですよねぇ…。
・文豪が使っていた用法だから適切だとは限らない。 時代の経過とともに用法も変化するという事なら、 学校の国語で教えることは何を基準とするのか。 ただ言えるのは現代国語における文法として、 全然+肯定は適正ではない。
・若者言葉で一般には間違いだったはずが,時代の変化で肯定されるとは。 何でもありを認めると言語が乱れるからダメだという意見,大昔からこんなことは繰り返されているからと肯定的に捉える意見,両方ありますね。
・平成の初期の車のCMだったと思うけど、「全然いいね」と聞いた時は違和感を覚えた。それから30年以上たった今では普通に使っている。
今は「〜でよろしかったでしょうか?」と聞くとモヤモヤしているが、これも時間が経てば違和感がなくなっていくのだろう。
大多数の人が使い出したら、それはもう市民権を得た事になるからな。それが言葉は生きているという事なのだろう。
・本来は「絶対」も否定語にしか使わないと中学だか高校だかで教わったけど、そうすると絶対音感とか絶対0度とか辻褄合わないし、言葉は変化するもので良いと思う。
ただ個人的には、ニュースのアナウンサーでも使っている「3本の指に入る」にすごく違和感感じる。指って5本なのになぜ3本?どの3本?「5本の指に入る」の誤用にしても、こっちのがよくわからない。
・「とても」も本来は否定と組み合わせて使う言葉です。例:そんな量はとても食べられない、とてもそんな事はできない、等。いまは「とても」を肯定語と使うのは自然だと思いますので、それなら「全然」も時代に合わせて肯定語と使って良いように思います。
・元々は肯定でも使っていたと云うのは知っていますが、どちらかと云うと否定を強調する使われ方がオッサン世代では普通です。 それを近年は再び肯定でも使われているだけで、使っている人は知らないで使っているのだと思います。 「元々は肯定でも使っていた」「文豪も使っていた」と云うのは後づけでしょう。 最初からその歴史を知っていて使っているとは思えません。 「何が正しいかは知らずにいたが、たまたま正解だった」だけでね。
言葉と云うものは時代で変遷するので正しいも間違いも有りませんが、歴史を知っておく必要は有るかと思います。
・「先」という言葉は、元々は「以前」という意味でしたが、現代では「未来」のことを表す事が多くなっています。 水戸黄門では「先の将軍にあらせられるぞ!」と言っていたのに、最近のドラマでは「先のことは分からない」と言うようになった訳です。
数百年の間に真逆の意味に変化してしまう言葉すらあるのですから、自分は若者言葉も誤用も全く気にしません。
・平安時代の口語と現代の口語はかなり異なるという。年配の人にとっては若者の「ら抜き言葉」「全然+肯定文」確かに聞きづらいし気になるが、口語は時代と共に変化するので今の若者が年配になる頃には普通語になってしまうのかな?
・言葉なんて時代とともに変化するものだし、 学校教育でもないんだから、細かく指摘して使い方がおかしいと言わなくていいと思う なんでも、皆が良いと思えば定着するし 違和感を感じたら風化する それでいいと思う
・意味は変化するもの と主張する者も いれば、正しい意味で使った方が良いと考える者もいる 格好の例としては侃侃諤諤,喧喧囂囂が あるが、場合によっては誤用が ある程度認められた後に再度正用が復活する事も あるので、正しい意味で使い続ける方が良いとは言える
・言葉の使われ方は変わっていくので、それほど気にならない使い方とそうでないものとがある。 「全然」に関しては、違和感のある使われ方とそうでないものがはっきりしている気がする。 「全然良いよ」などは、聞いていても耳に残らないし、自分でも使う。でも、「全然おいしい」「全然楽しい」などは、違和感がある。 あとは、否定っぽく言いながら肯定するとかいう言い回しが遠ざけられているのも遠因かと。「全然かまわない」とか。
・記事全部に納得 全然、の使い方に対しては昔も ネットニュースになった 当時、全然+肯定はアリナシならナシも 大昔は、全然+肯定がアリで 全然+否定はむしろナシだった、 博識な人があえて使う場合はアリみたいな
個人的には大戦経験者が スパルタンな印象 生きるか死ぬか餓死するか、の体験は 人の使う言葉にもうるさいというか、 平和しか知らない世代に苛つくのかも 今のZ世代もわからんよ 大戦経験してから、めちゃくちゃ厳しく 後輩世代の言葉使いを注意してるかも
・以前こちらのコメントで、「汚名挽回」を誤用とするのは行き過ぎ、構造は「疲労回復」と同じではないかという意見を見て、なるほどと感心してしまったことがある(「汚名」は挽回しても「汚名」だから誤用だというなら、「疲労」も回復しても「疲労」ではないか、ということ)。 私自身は「汚名返上」「名誉挽回」が染みついているし納得もできるので、敢えて「汚名挽回」と言うことは今後もないと思うが、一見理路整然と説明できることでも、正論としてふりかざすのは考えものだと改めて認識したことである。
・「琴線に触れる」が「激しく怒らせる」の意味で使われだしているのもそのうち馬鹿な言語学者が言葉は生きているのでオッケーですとか言うのだろうか。あと句点は「威圧を伝える符号なので、使用してはならない 日本語は句点がなくても終止形を使って文末を表すことができた つまり、『全然』の例のように、句点も本来的なあり方に回帰しているのである」などと言うのだろうか。
・使わないほうがいいったって、「全然大丈夫」「全然良い」の持つ「すべてを網羅して、まるっきり」のニュアンスをどう表現するか
強調表現の「すごく」とか「非常に」だと違和感もあるし、意味合いもズレる
「全然」+否定だと「まったくダメ」「話にならない」という意味になるが、「全然」+肯定はその肯定具合を強調するよりももっとチカラの抜けた、自然体の肯定であることを強く意味する
意外に「全然」+肯定は言い換えが効かない
・私の私見では、「全然+肯定」には、元(本来)の「全然問題なく」というニュアンスが入っていると感じる。 つまり、その前に「問題あるんじゃない?」と予想されていたところに、「全然(問題なく)大丈夫」と答える、という感覚。 その点で、最初から何の心配もされていなかった場合とはわずかに異なるニュアンスが無意識的にも反映されている、と。
・私も気になっていました。個人的な見解としては、好ましい言い方ではないと思います。 文豪漱石が使用したからと言って正しいとは限りません。 それから、「ほぼほぼ」や「真逆」も、正しいかどうかは別として、非常に気に掛かる言葉です。
・どこかの本に、全然+肯定は「予想に反して」の場面でのみ使えると書いてありました。
例えば、前日の天気予報で大雨の予想だったのにも関わらず晴れた時「今日全然いい天気だね」と言えます。 しかし天気予報の文脈がないのに、会った人に対して「今日全然いい天気だね」とは使わないということです。
他にも友達が服の試着をして「似合うかな?」と自信なく聞いてきた時「全然似合うよ」と言えます。 これも自信満々で聞いてきた人に対して「全然似合う」は使えないということです。
日本語って面白いなと思います。
・日本語は時代とともに変わりますね。 「汚名挽回」も「汚名返上だろ」と訂正されることも多いようですが、最近では誤用だと言えないと書いている書物もあるそうで。 言葉の作りを見ても「汚名」を「挽回」するのはおかしいとの指摘に対し、「疲労回復」という言葉があります。指摘通りなら「体力回復」になるはずですが「疲労」を「回復」するでもこの場合は正解になるので、汚名を挽回するでも言葉の作りとしてもそこまでおかしくはないらしいです。
・新しい言葉が生み出されていくことと、誤用を定着させることは切り離して考えて欲しい。 江戸時代より前にも「ヤバい」とか「マジ」って言葉が生み出されて、近年だと外国語を形容詞や動詞にするパターンが多い(サボる、ディスる、ナウい、エモい)。言葉遊びは日本人らしさの一つだと思う。 が、誤用は不勉強さでしかない。
・子供の頃はそういう使い方はしなかった。 多分とんねるず、あるいはその世代の芸人のネタが元ではないかとおぼろげに記憶している。 否定と肯定の組み合わせの違和感をネタにしていたのが、世間で流行りそのまま定着してしまったのではないかと。
・「正しい」言葉なんていったって今日常で使う単語はほとんど江戸時代にはなかった言葉じゃないの
明治時代に外国の科学や政治の概念を理解するために外国語の単語を元に新たに作った新日本語が今の日本語で、時代劇見てると錯覚しちゃうけど実は現代のわれわれがタイムスリップして江戸時代や戦国時代に行っても現地の人たちと会話は通じない
昔は読みが同じ漢字ならどれ使ってもオッケーみたいなルールだったわけだし、あんまり言葉について正しい用法とか考えないのが実は日本の伝統じゃないですかね
人名も同じで昔はころころ苗字も下の名前も変えてたんですよね 夫婦別姓とかいう以前の問題で笑
・文豪が使っていたからと言ってそれが正しい言葉とは限らない。また、正しいと思われていた年配者の言葉が実はおかしくて、若者の言葉の方が正しかったということはままある。発せられた言葉にはその人の内面全てが込められている。私は、上品で知性あふれる美しい言葉を発したい。
・全然を否定的に使うのが正しいする根拠は日本語の検定や文科省の国語指導要領。 しかしその昔、江戸時代には肯定的に使っていたらしいので上記の根拠の更なる根拠はかなりあやしくなってくる。この決まりもうやめて良いのではないか。
・結局、前後の関連次第では? 肯定的に使う場合って疑問に対しての解で使うことが多いようにも感じるし。対して否定的に使う場合は立場や関係性が影響していることが多いようにも感じる。使い方の縦横の広がりを感じれば特にそこまで違和感は感じないかな。
・中年後期のオッサンの私も全然使うようになった。
昔の国語教育で育ったせいか、数年前まで「全然+肯定」は使いたくなかったが、歳をとったせいか国語の変遷は自然なモノとして受け入れられるようになった。「~的な」「~系」も積極的に使っている。 中学時代に「真面目(マジ)」を使い始めたころを思い出す。
今は「させて頂く」の妙な丁寧語(謙譲語?尊敬語?)は使わないようにしている。語尾だけ取り繕った表面的な感じがして嫌だ。
もっともそのうち使い出すかもしれない。歳をとれば細かいことに目くじらを立てなくなる。 国語とはそうやって変遷し定着していくものなのかもしれない。
・全然+肯定の是非を、令和になって記事化することに驚いています。 当時子どもでしたが、少なくとも20年ほど前に、この話になったことがあり、言葉は社会での使われ方と共に変わり、全然+肯定は受け入れられるものとされてました。
今、このことをYahoo!で採り上げる目的を知りたいです。
・特に嫌な気持ちになったり不快には思いませんが、あまり勉強はしていない人なんだなという印象を持つだけです。 身だしなみや清潔感も大切ですが、言葉使いや選び方でその方の印象は大きく変わるでしょう。
|
![]() |