( 159576 ) 2024/04/14 12:48:20 2 00 なぜ日本の城下町はこんなにも殺風景なのか…城を「過去の遺物」としか見なかった明治政府の恐るべき無教養プレジデントオンライン 4/14(日) 10:17 配信 https://news.yahoo.co.jp/articles/5d6bdb9fc0f9599d1163dfdcc76b757e21e36928 |
( 159579 ) 2024/04/14 12:48:20 0 00 撮影=プレジデントオンライン編集部
なぜ現存する天守は12しかないのか。歴史評論家の香原斗志さんは「大きな要因は明治政府が出した廃城令にある。彼らに文化や歴史的景観を守るという発想はまったくなかった」という――。
【写真】長岡城本丸跡・石碑
■なぜ日本の城は無配慮に破壊されたのか
仕事柄、ヨーロッパに行くことが多いが、帰国後に日本の城を訪れると、いつも残念な気持ちになる。ヨーロッパの旧市街や城は保存状態がいい場合が多いのにくらべ、日本の城がいかに破壊されてしまっているか、あらためて気づかされるからである。
たとえば、世界遺産の姫路城(兵庫県姫路市)にしても、内郭を取り巻いていた中堀は南側が埋め立てられ、外堀も南部は埋められたうえ、一部残る場所も土塁は崩されている。建造物は、内郭を除けばまったく残っておらず、内郭にしても、たとえば広大な三の丸に建ち並んでいた御殿群は、明治初期にすべて取り壊されている。
姫路城でこうなのだから、残りは酷いものである。天守が現存する城でも、犬山城(愛知県犬山市)や丸岡城(福井県坂井市)、宇和島城(愛媛県宇和島市)は天守以外の建造物は残っていないばかりか、堀はみな埋められている。
戦前まで天守が残っていた城も、たとえば岡山城(岡山県岡山市)など、本丸内堀こそおおむね残るが、それを幾重にも取り巻いていた堀はすべて埋め立てられ、市街化された。大垣城(岐阜県大垣市)も水郷と呼ばれた大垣を象徴して、4重の堀に取り囲まれ、本丸と二の丸は広大な内堀に浮かんでいたが、いまはすべてが埋められてしまった。
例外をあげつらっているのではない。日本の城のいずれも、程度の差こそあれ、このように無配慮に破壊されている。
■地上に痕跡すら残っていない城も
なかでも酷いのは、長岡藩の拠点だった長岡城(新潟県長岡市)である。本丸はJR長岡駅となり、ほかはすべてが市街化して、なにひとつ遺構は残っていない。上越新幹線の長岡駅前に降り立ったとき、ここが城跡だと感じる人はいないだろう。「長岡城本丸跡」と彫られた石碑が駅前に立つが、騙されている気分にすらなる。
尼崎城(兵庫県尼崎市)も同様だ。すでに武家諸法度で新規築城が禁じられた時期に、幕府が西国の大名に目配せする目的で築かれた城で、正方形に近い本丸の四隅には、四重の天守のほか3棟の三重櫓が建ち、その周囲は約300メートル四方に堀が三重にめぐらされた壮麗な城だった。ところが、堀はすべて埋め立てられて城内は市街化し、地上に城の痕跡を見つけることはできない。
平成30年(2018)、天守が鉄筋コンクリート造で再建されたが、本丸の跡地は小学校の敷地で整備できず、300メートルほど北西に建てられた。ちなみに、この天守は見栄えを重視して、東西を反転させて再建されたので、「史実に反する」という批判が少なからず存在する。
むろん、地震災害や太平洋戦争の空襲などで、不幸にも失われた城の遺構は少なくない。しかし、これほどまでに全国の城郭が破壊されている主たる原因は、明治政府の政策にあった。
■日本の城に決定的ダメージを与えた法令
明治維新を迎えた段階で、日本には193の城が存在していた。ほかにも、城持ちでない3万国以下の大名の藩庁が置かれた陣屋や、城に準じる要害を加えると、事実上の城の数は300を超えていた。天守にしても、その時点で70数棟は残っていた。
しかし、明治4年(1871)の廃藩置県で、城の母体である藩という組織がなくなり、旧藩主は華族となって東京への移住を義務づけられた。主を失った城の維持が困難になったところで、明治6年(1873)1月14日、明治政府は日本の城に決定的なダメージを与えた「廃城令」を出したのである。
各地の城は維新後も、皇居(当初は東京城と呼ばれた)となった江戸城と、兵部省の管轄下に置かれた大坂城を除くと、各藩がそのまま管轄していた。それが廃藩置県後は、兵部省陸軍部(改組後は陸軍省)の管轄へと変更になったが、事実上300もある城を陸軍省は管轄しきれない。このため、軍隊の基地として利用できる城と、不要な城とに分けることにしたのだ。
そこで、陸軍省と大蔵省の役人が全国に出張して各地の城を細かく調査。そのうえで、陸軍の軍用財産として残す「存城」と、普通財産として大蔵省に処分させる「廃城」に分けたのである。
■軍用財産として使えなければ処分
この時点で「存城」とされたのは42の城と1つの陣屋にすぎず、残る二百数十の城と陣屋や要害はすべて「廃城」とされた。
もっとも、「廃城」とされながら、犬山城や松山城(愛媛県松山市)、高知城(高知県高知市)のように天守が残された城もある。一方、会津若松城(福島県会津若松城)は「存城」とされながら、会津藩が戊辰戦争で新政府軍に抵抗したため、見せしめとして建物がみな取り壊されてしまった。
これを解釈すれば、「存城」といっても、保存すべき城という意味ではなかった、ということになる。
弁護士で城郭研究家の森山英一氏は、「存城と廃城は城郭の所管官庁を分ける法令上の用語」で、その背景には「城郭を財産とみるフランス民法の影響があった」と書く[森山英一, 平成28年]。
もう少し引用すると、「存城は軍事上必要と認めて国家が保有するものであり、廃城は軍事上不要とされたもの」で、「存城は、従来通り陸軍省の管理に置くという意味であり、廃城は、陸軍省の管理を廃し大蔵省の管理に移すもので、不要と認められれば売却処分されるが、直ちに破壊されるものではない」という。
つまり、「存城」と「廃城」とは国有財産の管理区分で、「城郭の建物その他の施設の維持保存とは無関係」の概念にすぎないということだ。明治政府は「フランス民法」の影響のもと、城を軍用財産として使えるかどうかという視点だけで評価し、使えなければ処分するという性急な判断を下したのだ。
■新政府=文化的素養に欠ける下級武士
残念なのは、フランスの影響を受けながら、歴史的環境を積極的に保護するというフランスの精神からは、なんら影響を受けていないことである。
フランスでは19世紀初頭には、フランス革命の被害を受けた建造物や美術品の保護を目的に、中世建築博物館が作られ、中世の建築や美術への保護策が講じられていた。以来、今日まで、フランスらしい建築の保護を核にした歴史的景観の醸成に力が入れられてきた。
一方、明治政府は、城をたんなる封建時代の残滓、自分たちが倒した幕藩体制の遺物とみなし、その意識のもとで城の処分を進めていったのである。
わかりやすいのが、長州藩の本拠地だった萩城(山口県萩市)に対する姿勢で、新政府が率先して天守を解体したとされる。日本固有の文化や歴史的景観を守るという発想が明治政府にまったくなかったことは、不幸であった。欧米を真似しながら、アイデンティティの維持という、彼らが大切にする姿勢に気づくことはできなかった。
維持費用を考えると、300を超える数の城をすべて守るのは非現実的だっただろう。しかし、城を「存城」と「廃城」に分けた際に、それらを文化財としてとらえる視点がなかったのは悔やまれる。新政府を主導した人たち、すなわち文化的素養に欠ける下級武士たちの限界を感じざるをえない。
■維新の過ちを忘れてはいけない
結果として、「廃城」となった城の建造物は次々と払い下げられ、それを受けて取り壊された。前述の萩城は「廃城」と決まって間もなく払い下げが命じられ、明治7年(1874)に五重の天守のほか櫓14棟、城門4棟、武器庫3棟がすべて解体され、計1348円3銭で払い下げられた。明治初年の1000円は、いまの1000万円前後だと思って、さほど外れてはいない。
高石垣が3段、4段と見事に重ねられた津山城(岡山県津山市)は、五重の天守のほか60もの櫓が建ち並ぶ、日本を代表する平山城だった。しかし、すべての建造物が入札にかけられ、保存運動が起こる間もなく、明治7年(1874)5月に1121円で払い下げられ、翌年3月までにすべてが解体されてしまった。
徳川家康の命令で、諸大名による御手伝普請で築かれたはじめての城、膳所城(滋賀県大津市)も、家康の出生地として知られる岡崎城(愛知県岡崎市)も、ほぼ同様の経緯で天守以下の建造物がすべて取り壊された。
片や「存城」も、あくまでも軍用財産にすぎないから、たとえば、名古屋城の二の丸と三の丸の建造物が、練兵場や兵舎などを建設するためにすべて取り壊されたように、次々と手が加えられていった。
翻って近年、できるだけ元の姿に戻すという努力が行われている城は増えている。しかし、いかんせん明治初年の破壊の規模が大きすぎた。日本人がアイデンティティーとしての文化に無頓着だったツケは、いま、日本中の景観となって表れている。私はそれをアイデンティティーに敏感な欧米人に見られることが恥ずかしい。
むろん、かろうじて残された歴史的環境を維持し、整備してほしいと思うが、そのためにも、ここに記した維新の過ちを忘れてはなるまい。
---------- 香原 斗志(かはら・とし) 歴史評論家、音楽評論家 神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。 ----------
歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志
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( 159580 ) 2024/04/14 12:48:21 0 00 ・これは仕方ない。その当時は当たり前のようにどこにでもあるのでただの古い建物で価値のない物とみなされます。私の家は茅葺屋根の大きな古民家でした。子供の頃は集落では普通に残っており、小学生の時は今風の一戸建ての家が羨ましくて恥ずかしかったです。建て替えた時は嬉しかったです。でも時代が進み今は茅葺屋根の古民家はほとんどなく、価値があります。いい家だったんだなとわかります。その当時に生きている人には価値はわからないものです。そんなものが今もなにかあるかもしれません。古いビルだったり廃校になった学校だったり、お祭りのような文化財産や地方の方言だったり、言い伝えだったり。大切にしたいと思います。
・徳川側につき、会津で戦い、五稜郭までいったということで、明治政府によって、地元のお城はわざわざ破壊されました。過去の遺物というか、敵方の城という感覚だったようです。今は公園になってます。昔の建物はありません。外堀と内堀は一部残されてます。木材を運ぶ運河や船着き場として用いられています。地形の問題で外堀はもともと作られなかった部分もあります。侍町エリアは公園や町人エリアになりました。侍町の外側のもともとの町人エリアは昔ながらの町並みで残ってます。お城のあたりは殺風景ですが、少し離れた街道筋は空襲で焼けた部分を除き風情が残っています。
・内戦が考えられない今の日本では城郭=文化財といえるかもしれませんが、そもそも軍事施設ですからね。それに江戸時代初期に多くの廃城が徳川家の命令で実行されていますし、その徳川宗家自体が、江戸城拠点の天守が火災消失したあと再建もしなかったくらい、明治政府の前から天守軽視の風潮はありました。政庁としての機能が重視されていたので、明治以降も旧庁舎を取り壊してより機能的な新庁舎へ移ったような感覚では。
・逆に、各地に城が残っていたら、そんなに珍しくもなく、今のように盛り上がってはいませんよね。少なくなったから価値が上がるのは常識で、今現存の城は、観光名所になっているし、国宝や世界遺産になっていますから未来永劫残るでしょう。当時の明治政府から見たら、お城は珍しくもなんともなく、今でいうと「ビル」のような存在で、とにかく邪魔で取り壊してもなんとも思わなかったのでしょう。起きてしまったことは取り戻せませんから、今のお城や城跡を大事にしましょう。
・元城下町に住んでいました。 城は廃棄されても道は残る。軍事的要因で道が変なところでくねっているところがあり渋滞の温床となっています。 また古い町は道が細くさらに渋滞が発生します。 どうせ城を壊すなら道も太く真っ直ぐに引き直してもらいたかった。
さて、城とは歴史的遺構である前に軍事拠点です。 江戸幕府から一気に御一新となって明治時代に入ったといって江戸時代の一揆が起こらなくなったということはなく、地租改正や徴兵などの新制度に反対する一揆は頻発し、また九州を中心に元武士の反乱も頻発していた。 そんな連中が万一城を占拠するようなことがあれば大変なことになる。 そんな激動の時であれば城を破却するのも政府として戦略的に間違っていないと考える。 それが誤りだと考えるのは現在が平和だからだとも考える。
・どのような指摘なんだろう。まさか当時城を文化財として残す発想は無いでしょう。地域によっては町のシンボルとして、残した所はありますが、単に空き地で、殆どの所は公共の場所として再利用されました。殺風景な城下町が生まれたのは、城下町が侍により形成されていたからです。その侍がごっそり抜けた。江戸時代の古図を見れば分かります。城下町の殆どの土地は士族の屋敷です。それが維持できなくなったことが大きいです。
・私もお城好きなので遺構が無くなって残念だと思う気持ちは非常によく分かります。堀とか残ってたら風情があって観光に良いですもの。
しかし、反乱成功したての明治政府が管理できない軍事施設を残しておく必要性は無い事でしょう。いつそこを拠点に反乱が起きるか分からない。また何より維持する金がとにかく無い。 明治政府は西洋との差と侵略される脅威がよく見えており、そちらの対応に全振りした事が日本の独立を守る結果に繋がった事をその後の歴史が証明しました。
文化財うんぬんは平和な時代だから言える事だと思います。
・日本は政権が変わる度に、前政権を否定する民族であると思います。明治になり、長州薩摩が政権を取り、徳川から特に虐げられていた両者は、ことごとく破壊していったと思います。が、徳川家の将軍霊廟などは残していたあたり、民衆の意見もやむを得ず、取り入れて保存していたのではないでしょうかね。 また、のちに慶喜が名誉回復という事からも想像して、昭和に入り、文化財としての保護法が出来たのだと思います。 先の戦争にて、アメリカによる空襲で、各都市壊滅的になったのも非常に大きいのではないでしょうか。無ければ、現在も修復しながらも、また街並みも残っていたと思います。特に 名古屋城は 現存していた頃の、詳細な写真の保存があった事により 再建できたように聞いたことが有ります。時代により、古いものが消えて行く事はやむを得ないと思いますが、やはり、戦争の影響は多々あると思います。
・西南戦争という日本最後の内戦があり、実際その時には熊本城が実際の戦場と化した。
明治時代において城郭は文化財などではない。 実際に戦争に利用された兵器であり要塞であった。 テロリストに利用されかねない危険な兵器だったののです。 武装解除するのは当然でしょう。
城郭が文化財となったのは、昭和に入ってからあたりですよ。 日本軍の統治力が上がって。実際に内戦など起こり得ない状況にまで日本が統一された。だから観光地になり始めたが、それとて第二次大戦の空襲で周囲は焼け野原になった。
殺風景なのは城郭に対する理解云々などではなく、戦後復興優先という当たり前の経済政策の結果でしかない。 西欧の城郭がきれいなのはそういう空襲の被害にも巻き込まれなかったし田舎の城郭が多いからです。
市民の生活よりも城郭の綺麗さを優先しろというのでしょうか?
あいかわらず、プレジデントは何が言いたいのかわからない。
・今なお、文化財の保存など主張しようものなら、経済を優先すべきとか、法や規制をクリアしているから問題ないとか、景観保全なんて意味がないとか、言っている人が沢山いるではありませんか。
明治時代は、仕方ない部分もあるのですよ。明治維新という、一大価値観の顛倒があったのですから。廃仏毀釈もそうでしたね。しかし、今は違うはずなんです。今は過去の遺産について大事にしてゆく、そういう考え方が浸透しているはずなのに、それが出来ない。
東京の街一つを取っても、戦後、かろうじて残っていた歴史的建造物がどれだけ失われたことか。適法な手続きを経ているから問題ない、の一点張りで、同じような再開発ビルが建設され続けている。
明治の官吏よりも、今のほうが遥かに問題が深いと思いますね。
・いまの県庁所在地のほとんどは,近世城下町から発展している。明治時代になって,手っ取り早く行政中心を置くための「空き地」を得ようとすれば,城内になる。
だから,どこに行っても似たような土地利用がある。つまり,「お堀」の内側に県庁や県立の図書館,高校,公園などがある。このように,ちゃんと残っている。全国均一な風景になっているきらいはあるが。
本記事は,「城郭」を指しているらしい。まあ,じゃまにならなければ,「空き家」として残してもいいかな。観光施設として利用できれば,それでもいいかな。それだけ残っていることを,有り難いと思うほうがいい。
こういうふうに,「なんでもかんでも古いものを文化財と称して残そう」という懐古趣味・骨董趣味の言説には,私は強く反対する。土地には次々に新しい風景が刻まれるものだ。私の自宅も,古い地図を見れば「水田」であり,市街地の拡大で近年に宅地化された場所だ。
・江戸時代までの城下の町割りでは、有事の際に攻められにくいように、道路などは中心部まで一直線に通さずに、わざわざ階段状にずらして敷設している例が多く見られる。当然、近代交通システムを考慮していないので道幅も概して狭い。 近代交通網の発展にとって、残念ながらそれらはマイナスな面が大きい。もし、この記事の主張どおりになっていたとしたら、今頃は、今度は交通評論家が「江戸時代の町割りを無為無策に残したため、日本の交通網は発展を遂げることができず、日本経済にとって多大な負の遺産となっている」などと論じていたのではないだろうか。
・城下町に住んでいますが、折角の風情ある町家の所々に違和感のある超近代的な住宅が出来てしまい、景観は台無しです。勿論住んでる人の言い分もあるでしょうが、地域の発展と文化の保全の調整に、行政の介入は不可欠と思います。これには多額な予算は必要なく、地域住人の同意も得られると感じていますが、何故か出来ていないのが現状。
・表現に多少乱暴な点はあるものの、概ね同意できる記事です。 そもそも「アイデンティティ」を一言で言い表せる日本語が存在しない時点で、明治政府が廃城・解体を進めた理由は説明が付きます。そして現代に至っても、日本人の文化軽視の姿勢が変わっていない原因でもあります。 現実問題、廃城令が無かったとしても、あるいは太平洋戦争による激しい空襲が無かったとしても、どのくらいの数の城が残っていたかは分かりません。しかし、自分たちの文化や歴史を正しく評価しようと試みてこなかった日本人の態度には、いろいろと考えさせられるものがありますね。
・明治は次々と城を取り壊しました。 何とか地元の方々の努力で取り壊しを免れた数少ない城(彦根城や松本城、松江城など)が、今では貴重は国の財産になり、多くの内外からの観光客を虜にしています。
取り壊してしまった山口の萩城などがもし残っていればと残念です。
・自分、姫路ですが城の大修復を2回、見ました、昭和、平成の大修復、かなりのお金がかかった様です、まだ姫路の場合は国宝でもあり世界文化遺産でもありますから国からかなりの予算が下りた様ですが、仮に明治に壊されず昭和の戦災にもあってない城があちこちに残ってたら維持できないでしょう
・近世に成立した藩の首都機能が、そのままに近代都市に引き継がれる立地だったものは破壊するに任せた。つまりは、同じ土地に別の用途で使う必要ができれば、不要になったモノは壊すしかなかったし、近代化と共に歴史遺産の保存の概念も輸入されたが優先順位は低くかったのもやむを得ないと思う。現存天守は残すべく残ったのではなく、様々な幸運が重なり残ったと言える。それよりも、天守保存における痛恨時は昭和20年の戦災だろう。
・駅から真っすぐに見える姫路城は、戦後の市長が50M道路を整備したおかげ、その当時は滑走路でも作ったのかと言われた。
戦後姫路城は放置されぼろぼろに、競売にかけられ瓦を売れると踏んだ人が応札したが瓦は外される事はなかった。
姫路城周辺は明治以降日本陸軍の施設が占めていた(練兵場や火薬庫、師団司令部もあった)
名前は忘れましたが、司令部の大佐が保存するべきと進言して修復工事に国費が投入実施された(大佐の碑が建ってます)。
・そもそも明治まで城のあった土地って県庁所在地とかその土地の行政と経済の中心地が多いじゃないですか。 東京で言う霞ヶ関と大手町から広がる一円みたいな感じで、 江戸時代だって天守の横に藩の行政庁舎建てて同じように街が広がってたんですから。 そんな人も経済も流通も集まり街が大きくならざるを得ない上に、山がちで平地が限られてるなら 現実問題「堀も含めて文化財だから城域全部残してくれ」なんて言ってられませんよ。
・ヨーロッパの城は最初から堀などい山城が多いでしょう。 近世の城は五稜郭のような平城だがあまり見かけない。 中近東や中央アジアは戦乱で無残に破壊消滅している。 城好きには明治政府の無教養は許しがたいだろうが、この国で木造の城が12もあるのは良い所ではないか。
・お城は江戸時代の象徴なのでなるべく壊して新しい時代にしたかったと思う。 どこの街でも同じだけど統一がなく金がある連中や権力がある者たちが好き勝手に家を建てたりするから街の景観がない地域がほとんど、住民もそれに見習って郊外に好き勝手な家を建てている。 ヨーロッパの形式で見るような、街ごとに特徴がある地域は少ない。戦後の焼け野原の時以降も同じで力がある者たちが好き勝手に建物を好きな所に作るので結局いいまだにぐちゃぐちゃな街になっている。 土地に執着が強いのか譲れない壊さないまとまりがない街並みばかり。
・我が市の城は明治維新時に跡形もなく破却され曲輪は平地にされ道路や鉄道を通し商業地にされました。今残っているのは直角に曲がる旧街道の名残と一つだけポツンと残る石垣の石だけ。それでもそれがなければこの町は無かったわけで、ノスタルジーだけで語ることはできないはずですが。
・後世の人が無責任であるが故にこういう見解を記事にしがち。 当時の人たちには当時の人たちの考えや利害関係があった。 その上に今の繁栄が成り立っていることも勘案すべき。
もしそのままの街並みを残したら、修理し続けていたとしてもボロボロな景観だったことは欧州各国の街並みを見たら一目瞭然だろう。遠景は素晴らしいが近くで見るとかなり酷く修繕費もままならないと言う。ましてや木造の日本建築だ。
日本の街並みは古いものと新しいモノがうまく混在していると、海外からの観光客の評価にもある。街角インタビュー動画などで時々聞く意見だ。
ネットにはFAKEが氾濫していると言われるが、鵜呑みにする人もいるのだからこういう記事も紙一重に感じる。
・調べればわかるけど明治時代になった直後の城って荒廃してたところがほとんど。 なぜか? 幕府も各藩もお金無かったし、あっても城は重要じゃなかったから修繕費以外の方が最優先された。 明治政府と各県は本当にお金なかったら維持するのは無理。 そして治水工事で邪魔になって壊された城もある。 さらには太平洋戦争の空襲の被害に遭った城も多い。
・身分制を廃した明治維新に反乱を起こした武士たちは城を拠点にしていたから明治政府は基本的にすべてを潰した。そのくらい明治政府は武士の反乱に危機感を持っていた。西郷隆盛を統領とする薩摩藩の武士たちの反乱を最初に抑え込んだのは熊本城に立てこもった谷干城だった。散々に薩摩藩を打ち破った後田原坂より先には行かせなかった。それで熊本城は薩摩藩を抑え込むために現存することになった。姫路城も徳川家康が薩摩藩の上京を抑えるためだったから現存しているのだろう。
・そりゃ明治初期は士族の反乱とかも頻発してたし、軍事施設だった城はなるべく減らしたいわなぁ。 近代国家として生まれ変わるには城の破却は仕方ないことだった。 新たに官公庁や学校作る土地は、庶民の住宅立ち退かせるよりも、 殿様や家臣がいなくなった城や武家屋敷だった敷地を再利用する方が安上がりだったしね。
・下級武士とは過分な言葉使いであり、長州出身者は下級武士未満の人々であり、教養以前の問題。翻って薩摩は下級武士ではなく西郷さんも大久保さんも列記とした中級武士階級の出身で武士に相応しい教養があった。 長州出身者主体の北越戦争、会津戦争は悲惨な振る舞いが多かったが、西郷さんが指揮した山形庄内藩戦は全く異なり、武士に相応しい振る舞いに終始しました、。
・長い徳川幕府統治の象徴のような城郭は、討幕を果たした元志士たちにとっては憎むべき存在だったかもしれない。また、文明開化で欧米化を進める明治政府にとってもただの古い遺物で邪魔な存在だっただろう。 昭和に入って山の斜面を切り開き、宅地やソーラーパネルだらけ→人口減で廃墟にしている現代人は、後世「古来の豊かな自然を顧みない無教養な世代」と揶揄されるだろう。
・松本城は400年以上も昔から「そこにあった」ということに価値があるんだよね。 松本で生まれ育って他所に出て、戻ってきた人は、きっとお城を見て「故郷に帰ってきたこと」ことを実感するのだろうし、子供の頃からそこにあり、慣れ親しんできたものだからこそ愛される。 観光客を集める為に一度天守を取り壊したものを現代になって復元したところで、そんなものにはかけたお金ほどの値打ちもない。 レプリカはどこまでいってもレプリカ。 明治政府は本当にもったいないことをしてきたんだなあ…。
・当時は明治新政府が成立した直後で政権が安定していなかった。旧幕府方のシンパもいたし、廃藩置県で新政府に不満を持つ旧士族も多かった。それが佐賀の乱や西南戦争の要因になってる。新政府が内乱の拠点になることを恐れて城の破却を進めた。そんな背景があったように思いますが。 現在、城が残っていれば観光資源として価値があると思いますが、当時の政治情勢を考えれば仕方なかった側面もあると思います。 明治政府の無教養もあるかもしれないが、結果論のような気もします。
・城跡が本営として利用されていて空爆による戦災で失われたことが大きい。水戸城御三階櫓、岡山城、福山城、広島城、和歌山城など。特に名古屋城は現存していれば国宝間違いなし。
・日本の街づくりは失敗してると思う。 海外の人が素晴らしいと言うのはほんの一部地域だけ。 城下町だって保存ぜずに現在風になってしまってるのがほとんど。 旧街道だって言われなければ分からないぐらい名残ないところ多い。 今になって旧街道!とか言っても手遅れ。 地元でも旧街道に人を呼ぶとか言うけれど、ほとんどの建物は現在風に建て替えられてしまって名残がほとんどない。
・古い物は全否定。文明開化で西洋のものは肯定。日本のものは否定された。城下町は単なる過去の建物街並みだからいらないと考えた。 それは別にいまも変わらない…城下町は防衛も考えてあえて不便に曲がった道、車社会には合わない狭い道…古い木造建築は時代遅れだからと壊してしまってる…逆に保護したら一等地を使えないし空襲を受けたりして消えていった。文化財として残せないのは明治政府のせいだけではない。
城下町だけでなく城や仏閣なども消えかけた…城=軍事施設だから廃城令はその当時は仕方ないとは思うけど、廃仏毀釈共にはとんでもない愚策だ。 前の国家や王朝の全否定で破壊は歴史的にはよくあることとはいえ、タリバンのバーミアンの石仏爆破と変わらないし、生類憐みの令より悪質だ。
明治政府の城や仏閣など公的な建物への扱いすらそうなのに、民間の城下町に保護するなどと言う思想がある訳がない。
・残してたら残してたで、耐震の問題とか維持費とか凄いことになりそう 名城はもっと残っていてほしかったけど あと、広島城や名古屋城みたいにどっちにしても世界大戦で焼けた城もありますし
・この記事を書いた人は歴史評論家、音楽評論家だそうだが、あれこれ手を広げているからこんなに浅い評論しか出来ないのだろう。 明治維新というのはマイルドな言葉が使われているけども革命であって、旧体制のものを破壊するのはごく普通だと思う。なにしろ新政府を運営するにはお金が必要で、今自分たちが日本で最強の勢力であることを示して、税金を徴収しなければならない。 それに明治に入ってすぐの頃は当然旧幕府勢力の反乱が考えられる訳で、その拠点になりそうな場所は潰しておくのは当然だと思う。実際に著者の指摘する「廃城令」は明治6年、そのすぐ後の明治10年に西南戦争が起きている。
・日本は平和だからこんな事が言えるが、城は文化財ではなく軍事施設。 当時、欧米の侵略に備えて富国強兵を急いだ新政府としては、古い軍事施設など無用の長物。欧米に負けない軍隊を作るために、最適な体制を築こうとした判断を否定はできない。
・新政府を発足させた人たちにとっては、欧米こそ日本の脅威であり、眩しい文化に映ったわけです。日本の使われなくなった城郭を無用の長物として破棄せよと命じた気持ちはわかります。現在の価値観から言えば、実に残念なことですが、それを今の価値観で裁いても意味がありません。 そのこと以上に、昭和の軍部は判断を先送りした結果、日本中の都市を空襲に晒すことになりました。おかげで日本中の都市は今どこも同じような都市です。300諸侯の伝統を継いだ諸都市が失われ、こちらの方こそ残念に思います。
・明治新政府の無教養さは否定できないけど、米軍による無差別絨毯爆撃の影響は甚大ですよ。火がつけば焼け野原ですからね。 あと、城の保存ってもの凄い金掛かるんですよ。 明治維新前から、大名家は城の維持に頭悩ませてたはずですよ。だから幕末の写真で城が写ってるのあるけど、かなり朽ちてるものも少なくない。そうすると、城の維持なんて優先事項じゃなかったんだと思いますね。
・無教養だから廃城にしたわけではないと思うが。 城が過去の権威の象徴故、目障りだったのではないだろうか。 ヨーロッパの城郭の多くは、街が城の城壁内にあり、有事には城主が民衆を守り統治してたので、統治される側にも愛着が有った。 片や、日本の城は、江戸時代の長い平和で有事に民衆が守られた記憶も失われ、領主による搾取の記憶しかなく愛着が持たれなかったからではないかな。
・>しかし、城を「存城」と「廃城」に分けた際に、それらを文化財としてとらえる視点がなかったのは悔やまれる。新政府を主導した人たち、すなわち文化的素養に欠ける下級武士たちの限界を感じざるをえない。
戊辰戦争の記憶も新しい明治新政府にとっては、反政府グループの活動拠点になりかねない軍事施設は残したくないという判断があったんじゃない?
・城郭維持が死ぬほど大変だったからだよ。 江戸城すら火事で燃えた後資金難で復旧断念してる。 そんなこんなで明治維新でどうこういう前に、江戸時代の終わりごろには生活空間を置いてない限り、大体廃墟か張りぼて状態だった。 逆に明治以降に所有権が自治体に移ったとこから、地域のモニュメントや観光資源的に立て直したり修繕してる。 そして鉄道や主要交通拠点は地権者の反対で郊外に置くことが多かったから、城下町は発展する理由がなくてなんとなく発展しないままに。 城下町のある町地味だよねといわれがち問題の原因。 現代になり、観光地や景観維持から観るとよかったのかもしれないけど。
・これはイチャモンに過ぎないのではないかね?
>世界遺産の姫路城(兵庫県姫路市)にしても、 >内郭を取り巻いていた中堀は南側が埋め立てられ
同じく世界遺産の 北京の紫禁城を見てみればわかるけれど 内城と外城を囲んでいた城壁は ほゞ全て、交通の障壁になるというので 破壊されて残っていない。
我々の社会生活と歴史遺産の存在を 折衷させる形で保護が行われるのが 穏当かつ妥当な方策だと思うのだが?
記事は自説を展開するうえで
〝敵〟
を設定してそれを徹底的に排撃する
それによって自説の正当性を読者に押し付けたい それはある程度理解はできるが この様な一方的かつ客観性に乏しい論説は 公共性や普遍性を要求される論説としては 妥当性に欠けるのではないだろうか?
歴史上の経緯にはその時代の必然性がある そしてそれを補完する形で 今現在の活動もあるのだという事実を 書き手は認識すべきだろう。
・江戸を東京にした時に、既に日本の文化に対する姿勢が出来てしまったのかもしれない。 何故なら物の価値観が結局武士のというか軍事政権の考え方だ。 元々は大坂を首都とする予定だった。 それを大阪商人の力を削いで借金をチャラにしたい公家たちが大阪から離れた江戸を首都にして自分達が良い思いをしようとしただけの話。 そんなだから文化も糞も無い。 大阪が首都ならもう少し文化を大切にしただろう。文化は金になるからね。 その価値を見出し戦争に明け暮れず、他国との商売や外交を大切にしただろう。 そうすりゃ意味の無い他国との戦争もしなかった。 戦争で金儲けは企んだかもしれないがね。 元々江戸に文化など無かった。侍は軍人だ。軍人に文化など語れるわけがない。 文化は王侯貴族と商売人で作り上げる物さ。首都は京都か大阪で良かったのさ。 「江戸が首都で無くなったら荒れ地に戻る。大阪は首都でなくてもやっていける」誰かの発言
・無教養だけで片付けることのできる簡単な問題じゃないよ。例として私の住んでいる地にも結構大きなお城(天守閣が何故か二つ)がありましたが、明治初年に「武士による圧政の象徴だ!」ということで払い下げを受けた人が風呂屋の焚き付けにしたとの伝説が残っています。
・城があれば殺風景じゃないのでしょうか?城なんてなくても、その街その街に人の暮らしがあって、その街の人たちが作ってきた風景は、取り立てて何かあるわけではなくても、何気ない一つ一つが素敵な風景だと思います。
明治政府の無教養なんてタイトルをつけてますが、フランスはこうだから日本もこうすべきだったみたいなことが教養だとは思えません。日本は日本のやり方でやっていけば良いと思います。
・令和の基準で当時を判断していない? 普通、使い道がなく反乱軍とかに奪われる恐れがある軍事施設を破壊するのは当然だよね。それに明治初期、誰もが城を文化とか歴史的対象物とする意識もなかったと思うけど?無教養とは違う話だと思うね。
>彼らに文化や歴史的景観を守るという発想はまったくなかった
・動乱後の封建制度の象徴を破壊した当時の政府の判断は至極当然かと。城跡を見ながら、それだけ明治が不安定な時代だったのだなと推測できて逆に文化的。
・しかたないんじゃない? 明治政府は人望もカネもなく、国中に不平士族が充満していたんだから、反乱がおきたときの軍事拠点になる城は潰すのが当たり前でしょ。 西南戦争でも熊本城争奪戦がポイントになったし。 私は関東人で佐幕派だから薩長は嫌いだけど、もし幕府が中心になって開国路線を歩んだら同じことをしたと思うよ。
・そりゃ今の目から見ればね。でも当時は城というのは要塞であり相手が入ると面倒な抵抗ポイントになる。今と違って航空機や大型砲はないから戦闘が始まると厄介なシロモノだ。軍事拠点としてみれば当然そうなる。文化財としてみるなどもっと後の話だ
・明治維新はわずか数藩による政権の収奪、革命であった。
徳川慶喜が大政奉還したことで維新派の無血革命成功で済んだものを、わざわざ戦火を交え旧幕派を殲滅した。 それに伴い、藩の解体、武士階級の抹消、藩の象徴であった城の破壊は、政権奪取の仕上げの行為。
彼らは城に文化的価値など全く感じていないわけで、そんな話は、のちの時代の”平民”の考えに過ぎない。
・確かにヨーロッパには保存されてる歴史的建造物がたくさんあるけど、それは今も残っているものが目立っているだけで、実際には戦乱や革命、宗教弾圧などで失われたものだってたくさんあるんじゃないの? 日本だけが無理解で劣っていると一律に断じるのは暴論でしょ。
・おう、姫路城を盛時の姿で復元して見ろよ。日本の年間の文化財予算が吹っ飛ぶレベルで金が飛んで行って毎年維持費もかかるぞ。しかも城は都市を作りやすい要地に建てられているから市街地に持って来い これが全国に100も有ったらどうすんのさ ちなみに地元の熊本城も維持費がかかり過ぎるって廃城令を前に解体しようとしていた。前藩主の反対で維持に決まったが維持費捻出のため一般公開して本丸御殿内まで入れるようにしたが当時の人からしたら200年以上もある古臭い建物。物珍しさに一回来たら二回も三回も来るもんじゃないし結局古い建物はドンドン破壊していった 当時からしたら信じられないぐらい豊かになった日本でも文化財保護の予算は限られている。いまあるコンクリ建築でも歴史的に価値が有る物はいくらでもあるけど全部保護するのか?バカも休み休み言ってくれ
・この記事に全く同感ですね。基本的に文化的素養を行政システムに”うまく”合体させるためには、やはり時間と経験が重要ですが、なかなか簡単に育成できるものではありませんから。 少し話の視点は変わりますが、最近、映像を観ていて1960年代からいまだに頑張る英国のスーパーバンド、”ローリングストーンズ”のヒットソングの歌詞でも、どんどんデジタル時代やコンプライアンスの波が襲って来ているように感じました。 極東のガラパゴス的島国で、あまり変化の波を経験していない我が国において、明治維新が果たした役割の「光」だけでなく「影」もしっかり評価しておかないと、、そのうち大変なことにも成りかねませんからね。
・そもそも城ってのは日本が内戦状態にあった時代に作られた「日本人分断の象徴」であって、日本の統合を目指した明治政府にとっては邪魔でしかなかったんじゃないかな。 無教養どころか、むしろしっかり考えた末の結論だったと思う。
・歴史評論家を自称するくせに「城下町」が何なのか知らんらしい。
城下町って藩主の城とその家臣団の住居を中心とした町で、そこに隣接するように商人たちの町が広がる。
その藩主と家臣団が廃藩置県でそこにいられなくなったのに、どうやって城下町を残せると思ってんの? しかも欧州と違って木造建築の日本で。
ちょっと考えたらわかるよねー。
・無教養というか、不平士族が`城`を中心に団結して、城に籠もって政府への反乱に踏み切る!というのが怖ったんじゃないのかなあ? 実際、西南戦争でも、西郷軍は、当初、熊本城の鎮台(政府軍)に「西郷隆盛大将が政府に申し入れの議があり、上京する。ついては熊本鎮台は、指示に従うように」と命じたぐらいで(断られたが)あれが、西郷らが、熊本城を制圧して、そこから各地の不平士族に、反乱に呼応するように命じたり、熊本城にこもって戦えば、西南戦争の勝敗はどうなったかわからない。 そういう意味もあったんじゃ・・
・身も蓋もなく、金が無いから管理ができない。 管理出来ない要害を放ったらかしにしては、島原の乱を思えば破却した方が良い。 寧ろ無教養と語るならば、廃仏毀釈による損害であり、さながら切支丹弾圧が如く。 個人的には昔、何処かの政党がやった「事業仕分け」を思い出す。
・ヨーロッパの城見てから話してほしい。全部石造りで、ちょっとやそっとで壊せるもんじゃない。 日本の城は石垣はあっても城そのものはもともとは木だからね。
・外国を眺めて表面上の感覚だけで日本の歩みを批判、反省を促す様な記事 日本はナゼそうしたのか?理由は?と深堀せず浅はかな内容は あまり興味が無い人が眺めれば間違った感覚を人に与えます。
・無教養で片付けるのは随分酷い。当時は西洋の近代化に近付けようと躍起になっていた時で、だからこそアジアで突出した存在になれたと言ってもいい。城だけじゃなく寺の仏像や浮世絵等も今では古美術として評価されているが、価値を知らなかったというより外国人がアジアの珍しい物として紹介されて取り扱ったのがはじまりだった。
・そらぁ今となっては歴史的価値もあるけど、当時はあくまで軍事拠点だし、大名の領国経営拠点だったんだから、天皇と新政府を中心とした中央集権体制には、邪魔以外のなにものでもないわな。 ましてや、広大な土地を専有しとるし。 古臭い幕藩体制からの転換に、城郭は目障りだっただろ。 今の感覚で当時の批判をされてもな。
・累代の姫路市民や旧軍中村大佐の尽力で、今日の姫路城があります。明治政府を批判的に見るのは自由ですが、旧士族や、今ある世界遺産を殺風景と断じるのはとても非常識。抗議します。
・脱亜入欧で、明治新政府は西欧に見習え・追い付けで他国侵入まで真似して・繰り返した挙句に第二次世界大戦で大敗でついにはアメリカの属国と化しなんでもアメリカにお伺いを立てねばならないような国になったのですから、明治政府の目指したものは日本にとって最悪だったとしか言えないのではないでしょうか。
・現代の視点で評価するのは間違っている。 当時としては軍事施設だから、城を残すと内乱の拠点になりかねない。 廃城はいわば現代における核兵器廃絶と思想が同じ。
・呆れた駄記事だ。 徳川幕府と薩長主体の新政府は元々敵対関係、各藩の城は敵陣営の軍事基地だったのだから廃城令が出るのは至極当たり前の話。 しかも城は平城であっても攻め込まれ難いようにグニャグニャした道路と掘割で囲まれており、都市開発の妨げになった。
簡単に◯呆らしい記事、プレジデントってその程度ではあるのだけど。
・下級かどうかというより、勝てば官軍とはよく言ったもので、原理主義テロリストが政権を奪い取ってしまっただけかと。吉田松陰なんてビンラディンみたいなものだし、タリバンのバーミヤン破壊を他人事とは笑えない。
・ウィーンなんて発展の為に街を長年守ってきた城壁を すべて取り払ってる。 それ以外の宮殿とか多数あるから華やかな街だけど 城塞都市であった面影は皆無。
・当時の藩のエライさん次第 熊本城も改革派の知事細川護久さんは潰すつもりが 兄の前知事細川韶邦さんの不満であるの鶴の一声で藩内の意見が別れた結果存続したし
・ほんとに日本の街作りは失敗したと思いますね、ヨーロッパは中世の街を活かしながら美しい街作りをしたのに、日本は殺風景な雑居ビルがゴチャゴチャ立ち並んでいて日本の良さが生かされてないですね、その元になってるのが明治政府だったと思いますね
・まあ「明治維新」とは、或る意味、恐らく日本で初めての「易姓革命」ですからねぇ。
「易姓革命」の本場である中韓両国では、王朝が交代する度に旧体制の遺物は、例えそれが歴史的価値の極めて高いものであっても、否、それが故に徹底的に破壊された様です。
旧体制を全て「悪」と定義する事により新体制の「正義」を強調する、正に「徳川」を全て否定した明治新政府の行いですね。
・そりゃ、江戸封建制度の象徴だった城を破却して、新しい時代が来たということを知らしめるのには必要な措置だった。 反勢力に利用されても困るし。
・多くの城が幕末の時点で老朽化が著しかった
石造りの海外の城と木造の日本の城を同列に扱うのは無理
・最優先は富国強兵だだけでしょ?美術品を流出させて武器を購入したり……それで国際社会で生き残りをはかった。 ほんと、城が残っていないのは残念だけど、 ……結果論は簡単。
・中央集権国家を作るためには、旧勢力の力の象徴=居城はぶっ壊す必要があったってことだろうな。 今にして思えばもったいない話ではあるけど
・狭い国土だから、残す場合は基本的に内堀だけ残せば十分だと思うけどね。 外堀と武家屋敷残してどうすんの?
・城は権力者の持ち物であり、封建社会である幕府・藩の象徴 それを天皇中心の社会に変えるんだから、 みんなに解りやすく社会が変わった事を伝えるには城を破却するのは理にかなっている
オペラだけ解説してろ
・無教養なのはこの記事を書いた記者ではないか?明治初期に城を文化財とする考え方はさすがないでしょう。現代の考え方で当時を非難する事自体意味がない。
・お役所仕事ですから仕方ないですね。今は更に酷くなっています。何の意味も目的もなく箱もの造りにせいを出すお役所。何時の時代も官僚のお役所仕事はだめです。
・街中の空き地って認識だから役所や学校、イベント会場に遊園地 城跡になんでも出来たからね
・無教養であったと言うより、新政府にとって出来立ての政権が安泰でもなく 反政府勢力の軍事拠点に利用される懸念から、撤去せざるを得なかったのでしょう。
・下級武士の限界‥そうですね しかしそれなりの位のある役人たちや知識人の自己破壊願望も凄まじかった 欧米人はみなそんな日本人を軽蔑し、むしろ庶民の方に共感を覚えていた ひどい話じゃて
・インバウンドでお城がここまで需要が高まるとは予想できなくて先祖や明治政府を恨む地方観光業界もさぞかし多かろうと思います。
・軍事拠点を破壊するのは普通でしょ。 今だとミサイルで破壊してるニュースはよく見るよ。 フランスはあくまで例外でしょ。
・当時はいまのような文化財保護の視点はなかっただろうけど、そういう観点がある今現在だって相変わらず無教養に壊してんだろ。なにを偉そうに明治人を貶してんだよ。
・明治政府にしたら、基盤が整ってないのに、城を拠点にして反乱起こされたら困る!だったんでしょうね、西南戦争も有った事だし。
・明治時代で考えれば城は古い時代の象徴みたいなものだから壊されてもしょうがないのでは?
・生きてる人間の都合だと思います。
街の中心部は価値がある、良いとされてきたのですから。
・単に残すのも、それはそれで費用が掛かって使い勝手も悪いところもあるの難しいところ。 無教養と断定するのは、いかがなものか。
・それを言ったら「廃仏毀釈運動」で多くの寺院を解体したり仏像を壊したことも明治政府の無教養となるよね。
・でも、いまくらいでちょうどええんちゃうか思うんやけどね。 古建築としては神社仏閣がたくさん残されてきてるし。
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