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河村市長「祖国のために命を捨てるのは道徳的行為」にノンフィクションライター 石戸諭氏「どんな歴史観を持っているのか?」

ABEMA TIMES 4/28(日) 8:02 配信

https://news.yahoo.co.jp/articles/25d903a4b6ae428ca47cc61f7472b895d4b9cd63

 

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名古屋市の河村市長が「祖国のために命を捨てるのは道徳的行為」という発言を行い、物議を醸している。

市民からは撤回を求める署名活動も行われており、ノンフィクションライターの石戸諭氏も発言の軽さや歴史観について問題提起している。

(要約)

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河村市長 

 

 名古屋市の河村市長が戦争の風化を防ぐために制定された「なごや平和の日」の会見の中で「祖国のために命を捨てるのは道徳的行為」などと発言した。 

 

【映像】河村市長の物議を醸した発言の数々 

 

 「軍人として命を失っていくというのは、祖国のために命を捨てるというのは、相当高度な道徳的行為であるということは間違いないのね、実は。右翼ではないですよ。世界の常識ですよ、そんなこと」 

 

 名古屋市の河村市長は22日に行われた会見で、戦争の記憶を風化させないために市が定めた「なごや平和の日」について話す中で、このように述べた。 

 

 この発言の意図について記者から「『祖国のために命を捨てるのは相当高度な道徳である』という発言があったが、もう少し具体的にどういう意味か?」と問われると以下のように答えた。 

 

 「世界にはまだ世界連邦というのはないんですわ。世界中にね。国際連盟を作ろうとしてやって、第2次世界大戦を起こしてむちゃくちゃになりましたけど。第2次世界大戦後には国際連合を作りましたけど、現にウクライナの戦争はあるし、イスラエルの戦争も止まないしということになると、それぞれの国という存在自体が皆さんの生存を守っていかざるを得ないという状況ではあるんです。これは、でしょう? だから国というものに対して自分の命を捧げていくというのは、大変な勇気のあることだし、みんなで『サンキューベリーマッチ』と言わな、みんなの福祉も平和も保てんのじゃないですか、残念ながら」 

 

 朝日新聞によると、市長は会見の後、「祖国のために命を捨てるというのはなかなかのことで、本当は捨てない方がいい。誤解してもらってはいけない。捨てよとあおっているわけではない。残念ながら戦争というのは起こるから」などと記者団に釈明したという。 

 

 市長の一連の発言に対しては、撤回を求める市民がオンライン署名活動なども行っている。 

 

ノンフィクションライターの石戸諭氏 

 

 ノンフィクションライターの石戸諭氏は「政治家の発言を報道する時に必ず『一部の切り取りだ』という批判が起きるが、今回の発言はかなり前後の文脈も踏まえて封じられている」とした上で河村市長の発言について「発言の軽さを問うていかなくてはいけない」と指摘した。 

 

 「河村市長がこういう信念を持っていること自体は、(発言に対して)個人的には批判的ではあるが、信念を吐露することは別に構わないと思う。だが、『祖国のために命を捨てるという行為』に対して、『サンキューベリーマッチ』なども含めてかなり軽い口調の発言であると感じた。何を思ってこの発言をしているのかという疑念を招くことは当然のこと。どのような立場に立つにせよ、軽い口調で発言するようなテーマではない。軽さ自体を問うていかなければいけない」 

 

 さらに石戸氏は「河村市長がどんな歴史観を持っているかもポイントだ」と述べた。 

 

 「ベースとなる歴史観がどのようなものかも問われなければならない。この点についてもう少し河村市長は説明すべきではないか。今回の発言で批判されること自体は至極当然のことであり、ちゃんと受け入れた上で会見などで語ってほしい」 

(『ABEMAヒルズ』より) 

 

 

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(まとめ) 

複数のコメントから、祖国を守るために命を捧げることについて様々な意見が寄せられました。

一部ではこの行為を道徳的と捉える意見もありますが、その一方で戦争や軍事行動を肯定することへの懸念や批判も示されています。

戦争については、国家や政治家の責任、冷静な外交政策の必要性、戦争を避ける努力が重要であるとの意見もあります。

歴史や倫理、個人の自由と国家に対する責任など、幅広い視点から議論が展開されています。

さまざまな視点が示されている中で、個々の価値観や立場によって異なる意見が存在することが明らかとなりました。

( 164677 )  2024/04/28 14:51:29  
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・ウクライナとロシア、イスラエルとパレスチナ、価値観に違いはあるが、祖国を守るために、それぞれが命の危険を侵して戦っています。誰しも戦争は避けたい思いはあるが、戦ってくれている兵士に対しては、国民は感謝しているのではないでしょうか。自衛隊員の服務の宣誓「事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に努め、もって国民の負託にこたえることを誓う」となっています。実際、その任務の遂行のための訓練で亡くなっている方もいる中、一旦事が起これば、真っ先に命の危険に面する自衛隊員です。感謝しかないのでは。逆に、石戸氏の歴史観を聞かせてほしいですね。 

 

 

・軍隊や警察機構の方々が命を賭して国民の命や安全を守ってくれることは非常に尊いし感謝すべきことですが、特に政治に携わる人がこれを口にする場合は最新の注意をもって言葉に気をつけて発信すべきだと思います 

 

 

・国と国民の信頼関係が堅固あれば河村氏のいうことは理解されますが国民に増税して自分は税法を無視して脱税して蓄銭してるような政治家達を見ると国民にそれを求めるのは難しいです。昔の政治家には国民のために命を捨てる程の気概を感じた。今の政治家には国民を捨てて蓄積とに命をかける気概を感じます。 

 

 

・共同体からの利益は享受するが自分は共同体のために尽力したくないという子供じみた価値観には社会全体で良い加減NOというべき。強制的ではなく、自主的に共同体の為に尽力する事はそりゃ道徳的だろう。 

多様性を謳う割に自分と異なる意見には極度に排他的な人達が自己矛盾する様をみているとこのままで良いのかなと不安に思う。 

スパイ防止法が成立すれば大分静かになりそうだ。 

 

 

・まぁ「赤紙」と呼ばれる召集令状によって、望まぬまま戦地へ送られて亡くなった方に対して「感謝」が果たしてかけるべき言葉として妥当なのかどうか?というのは、私には正直分かりません。 

 

ただ、そういった個別の事情はあれど、全体として、国や国民を守るために命張って仕事する人が尊い存在であることは河村市長の言う通りだと思います。 

 

現代日本で言えば、自衛官がその最たるものですが、国の内部の安全を守る警察や海保、消防や救急も然り。 

 

自衛官は諸外国では軍人にあたりますが、やはり外国でも軍人に対する世間のリスペクトの高さはありますよね。 

 

 

・今の日本では河村氏のような意見もあれば、石戸氏のような意見もあるのは自然だと思う。互いの思想、信念のぶつかり合いで、どこまで行っても平行線、最終的に意見が一致することはないのではないか。 

私見としては、どの国民も自国の利益を最優先に考えるのに対して、日本は国に任せておいた結果ひどい目に遭ったという被害者意識が強くて、河村氏のような考えはまだ当分主流になれない気がする。(本来は正論だと思うのだが) 

 

 

・国や家族のために戦い、どんな形であれ命をなくされた方に対する称賛は必要でしょうね。 

それを戦争礼賛と言わんばかりの風潮で否定してはいけないと思うわ。 

いい加減日本国民の手足を縛るような憲法9条の改正は必須だね。敗戦国としての地位を払拭するための第一歩ってとこかな。 

 

 

・己の命を賭して守るのは、勇気がいる。それを行った先人を責める事はできないし、ある意味尊敬する。 

 

今の世の中があるのは、先の大戦で家族の為国のためと逝った方々の上に成り立っているのは事実。 

 

国家という領域で分断されている以上、己の国をまもることは当然。 

 

そういう事が二度とないことを祈るが。祈っても未だ覇権主義の方々にはぬかに釘。 

 

もしものときは命をかけて守るべき訓練に励み、抑止力にもなる自衛隊の方々には感謝。 

 

 

・誰がどう考えるのかは勝手だが... 

 

政治家や官僚がその考えの縛られて 

自分以外の市民を巻き込むのは違う 

 

なんのために学び 

なんのために生きるのか 

命の使い方は各個人が決めるもの 

 

それが命の危険が迫り子や家族を守るために投げ出すなら分かる 

しかし、宗教、下手な政治や外交、領主や軍人による欲や名誉のために命を投げ出させるのは違う 

だけど現実はそういう理由で沢山の命を捧げてきた 

 

結局人間は欲や誤解を克服できずにいる 

これらを克服してこそ次の進化だと思う 

 

 

・とどのつまりなんだけど戦争になってしまったら 命をかけないと命を守れない。 平和な日本でも 日本という一つの国の集合体として守られているのは事実で 今でも自分たちは気づかない所で日本人というアイデンティティによって助けられてる それが現実 

 

 

 

・デジタル大辞泉によれば「道徳」とは、「生命を大切にする心や善悪の判断などを学ぶもの」とある。人の命を奪い合う戦争を道徳的と賛美する言説はあまりにも時代錯誤であり、政治家の発言としては看過しがたい。また道徳というのは、内発的かつ普遍的な善であって、戦前のように強制的に動員され、無意味に命を捨てさせられたり、当時としては正しかった、などというように戦争という究極的な悪を肯定するために使われるべきでもない。 

 

 

・人は生き残りをかけてコミュニティを大きくしてきた。個人、家族、村、町、街、藩、国、その次はどうなるのか。 

世界全てで垣根が取り払われたとき、そこに平和があるのか。そんな訳はなく、個人で世界と戦わなければいけない世界に戻るだけだ。 

今はボーダーを国に置いている人間とボーダーがない方が良いという人間の間で戦いが起きていると感じる。 

 

ボーダーを国だと思ってる人にとっては国の為に戦うことは自分を守る事に繋がるという考えがある 

逆に 

ボーダーがない方がいいと思ってる人は、他者と争う事全てを遺棄する。でも、実際には争いが無くならないことも、自分が何に守られてるのかその恩恵も、知らないフリをしている。 

 

自衛隊が無くなったら、警察が無くなったらどうなるか、外国人が入国し放題で選挙権持ったらどうなるか、 

 

それこそ、国というボーダーを取っ払った状態だ。そこに平和があるのか。良く考えたほうが良い。 

 

 

・古今東西、国家というものは国家国民のために死の危険を顧みず戦う人が必要だ。そうやって国家を維持発展させてきた。それは事実だ。 

代わりに国家は戦いの中で亡くなった人を顕彰し、遺族の生活を保証する義務がある。 

ただし今は国家は戦いで国民がたとえ犠牲的精神であっても亡くなることのないような平和主義国家を目指す義務があると思う。戦うのは防衛のためだけであり、国民の犠牲を払って他国に侵略することは絶対にあってはならないことだ。 

過去においては侵略であっても国のため戦って死ぬことは正義だという教育がなされた。その過ちは繰り返してはならない。 

 

 

・政治家としては言ってはいけない事だと思う.戦争が起きるのは,政治家の勘違いや錯覚,それで得して逃げ切れる人の商才,その時々の政治家さんの決定的な能力不足,純粋に人を殺めそれを自慢にできる人たちのゆがんだ性癖などが原因.ちゃんと考えれば,原因が必ずアリます.それを学ばせるのが歴史教育.但し,違う方向にも歴史教育は使える.この市長さんは,結構頭の良い人だと思ってたが,単に口が軽いだけでは済まされないね.この次に来るのは多分戦争と犠牲者の美化.何か,そっちの方向に見せないと都合悪い事でも有るのかな. 

 

 

・防衛を字数の制限がある中や精神論だけで語るとおかしくなる。 

武器の性能×武器の数×兵員の訓練量×兵員の数×情報×エネルギー×食料×物流・・・×精神力 

他にも色々あると思うが、関係は掛け算なので、突出しているところがあっても、どこかが欠けると防衛力はガクッと落ちてしまう。 

どうしても最前線に行かなければならない人は必要だが、その人たちだけに負担させるのではなく、民間でもまたは自分でも出来る事をやっていって総合力を上げていくしかない。 

日本の弱点は軍産学の共同研究にアレルギー反応を起こすこと、自前でエネルギーの調達が難しいこと、食料自給率が低いことだと思う。 

戦争の準備と考えるのではなく、戦争を仕掛けられないように対策すると考えればいい。 

切り抜きや上げ足取りしかできないメディアのスポンサーへの不買運動など微力でもやれることはいくらでもある。 

 

 

・気持ちは判る。 

国と言う大きな単位以外にも、大事な人を守る為には嫌でも戦わなければいけない時はあるから。 

ただ、それはあくまでも最終手段で戦わずに済むようになる事が第一優先。 

そして幸いに日本はその最終手段を戦後一度も行使していない。 

それはやはり先人の皆があの戦争の悪夢を二度と見たくないと思い知ってるからだと思う。 

 

 

・まあ日本に受け入れられるかは難しいが、ウクライナでは徴兵もあるが全員がいやいや戦っていたり、死なないと思っているわけではないし、アメリカの映画で似た様なこと表現しても批判や上映禁止とか聞かないから海外ならある程度認められる意見かもね。 

日本は幸い島国で他国に侵略されたことないから他国と考え違うのかもね。 

 

 

・自分を守る為、家族を守る為、親族を守る為、自分が属する社会を守る為、戦う状況になれば自分を犠牲にしてでも戦う意志はあるよ。そんなの誰でもそう思っている。 

 

でもそこに「国家」を当てはめた時、その「国家」が自分や家族を助けてくれる存在なのかを考えると、躊躇するかも知れない。侵略戦争に手を染めた「国家」ならばその戦争に加担するつもりは無い。 

 

軽々しく「国家」の為とか「祖国」防衛など口にする政治家は信用しない方が良い。それが先の大戦から教訓として学んだ事である。 

 

 

・究極的な話だけど、国とは何か。この息をしている空間であり家族と暮らすかけがえのない時間だと私は思っている。それを一方的に暴力で奪われそうになれば、命を賭して守ろうとするのは人として自然なこと。命を捨てるという表現はメダルかじり虫の言い方が悪いが、命がけで戦ったご先祖様の気持ちが理解できるだろう。ウクライナ人が祖国のために戦ってるのは間違いない。問題なのは戦争指導者が、祖国のためではない何か別のもののために戦わせているケースである。日本は、その別のもののために極左岸田政権が突き進んでいるとしか思えない。今年は統一教会案の憲法改正論議、そしてそれを煽るような事件、事故、災害、テロ等が人為的に引き起こされる可能性は十分あると思ってる。このライターの歴史観はGHQが作り上げたものだから、そこから得られるものは小学校で終わってる。 

 

 

・国家という隔たりがある以上、争いは無くならないし、国内で安全を守るために警察があり、国外から安全を守るたまに軍隊がある 

軍隊に入り国のため戦うことは、そこにいる自分の家族を守るということでありとても崇高なことだ 

 

 

 

・今の現役世代は日本の繁栄、高度な社会資本を当たり前のように使っている。ありがたみがないかもしれないが、これも国家があるから。 

 

国家とは何か?公共の福祉とは何か?フェアな社会とは何か? 

 

どれも国家という概念がなければ定義できない。現役世代は会社、仕事、仕事と仕事中毒にならないで、国家があるから安心して(外敵から守られて)仕事ができていることを自覚する。 

 

家庭があるから赤ちゃんが育つ。国家があるから安心して好きな分野を学べる。国家があるから家族のために仕事ができる 

 

今の国家観のない日本国憲法なんか疑問だらけなんだよ。 

 

 

・これは問題ないのでは? 

何に命を懸けるかは人それぞれです。 

川で溺れた人や、電車のホームから落ちた人、他人を助ける為に犠牲になった人もいます。思想信条の為に命を懸ける人もいます。祖国の為に命を懸けても良いと思います。 

いずれも道徳的であると思います。 

もちろん全て命を捨てる行為ではありません。 

命を失うリスクがあっても守りたいものがあるという事です。 

臓器移植とかも近いですね。 

 

大事なのは他人に強制しない事。 

この1点のみで判断して良いと思います。 

 

 

・「祖国=天皇」という意味は、よほどの右寄りの人じゃないと、もう持ってないと思うから、文字通り、「祖国=国」であったり、「祖国=家族」という意味だと思うんだけどね。 

イスラエルとパレスチナの争いは、根本に宗教的なものがあって、また別物だと思うけど、ウクライナの人が戦争に行くのは、愛国心だったり、家族の為だったりするんだろうから、そういう意味で言ってるんじゃないかと思うけどね。 

 

 

・戦後80年経って日本人はすっかり、戦闘行為自体にアレルギーのある国民性になっていて、まあ、それはそれで悪い事でもないのだが、問題は敵国が攻めて来た時に命を掛けて守り通せるか、という論点でもある。アメリカでは戦争で亡くなった軍人は尊敬され、日本におけるかつての靖国のように神格化されるし、国のために命を捧げた方に敬意を払うのはごくごく自然な行為でもある。なので、命を捧げた方の行為そのものが道徳的で尊い、のはそりゃあそうだ、と理解できる。これは右翼とかそういう事ではなく、普通の国なら当たり前というだかと。なので、周囲も一部の左翼共産的なリベラリズムは無視して、常識を守れば良いのかと思いますよ。 

 

 

・祖国のために命を捨てるのはナンセンスとか言うと満足なのだろうか。まあ彼らは、祖国のためにと言ったらその時点て頭がキーっとなって後は何言ってもアウトなのでしょう。かつての軍国主義の記憶がいつまでもまとわりつくのは仕方のないことでしょう。でも、今の事態に今の危機に目を向けないと大変なことになる。見るべき方向を間違えないでほしい。 

 

 

・(自治体)トップの国民への伝え方にその人の本質がでる。 

 

オバマ前大統領が、キング牧師の「暴力は恒久的な平和をもたらさない」を心に留めていること、「現実の世界において、米国民に脅威が迫っている中で何もしないわけにはいかない。国家は独立して、または団結して、必要な時だけでなく、道徳的に正当化される時に武力を行使する事があるはずだ」みたいな事を言ったのが心に残っている。 

 

趣旨は似ているのに、オバマさんは国が国民を守る、川村さんは国民が命を捨てて国を守る、と言っているところに大きな違いがある。 

 

 

・愛国心は、まあ重要でありある程度必要ではあると思うが、反感を覚えるのも理解できる。 

 

自発的な愛国心は、具体的には家族友人知人恋人等々関係性のある人達を守る為とか安心させる為とか、そういったものに繋がる。『祖国の為に命を捨てる』もその為の手段が極まったものの一つだろう。肯定され、敬意を払われてしかるべきだ。そうしない人の中で、殊に例えば沖縄で暴れているような連中は叩かれて当然と思える。 

 

しかし一方でよく見る『日本の為』とかは、おおかたそれを言う人間は負担を負わないし責も負わないうえ、それを言う人間にはとても都合がいい。そいつにとって都合がいいことを『日本の為』とか『愛国』とかで装飾されてお出しされ、従わなければ世論を煽るなりして『犠牲にならんとはけしからん』とやられればふざけるなと腹も立とうというものだ。 

 

 

・時代、状況、立場で変わる道徳もあるだろうよ。 

例えば戦況下に於いて軍人が祖国のために命を捨てる覚悟(できることなら死にたくないけど)で戦うのは道徳的だと思う。 

でも、戦況下に於いて軍人ではない人にまでそれを強いるのは道徳的ではなかろう。 

太平洋戦争で日本が誤ったのは、後者をしてしまったこと、あるいは前者を強いるために無理矢理国民を軍人にしたことだと思ってる。。 

 

 

・「祖国のために命を捨てる。」行為が道徳的でも、昔の日本や今のロシアのように「祖国のために命を捨てさせる。」行為は道徳的ではありません。これからの戦争はAIロボットドローンが活躍する時代。常日頃技術研鑽を怠らない自衛官は国の宝で死んだら大変な損失ですから命は大切にしてください。 

 

 

・名古屋市の河村市長が戦争の風化を防ぐために制定された「なごや平和の日」の会見の中で「祖国のために命を捨てるのは道徳的行為」などと発言した。 

 

⇒別にこれだけなら異常な発言ではない。 

 ウクライナの現状をみればわかるだろう。 

 

 ただ、政治屋だの官僚だのは、先の大戦でのインパール作戦のような『兵隊の使い捨て』のような思考を厳に慎むべきだとは思うが。 

 

 

 

・軍人と民間人はそもそも役割が違う。軍人は祖国のために命も、という価値観のもと、敵と対峙する。民間人も同じであるべきなのか?全く当てはまらない。召集され軍人となったならばともかく、そうではない民間人にまで同じ価値観を要求することは、まさに一億玉砕と同じで、勇ましいが浅はか。勇ましい言葉を並べるなら、まずは自衛隊に入隊してくれ。 

 

 

・「命」、「道徳的行為」というと 

真っ先に「宗教問題」が絡むと思います。 

 

それが国家にとって、道徳的で尊敬に値するといえど 

戦死したら、靖国へ戻り、国家を守る鬼神となる、と 

指導・教育したのはやはり 

国家より大きな「宗教」というあり方を 

ゆがめてしまったと思っています。 

 

国家は宗教より大きく、影響力があるものでは 

ないと思います。 

 

特攻隊の家族にあてた手紙を読んだら、 

亡くなっても、靖国になんて行かず 

それぞれの故郷に魂として戻り 

愛する父母、兄弟の腕に抱かれて 

故郷の寺社から天へ還ってほしいと、 

思うのが日本人じゃないかと思います。 

 

(戦前の)国家は、いにしえからの風土、 

そしてそこに根づいた宗教を 

こえられるものは、とてもないと、 

それが生きるうえでの道徳的な意味だと感じます。 

 

 

・戦争は、相手の命を奪う行為でもある。これも「道徳的」といえるのか? 他人の命を奪うのも、自分が死ぬのも嫌だ。だから、戦争は絶対にしていけない。だれになんと言われようと「核反対」「戦争反対」と叫び続ける必要があると信じている。 

 

 

・祖国のために命を捨てる 

 

という価値観は確実に存在するでしょ。 

個人でそれを持つのは構わないし、そういう人達が集まって政党を作るのも構わない。 

ただ、その思想を強制することの是非を問うのは、時代によって大きく異なる。 

 

例えば日本が現在のガザのように外敵から侵略されてる状況なら 

祖国のために、という思想は強く支持される。 

いまの平和(?)な日本では日本国の存亡が日常で強く意識されないだけだから、 

疑問を呈することも許される。 

 

祖国を愛し、祖国のために働き、守り、戦う 

 

という意識や思想は程度の差こそあれ多くの人が持つものであり 

それを完全否定しようとするライター側のほうがやや不安ではある。 

毎日真面目に働くのも家族や子供を守るためでもある分けたから。 

 

ことさら軍事的に祖国のために、というわけでなく 

平穏ないまの日常を守るために、日々働く、生活を守ることも 

国を守ることにもなるだろうに。 

 

 

・結局、世の中の何がダメかというなら、「誰が言っているか」で発言に対する賛否を決める人が多すぎるということ。 

嫌いな河村氏が言っていることは全て反対するし、好きな〇〇の言うことなら全て賛成、みたいなね。 

 

個人的に(特に最近の)河村さんには全く疑問点しかないが、かといってこの発言は、最近の発言と比べて珍しく(ある程度の)妥当性があると思える。 

 

 

・私はこの考え方とは相容れないが、そういう考えを持ったり、一般の人が発言するのは何ら問題はないし、そういう考え方なのね、と思うだけです。  

 

ただ、それが近代民主主義の国で為政者から放たれると、とたんに危険性を感じる。戦争の歴史を学んでいるのか疑問だし、そういう人ほど祖国のために命を捨てる人がかなりレアだから。 

 

仮にどんないい政治をしようとも、こうした発言が出るなら選挙では投票しない。私はそれが祖国のため、子どもたちのためだと思うから。 

 

 

・河村氏の発言と歴史観、至って真っ当だと思います。戦争にかかわることになると、深い考えもなしにとにかく騒ぎたてる有識者と称する人々、マスコミは非常に見苦しい。冷静な思考ができないんでしょう。恥ずかしくないんですかね。冷静な思考を欠いた者の歴史観のほうが、よほど危険でくだらんと思いますよ。 

 

 

・「祖国のために命を捨てるのは道徳的行為」と発言する人こそ、戦争になったら真っ先に逃げ出すタイプなので、こう言う事を言う政治家は信用してはいけない。 

もし仮に、日本が戦争に巻き込まれ、戦争になったら誰に言われる事無く、大切な家族や大切な人を守る為に戦うでしょう! 

 

 

・河村市長は当然なことを端的に発言しているのに、石戸氏は詳しく説明が必要なほど思考力が低下しているのだろうか。祖国に守られ生かされているからこそ祖国への感謝の思いが報恩のかたちで戦うのだ。何が「どんな歴史観を持っているのか?」だ。戦争否定もいいけれど無抵抗で平和は守れないだろう。不運不幸にも戦死しても家族は祖国の平和のために戦ったことは誇りに思うだろう。石戸氏は祖国の危機の時、戦う意志は否定するのだろうか国外逃亡するのだろうか。ライターの思考はその程度の国家観や祖国愛なのだろうか。 

 

 

・ノルマンディー上陸作戦でドイツ軍は敗れ第二次世界大戦の趨勢は決したと言われている。この時連合国側の戦死者は4,500人だったというが、連合国側はドイツ軍の拠点を叩くため、周辺を徹底的に空爆し結果としてフランスの民間人に35,000人の死者を出した。 

35,000人の死者はフランス解放のための道義的犠牲と言えるのか? 

 

 

 

・表現の問題はあるにせよ、河村氏の言っていることは至極当然である。 

私たちの生活は、国家の存立の上にはじめて成り立っている。国家などどうでもいいと主張するならば、すぐに中露北に移り住んでみるといい。私たちの「当たり前の日常」がどれだけ国家に依拠しているか、嫌でも分かる。 

もちろん、あちらでは政権批判などしようものなら、徹底的に弾圧される。収容所か戦場に送られるかもしれない。独裁政権がその気になれば、罪状などいくらでも付けられる。 

私たちの生活も文化も、日本という国の安定があってこそ。その国が外敵の侵略に曝され、危機に瀕した時、私たちは国民としてどうすべきなのか。 

いま平和主義を掲げる者たちは、おそらく逃げ隠れするかもしれない。それは道徳的であるか。 

道徳の基本は利己ではなく利他にある。公共のために尽くし、人々の生活を守ることは利他である。 

国を守る兵士は、それを命をかけて行っているのだ。 

 

 

・河村市長の考え方は戦前の「天皇陛下万歳」そのものである。そして大日本帝国は軍人と民間人に大きな犠牲者を出して連合国に敗北した。戦後日本国民の基本的人権を保証し不戦により世界平和を希求する日本国憲法の施行により天皇陛下は現人神から人となられた。 

個人がそのような考え方を持つこと自体はもちろん自由。 

であるが、自治体の首長の公の場における発言として不適切である事は明白。 

名古屋市の主権者たる有権者のかたがたはその首長の選択をお誤りになる事がございませぬよう。 

 

 

・「愛国心」について考えてみた。 

 

かつて「お国のために」と言って、たくさんの人々が戦場へ行かされた。そして死んでいった。少なくとも「愛国心」とは「愛国民」でなかった。 

 

日本で再び戦争が起きたらという話で、「有事の際はもちろん国のために戦うつもりだ」という勇敢な方がいる。彼の言葉に嘘はないだろうが「愛国心」だろうか、疑問である。 

彼の「愛国心」はナルシズムではないか。彼は誰のために戦いたいというのだろうか。映画やドラマのように、「家族のため、愛する人のため国を守る」などと、ステレオタイプな「愛国心」を語る。それは美しい響きを持つが、「愛国心」は決して「愛国民」ではない。そして、実際の「愛国心」の正体はもっと無慈悲だということを歴史が示しているね。 

 

 

・自らが属する共同体への愛着は、古来よりの人の本念だろうが、近世以降に成立した主権国家への忠誠心は真新しい観念。主権国家にとっては、その構成員による忠誠心は必要不可欠の要素であり、拠って立つ所でもある。そして、人が主権国家を必要とする以上は、それを否定することは無意味だが、近代の人類社会が少数の為政者達に率いられる以上は、取り扱い注意でもある。それでも、国家への忠誠心を否定できる人は、主権国家を転々とできる自由人だろう。 

 

 

・そもそも「祖国」って何なんだ?「家族など大事な人を守るために命を捨てる」なら、まだ分かる。しかし、「祖国」や「国」で論点がごまかされてしまう。「国のために命を捨てろ」という連中は、大抵、自分こそが「国」だと思っている。「俺らのために命を捨てろ」と若い人に言ってるだけだ。 

大事な人を守りたかったら、戦争をしないことが最善・最良の方法だ。そのために一定の自衛の手段は必要だが、外交などで戦争を避けるための政治家の能力と責任がまず問われる。 

「祖国のために命を捨てろ」というようなことを言う政治家は、自分達の第一義的な責任を自覚していない。 

 

 

・戦争であるなら敵という存在があり、その敵も人間であるから家族がいる。 

愛する人がいて、祖国もある。 

 

その祖国と人を殺すことの、如何にそれが道徳なのかを聞きたい。 

それは自分の祖国を守るために必須な事なのかを聞きたい。 

 

少なくとも私は、例え同胞であれ、自分や愛する人に危害を加える人間を守る気は無いし、敵として認識するのはそういった人達だから、同胞であるかどうかは問題外だ。 

国に守られてはいても、その前に私は一人の人間であり、生きる事の権利を行使できる存在である。 

道徳とやらの為に命を捧げるような生き方を選択する気など毛頭無い。 

 

敵を決めるのは、私自身だ。 

 

 

・河村市長に対して色々いう人達はウクライナを見てみな。 

ウクライナ人は別に死にたくて戦ってるわけではない。 

ウクライナという祖国を守るために、家族を守るために、自分自身を守るために戦っている。 

祖国の為に命を捨てる事は決して無駄ではなく、その行為は戦争という特殊な環境下の中では、極自然な道徳的行為だということ。 

平和など偽善であり、世界では常に紛争や戦争で亡くなる人々や、それによる貧困で亡くなる人々がいる。 

だからこそ平和には価値があるのであって、その平和を維持するための1つの犠牲的な行為ということ。 

だから、もっと国の為に亡くなられた方々を敬うべきだし、靖国には天皇陛下や総理、閣僚は必ず参拝すべきである。 

 

 

・別に自分の国を守るために戦うことの何が悪くておかしいのか理解できないんだが。 

これを言ってしまうと世界中の兵隊の存在そのものを否定することになるんじゃないの。 

批判する人たちの歴史観とやらはどんなものなんだろうね。 

戦争が起きたら国を捨てて逃げ出せばいいとでも思っているのかな。 

 

 

・「俺は死ぬ係じゃないから。」(特攻作戦を採用したN少将が大西瀧治郎中将の自決後に言った言葉) 

 

「『安全地帯にいる人の言うことは聞くな』というのが大東亜戦争の大教訓」(大西瀧治郎中将の副官だったM主計少佐の言葉) 

 

いずれも神立尚紀さんの「太平洋戦争の真実」からの引用ですが、名古屋のオヤジの言葉と照らし合わせると… 

 

 

・こんな当たり前の発言を問題にする人たちがいる。だから、本当に平和って難しいんだと思う。 

 

国の為に、人類の為に命をかけて生きることが出来る人 

命を捨てる覚悟を持つ人 

私は尊敬します。 

 

言葉の解釈を都合よく扱って、ただ批判して、勝手に、軍国主義の歴史を持ち出して偉そうに語る。 

 

日本から自衛隊を無くしたり、日米安保を破棄したり、尖閣や竹島を放棄したら日本に平和が来るとでも言うのか? 

 

誰が国を守るのか?さらには、人類を救うのか? 

道徳的価値観、家族、友人、知人、さらには国や、人類を思う気持ち、行動が未来に素晴らしい社会を築く。 

 

 

 

・「世界政府が出来ていない以上、残念ながら戦争は起こり得る。現実にも起きている。その時に、自分の国を守るために戦い死ぬことは道徳的行為。残念ながらそれが現状」 

…と、どこからどう読んでも至極真っ当なことしか言っていないのだが…。 

 

こういう発言を一々問題視する連中って、例えば国家の最小ユニットとしての自分の家族が危険に晒されたとき、指くわえて黙ってみてるのかな? 

本当に謎なんだよね。 

 

 

・昔はね。 

昔は戦争するしか方法がなかった。 

国を異国の侵略から衛るには戦争1択だった。 

だけど自分達からも仕掛けて植民地にしてた訳だから。 

どの世界もそうでしたよね。 

それは国債発行もなく金本位制で国にお金がなくて物も少なくて他の国から力尽くで奪うしか考え方がなかったからです。 

貧しかったから。 

 

しかし現在は戦争で国を衛らなくても良い時代にある。 

どちらかと言うと経済や外交で国を衛る時代にチェンジしている。 

 

だから昔の精鋭達は祖国の為に命を捨て戦ってきたんだよ。 

と言う人達は時代背景に沿わない理論で戦争を推し進めてる事になる。 

これに関しては明らかに思想が間違えてると断言します。 

 

河村市長も頭の中が戦前で止まってる1人だ。 

 

 

・もし、国民が国のために働くことを望むなら、 

代表たる政治家が襟を正し、見本となるような 

行動を示し、信頼を得たのちに、このような発言を 

すべきだと思います。 

 

まずは、名古屋市民だけでなく、日本中から 

尊敬されるような人物になっていただきたい。 

 

 

・祖国のためという大義のために積極的に攻め出て死にに行くのは道徳的とは思わないが、祖国の何千何万の命を守るために身を挺してやむなく命を捨てるのは極めて道徳的、その通りだと思う。 

じゃあ過去の日本がどうだったかと言われれば、立場や局面や価値観でも違うし、その時代を生きていない自分が一括りに今の価値観で決めつけようとは思わない。 

ただ、変わらない過去を否定する事は、自分たちの存在そのものを否定するに等しいと思う。 

 

 

・ある意味正しいのでは? 祖国を守ると言うことは家族や大事な人を守ることになるし国を失うと言う事は大体が悲惨だからね。島国日本と違って世界はその悲惨さは知ってるから世界では当たり前の考え方でしょ。ウクライナがなぜ戦っているのか、ロシアに降伏すればどうなるのか分かってからでしょ。 

特攻隊も祖国、家族を守りたかったってことでしょ。結果的に占領軍がアメリカだったかましでしたがロシアなら人権も自由も無くなっていた。 

 

 

・祖国とは家族ですあり隣人であり愛する人の居るコミニティーです。 

それを守る為に命を投げ出し守る事は道徳的な行為では無いのでしょうか。 

国に強制され無理矢理戦わされたと言って命懸けで戦う人を非難する様な社会では平和な社会を守る事など出来ませんし国を守る為に戦っているウクライナなどの人達に対して失礼極まり無いと思います。 

 

 

・「道徳」は恣意的なもので、時代や地域によって異なる。河村氏の言は「まあそういうふうに思って生きてきた」ぐらいのことで、市民に対して「国のために命を捨てよ」とは言わないだろう。言った時に非難すればよいのでは、と思う。 

 

 

・国家と個人の関係は、民主政治だ専制政治とかとは別次元で、人類の永遠のテーマ。今のところ正しい答えは見出せていないと思う。 

少しだけでまともな考え方は、国民が命を捨てなくてはならないような国にしないこと。命の拠出を求める指導者は最低の政治家だということ。くらいではないだろうか。 

 

 

・そう思う人が一定数いるからこそ、軍隊が存在し得る。それはそれで、それが現在の社会なのだろう。 

問題はそう思わない人に、それが強制されること。 

さらに最悪なのは、本心ではそう思ってもいない権力者が、建前で国家への忠誠を吹聴し、自分や自分の家族を除外して他の人たちにそれを強制して行くこと。 

戦場経験のない政治屋は大抵その最悪の人達だな。 

アメリカでさえ、政府議会関係者の子弟のベトナム従軍率が低かったんだよ。 

 

 

・お互い噛み合ってないんじゃないの 

他国が侵略してきて家族や仲間を守るために命を投げ出して侵略者に立ち向かう、なら道徳的と言えるだろう 

一方、侵略戦争で他国に攻め込んで命を落とすのは道徳的とは言えないだろう 

そこんとこの前提が完全に違ってるのがウケるよね。突っ込む方はそれも知っての上なんだろう。要は日本を落としたい人たち。 

ネット民はそれにまんまと扇動されてる感はあるね 

 

 

 

・政治家が言ってはいけない発言だと思う。 

 

「祖国の為に戦う事は道徳的行為」までは許されると思うけど、「祖国の為に生命を捨てる」ことを称賛する発言は、政治家として欠格だと思う。 

 

極論をして、政治家が「祖国の為」を理由に国民に死を強要する、と考えれば、この発言の不道徳さがはっきり分かる。 

 

リーダーがこの発言を安易に出来る国、それを許す国は、多分、滅ぶ事になる。 

 

 

・この人は良い時には良いが、国会議員時代から表現が単刀直入すぎるのかもな。例えば匂いがキツイと言うより、香りが強いと表現した方が、受け取った側は何となく柔らかく聞こえる。金メダルを噛んで見せたり、本人は悪気はないのだろが少し周りを見てデリカシ―に欠ける所が多々あるわ。 

 

 

・外国の軍隊が目の前に来たら家族を守るために命を賭けて戦う、それは当然。 

ただ戦争には常に勝者と敗者がいる。 

つまり命を捨てて戦っても祖国が守れるとは限らない。 

だから「命を捨てても戦う」状況にしないことが政治家の役目。 

河村市長の発言は市井のおじさんが言うなら別に気にしないが 

政治家の発言としては余りに知性と覚悟が欠けたものだ。 

 

 

・個人の意見だから話す事は、自己責任だろう。発言に問題があれば批判を受けるのは当然だが、日本のマスコミの非現実的な平和論は現状にそぐわない。世界情勢が緊迫している時に日本だけ平和である事は出来無い。誰も戦争を望んでいないがロシアや中国は、武力侵略を止める事は無い。米軍基地が無い北海道にロシアが侵略する可能性はある。有事に全て自衛隊に任せて国民は高みの見物は虫が良すぎる。マスコミもいい加減、現実に即した情報を国民に提示するべきだろう。戦争を回避する為には、国民の意識を替え現実世界の平和論を提言するべきだろう。今の自衛隊の待遇の悪さで命懸けで守ってほしいとは、恥ずかしくて言えないだろう。 

 

 

・自衛隊員は志願制です。 

上官の命令に従い、国民の声明·財産を守ること、極限状態では、自分の命を犠牲にしても、それを遂行する。 

それが彼らの本分です。 

国民が、彼らに対して感謝し敬意を払うのは当然です。 

 

> 河村市長「祖国のために命を捨てるのは道徳的行為」にノンフィクションライター 石戸諭氏「どんな歴史観を持っているのか?」 

 

自衛隊員の本分に対する感謝の念と歴史観とに、何か関係あるのでしょうか? 

 

 

・戦争がどんなに悲惨なものか、その実態を正確に後世に伝え、それを回避するためにはどうしたらいいか。 

政治家が語るべきなのは、戦争回避のために自分達が何をしていくか、そしてそのためにどういうことを国民にお願いするかということであって、従軍する人たちに対する感想などではない。 

話すべきことを話さず、話してはならないことを話す時点で、この市長の程度が知れる。 

 

 

・左翼系の人は国の為に戦う事を簡単に批判する。彼等は彼等の言論や人権を日本国が守ってくれている事を認識して日本国民に伝えているとは思えない。石戸さんは中国やミャンマーの国籍を取って日本人の国籍を止めてみたらどうですか?自由な言論や人権を守ってくれますかね?自由や権利は義務を果してこそのものですよ。国の力が無い国や独裁者、軍事独裁国の国民は悲惨なものですよ。日本は自由や権利が保障されている世界で希な国ですよ。それを守る為に戦う事が悪い事と批判する左翼リベラルは日本国民に捨てられる。 

 

 

・結局、このライターが言いたいのは「サンキューベリーマッチ」と付け加えたことが態度悪いと言っているだけで、祖国のために命を賭すことについての是非にはなっていない。ようは単なる人物評であり揚げ足取りでしかないのだ。祖国のために命を捨てる行為が道徳的効果かどうかについては、世界各国で同じ質問をしてみるべきだ。恐らくそれを非人道だと批判する声はたいして多くない。 

 

 

・兵士に限らず警官や消防士の人は命を掛ける場面はあります。 

一般人とは違うその任務は国という社会単位を維持するのに必要な事でその任務に従事する事への感謝は必要でしょう。 

少なくとも一般人のリスクを肩代わりしてるんですからね。 

 

市長の言い方が軽いのは多分硬い言葉では戦争賛美とか右翼思想だと思われるからじゃないかな? 

コメントに右翼じゃないとある様に左翼思想の人からのあらぬ反論で批判される事への警戒からとかんじます…まぁそんな気遣いを読み取る人らじゃないからムダですがね。 

 

警官や消防士へ感謝を述べる場合こんな反論が起きないのに自衛官には起きるのはその任務をどう見てるかを逆に問われる事になります。 

まずは市長へ問う前にこの人の歴史感や軍や自衛隊への感想なりが知りたいですね。 

 

単に戦争反対や自衛隊への嫌悪感なら国防に必須な軍事力の扱いはどうすべきだと思ってるんですかね? 

 

 

・なんで戦争の話の時だけ、ギャートルズに戻る人がこんなに多いんかね。 

2度の大戦を経験し、核兵器を経験し、インターネットもGoogle 翻訳もある時代ですよ。 

戦争の悲惨さ、国ごときのために命をかける悲しさ愚かさ、憲法9条に喜び、皆がイマジンを歌った気持ち、そんなことを全て忘れた、平和ボケの人らだけが、戦争は当然だと言い張ってる。 

 

 

 

・「祖国のために命を捨てるのは道徳的行為」 

 

この種の発言をして命を捨てた政治家はいない。 

 

河村市長と言えば、かの高須医院長と組んで「愛知リコール不正」をはたらいた人物だ。大村知事のリコールをアルバイトを動員して大量の偽造署名を行っていた。しかし、その資金源と名簿入手先は未だ明らかになっていない。 

 

そうした人物に票を投じた有権者にも猛省を促したいが、不正を行った中心人物のひとりが道徳を語ること自体が笑止。 

 

政治家が道徳を語るは、自らの道徳観に問題のある輩ばかりであるということを肝に銘じておくべきである。 

 

 

・例えば今、戦争が起こったとする。キシダやキハラの指示に従って命を捨てられるか? 河村さんは出来るかもしれないがワタシはアホ臭くて考えること自体拒否。家族は守りたいが今の日本は政治家が利権を得るための搾取の対象でしかない。こんな国のために命を差し出すなどご遠慮したい。偉そうなことを言う前に、まずこの国を守る価値のある国にするために政治家がどうあるべきかを考えるんだな。 

 

 

・軍人に限らず、命をかけて職務を遂行されてる方々には、尊敬の念があります。 

国は、国民を守る義務があると思います。 

他国に、拉致や殺害されて何もできない国なら必要ありません。 

 

 

・政治家である河村が堂々とこういうことを口にするのは問題。これから戦争の時代になったとしても、河村は逃げ切り世代で、なんなら市民国民が命をかけて戦う様子を画面を通して観るだけ。自分が真っ先に銃をとって最前線にいくのならいいが、こういう発言をしているということは自分は安全であるという自負の裏返し。まさか自分が死ななければならないかもしれないというときに、祖国のためになるから道徳的行為だ、といって喜んで死ねるはずがない。 

 

 

・国のために命を捨てようという気持ちは崇高なものだと思います。しかし一方で「国のために命を捨てろ」という者と戦って命を捨てる事も崇高な事だと思います。 

 

 

・まあ精神力で敵とは戦えない、、と言うだけだね、、 

戦闘に使う銃も触った事もなく戦闘訓練も受けてない我々が突然外敵が上陸して来て攻められたら逃げるか降参して奴隷並みの扱いでも服従するしかないだろうね、、 

国民がどんな歴史観持ってようが命を捨てる覚悟が有っても完全武装の侵略軍に対抗する武器は身近に無いし竹ヤリで国を守ると言う歴史繰り返すのが日本の今の状態ですけどね、、 

 

外敵が来たら国民は逃げる、そして無抵抗で両手挙げるか、国防意識が高い北欧の様にある程度の武器が日常に存在しそれを使える訓練受けてる経験が有る国民が多数存在してる、、どっちにするかそこんトコ議論したらどう? 

 

 

・要は国のために命を投げ出すのは当たり前で、そういう考え方は世界のスタンダードだ、ということが言いたいのだと思う。 

 

それを国民側が言うのだったら分かるが、行政の人間が言っちゃダメだろ。悪質なクレーマーが「お客様は神様」とイキリちらしている構図と全く同じ。時代にそぐわない発言だと思う。 

 

 

・インテリは赤思想に犯されやすいのだが、どうしてこうなるか、騙されるか、研究してほしいな。左団体がオウム真理教の如く、こういうインテリ人たちをターゲットにしているのかもしれないが。赤化した国の末路や現状を見てこう言えるんだから、またそういう国のほうがそれらを実践しているのだが、この人はどんな夢を見ているんだろうか、どういう理想があるんだろうか?社会契約論に則った発言ではあるが、祖国とあるが、家族のためというのが正しいかもしれない。 

 

 

・「祖国のために命を捨てるのは道徳的行為」などと発言した。 

祖国の為なんて感性は一部の人間しかもっていないのでは? 

自分の住んでいる街を守るため、家族の為とかが命をかけるモチベーションではないの?東日本大震災ではっきりしているのでは!津波が目の前に迫っているの水門を閉めにいったりして津波にさらわれたり、消防車で広報して、消防車ごとに流されたりしたのをみればすぐわかる感性では? 

経験がないから自分の感性で言葉がでるだけでしょう?経験がないから! 

おそらく南海トラフ地震がくれば、同じような立ち位置に立たされる人も 

多く出るのでは?その瞬間に自分の命の感性が飛んでいるのでは?それだけ巨大地震でのモチベーションは異常になるということでは!それが本来人間が持っている本能なのかも知れないけど! 

 

 

・タイトルのように切り取ると、けしからん発言みたいに見えるけど、 

本質的に河村市長が言ってることは、そんなにおかしなことは言っていないように思う。 

例えば日本がウクライナのように攻められたら、日本人はどうするんだろう? 

攻められないように話し合うなんておとぎ話は通用しない。 

 

 

 

・祖国とは何を指しているのか?そこに尽きる 

 

祖国の意味が自分が愛する人、親や兄弟、パートナーや子供ならば、目の前に危害を加える者が迫ってくれば、私は当然立ち向かうし、命を落とす危険性も顧みない 

 

しかし、祖国が為政者や権力者という意味であれば、そんな者の為に命を捨てるのはまっぴら御免だ 

 

仮に明日、日本が戦争を始めとして、名古屋市長という行政の長は絶対に戦地には赴かないだろうし、年齢的にも無理だし、為政者や政治家、行政の長は国民を戦地に送り出す側。そういう間違っても戦地には赴かない側、送り出す命令を下す側が軽々しく、祖国の為に命を捨てるのは道徳的、などと言うべきじゃない 

 

発言すらなら百歩譲って、絶対に戦争はおこさない、もし、万が一、戦争になってしまったら、私が真っ先に戦地に赴いて責任を取るから、国とか為政者とかの為じゃなくていいから、その時は皆さんも愛する人を守ってください、と述べるべき 

 

 

・タイトルを見てどんな酷いことを言ったのかと思ったが特に間違ったことは言っていない。市長の言うように世界の常識を言っただけですね。 

あらためて会見をと言うが、記事を読むだけだけでも市長の言いたいことは充分伝わると思いますがね。 

 

 

・共同体のために命を懸けるなんてヒトだけでなく全ての動物に共通する尊い行為だ 

人間社会でも洋の東西を問わず古代からそうした考え方は不変だった 

だからこそ、その気持ちを利用して自分を守ろうとする権力者は共同体における最悪として全ての人々の敵としなきゃいけない 

やたら無暗にこれを煽る人間は信用できない 

 

 

・家族を守る為に命をかける 

なら納得できますが、国のためにはのフレーズはおかしい 

国とは単なる機関であるし、ましてや自分を律することができない輩が主導している組織に自分の命を捧げることなどできない 

戦争はやむを得ないという思想そのものが間違えている 

 

 

・国の為になぞ命は捨てられない。捨てられるとしたら愛するものを守る為だ。その愛するものは千差万別だが少なくとも今の腐り切った政治家が蔓延る国なんかの為に捨てるくらいなら、家族や誰か大切な人の為に使う方がよっぽど受け入れられる。 

 

 

・家族のために命を捨てるのが道徳的行為なら、祖国のために命を捨てるのもまた道徳的行為である。敵国から家族を守ってくれるが祖国なのだから、「世界の常識」といっても過言でない。 

しかしながら、国民を守らない岸田政権は、敵国から国民を守らないどころか、見棄てるであろうから、国民を守る政権が誕生しない限り、祖国のために命を捨てるのは道徳的行為になりえない。 

だって、岸田からの命令で命を捨てられますか? 

 

 

・なぜそこまで批判されてるのか意味不明。 

道徳的行為ではなく、当たり前のことだという批判なら分からなくもないが。 

祖国が攻められた時に命を捨てて守ろうとするのは当たり前のこと。 

大切な人を守ろうとしないことは批判されて然るべきだろ。 

日本が某国から攻められたら、すぐ降参したり、他国に逃げたりするつもりなの? 

そんか甘いもんじゃないよ。 

 

 

・日本は祖国のために命を捨てることのできる人材育成を怠ってきた。そのつけが今回の批判に表れているのでしょう。本来国家はその構成員たる国民に命を捨てることを要求するものだ。日本では国民皆兵を口にすらしにくいが、本来は国民皆兵義務が必要である。 

まあいまの自民党政府は国民に無理難題を押し付けて困窮させるのが仕事になっていますから、そんな奴らの言うことを聞きたくないというのもありますが、、、自民党がいけませんね。 

 

 

・この方の歴史観と私の常識との相違には驚くが、 

こんな方を市長に祭り上げている名古屋市民にはもっとビックリ。 

 

「祖国のために命を捨てるのは道徳的行為」 

などと言って置きながら、 

「誤解してもらってはいけない。捨てよとあおっているわけではない」 

言ってる事が矛盾して居ると、自分で気が付かないのかな。 

 

 

・大前提として河村が言う「国」って、たとえばドンバスで言えばウクライナなの? それとも勝手に編入宣言をしたロシアなの? 

河村が言っている理屈からすると「ドンバスの住民はロシアのために命を捨てるのが道徳的」ということになると思うんだが。 

 

 

 

 
 

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