( 166914 ) 2024/05/04 17:24:42 0 00 「管轄外」と言ってしまえばそれまでなのかもしれないが、日銀と為替の関係を考えてみよう(写真:ブルームバーグ)
なぜ日本銀行は為替を「無視」するのだろうか。
以下の3つの理由がある。 1つは、古い経済学を信じているから。 もう1つは、古い世界に生きているから。 3つ目は、まともすぎる専門家集団だから。
■「期待は正しい」という「古い経済学」が残存?
第1に、1970年代から1980年代に一世を風靡した「合理的期待形成理論」を日銀もほとんどの経済学者もいまだに信じているからだ。
不思議な理論だが、要は、将来予想が自己実現するのだが、ポイントは、すべての人が正しく予想するということは、すべての人の予想が同じであるということで、そして、すべての人がその予想に基づいて実際に行動するわけで、そうすると予想は自己実現する、ということである。
だから、人々の期待さえ動かせば、世界は思いどおりになるという(傲慢な)政策主体の見込みで(実はただの願望だが)、「期待に働きかける」という、壮大な実験、無駄である実験、無駄であるにもかかわらず大きな副作用を残す異次元緩和に賛成し、日銀はその実行を担ってきたのだ。
だが、期待は実現しない。なぜなら人々は、日々の生活においては、期待ではなく、しがらみ(現在の制約条件)によって行動するからだ。将来予想よりも、今、財布にある現金(あるいはスマートフォンにチャージされているマネー残高)、今月の給料、次のクレジットカードの支払い見込み額で決まってくる。
そのため、例えば「政府日銀がインフレにしようとしているらしい、もしかしたらそうなるかも」と思っても、実体経済における実物への消費、投資行動は少しずつ、部分的にしか修正されない。
結果的に期待は実現しない。理論的には、上述の合理的期待形成ではなく、適合的期待形成となるということだ。
■実物経済と金融資産市場との間に起きる「深刻な問題」
一方、資産市場においては、将来の期待の変化の修正が行動に大きく影響する。なぜなら、それは資産価値のほとんどが将来のものであり、かつ資産の多くが金融資産であるからだ。つまり、金融資産市場においては、期待は実現する。
例えば、株が上がると思えば、買う。買うから上がる。上がるから買う。ほかの投資家もそう行動するだろうと予想するから、みんなが買って大幅に上がる前に買う。われ先にと買う。だからあっという間に上がる。
むしろ、金融資産市場においては、期待が実現しすぎて、オーバーシュートする(行きすぎる)おそれがある。資産市場においては価格がほぼすべてであり、その価格の変化が瞬時に起こるため、期待が実現すると投資家たちは確証を得ることができる。行動経済学でいうところの確証バイアスが現実に存在することを鑑みれば、この行動はさらに加速するからだ。つまり、期待が実現し、期待が期待を呼ぶため、すぐにバブルになってしまうのだ。
この結果、金融資産市場においては、変化はあっという間に実現する。実物経済(あるいは実体経済)との、変化が実現するスピードの差は、とてつもなく大きくなる。
そして、この差が問題で、経済に決定的な影響をもたらす。
金融市場は、実体経済が変化する前に変化してしまう。そして、この変化のスピードが21世紀になってさらに加速しているのだ。この結果、実体経済が中心で、それをサポートする金融市場という本来のあり方から、金融市場の変化が実体経済を振り回し変動させるという状況が定着してしまっている。これが新しい世界だ。
それにもかかわらず、日銀は(アメリカの中央銀行も)まだ20世紀の経済世界に生きているから、この変化の加速を無視し、実体経済の変化を中心に観察している。この結果、中央銀行が、実体経済の物価だけを注視し、実体経済を調整しようとしても、金融市場を直接にコントロールの対象に入れなくては、うまくいかないことになる。金融市場における最も重要な価格である為替をコントロールの対象外にしていては、経済運営はうまくいかないのだ。これが第2の理由である。
一方、21世紀は格差拡大が加速すると同時に、金融資産市場の規模が実体経済に比して急速に拡大しているという現実がある。
■新しい現実を直視しない中央銀行
このような状況において、金融政策における大規模緩和の影響はどこに行くか。もちろん、金融市場である。インフレを起こそうとして金融緩和をすれば、実物経済は動かず、金融資産市場だけがバブルになる。
このバブルにより、富裕層と呼ばれる新成金資産家たちがぜいたく消費を増やすが、それは広がりを持つはずがない。住宅・土地価格は上昇し、庶民は家が買えなくなるし、高額品、レジャー品は金持ちの独占状態になる。
彼らのぜいたく消費に企業もターゲットを絞るが、こうした新富裕層は、新製品、画期的なモノ、流行モノなどに夢中になるから、物価指数は上がらない。なぜなら、物価指数に組み入れられないモノだけが高いからだ。例えばトヨタ自動車のレクサスハイブリッドから、テスラに乗り換えたときに、物価指数は上がらない。
レクサスハイブリッドがテスラに対抗するには、レクサスも全面的にEV(電気自動車)に変更するか、ハイブリッドの値下げあるいはサービスや質の向上で対抗するから、むしろ物価指数は下がる可能性すらある。
資産市場の影響を受ける物価指数は、住宅部分だけだ。だから近年、物価水準の動向は、世界的に住宅価格の影響が大きくなっているのだ。この結果、金融政策の影響はほとんど資産市場に吸収され、実体経済への影響は資産市場経由のものがほとんどであり、二次的なものであるから小さいうえに資産市場の変動には大きく及ばない。そして、景気が過熱しても、物価はそれほど上がらないことになる。
これが新しい現実である。この新しい世界を中央銀行、エコノミスト、経済学者たちは見ようとしていない。この結果、21世紀はバブルにあふれるようになったのである。
物価と実体経済だけを見ていては、バブルは止められないし、結果的に実体経済運営もうまくいかない。物価だけを見ていると、資産市場がバブルになり、実体経済が過熱し、その後、少しだけ物価が上昇し始めたときになってようやく金融政策を調節し始めるから、バブルの影響は悲惨なことになるのである。
この議論は、実はすでに古くからあるものだ。20世紀においても、いわゆる「BIS(国際決済銀行)ヴュー」と、「FED(アメリカの中央銀行)ヴュー」の対立の話は、この連載でも以前から何度も言及している。
要は、前者は、バブルは事前の芽を摘み取ることは無理でも、膨らみ始めたら早めに退治してしまうことが必要であるという立場だ。一方、後者は、バブルつぶしが実体経済つぶしになってしまうといけないので、バブルが崩壊してから、迅速に金融政策で対応するのがよい、という考え方だ。
結局、20世紀の後半は後者が力を持つようになった。そして、それは、1930年代の大恐慌の教訓を「中央銀行の引き締めが早すぎたからだ」と解釈した、経済学者のミルトン・フリードマンや、FRB(連邦準備制度理事会)議長を務めたベン・バーナンキなどの影響によって、より広く行き渡ってしまった。
それが、21世紀に起きた世界金融危機(リーマンショック)で見方が逆転したと思ったのだが、現在の経済学者、中央銀行の関係者は、依然としてFEDヴューの世界に生きているようである。
■中央銀行の政策ターゲットはどこに向けられるべきか
この対立は「バブルへの対処法」という狭い観点で見るべきでない。「中央銀行の政策ターゲットは実体経済か金融市場か、どっちなんだ?」という、より大きな問題を提示しているのである。
現在の経済学と中央銀行の人々の立場は、実体経済がターゲットであり、その価格である物価のコントロールに金融政策は専念するというものである。しかし、このスタンスを取っているとしても、最終目的は、物価の安定を通じた「日本経済の健全な発展」である。その最終目的を達成するために必要であれば、実体経済も金融資産市場もどちらも政策のターゲットになるはずである。
また、日銀の役割は、金融政策とともに「金融システムの安定」に貢献することであり、この2つの機能は等しく重要である。そうであれば、金融政策においても、金融市場が当然視野に入るべきである。
ではなぜ、このようにやや柔軟に考えずに、文字どおり、しゃくし定規に物価に専念し、為替相場には関与しないという姿勢をかたくなに守ろうとするのだろうか。それは、冒頭に挙げた第3の理由、すなわち、まじめすぎる専門家集団であるということだ。日銀は専門家集団としてあまりに健全すぎ、同時に謙虚すぎるのだ。
どういうことか。日銀の考えはおそらく以下のようなものだ。
自分たちは専門家として政府から独立した。物価に専念できるように組織の法律も改正された。悲願の独立性を得た。1980年代のバブル時の例に代表されるように、つねづね「物価以外の要素を見ろ」という圧力に屈して、金融政策が歪められてきた。だから今後は、物価以外を見ろという要求には応えてはいけない。
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