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「ずっと小児」 グランスタ東京の“母の日広告”に賛否…… 運営会社が撤去「違和感覚える方もいた」

ねとらぼ 5/9(木) 17:40 配信

https://news.yahoo.co.jp/articles/001501d18ec11b189bb8ca8443b17d64cad27af2

 

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JR東京駅の商業施設「グランスタ東京」の広告がSNS上で議論を呼び、運営会社は広告に違和感を感じたため撤去したことが報じられている。

広告は「母の日」向けで、子から親への思いを表現しているが、一部の人からは「ずっと小児」という表現に違和感を覚える声もあった。

(要約)

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東京駅施設の広告、指摘を受け撤去(出典:PIXTA) 

 

 JR東京駅の商業施設「グランスタ東京」の広告内容が、SNS上で議論を呼んでいます。ねとらぼ編集部が施設の運営会社に取材したところ、広告に対して「違和感を覚える方もいた」として、広告を撤去していたことが分かりました。 

 

【画像】議論を呼んだ広告 

 

 SNS上で議論を呼んだのは、東京駅内の施設に掲出された「母の日」向けの広告。「こどもに帰ろう」というキャッチコピーのもと、きっぷを模したデザインになっており、行き先を示す三角形はハートマークになり、路線名は「Jr.親孝行線」と記載されるなど、子から親への思いを表したような仕掛けになっています。通常のきっぷでは「子ども料金」が記載されているスペースには「ずっと小児」と書かれていました。 

 

 広告の内容には「駅だからこそできる」「今年は親孝行しないと」と好意的な受け止めがある一方で、「『ずっと小児』に異常さを感じる」「気持ちだけ小児に戻ったとして親孝行になるの?」「アイデア・デザインは良いのに『ずっと小児』『こどもに帰ろう』がキツい」と、記載されたフレーズに違和感を覚える声も広がっていました。 

 

 ねとらぼ編集部が施設を運営するJR東日本クロスステーション デベロップメントカンパニーの担当者に取材したところ、広告は4月25日から母の日施策の訴求のために掲出したものだと説明。広告を疑問に思う声などが上がっていることについては「ご指摘のような意図で作成したものではなかった」としつつ、「違和感を覚える方もいらっしゃった」とし、5月1日に広告を撤去したと説明しました。 

 

ねとらぼ 

 

 

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(まとめ) 

読んだコメントや意見には、広告に対する違和感や論点の多様性、SNSでの意見発信や企業の過剰反応に対する批判、親子関係や母の日への異なる考え方、多様性への理解や受容の必要性、自由な表現や意見の尊重などが含まれています。

広告やコンテンツが引き起こす違和感や議論は個人の感性や背景によって異なると同時に、企業や制作者としての意図やメッセージ伝達の難しさも垣間見えるものであり、多様性を尊重し寛容な社会に向けての課題や模索を投げかけるコメントが見られました。

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・違和感をおぼえ、わざわざクレームをつけたりSNSなどで批判した人の数はどれくらいなのでしょう。 

 

親にとって子どもは何歳になっても子どもなのではないですか? 

子どもにとって親は何歳になっても親です。 

もちろん、そういう親子関係ではない人たちもいるでしょうけど、多くの人が共感できる内容なら広告としてOKなのでは? 

むしろ、すべての人に共感される広告など、不可能でしょう。 

少数の大声で謝罪したり撤去したりしていたら、そのうちなーんにもできなくなりますよ。 

 

私は幼いころに母を亡くしているけれど、母の日については「元気なうちに親孝行しておきなさい。顔をみせるだけ、電話をするだけでも良いから!」と思うし、こういう広告を見ても嫌な感情など抱かない。 

 

 

・母親にとっては子供が「こども」であることと言うより、自分が「お母さん」という絶対的ポジションにいれることが幸せなんだと思う。 

子供が幼き日誰よりも愛し誰よりも信頼を寄せる相手が母。 

子供が成長するに伴い子供の世界は広がり段々とそのポジションから遠ざかって行く気がする。 

それは幸せなことだし親子であることには変わりないのだけど、ふとした時に子供が「こども」として自分を頼ってくれた時に深い幸せを感じるんだな。 

子供たち、母にしてくれてありがとう。 

 

 

・たまに実家の母親を買い物などに連れて行くと『何か欲しい物ない?』などと何か買ってくれようとする。 

最近顕著に私の世話をしたがるようになってきた。 

年老いてきて誰かの世話になる事が増えてきた中、母親として娘の世話をやきたくなってきたのだろうか。 

と、私の勝手な推測かもしれないが。 

ある日スーパーで買い物中に『ママこれ買って』と子供のように言ってポテトチップスをおねだりしてみた。 

(普段私は母親をママなんて呼ばない) 

笑いながら嬉しそうにカゴにポテチを入れて買ってくれた。 

人それぞれかもしれないが、心の奥底で母親は我が子をずっと子供だと思いたい気持ちがあるのではないのだろうか。 

子供に帰るのも親孝行の一つなのでは?と思った最近の出来事。 

このポスターもそんな自分からしたら何の違和感も感じない。 

 

 

・うちの祖母も亡くなるまでずっと言ってました。「何歳になっても子供は子供」って。そして私たちからしたらスパルタで恐い親も祖母に対しては一歩引くというか、思いやってる部分は見えましたよ。単純に親子の情の話、でいいのでは? 

ふと「介護殺人事件」を思い出しました。あんなに絶望的な状況でも親としての責任感が見られるお母様、ご本人の方がご自身の状況を悲観されていたでしょうが、裁判では「生まれ変わっても母の子でいたい」と。これが親子の情、無償の愛というものだと思いました。 

 

 

・えっ、親にとって子供は一生子供、子供にとって一生親は親。 

普段は生活や自分の事に追われて忘れがちなその当たり前の事を今一度“母の日”に思い出してみましょう、皆何歳になろうとも誰かの子供、それに幼い時代の無い人などいない、と切符の小児をかけているんでしょう。 

世の中には親を知らない人もいる、けれども親に値する人がいるかも知れない、ヤボは言わないで母の日の“広告”としてそれぞれが鷹揚に受け止めれば良いだけの事なのでは? 

全然目くじら立てるようなものとは思えない。 

寧ろアイディアへのリスペクトが無さ過ぎて、そんなにも汲々とギスギスした世の中の方が嫌だと感じる。 

 

 

・SNS社会・ネット社会の本当に厄介なところが露呈したような出来事。 

 

何千万人、何百万人という人たちの一人一人の心の声が、いちいち全部聞こえてきてしまうのと大差ない騒々しさ。 

 

それらに混じっている「批判の声」が、社会一般の常識に照らして妥当なのか・適切な指摘であるかどうか、の精査をする時間も与えられず、 

批判を受けた企業は「危機管理」の名のもとに「配慮に欠けた」と謝罪してとにかく速やかに撤去・撤回。 

 

時間をかけて構想を練り、多大な時間や人件費を費やして創り上げたものをやみくもに破棄するしかかなかった企業は得られたはずの対価が得られず、 

一般消費者もその広告を通じて知り得たサービスを受けることができなくなる。 

 

直接その企業にTELをする等の切実な苦情には向き合うべきだけど、匿名SNSの無責任な投稿まで間に受けて撤去とか中止とか、そんなことばかりしてたら日本の生産性は落ちる一方だと思う。 

 

 

・気に入らない人は小児に反応しているような気がしますが、きっぷの料金表示が大人と小児なので、それを言っているんだなとわかる人はあんまり違和感を覚えないような気が。 

違うところから連想しちゃってる人が過剰反応とか、私は小児ではないと変なプライド拗らせた人が面白くないと感じているのかな。 

デザインや発想はとても面白いと思ったので、勿体無いなと思います。 

 

 

・このような事案が問題になる理由が分らない。 

 

この広告に悪意は感じられない。むしろ、個人的には微笑ましい感じを受けた。不快な思いをされた方も中にはいるだろうが、万人にとって、快いものなどどこにも存在しない。芸術作品のみならず、創作物は必ず誰かに批判を受ける。特定の対象に向けた差別表現でもないだろう。 

 

重箱の隅をつつくような批判は、創造性の発揮やインスピレーションの具現化を阻み、新しいアイデアを潰す事にもなりかねない。ちょっとした、ユーモアさえ許されなくなってしまう。 

 

表面のみの言葉尻だけを捕えて、その背後にある真意を読み取る努力を怠ってはならない。 

 

公権力ではない、匿名の批判が、一種の「検閲」に発展する危険性を孕んでいる。 

 

「暴走する正義感」がこの事象には見え隠れする。 

 

 

・今回の記事の内容とは関係無く。 

誰もが簡単かつ気軽に様々な意見を発信出来る世界は確かに良い事も多いが、それだけ批判的な意見をもらう事も多くなるわけで… 

批判的な意見をなるべく貰わない様に注意するあまり意見や発信をしなくなったり、当たり障りのない内容になっていったりする個人や企業も増えているのかな。 

逆に自由な意見や表現がしにくい世界になっている気もする。 

 

今回の記事の件で言えば、一部に批判的な意見が来るのは承知の上で、ポリシー持って出した広告なら撤去はしない方が良かったのだと思う。 

安易に撤去してしまうと広告に対する明確な信念や内部チェック体制が無かった事が露見してしまい企業イメージがマイナスになる。 

 

 

・ずっと小児なのは異常だというけど、人間は必ず「誰かの子供」として生まれてくる。親にとって我が子はずっと子供だから、「うちの子はすでに成人しているので、私の子供ではありません」って方が異常。 

 

違和感を覚える人が一人も存在しないデザインは訴求力のない誰の目にも止まらないデザインなので、「違和感を覚える人がいるデザインは存在すべきでない」って発想が主流になるなら、広告業界もデザイン業界も終わるんじゃないかな。 

 

 

 

・ひとそれぞれ感じ方が違うことは理解できるが、 

あくまでも広告であり悪気があるとも思えない。 

これだけではないが、現在の日本人は本当に許容がない 

人が多くなった気がします。 

世の中に不満がある人が八つ当たりしてるようにも思える。 

こんな日本になった原因を考えてほしい。 

特に若い人はまだまだ人生長いです。 

選挙なり政治に興味を持って少しでも余裕のある世の中に 

なるようになってほしいものである。 

 

 

・ネコの絵が描いてあって可愛い~と思う人もいれば、ネコ嫌いだわ~と思う人もいる。それって当たり前のこと。世の中全部のことに賛否あると思う。それなのにいちいち撤去したり謝罪したり…必要ある?? 違和感があるというのは自由。それにいちいち対応しなくていいと私は思う。 

 

 

・どんなに素晴らしい意見や考え方、行動だからと言っても、全ての人が共感することは絶対にないのです。人はそれぞれに生まれながらの個性や生い立ちで捉え方や考え方が違うので、一方では称賛する意見があり、一方では否定的な意見も出るかと思います。今回の場合は僕としては面白い企画だなと思っています。何をするにしても否定される方は必ずいますが、そこで何もしないということを選択されると、つまらない社会になると思います。新企画を起てて次々とチャレンジして欲しいと思います。 

 

 

・どんな内容でも絶対に批判する人がいて 

その批判を拾わなくてはいけない。 

SNSの広がりによって大変な世の中になってしまったと思います。 

 

単純に考えると 「どんな動物も 親がいて 何歳になっても 親から見たら 子ども」って そんなにいけないのかなって思っちゃいますが 声をあげたくなるほど違和感を感じる人もいるんですね。 

 

自分の気付かない考え方を知れるのは大切ですが 

今まで たくさんの時間をかけて 渾身の一作として出した広告が一部の批判で こんな形で 撤去されたと思うと切ないです。 

 

私は素敵だと思いました。 

 

 

・これに「きつい」とか言ってる人こそまだまだ子供じゃないのかな? 

自分が消費者目線で広告に何か感じる事があったとしても、それを鉄道会社、あるいはデザイナーやディクター側の視点になって、意図やスタンスを考えると、ターゲット層や流行りや時事ネタとの関連なんかに気づけたり、面白さがわかるとおもうんですよ。 

TVCMでも、昔はよくその時代よりも随分古い曲が使われてたりしましたが、自分が大人になると自分が子供の頃に聞いてた曲やアニメのキャラが使われてたりしてテンションが上がったりします。つまりターゲットの層に向けて刺さる広告を作ってるんですよね。 

なんにでも意味があると気づけば、むげに否定して自分の見識の狭さを露呈する事にも恥ずかしさを覚えるんじゃないかなと。 

 

 

・どんなに歳を取ったとしても親から見たら子供は子供です。精神的に幼いだとかそんなこと一言も言ってないし、いちいちセンシティブに反応する人は、何かコンプレックスでも抱えてんのかな?私の両親は既に他界したので母の日父の日は毎年寂しいけれど、この件は微笑ましいと思うくらい。親らしいこと、子供らしい事を、お互い出来るうちにやっておきましょう。命は限りあるものだから. 

 

 

・最近こんなのばかりでモヤる。 

気持ち悪いって投稿する人もいるけど、この広告いいな可愛いなって思った人もいるだろうし、何とも思わない、投稿しない人もいる。 

ハラスメントとかにならないなら別にいいよ。 

ただ生田斗真さんみたいに誰かが批判投稿すると批判意見ばかり増えてるように見えるから企業は当たり障りない物しか作れなくなる…難しいね。 

 

 

・自分自身と異なる感性のものに対して嫌悪感を持ったり、そこ嫌悪感を持ったという感想をSNSに書くのも自由。 

別にヤメろと攻撃してるわけじゃなければ、その人なりの素直な感想であるわけだし。 

そのかわりネガティブな感想を言われた側も、別にそういう考えもあるんだなぁくらいの受け止め方で構わないと思う。 

まぁ極論を言えば、過剰反応するのもスルーするのも企業の自由だから、企業が過剰反応したかったのならそれを止める権利も無いが。世間がそれを求めているわけじゃないって事は、ちゃんと認識して欲しいかな。 

 

 

・なぜ少々のクレームで撤去までしてしまうのだろう。 

違和感を覚えた人が多少いたくらいで、クレーム殺到ということはなかったのではないか。 

人はそれぞれいろんな感性を持っていて、一つの事柄にもいろんな感情を持つ。 

少しのクレームにいちいち対応していては何も発信できない。 

意見を尊重すると言って撤去する方が労力的には簡単だろうが、社会的にはクレーマーを量産することにつながるのではないか。 

 

 

・自由な発言が自由な表現を阻害しているように感じる。多様性は、別の多様性を否定することではなく、それを認めていくことで成立する。だから、否定的な発言があったとして、違和感があったとして、倫理上問題がないのならそのままでも良いと思う。 

 

 

 

・余程、公共良俗に反してない限り広告を撤去する必要なんてありませんね。個人攻撃でもあるまいし。 

 

まるで「腫れ物」に触る様な日本独特の窮屈さですね。その神経症的な締めつけが、次の話題や題材に依っては自分の首を締めるかもしれません。多様性叫ばれてるんでしょ? 

 

いろんな人の意見や価値観を知るんじゃないの?受け入れられない事は鈍感になってやり過ごす事は出来ませんか…。 

 

沢山の事象や言葉に触れ、免疫を付ける事が自分の未来を創ると思います。 

 

 

・ちょっと別件だが、価値観やどういった事を信じるかは人それぞれだが、それらが分からなくなった時、揺らいだ時、現代ではネットであれこれ調べられるようになった。 

 

昔なら親、兄弟姉妹、親友や会社の同僚等に相談していたのが、ネットで正解(らしきもの)を獲得することができるようになった。 

 

最近、1つ思うのだが、例として「こういう特徴の人からは離れた方が良い7選」などの動画を見て、「なるほどな、やはり自分はあの人から離れた方が良さそうだな」とインスピレーションを得ることができるけど、果たしてその7選は本当にこの世の法則と言えるほど正解なのだろうかという事。 

 

万人が見ることができる動画で、万人向けに正解(らしきもの)を公開しているわけだが、、、、はっきり言って、人間関係や人生はそんなに簡単でシンプルなものではないでしょう。 

 

何よりも”自分で考えて行動する力”を身に付けることが大事なのではないか。 

 

 

・記事を読む限り駅での広告ということを踏まえると面白いものだと感じました。どんなによいものでも批判は一定数あります。母の日に感謝をするのは子どもです。年を重ねようが社会的地位が高くなろうが親から見れば子どもは子どもです。ずっと子どもです。子どもという立場でなければ親孝行はできません。人によっては小児という表現に対し小児科、小児性愛などネガティブな印象を抱いたのかもしれません。今回の件に関しては企業側は自信を持って掲載し続けてもよかったのではと思います。 

 

 

・私には子供がいないですが、とても良いセンスだなと思いました。 

毎週末会うほどで家族関係がいいからかもしれませんが、とても良いセンスに感じます。 

世代なのでしょうか、それとも違和感を感じられる方は家族関係があまり良くない方なのでしょうか…。 

忘れていたわけではないですが、日曜には何しようかなと再度考えさせられましたね。 

こんなに良い広告を撤去するのはもったいないなと思います。 

家族や友人、一緒に過ごせる時間は有限なのですから大事に過ごしたいものですね。 

そう再認識できる広告ではないでしょうか。 

 

 

・あの広告に騒いでたのって、子なしの人が多かったと思う。 

我が家にも子供が数人居るが(大きい子でも小学生なのでまだまだ手がかかる年齢だけど)、もしこの子達が大きくなってそれぞれ一人暮らしをしたり結婚などで家を出て行ったらとても寂しいと思う。 

それでも近くに住んでたらいいけど、遠く離れた土地で仕事を頑張っててなかなか会えない親子もありますよね。 

親からしたら成人したって、家庭を持ったって、いい歳した中年になったって可愛い我が子に変わりは無いと思う。 

たまには帰ってきて子供に戻って世話を焼かせてほしいだろうし、会いに来てくれるだけで凄く嬉しいと思う。 

昨今の「SNSでちょっと炎上したから撤去しました」みたいなのはやめてほしい。 

そりゃ誰が見たって非常識な物ならともかく、万人が納得する物なんて絶対出せないんだから。 

とってもいい広告だったと思うので、クレーマーをのさばらせるような事はしないで。 

 

 

・私は独身で子供はいませんが、親にとって子供は何歳になろうがおんぶや抱っこをしていた小さい頃の記憶が強いのだろうと想像できます。親にとって子供はいつまでも子供ですよ。そこを運賃の小児料金とかけてのコピーライトでしょうに。 

きっと殆どの人はこう理解しているでしょうが、その理解に及ばない人、反射的に文句を言ってしまう人。深く考えた末、嫌悪感を抱く人、もちろん色んな考えがありましょう。 

しかし、それらほんの少し声を掬い上げて対応する事が果たして多様性や配慮なんでしょうかね。 

なんかよくわからないです。 

 

 

・不特定多数の一般に向けたコピーに自分の感情を重ね合わせて違和感を感じる人がいる、それをSNS等で口にするということに驚きます。 

人生色々、母親も色々、親子関係も色々、毒母がいて子どものいない私には母の日は関係のない日ですが、この広告を見て不快だなどと全く思わない。大切にすべき母、感謝すべき母のいる方、子どもに好かれ感謝されるお母さん方は、大いにそれを享受してほしい日です。 

 

 

・嫌な世の中だな… 

さまざまな表現の裏側にある物語に想いを馳せるというか、想像するというか。そういうことをしなくなる物の見方しかできないと、非常に狭い世界になる気がします。 

想像することを面倒、手間、時間の浪費と思わず、いろんな角度から見てほしい。 

二児の父親になった自分も、この広告は素敵だなと思いました。いくつになっても、自分が実家に顔を見せるだけで、嬉しそうな顔をする両親を見てると、まさにこの広告どおりなんだなと、思いました。 

 

 

・この広告の何が悪いのかわからない。 

どんな人がそんな事言うんでしょう。 

今は結婚したくない人、子供が欲しくない人がいますが、子供が授からなかったりといった事情がある方もたくさんいらっしゃると思いますが、親にならないと解らない事ってたくさんあると思います。学校へ行かせてもらえるのが当たり前、お弁当作ってもらえるのが当たり前、お小遣いを貰えるのが当たり前だと思っていた自分がなんて子供だったのかと、親になって初めて感じました。私はこの広告、とてもユーモアがあって、可愛いと思いました。この広告を考えられた方々はこのコメントを気にする事なく、これからも素敵な広告を出していただきたいと思います。 

 

 

・これは実際の広告の絵も見たが、ずっと小児の表記や矢印がハートになっていたりと母への感謝よりも母の親心を逆手に取ったような子供の驕りとも思えるような見え方になっていた。 

子供に「帰ろう」とか鉄道利用に関する言葉に掛けて色々やろうとした狙いは分かるが、肝心の伝えたいメッセージが正しく伝わらない結果になったという印象です。 

 

でもこの広告を見て子側も帰ろうかなと思った人もいるだろうし、母側もこの広告で子供に会いたくなったという人もいたと思う。 

広告の伝えようとしているポジティブなメッセージだけ受け取っておいたら自分としては良いと思います。 

 

 

 

・親と子の関係は千差万別。 

毒親という本も出ていますが、全ての親子関係が成熟した関係に至っているとは限らないという事だと思います。 

 

子どもの頃から、親孝行を無意識に刷り込まれ、親からの抑圧などに苦労した人にとって、この広告は苦痛と感じたかもしれません。 

いや、もしかすると、親孝行を無意識に刷り込まれたような人たちによって広告が作られたために、その献身的な表現に違和感を覚える人の反応を引き起こしたのかもしれません。 

 

いずれにしても、広告は人の心を動かして何らかの効果を得るのが目的なので、広告の内容については広告を見た人々の深層心理にまで様々な想像を巡らせるべきであって、人心掌握をし損ねた広告は、広告費を出した広告主には酷な話ですが、失敗広告と捉えるのが妥当だと思います。※「失敗は成功の母」との希望も込めて。母の日広告だけに。 

 

その意味で、広告代理店はよく選ぶべきだと思います。 

って気が。 

 

 

・今日のベストマザー賞の記事に以下のようにコメントした。 

 

子供にとっては、ベストも何もただ一人の母親。 

私のベストマザーは私の母です。 

 

母の日や父の日に合わせて実家に帰ることは無いが、実家に帰れば両親の前で私はずっと子供のまま。 

子供という単語を、甘えと変換した意見が多いように感じたが、両親の前で子供であり続けることは、信頼と変換すべきことのように思う。 

 

 

・この件で問題なのは、広告そのものではない。 

SNSなどで少数のクレームを入れた人に、広告を出してる企業が反応して広告を撤去した点だ。これは過剰反応だ。 

 

このような過剰反応の例は数え切れないほどある。 

過剰反応を無くすにはどうすれば良いか?-これを議論して解決策を見いだすことが緊急で最重要な課題だ。 

 

 

・昨今は少数の意見だけで何かが変わって 

しまったり禁止になったりと 

過剰反応だと感じます。 

嫌なもの嫌なことは誰でもあると思いますが 

言った者勝ち的な批判や風評になるのは 

寂しいと思います。 

テレビの放送もコンプライアンスとか言って 

同様になってる先駆けだとも感じております。 

このまま同じ様な事が増えて続いて行けば 

つまらない世の中になってしまうのでは 

ないかと考えてしまいますね。 

 

 

・母にとって、我が子はいつまでも子供もなのだと思います。 

 

実家に帰ると、母は妹が脱ぎ散らかした服をどこか楽しそうに片付けていました。床の上で寝てしまった兄に小言を言いながら、甲斐甲斐しく布団をかけていました。 

 

妹は普段はきっちりした一人暮らしをしていて、脱ぎ散らかすことなんてありませんし、兄も普段は昼寝なんてしません。2人ともわざとやってるんだなとわかって、微笑ましくなりました。 

 

母の笑顔のためにこどもが子供に戻る。 

それも親孝行の一つになるのではないでしょうか。 

 

 

・100人いたら100人に共感を得られるなんて不可能なんだから、撤去する必要はないと思います。色んな考えがあるのは当然で、違和感を感じたりする人がいるのも自然だと思うし、そう感じない人がいるのも事実なので、多様性というのなら、みんなもう少しそれぞれに寛容になるほうがよいと思います。 

 

 

・匿名で批判やクレームを言う人の意見は受け付けなくていいと思う。参考程度までにイチ意見として聞いておいて、アイデアを出した人、そのチーム内で心に留めておけばいいんだと思う。なんでも少数の意見が通ってしまう世の中は良くない。結局、万人受けの広告なんて無いんだから。見る人、聞く人の理解力が欠けてきてるんじゃないですかね。我慢ができない人も多くなってきてる気がする。 

 

 

・ずっとお母さんの子供だよね 

 

子供がお腹にいる時から時からずっと心配ばかりして、産まれてからも夜中に息してるかとか不安で(双子だったのにバニシングツインで片方の子を亡くしたのと、周りで乳幼児突然死症候群で亡くなった子がいた) 

母にこの心配はいつまでかねぇってぼやいたら 

 

一生よ・・・ 

 

って言われたのを思い出したわ。 

今反抗期に差し掛かってガタイが良くなって、お髭なんて生えてきちゃってるけど、 

もう1人もなかなか生意気でオシャレに余念がないけれど、 

一生お母さんで子供なんだよね。 

まぁ小児ではないけど(笑) 

気持ち小児?元小児? 

文字数の問題なだけで別にいいと思う 

小児が子供より幼く感じるから違和感があるのかな 

 

 

・駅であることと母の日とうまくかけたかった広告プランナーの気持ちはわかる。クライアントも広告会社も担当者ベースでは出来に満足感はあっただろう。ただ「小児」という言葉の持つパブリックイメージの一片に、やや嫌なものがあったのだろうと察することはできる。担当者ベースでは「うまくいいたい」という方向に思考が向かっているので、そういう視点で気づきがでにくい。わざわざ、切符以外のテキストには「こども」と書いているわけで「小児」という表記が持つ特殊性(鉄道業界でのいい意味での)は理解できていたのに、という。作り手としては難しいところですね。 

 

 

・すごくいい広告だと思う。 

CMとかだって賛否は別れる。一般的に受け入れられているCMでも個人的にすごく不快なことは私自信ある。だけどそれを公の場で否定しようとは思わない。今の時代明らかに不適切な表現はあるけど、この広告を否定する人はクリエイターが、企業が不適切な意味を持ったメッセージを発してると思ってるのでしょうか?受け取る側の問題だと思います。 

 

 

 

・私も親であり子でもありますが個人的には ずっと小児 は確かに違和感ある。何故なのか上手に説明できないが 小児 と言う単語のせいなのか、、分からない。でも撤去しろだのとは全く思いませんよ。むしろ素敵なアイディアの広告だと思いますけど。 母の日だな~母に日頃の感謝を伝えよう、くらいの感想。そんなにたくさんクレームとか来たのでしょうかね。沢山の時間や労力をかけてアイディアを練りお金をかけて広告にしてすぐに撤去とは気の毒。 

 

 

・この広告のどこがいけないのか分かりません。 

何でもかんでも噛みついて、きもいとか、違和感とか言ってる人たちの方が違和感でしかない。 

母と子は永遠の絆です。 

我が家は妻が若くして他界したので、父である私でさえも母性が芽生えました。 

しかし母にはなれません。 

この広告は永遠の絆を表していると思います。 

 

一つだけ気になるのは「小児」という文字かもしれません。 

鉄道切符を模索するので仕方ないかもしれませんが、 

「ずっと小児」ではなく「ずっと子ども」の方が良いのではと思いました。 

 

 

・捉え方は様々だと思いますが、広告主も100%全ての人に該当するとは思ってないと思いますし、そんな事は不可能かと。 

大多数の人にいいねがもらえれば広告としての役割は果たせる訳で。 

違和感を覚える人が居たとしても直接その人に被害を意図的に与えた訳ではないのだからわざわざ撤去しなくていいと思います。 

そんな事をしてたら誰も何も出来なくなります。 

昨今良く言われる多様性の意味を理解した方がいいですよ。 

他人の事には無関心を装っているのにSNSでは  

平気で人を傷付ける様な事を発信するのもいかがなものかと。 

簡単に言えば別に気にしなくていいと思います。 

 

 

・おそらくね、自分の子が大学や社会人になるときに家を出た時までが、親が覚えている子の姿なんですよ。 

そのあとは帰省などで帰ってきたとしても、同県でも離れて暮らしている場合は会えるのは年に数回、距離があれば数年に1回の時もある。 

子が家を出てから結婚や出産などがあったとしても、別居の場合は会える頻度が少なくなるので親が知っている子の今に違和感を感じる人もいると思う。喜ばしい違和感ではあるんですが。 

だから、母の日は子として母に接してあげても良いんじゃないかな。 

年数を重ねておじさんおばさんになった年齢でもさ、子は子なんだし。 

そしてうちの祖母の場合は痴ほうになり、孫だった我々の年齢は高校生の時の年齢で止まってた(笑)母の年齢もだいぶ若いころの記憶で止まっていたので、子や孫が何歳になっても、親が持っている子の記憶って特に手を焼いたときの年齢が大きいのかもしれない。 

 

 

・私は大好きな父を12歳の時に亡くした。 

つらくて悲しくてたまらなかったけど、同級生や親友の元気なお父さんを羨ましいと思ったことはなかった。 

大切な、大好きな人は私のお父さんただ1人だからだ。いつもそれからずっと、今でも父のモノクロの写真を持ち歩いている。 

それで十分だ。 

母は反して毒母だった。金に目がなく、母の日に高価なものを買い与えないと「こんなもの」と鼻であしらう人だった。 

それでも最後の日まで私はできうる限りのものをプレゼントした。 

今はその母もいない。 

私に家族はいない。 

おまけに慢性疾患持ちであり、コロナ禍にがんになった。 

そんな人生でも他人と自分を比べて私は不幸だとか、あの人は羨ましいと思ったことはない。 

すべてを受け入れようと思っている。 

なぜなら大好きな父はそんな人だったから。 

父のように生きたいと思ってこれまで生きてきた。 

 

 

・なんでもだけど、ネット社会でのコメントって無責任な発言が多々見受けられる事は有るし、必ず批判コメントしてる人も一定数存在してるのが確認出来る。 

 

誹謗中傷する人って何目的何だろうね、この報道内容も「これってキモくない」みたいに共感を集めたい人みたいだし。何か注目して欲しいのか… 

逆説的に見たら寂しさを紛らわせてる人なのか。 

 

本当に情報が簡単に独り歩きする社会に於いて、いい意味で訓練された揺ぎ無い信念が企業にも個人にも問われてる時代になった。 

 

 

・自分に命を授けてくれた母に感謝することに違和感ということ? 

申し訳ないけど、それには賛同できないや。 

 

私の母(父も)は未だ健在ですが、確実に年老いてきました。 

私は親元を離れているため、会えるのは年に数回帰省する時のみ。 

 

もう、両親と共にできる時間も限られてきていることを実感します。 

 

なので、一緒にいられる時間はちゃんと感謝しようと。 

少し遅すぎる気もしますが。 

 

今の自分があるのは間違いなく親のお陰です。 

 

その気持ちだけは私が死ぬまで忘れたくないなと。 

 

別にお気持ち表明は勝手だが、 

関係ない人を巻き込むなと。 

 

 

・人それぞれ 同じ物を見ても感じ方は違う。違うけど親が子を思う気持ちは1ミリの汚れもないただ愛おしいという無限の愛です。特に母親はお腹の中にいる胎児の頃から産まれ出て20歳になろうと30歳になろうと子供は子供。1人の人格を持った人間なんだけどその人格を尊重しつつもその存在が限りなく可愛いのよねー!私の息子も娘も結婚して相棒がいるから なかなか会えないけど たまに会えて話したりご飯を作ってあげて「旨っ!」って言ってくれるだけで母ちゃんハッピー! 

孫もとーっても可愛いけど息子と娘は100倍可愛い🩷 

 

 

・賛否とありますけど、一般論として賛成派のアクションは薄め、否定派それは濃いめというのがありますよね。この広告についても街角で見かけてこれは良いなと思ったとしてもそれを賛辞する投稿というのはそう多くはしません。一方良くないと思った時は割と積極的に批判を書いたりします。なので結局、賛否が同数程度であったとしても批判の声の方が大きくなるわけです。これが世間津々浦々で顕在化しているのがクレーム社会というやつなんでしょうけど、それが表現の自主規制を誘発して結果息苦しい社会へと繋がるわけですよね。かといってこの事例で撤去をしない勇気を振り絞ったところで、それがさらなるクレームを誘発するでしょうしこの判断を非難なんてできないでしょう。本当、変な世の中ですよね。 

 

 

・企業側がレピュテーションリスクに過敏になりすぎというか、そういう時代になってしまったことをとても残念に思う。 

SNSに投稿されることで批判が批判を呼び収拾がつかなくなる前に撤収・・・ということかもしれないけど、逆にそうした声を認めることになるわけで今後の活動もしにくくなるのではないか。 

 

 

 

・何が違和感なのかさっぱりわかりません。 

子供に帰ろうとかっていうのは例えなだけであって、50や60になってバブバブ〜とかやってるわけではないのは誰しもがわかること。 

私も親で成人した子供がいますが、子供はいつまでも子供だし、私自身、もう親は亡くなってしまいいませんが、こうしていい年になっても母を思う時の気持ちは子供のままです。 

JRとしては、商業施設でプレゼントを買って電車に乗ってお母さんのもとに駆けつけてもらえたら最高だけど、それができなくても、母の日近い今日この頃に子供の時と同じ気持ちでお母さんを思ってみては?というようなことを表現したかっただけだと思います。 

東京駅という象徴的な場所で、母親のことや守られていた子供時代を懐かしく思える良いコピーと思いますけどね。 

なのに言葉尻だけ取って、難癖つける人たちは、そういう行間読みができない人なのかな?と思ってしまいます。 

 

 

・なんやろ、わざわざ文句を言う気もないけど『お母さん』側の立場で見ても『はあ』としかならず嬉しくはない。『子供』側にしたっていつまで小児の気持ちとか気持ち悪い。大人として親を労いたいし感謝したい、成人した子供もしっかりしてくれる方がありがたい。親として子供をあれこれ心配するのは親心だけど、大きくなった子供に小児を求めてるわけじゃない。 

でも、これを作った人はいまだにお母さんに甘えたいんだな。不可逆だからノスタルジーを感じさせられると思ったが、きっと予想以上に子供がまだ親に世話になってる人が多いのかもな。貧乏だとそうなのかもな。 

 

 

・おもしろい企画だし表現も問題ないと思う。切符の些細なところまで徹底されていて、完成度の高さを感じる。 

「ずっと小児」の何に違和感を覚えたのか?非難する人は大人になれない自分にコンプレックスを持っているのではないか? 

どんなに良い宣伝でも悪く言う人はいる。ネットのマイナス意見があったらすぐに取り下げるのではなく、その理由をしっかり聞いて判断する姿勢を宣伝もとには求めたい。 

 

 

・私はこの広告を見て小児っていうのは親元を離れたお子さんって認識だったのですが、クレームを入れた人のポストには「小児帰りした成人の息子が」と書いてあって、そもそも男性限定の広告なの?って驚いた。 

地方の人間なので東京の事はよくわからなかったので掲載元のグランスタ東京のホームページを見たけれど、別に男性限定の施設ではなさそうだし…。 

 

このクレームを入れた方がちょっと独特というか、拘りの強い人みたいで、変な人に絡まれて対応に追われちゃって可哀想…とすら思えました。 

 

 

・いくつになっても親子は親子、という意味であることは明白で、年齢を重ねるほど実感することです。子供の立場で自分から親を見た時も、逆に親の立場で自分の子供を見た時もそう感じました。 

これに反応した人は、「小児」という言葉が親子の関係というより年齢そのものを示すので、「大人になれない人」というようなニュアンスを感じ取ったのかなと思いました。 

 

 

・極わずか、少数でも批判やクレームは大きく聞こえるものです。 

何故ならその反対である肯定意見は、わざわざ声に出さないから。 

おかげで批判ばかりが取りざたされて、メディアも言いがかりような批判やクレームを、あたかも正論であるかのような報じ方をする。 

それもまた問題のような気がします。 

 

昔の広告やCMはもっと尖っていたりユーモアに溢れ、特にテレビCMだけ見ていても面白いものでした。 

それが今はどうでしょう。 

ユーモアの欠片もない説明書のようなCMばかりで、見る気にもなりません。 

これは企業的にもマイナスになるのではないでしょうか? 

せっかく大枚をはたいて制作したCMも、面白みも味気もなく、記憶にも残らないし話題にも上らない。 

挙句録画してCMカットされるか、クレームによってお蔵入りなんて何の得にもなりません。 

批判上等とばかりに、信念を貫くクライアントはいないのでしょうかね。 

 

 

・こういう時に、管理職の力量が問われると思う。 

これでよいと判断をして出したんだから、意見をいただいても問題ないと判断をすればよかった。 

管理職なんだから、自分たちのチームの感覚をもっと信じて行動してほしい。 

 

 

・戦略コンサルやってます。そもそもこれマーケティングとして成り立ってないんですよ。「ずっと小児」って意味がわかりません。大人が子供の頃に戻ったら贈り物をするってこと?普通は子供時代は親に迷惑をかけたり、反抗期で苦労させたりで、申し訳なさがあるはずです。その時代の自分に戻ってどうするんですか。普通の一般的な価値観として、大人になってから親のありがたみを知るわけで、その感謝を手土産や贈り物にしましょうっていうのが、これまでの商戦のテーマだったりセールスコンセプトになるんですよ。多くの人の共感が売り上げに繋がるので、この子供返りするキャッチコピーでは戦略ミスです。すでに撤去したとのことでそれは好判断だと思いますよ、ええ。 

 

 

・ずっと小児ってフレーズに違和感感じるって、ただの想像力不足じゃないかと思っちゃいます。他の方も仰っているけど文字のままの意味じゃなくて、子が年齢的に成人して精神的に大人になろうが親にとって子はいつまでも子ども、子どもにとって親はいつまでも親でしょ。そういうことではないの?作った意図と受け取られ方が違ったのならその意図を公表して説明してさ、世の中の人全員から賛同を得るなんて無理だし、これに関しては悪意を含む表現でも何でも無いのだから、このままこれを通す姿勢だってあって良いと思うのだけど… 

 

 

・幸せな母子もいれば不幸な母子もいる。一緒に住んで憎しみ会っている、離れて暮らすけど愛し合っている…。ひとそれぞれです。子供といっても70歳の子供と90歳の母親というケースだってある。痴呆で親が子供を認識していないとか、老々介護に疲れて心中を計画している母子がいるかもしれない。核家族化が進んで久しい超高齢化社会の日本。ずっと小児? ちょっと言葉が違うような感覚は確かにありますね。母の日? 中学生になってからは何かした思い出は一切ありません。だからといって特別仲が悪いわけでもなく。普通の親子関係だったと思います。同じ家族でも姉はカーネーションを毎年死ぬまでプレゼント。本当に個々それぞれです。死んだ時は悲しかったけど、わりと早く天国で暮らしとているという感覚になりました。死んだという感覚は薄くほぼゼロです。そのうちまた天国で会って親子で家族マージャンでもするのだと思ってます。 

 

 

 

・何が問題なのか全くわかりません。 

数年前に亡くなった母とエスカレーターに乗った時に、母が私(40歳過ぎ)の手を握るので「どうしたの?」と聞いたら、「アナウンスで子供の手を握る様に言ったから」と言われたことがありました。何歳になろうとも、母にとって私は子供なんだと感じた出来事でした。 

 

 

・これ、父の日にも同じポスターを出せますよね。 

でも実際に父の日には採用されないでしょう。父の日の広告には「いくつになっても娘です」というメッセージが込められることは稀で、例年ほとんどは「いつもカッコいい、いつもがんばっているお父さん」というメッセージではないでしょうか。そしてこの内容は、子どもや妻を持たないサラリーマンであっても言えること。いつも頑張っていてカッコいいと。 

ここから分かることは広告上、父の日の主体は父であり、母の日の主体が子どもまたは子どもと紐づけられた母であるケースが多い、ということ。 

今や男女が同じように稼ぎ、同じように家事育児を分担するのが主流ですから、SNSを通じて近年の女性たちはその不当な差異に違和感を持ち、訴えているのでしょう。 

 

 

・世の中にはガチでずっと小児な知能の障害を持っている人がいて、そんな子供が30を越えてもずっと世話をし続けている初老の両親もいたりする、と言うかそれで倒れてしまった知り合いが実際にいる 

そういう人にとっては結構キツい表現かも知れないとは思うが、そのレアケース以外での違和感ってなんなんだろう? 

いつまで経っても母と子供って関係も尊いものだと思いますけどね 

 

 

・この広告は郷里の母親が誇りに思う子供を想定して作ったのだと思います。一人前の大人になり日々仕事に忙殺される毎日。母の日位はグランスタで土産品を買って郷里への列車に飛び乗ろう。 

どんなに立派な大人になっても母親から見たらいつまでも小さな子供であり心配しているのだから。今の日本は豊かに成りすぎて自立出来ない子供のままの大人ばかり。ずっと小児の言葉からはそんな人間の引き起こす身勝手な犯罪や事件を想起してしまうのだろう。若しくは不甲斐ない自分の姿を思い起こして不快になるのかもしれません。 

 

 

・今年50です 

若い時は楽しいことを求めて遊んでばかりで、父の日や母の日なんて、気にしてなかった 

15年くらい前、つまり35歳くらいから、父母に欲しい物を聞いてそれを買って、父の日母の日それぞれ近い日に実家に帰って「ありがとう」って渡してる 

 

ここ5年くらいは、父や母が歳取る毎に、自分が歳取る毎に 

「子供として親と関わりたい」 

(甘える、という意味では無い) 

と思う気持ちが強くなってる自分が居る 

 

“ずっと小児”という表現自体には 

「ずっとこども(子供)」 

の方が親近感あるんじゃないか、と思うが、企画そのものはイチャモンつけるようなもんじゃあないと思うけどな 

 

 

・誰かが何か発信する度に、批判せずにいられない人の目的は何だろう。 

その批判を受けて取り下げられるとかで何か達成感でも感じてんのかな。 

 

今コンプライアンス等に反することを取り巻くことが厳しくなってるのはとてもわかる。 

でも、万人が納得するとか満足することなんてないに決まってる。 

 

明らかな差別とか貶める行為は叩かれても仕方ないと思うけど、日常的な発言を誰かが面白くないと感じたとて、謝罪したり取り下げたり、そんなこといちいち構う必要はないんじゃないのか。 

 

真意が伝わらないとしてもそう受け取る方の問題だし、説明や弁解も不要だろ。 

 

 

・皆が表現を想定通りに受け取ってくれるというのは幻想だね。 

直接的な意味でしか理解できない人は結構多い。うまい事言っていても、それを理解できなければ面白く見ることができない。 

舞台や映画ならばそれで良い。意味がとれる人が見るわけだから。 

ただ、誰もが目にする場所の表現には、意味を取れない人からの想定外の反応があることは、あらかじめ想定しておかねばならないのだろう。 

世の中、それほどに洗練された知性で構成されているわけではないのだから。 

 

 

・広告出す方がもっと堂々として良いと思う。 

差別や権利侵害に当たるものではない事が明白だし、長い時間掛けられて多くの社内を説得して通した企画が余りにも簡単に撤回させられるのは、広告主にイマイチポリシーが無かったのかと思ってしまう。 

こんな事にクレーム付ける者が1番下らないのだが、広告出す方も気概持って出して欲しい。 

でなければ今度とがった、目を惹く面白い広告が出て来にくくなると思う。 

 

 

・撤去された広告の画像を拝見し、私は意見を入れるほど悪いとは思わず、寧ろホッコリ温かい気持ちになりました。切符にされたのもホッコリポイント。それぞれの感じ方なので、違和感意見を入れた方を悪くも思いません。ただ、主催者側ですぐ撤去せず、動き出した以上、自信を持って貫いて欲しかった。撤去が速かったのは主催者側でも賛否両論出て揺らいでいたのかな。 

 

 

・感じ方は人それぞれだし、企業の戦略もあるから早めの撤去は分からなくもない。なぜ早く撤去したのかという質問に対し、一部の人からの違和感という強い意見が理由の一つ、と回答しているけれど、それが全てではないだろうし。 

 

これまで広告として普通に展示されていた訳だし、母の日まであと数日だから少し早めに終了した、という対応をしただけでは。メディアに出た事で広告をしなくても露出度増えたからむしろしたたかではある。 

 

なお問題の「ずっと小児」だが、なぜ「子ども」と表現しなかったのかは確かに不思議だけど。辞書的に言うとへりくだった、もしくは相手を見下したニュアンスあるしね。「ずっと」「小さい」「子ども」なので幼いイメージで強調されてるからなぁ。親子関係はどちらかが頼る、永続的な関係ではないはず。 

 

 

 

・「ずっと小児」という表現は違和感を覚えるというか、「小児」という表現で「こども」を表現したこのキャッチを考えた人のセンスに違和感を持たれたのかなと思う。 

 

親が仕事を辞めてから、旅行や外食は全てお金は出しているし、その頻度も上げている。見てて、年々弱ってきているのが判るし、言い方悪いが、あと何年、あと何回一緒に旅行に行けるのだろうと思うくらいである。とはいえ、あと10年以上は大丈夫そうで、旅行には連れていけそうだが。 

 

実際、父親が亡くなって、あとは母親だけになってから、実家もそう遠くはないので、実家に帰る頻度も上げている。自分の子どももおばあちゃんに会えることを喜んでいるし。 

 

「孝行のしたい時分に親はなし」ということわざがあるが、孝行をいくらしても足りない感じがしてならない。考えたくないことだが、その時がいつきても、もの凄く寂しい。 

 

 

・小児というのは、主に医療と交通社会で使われており、社会的にいう子どもの呼び名。でもその呼び名を親は使わない。親にとって子どもはいつまでも子ども。小児とは呼ばない。社会的にいつまでも子ども(親離れできていない、幼稚etc)と誤解されるため、小児という言い方が、賛成されなかったのではないでしょうか。 

 

 

・小児=小さい子というイメージと 

切符の分け方が大人と小児が合わさったことで 

切符を知っている人なら 

小児料金に違和感は無いけど 

知らない人から見たら 

ずっと小さい子ととらえてしまうから 

気持ち悪いとか、ネガティブな印象を受けたのかな。 

 

今はICカード利用者も多く 

切符を使った事が無い人も多いので 

切符の料金分けに忠実にしないで 

小児ではなく子供でもよかったのかも知れないですね。 

 

全ての人に理解してもらうのは難しいですね。 

 

 

・一生子どもだし一生親なんだしいいとおもうけどな。子どもじゃなくて小児にしたのは切符だからだろうし…。 

批判があるとすぐ撤去したり変更したりするけど負けずに貫くのも大切だとおもうんだけどな。支持してる人が大半で、批判の意見が少なかったりめちゃくちゃな意見だったりしたら「協議した結果続けます」みたいのでいいとおもう。 

 

 

・女性と男性で母との関係性って違うから、 

そこが反応の違いに繋がったのかな。 

 

大家さんが家賃滞納した女性に「お父さんに連絡します」といっても効果はないけど、 

男性に「お母さんに連絡します」と言えば「それだけは勘弁してくれ」と言って払ってもらえると言いますし。 

 

男性目線でのお母さんの特別感って、女性のそれとは何か違う。 

 

最初に文句言った人も、きもくない?という感想であってJRに良識がないとは言ってない。 

この男性向け作品、あるいは男児を育てるお母さん向けの作品が、 

それ以外の女性たちに向いてないというか、合ってないだけ。 

 

私は母とめっちゃ仲良しで電話もするし地元でお買い物も一緒にするけど、 

この広告は男性向けだなと思った。 

 

ただ私のような女性向け広告は、一緒に旅行に行った写真とかになりそうだし、 

そうなると男性にとっては再現性に欠けた作品になるから皆にとっての100点はなさそう 

 

 

・別に本当に子供に戻るわけでもバブバブの赤ちゃん語でママに甘えましょーってわけでもないのだし、別にそこまで目くじら立てなくてもいい気もするけどね。 

母にとっては子供はいつまでも子供なんだろうし、いつか一緒に電車に乗った時の、小児料金の子供と大人料金の親って景色を思い出す一端になればいいんじゃないの? 

母の日くらい、大の大人が親に「かわいい我が子だったあの日」を思い出させてあげてもいいんじゃないかと思う。 

 

 

・別に撤去すべきとは思いません。ただ、いい広告とも思いません。母目線で見て、子どもはいくつになっても子どもというのは分からなくはありません。ただ、母の日は子が母親に対して感謝を捧げるという趣旨である以上、母の日に「ずっと小児」と宣言する主体は普通に考えれば子の側でしょう。また、生んでくれてありがとうという事を表現したいのであれば「小児」というのはピントがずれていると思います。となると、娘・息子が母親に向かって「私は小児です」と宣言していると解するのが一番自然です。母親が良い年した子にそれを言われて嬉しいか、また子として親に「私は小児です」と言いたいか。嬉しい、言いたい、という人もいるでしょう。が、げんなりする人も相当にいるでしょう。広告など山ほどありますが、個人的に、この広告にはかなり嫌悪感を感じました。そういう人が広告を出し続けるか検討しなければいけないほど多かったのでしょう 

 

 

・近年は母の日が終わると仕方なくくらいな父の日商戦の広告も目にするようになったけど 

専業主婦が多かった時代に帰宅すればお母さんがいるならまだしも 

これもまた昭和の負の遺産的なイベントかもしれない 

 

 

広告やイベントではなくて 

カレンダーの隅に小さく書かれてるのを子供が気づいて花の一輪でもくれるほうが全然嬉しいかな 

 

 

・差別的な表現や個人や企業を攻撃するような表現は問題ですが、これに関しては広告クリエイティブとして成り立ってると思う。SNSが普及して一部の声があたかも大衆の声かのように聞こえてしまう現代で、広告に限らずクリエイターが表現することを制限されてしまっているように思う。100人に100人が気持ちいい表現なんて存在しないし、見た人全員が賛同しなきゃいけないの?もう何も言えないよ、、そんなんじゃ面白くもなんともないです。 

 

 

・母の日も付け加えてってことかもしれませんが、うちは父子家庭で、子供は11歳ですが母親だった人のことは虐待もあり、子供は、親じゃない!と言います。 母を強調したいのもわかります。 これは個人で捉え方が違うのかなぁと思います。うちでは祖母の日みたいになってます。祖母の誕生日も近いので誕生日、祖母の日みたいに一回で家庭内イベントしてます。 

 

 

 

・こんな事にわざわざクレームを入れるなんて何かしら心に問題があるんだろう。余裕がないんだろうな。 

 

子供に帰りたくない、帰りたくても帰れない。 

今、私は子育てでノイローゼ、鬱なのにずっと子供なんて何言ってるの??そういう心理が働くのかね。 

ネグレクトなどで、幼少期にトラウマがある人や子育てで疲れてる人には不快を感じたのかも。 

 

このニュースを見ると母親にも父親にも感謝だよ。 

母親との喧嘩や対立の時には必ず父親が仲裁に入ってくれたし、知らないところで母親を支えていたんだと今になって気づく。 

勿論、母親1人、父親1人でしっかり育て上げる女性も世の中には沢山いるだろうけどね。 

 

……まぁ、自分は確かに今も迷惑をかけっぱなしなので、もう十分!って言われそうだけどね。 

 

 

・広告でしょう。新しい視点で面白いし、考えさせられる。何をやるにしてもクレームをつけたがる輩はどこにでもいるし、そんな声なんて無視して、堂々と広告を掲出するべき。企業側が自信を持って捻出したコピー、ビクビクせずに堂々としてればいいのに。本当につまらない時代になったと思う。クレームをつけることで自分を正当化して足を引っ張る。心に余裕がないんだろう。 

 

 

・いくつになっても親だし、子だから… 

別にいいのではないですかね、、 

昨年、親を亡くしました 

ベッタリしていたわけではありませんが、 

一周忌が終わり心にポッカリ穴が空いています 

何があっても私の味方になってくれる人たちがもうこの世にいないんだというのが時間と共に身にしみてきました 

生きているうちにもっと孝行しておけばよかったと後悔があります 

こういうポスターを見て、孝行しようと思う人がいたらいいなと思いました 

 

 

・駅らしい、素敵な広告だと感じました。切符だからこそ小児という記載がまた不自然でなくいい感じに思ましたが、そうでない方もいらっしゃるのですね。素敵なだぁと思う意見もうあるので、少数派だけの意見で撤去してしまうのは勿体無いと思います。 

 

 

・もうだいぶ大人の私は、子供の頃から母の卵焼きが世界一大好きです。 

自分では何故か同じく焼けないので、実家に行くと必ず、母に卵焼きをおねだりします。 

ありがとうと言いながら食べている時の私は、きっと、子供の頃の顔に戻っているはず。 

デザインしたアーティストさんは、そういうことを表現したかったのではないですか。 

違和感も怒りも何も感じませんよ。 

撤去しなくても大丈夫だと思います。 

 

クレーム言った人たちには、そういう思い出が無かったのでしょうね。 

 

 

・インパクトのある広告!広告としては面白い。 

でも、切符だから「小児」なんだろうけど、「ずっと小児」という表現は気持ち悪い。「こども」というつもりで、インパクトの強さと切符の属性でこの表現にしたんだな、とは分かるけど。 

 

小児というのは、可愛いけど精神も行動も未熟で手のかかる存在で、お世話が必要で。毎日お世話をした人なら分かると思うけど、本当に大変だった。愛しい日々だったけど。 

大人になっても「ずっと小児」ってそんな気持ちでいられると、しっかりしなさい!って思いますね。 

 

 

・企画の意図自体は別に問題ないと思います。 

感じた印象としては「ずっと小児」の表現だけが少し気持ちが悪いです。 

「親にとっては大人になってもわが子」という意味だとは分かりますが、「小児」は小児科など医学的な表現で見かけることが多く、言葉のミスマッチが悪い方に作用している気がします。 

 日本語の繊細で難しいところだなあと思います。 

 

 

・世間には不快感や違和感を覚えるドラマやCMなどたくさんあるではないか。 

「貴重なご意見として受け止めます」という程度で撤去までする必要はないと思うよ。 

犯罪や差別を増長させるような内容ならともかく… 

母の日だからお母さんは仕事や家事から解放されて子供に戻りましょう。そして子供たちは親孝行しましょうという意図だよね。 

別におかしな内容ではないと思うよ。 

単に不快に思う人がいるからと言ってその都度撤去していたらキリがないよ。 

こんなことをしていたらライバル会社などが意図的に苦情をいったりいたずら目的で苦情を言う人が現れる可能性もあるよ。 

撤去するのも相当な費用がかかるし利益の損失は大きいよね。企画を担当した社員もショックだろう。 

苦情を言う人よりもあまりにも弱腰で事なかれの会社の対応のほうが情けないよ。 

 

 

・ずっと昔の話。大学生になって、アルバイトで現金収入を得られるようになった頃の話・・・ 

 

実家に帰ったときに親がお小遣いをくれようとしたとき、「もう自分でバイトもしているから要らない」と大人ぶって拒否したところ、「今となっては子供にお金をあげるくらいしか親としての努めを実感できないんだから、親孝行と思って受け取っておきなさい」と言われ、そんな考えもあるんだ・・・としみじみ思ったものです。 

まぁ、強がりで拒否したけど、本心が欲しがっていたのをしっかり見透かされていただけなんでしょうけどね。 

 

自分が親の立場になって、子供がどんどん大きくなると、その当時の親の心境がわかるような気がします。 

 

「ずっと小児」に変な捉え方をするのは、なにかひねくれた親子関係でもあるんでしょうか? 

 

 

・なんでもかんでも過剰に反応しすぎだと思います。 

字面だけみて、製作者の意図を読み取れない、理解できない人が増えすぎ。 

そのうち桃の節句、端午の節句も男女差別だ!時代に合っていない!多様性にそぐわない!とか言い出すんでしょうか? 

ミロのビーナスに服を着させるんでしょうか? 

古き良きを理解して寛容になれないものでしょうか? 

周りに気を使う、受け入れる、理解することでかなりすごし易くなると思う。 

なんでもかんでもアップデートさせることは無いと思います。 

 

 

 

 
 

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