( 169496 ) 2024/05/12 15:31:14 0 00 ・法律的な思考の訓練を受けていない一般人(批判しているのではなく、ほとんどの国民が該当)に、有罪か無罪かの判断しか求めない米国の陪審員制度ならともかく死刑を含む重刑の判断をさせようというのがそもそも難しいのでは。また評議でも結局は裁判官のリードに影響されるし、地裁での裁判員裁判の結果が上級審で簡単にひっくり返されるのが現状ですし、「じゃあ何で私たち裁判員があれだけ悩まなければならなかったの」という無力感に苛まれるのも理解できます。
・裁判員制度は、司法制度における透明性や公正性を高めるための画期的な取り組みであり、一般市民が直接参加することで、法律の理解が深まり、判決に対する信頼感が生まれます。また、判決が一般感覚から離れたものになるリスクを低減し、社会全体の理解と信頼を醸成する役割を果たすと言えます。
裁判員制度は、民主主義の発展と司法の公正さを促進するための重要な仕組みであり、国民参加の機会を提供することで、法の正義を実現する上で貴重な役割を果たしています。国民が司法制度に直接関わることで、より公正で信頼性の高い判決が下され、社会全体の法的意識が高まることが期待されます。裁判員制度は、一般市民と司法機関との連携を強化し、より公正かつ民主的な社会を築いていく上で重要な存在であると言えるでしょう。
・かなり多くの人が裁判員になる可能性がある。今月にその知らせが届くかも知れないし、10年後かも知れない。それが届いたら合理的理由がない限り裁判員を辞退することはできない。 事件があって詳細が相次ぎ報道され、「死刑でしょ」「無期でしょ」等と言うのは簡単だが、裁判員として時には人の生死に関わる判断をする責任や重圧、苦悩は、裁判員当事者でなければわからないと思う。 判断の是非について意見するときも表現は節度を特に意識したいとも思う。
・そもそも裁判員制度が必要になっているのは、司法の専門家達が法的解釈しかできず、一般的な感覚で物事を見れなくなっているからなんだと思った。ところが蓋を開ければ裁判員の考えはその司法の専門家達に誘導されたり、ただの参考程度で判決に採用されなかったりと、やる意味が本当にあるのか疑問に思っていた。裁判員のプレッシャーの割にあまり重要視されていないのが現状なのではないか。制度のあり方を見直す時期に来ていると思う。
・被告は軽度の知的障害があり自立生活力が弱く、大変短絡的な思考で犯行に及んだが、同居人の間で感情的もつれが生じ、それを解消するには別居するしかなかった状況。 しかしそれが経済的に果たせないまま、さらに増悪して終に犯行に至った。 被告が同居人に申し出た解決案は、自らの名義になっていた住宅を譲って生活保護を申請したいとするもの。 「原則として持ち家があると生活保護は受けられない」 を承知しての案で、この妥当性を問うべき。 あの住宅は売るに売れない「負動産」で、役所は実際に合わせて生活保護を適用すべき事案です。
前後して起きた大阪の放火焼殺事件も犯人は市に生活保護を相談したがやはり自宅を保有し、まだ価値を有したが、売却には補修が必要。
このふたつには生活保護が絡み、運用次第では解決できたはずで、そうすれば事件は起きなかった可能性。ナマポ攻撃をする政治家に責任は無いのでしょうか?
・裁判員の名前などは伏せられるはずなので、直接の誹謗中傷はないからあとはそれを気にしてネットなどで見ないようにするほうがいいと思います。とはいってもどうしても見てしまう人もいるので、裁判員になる人には必ず心理カウンセラーなどのレクチャーを受けて、ネットの批判などの受け流し方を知ってもらうようにするべきだと思います。それとも、もしかしたらすでにそういう対応をしているのでしょうか?
・むしろ事件を知れば知るほど軽すぎるとしかならんだろこの事件 被害者の親に無視されたことに腹を立てて その子供を焼き殺すってどこに情状酌量の余地があるんだ 殺された12歳と7歳の子供には一切罪はない 同様の事件に栃木兄弟誘拐殺人事件や香川・坂出3人殺害事件などがあるが いずれも死刑だったぞ
自分を虐げた相手に対する殺人なら情状酌量の余地はあるだろうが その子供を殺すんじゃ全然話が違う
・法律に詳しくない一般人が参加するんだから、あまり多くを求めるのもどうかと思う。批判するのは簡単だけど、いざ実際に自分が裁判員に選ばれたら、そんな理想的な判決は出せるものではないと思う。 審理に費やす労力もそうだけど、裁判員の報酬もとても安く、これでは手弁当でやっている裁判員も多いのではないか。裁判員の日当についてももう一度よく考える必要があるように思います。
・現状の裁判員裁判制度は本当に無意味 やったことあるし、自分は勉強になったと思ったけれども、それは比較的軽い犯罪だったため。それでも4日連続だった 隣でやっていた殺人事件の裁判だと、半年以上はやると行っていた。つまり半年は自由に予定が入れられなくなってしまうと言う事 その上、最近は少なくなったと言うけれども、検察側が犯人への印象を悪くするために、態と血まみれの現場写真とかを多く提出してPTSDを発症させてしまう人も少なくなかったとか
そこまでして頑張ったのに、「市民感覚を反映させる」といっておきながら、二審であっさりと量刑が覆る。全然反映されていると思えない
ハッキリ言って裁判員裁判制度は、法曹界のエゴ。市民からしたら工場見学程度 存続させるためにも、最高量刑で懲役10年までの裁判、とか決めた方が良い
・これは非常に深刻な問題だ。 裁判員に選ばれるのも無作為で様々な考えを持つ人たち。 100%の判断を求めるのではなく、限りなくそれに近づけるというプロセスであり、今取り得る手段としては最善のものであると考える。 もし自分が選ばれたら、あらゆる情報を得、考え抜いた上で結論を出したい。宿命と思い誇りを持って臨みたい。 それについてSNSなどで個人が非難されることは絶対にあってはならない。法的整備が必要だ。
・裁判員裁判のメリットが全く分からない。 法律的な専門知識がない素人が適切な判断を下せるはずも無いし、仕事を抱えて忙しい人が関わりたくも無い裁判に巻き込まれるのも迷惑な話だ。
少し前の凶悪犯の裁判で、被告人が裁判長に「よく覚えておけよ」みたいな脅し文句を言ったという記事もあった。裁判員裁判では名前は出てなくても顔は覚えられているので、出所後のに逆恨みの被害にあう可能性もある。
自分勝手な考えかもしれませんが、自分はとにかく裁判員裁判の候補には選ばれないことを願っています。
・裁判員制度は、市民が直接正義の実現に関与する重要な役割を担っています。しかし、判決後のSNS上での誹謗中傷は、裁判員個人の精神的負担を増大させ、制度への信頼を損なう恐れがあります。命の重みに直面する裁判員の苦悩は、社会全体で支えるべきものです。
私たちは、裁判員の心理的負担を軽減し、彼らが公正な判断を下せる環境を整えることが求められています。また、裁判員のプライバシー保護と心のケアが不可欠です。裁判員制度の持続可能性と正義の実現のためにも、社会全体で裁判員を支援し、尊重する文化を育む必要があります。
・元々司法に携わる人間がバランスを持った感覚で判断すればよくて一般人を巻き込むべきでない。 ワイドショーとかでも一般人の感情としてはこうじゃないかという見方が弁護士のような人の見方だと法律の部分で相違があるのはしばしばなので、そもそも一般人の感覚で裁くという事はないと思う。 例えば裁判員裁判に選らばれた人達と裁判所の人達との多数決で決めるとかなら一般人の考えが反映されるかもだが、法的見解を説明されてそちらの方に決まるのが多いと想像する。
・凶悪な刑事事件を審理する裁判員も発足して10万人を超え一般市民が第一審の被告質問、評議、評審をおこないます。裁判官3名、裁判員6名の過半数にて無罪有罪までを決めて判決となるので裁判員の一票はプレッシャーですよね。その反面で法学的に間違った判決もでない数となっています。さらにいえば守秘義務が厳しいのでプライバシーや決定事項はむやみに公言できません。これを少しは緩和すべきと思いますけどね
・法律の知識がない一般人が裁判に加わる事は、法曹界以外の人、法律の知識の無い人の判断も加える事が必要とされたわけです。不作為で選ばれるという事は、法律に詳しいor勉強をした人が加わる事も、必然的に承知済みであるわけです。 自身が一時、現職から離れ裁判員に転職し、法曹界に対しそれ以外の方々が影響を与えていく制度であると考えます。裁判官と同様、他の人に一切の気兼ね無く、自身の判断を表明するもので、それに異を唱えられても、それはその人の意見・判断であり、それはそれで尊重されて然るべきですが、それらを気にする必要はなく、自身の意見・判断もまた尊重されるべきで、それを堂々と表明すれば良いものと考えます。 SNSではまた様々な意見が飛び交う事も考えられます。本職の裁判官のケースと同様に担当裁判員以外の意見は直接はいれられませんが、それがSNSであって、言論封殺は許されては絶対にならないと考えます。
・個人的には殺人に対する量刑が軽すぎると感じている。 裁判員候補に選ばれたことがあり、実際に裁判所で事件の簡単な内容と裁判官から説明があったが選に漏れたことがあった。 その事件は殺人ではなかったが一人の人間を裁く難しさを知る機会にはなったと思う。 実際に裁判員裁判に携わっていないので雰囲気は分からないが、普段とは違う重圧さで安易に意見は言えないだろう。 外野だから極刑だとか無期だとか言えるが精神的な重圧は経験しないと分からないものだろう。 裁判員の重圧は察するほかないが。
・司法に一般市民が参加することで、司法への理解が深まるので良いことだと思いますね。 冤罪と無罪の違い、有罪と量刑… 刑事司法は人格のぶつかり合いと表現した裁判官もいましたが、まさにそのとおりと思いますね。 誰かがやらなきゃいけないことを誰かにやらせて、そして何かあれば文句言ってただけの社会よりは前進していると思いますね
・そもそも裁判員制度は、市民との刑の重さの感覚のずれを市民感覚に近づけようという意味で始まったと記憶している。しかし、結局は判例重視で、裁判員の出した量刑を、判例をもとに修正してしまう。 結局、裁判員制度を始めても、市民感覚とのずれは修正できていないということが、問題である。 さまざまな犯罪の量刑が軽すぎると思っている一般市民は多いはずである。加害者の人権ももちろんあるだろうが、被害者の人権が重視されなければ、被害者や遺族は報われない。 しかし、裁判員への誹謗中傷は許されるべきものではない。
・裁判員に選ばれたものでが、誰でも選ばれると思いがちですが、半分合っていて半分違います。選定方法は、前年の選挙人名簿より選出され、選ばれれば1月位に最高裁判所より選出されたと書類が届きます。任期は4月〜翌年の3月まで、理由が有れば辞退も可能です。親の介護とか、自営業のワンオペとか。自らの怪我・病気等など 判決は裁判3名・裁判員6名の多数決で決まるが、極刑を望む裁判員もいるのも否定しませんが、この判決で歯痒く思う裁判員もいるので理解してほしい。
・これだけ色々考え悩み抜き、場合によっては誹謗中傷すら受けるんだから相当な負担だろうね。 それなのに控訴され高裁、最高裁で簡単に覆されたらやるせない気持ちにもなるんだろうな。 裁判官は法律に基づき業務的に判決をだすのだろうが、裁判員裁判の人たちは一市民としての心情も考慮の上、判断してるのだから控訴された際はその気持ちもくみ取り、裁判官は判決を出すべきではないのか。 そういうことが出来ないのであれば負担を一国民に負わせる裁判員裁判は止めるべきだと思う。
・法の専門家
今のところ裁判員に選出されたことはないのですが、個人的には法の専門家でもないので、その罪と人を裁くのは可能なら辞退させていただきたいです。法の番人となるべく、世の中の多くの大学で法学部があって、それを学びその分野で活躍されている方が大勢おられるので、その方々にお願いしたいのが本音です。
・もうそろそろ裁判員裁判で扱う案件に対して考える時期が来ているんだと思います 経験が少ない裁判官にしても死刑の量刑を決める事はかなりの重荷だと思うし、これが一般市民にそれを委ねるのは酷だと思います 窃盗事件や傷害事件や詐欺事件だったら人の命に関係無い判決だからいいだろうとは言わないけど、裁判員を受ける人達に精神的負担を軽減させる案件に限定しても良いのではと思います
・有罪か無罪かだけの判断で良いと思うんだよね、極刑を選択した所で判事内での取り決めでもあるのか上級審でほぼ引っ繰り返される。多分自分達の矜持の為だけの愚かしい判断が根底にあるんだろう。 通常の事件・事故なら有罪、無罪を裁判員が決めて量刑はAIで事足りる気がするよ、勿論前例のない事件・事象もあるだろうからその為の有人の審理も残せばいいと思いますね。
・死刑判決は想像以上の心の負担になります。だからこそ高度の専門性と高い地位を有する裁判官という職業があるのでしょう。そもそもこの裁判員という制度、国民が望んだわけでもないのになぜ導入されたのか不思議でなりません。遺体写真(絵でも同じです)や殺害時の録音でPTSDになる方もいると言います。また、性犯罪の場合には、特に小規模県では被害者のプライバシー保護にも問題がある。本当にこの制度は問題が多すぎます。
・そもそも裁判員裁判は、平常の国民感情ならどの程度の量刑になるかを取り入れるものです。裁判員に選出されたら辞退はできないので自分なりの量刑を主張すればいい。 自己の判断なので他人からとやかく言われても問題にしない事です。 他には他人と割り切ることが裁判員制度には求められているとされている。
・裁判員制の批判が目立つが、まずは市民が裁判に参加すること自体に意義があると思う。陪審制や参審制を古くから採用してきた欧米に比べれば日本の制度はまだまだ未熟。だからと言って市民の参加しないある意味閉ざされた司法制度に戻すのが正解だとは思わない。 裁判員制に改善の余地はあると思うが無意味なものではない。
・本末転倒な主張である。 ある判決に対しその是非を論じるのは個人の自由であり、権利である。裁判員に忖度しなければならない理由はない。 一方で、裁判員に選ばれた以上は、審理の経過や判決に対して責任を負わなければならない。ただ、裁判員制度による判決は、プロの裁判官3人と6人の裁判員の合議で、裁判官、裁判員夫々1名以上を含む賛成多数で決まる。また、どの裁判員がどういう評価をしたかは公表されない。 つまり、判決が裁判員だけの独断で決められたものではないこと、内心では判決に不服な裁判員もいることは留意した方が良いと思う。
・報道は結果のみを流すから 悔しさ、残酷さ、卑劣さが印象的になる。 裁判では経緯から内容を詳細にしていくので そこからスタートだと感じます。 慣例や過去判例も参考に、検察と弁護 立場の違う意見を聞いて判決を出していると 思うので判決に自信を持って欲しい。
・裁判員制度は、殺人などの重大犯罪について、あまりに職業裁判官の処罰感覚が国民感情から乖離しているという批判に応えるためにできた制度です だから裁判員の下した判決であっても、それが国民にとって軽い印象であれば批判が集中するのはある意味避けられないことです
とはいえ、15年たって当初の批判が改善されたかと言えば、そうは思えない むしろ記事文のような弊害が起こってきてしまったのであれば あえて従前の専門員裁判に戻す勇気も必要でしょう
・本人が志して裁判官や検事になったのなら自分の知らない誰かの量刑に関わった責任を引き受けることもできるでしょうが、適当に何の興味もない裁判を割り振られて裁判員として参加するとかほとんど国家のパワハラみたいなものですよね。その時は法律や判例に基づいた理知的な判断を下したと思っていても後からああでもないこうでもないと思い悩むことがあるのだとすればそれは裁判員制度の意義をいまいちど考え直すべきなのかもしれません。
・裁判員制度はそれまでの判決が市民感覚からずれているとの批判から始まった。それまではややもすれば判例主義でまさにコンピュータのように判決が出され、軽すぎるとの非難が出ても最高裁で新たな指針が出されるまでは前例踏襲にならざるを得なかった。 そこで法曹社会に新風を吹き込むため一般市民が裁判に加わることになった。 もちろんグロテスクな証拠を見せられ情緒不安になったり、今回のように非難中傷が集まるという懸念もあったが、メリットのほうが大きいとして始まった。 司法は三権分立の重要なピースだ。そこに一般市民がほとんど関われないというのも問題である。 「お上の事には間違いはございますまいから」と他人事のように傍観するわけにはいかないだろう。
・裁判員制度を廃止してはいかがですか。国民に開かれた司法というのなら、司法試験の受験資格を広く一般に開き、合格すれば必ず司法研修所に入所できるようにすべきです。今の予備試験の理念を本気で全面実行するのです。 司法試験の答案で使う用語は、新聞等で使われる一般的な用語にしましょう。司法に参加するには、広く受験資格を開かれた司法試験を受験する他、わかり易くなった判決の新聞記事等を読み、法務省様や最高裁判所様など、広く開かれた国民の御意見募集窓口へ電話やメールで申し上げれば良いのです。 法律の勉強で最も大切な事は、苦しい勉強を通じて、世の中全体を統(す)べる神仏の存在を実感することです。「法律学を学ぶ為(ため)には、暗記するのではなく、理解しなければならない」とは、このような真意ではないかと存じます。 無神論者の先生方には理解不能な事ですが、法律家になった後、自分や家族などの身を守るために必要です。
・立法への国民の関与が選挙で保証されているように、国民が司法に関与できる手段があれば良いと思います(衆議院議員選挙の時の裁判官審査とは別に)。国民が国会に参加する必要が無いように(物理的にできないし)、裁判に参加する必要も無いのではないでしょうか。裁判所が判決への国民の意見を広く聞く仕組みを作るべきだと思います。参加するのが極々少数の人で、しかも内容を一生他人に語ることができません。
・裁判員裁判って、人々に法の関心度を持たせるには適したことなんでしょうが 実際素人が関わって、どうなんでしょね!
その素人感覚が日本全体の心なんでしょうが、それだけに重圧ですね!
ある意味負担である意味その負担をかける事で犯罪の重さを感じさせる 制度だと思います
これからは、こういった制度が深く一般と接触するに当たって 案外有意義なものになって行きますように!
この素人が裁判に即する行為は必要になって行くと思います
自らの戒めと罪の重さを感じる為に・・
・一人一人が信念を持って臨むことです。他人や周りの人の意見に惑わされることなく、一貫した信念を持つことが大切だと思います。そして、それが自分の生き方を決めていく糧となることを願っています。
・司法の民主化には、裁判員制度を欠くことはできない。裁判員は、間違っているとしても、硬い自信が無いとしても、SNSでの批判に耐える程度のメンタルは求められる。
司法は間違っている可能性を前提としているので、有権者からのフィードバックが必要だ。それに対してSNSからの批判・マスコミからの批判は抑えることはできない。しかし、日本国憲法の基本となる三権分立を支えるために、批判に耐える労力以上のメリットがある。選ばれた個人にとっては大きな労力を伴うが、国民の義務であるともいえる。
ちょっと前に、私の母親が検察審査員の候補として選ばれたことがあった。検察審査員の仕事は、検察官が「不起訴処分」とした事件を審査して起訴すべきか判断する仕事で、法律のプロの検察官の仕事にやり直しをさせることになる。ちなみに母親は高齢だったので検察審査員を辞退した。
・素人が裁判員として判決するのだから、有罪か無罪かの判断だけにして、量刑は判決後にプロが判断するように変えたら? 日本は最高裁まで争う余地があるので、判決が覆る可能性を残してますし。 民意を反映する意図なら有罪か無罪か?だけで良いよ。 実際、ここでのコメントとは比べ物にならないストレスだろうから、負担を減らす制度改革があっても良い。
・裁判権ってのは古来から支配者の特権だったわけで、主権在民になった現在ではなんとかして主権者の意向を反映させなければいけないし、主権者も主権を行使する責任を負うべき、というのが民主主義の手続的な裁判員制度への説明になるんでしょうかね。 であれば、これまで裁判官が担っていた負担や批判を受けることについては甘受すべき、というのが筋論ではあるのかな。 だが、実際にやってみると、ちょうどSNSが台頭した時代と相まって、想定以上の負担になったという見方もありましょうか。
・一般人の処罰感情や感覚を司法界に反映する 法律やその運用について一般人も真剣に考えてもらう ってながら目的なのだから仕方ない 忌避することもできる訳だし ただ、その後のケアを国として行わなければならないのは事実だと思う
・制度が制定された時から疑問に思っていた。 突然裁判所から殺人事件の裁判員に集められ仕事も家庭も有無を言わさずほぼ強制的に呼び出され任命される。 当然悲惨な殺人現場死体現状を見せつけられ、死刑判決を踏まえた被害者と加害者の命の重みの判定を下さなければならない。 死刑執行刑務官の重圧や精神状態も問題不安視されているのに、昨日まで平穏平和に暮らしていた人たちがトラウマにならないなんてあり得ない。 せめて民事事件での関わりにしてほしかった。
・現行の裁判員制度はあまり意味を持たない。 一般人の裁判員として参加した人全員が合理的思考で一致した結論を、裁判官側がひっくり返すような制度です。 裁判官側の好みに沿った判決を出させるためだけに裁判員裁判に参加させられるのは時間の無駄と思いました。 しかも世間から裁判の判決に応じて恨みを持たれるリスクまで背負わなければならない。 プロセスはどうでも良く、判決が全てですから。
・裁判は正しいとか正しくないじゃなくて法律に則って判断する場だから、裁判員の意見は参考にするのがいい。そうでないと判決を有利にしたい金持ちのやる事は目に見えている。 そして裁判員も流される人が出てきてしまう。 一般的な物を反映させようとすると裁判員と後は法律の改正です。それは国会議員がやれる事だから、もし本当に反映されてなければそれは国会議員の怠慢だ。でも国会議員の怠慢は選んだ国民の怠慢で、何も考えずに投票に行かないとか適当に投票してるから何か問題があった時におかしな事になる。 国の色々な事を決める時に感情に流されず、法律に則って判断すると当然反感もかうことになる。わかってその職種についた裁判官と一般人は違う。この判決がおかしいなら国会議員に訴えかける事だ。
・そもそも素人に裁判員を義務付けるのがおかしい。凶悪犯罪の内容を聞いて気分が悪くなった人もいる。被告が反社や半グレや逆恨みする輩だった場合報復も怖い。本人が冤罪を訴えている場合に、有罪判決をして後で無実だとわかった場合や逆に無罪判決をくだして実は真犯人で後に再犯を犯した場合、一生後悔する事になる。無責任なSNSで誹謗中傷されることもある。しかもそこまで苦しんでした判決が「判例と違う」と上級審で覆る事も多い。自分でその道を選んだ裁判官が責任を負うべきことを、国民に責任の一旦を押し付けている。
・こんなことでは誰も裁判員を引き受ける人がいなくなるのではないか 自分には何の利益もないのに、事件の重い経過に向き合って深く思考し、悩み結論を出す 国民の務めとはいえ、ある意味ボランティアのようなものだが、さらに誹謗中傷を受け傷付く 裁判員制度は国民の声で導入されたわけではなく、職業裁判官が長い歴史を持つ我が国の風土に合わない制度ではないのだろうか
・斜め読みしても刑が軽いのがわかります。 事情が「二人の子供に頃されかけたから正当防衛で突き飛ばしたら打ち所が悪くてタヒんだ」なら判決は仕方ない、逆に重すぎるかな。 結局は故意に命を奪う行為の報いは命を捧げる事で書類上の解決をしないと進まないです。 それでも命は戻らないのだから死刑にする意味はないとするのは別な話で、人間が裁く上での最大限の対等なんだと思います。 一人が100人頃したのは対等では無いのもわかるけど、そこまで来たら「どうすりゃええんや?」ですよ。 だからソコが書類上の落とし所です。
・陪審員制度に改める事を望みます。 裁判員6人全会一致の判断も裁判官により否決されます。 それにも関わらず重圧が半端ではない。 陪審員が有罪か無罪かだけを決定して量刑は、 プロたる裁判官に任せる。 これで裁判員の負担軽減になると思います。
・裁判員として被告がどの刑に値するかの判断をするって物凄く辛い話だと思うんだけど…
犯罪者であるかもしれないけど、その人の人生を左右する判断をしないといけない 時には極刑という判断もあるでしょう
自分だったら無理だと思います 仮に相手が犯罪者で人を殺していたとしても、その人に対して死刑をするという意思表示を裁判員として出来る気がしないです
遺族や被害者関係者は極刑を望むでしょう 全く関係のない人も極刑を望むでしょう
実際にその刑罰を下す判断に携わるって、恐ろしいことだと思う…何で裁判員制度なんて作ったんだか…
・日本人の気質からして裁判員制度には発足の当時から懸念がありました。 争いごとを極端に嫌う、大きな犯罪を他国に比べ多くは起こさない日本人の特性があるのに国家権力の発動たる刑罰(裁判)に関与することは、精神的にも無理があるのではないかと・・・。日本は職業裁判官の判断だけで十分だと思います。
・いろんな状況や判例に則って、罪状に対して妥当な判決を下すのが裁判側の仕事だが、その罪状が余りにも目を背けたくなるような内容ならば、相応の刑罰を下すべきではなかろうか 昨今の事件とその罪状、下される刑罰が余りにも見合わなすぎるものばかりで、裁判官に対しての不信感を抱き、炎上するのも無理はないと思う
・こんな事は課題とは言わない。
裁判員を引き受ける以上、世間からの批判は耐えるべきものだし、精神や体調が悪くなろうが、知った事では無い。
重圧がかかるのは、裁判官も同じ。 裁判官は耐えているのに、裁判員は耐えられないなど、泣き言を言うべきでは無い。
制度導入のきっかけの一つは、裁判官の判断は、世間の常識とはかけ離れていると批判された事だった筈。
であれば、裁判員が被る不利益は、裁判員が受け入れなければならない事だと思う。
>ただ、心ない意見が裁判員を萎縮させてしまうとすれば、市民感覚を反映させる裁判員裁判の趣旨をゆがめかねない。
それは、SNSを見ない、ネットを見ないなど、裁判員の側が努力すべき事だろう。
それが出来ないなら、裁判期間中は、SNSやネットの使用を、原則禁止するなど、外部からの意見を、遮断する様な措置を取れば良いのでは?
・裁判官は給料やボーナスをもらっているのでしょう。裁判員はどうなんですか?。仕事にかかる時間や収入を犠牲にして、また、自分の趣味に浸かる時間を犠牲にしてまで裁判員裁判に出て、多くの規制や責任を感じる人が多そうなないですか、このような制度はやっぱりなくした方が良いと思います。
・日本国民に裁判員制度が定着するまで大変長い時間がかかるだろう。アメリカのような自分たちの地域のことは自分たちで解決するという市民感覚が最初からあればこそ陪審員制度は成立する。 日本では,民間会社も学校も裁判員制度に対して理解していない。政府も後押ししていない。だから国民に定着しない。まずは政府や司法に相当時間がかかる覚悟でないと続かない。
・裁判員は、遺体や凶器を見ざるを得ない。 聞くに堪えない被害者の証言や身勝手な被告人の言い分も聞かざるを得ない。 判決が軽ければ批判を受けることもある。
憲法は「刑罰を除き、意に反する苦役に服せられない」と規定している。 裁判員はそれに該当しそうだが、最高裁は「合憲」と判断した。 最高裁が合憲とした以上、もう制度は存続する。 改善だけが可能だ。
現在は裁判官と裁判員の多数決で有罪・無罪そして量刑が決まっている。 もし意見が分かれた難しい事件があり、その後冤罪が判明したとしよう。 有罪判決を支持した裁判員の精神的負担はかなり重い。「なぜ無罪を主張した裁判員の意見をもっと聞かなかったのか」と深く悔やむだろう。 有実なのに無罪判決を出してしまった場合も同じことになるだろう。
裁判員の負担を軽減するため、「全員一致」にすべきだろう。 少なくとも死刑判決だけは全員一致にしないといけない。
・落ち度がある人が絶対的な悪で、それを批判するのが気持ちいいという人が多すぎる。人間の修正なのでしょう。裁判員裁判もこんなことなら中止した方がいいのでは。もっと違う形での市民の司法参加を検討すべき。
・しょせん外野と真剣に事件に向き合って判決にかかわる裁判員とは心構えも苦悩も事件に向き合う真摯さも、まるっきり違うということだろう。
逆に悩むほど真剣にやっていただいてありがたいと思うし、もし自分が裁判員になったとしたら外野の声に惑わされず法と証拠に基づいた、納得のできる判決になるよう精いっぱい努力したいと思う。
厳罰化とか極刑とか、簡単にいいすぎる風潮はよくない。誰でも無責任に自説を公表できる時代だけど責任を伴いところでのきちんとした仕事には敬意を表したい。
・刑事事件、凶悪犯罪を市民感覚に委ねる必要はない。それは訓練を受けた法曹がやればいいことだ。 それよりも夫婦別姓や、ジェンダートイレ問題、ビラ配り、政治家の汚職などの直接市民感覚が反映される問題にこそ裁判員制度が必要なのだと思う。
・【裁判員選任:無作為で誰でも次に裁判員になる】 一見すると裁判員選任は公正・公平の印象がありますが 無作為選任が裁判員として最適とは思いません。 確かに裁判所、検察、警察、弁護士など司法従事者の判断には 一般人の心情・思考から逸脱性を感受する事案があります。 裁判員の選任条件を詳しく知りませんが (餅は餅屋)と諺があるように 餅屋ではない者に餅を頼むのは筋違いと思います。 犯罪判断であれば尚更で少なくとも 常識的に心得のある人選が必須と思います。
・量刑という専門的なことに市民目線だと言って国民を関わらせるのが本当に適してるのか検証すべき。 裁判員が真剣に悩んで出した量刑を高裁でひっくり返られることもままあり(裁判員裁判の判決の高裁での破棄率は10%を超える)裁判員は徒労感を覚えるだろう。
理屈としては「他の判決との公平性が損なわれる」からだそうだが、それなら市民目線など入れるべきではないはず。 素人の裁判員とプロの裁判官の量刑判断が異なるのは当然の話で、判決の公平性と市民目線はトレードオフの関係にある。 どちらを重視するのが正しいとかは人によるだろうが、現行制度は市民目線を重視して裁判員制度を導入してるんだから検察の求刑を逸脱するような判決でなければ、高裁は裁判員の判決を本来尊重すべきだろう。
・お上の支配ではなく、国民が参加して社会の正義を守るという意味で裁判員制度は大切なもの。そして、他人を裁く限りにおいて他人の批判を受けることは避けられないし、拒否できるものではない。
とまあ、これは正論で私も信じたいです。しかし、国民の多くは学校で教科書があって教室で先生が教えてくれることも理解できない。果たして裁判員になって(先入観や第一印象ではなく)論理的に判断をくだせるだけの知性があるのか、と思う。
・裁判員制度を行う理由を、殆どの国民はわかっていない。当初、裁判に国民の意見を取り入れる為だと政府はアピールしていた。後になって、国民に裁判理解させる為にこの制度を設けるとホームページに記載している。極めて卑劣なことに、裁判所が国民を欺いたのだ。 この制度があっても良いと考えている人は、例えば自分が手術を受ける時、国民の意見を取り入れるために素人が手術をすると言われて同意出来るだろうか?
・始まってからしばらくの間は 裁判員が厳罰を求めていても裁判官が軽い罰に減じた判決がたくさん出ていたね。
裁判員は何のためにいるのか。 まったく反映されないならなぜ裁判員制度ができたのか。 と、当時の裁判員が無念を語っていた映像を今でも覚えている。
そのころに比べればマシにはなっているとは思うが、 それにしてもあまりに見切り発車で 国民に対する周知や理解も得られないまま、 ただロースクールと裁判員制度を強権的に始めた感はぬぐえない。 果たしてこれらはまともに有意義であったと客観的に証明できるのか?
・そもそも司法の判断を国民に委ねるのが問題で何のために裁判官がいるんだと。 判決と国民の考えがあまりにも違うのは判決が前例主義で今の裁判官が量刑を自分で考えずに前例で判断するのが問題で、裁判官自身が量刑を判断していたら国民とのずれが起きることは少なかったはず。 前例主義をやめ、刑法も時代に合わせて変えていけば裁判員なんて無駄な制度必要ないんだよ。 もし私が殺人事件で裁判員に選ばれたら命に対しては命で償えと思っている人なのでよっぽどの事情がない限りは死刑以外言わないよ。
・世情に疎い裁判官が多いから、司法に市民感情を反映させ、また市民側にも司法に参加してもらい裁判の中身を知ってもらうための物だろう。
当初は市民感情が情状を配慮し甘い判決が出ると思っていたそうだが、実際は厳しい判決が多かったらしい。 だから覆る。
裁判員裁判の判決が覆るのはそういった事情があるし、三審制である以上控訴審で覆る裁判も多くある。 だからといっては何だが、もっと気を楽にするべきじゃないか。 所詮は一審だし。
それよりも裁判官の常識の無さを、市民感情をもって知らしめるのは有意義だ。 自己中・勝手・我儘で他人に害を及ぼす犯罪者には厳しい判決で良い。 それが抑止に繋がるし、犯罪者を少なくする方法だ。
・ここのコメントを見ていても分かるのですが、「全部死刑でいい」など、SNSは極端な厳罰化を求める傾向が強いです。
外野は責任が無いから何とでも言えますが、裁判員は処罰に関して負い目を感じる人もいるでしょうし、その場に居ないと分からない事情だってあり得る。
怖いのは、そういった無責任な誹謗中傷をおそれて裁判そのものが歪むことで、判決に関する個人攻撃は懲役など重い処罰を課す、で良いと思います。
他人に厳罰を求めるなら、自分だってそうされるのは当然でしょう。
・極刑になる裁判などは、素人に難しいですね。 報道で、犯罪者の精神鑑定など、精神科医で別れたら、分からないです。 加害者が過去、親から虐待されていたなどの事実があれば難しいです。 おそらくは裁判長でも難しいのでは。 誹謗中傷は、意見ではありません。 単なる悪口です。 意見なら、載せても良いですが、誹謗中傷と明らかに分かるのは、法律でしっかり処罰してください。 死刑制度に反対する方もいますから、その議論も勧めてください。
・裁判員が裁判所の外でもその立場を維持して会見に応じたりするのはダメだと思うよ。 マスコミ対応は裁判所側がやるべきで判決に際してどっちがらどういう意見だったかをオープンにするからこうなる。 不当な結果として開示請求でもあったならともかく注目度の高い段階でやんなくてもいい。 本当に不当だと思うなら関係者が社会的関心が薄れた時期でも請求するんだから。
・そもそも、裁判員裁判の判決も、結局は死刑回避に誘導されているから、なかなか極刑が出ないのであろう。 そして、裁判員たちが強い意志を持って極刑を決定した判決も、例えば大阪ミナミの通り魔事件や、熊谷の連続殺傷事件のように、上級審で覆される。 これを見る限り、もはや裁判員裁判の意義は、もはや無くなったも同然だと思う。 今の状況が続くなら、裁判員制度は、もはや廃止すべきだと思う。
・裁判員裁判の制度の 一番の問題点は 民意を反映させる判決が 二審で死刑から無期懲役になるケースが多い事。 これなら、裁判員裁判の制度をしている意味がない。
今回の記事のケースは 死亡者が二人の放火殺人だけど 加害者が直接被害者に火を放ったり、脱出不能なようにガソリンをバラ湧いた訳では無いので 明確な殺意の認定は難しい。
加害者憎しと言う 感情的な点を除いたら 明確な殺意でなく 無計画な短絡的な犯行であり、結果的に子供が亡くなったと判断するのは妥当だと思います。
死刑ではなく有期刑という この判断をした人たちは 間違ってはいないと思っていますよ。
なお、命の重みへの苦悩って そもそも 死刑を議論する犯行は 殺人事件の場合だけです。
人の命を軽く考えて殺害した加害者に対して 命の重みなんて 感じる必要はないと思いますよ。
・ネットに出ている裁判に関する情報は取捨選択されたもので、それを実際に見ていないにもかかわらず、この裁判はおかしいというような意見が出るわけで、それを聞いていたらキリはない。特に量刑のような話は、かなり主観もあるので。
・アメリカ映画「12人の怒れる男たち」を見た。陪審員制度は感情に支配され誤診を招く傾向にあるというテーマだ。それも困る。日本が凡例優先だとか、保守的だとか、世情の変化や感情論が反映されないとかは、陪審員制度を導入しても直せないことがはっきりした。やはり法律の変更活動を活発にすべきであって、政治の怠慢である。 それよりも、、、、日本では裁判官自身の保守、革新という政治信条の占有率が下級審と上級審で違うらしく、やたら逆転判決が出る。こっちも改善すべきだ。
・裁判官はそれなりに訓練受けてきた司法界のプロ。ド素人の一般人に重要な裁判に判決下すのに参加しろと言われても荷が重い。審理で証拠見る。写真で凄惨な殺人現場見たら飯食えないよ。プロの裁判官は修行積んでいる。ま、動揺する事は無い。三審制だしなあ。裁判員制度なくてもいいかも。
・裁判員でも裁判官でも、その判決に疑問がある場合がある。特に量刑に疑問がある。社会の公平原則が損なわれてる。被害者と加害者が公平でない。被害者の被害と比較して、加害者への罰が小さすぎる。不公平だ。国と司法の義務は犯罪をゼロにする事だ。特に再犯は完全にゼロにしなければならない。プロが怠慢だと思う。
・被害者の思いや加害者の命に関わる問題を国民が判断するのだから、心労は極限だと思います。裁判には正解が無いのだから、SNSからの意見が無くとも、ご自身の中での葛藤が続くと思います。 し、これにより司法がより国民信条に近くなっていると思います。 こんな事を国民に押し付けているのに、政治家は利権の為に好き放題をしていることに怒りを感じます。 議会でも参議院は国民代表から無差別で選んだ人が務めたほうが良いと思います。タレント上がりの人なんかよりは、ずっと国民に近い判断をすると思います。
・もう、30年以上も昔。 ネットのチャットルームで知り合ったかた、 その人は自称裁判官と名乗っており、事件の詳細等は一切なく、自分の判決により一人の人の命を奪うことになると言う苦悩を語られた。 愛する人の死も経験され、人の命の重み、その他の色々な問題を抱え、自分の心との向き合い方さえわからなくなったと仰ってました。 1週間後、弟さんと名乗る人から実名でメッセージが届きました。 裁判官である事は事実で、その方が亡くなられた事。励ましへのお礼を綴られていました。 新聞の記事で、本当に亡くなられた事を確認出来ました。 暫く、私の心も重たい荷物を背負った様でした。 結局なんの力になれなかったのですから。 専門の裁判官ですら、死をも考えるほど判決に苦しむのに、一般人の私には無理だと感じてます。 端で批判するのは簡単な事です。その立場にならないとわからない苦悩も理解しないといけないと思います。
・それが判決の重みだ。と言うのがあるのだけれども。 過度な批判をされる方をご招待して、同じ立ち位置に置いてみると良いのかもね。
裁判所以外で議論してはいけないとかで萎縮させるのも違うだろ。 さまざまな意見があるとして、一般的にすべきで無い言動と言うのはあるだろうから、粘着したり、威圧したりと言うのは、普通にダメだよね。って事だと思うよ。
・日本の裁判員制度はもっと単純化した方が良いと思う 有罪の有無を決めるだけはなくその量刑も決めるのは負担が多きするぎると思う。単純に有罪の有無だけ決めて、量刑は判事に一任すべきだと思う。
・裁判員がどれだけ悩んで話し合い判決に至ったか何もわからないから仕方ないと言えばそうなんだけど…裁判の中で明らかになる色々な裏側やそれぞれの思いや自身の気持ちなどをもっと理解してあげてください。決してサイコロを振って決めた様な簡単なものじゃないんです。
・米国映画「12人の怒れる男達」を見ると、本家本元の米国でも陪審制の運用に問題があることを彷彿とさせます。それでも廃止の機運がない所をみると、裁判を裁判官に独占させることを良しとしない思想があることを感じさせます。 米国の陪審制度のように陪審員が有罪か無罪かのみを判断し、量刑は裁判官が決めるやり方がいいのは明らかですが、日本は、裁判官が安易に求刑の8掛け判決を乱発することへの不信感があるから、裁判員を量刑判断にも参画させていると理解しています。 ただ米国と日本で「二重の危険」の解釈が異なり、米国では第一審で検察が敗訴したら控訴できないのに対し、日本は認めている点に大きな違いがあり、これが裁判員裁判の意義を減殺していることは明らかです。 検察官控訴について最高裁は合憲判断をしているので、立法で解決するしかありません。裁判員裁判については検察官控訴を認めない規定を刑事訴訟法に盛り込むべきです。
・何かの記事で、裁判員裁判での判決は、高裁の裁判員の判決で覆るというのを見たことがある。
裁判官と、裁判員で身分の保証が異なるから問題なのでは。根拠のある批判ではなく、人格攻撃などの誹謗中傷から裁判員を守る制度はないのだろうか。
・なぜ死刑ではなく懲役なのか。 それを誰がきちんと伝えるか。 結局いつものメディアの怠慢に帰結する。 社会を混乱させている主犯はメディア。
大手メディアは量刑のみがニュースバリューと考え、その背後や決定の理由について報じるのは自分たちではないし、それを報じる紙幅も時間もないと考えている。その結果、「〜の理由もあるとして無期懲役とした」くらいの1文で済ましてしまう。それを読んだり見たりした人が、背景を知らずに「なぜこんなことに?」を募らせ反発する構図が毎日繰り返される。
そもそもバリューが量刑のみと定義してること自体がおかしいんだよ。 15分ニュースで最新ニュースをジャンル違いで5本、特集を1本、最後に天気予報とか誰が決めてんだ。紙幅がないならページを増やせばいいだけだ。
・裁判官の中には著しく社会常識からかけ離れた非常識で法律の中でしか生きていない人がいる。そこに一般国民の常識を入れることは重要です。 その非常識の最たるものが死刑判決における永山基準と呼ばれるものです。最低二人以上殺さないと死刑判決が出ないというわけのわからない法律のどこにも書いていない基準が勝手に決められてしまった。この永山基準を撤廃してからでないと死刑判決が出るような重大犯罪に裁判員を入れる意味はないと思う。だって一般常識で死刑判決が殺した人数で出たり出なかったりでおかしいでしょ。
・それを言うなら、過去に裁判員裁判で死刑判決が出たにも拘らず控訴審でプロの裁判官が無期懲役に減刑してしまったというケースが何度もある。本事件だって、同じ様な結果になった可能性だって十分あるよ。悪いのは裁判員ではなく、プロの裁判官もしくは法律。
・本職の裁判官が多くの人が納得する判決を出していれば、裁判官制度なんか作る必要がなかった。そもそもそんな制度を要望する雰囲気も生まれなかった
結局のところ、勉強ばかりして周りが見えない司法試験合格者が法律と判例だけを見て判決を出し続けてこうなった
・自分の子に(もちろん立派な大人)裁判員の通知が来たら断るように言うつもりだ、と言う友人がいて、少なくない友人がそれに頷いたことがある。理由を聞くと批判されることを前提としているようだった。 日本人は自分をの意見を主張し、討論し結論を出すことが得意ではない、と言うか、そういう教育を長らく受けてこなかった。周囲を見て判断することが多かったので、自分の意見に責任を持って生きる、という練習があまりできていない。 そしてネット社会の無責任な誹謗中傷。ひとたまりもないだろう。 人にはさまざまな考え方がある。その都度その都度責任を持って出した結論に、なんら恥じることはないと思う。どうか、前を向いて生きていってください。あなたひとりで出した結論ではないのですから。
・裁判官も勉強的学びで裁判官になっている為世間の色んな事が理解できていない事で洞察力に欠け間違った判決も多いと考えられる(経験者談)裁判員裁判は世間はある程度分かっていてもあくまでもある程度でありこちらも洞察力にはかけていると考える。日本人は学業終了後の学びが欧米に比べ非常に少ない為この点の改善を行わないと現状では難しいことが多い様に思える。勿論裁判に関わる人だけに限らず国民全体にも言える事であるが。…。
・結局過去の判例から相場で刑が決められ、裁判員が加わる意味がないと思わせる判決が多いと感じます。しかも裁判官は結果責任は絶対負わない。制度の見直しをすべきだと思います。。
・結局これが司法当局の目的の一つなわけで、要するに裁判員を裁判所や裁判官のバッファーにしたいだけなんですよね。判決を下す側と同じ苦しみを味わって欲しい的な。裁判員経験者が増えれば少しずつ裁判官に同情する人が増えていけば批判も減るだろうということです。
・過去の判例で覆るというね納得しにくい理由で覆るのなら裁判員制度は止めたほうがいいよ。やるなら重い判決出るのは見送るべきじゃないか? どれだけ重大な犯罪が起きても結局過去の判例をもとにそちらの判断が優先される…それじゃ追い付けるわけないよ?過去は過去だし今とは違うんだから。
・裁判員が参加するか否かを誰が決めているのだろうか。やはり裁判所だろうか。先日のいただき女子りりちゃんのような案件こそ裁判員が参加すべきだろ。人の死と死に様を何の訓練も受けていない一般人に判断させることがおかしい。警察官や救急隊員、海上保安官など生死に直面する方々は関連の段階で無惨な亡骸の映像と写真で順応させるとか。しかも裁判員が絞り出した判断を裁判官が平気で覆す。裁判所が正常に機能していない。
・加害者側「だけ」が得してる判決が目立ってるから当然。 そもそも人を殺してその後の人生を全部奪っておいて尚且つ死人にはもう人権がないからと死後も尊厳が蹂躙される事も多いのに、犯人が法律で生を保障されているのがおかしい。 裁判員になるってのはそういう事。
|
![]() |