( 171922 ) 2024/05/19 01:34:40 2 00 ジャングルから里帰りした「飛燕」なんとパイロット判明! 知られざる“エース”と新戦闘機ミュージアムとの「奇跡の縁」乗りものニュース 5/18(土) 18:12 配信 https://news.yahoo.co.jp/articles/0a749e650268e22fa848b4a8f2af417bb351f436 |
( 171923 ) 2024/05/19 01:34:40 1 00 茨城県の(株)日本立体で製作された三式戦闘機「飛燕」の金属製原寸大模型が、岡山県浅口市金光町にある日本戦闘機の博物館「ドレミコレクションミュージアム」で展示され、話題となっている。 | ( 171925 ) 2024/05/19 01:34:40 0 00 3年以上の歳月をかけて完成した三式戦闘機「飛燕」の金属製原寸大模型。茨城県の(株)日本立体で製作されて分解輸送された後、再びこの地で組み立てられた(吉川和篤撮影)。
2024年4月26日、田園と緑が広がる岡山県浅口市金光町に、太平洋戦争中の日本戦闘機の博物館「ドレミコレクションミュージアム」が開館し、オープニングセレモニーが行われました。ここには、ニューギニアのジャングルで発見されて里帰りした旧日本陸軍の三式戦闘機「飛燕」一型甲(キ61-I甲)の実機と共に、新たに製作された原寸大模型が展示され、話題になっています。
【一見の価値あり!】往時の塗装も残っている「里帰り飛燕」じっくり見る(写真)
三式戦闘機「飛燕」は太平洋戦争の中頃、万能な中型戦闘機として川崎航空機の土井武夫技師のチームで設計・開発され、1943(昭和18)年に制式化されました。その最大の特徴は、日本の戦闘機としては珍しい液冷式エンジンを搭載していた点です。
当時の日本の戦闘機のほとんどは、星形の空冷エンジンを搭載していたため、機首が円筒状のものばかりでした。そういったなか、飛燕は機首が尖っており、いうなればスマートな外観を誇っていました。
搭載していたのは、国産の「ハ40」型エンジンです。これは、当時同盟国であったドイツのダイムラー・ベンツ社が開発した液冷式倒立V型のDB601A型エンジン(1050馬力)を川崎航空機がライセンス生産したものでした。
同エンジンはドイツのメッサーシュミットBf-109E戦闘機に搭載されたため、ある意味で日本機らしくないスマートな機首形状と合わせて「飛燕」は、「和製メッサー」と呼ばれたりもします。
しかし、実はBf-109Eと「飛燕」を比べた場合、上昇力も旋回性能も全て後者の方が優れていました。また「飛燕」は、空力的にも優れた機体設計により最高速度は590km/hを記録するなど優秀で、わずか3年ほどしか生産されなかったものの、各型合計で3000機以上が造られ、東南アジアの南方戦線や本土防空戦などで多用されています。
パプアニューギニアのジャングルで発見され、奇跡の里帰りを果たした三式戦闘機「飛燕」177号機の実機。機首と胴体、尾翼部分、右側主翼などが展示されている(吉川和篤撮影)。
実は、このたび展示が始まった「飛燕」の原寸大模型は、茨城県小美玉市にある日本立体(齊藤裕行社長)の工場において構想1年、製作期間2年の歳月をかけて生み出されたものですが、その形状を再現するのに大きく貢献したのが、もうひとつの目玉展示といえる「飛燕」の実機でした。
この「飛燕」は、戦後にパプアニューギニアのジャングルで発見された機体です。当初はオーストラリアのコレクターが所有していましたが、2017(平成29)年にオークションへ出品。ここで、岡山県倉敷市でオートバイ部品・用品を製造、販売するドレミコレクションの武 浩社長が入手します。
こうして、長らく日本から遠く離れた地にあった「飛燕」の日本への里帰りが実現するに至りました。
当初、武社長は後世に伝える歴史の証しや貴重な産業遺産という観点から、同機を復元しようと考えていたそう。ただ、それには膨大な時間が掛かることが判明します。さらに、倉敷市で保管していた際に、「飛燕」を見学しに訪れた当時の工員の人や関係者らが、同機を見て感動する姿を目の当たりにしたことで、彼らの残された時間を考えるようになります。
その結果、実機を復元するのではなく、むしろ見学者が理解しやすいようにする目的で「飛燕」の金属製原寸大模型を作ることに方針を転換。完成後は、新たな施設でその両方を展示することに決めたのです。
こうした武社長の強い想いが、すでに大戦機の模型製作を手掛けていた日本立体の齊藤社長をも動かしました。こうして、晴れて「飛燕」原寸大模型の完成へと至ったのです。なお、このレプリカを製作する過程で実機は詳しく採寸され、またその出自も調査されました。
その結果、この機体はニューギニアのウエワク基地に展開した日本陸軍航空隊の第14飛行団第68戦隊所属の「飛燕」だということが判明します。しかも、エンジン補修の状況や当時の記録などから、第2中隊所属の垂井光義中尉(当時)が搭乗した177号機であることも明らかになりました。
オープニングセレモニーにおいて岡山県在住の垂井大尉のご遺族(右手前)に「飛燕」実機の破片を手渡す、株式会社ドレミコレクションの武社長(吉川和篤撮影)。
では、この垂井中尉とはどのような人物だったのか、改めて振り返ってみましょう。
彼は1915(大正4)年7月生まれで、1934(昭和9)年11月に陸軍飛行学校を卒業した少年飛行兵の第1期生です。実戦参加は1937(昭和12)年7月に始まった日中戦争からで、1939(昭和14)年5月に勃発したノモンハン事件でも戦っています。なお、6月26日の初戦では、ソ連(現ロシア)のI-15戦闘機50機以上を相手に、同僚とともに九七式戦闘機3機で挑んで6機を撃墜、その内の2機は垂井機の戦果でした。
こうして垂井曹長(当時)は9月停戦までの3か月間に28機を撃墜してエースに名を連ねたほか、ノモンハン戦全体では撃墜数第2位を誇るまでになっています。ちなみに、その間には空中接触されて落下傘降下した中隊長(上司)を、敵地に強行着陸して救出するという活躍まで見せました。
その後、垂井曹長は陸軍士官学校に進んで1941(昭和16)年7月に少尉へ任官、同年12月に太平洋戦争が勃発すると南方のマレーやジャワ、スマトラを転戦します。帰国後の1943(昭和18)年4月、中尉へ昇任すると彼は第68戦隊に配属となり、再び南方のニューギニアへ派遣されることが決まります。この時に受領したのが三式戦「飛燕」の177号機。この機体で、垂井中尉は故郷である岡山県美咲町の実家上空を3回旋回飛行したと伝えられています。
そう、つまりこの機体の操縦者は、このたび開館したミュージアムと同じ、岡山県の出身だったのです。
こうして、ニューギニアに赴任した垂井中尉は、ここでも撃墜戦果を重ねています。中には強敵であったアメリカ陸軍のP-47「サンダーボルト」戦闘機も含まれています。
しかし、この三式戦177号機はエンジン故障で湿地帯に不時着したことで、同機の戦争はそこで終わりを告げした。しかも、この不時着から生還した垂井中尉も、1944(昭和19)年8月に受けた機銃掃射で戦死してしまいました(戦死後大尉に昇進、総撃墜数38機)。
こうした「飛燕」177号機の数奇な運命やその後の日本へ帰還の経緯を知ると、まさに “奇跡の里帰り” だったと言えるのではないでしょうか。
今回のオープニングには、垂井大尉の岡山県在住のご遺族のほか、第2中隊で整備を担当した山根昌敏大尉のご遺族も東京から参加しており、意義のあるセレモニーになりました。
同ミュージアムでは、今後こうした歴史的な新旧の機体を間近で見学できるようになります。入館は専用サイトでの事前予約制となりますが、岡山県に行く機会があれば足を運んでみたらいかがでしょうか。
肉眼で直接その貴重な展示を見ると、当時の歴史や日本の航空技術に対して新たな思いを抱くかもしれません。
吉川和篤(軍事ライター/イラストレーター)
|
( 171926 ) 2024/05/19 01:34:40 0 00 ・高性能を発揮したのは初期生産型の一型乙。主力生産型の一型丁は主に武装強化に依る重量増の為に完全にパワー不足になり戦闘機に不可欠である上昇性能と加速力が悪化。その為に連合国軍パイロットからは「ちょろい相手」と評されています。これを完全に払拭したのが二型。30%近い大幅なパワーアップに依り上昇性能と加速力が劇的に向上。持前の急降下性能もあって素晴らしい戦闘機に、なれませんでした。一型のエンジン、ハ40がDB601のライセンス生産である事はよく知られていますが精緻なこのエンジンは大日本帝国にとって難物で稼働率向上や生産に難儀する程の代物。二型はそのハ40をフルチューンしたハ140を搭載していましたが稼働率どころか生産すらままならず所謂首無し機体が並ぶ事になっています。
・以前見たドキュメンタリーで、ドイツ軍の追撃を受けたサンダーボルトは100発以上の被弾でも墜落せずに帰還したというのを見たことがある。 それだけ頑丈な戦闘機を撃墜するというのは凄いな。 隼以降の二式戦もこの三式戦も四式戦も航続距離は短かったはずだけど、 ニューギニアまでどうやって運んだんだろう? 海上輸送なのか、台湾やフィリピンの基地等を飛び石状に移動したのかな?
・今、書店にあるミスターバイクBGの表紙、この三式戦177号機が900ニンジャと一緒に描かれている。どちらも川崎製。 東本昌平先生のマシン愛が溢れた素晴らしい表紙。 この記事を読んだらミスターバイク買いたくなった。
・大戦前の航空界は液冷支持派と空冷支持派がいました。 液冷派は「全面面積の大きい空冷じゃ600キロが限界!」、空冷派は「液冷は12気筒が限界で高出力化は無理!」とそれぞれ主張していました。 このため各国の軍首脳は将来どっちが主流になるのか見通せなかったので、両方開発するしかありませんでした。 後世の結果論で「液冷なんかいらなかった!」という浅はかな意見がありますが、当時の状況において液冷を捨てるというのは相当のリスクだったのです。
また「DB601は精密すぎた。マーリンだったら…ユンカースだったら…」という批判もありますが、基礎工業力の低い日本では結局どこかでつまづいて同じ状況になったことでしょう。 このほか愛知のアツタは多少ましな稼働率だったので川崎の技術力を疑う声もありますが、2800機生産された飛燕に対して液冷の彗星は半分程度。 川崎は無茶な量産命令に応えていたのです。
・当時の日本の技術力ではDB601を完全コピーすることは困難で、部品精度の問題などから整備も難しく故障も多く、大活躍とまではいえなかった戦闘機ですね。ただ記事にあるように空力性能に配慮した機体設計であり、空冷星形エンジンに換装した五式戦闘機が意外な健闘をしたことが僅かな慰めでしょうか。
・当時日本の技術では精密なドイツの液冷エンジンのコピーはハードルが高い まして冷却に必要な不凍液もまともに作れず。
高精度のノギスやマイクロメタターでさえ国産化できず、個体差が大きい物しかできなかったので部品の正確な測定自体できなかった。
また工作機械に至っては遥かに劣りドイツでさえ敵国アメリカ製の工作機械を欲す有様、精度の高い物を初めから作れる状態ではなかった。
さらに戦時体制の増産で機械操作に不慣れな学徒が作るので、不良品や不具合のある物が大量にできそれらが検品されず組み付けられ故障の原因を増やしていった。
・戦争…これは絶対にしてはいけません。それを念頭に。この機体は個人的に魅力的だし設計思想も優れていると思います。ただ同時の我が国では材料の調達(それを求めて南進したんだけど)工作機械の未発達など工業ベースがイタリア同等かそれ以下の同時において生産するにはハードルの高い機体であったことは確か。 しかし実戦投入出来たのは頭が下がる。稼働率が低いことも指摘されるけどme109も実際は高くない。しかしエンジン不具合や低オクタンの燃料など本来のポテンシャルを発揮出来なかったのは残念でならないけど… 。出来ればエンジンDB601を成功させME109G以降のエンジンDB605エンジンを積んだ良い燃料を使った飛燕を見たかったな… と勝手に空想してしまった。
・この三式戦闘機もスマートで魅力的な機体ですが液冷エンジンの生産遅れから後に星形エンジンへ換装(それに因り五式戦闘機へと発展)と言う同様の運命を辿るアツタを搭載した艦上爆撃機 “彗星” が私は大好きです。
・アメリカに圧倒的に劣る産業生産力と言われながら飛燕だけで3年間に3000機を生産した。現在の自衛隊が戦闘機を何機調達しているかを見れば、戦争とは産業生産力もフル動員した総力戦であることが実感できる。
・液冷式云々とか加工精度とか整備性の問題もあるが、根本的に倒立式というのがそれらのハードルを無駄に嵩増ししたエンジンですね。 プロペラ位置の関係で採用されたのでしょうが…… その後は正立式のみとなり、倒立式は時代のあだ花とされるエンジン形式。
・言葉は同じだけど、この時代の「技術」と現代の「技術」では意味がまるで違うことがはっきりしますね。 この時代の「技術」は携わる職人さんの手業。純粋な意味での「技術」。
対して現代の「技術」ってなんだろう? 「技術立国」とか「ものづくり大国」なんてことを言っていたが、実際は労働力の安売り合戦。日本企業に「技術」がなくて中国企業に「技術」があるわけじゃない。どっちが安く働かせることが出来るかの競争。安く働かせる「技術」?
円安シフトでゲームチェンジが起きたら再度Maid in Japanが世界を席巻する。 しかし、昔と違って国際資本の会社が日本に製造拠点を設けて外国人労働者で製造したのが日本製品となる。日本企業と日本人はそれらの企業の下請けになる。
・現代の自動車の言い方だと直噴式でツイン・バルブに流体無段変速で、公差も当時の日本の確か10倍以上だったはず。 直噴式はものにしたが、他は難しかった。名人級のベテランが経験と感で公差をクリアして作り、且つ液冷式になれた整備兵でなければよい状態に保てなかった。 機体も主翼を細長い7,2の高アスペクト比にして、高翼面荷重でも低翼幅荷重にして、旋回・格闘性能が意外と高めだった。 胴体は4本の縦貫通材を用いた箱形構造にして、非常に頑丈だった。急降下した時にドーンという大きな音した、というパイロットの証言があるので、音速にも耐えられたとの推測もある。 状態のよいものは高度8千メートル以上でも、普通に戦闘出来た。名人級を集めて月産20機程度、整備兵も集めて状態のよいものだけの4個戦隊程度を、本土防空の専用にすればよかった。 同様に疾風も4個戦隊程度にして、決戦兵力にすればよかった。
・当時の日本の戦闘機が優れていたと調べもしないで書く傾向がありますが、 上昇性能と旋回性能がドイツのオリジナルより上なのは当たり前ですよ、 だって軽量なんだもん。 液冷エンジンは当時の戦場では整備が不可能で実際は全然飛べてないです。 零戦も日本では名機となっていますが、航空母艦用なので、空母がほぼ全滅した昭和19年からは米軍に七面鳥撃ちと揶揄されるくらい叩き落とされている。高度成長期に出版社の斡旋で零戦のパイロットが英雄伝説で書き始め間違った歴史が出来上がってしまった。 大空のサムライの坂井さんは海軍の集まりで嘘ばっかり書きやがってと胸ぐらを掴まれている。 日本の戦闘機が素晴らしかったと根拠なく書き立てる罪は重いと思います。 おかげで間違った知識の戦闘機マニアが大量に発生していてゆゆしきしき事態。 このコメントも多分大ブーイングだと思いますが。
・3式戦をエンジン換装して少しだけ改良した5式戦がP51以上の知る人ぞ知る名機に生まれ変わった事実からも当時の我が国は間違いなく列強一の航空大国といえる。 5式戦があればP51など敵ではないと、本土防空で活躍したパイロット達は言葉を残している。 隼でP51を撃墜した檜少佐も片腕を失ってからの復帰戦で5式戦でP51を堕としている。
・飛燕はグライダーのような翼でBf109の高揚力装置もなくマスタングの機体から離して設置したインテークでもなくトップスピードでは無理だったと思われるが1000馬力強で590キロオーバーはさすがに流麗な機体ではある。
・飛燕、零戦、紫電、紫電改、雷電、疾風、烈風、震電、月光、、もう、大日本帝国時代の戦闘機、戦艦、空母、巡洋艦の名前がカッコ良くて聞いただけでも興奮する。
・残念な事ですが、基礎工学が悪いのか材質が悪いのか、テスト時の性能は実戦で発揮出来なかった。故障が多く稼働率が悪い為、量産を中断しエンジンを空冷式に転換し五式戦闘機として復活し予想外の空戦能力を発揮された。
・小説より奇なり。でしょうか。 残念ながら終戦の一年前にお亡くなりになるとは。優秀な方でしたからたぶん内地に帰還し 兵力温存されたか。特攻機の護衛をされたのかもしれません。また陸軍は海軍の特攻思想を反対したと聞きましたから上層部に直訴したかもと。 戦争の悲惨さを憂い平和を守る一方 当時の日本の工業力でよくぞ液冷エンジンの飛行機を飛ばせたものだと。整備兵の方々は さぞや大変でしたでしょう。そのことも お忘れなく。
・飛燕の開発者が残した文章には日本製のベアリングのあまりの粗悪ぶりにこれではまともなエンジンができるわけないとなげいていた。当時の日本では精密なベアリングを作る技術も材料もなかった。開戦当初に零戦が活躍できたのは最初は外国製のベアリングが使えからだ。開戦後は輸入が途絶えて粗悪品しか使えなくなった
・旧軍機の再生とか復元とかの話を聞くたびに、今の日本のエンジンで戦時中の機械技術と生産力不足でまともに戦えなかった恨みを晴らしてくれまいかと考える。二千馬力となるとF1用でも足りないかもしれないけど。
・最悪のナルシズム記事。 当時の日本の工業生産技術は三流以下。ライセンス生産のエンジンは故障だらけで設計性能は発揮できなかった。生産も遅れ、工場には首なし飛燕がずらり。大戦末期にはどうにもならなくなりエンジンを空冷のものに換装した五式戦が作られた。性能はいくらか低下したが故障は少なく稼働率は高い実戦的な戦闘機になった。
・実物大模型のタイヤは何でしょうか? 昔の戦争映画の飛行機なんかは軽自動車のタイヤでしたが 翼端灯、尾灯は点灯するのかな?ついでにMG151/20も実物大でよろしく。
・飛燕をベタ褒めですが、模型や飛行機に詳しい人ならこの記事にかなり違和感を感じると思います。 むしろ、整備性が悪い上に中途半端な性能のため評価は低いです。 それと、BF109Eと比べていますが5年も違う機体より速度が速いのは当たり前です。
・優れた機体だったが日本ではライセンス生産出来る技術がなく鍋やらヤカンなどの鉄質更に学徒が組み上げることに無理があったとも言われてるね。クランクを真円に加工出来ずトラブル続発だったとか。
・問題は航空ガソリンの規格が1〜6号までありそれぞれオクタン価が77〜95。四エチル鉛添加の配合燃料の規格は、1号95オクタン価に四エチル鉛添加で100オクタン価、2号90オクタン価に四エチル鉛添加で100オクタン価。こんな規格でどうやって調達して現場に振り分けて運ぶのか謎。勝てる訳ないじゃん。
・以前、三式戦・飛燕の実機(無塗装)を「岐阜かかみがはら航空宇宙博物館」で見学しましたが、その洗練された姿には惚れ惚れしました。
・この件で昔、地元企業の社長が戦時中の戦闘機の復元に着手した、というローカルニュースを見た記憶がある。 その時は、凄いことを思いつく人がいるな、程度にしか思っていなかった。
まさかこんなオチがつくとは。 1機の戦闘機が多くを語る。
・機体やエンジンの個別番号とその記録が残っていたのかな。 日本機でここまで詳細な記録が判明するのは珍しい。
ジャングルの中で何十年も祖国日本に帰りたかったのだろうなぁ。
・DB601をライセンス生産したハ-40エンジンの不調に悩まされてながらも、ニューギニア戦線から本土防空に良く戦った傑作機。 これは見に行かねば。
・軍事ライターにしてはキ61のほうがBf109より高性能ってのはどうなんやろ。 たしかに運動性はキ61が上やったかも知れへんけど、同時期のG型以降と比べんとフェアとは言えないのでは。
・ドレミコレクションってバイクを旧車風になる外装作ったり凄いとは思ってたけど。 ここまでとは! 飛燕が里帰りした話しを読んで鳥肌が立ちました。
・垂井光義さんは少飛1期・少候21期で、戦死された後に大尉に進級されています。B-29撃墜王と呼ばれた樫出勇さんと同期ですね。
・Bf-109を圧倒の逸話、比較されたのは輸出も可能な量産機のE型 同時期の試作段階の比較とななるとP-51よりも後発
・陸軍戦闘機の半数が南方戦線に到着するまでに失われている。 戦闘に参加できただけでも幸運ですね。
・飛燕は安定した機体で射撃精度が 高かった マウザー搭載機は凄い エンジンはドイツも同じ手こずってた。
・総撃墜数38って当時のエース級としては珍しくない数なのだろうか? 凄まじい数と思ってしまった。
・俺の親父が言っていた。 各務原で俺が飛燕を作っていたから よく落ちたと。脱出は出来たそうだから安心したが。。
・独特の脚カバーのデザインに土井先生のセンスを感じる。
・エンジンは非力で信頼性が低いが、機体設計は優れていたということですね。
・なるほど…ご縁というか、何と言うか… 帰りたかった大尉の想いが繋いで下さったんでしょうなぁ…
・カワサキの戦闘機 当時高度1万で編隊飛行可能 すごい!
・ちょい前にやってた、幕張名物レッドブルレースって、もうやらないのかな。
・BF109はGとかKが出てくる時代だから、F型より優れてると言ってもなぁ・・
・ボロボロの「ハ−40」が旧所沢市役所の入口に展示してました。 40年前の話。
・カワサキのZ-1パーツ関係で儲けたお金を飛燕に使うなんてドレミの社長やるねー
・…ドレミコレクションってアノ族車(旧車)御用達の?…こう言うのにお金を使ってくれるのはイイ事だな…。
・ドイツの技術力には本当に驚かされる。
・操縦者の故郷に帰還とは、胸熱ですなあ・・・・。
・あの、ドレミコレクションが購入したのは意外!
・飛燕はカッコいいですね
・こんど見に行こうと思います。合掌。
・戦争を美化してはいけない!
・還るべくして還ったという運命的なものだったのですね。
・ピストン?
|
![]() |