( 175092 )  2024/05/28 18:01:18  
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ローマ教皇が同性愛者への差別発言 イタリア紙報道

CNN.co.jp 5/28(火) 10:50 配信

https://news.yahoo.co.jp/articles/f5946736f47d5904ff7c8c7fe1f79c0ac7afbd3d

 

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フランシスコ教皇が同性愛者に対して差別的な発言をしていたことが報じられた。

先週の非公開会合で、男性同性愛について差別的な表現を使ったとされる。

バチカンは過去に積極的な同性愛者や同性愛傾向を持つ者を聖職者に任命しない方針を示しており、フランシスコ教皇もこの方針を支持している。

一方で、同性愛者への理解を示してきたこともあるが、今回の発言について正式な議事録はない。

フランシスコ教皇はイタリア語が外国語であるため、自身の言葉遣いが侮辱的であると認識していなかった可能性も指摘されている。

(要約)

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ローマ・カトリック教会のフランシスコ教皇が、同性愛者に対する差別的な発言をしていたことが分かった 

 

(CNN) ローマ・カトリック教会のフランシスコ教皇(87)が先週の非公開会合で、同性愛者に対する差別的な発言をしていたことが分かった。イタリアの2紙が伝えた。 

 

写真特集:歴史の息づくローマ教皇の離宮が一般公開 

 

27日付の伊紙コリエレ・デラ・セラとラ・レプッブリカが内部情報として報じたところによると、教皇は20日、イタリア人司教らとの会合で男性同性愛に対するイタリア語の差別表現を使い、一部の神学校に同性愛がみられると述べた。 

 

司教らが神学校入学資格の改正を提案したことを受けた発言だった。 

 

ローマ教皇庁(バチカン)は2005年、積極的な同性愛者や「根深い」同性愛傾向を持つ者を聖職者に任命することはできないとの判断を下した。教皇は16年にこの判断を支持し、18年には同性愛者を聖職候補生として受け入れないよう指示を出した。 

 

教皇は一方で、自分に同性愛者を裁く資格があるのかと問い掛け、同性カップルに司祭が祝福を与える可能性を認めるなど、性的少数者への理解を示してきた。 

 

コリエレ・デラ・セラは、アルゼンチン人の教皇にとってイタリア語は外国語であるために、自身の言葉遣いが侮辱的な意味を持つと認識していなかった可能性もあると指摘。教皇の発言に対し、司教らからは信じられないといった調子の笑い声が上がったと伝えている。 

 

非公開の会合だったため、正式な議事録は作成されなかった。CNNは教皇の発言についてバチカンにコメントを求めたが、返答は得られていない。 

 

 

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・教皇の発言を差別と捉える声もあれば、宗教の教えや歴史的な背景から受け入れるべきだとする意見も見られる(まとめ)

( 175096 )  2024/05/28 18:01:18  
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・差別的表現は良くないが、教皇にとって外国語なら、それが失礼な表現と知らなかった可能性はあるかな、と思います。 

 

そして注目すべきはこれが神学校の話だということです。 

 

神学校は文字通り、神父になろうという人が行く学校。 

そして神父は一生独身の規定があります。 

つまり神父は、同性だろうと異性だろうと恋愛沙汰自体が厳禁、同性愛だけがいけないのではなく、彼女を作るのも同じく御法度。そして、どうしても彼女と結婚したいのなら、神父はやめるしかない。 

 

これからこのような厳しい世界で生きてゆこうという学生が、同じ学生同士で、彼氏を作るなどという行動をしていたら、苦言を呈するのは当然であって、同性愛差別とはまた別の問題でしょう。 

神父ともあろう人が、彼氏でも彼女でも、恋愛関係になったりしていたら、それこそ、信者からの信用問題になってしまいますし。 

 

 

・ローマ・カトリックの総本山、しかも神学校。 

宗教の中心での出来事を「差別発言」とするのがおかしいと思うけどね。 

理解は示しつつも、カトリックが全面的に同性愛者を受け入れたわけじゃないし。モノの見方として、何か根っこの部分で間違っているんじゃないかと思う。 

 

 

・そういうことってセンシティブだから 

そもそも公式の場で話す事ではないのでは 

話すから 

問題だと問いただされる 

子をなす事が全てではない 

 

人は何に対して恐れているのだろう? 

同性愛の風潮になる事を恐れているのだろうか? 

だとしたら、 

なぜ同性同士で子を持つ事ができないのだろう? 

そうしたら、 

人は誰を愛しても良いという 

「赦し」にならないのだろうか? 

 

まだ、この時代は赦しは存在しないのだろうか? 

 

決めつける事は 

時として暴力にもなりうる 

 

 

・もともとカトリックは同性愛が御法度だったから、今回の発言疑惑は同性愛に寛容だといわれている教皇の本音が、つい出てしまったんじゃないかと。 

 

私的にはそう思うが真相は藪の中。 

 

それでも、今回の疑惑があった後も教皇がLGBTQに理解を示され続ければ、それでよいと思う。 

 

 

・差別発言って言葉を簡単に使いますね。 

個人の考え方も個性の一つ、同性愛者を受け入れるのも個性なら、嫌だと思うのも個性でしょ、多様性って片方の意見だけ認めない事でしょう。 

都合の良い時だけ差別だと言うのも違うと思うけどな? 

私は同性愛者は嫌です、でも公表してくれたら安心します。 

 

 

・カトリックですが、神父を目指す神学校で「姦淫するなかれ」の戒め(規律)に反する行為があることが問題だと思います。それは対象が異性とか同性とか関係なく、です。 

もしかしたら適切ではない言い回しが含まれていたのかもしれませんが、教皇の立場で神父・神学生の同性愛を認める訳にもいきませんし。ローマカトリック教会の内部で進む、こういった問題の方がより重視されるべきではないかと思います。 

 

 

・宗教に現代の価値観、もしくはそこへのアップデートを早急に求めるのは難しい気がする。 

ヴァチカンなのでこういう記事になっているが、では例えばイスラム教信仰国にもそれを促せるかと言うと、暴動が起こる事にもなりかねないので難しい。 

「同性愛への理解には時間がかかる集団(主に宗教)も在る」事は理解しておかなくてはいけない気もする。 

 

 

・多様性を認めるなら、少数者への否定的な意見も 

同時に認めるべきだと思う。 

そもそもキリスト教もユダヤ教も同性愛を 

認めてない訳だし。 

 

ましてやローマカトリックは神学校での男児への 

性的暴力が膨大な数あった事を公表している訳で 

現在進行形にしないためにも厳しめの表現にならざるを得ない 

事情があると思いますので 

その辺りを考慮する必要があると思いますね。 

 

 

・宗教に今のリベラル感覚を持ち込むのは違うんじゃないかな。 

日本でも宗教上、女人禁制となっている場所があるけど、それは祀られているのが女性の神様で女性を連れて行くと嫉妬してその女性に災いをもたらすなんて言い伝えがあるからだったりするからね。 

それで言えば女人禁制は女性を差別する意味ではなく、女性を災いから守るためのしきたりであって、女性を守るために行われていることなのに何を批判する意味があるのかと思う。 

ホント嫌な時代になったね。 

 

 

・宗教観の薄い日本人ならば、単純に宗教も多様性を受け入れるべきだと言いだしそうだが、長い歴史の中で培われてきた世界的な宗教においては、それは非常な高いハードルを伴う事は理解すべきだろう。同性愛どころか異性間の恋愛ですら、現代的な価値観を全て包括しきれてはいない。信仰とは個人の感情が思いのままにならぬ事も含み、それが認められないならば、その信仰を選択しない自由こそが尊ばれるべきだろう。 

 

 

 

・そもそもバチカンがリベラルな発言するのが間違ってるからな。今の教皇は宗教指導者より政治家の面が強い人だから、リベラルにもつきあってくれるけど、本心ではわからん。 

近年、ジェンダー絡みの権利問題が人権話題の中心になりがちだけど、子供と女性の権利や安全が脅かされる事態に対してははっきり保守的と言われる立場を持ってるし。 

 

 

・これを差別だというのなら、その差別のない別の宗教に改宗すればよいだけでしょう。 

それらを認めないというのが神の教えならば、その教えを受け入れるのが信仰というのではないですか? 

神に教えを改めよというのは、宗教としての根幹から崩れる話です。 

そう簡単に宗教に変化を求めてはいけないのだと思います。 

 

 

・実態は言語のニュアンスの違い以上のことはないのだろうと個人的には予想する。 

そもそも教義からして本来は同性愛はタブーなのだから、逆によく時代に合わせて少しずつ組織的に寛容になる動きにできていると尊敬する。 

 

 

・差別と言う言葉で語るのもどうかと思うけどね 

元々、宗教の教えでいけば男女による性別で、そこから子が産まれるとの摂理になっている訳であり 

今のような同性愛と言う考えが教えとして正しいのか、どうかすら怪しいでしょう 

今の時代や色々な背景を元に現代では同性愛と言うのが認知されているが、全ての人が全て受け入れる訳ではなく個人の考えによるものであり、 

それを強要するのもどうかとは思うし、非難しても考えは変わらないでしょう 

 

 

・旧約聖書のソドムやゴモラの例を見れば分かるように、キリスト教において同性愛は人間の堕落の象徴と見られているので、「価値観の相違」であって「差別」ではない。 

同性愛者を異性愛者と同様に扱わなければいけないという考え方も1つの価値観であるのであるから、ある価値観をもって、もう一方の価値観を「差別」と断じるのは早計だと思う。 

 

 

・キリスト教(カトリック)のかなりの数にのぼる神父が,小児に対する性的虐待で告発された事件は衝撃的でしたが,これまで隠蔽されてきた裏の事情が明るみに出ただけです。今に始まったことではないのは明らか。同性愛は性的逸脱であり宗教上では罪とされているのに,ローマ教皇が同性愛者を容認する声明を発表したのも,時代の流れに逆らえなかったからでしょう。それでも本音は・・・ということなのでしょうね。欧米で,若者の宗教離れが大きな流れになっているのも偶然ではないでしょう。 

 

 

・議事録をとらなかったとの事なので、発言の有無も有耶無耶になっていくでしょう。 

 

なんでもかんでも議事録という人がいますが、発言自体が慎重になってしまい会議自体の意味が薄れたり、発言の曖昧さやニュアンスが伝わらなかったりでデメリットもたくさんありますよね。 

 

人間、常にそんなに深く考えて発言しているわけではないのに、文書にすると言葉じりを捕まれる傾向が強くなっていますよね。議事録をとらないという選択が、今後より一般的になっていくと考えさせられるニュースですね。 

 

 

・宗教の同性愛についての問題は、短時間でどうこう出来るモノではないだろうね。 

 

教皇が地動説を認めてからまだ数十年しかたっていない。 

進化論もまた同様、近年にいたるまでそもそも否定されてきたし、現在でも完全に認めたわけではない様子だ。 

 

私達人間が生きている世界は「正しさ」が全てに優先するわけではない。そもそも正しさが他の人にとっては悪になる事もあったり、正しさ自体がコロコロ変わる事もあるし。 

 

宗教に対して異なった理屈が浸透するには、反発を抑える為に徐々に緩やかな変化にならざるを得ないでしょうね。 

 

 

・神父に同性愛者が多いという話は昔からある話。 

宗教上同性愛がどうこうではなく、神父になる人間に恋愛が許されるのかどうなのかという話だと思う。 

 

それと、差別なのかどうか? 

表現的に差別としているが、なんでも揚げ足を取って差別ということにすればよいというものではない。母国語以外での発言なら尚更意図を確かめるべき。 

 

 

・教皇が差別用語を使ったから同性愛者への差別、とも言い切れないような。母語ではない言葉をうろ覚えで使った可能性もありますし。神学校での同性愛問題に関しては、カトリックの宗教者の児童に対する性的虐待事件がありましたから取り締まりの対象になるのは理解できます。 

 

 

 

・LGBTを問題視している人々はこの問題が人間の道徳観の普遍的な問題と捉えているのだろうか。もともと姓の違いがあり、その役割(社会的枠割でなく、生物学的な役割)に違いが存在する以上、男女(雄雌)は異なる存在と考えるのが普通であり、それこそ普遍的な価値ではないだろうか。同性愛についても、あくまで性的には生物的・自然的な視点において正常とは異なる行為であり、それと社会的な差別問題とを混同して考えるのは無理があるのではないだろうか。宗教はより人間を歴史的過程の中で普遍的に捉えていく哲学的な存在であるので、現在の社会科学的な価値基準で宗教的な行為や考え方を裁くべきではないと思う(変化してよい部分と変化すべき部分の区別はより慎重に行うべきではないだろうか)。 

 

 

・カトリック神学校は厳格であるべきだと思いますよ。神学校で教義を理解した上で、実務を経てある程度は同性愛を許容する判断ができるようになると思うんです。 

宗教者は同性愛であってはいけないんだと思う、一般庶民はある程度は認めよう、ではないかと思う。 

外国語は使い方で誤解されるから、言い間違いもゼロではないかなと思います。 

 

 

・性的に抑圧の高いカトリックで同性愛を禁じていたのは、不倫など男女間の不適切な関係を避けるために利用されがちだったから、という背景がある。 

その背景をなんとかしないといけないんじゃないかな、と思うが、それも含めてカトリックなんだろうからなあ。 

但し信仰のない人を差別したらそれはあり得ないと思う。 

 

 

・20世紀後半以降に顕著になった人権意識とそれに基づく人権に関する国際条約の体系は、いわば第二の宗教改革とも言えるものだ。16世紀の宗教改革は、聖書を根拠として、北ヨーロッパのルター派教会や英国教会等がカトリック教会から離脱した。その後、30年戦争等の混乱があったが、ウェストファリア条約に至って近代的な国家の概念が確立した。その結果、ヨーロッパは小国に分かれている。20世紀の人権革命も、キリスト教文化圏で起こった、いわば文化革命だ。聖書には男尊女卑の神話がある。男の肋骨の一部から女を造ったという神話が。この人間観に基づいて、キリスト教文化圏では夫婦同姓だったが、個人の自由と尊厳、権利の平等性が自覚され、今では夫婦同姓を強制している国は日本以外にはない。日本は、1898年の民法で、西洋式の夫婦同姓を導入した。それは脱亜入欧の欧化政策だったが、日本にだけキリスト教式の夫婦同姓の強制が残っている。 

 

 

・そりゃカトリックの親玉が同性愛容認とかないだろ。 

そしてそれの何が問題なのさ。 

教皇として、神の教えをきちんと伝えるべきだ。 

同性愛者や中絶者は神がお赦しにならないし、審判で救われることもない。最後は地獄に堕ちるよって。 

それを知ってて伝えないのはどうかと思うよ。教えてくれたらそんなことしなかったのにって人もいるだろう。 

宗教指導者として、言うべきことは言ったほうが良くないかな?教皇本人がどう思うかではなく、教皇の立場ではなんと言うべきか知ってるはずだよね。 

 

 

・伝統的な宗教の立場からはある程度やむを得なことなのであんまり突っつかないほうがいいと思う。 

宗教が世俗の法や制度に干渉できるのなら話は別だが、そうでないなら必要以上に黙らせようとすることのほうが問題あるのではないか。 

 

 

・歴史的に見るとカトリックの聖職者の間では、同性愛も、人妻との不倫も、小児性愛も普通に存在したが、「聖職者の権威」で蓋をしてきただけ。大人同士の同性愛は、人妻と子を為すことや幼い子を手籠めにすることよりは、全然罪ではないと思う。リベラルなイメージの現教皇が発言したから意外だっただけで、教義上禁じているのは事実で、多くの聖職者が実際にはそうであるのも事実。 

 

 

・こういう発言力、影響力のある人のこういう話題、最近結構見かけますね 

 

でも、自分は今の風潮が怖いです 

 

世の中が『こうあるべし』と決めた事から少しでも外れると、寄ってたかって執拗に叩きまくる、人格を全否定する 

 

多様性の時代とか、個を尊重するとか、いかにもな事を言うのに、個人的な好き嫌いは認めない、無条件に仲良くしろ、みたいなね 

 

他の人の事は判りませんが、自分は個人的な思想・信条・主義・主張について、もっと自由を認められて良いと思っています 

 

それで好き嫌いをいう事も、個人の自由ではないかと 

 

もちろんそこには、それを他者に強要しない、という条件は付きますが 

 

そもそも容姿、性格、嗜好の違いなどについては好みが別れ、それに基づいて付き合い方、関係性に差を付けるのは誰もが日常的にやっている事のはずです 

 

好きになれない事を、嫌いだと認める事を許さない社会って、本当に正しいのでしょうか 

 

 

・人に批判されようと決断選択したものの価値は本人しか変えられないし、そもそもみんな違うんだからそれぞれであっていいと思う。 

差別したい人はすればいいし、したくない人はしなければいい。 

故意を持って人を貶めたり、殺したりしなければ良いと思う。 

自分や多数の価値観を選択したいと思わない人に押し付けるから争いが起きる。 

 

 

・キリスト教ってもともとそういう宗教なんよね 

日本も鎖国していた江戸末までと明治以降とではキリスト教の影響を受け同性愛への社会的見解が大きく変わった経緯があるし(江戸まではもっと寛容だった) 

 

年寄りの教皇が時代にあわせて価値観を変えていく作業はなかなか難しいのかもしれない 

 

 

 

・事実としてキリスト教の教義として一貫して同性愛はノーなんですよ。 

キリスト教の大派閥であるカトリックのトップがそれを発言することそのものは教義ベースで考えれば至極当然なことだし、幹部起用の条件としてその辺を盛り込むことも別に異常なことではないと思う。 

他派閥や他宗教とか無宗教の人にそれを強要したり、何らかの圧力かけたりすれば問題だと思うが、何でもかんでもジェンダーうんぬんとか、差別云々って言えばいいってもんじゃないと思う。 

 

 

・そもそもが昔ローマで同性愛は普通にあったがキリスト教が入ってきて禁止されるようになったと聞いた、となると教皇という立場での発言であれば当然のことなのかも知れない。 

 

 

・教皇も神様じゃないんでポロっと本音がでちゃったんだよ。 

昨年末は同性愛者に対して認めるようなことを言っていたが悔い改めて 

自分に正直になったんでしょ。言葉の問題のようなことを言っている人もいるが中南米の中で最もイタリア系が多いのはアルゼンチン。そんな環境で育って知らないわけはない。スペイン語でもイタリア語でもmariconは同じ。スペイン語にないのはfracioかな。若いころは用心棒とかやっていたようなんで言わないようにしている方が難しと思う。 

 

 

・いくらローマ・カトリック教会の教皇でも一人の人間だ。しかも相応の高齢者。 

差別発言が厳しくなっている昨今とは言え、 

人間、そう簡単には変えられないものだ。 

昔は同性愛は悪とさえ言われていた時代が長く続いていたため、教皇もその考えを改めるのは難しいだろうね。 

 

 

・そもそもで言うとヨーロッパの道徳は宗教によって作られた。 

「なぜ人を殺してはいけないのですか?」の答えは、神が殺すなと言ったから、が原初。 

 

まずそういう戒律ができ、次にイエスが愛を説き、 

神が人間を作ったので人にはおのずからrights(神の正しいありよう)が備わっている 

というところから「人権(human rights)」が生まれた。 

 

ところが近年はこの人権を絶対至上のものとして、「正しくないもの」を 

社会から抹消してしまうところまでいく趨勢が生じた。 

これはリベラルの暴走であるとして、アメリカでは保守とリベラルの対立と分断が起きてしまった。 

 

自分は最近は、やたらと人権をふりかざしてものを言う人を見ると、一歩引いて見るようになりました。 

 

 

・差別というが、政治家ではない宗教関係者の発言ですよね? 

長く続いている宗教の考え方は、現代的な一般論ではくくれないと思います。 

目くじらを立てて騒ぎたてたところで教義に反すると言われればお終いですし、こちらの普通を押し付けて問題にすることではないと考えます。 

 

 

・別に同性愛がどうこうとは言わないけど、同性愛を受け入れるのが当たり前だ、という風潮はおかしい。 

 

人の価値観は人それぞれ。 

 

同性愛を受け入れる、受け入れないは人の勝手。 

 

同性愛を否定したからと攻撃されるのって、それ思想の弾圧のはずなんだがな。 

 

ジェンダーの問題にしても、一部の国の勝手な理屈。 

それを当たり前のように受け入れを強制する。 

違和感凄い。 

 

その理屈なら世界的にレディファーストとは全面的に廃止しなきゃいけない。 

でもジェンダーを主張する人はそこには触れようとしない。 

 

 

・そもそも、ローマ教皇庁やキリスト教が完全無欠な平等意識や良識があるとは思っていない。 

本音が垣間見えたとしても、驚きはない。 

信じることや大事にすることを否定しないが、盲目的に、絶対視・信頼することは止めたほうがいいと思う。 

 

 

・ダンテの神曲では、確かダンテの恩師の先生が生前の同性愛の罪により死後は熱砂地獄に堕ちていて、ダンテが先生に痛く同情する場面があったかと思うが。カトリック教会の教えでは同性愛はご法度ならば、世情になびかず、その教えを維持するのが潔い。 

 

 

・神職につくなら、そも同性愛でも異性愛でも、愛情は許されるけど恋愛は御法度になるので…。 

まず、一般人へ説く話と、伝導者へ説く話は変わってきます。 

差別的な表現だったかは不明ですが、厳しい言葉はあってもおかしくない。 

 

 

 

・「教義において 同性愛を認めることは出来ない。」というのなら 

変に 世間に媚びを売って カトリック教徒を増やそうとか考えずに、 

正々堂々と 教皇自身の考えを伝えたほうが良いと思います。 

 

「カトリックは こういう宗教です!」と 

宗教上の立場を 明らかにしたほうが良いです。 

その結果、カトリックから離れる人がいたら 

それも仕方のないことです。 

逆に カトリックに魅力を感じて  

入信する人も 必ず、いると思います。 

 

 

・世界的な指導者の発言なので記事になってるんでしょうけど、言葉尻を捕まえては差別だ何だと騒ぎ立てるのが世界の流行の最先端なんでしょうね。 

少数派が折角押し通して無理矢理認めさせようとしている事に水を差す行為は、全て差別と糾弾して握りつぶそうとしているだけでしょう。 

言葉狩りですよね。 

少数派が何故認められないか考えた事がないんでしょうか。 

自分達が言ってる間だけしか認められないと言う、先を見る目がない全く意味のない行為だといい加減気付いた方が良いと思いますけどね。 

弾圧ではなく無関心になられたら一巻の終わりって分からないんでしょうか。 

飽きましたね。 

 

 

・現代はジェンダーレスが叫ばれている状況ではあるが、 

それと宗教を結びつけて、"差別"発言に結びつける事は、 

軽々だと感じる。 

カトリック教会の最高指導者であると同時に、旧約聖書や新約聖書等々にも広い知見を持ち合わせている事を忘れない方が良い。 

CNNは現代の風潮からの視点でしかローマ教皇の発言を切り取っていないので、差別と報じているが、日本人の大半はカトリック教の成り立ちを理解出来ていない状況であるから、この記事をそのまま鵜呑みにする事はしない方が良いと感じますね。 

アダムとイヴの話を理解している方なら、ローマ教皇の発言は至極普通の事を言っていると理解出来るでしょう。 

それを知った上で、コメントすると、現代の世では"前時代的"と揶揄されても仕方が無い部分も理解できますね。 

 

 

・非公開会合ですし、カトリック教会の経緯からしてそういった考えを持っていたとしても不自然なことではないでしょう。 

時代が変われば宗教的な考えこそ差別そのものってなったっておかしくないかもしれませんね。 

 

 

・宗教的に同性愛は禁止なのだから、それを今の価値観に合わないから変えるというのはおかしな話だと思う。キリスト教ではない人の同性愛についてとやかく言ってないのだから問題ないと思う。 

 

 

・最近なんだかおかしいと思う。 

私は同性愛を否定はしないが良しと思わない人がいる事も認めるべき。 

人それぞれ考え方が違って当たり前で、なんでも押しつけは良くない。 

最近少数の方の考えや意見を否定する人を攻撃してマウント取る傾向があるけど、それは違うと思う。 

意見が違う事は当たり前だし自分の意見は曲げる必要ない、でもその意見を否定したり攻撃する事は最低だと思う。 

 

 

・最初に断っておきますが、自分はプロテスタントよりの求道者です。 

キリスト教は教皇の考えを広める哲学ではないので、聖書に帰するなら合ってるんじゃないですか??世論と同調しなくていい。世論は世論、聖書は聖書。 

キリスト教に世論へ同調を求めるのは違う。この世と聖書の価値観は相反する存在。世論の是々非々が分からなくなりキリスト教にそれら根拠を求めて安心を得たいのなら場所を全く間違っている。 

 

 

・カソリックだと同性愛も不倫も厳禁だし飲酒も厳禁だよ。 

イスラム教でも原理主義なら飲酒は厳禁だし不倫も同性愛も厳禁。 

平安から衆道とか言って黙認してきたのは日本くらい。 

普通に考えて、産めよ増やせよとか宗教教義に書かれているから、 

教主が異なる事を認められる訳が無い。 

 

 

・教皇の真意がどこにあったのな不明な段階でとやかく言うべきではないだろう。 

 

一方で、仮に同性愛を否定する価値観があったとしても、それがかの団体としての価値観なのであれば受け入れなければならないし、これを非難するのも筋違いというもの。 

変わる必要があると思ったなら、彼ら自身が変わるのだし、考えが分かれるなら分派なりなんなりするだろう。それが宗教なのだから。 

外野が「変わるべき」だなどと意見を押し付けることこそ恥ずべきだろう。 

 

 

・カトリックの聖職者はなぜ独身なのか? 

心の中の拠り所としての宗教から組織的な教団になったところで変化したのでしょう。 

想像するに心を捕らえて信者をいいようにできる地位にあるのが聖職者、悪い表現をすれば洗脳して信者を飼い慣らしている。 

 

ブレーキとして、聖職者の権限を世襲させて権力を次世代に継承させることを避けるための方策だったのではないでしょうか? 

禁欲を強いて一代限りとすることで世襲を許さない。 

 

生き物として不自然な禁欲を強いられるとあらぬ方向に向かう者もいる。 

同性愛しかり少年愛しかり。 

キリスト教は「産めよ殖やせよ地に満ちよ」の教え。(それこそ生産性のない)同性愛などもってのほか、大人の言いなりになってしまう少年をターゲットとした性愛など道を外れた犯罪。 

暴走する仕組みが内包されている。 

 

禁欲を強いて許婚を容認しないのは組織維持には好都合でもモラルは崩壊するでしょう。 

 

 

 

・元々ヨーロッパ諸国がアフリカ・アジア・米大陸を侵略し始めた時に「異教徒は虐殺してよい」「異民族は殺害してよい」と指示したのもローマ法王。こんな小さなことで騒ぐ前に歴代の法王たちの残虐ぶりを広く知らしめ賠償させるべきだ。 

 

 

・宗教の門外漢が感じていることをいわせてもらうなら、正当性があると自称する宗教でさえ 

 

・「殺すことなかれ」とあるのに「殺し」をケースバイケースで黙認している 

・「同性愛」は忌避すべきだと経典(聖書)にあるのにこれもケースバイケースで認めている 

等々 

 

過去に一点の曇りもなく明文化されている教義や、真理は「一つである」と明言しているにもかかわらず、時代と共に「解釈」を変える。真理は一つでも(当時の)その解釈が間違ってたんだってさ。 

 

云うことを「(長い歴史スパンで)コロコロ変える」狼少年(宗教)をよくもまあ信じるものだと思う。人間は弱いので宗教は必要な時もあるのだろうが、「真理は一つ」などと言い出す時点で笑ってあげないとね(笑) 

 

だって、ほら真理は一つだけじゃないでしょう? 

 

 

・そうは言っても、彼の場合、両親はイタリア人(移民一世)だからなぁ。 

家庭内で両親が外国語であるスペイン語を使っていたとは考えにくい。 

学習言語のスペイン語の方が第一母語かも知れないけど、イタリア語だって「外国語」ではなく、第二母語だと思う。 

 

 

・同性愛は御法度… 

 

カトリックであれば理解出来るけど、それは表向きのこと、女性との性交渉は禁止していても、そうでない場合特に少年を対象にするのは様々に言われて来たことではないのかなぁ? 

 

 

・本来の法則や規則を変えず世相の流れに流され事を運ぶから色々な問題が生じる、何かを変えようとするならば先ずは基に成る部分から調整を始めるべきと思う。 

 

 

・宗教には独立した価値観があり、現代の価値観と相容れない点も有る。リベラル的価値観に基づいて宗教を裁こうというのは、宗教よりも上位だと考えているからだろう。なんとも傲慢な事かね。 

多様性が大事といいながら、自分と同じ価値観しか認めず、価値観の均一化を推し進める。この自分の正しさを疑わない幼稚さはどこからくるのかね。 

 

 

・伊紙は外国人にとってのイタリア語語句だからとか言うけどチリやペルー出身ならともかくアルゼンチンのそれもブエノスアイレス出身の教皇には当てはまらない。(同国は伊移民が多く首都は特にそうなので) 

罪深き者どもに庇ってもらわずとも信念のもとに出てきた言葉だから問題なく、恐らくは近年の進歩派による教会攻撃のテーマ『聖職者による少年レイプ』を避けるためにも同性愛者への罵りとなったであろうと思われるのにそれへの言及が無いのはいじめだろうか。過去にリベラルな発言をしていたとしてもイエズス会の人なので単純ではなく普通の世界の常識で"魔女狩り"やろうとしているだけに思える。問題は彼の発言よりそれを外にリークした者の存在の方。 

 

 

・「産めよ増えよ地に満ちよ」という組織の理念を実現を掲げ、それを支援するための業務従事者として配置されるのが聖職者で、業務に専念するにあたって職場恋愛を禁止(人生のすべてが職場あつかい)ってことなのだろう。合法非合法や人権を棚上げして現代の法律的に解釈すると。 

 

思想を型に嵌め、感情を律するところまで人権が制限されることと引き換えに、ステークホルダー(信者)からの信用なり支援を得るというビジネススキームなのだから、それを逸脱する構成員は事業継続性を危うくする存在として「指導」するか「排除」しなきゃならないわな。 

 

そんなにおかしいことなのか? というか、ポリコレって世界のあらゆる価値観に優先されなきゃならないほどご立派なものなのか? 

 

 

・まぁ母国語ですら侮辱的な言葉と知らずに使ったり、時代が変わればいい意味と悪い意味が逆になったりするから、知らずに使ったなんて事は有り得ますね。 

ヤバイなんて昔は悪い意味でしか使ってなかったけど、今ではいい意味として使われる方が多いくらいですよね。 

 

 

・そもそもキリスト教は同性愛は認めて無いから 

当然差別発言になるのは当たり前です 

結局同性愛は異端になると考えたら異教より異端は 

恨まれますからこの発言は当然だと言えます 

そもそも全てを一つの価値観で語るこの記事自体無理があると思います 

 

 

 

・カトリックならそうだと思う、いまの時代たからこんな事で騒いでるがそんなに騒いでるのはここ数年前からで、カトリックの教えは何百年と変わらなかったはずだから教皇は真の教皇だと思う 

 

 

・多様性の時代なんだから、さまざまな意見を取り入れたらいいんでは? 

同性愛者を由とするなら、同性愛者ノーも由とすべしですよ。それが多様性でしょ? 

 

同性愛者への独自のネガティブ意見を差別ってするなら、多様性って言葉は、タンスの奥にしまわないと、矛盾生じるよ 

 

 

・確か旧約聖書(レビ記?)に「男に対して妻にするようなことをするものは、殺されなければならない」みたいなことが書いてあると何かの資料で見た記憶があります。 

もし、そうであればカトリックの最高位にあたるローマ教皇が男性の同性愛者を積極的に支持するのは難しいのではないでしょうか? 

 

 

・聖職者による男の子の信者への性的な犯罪が大問題の教会運営、そのトップに立つ教皇としては、やはり同性愛者を教会で働かせることに危機感を持つでしょう。問題を増やす種、目の上のたんこぶ。小さな会合なら俗語の呼称ぐらい飛び出すでしょうね。 

 

 

・そらカトリックにおいて同性愛は御法度何だから、こと非公式の会合の場だとその手の発言もあるでしょという感想 

しかしこの手の事を教義として駄目としている宗教にまで言い始めるのは、多様性という名の新たな原理宗教になってる気がするな 

 

 

・同性愛を認める人もいれば認めない人もいるのは当然のこと。宗教が絡めばなおさら。 

最近同性愛やら同性婚やらやたら被害者のような訴えするのが流行って認めなかったらすごい悪者のように言われるけど、別にそこは個人の自由なんだから別に他人があーだこーだいう話じゃない。 

 

 

・「差別的な発言」について。 

今回は「放送禁止用語」のような単語(伊)を、そうと知らずに使用してしまったのかな?と思う。これを媒体やSNSが執拗に追及し、責任問題とする風潮には、同一思考を強要される危険性を感じるし、単純に言っても「言葉狩り」に他ならない。 

逆に、非公開である筈の内部会合での発言が、無断で公開されてしまう事自体、口封じであり、恐怖だ。 

 

 

・ローマ教皇は、その歴史やカトリックにおける位置付けから普通の宗教指導者と同列に語るのはナンセンス。同性愛に理解を示す方針を打ち出していた中、このような発言をしたのなら批判は当然。 

 

 

・宗教って簡単に言うと信じれば自分を幸せに出きるよ~って教えで、回りに優しく、自分に優しく、人を思いやって生きましょうねってやり方なのにね。 

1ミリも生かせてないよね。 

神のために戦争をするとか、教えに反するものは敵とか、ずいぶんと浅はかな都合の良い解釈でねじ曲げるのが好きだよね。 

だから好きになれない。 

信じれば幸せになれて世界平和を願ってるならその宗教が広まるはずだし戦争なんかとっくに無くなってるはずだし。 

自分も回りも幸せにできてない、悪口や嫌みを言って他人を不幸にする。 

それが宗教ならそんなもの無くなって構わない。 

神を信じる前に自分や友人、家族や恋人を信じてみたら? 

それすらできないのに、物への感謝もしないで自分が辛いときに助けてくれさえしない神に助けを求めるだなんて浅はかすぎるでしょ。 

 

 

・今の世の中、同性愛を非難したら大変な事になるから思っていなくても同性愛寄りにしている人は沢山いるはず。 

変な所で、言論の自由を主張したり、主張したら非難されたりで、顔色を伺わないと何も言えない世の中になっている。 

 

 

 

・好き嫌いはともかく、ローマ教皇がどういう宗教を信仰してるかも知らんけど、宗教的にそういう考えなら差別ではないのとも思うが、教義に沿っていて差別的というのなら宗教そのものが差別的やな。  

 

教義が認めているのか、教義に反するのか。それ次第ではその信仰そのものの是非を問われるやろうな。自分にとっては何にしても他人の趣味はその人の好きにしろだけどな。 

 

 

・人間は 

良いことをしながら悪いこともする。 

 

そもそも善悪という定義自体が 

曖昧模糊としているのだけれども。 

 

その人が置かれた 

立場環境地位時代によって 

常にその毀誉褒貶が付きまとう。 

 

一概にどうこうは言えないんじゃないかね。 

 

 

・宗教によっては許容できる事とできない事が 

様々なのは当たり前の事だと思います。 

それを信仰するかしないかは個人が決める事 

なのでこの発言を問題とする方がおかしいと 

思います。 

 

 

・そもそもカトリック教会の教義では、同性愛は「逸脱した行為」とされている。  

差別発言と切り取ると悪いかもしれないが、教えがそうなんだから自分は違和感無いけどね。 

もし時代にそぐわないとか文句言う人が居るのなら、大昔からある宗教全てが時代にそぐわないよ 

 

 

・世界中であれだけ聖職者による男児へのレイプ事件が起きてるんだから、当然の判断やろ。 

それなのに言葉狩りで問題をすり替えようとしているメディアの方が問題だね。 

 

 

・積極的な同性愛傾向のある人が司祭になって男性だらけの教会で集団生活したら周りはおちおち修行もしていられないので教皇の仰ることは至極普通だと思います。 

 

 

・こんなんよりも、ある特定の宗教を信仰している両親のもとに生まれてきたために、有事に輸血もしてもらえずに、命の危機にさらされている子供たちが少なからず存在することの方が大切なんじゃないの? 

 

 

・そもそも、カトリックでは断罪、糾弾される行為だし。容認する発言をすれば教義、信仰と矛盾が生じる。実際にカトリックで性的嗜好者がいたとしても。死罪、重罪対象となる宗教もあったような。 

 

 

・差別云々以前にキリスト教ってもとより同性愛に不寛容なんじゃなかったっけ? 

日本で稚児やら蔭間やらがなくなったのはキリスト教の影響だった気が。 

差別する価値観の宗教に「差別するな」と説くのもなんか違和感あるな。 

物事の良し悪しは別として。 

 

 

・自分とあまり関係ない誰かが同性愛者への差別意識を持っていたとしても別にかまわない。公の場で発言したのなら問題かもしれないが、そうでない場での発言をリークされただけだし。 

 

 

 

・厳格な宗教観では、同性愛を否定するのは不思議なことではないでしょう。それを批判の対象にしますか? ローマ教皇を政治家と見ることはできないでしょう。 

 

 

・宗教に、第三者が考えや価値観を強要することに違和感を感じる。 

その価値観や考えがおかしいと思うのであれば、その宗教をやめればいいわけで。 

私は宗教なんて、大して重要じゃないから、教皇が何を言おうが、私には関係ない。 

 

 

・聖書にはっきりとNGと書かれている以上、教条主義的なカトリックとしては認める訳にもいかないのだろうね。 

まぁ、なにも神様はひとりじゃないのだから、認めてくれる神様に祈れば良いさ。 

 

 

・>新約聖書のパウロ書簡では、「偶像崇拝や婚前性交渉、魔術や占いをする者と共に『男色する者』は神の国を相続しない」 

>旧約聖書では創造神ヤハウェは、「男と女が結ばれるべきだ」と命令している。 

 

まぁでも所詮宗教は人に道徳を説くための方便なんだから、時の権力者の都合に合わせた価値観を大衆に植え付けるため勝手に変えていくもんなんだろうな。 

 

 

・同性愛を全ての人が好意的に思えってのは横暴だと思う 

同性愛を認めないとは思わないし、自由にやってくれればいいが、それをどう思うかは自由じゃないのか? 

自分達の自由は主張するくせに、他人の自由は認めないはどうなんだろう 

 

 

・宗教価値観としては男女がペアであるという考え方が主だろうからそういう発言あってもおかしくないんじゃないかな。考えがアップデートされないのは多々あるんじゃない? 

 

 

・言葉に出しただけで、心の中で思うのは良いのか? 

宗教なんて、昔から色々な争いごとも起こし 

神父の未成年男子に対しての性的虐待なぞ有るのだから 

年寄りの言葉で大騒ぎする事では無いのでは? 

お金持ちのバチカン 世界の地域が飢餓に苦しんでも 

びた一文出さず内部留保で潤っている 

古い物の修復に使うけれど、現実には目を閉じている 

そんな傲慢な宗教家の話なんて耳を貸すがおかしいのでは? 

 

 

・>ローマ教皇庁(バチカン)は2005年、積極的な同性愛者や「根深い」同性愛傾向を持つ者を聖職者に任命することはできないとの判断を下した 

 

本来はこれが人として正しい考えだとされるべきなんだがな 

今の世の中がおかしくなってる事に気付くべき 

 

 

・どっかの知らない人間が勝手に作り上げた一宗教の幻想に踊らされる人間。歴史はその当時の為政者や権力者にとって都合の良い内容しか記録されない。考古学から読み解く事実とはかけ離れてる事が多々 

 

 

・神道みたいに教義が無ければ、時代に合わせて同性婚の神前式を行ったりできるのでしょうけど、ほとんどの宗教は教義でガチガチに固められているので柔軟には対応できないでしょう。 

 

 

 

 
 

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