( 178430 )  2024/06/07 17:37:38  
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Photo:Diamond 

 

 賃上げは定着するのでしょうか。注目したいのが三菱商事とトヨタの平均年収です。三菱商事1939万円、トヨタ895万円と、2倍超の格差があります。「業種が違うからでしょ」と思われる方、原因はそれだけではありません。実は、この格差には日本経済を蝕む「根深い病理」が隠れているのです。(百年コンサルティング代表 鈴木貴博) 

 

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● 三菱商事1939万円、トヨタ895万円 平均年収で2倍以上の大格差 

 

 6月4日の経済財政諮問会議で提示された「骨太の方針」案で、政府は賃上げを定着させるため、労働市場改革などに重点的に取り組むことを示しました。 

 

 インフレや円安が社会課題になる中で、政府の要請を受けて上場企業を中心に賃上げが相次いでいます。一方で中小企業を含めた日本経済全体ではインフレを賃金上昇が下回る「実質賃金の減少」状況が続いています。 

 

 賃金上昇は定着するのでしょうか?そして実質賃金は上昇するのでしょうか? 

 

 ここでまずご覧いただきたい興味深い2つの数字があります。ひとつは三菱商事の平均従業員年収が1939万円という数字。もうひとつはトヨタの平均年収が895万円だという数字です。 

 

 両社とも政府が要望する5%を超える賃上げ回答をしており、ここ数年、過去最高水準の利益をたたき出している日本を代表する優良企業です。それなのに、なぜ平均給与が倍以上も開いているのでしょうか? 

 

● 三菱商事にとって 「社員=無形資産」 

 

 今回の記事ではこの謎から、日本経済の賃上げの未来について論じていきたいと思いますが、先にネタばらしをしておきます。 

 

 三菱商事にとっては社員は無形資産であり、お金を稼ぐ武器です。一方でトヨタにとっては労働者は製造原価であり、削減したほうが利益があがるものです。 

 

 このふたつの真逆の方向性の考え方は、実は日本経済全体を蝕む社会問題でもあります。順を追ってお話ししていきたいと思います。 

 

 今、世界経済全体で成長するふたつの事業セグメントでは人的資本経営が重要視されています。 

 

 ひとつはマイクロソフトやエヌビディアに代表されるマグニフィセントセブンのようなITハイテク領域、もうひとつはゴールドマンサックスやビザ、バークシャーハサウェイなどに代表される金融投資領域です。 

 

 これらの領域で事業を成長させる最大の経営資産は人材です。ところがこの領域で今、おかしなことが起きています。 

 

 

● 多くの日本企業は採用市場で 「外資との給与競争では負け」と諦める 

 

 日本でのAIエンジニアは引く手あまたで、情報科学専攻の新卒の平均年収は598万円だという数字があります。ソニーでは大学院卒の新卒の最高年収を730万円に設定して、こういった人材を確保しようとしています。 

 

 しかし、問題があります。このような水準では優秀な人材が確保できないのです。 

 

 たとえばグーグルの新卒エンジニアの給与は13万ドル、つまり約2000万円からです。日本人学生が行きたいと考えるかどうかは別にしてファーウェイのような中国IT大手では新卒技術者は年収3000万円の水準です。 

 

 最近もあるIT企業のトップの方とこの話をしたところ「正直、東大の情報科学専攻の優秀な学生は、外資と競争になったらうちではとれない」と本音を吐露されていました。 

 

 ここが私が面白いと考えるところなのですが、日本の大手IT企業と日本のメガバンクはどちらも似た「外資との給与競争では負け」という考えを持つ一方で、日本の五大商社だけはそうは考えないのです。 

 

 商社では優秀な人材を安定的に採用して、高い報酬を支払って、彼らにビジネスの立ち上げ方を叩きこんで、投資先のビジネスを拡大させれば、大きな利益を得られるからペイすると考えるのです。 

 

 つまり、人的資本経営の考え方が企業の中に浸透しているのです。 

 

● 三菱商事「減益でも前年増のボーナス支給」は 人への投資が最優先だから 

 

 三菱商事の人的投資に関して面白いと思う点は他にもあります。 

 

 実は直近の2024年3月期に三菱商事は純利益が▲18%マイナスと大幅な減益を記録しました。そのひとつ前の期は資源価格が高騰した結果、空前の利益を稼ぎ出したのですが、その反動から昨年の資源価格の下落で利益は大きく減ったのです。 

 

 一般的に総合商社のような投資会社の報酬体系は業績連動になる場合が多いものです。利益が出た年はボーナスが多くなり、利益が減った年は少なくなる。 

 

 ところが三菱商事ではこの夏のボーナスは大幅減益にもかかわらず前年よりも大きく増やすのです。 

 

 これは経済学的には合理的な考え方です。人への投資が先にあることで、将来、リターンが後から得られるのです。 

 

 さて、このように日本全体が三菱商事のような考え方で人への投資を増やしていけば、日本の賃金の未来は明るいのですが、それとは違う別の考え方が存在しています。次にその業界を見ていくことにしましょう。 

 

 

● 自動車メーカーにとって 人=製造原価で「コスト」 

 

 日本で一番多くのお金を稼いでいるトヨタの従業員年収が895万円だと申し上げました。 

 

 日産、ホンダもだいたい同じ水準です。一方で同じ自動車業界でもSUBARUやマツダの場合はちょうど同じ658万円とやや低い水準です。 

 

 低いとは言っても年収658万円なら、いまの日本の平均世帯年収と比較すればうらやましいほど高い水準かもしれません。 

 

 しかしここで「三菱商事のこの夏のボーナスの平均支給額は641万円になる」という情報をお伝えしたら皆さんはどうお感じになるでしょう? 

 

 世界的な自動車メーカーで働き、日本経済を支える企業の従業員の年収が、大手商社の「夏のボーナス」とほぼ同じなのです。 

 

 これを「業種が違うから」と言い切るのは簡単ですが、それにしても不思議な格差です。なにしろ人材が企業を支えているという点では、商社も自動車メーカーも同じだからです。 

 

 そこで先ほどお話しした「自動車メーカーでは人は製造原価に反映されるので、常にできるだけコストを下げる方向に発想が進むのだ」という話が関係してきます。 

 

 ちなみに会計に詳しい方は「トヨタの研究開発費や本社スタッフの人件費は製造原価じゃないよ」とおっしゃるかもしれません。その通りなのですが、トヨタのディーラーから見ればどちらも製品原価で話は同じです。 

 

 もちろんトヨタや日産、ホンダといった完成車メーカーは政府の顔をたてて、今年の春闘では大幅なベースアップを回答しています。それはそれでいいのですが、実は構造的に自動車業界は大きな問題を抱えています。 

 

● 下請けを含む自動車業界全体の給料も 完成車メーカーの「人=コスト」思考のせいで上がらない 

 

 そのシンボルともいえるのが日産による“下請けいじめ問題”です。 

 

 原材料費やエネルギー価格が上昇しているにもかかわらず、下請けメーカーからの値上げ要請を認めないことから、日産は公取委からの指導を受けました。現場ではまったく変わらない“下請けいじめ”が続いていることが現在進行形で問題になっているのです。 

 

 日産は5月31日に記者会見を開きましたが、報道された問題については「法令違反と判断できる状況ではない」という見解です。 

 

 この構図はシンプルにいえば、日産の従業員は政府の要請どおりの賃上げを行う一方で、日産の取引先には賃上げを認めない強い政策を取っているということです。 

 

 なにしろ、製造原価に相当する部品のコスト上昇分について購買価格を上げないといっているのです。原材料費とエネルギーコストが上がっている以上、部品メーカーはどう考えても人件費を上げるのは無理です。 

 

 そしてここが問題なのですが、一次、二次…五次といった具合で多層のピラミッド構造になっている自動車業界の労働人口は、業界全体でみると完成車メーカーの4.8倍の労働人口を抱えています。 

 

 そのため、完成車メーカーの購買が一次メーカーの部品の値上げを認めない以上、その先の二次、三次、四次、五次の賃金も上がりません。つまり日産を放置している限りは業界の大半の労働者の賃金は上がらないのです。 

 

 自動車業界では唯一トヨタが今期の予算の中に仕入れ先、販売店の人への投資予算3000億円を計上しましたが、これを受けた日本商工会議所の小林健会頭は名指しを避けたもののそれでは足りないと批判しました。下請けへの支払いを1兆円増やすべきだというのです。 

 

 

● 「人=財産」と捉えなければ 日本経済の未来は危うい 

 

 総合商社と自動車業界、ちょうど正反対に見えるふたつの業界で問題提起をさせていただきましたが、日本経済全体で見ても問題意識は半々に分かれているように思われます。 

 

 つまり、「人は財産だ」という考え方と、「人はコストだ」という考え方に日本はまっぷたつに割れているのです。 

 

 では、日本の賃金の未来はどちらに進むのでしょうか。 

 

 ひとつ幸いなことには、日本企業は今、どこでもたいへんな人手不足の問題を抱えています。そして少子高齢化のトレンドを考えるとこの状態は長期的によくなる兆しはまったくありません。 

 

 だとすれば多くの企業が「人に投資をしなければ事業は継続できないし、成長できない」と気づいていく方向に、世の中は向かっているわけです。 

 

 そして今はまだ、自分の会社の社員のことしか考えられない企業も、いずれ「取引先の社員にも投資をしなければ長期安定的な取引は継続できない」と気づく日がくるのではないでしょうか。 

 

 日本の実質賃金が長期的に下げから上げに転じるには、まだまだ経済界の意識改革が必要な状況ではあります。 

 

 しかし、人的資本経営に取り組まなければ長期的な未来がないことも事実なのです。 

 

鈴木貴博 

 

 

 
 

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