( 178730 )  2024/06/08 16:51:02  
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東京・後楽園球場で行われた、交通遺児チャリティー スーパーカー・フェスティバル。1977年3月21日撮影(画像:時事) 

 

 1977(昭和52)年秋、日本のテレビアニメ界で異例の事態が発生した。四輪自動車レースをモチーフとした新番組が4本もスタートしたのである。 

 

【画像】凄い盛り上がり! これが1977年「スーパーカー・フェスティバル」です(計12枚) 

 

・『アローエンブレム グランプリの鷹』(フジテレビ系) 

・『激走! ルーベンカイザー』(テレビ朝日系) 

・『とびだせ! マシーン飛竜』(東京12チャンネル) 

・『超スーパーカー ガッタイガー』(東京12チャンネル) 

 

同時期に同様の企画が四つも生まれたのはもちろん偶然ではなく、“特定の背景”があったからである。1970年代後期、日本では空前のスーパーカーブームが巻き起こっており、4作品ともその波に乗ろうとしたのだ。 

 

 念のため確認すると、このときの「スーパーカーブーム」とは、街中に高価なフェラーリやランボルギーニのクルマがあふれていた現象ではない。スーパーカーが“アイドル化”したブームだった。 

 

池沢早人師 サーキットの狼ミュージアムの公式ウェブサイト(画像:サーキットの狼ミュージアム) 

 

 ブームのトリガーとして考えられているのは、1975(昭和50)年から『週刊少年ジャンプ』(集英社)で連載された池沢さとし(現:池沢早人師)のコミック『サーキットの狼』である。 

 

 この作品は、スーパーカーや4輪モータースポーツをモチーフとしたもので、ロータス・ヨーロッパに乗る主人公の風吹裕矢が、街の“走り屋”からプロのレーサーへと成長していく物語だ。作中にはロータス・ヨーロッパ以外にもいろいろなスーパーカーが登場した。 

 

 過去にもモータースポーツを描いたコミックやアニメは存在したが、いずれも主人公の愛車は架空のものだった。これに対し、『サーキットの狼』は実在する車種をリアルに描写したことが新しかった点である。 

 

 そして、コミックの人気が急上昇するとともに、1976年頃からスーパーカー人気も急速に盛り上がっていった。当時、スーパーカーに魅了された大人たちも多かった。しかし、コミックが発端となったため、ブームの主役は子どもたち(主に男子児童)であった。それが1970年代のスーパーカーブームの大きな特徴である。 

 

 

『超懐かしい!! 昭和のスーパーカー大図鑑』(画像:マガジンボックス) 

 

 一般的に「スーパーカー」とは、 

 

・高価格で 

・性能が傑出し 

・デザインに独創性があり 

・エンジンをミッドシップに搭載している 

 

2シーターのスポーツカーを指すことが多かった。“多い”と濁した表現にしたのは、それらが厳密な基準ではないからである。スーパーカーは定義なき称号なのだ。ただし、ブーム当時、 

 

「最高速度〇〇〇km/h以上でないとスーパーカーではない」 

 

といった不正確な情報も流れていた。当時、スーパーカーとされた車種は、イタリア、ドイツ、イギリスなど欧州のメーカーのものであることがほとんどだったが、日本の子どもたちは、スタイリッシュな外国のスポーツカーをなんとなくざっくりとスーパーカーとして扱う傾向もあった。ブームを代表するスーパーカーには、以下のようなものがあった。 

 

・ランボルギーニ・カウンタック:シザーズドア、リトラクタブル・ヘッドライトなどが人気を呼んだスーパーカーブームの顔。 

 

・フェラーリ・512BB:カウンタックと並ぶ高い人気を誇った。「BB」とは「ベルリネッタ・ボクサー」の略である。 

 

・ポルシェ・911:丸型ヘッドライトが特徴のフラッグシップ的車種。なかでも930は、初のターボモデルとして特に有名だ。 

 

 そのほか、ランボルギーニ・イオタは世界に1台しか存在しない“幻のスーパーカー”としてあがめられた。国産車初のリトラクタブルヘッドライトを採用した“日本のスーパーカー”トヨタ・2000GTは、すでに生産が終了していたことが価値をアップさせた。 

 

 そして、『サーキットの狼』の影響でロータス・ヨーロッパは日本では別格扱いだった。さらに、ランボルギーニ・ミウラ、マセラティ・ボーラ、デ・トマソ・パンテーラ、ランチア・ストラトス、ロータス・エスプリ、ディーノ・246などがブームをけん引していた。 

 

復刻超精密スーパーカー消しゴム(画像:京商) 

 

 ブームの主役が子どもたちだった以上、各おもちゃメーカーがプラモデル、ミニカー、ラジコンなどを多数発売したのは当然の流れである。さらに、スーパーカーの写真が印刷されたカード、ブロマイド、ポスター、カレンダーなども大量に流通し、子どもたちはそれを競って集めた。スーパーカーはアイドルだったのである。 

 

 文具も多数あったが、なかでも大ヒット商品となったのが「スーパーカー消しゴム」だ。文字通りスーパーカーを模した形状の消しゴムで、さまざまな種類やカラーがそろっていた。コレクションや交換の楽しさがあったとともに、これをノック式ボールペンでパチンと飛ばす遊びが全国の小学校で大はやりした。 

 

 スーパーカー消しゴムがヒットした大きな要因は、体裁上は消しゴムであるため、 

 

「堂々と学校に持っていくことができた」 

 

点にある。ただし、消しゴムとしての機能は著しく低く、鉛筆で書いた文字をきれいに消すことは難しいという大きな矛盾を抱えていた。つまり、正体はおもちゃだった。 

 

 ほかにもスーパーカー人気にあやかった商品はいろいろあった。各自転車メーカーは、ランボルギーニ・カウンタックやフェラーリ・512BBのように、通常は隠れているライトがスイッチを入れると飛び出すスタイルのスポーツ自転車を次々と発売した。それを「スーパーカーライト」と称するメーカーもあった。コカ・コーラ社は販売促進のために、瓶入りドリンクの王冠(フタ)の裏側に商品ごとに異なるスーパーカーのイラストを施した。 

 

 そして、スーパーカーを取り上げた児童書、児童向け雑誌などは多数出版された。子どもたちはそれらを熟読し、スーパーカーについての知識を蓄えていった。 

 

 スーパーカーがアイドルである以上、ファンは「生の姿が見たい」と考えるのが自然だ。外国車ディーラーのショーウインドーの前には、カメラを手にした子どもたちが集まった。リッチそうな家の駐車場を「スーパーカーは止まっていないか」とチェックする子どもたちもいた。 

 

 そんなニーズを最大限に満たすべく、人気のスーパーカーをズラリと並べた有料の展示会が開かれるようになった。これらのイベントは「スーパーカーショー」などと呼ばれ、東京の晴海国際展示場で行われた大規模なものから、地方都市のイベント会場を舞台とした中小規模のものもあった。「スーパーカーショー」が開催される街の電柱には、 

 

「夢のスーパーカー来る!」 

「フェラーリ来場!」 

 

といったコピーを掲げたポスターが貼られた。ただし、なかには人気車種を十分に集められず、それほど珍しくない外国車や、文脈が異なるクラシックカーなど“これじゃない”車種で水増しした例もあったようである。 

 

 

『笑点』のページ。赤い着物が山田たかお氏(画像:日本テレビ) 

 

 スーパーカーブームの絶頂期はおそらく、1977(昭和52)年の春から秋だったと考えられる。各地でスーパーカーショーが加熱し、7月になるとテレビ朝日が『ザ・スーパーカー』というレギュラー情報番組をゴールデンタイムで放送した。 

 

 同月、東京12チャンネル(現:テレビ東京)では、『対決!スーパーカークイズ』という視聴者参加型クイズ番組がスタートする。司会は『笑点』(日本テレビ系)の座布団配りになる以前の山田隆夫(現:山田たかお)だった。 

 

 さらに8月には東映系で実写映画『サーキットの狼』が公開された。冒頭で触れた4本のアニメ番組の放送が始まったのは同年秋のことである。 

 

童夢-零。東京ビッグサイトのノスタルジックカー・ショーにて。2007年撮影(東京ビッグサイト)にて(画像:Rikita) 

 

 アイドルの人気がいつまでも続かないように、スーパーカーブームもやがてトーンダウンしていった。ブームの退潮が明確になったのは1978(昭和53)年になってからだろうか。スーパーカーショーは停滞。上記四つのアニメ番組のうち3本が3月までに終了した。 

 

 もともと、これらの作品は権利の問題もあり実在するスーパーカーを登場させることができなかったため、ニーズとズレていた現実もあった。また、ポルシェを用いたカースタントを描いた映画『マッハ’78』が2月に公開されたが、こちらも興行的に惨敗に終わった。『対決!スーパーカークイズ』の司会者・山田隆夫は同年4月に『僕はカウンタックマン』というシングルレコードをリリースしたが、それがヒットチャートの上位を駆け抜けることは……なかった。 

 

 同じ1978年には新しい動きがあった。日本の自動車会社「童夢」が、「童夢-零」という試作車をスイスのモーターショーに出品し、日本製スーパーカーとして話題を呼んだのだ。この童夢-零はグッズ展開には成功したが、本体の市販化は実現せず。ブームを再燃させるほどの存在にはならなかった。 

 

『対決!スーパーカークイズ』が「対決!チャレンジクイズ」というノンジャンルのクイズ番組にリニューアルされたのは1979年4月のことだ。『サーキットの狼』の連載もこの年に終わった。 

 

 スーパーカーブームは一過性の現象ではあった。しかし、数年間の間に多くの子どもたちが自動車に憧れを抱いたことは、その後の日本の自動車業界に多大なるプラス効果をもたらしたことは間違いない。それは単なる流行ではなく、未来の 

 

・自動車ファン 

・自動車業界で働く人 

 

を育むきっかけとなったのだ。あの時代の興奮は、今も多くの人々の心に刻まれている。 

 

ミゾロギ・ダイスケ(懐古系ライター) 

 

 

 
 

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