( 182632 ) 2024/06/20 15:53:34 2 00 「子どもという商品の価値を高めて輩出するのが学校」県教育委員の発言を共産県議が批判、知事は議員の批判を「大変不適切」と逆批判読売新聞オンライン 6/20(木) 7:15 配信 https://news.yahoo.co.jp/articles/24abe12a7666de459f906aade2fbddbca0c862c2 |
( 182635 ) 2024/06/20 15:53:34 0 00 決して保護者のためではなく、国家繁栄のために教育があることを肝に銘じてほしい――。こうした富山県教育委員の牧田和樹氏の発言について、共産党県議と新田知事が19日、県議会で賛否を巡る応酬を繰り広げた。
富山県議会議事堂本会議場(議長席から議員席、傍聴席を望む)
発言は昨年8月29日~9月6日に富山経済同友会が主催した欧州視察であった。視察報告書によると、牧田氏は9月3日にデンマークで、同行した県内の現役教員らに講話し、教育を貨幣経済になぞらえた上で、「社会の役に立つ人材、つまり子どもという商品の価値を高めて輩出するのが学校」と語った。
これに対し、火爪弘子県議(共産)は県議会一般質問で、「子どもたちを商品と言い放ち、(人格の形成を趣旨とする)教育基本法を否定する考えの方は教育委員として不適格」と指摘し、任命者の新田知事の見解を問うた。これに対し、新田知事は「経済人として商品を磨き上げるのは当然」とし、「教育で質を上げる対象は子ども。それを先生や学校がやるというレトリックでお話をされた」と述べ、不適切ではないとの考えを示した。
さらに、新田知事は「民間人で公職についている方を、議会で議員が名指しで批判するのは大変に不適切」と火爪氏を批判し、「教育基本法のどこに違反するのか理解できない」とも語った。
また、牧田氏は読売新聞の取材に「一般論として任意団体主催の事業で発言したことを、公選された人間が議会で取り上げるのは異常だと思う」と述べた。
県教育委員会によると、教育委員は特別職の非常勤職員。議会に人事案を提案して、議会の同意を得た上で知事が任命する。
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( 182634 ) 2024/06/20 15:53:34 1 00 (まとめ) ・教育委員の発言に対して、子供を商品と表現することに批判が多く寄せられている。 ・教育の目的や役割に関しては、子供を社会に貢献するために育てるという視点と、個々の人間性や才能を尊重するという視点が対立している。 ・一部の意見では、教育は個人の成長や社会への貢献を促すものであるべきだという考え方が支持されている。 これらの意見や議論が交錯しており、教育や社会に対する深い洞察と批判が示されていることが伺える。 | ( 182636 ) 2024/06/20 15:53:34 0 00 ・教育基本法によれば「人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」とされているが、これを理解するうえで順序を間違えてはならない。まずは教育は子ども本人のために行われるものであり、結果として教育を受けた人間が国に貢献するという考え方が正しいのでは。これが逆になると、国のために子どもを教育するということになり、国の意向で教育方針が決まるなど、戦前の考え方を肯定し、全体主義的な価値観を許容しかねないと思う。
・教育は子供たちのためにすることであって、国家の繁栄は結果として後からついてくること。それが目的ではない。強いて言うなら、豊かな社会を作り、維持していくためのもの。それは国家とかの小さな単位のものでは決してない。保護者のためではないのはその通り。 それを踏まえた上で「社会の役に立つ人材、つまり、、、」のくだりは特に間違いではない。ただし「役に立つ」は必ずしも政治・経済の側面だけではないことは脚注として必要。教育が人の価値を高めるために行われるのは当たり前だし、大人になればなるほどそれを自覚して自発的に教育を受ける、あるいは自ら学ぶ。 前段の国家繁栄なんたらは「」にないということは、実際の発言ではなく筆者の創作なのでしょうか? 「」内の言葉だけなら、前後の文脈を省略している以上それが直ちに不適切とは言えない。 誰しも自分を商品とすることで(他者に価値を提供して対価を得ることで)生きている。
・子供と商品の例えが適切であるかは聞く人によって許容範囲が異なる例だと思うのでさておいて。
そのもの本来の性質にこだわって、もしくは囚われて、例え話が頭に入らない人というのは意外に多いように思う。 例え話は「◯◯と△△は同じものだ」といって持ち出されるだけではなく、「この部分の仕組みや性質に類似性がある」という使い方で理解の補助的に示されることもあるのだが、「◯◯はそうではない」と差異にばかり捉われて類似性を活かそうという思考にならない人に出会すと、なんで“例え話”だと割り切って理解できないのだろう、と不思議な思いになる。
まぁ、下手な例え話というのもあるけれど、「例え話とは何か」という前提自体に齟齬があるんだろうとも思う。 例えを必要としない理解力と説明力が双方にあればいい、ということか。
・公の前で言うのは不適切だが現実としての学校の機能という意味では間違ってはいない。
人というのは社会に出て就職や転職をする度に自分という商品を就業したい会社に売りこむもの。
自分という人間にはどんな付加価値があるのか、学歴、資格、過去の就業歴等からくる経験というものが商品としての価値を上げる事になるので、学校というのはまさにその初期段階を学ぶところ。
勉強はもちろんコミュニケーション能力や集団からくる人間関係の辛さや痛みも学ぶ場なので、不適切かもしれないが言ってることは全く間違ってはいない。
・公教育政策には、これまでも多くの産業界の意見を取り入れることが慣例となってきたと思いますが、ここで明治の公教育草創期の考えをそのままに、あからさまに表現することは、今となっては、どうかと疑問に思います。なぜか?日本の公教育として現在抱えている課題をどう受け止めているか、その時代的認識と共に、人権的デリカシーのない表現に、委員としての適材かどうかを問われる問題だと思います。
・私は商品という言葉は使いませんが、発言は正しいと思います。 特に義務教育では、学力はどうであれ、 「とりあえず生きている力を付けさせる」機能があります。 ただ、学校がそういう場所になってしまっているとも言えます。 そもそも、子どもの人格的価値を高める主導者は、親であり保護者であるはずなのに、学校にほぼ丸投げされているのが日本の教育。 学校教育の範疇をしっかり定めてほしいと願うばかりです。
・教育委員会の人間って別に現場教育に携わっている人間って認識は無いですよ。 それに議会だって任命に関わっている以上、責任は議会にもあります。 正直、この教育委員会制度は限界かと。 何も分かっていない人間達が公費を貰い、実態を認識せずに学校を評価する。 結果として、現場はそれを恐れて隠ぺいしたり歪曲したりする。 この関係性も今の教育の崩壊に繋がっていると思います。
・国家繁栄が目的って国家が主権者だった明治憲法の時代から、世界観が一切変わって居ないですね。教育委員としては不適切な倫理観です。 多分にこの教育委員は「国家」や「共同体(社会)」の理解が不十分で分別せず使っているのでは無いでしょうか? 教育に民間の視点を入れるのは決して悪い事ではないですが、商売人の理屈をそのまま教育に反映させるのは適切では無いですし、その辺りの公民教育は着任時に実施すべきだと思います。 現代の教育は子供の豊かで幸福な人生を作ることこそ主たる目的で、それを支える為「市民として共同体(社会)の為」に貢献できる人を育てる事が目的となります。
・知事まで出てきて、極めてみっともない。発言の真意を問われるなら本人が語るべき。
社会に使役され、上から金をもらえる人間になれという極めて古い教育観からの発言なのか、そうではない新しい価値観の提言なのか、海外視察の結果も踏まえてきちんとご自身で説明して欲しい。そこから生まれる議論が重要。一方的に言いっぱなしなのは良くないと思う。
・教育基本法の趣旨は、こどもの人格の完成を目指すわけであって、こどもの商品価値を高めることではないことは明らかで、こどもを商品になぞらえる時点でこの教育委員は適任ではない。解任が適切である。知事も教育基本法が理解できないからそんな人事を行うので、不信任を議会で可決。それがなければリコールで。
・世界的に教育について取り上げるのは、OECD(経済協力機構)であり、様々な統計を取ったり、状況を発表したりしている。 つまり、教育は国の経済と密接な関係にあり、教育に対する投資とか子供達の成績などが経済を支え発展させる人材となる。 日本だけが、人格形成とか平和な社会の形成という抽象的な目標を掲げるだけで、具体的にどういう知識レベル、技術レベルの人材を社会に送り出すのかという観点がないと観じる。 商品という例えは問題もあるだろうが、人材と置き換えれば教育委員長の発言は至極ごもっともなこと。
・「子どもは商品」ではない️ そのような例えは、売れない商品はダメだということになる。 子どもを商品に例えると、売れる商品、売れない商品(役に立つ、役に立たない)というレッテルを貼られかねない。断じてそのような例えは許されないと思う。 子どもが生涯人間らしく生きれるかどうかを学校は教えるところ、また、そういう社会を作れるよう頑張る人間を育てるところ。
・教育委員の言いたいことは理解できるが、言い方の問題は大きいと思います。共産党の議員さんからしたら不快な言い方だろうなと思います。 教育委員は単なる一般人ではなく、れっきとした公職であり、その立場はいつどこにいてもついて回るものです。発言に責任を持つこと、問題がある可能性があれば追及されるのは当然かと。
・子供を商品に置き換えるのは、例えが悪すぎる。 教育の現場を工場の設備の様に考えている。 生れつき障害の有る子供もいれば、家庭に恵まれない子供もいる。 商品は工場のラインで価値のない物を撥ねてしまえば良いが、人間の教育とはそういう物ではないでしょう。 この発言の方が「大変不適切」非難されるのは仕方無いと思う。
・教育行政に携わる方なのだから、言葉や表現には気をつけて欲しい。 学校現場で通知表の文言や児童生徒への言葉がけに神経を使うようになってずいぶん経ちます。教育行政でもほとんどの人は十分に気を付けていると思うので、ニュースにならないように気をつけて欲しい。
・富山県は高度成長期に悪評高き「二八教育」やって成功した体験があるからね。人口当たりの工業高校、高専の数は群を抜いていたでしょう。記事だけではわかりませんが、この発言はこの延長戦上にあるように思いますが、共産議員もすぐ噛みつかず事の真意を確かめ、そこにこの昭和の発想があったとしたらそこを正すのが議員の仕事だと思う。この発言も真意が異なれば全く意味は異なるのだから。
・まず第一に子供は商品ではない。そして、教育の目的は子供達が自力で生きていけるようにすること。 学校教育を始めとする各種教育サービスは、子供達が自力で生きていく為の手段を身に付けさせるものであり、付加価値を高める為のものではない。 教育委員を拝命するならば、それくらいは理解して欲しいと思うのだが。
・牧野氏の発言は、富国強兵や殖産興業のために優秀な人材を育てるべく国民皆学を導入した明治初期〜戦前の考え方です。現在の教育は子どもの学習権を充足するため行われています。子どもは身につけた学問を必ずしも社会の役に立てなければならないものではありません。自分の個人的利益や幸せのためだけに使うというのでも全然構わないのです。牧野氏の発言は教育委員に就く者としての資質に関わるものであり、議会で取り上げられることは何ら異常なことではありません。
・発言の良し悪しではなく、教育についての基本認識がずれていると言える。このような人を教育委員にしておくことは問題だ。 議会は行政委員会の行いを監視し、批判するのもその仕事のうちに入る。県議会に行政委員会の出席が求められ議会の質問に答えなければならないのは行政委員会と議会の関係を示している。 教育は何のためにあるのかを失念した暴言というべきものだ。
・教育長に言いたい骨子は間違いではないと思うが、最近の富山県内でのイジメや教育者の不祥事は小さな県なのに目に余る数。 その後のフォローも失策ばかり。 商品価値を高めるのは教員自身でもある。
もっとも気になるのは統一に近い考えを教育長も知事もお持ちだと言う事。
・世代間の感覚によって、「社会の役に立つ人材、つまり子どもという商品の価値を高めて輩出するのが学校」が、「子供=商品」と捉えるか「子供(という商品)の価値を高めて・・」と捉えるか、私は後者です。 世界ではまだまだ、教育を受けられずに貧困のまま生涯を終える国が沢山ありますし、そういう国には一部の多少(ズル)賢い人間が為政者となって納める国があります。 その様な事があるからこそ教育委員さんは、今回の「子供の価値を高めて輩出する」と仰ったのかと思います。
そして、コメントの中に「教育を知らない人間が教育を語るな」的な表現が散見されましたが、私は、「子供たちが社会に出て自立出来るように教育をする機関(学校)が、世間(社会)の常識を知らないでどうする。」と思います。
・言い方に問題があるのですね。 自分で自分を磨いて、就活の場で自分で「自分の商品価値」という言い方をするのなら問題はないけれど、他者がそれを言葉にして発するのは駄目なのです。 嫌悪感を感じる方は、人に商品という言葉を使った場合に無意識に「奴隷」のようなイメージを抱くからではないでしょうか。 子供を学校に行かせている親は、子供に幸せな人生を歩んでほしいという思いで教育を受けさせているわけで、そういった側面からも反感は買うでしょう。 ですので、この記事は「教育というものは本当に大事」という反面教師的メッセージとして受け止めるのが良いかと思います。
・これだから「会社」しか経験してない人はと思ってしまいます。よく教員は「学校」しか経験がない云々言う方がいますが、教師に世間知らずが多いのはそうとして、それを言う人のほとんどが勤めている「会社」しか経験のない世間知らず。 この委員も経済という視点からでしか物を見られない世間知らずに過ぎません。教育基本法には教育の目的は人格の完成であると書いてあります。社会の為に他人の為に働くという事も重要ですが、その為にはまずその人自身が幸せに生きられることが重要です。その為に学校はありますし、そうなる為に学校は改善し続けられなければなりません。
・「子どもという商品の価値を高めて輩出するのが学校」子育て中の親ですが、こんな事言う人が教育委員かと正直ゾッとします。子供は商品じゃない。仕事するために、経済を回すために生まれてきたんじゃない。質とか価値とか、人の命やなんだと思ってるのか。子どもの教育を本気で考えていたらこんな発想にはならないと思う。
・将来、社会人になれば自分の価値をアピールしていかなくてはならない。それが年収に結びつく。 旧帝大や早慶上智、MARCH関関同立等、有名大学に進学したり、英検準一級以上や国家資格を取得したりすれば自分の価値は上がっていく。当たり前の話。そうやって自分の商品価値を上げていって評価される。 子供の時からそういうことを意識しないと綺麗事だけでは生きていけない。
・子供を「商品」と言ってしまった時点でアウトだろ。 商品とは売買される対象だから。 子供自身が将来自らの労働力や能力を売る主体となるのは正しいが、子供自体が売り買いされる客体化される表現となっている。 つまり「子どもという商品の価値を高めて輩出するのが学校」だとすれば「奴隷育成こそが学校教育だ」となる。 そういう短絡化にならぬよう教育委員には高い倫理性と慎重な表現力が求められるところなのだが、これじゃ批判されて然るべきであろう。
・子供は商品ではない!
が、続きがあって大人は商品になりうる
何故なら社会に出るには一定の価値が無いと会社(社会でも可)に選んでもらえない
だから子供は大人になる前に何かを学ぶか身に着けるかによって価値(≒能力)を高めなければならない
もしそれをしなくていいなら学校に行く必要はないのでは?
・決して保護者のためではなく、国家繁栄のために教育があることを肝に銘じてほしい――。 「社会の役に立つ人材、つまり子どもという商品の価値を高めて輩出するのが学校」 「経済人として商品を磨き上げるのは当然」
富山県教育委員も富山県知事も 教育は国家のため、社会のため、経済のためといって だれも子ども個人のしあわせのためとはこたえてない 子どもが社会の犠牲になりそうだ 子ども個人のしあわせより国や社会、経済の利益が優先される そりゃあイジメもなくならん ひとりの被害者より集団の加害者を保護する旭川市と考え方が一緒
・「社会の役に立つ人材、つまり子どもという商品の価値を高めて輩出するのが学校」→間違っていない。就活でも「今は人手不足で売り手市場」などと「売り・買い」で人材の価値を商品と同様に表現するが、誰も問題視していない。 「子どもは商品ではない」と、きれいごとを言っても、現実には個人の能力・スキルは商品のひとつだ。
・社会貢献する能力を持った人材を育成する学校教育は素晴らしいと思う。しかし子供を商品に例えた教育委員の国語能力を疑う。子供を端から商品扱いした表現を知事は批判すべきではないのか。子供の人権に対する理解が足りない。
・この発言は例え話などではなく、牧野氏は本当にそう考えているのだと思います。 7年生まで成績表がなく試験もほとんどなく、思想の自由と平等、民主主義を特徴とするデンマークの教育を視察して言うことではありません。このような発言を容認する県。今後も女性流出、人口減少は止められないでしょう。
・子供が学校を卒業し生活の為に仕事に就きます。ほとんどが会社員や公務員などサラリーマンだと思いますが、就職の際の雇う側の判断は「本人のいろんな意味での商品価値」だと思います。 教育委員の発言は専門家として「ビジネス分野」に絞った事だと、一理あると思います。
・さすが「教育先進県」を自称する富山県だ。 かつて昭和30年代以降、県立高校で悪名高い「七三体制」(定員を普通科3、職業科7の割合に固定化して、県産業界のために安価な若年労働力を確保する)を全国唯一実行した富山県だ。 関東と関西のはざまの加賀藩の支藩という何もない立場で、経済活動に活路を求めた結果、教育は完全に経済界に従属し奉仕するもの、という思考が当たり前になったのだろう。戦後の高度成長期の人材育成活用思考が、いまだに富山県の政治・経済そして教育界には続いているようだ。
・政策の中身ではなく、言葉尻をとらえて非難するのは相変わらずですね。 そうかと思えば、自分たちがそのような批判をされると、シーライオニングだなどと言うわけです。 もう少し言葉を選べばいいのにとは思うけれど、比喩表現として言いたいことは分かる範疇ではないですか。 就職って、売手市場、買手市場と表現されて求職者は自分を企業に売り込む必要があるわけで、企業が雇いたいと思えるような人材になる必要がある。 特に外資系に採用されたいなら尚更のこと。 人材としての価値を高めることを商品として表現したまでのことだと、通常の国語能力と就職活動のやりとりを知っていれば分かることですよね。
・思うのだけどさ。何になぞらえて貰っても結構だが、各人格があり、自由がある。そういう人たちが集まって国があるんだから、国のために云々は本人の判断。国があって人がいる訳じゃない。国という制度は、あくまで社会を構成するために便宜上存在しているだけってのは言い過ぎだけど、まず考えるのは国じゃなく人。
・言い方はマズいけど、内容は正論。 学校を卒業して、少しでも良い待遇で迎えて貰える会社なり仕事に就いて欲しいと親は思います。その為に最大限の取り組みを学校が行ってくれる。 言ってみれば、子供の才能という資産価値に磨きをかけてくれる。子供そのものは商品ではありませんが、子供にとって自身の才能は、自身を企業等に売り込む「大事な商品」です。どれだけ企業等が高く買ってくれるか、就職活動って、子供本人による、自身の才能と将来性を企業に売り込む「商談」です。
・学校で時間を守り集団で学び健康維持の運動をしコミュニケーション能力を高めて周囲と協力し物事を成し遂げるのは社会に出て雇用されたときにきちんと仕事をこなせるようにするためでしょう。 この教育委員さんのおっしゃってる事は何も間違っていないのではないか。
・子どもたちを商品扱いするなら、大人だって商品扱いしていいと言うことですよね。この教育委員が経済人でこの発言が極めて普通のことと県知事が擁護するなら、賞味期限の切れた老人、腐敗臭の漂う政治家たちは「廃棄処分」という流れで問題なしと。知事がこのような認識で大丈夫なんですかね。選挙の時だけ「きれいごと」を並べても中身が別物なんでしょうね。
・労働力は商品です。社会に出たら、如何に自分の価値を高く認めてもらうか、四苦八苦します。子供を教育する側も、子供は大切な商品だと思えば、大切にしようと思うでしょう。
・『国家繁栄のために教育があることを肝に銘じてほしい――。』
どこぞの将軍様の「お付き」の方が言いそうなセリフ
『腐ったミカンの方程式』(某学園ドラマの教師が言ったセリフ)を思い出した 箱の中のミカンは1つ腐ると周りがどんどん腐っていくから、腐ったミカンは早急に除去しなければならないと言う例え
でも「生徒はミカンじゃありません!」とドラマの教師は言い放つ
この教育委員の発言はまさに「腐ったミカンの方程式」そのもの 心の中で思う事は自由だが、立場上公の場で発していい言葉ではないと思うよ
逆に聞くが、自分は「高品質の価値ある商品」として輩出された1人なの? その価値って誰がどう決めてるの? どこかで全国民の「商品価値」が数値化されているのかね
何なら私の価値も教えて欲しいんだが
・「商品」ではないが 何事もなく卒業証書を渡せることが今の教育にできる最大限の仕事 人間性や社会性等授業に直接関係ない事を教えようとしても 保護者からすぐにクレームが入り 処理に追われる 卒業証書さえ渡してしまえば責任から逃れられる今の教育者 夢や希望じゃやっていけない
・人格形成はいわゆる技術スキルだけなくコミュニケーションが重要です。そういう意味では、「商品」と直接的表現をするのはともかくとして、「人としての価値を高めて輩出する」とならば、それはおかしなことではないです。
・『子供は商品』ってとてもインパクトのある言葉だけで、判断していいのか?
そもそも記事内にもあるように、 >富山経済同友会が主催した欧州視察で >同行した県内の現役教員らに講話 >教育を貨幣経済になぞらえて >「社会の役に立つ人材、つまり子どもという商品の価値を高めて輩出するのが学校」と語った。
つまり、この場では『経済』という視点から物事を解釈するのがテーマだったわけですよね?
もちろん物事を安易に置き換えて解釈することで、本質を見失うこともあるから、必ずしも正しい事じゃない場合もあるけど。 そういう意味では、子供を商品と置き換える例えはその危険性を含んでいるとは思うけど、どこまでの意図でその言葉を使用したかは、実際の講話の全文を聞かないことには判断できんし、インパクトある言葉だけ切り抜いて批判するのはどうかな?ってなるわ
子供をダシにして政争してない?ってなる
・たとえ話の危険性だよね。わかりやすい分誤解を招きやすく、言いがかりをつけやすくなる。 昔ある大学(多摩大学?)の学長が「大学は学生という商品を就職先という消費者に選ばれるように鍛え上げる場所」という趣旨のことを言って批判を受けたけど、学長の反論は、「自校の立ち位置(新設の低偏差値)を考えると高尚なことを言う余裕はないし、学生のほとんどが一般企業の営業や事務として就職するから、学生のことを考えれば当然という話で納得はできた(学長ご本人は著名な経営学者)。 今回も児童を無理やり商品とするなら、教育基本法やそれに基づく各規程は国が決めた規格や認証基準及びその手順書のようなものだし、人格も商品の一部を構成する要素と考えてもいいし、のびのびと育てるは製造過程で元の素材の良さを生かした云々ともいえる。 ただ、行っていることは分らんでもないが不快感を抱く人がいるのは確か。
・「商品」ではなく「財産」と例えれば良かったのではないでしょうか? 「商品」では無機的な響きしか残りませんが、「財産」であれば「大切なもの」といった意味合いも入りますので違った捉え方もできるかもしれません。 まあ、発言者が学生を本当に文言通りの「商品」としてしかみていないのであれば言葉の選択も意味がないんですけどね。
・人間をモノに例えた例として「女性は子どもを産む機械」と話した柳澤伯夫厚労大臣がいたが、レトリックにしてもこれは不味い。 明治時代、列強に追い着く為に「富国強兵」制度を導入して産業の近代化を促して日本はアジアの中で比較優位の立場に立つ。教育もお国の為有為な人材を輩出する為のものだった。戦後、国民主権の国と生まれ変わった日本に、未だに国の為の教育を主張し、子どもをその為の商品と考える教育委員会は明治時代のおつむの弱さと形容しても問題なかろう。知事も同じ穴の狢だ。「商品」とか「機械」とか言う人間の視線は上から目線で謙虚さに欠け、人間とモノを区別しない単なる要素として国民を見て国民主権の趣旨から外れてしまう。この国民不在の教育論で教育委員会は日本を何処に導こうとしているのか、脅威である。将に、教育委員会を馬に例えるなら知事は鹿と言ったところか。
・「社会の役に立つ人材、つまり議員という商品の価値を高めて輩出するのが選挙。」
これを誰かに言われても批判するのでしょう。私達は商品ではない!と。「(どんな子どもでも)社会にとって価値ある」という例えが大事だと思うのですが。
そこを一律に管理するのではなく、社会の変化に合わせて価値を高めるにはどうすれば良いかを考えるのが教員の仕事。
論点は変わりますが、子どもを商品として考えていない教員も少なからずいます。未だに続く暴言、ブラック校則、分かりにくい授業、性犯罪など。採用試験の倍率が下がると更にそんな教員が増える危険性があります。
・教育委員て地域の名士みたいな人がなってるんじゃないの?名誉職みたいなノリで。 PTA会長みたいに。委員長は元校長みたいな人か行政出身だと思うけど。
個人的に知ってる人が教育委員やってます。そこそこ大きな会社の社長さんで捌けた面白い人だけど、「教育」って感じの人格者じゃないよ。 ただ、商売は上手い。話も面白いけど、「ぶっちゃけ話」が多い。前世紀でしか、業界内でしか通用しない例え話も多い。 確かにそれはそう言うものなんだろうけど、言い方がさぁ…ってところがある。
そんな匂いがする案件ですね。 学校教育って「子供の社会化」を担ってるんだから言ってることは大間違いではないとは思う。
・「企業が商品の価値を高める努力を怠らず製品を出しているように、子ども一人一人の個性や能力を高めて輩出するのが学校」と言えばよかったのにね。 共産主義においても市場において価値を高める努力は必要なんだから共産党さんもただ噛み付けば良いというものではない。むしろ自らを貶めている感がする。それぞれの知とモラルを高めましょう。
・批判殺到のようですが、この発言は近現代の資本主義社会の本質を突いていると思います。 近代以降の資本主義社会では、人間の個別性を全否定し、一単位の労働力や兵力として扱う前提で成立しています。学校は画一的で同質な、取り換え可能な規格化された社会の歯車としての労働者を生産するための機関です。そしてその品質を長く維持するために、福祉というものが生まれました。 戦時になれば国民皆兵の徴兵制が施行されます。学校教育によって同程度の能力の人間が揃っているので、無差別にかき集めても均質な兵士が用意でき、欠員の補充も容易です。 例えば選挙。これは人間の個別性を一切認めず、老若男女の別なく全て一票という同じ数字に変換し、ただその数だけを競うものです。中世の社会では、職業別や身分別に代表者を集めて話し合いを設けていたのとは対照的です。 根本的に近現代の社会制度が、人間の個別性を否定するデザインなのです。
・子どもを精神的にも経済的にも自立した一人の大人になるよう育てていくことが教育の大きな目的の一つです。 さらに大人には、子どもや高齢者、障害者など助けを必要とする方達の支えとなることが求められ、先の世代や教育機関など教えに携わる者には領域を分担(学校は学校内のことに責任を持つ、学校外は保護者というように)しながら、教育の機会を与え、導いていく責務があります。 経済人の会合において、指摘されているようななぞらえ方をされたとしても、特に違和感はありません。 一面を捉えて批判の矛先を向けるのは、言葉狩りのようにも思え、その指摘の考え方に怖いものを感じます。
・企業社会の中で努力し成功した人を教育委員とすること自体はおかしなことではないが、教育委員である以上は、自分の出身業界を超え人間性全体を見る広い視野が不可欠で、この委員のいうことは「商品」という揚げ足取り対象になりやすい言葉を抜きにしてもあまりに近視眼的で見識が欠如している。 それ以上に問題なのは、知事の発言だ。民間人とて公職につけば公的な責任が生じ、公的な弁明が必要なのは当然だ。公権力行使に関与する者が民間人という理由で批判を免除されるなんて特権はあり得ない。好き放題に発言するが、自分だけは批判を免れる権利があるというなら共産党と同じ。
・こういう人、社会にはいくらでもいると思うけど。 子供は商品、社員は駒。技能に価値を求め、得られた結果に対価を払う。 データで評価するだけで生身の人に接しないと、人を人として扱うことが欠如していくのかもしれない。ま、ある意味「効率的」な人たちなので、無機質でも有能ではあるんだろうね。
・商品は売り物です。買主が歓迎する商品を作る会社・工場が優れている。学校は工場です。生徒は商品です。良い商品の基準作りをして消費者に喜んで買って貰いましょう。経営者は利益追求第1で育って来たからこういう発想しか出来ない人が多い。この人もそう。民間人校長の多くが失敗するのと同じです。家庭は工場です。子供は商品です。教育委員様、あなたは親としてどう思いますか? 違うでしょう。
・子供は商品論で思うのは、いつだって言う側は「買い手」だと、自分は「価値ある商品」だと信じて疑わないところ。自分の子を「粗悪品」と判断されたら、「傷モノ」として学校から排除されたらまで想像がつかないのよね。 そもそも言っていいことの分別もなくくっちゃべって問題起こすだけの教育長さまは「価値ある商品」とは思えない「粗悪品」だから廃棄された方がいい、と言われてもいいんですかね…
・子どもの人格的価値を高めて輩出するのが学校と、言えば良かったのではないでしょうか。また、共産県議も教育基本法を持ち出すなら、日本の文化と伝統を大切にする活動を、心がけてほしいと思います。
・まあそういう考えでないと、産業国家ニッポンは持続しないだろうね。 まさにサステナブルな考えだね。教育委員ともなると、認識が違うね。 まあ日本の学校なんて小から大までそんなものだからね。産業のための人材養成の下請けだからね。 そうやって豊かな生活を持続させるのが日本人の最大幸福だからね。 日本中の教育委員が同じような事を言う人間かな? そういう人は、身障者は価値がないとなどと平気で考えてそうだね。
・教員が、教育現場で子供たちの前で同じ発言をしたら、多くの子供たちからは嫌われるでしょうね。
私は、この発言は正しいと思う。 ただね、だったら、教員の労働環境を良くしないと。
非常勤で良いので、一ヶ月、教育現場に立ってみて欲しいかなあ。
・工場は製品、研究室は開発物や論文、学校は生徒(生徒の進学先や就職先)がアウトプットなので、商品価値として考えるのは構わんと思う その商品価値を高めるため日々の投資活動を行うわけなので…
ただ今のご時世だとデリカシーというか人権?意識に欠けた言葉になる 言っている意味はわかるが言葉としては隙アリなものだと思う
・学校を一つの企業としてみれば生徒は商品に違いない。 さらに言えば教師は従業員であり親は株主と言っても差し支えはない。 知事が正しいと思う。 世界の社会主義や共産主義の国を見ればどういう教育が行われているのか知らないはずはないだろう。 知事を批判した共産党の議員は間違っている。
・言い方はとても不快ではあるけど、小学校とか中学校って割と「型にはまった良い子」を作りがちではあるよね…。道徳的価値観を身に着ける面とかで必要な部分でもあるのだけど。 そして大学とかの時には個性が大事とかそんな感じで矛盾してんなーと思った気がする。順を追って成長させていってると言えばそこまでかもしれんがね。
・1960年代末期、全共闘世代の私が高校の時、生徒の「教師とは何?」の質問に、ある先生は「調教師みたいなものだ」と応えた。その発言で、生徒たちは立ち上がって、全校ストを決行した。集会で「われわれは資本主義社会の要請する人材を育成する学校を粉砕する」と叫んだものです。やがて、教師になった私は、個の尊重を掲げて教育実践を進めました。進めるうちに気づいたことは、集団に適応する力を子どもにつけないと、社会に生きる人になれないということでした。つまり、個性を大事にしながら社会とうまく関われる人の育成が大事ということです。学校生活で部活や教育活動で育った子は、逞しく成長しました。ある意味では、「商品価値を高めた」と言えるでしょう。それを「不適切」と批判するなら、言葉狩りか「個性」に限定した教育観に拘泥した陳腐な教育観でしかありません。バランス感をもって人の話を聞きましょう。
・根本的に民主主義を否定しているということがご理解いただいていないようだ。民主主義社会においては人間を「商品」「もの」扱いする行為は許されない。民主主義の否定になるからだ。比喩として使うのもその辺の理解があれば当然でないはずで、おかしい。まあ理解していないんでしょうね。
・海外研修という内輪の会で経済学者として講演したとのこと、時には違った視点から考えることもあってもいい、根本的に間違っていないのではないか。その為にどのようにしたらも発言されているはずですね、教師の方々はどう捉えたかそこが知りたい。県教育委員と経済学者、二足の草鞋のこの人を非難できるのは講演を聞いた教師の方々だけですよ。ガチガチの共産系の人は理想を曲げないから癪に障ったのが本当なのでは。
・言い方の問題とか色々難癖付けてるけど、本質は何も間違ってないでしょ。批判している人たちも、例えば高校ならどこの大学に合格者が何人出てるとかそういうので序列つけてるよね。結局それが教育の質って考えてるわけでしょ?
国民がそういう評価をする以上、その本質をすっ飛ばしていくら言葉を飾ろうが意味ないでしょ。
・「子どもを商品と呼ぶな」という発言は、 裏を返すと、 「モノ」ごときが人間様と同格だと思うなよ という驕りにも聞こえるけどね 商売人や工業人に対しては失礼だと思わないのかな? 彼らだって商品を自分の子供のように扱ってるが?
そもそも、「ものの例え」的な表現を、 そのまま受け取っちゃう、 この議員の知性に問題があると思うけどね 世間の知性もそう
商売人にとっての商品が、 教員にとっての生徒だっていう、 ただの対比なんだけどね
なんでこの発言が問題視されるかがわからん 自分たちは散々「モノ」に支えられてるくせに、 「モノ」がないと生活できないくせに、 感謝の気持ちもないどころか、 「一緒にすんな」とは、驕りもすぎる
生徒に付加価値があれば、 それを求めて人や金が集まる それが生徒の人生を豊かにし、 幸せにつながる って意味だろ? なんでわかんないの?
・教育委員は公職なんだから、議会がその言動を批判して何が悪いのか。社会の役に立つ、なるほどそのとおりを考える意見も多いだろうが、役に立つの内容は何なのか、企業にとって都合の良い勤勉・均質さ、そして理不尽なことにも文句を言わないとかだろ。
・感情を持った商品なんてこの世に存在すらしないからなあ 強いて言えば どっかのプロダクションに所属する子役タレントぐらいか
経済人にとって商品とは どんな綺麗事言ったところで 利益を生み出すものでしかないでしょうに
いや 社会貢献だ と言うなら 常に利益無し トントンでやればいい
学校は企業にいい人材を提供する専門機関ではないし 子供は経済のものでもない
売り買いの対象となる物 と人を 公的な場で同じ言葉で括る神経を疑うし そういう考えは迷惑極まりない
・これは視点の問題。ミクロ的には、一人一人の幸福実現のために教育を行っているといえるが、マクロ的には、社会全体の幸福度を上げるためにやっている。 同じものを違う角度から見て議論をしても嚙み合わない。
・このようなこと言っているようでは共産党に理解を示す人はますます減少するでしょう。 子どもを育て教育することは子どもの価値を高めることです。 商品とのたとえは問題あるにしても、枝葉末節・重箱の隅をつつくことばかりしているようでは共産党の存在は必要ないでしょう。 過去日教組のおかげで日本の教育がどれだけゆがめられたか、自己反省の必要がありますね。
・日本人には最初から修辞学の心得がない。 話す側だけでなく聞く側も心得がない。
こうやって何かに例えて上手いこと言おうとすると言葉通りにキレられるんだから、上手いこと言おうとするのをやめた方がいい。
お互い教育がなってないんだから、悪いことにしかならない。諦めよう。
・んー、俺だったら「社会の役に立つ人材、つまり子どもという未来を担う原動力を高めて輩出するのが学校」って言い方を変えるかな。 言わんとすることはわかる。でも言葉のチョイス、言い方、伝え方に難ある教職者けっこういるよね。 ビジネス的に言い切るのも格好はいいけど、言うてじゃあそこまで仕事の成果が上げられてるかといえば、そうでもないのが現状でしょ。
・意味や内容を議論することより、その中で使われた言葉(単語)を問題にするやり方は、結局本質的な問題の解決にならないことが多い。また、本質を議論する力のない者の多くは言葉の揚げ足取りをすることが多い。
・教育の専門バカ支配ないし中央統制支配を防ぐ為に戦後アメリカからレイマン・システム(見識ある素人による統制)が導入されたんだけど結局日本の政治家には難しくて理解できずにただの名誉職制度に成り下がってしまった。だからこんな見識のない人が任命される羽目になる。 更にまずい事に本人がただの名誉職(にしか相応しくない)と自覚していないものだから余計な事をしゃべり出す。 教育の独立性は必要なのだがうまい方法はないものか。 これは公安委員会制度とも共通する問題。
・私見ですが、公教育の目的は国民の三大義務を果たせるようにするためだと思う。それが社会を安定させるし、国際競争力を維持することも現実的には必要。 あとは伝え方次第で、この方はちょっと下手だったってこと。
・共産党は嫌いだが、これは明らかに教育委員及び知事の認識に問題がある。自体に可変性と可能性を持つ人間そのものを経済産物とするならそのように喩える根拠を知事は示すべきだ。 読売も何故か議員の政党色がはっきり分かる記事にしているが、その報道姿勢も問題だ。
・たとえ話が理解できないのは共産党だからかね? 共産主義では労働者は等しく党役員の駒かもしれないが、資本主義社会においては人が商品として見られるのは当然のこと。 就活でも、自分がいかに有用な商品であるかをアピールせねばならない。 早いうちにそれを学んでおかないと、社会に出たときに子供が苦労する。
・まず「商品」という「物」に例えることが、子どもの人権を軽んじている。もし「犬」に例えたならどうなるか、すぐにわかること。犬もペットショップで売られる「商品」。レベルとして同じ発言をしている。 さらに国に奉仕するかのような意図は家父長制を含めた前時代的、封建的国家観を想起させるもので、国に奉じて死んでいった戦時中の価値観丸出し。お国のために死んでこい、そういうメッセージを含む余地を大いに残した問題発言。 そして知事の言い分もおかしい。公職に着いた以上、どんな立場から来ようが、その発言には公的な責任が発生する。誤った発言であると思われたら、それは誰でも批判できて然るべき。何を述べても無責任で無罪放免などあり得ない。まともな反論などできるわけないが。 最後に、共産党議員は教育基本法を持ち出したが、子どもの人権から考えれば、こども基本法や児童憲章、子どもの権利条約も出すべきだった。
・>>民間人で公職についている方を、議会で議員が名指しで批判するのは大変に不適切 教師にとって生徒が商品ならば、医者は患者が商品なのかな?患者の「故障」を修理して、生産性を回復させて社会の歯車に戻すとか。 だいたい「商品」と呼ばれて喜ぶ人がいるのでしょうか。この発言に問題がないのなら、教育委員に「あなたたちは商品としての価値を高めて社会へ送り出されるのです」と卒業式の来賓祝辞で語らせてみてください。
・大前提は、議会で他人の発言を切り取り批判するコントのようなことはやめましょう。
前後の文脈から言いたい真意を汲み取りそれが問題ありならそこだけ論議しよう
だいたいの場合は、比喩的に使っている言葉を揚げ足とって批判していることが多い。特に言葉遊びが大好きな人が多い左派議員。
・私は教育委員の言ってることは正しい思うが、議論を深めて教育のあり方を追求していくのは、とても良いことだと思う
・子供の人格を育てるのが教育の目的です、独立自尊、自分で稼いで生きてゆく、自分の人生を力強く生きてゆくためには、知力と心の育成、この2つを育てるのが教育ですよ、子供を商品だなんて、何とも愚かな人間だよ、最近の教育者はこの程度に落ちてしまいました、まさに効率経済社会の産物ですな
・大学紛争のころの全共闘の主張に「大学解体」があったけどそのベースは「大学は労働力商品生産工場だ!」。このセンセイは発想は全く同じだけど結論は真逆で、学校はもっと生産性・効率を上げてカネになる商品、人材(talent ギリシア語で大金)を量産すべき、ということだ。でもね、目先のことでカネになる、役に立つだけで人を判断していたら世の中はひどいことになるというのが歴史の知恵(大損もする)。小泉信三さんが「すぐに役に立つものはすぐに役に立たなくなる」と言っているが「カネになる」ものを追求するだけでも長い、広い視野が必要。だから今の公教育は個人の個性、尊厳を重んじてそれを全面的に発展(full development of personality 人格の完成)させることをいちばんの目標として掲げている。資本主義をさらに発展させようと思ったら、そういう深慮遠謀が必要なわけですよ。
・教育基本法とかを勉強もしないで委員になって、単に持論を展開するのは根本的に間違っている。法律がおかしいと思うなら政治家になるなりすれば良い。言い方云々の話ではない。
・教育委員が同行した県内の現役教員らに講話しても、民間人を批判したことになるんですか。 へえぇぇぇ。
とりあえず、子供が商品だと思う人は次の選挙でこの人に投票すればいいし、子供は商品じゃないと思う人は別の候補者に投票すればいい。
・それなら学校で、忖度しろ、空気読め、皆我慢してるから我慢しろ、わがまま言うな、見てみぬふりしろ、いう教育はアカンよ。物事の本質に迫れんよ。 それするから、ジャニーズ、宝塚、トヨタ、ダイハツ、ビッグモーター、損保、トーヨータイヤ、神戸製鋼、財務省、日大、旭川の中学、みたいになるんや。 子供という商品の価値高めるんやったら、子供の心理的安全性を学校は守らなアカンよ。逆やってないか。
・学校を含めて教育は子供達に幸せな生活、人生を送る、それを実現するために必要なことを教えることです。 教育は子供達を企業や国家にとって得手勝手の良い、使い勝手の良い道具へと変えるためにあるのではなく、、人として生きていくために必要なことを教えるためにあるのです。 牧田和樹教育委員の発言やそれを擁護した新田富山県知事にはその視点が全くありません。 教育者としても、そして政治家としても相応しい資質があるとは言えません。
最後にこの問題を提起した議員を「言葉狩り」と批判している方々へ。 「お前らは売買されるための商品だ、その商品価値を高めるために学校へ行ってるのだぞ。」と周りの大人から言われて納得しますか。 私だったら「ふざけるな!私は人だぞ、物扱いするな!!」と猛反発しますが。
・身も蓋も無い言い方なのは分かるが、国家に有意な人材の育成なくして国家は成り立たないからね。そこを、個の尊重と如何にして折り合いを付けるかだ。
・「みんなが平均的」に「以前より学力が落ちてゆく」これが日本の学校制度です。国際競争力がなくなったのは「円」だけではないようです。できない子を差別しているという的はずれの声だけ聴いていた結果は、遠からず現実のものとなるでしょう。
・教育委員が言いたいことはわかりますが言葉の選択が不適切ですね。まあ昔から富山は有数の教育県で県外にバンバン優秀な人材を供給し続けていますから子供を本当に商品のように見ているのかもしれませんが。
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