( 183773 )  2024/06/24 00:05:16  
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沖縄戦で家族を失った喜屋武幸清さんは、体験を通じて平和を訴えている。

戦争で母を失った喜屋武さんは、今でも弟や妹が生きていることを願い続けており、修学旅行生に体験を語っている。

「誰かに助けられて大きくなっていないかもしれない」という希望を持ち続けている。

(要約)

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沖縄戦の体験を話す喜屋武幸清さん=9日、那覇市 

 

 約20万人が犠牲になった沖縄戦で、当時6歳だった那覇市の喜屋武幸清さん(85)は、祖父母や幼い弟妹を失った。 

 

【写真】沖縄戦で久米島に上陸した米軍から逃れようと、住民が避難した洞窟 

 

 「次の戦争を止め、平和をつくるため、悲劇を風化させてはいけない」と訴える。 

 

 マリアナ諸島・テニアンで生まれた喜屋武さんは4人きょうだいの長男。戦争が始まり、父を残して祖父の出身地、沖縄県に引き揚げた。 

 

 住んでいた那覇市にも戦火が及び、祖母が艦砲射撃の犠牲に。沖縄本島南部に逃げる途中、日本陸軍の壕(ごう)に身を寄せたが、「われわれを守るための日本兵が奥に、避難民は入り口に座っていた」と憤る。 

 

 近くで戦闘が始まり、さらに避難を余儀なくされた。母は、当時0歳だった妹を抱き、2~3歳の末の弟を背負った。二つ下の弟は母のもんぺにつかまっている。本島南端の糸満市まで歩いた。「糸満の海は軍艦で埋め尽くされ、水平線が真っ黒だった」と喜屋武さん。激しい艦砲射撃を受け、祖父を失った。 

 

 6月、同市摩文仁にたどり着いた。海岸近くの壕に入ろうとすると、住民の中に隠れていた日本兵が母に銃を突き付けて言った。「泣く子は入れない」 

 「上の2人は泣きませんから助けてください」。母は懇願し、「母ちゃん、母ちゃん」と泣きすがる末の弟と妹を連れて壕を離れた。1人で戻ってきた母は、壕の入り口をふさぐように石を積んだ。 

 

 3日ほど後、壕の入り口から米兵が「デテコイ、デテコイ」と呼び掛け、最初に飛び出した喜屋武さんを抱き上げて水筒の水を飲ませた。「命の水」だった。幼い喜屋武さんには、米兵が天使に、日本兵が悪魔に思えた。 

 

 戦争が終わっても、「弟妹はどうなったのか、おふくろを悲しませると思うと聞けなかった」と喜屋武さん。苦労がたたったのか、母は喜屋武さんが高校1年生の時、心臓病で亡くなった。38歳だった。 

 

 喜屋武さんは今でも、弟と妹が生きているのでは、との希望が捨てられないという。「誰かに助けられてどこかで大きくなっていやしないか。空想、小説みたいな話だけど、いつも心の中にある」と語る。 

 

 今、喜屋武さんは年に数回、修学旅行生の前で体験を語っている。「あなたが話さないと、沖縄戦がなかったことになるよ」。母が背中を押してくれているように感じるという。  

 

 

 
 

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