( 185707 ) 2024/06/29 16:23:11 2 00 かつては「東北本線より上」だった? バイパスどころか「主要ルート」だった常磐線鉄道コム 6/29(土) 10:35 配信 https://news.yahoo.co.jp/articles/5c03cfb0be384666bb75fc9d8f9fdc4820e92170 |
( 185710 ) 2024/06/29 16:23:11 0 00 常磐線の特急「ひたち」
東京と東北方面を結ぶ鉄道路線といえば、今では東北新幹線が主要ルートです。貨物輸送でも東北本線経由が一般的。東京~仙台間では、内陸側を通る東北新幹線・東北本線のほか、海沿いにも常磐線がありますが、後者は現代では主要ルートから外れています。
【画像】かつて常磐線経由で上野駅と青森駅を結んだ特急列車
しかし、国鉄時代には、常磐線が主要ルートだった時期もありました。東京~青森間などを結ぶ一部の長距離列車が、常磐線経由で運転されていたのです。
東北本線と常磐線(水戸鉄道が整備した友部~水戸間を除く)は、半官半民といわれた私鉄「日本鉄道」によって建設されました。全通した年は、東北本線が1891年、常磐線が1898年(ただし当時は田端駅始発)。日本初の鉄道開業から30年弱で、すでに東京~仙台間を結ぶ2つのルートが完成していました。
両線が別ルートを通る日暮里~岩沼間は、東北本線経由が328.4キロ(営業キロ、以下同)、常磐線経由が343.7キロ(東日本大震災からの復旧後のキロ数)と、常磐線の方が若干距離があります。しかし、内陸部を通る東北本線は、海岸沿いを通る常磐線より、勾配が多くなってしまいます。これは、現代の電車であればともかく、今の車両より非力な蒸気機関車がけん引する列車にとっては足かせでした。加えて、常磐線は貨物列車を多数運転するために複線化が早期に進んでいたことも、常磐線経由で走る長距離列車が多く設定された理由の一つでした。
そのため、現代の「ひたち」に通じる上野~仙台間の列車はもちろん、上野~青森間、さらには対北海道連絡を担った主要列車も、常磐線経由で運転されるものがありました。たとえば、東北方面初の特急として1958年に運転を開始し、1960年には日本初の気動車特急に生まれ変わった「はつかり」は、1968年の東北本線電化完成によるダイヤ改正(いわゆる「ヨンサントオ」)までは、常磐線経由で走っていました。また、蒸気機関車乗務員の過酷さを描いた映画「ある機関助士」も、上野~青森間を結ぶ急行「みちのく」のうち、水戸~上野間が舞台となった作品でした。
しかし、先述した東北本線の電化のほか、1982年の東北新幹線開業によって、常磐線は東京対東北の主要ルートから外れていきます。最後に残った常磐線経由の旅客列車、寝台特急「ゆうづる」(上野~青森間)は、1993年に定期運転を終了。その後も常磐線経由で首都圏と東北・北海道方面を結ぶ貨物列車が運転されていましたが、2011年3月の東日本大震災での常磐線被災以降、設定がなくなりました。
しかし、常磐線の重要さは今でも失われたわけではありません。たとえば2024年1月に大宮駅付近で発生した新幹線停電事故では、特急「ひたち」がいわき~仙台間で延長運転され、バイパス線の機能を発揮していました。東北本線側で異常が発生した場合でも、鉄道輸送を完全に途絶えさせることのない体制をつくることに寄与しているのです。
西中悠基
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( 185711 ) 2024/06/29 16:23:11 0 00 ・奥州浜街道と奥州街道では、昔から平坦ルートでは浜街道がやや早かった。国道6号と4号も近いルート構成。 震災発災時に岩沼~逢隈間阿武隈橋上に半分止まったままの常磐線には流石に驚いたのを覚えています。 近年、漸くひたちが当たり前の様に帰って来て震災も一つの区切りを迎えた気持ちになったのを覚えています。 そして、戻って来てからのいざという時の大活躍は言うまでも有りません。 頼りになる、常磐線とひたちです。
・重要な経路にバイパスがあるのは鉄道の安心・利便性に富みます。この意味で関西の名阪間を結ぶ関西本線も期待したい所です。しかし、コチラの方の亀山〜加茂間は完全に地方閑散線区と化しました。関西線は国有化前は官鉄の東海道線とデッドヒートを演じましたが、今は昔の話です。しかし、名古屋から奈良へ直通出来る等の利点もあります。 北海道では函館線のニセコ回りの山線も千歳室蘭のバイパスですが、コチラも大局的見地で残して欲しいものですね。
・今年の4月2日に半日くらい東北新幹線が上下線機能麻痺しましたが、その時もかなりの人が特急ひたち利用されてました。
私は仙台在住で、以前から「急ぎでないスケジュール」で、「電車内でのんびり仕事をしたいとき」などに利用してましたが、先日往復で乗った際は、結構乗車率高くなってる気がしました(以前は、いわき過ぎたら殆ど回送状態だったし、WEBで席取るときなど貸し切り状態の車両もあるほどだったが、仙台降車の客が多め)。
東北新幹線の見合わせ時、超迅速対応で「特急ひたち」が延長運転・増便されるので、涙が出るくらい助かります。
・『ある機関助士』は名画です。上野水戸間、そして3分の遅れを取手までに取り戻す帰りの水戸上野間、ともに急行みちのくでの過酷な蒸気機関車での現場は、すごい。当時は緩行線がなく各駅停車から優等列車まですべてが同じ線路だった常磐線。この区間で駅の数30、信号150、踏切300、これら全てを読むのに一瞬たりとも気が抜けない、上野に着いて最後引き上げて報告事項は、"異常なし"、との機関助士自身のナレーション。 けれど、この、誰が褒めてくれるわけでもない平穏無事のために、いかに奮闘しているのか。目立とうとして何かをやる今の時代とは違う美学を感じます。もう何十回も観ました。
・もともとの鉄道って移動より今で言うトラックと同じで、旅客以上に物資の輸送としての役割が大きかったのですから、どの線が上とか下とかではないですよね。 鉱山があったり工業地帯だったり、あるいは農産物や加工品などでも産地から消費地、あるいは輸出用となれば鉄道が使われた時代ですからね。
・戦前に常磐線経由で上野−青森間を運転していた201列車は「北方聯絡急行」と呼ばれて内地と北海道は元より樺太までを結ぶ最重要な使命を担っていました。特に黄金期の昭和10年前後は特別室と呼ばれた区分室付きの二等寝台車を連結して第七、八師団の師団長や北海道長官、樺太庁長官という要人が必ず乗車していたそうです。
急行201列車の上野−青森間の運転時間は12時間45分で、この記録を破ったのは戦後の特別急行はつかり号で、破るまでに24年掛かったそうです。特急はつかりの運転目標は上野−青森間を12時間で結ぶのが絶対だったそうで、国鉄の東北支社(仙台・盛岡鉄道管理局)の力量が問われたそうです。
・常磐線経由が多かった理由は、勾配もそうですが、奥羽本線や磐越西線直通の列車を東北本線で通すと、どうしても線路容量(輸送量)が逼迫してしまうため、その分を常磐線に振り分けた、と言う点も挙げられます。
夜行特急は、はくつる(東北本線経由)よりゆうづる(常磐線経由)の方がはるかに本数が多く、晩年はすでに青森まで電化されていましたので、勾配克服能力に違いはなく、むしろ東北本線は全線複線化されていて、常磐線には単線区間もありましたが、ゆうづるの優勢は変わりませんでした。
・昭和57年頃までの常磐線の特急や急行は非常にバラエティーに富んでいた。昼行急行では、水戸から水郡線に乗り入れて郡山まで行く「奥久慈」、さらに、常磐線経由で盛岡まで行く「もりおか」は、我孫子にも停車していた。
夜行急行では、急行十和田、夜行寝台では「ゆうづる」が電車バージョンと客車バージョンがあった。 また、今では信じられないかもしれないが、上野から仙台まで旧型客車の普通列車があったことも特徴的だった。
・常磐線が対東北北海道ルートで重宝されてたのってルートが平坦なだけでなく、県庁所在地レベルが水戸しか無くてそれ以外全部素通り出来たってのもあるわな。大きな分岐も無いし。常磐夜行特急は線内停車駅が水戸と平だけだよね。東北線は奥羽線経由も走るし磐越西線経由も走るしもちろん大宮までは高崎線経由も走るしでそれに伴い分岐駅には停車、いっぱいいっぱいだったのだろう。
・ゆうづるは最盛期7往復運行されそのほか急行十和田やもりおかといった補完列車も充実し出稼ぎの人々の貴重な足であった。 首都圏から仙台以北に行くなら海沿いの常磐線でも影響がないのも理由であったと思う。 東北新幹線開業、週休二日制の拡大と定着で夜行を選択する理由もなくなり少し寂しい気もするが。
・現在同じ立場に有るのが、長万部・札幌間の室蘭本線経由(海線)と函館本線(山線)だろう 昔は山線経由の特急や貨物列車も走ってたみたいだが、みんな平坦な海線経由になってしまった そして今、山線は北海道新幹線延伸で廃止が一旦は決定しているが、代替バス運転手不足等の理由で再び存廃問題になっている ただ海線は有珠山噴火の危機があり、その迂回路として山線が見直されてつつある
・「ゆうづる14号」というまるでL特急みたいな号数の寝台特急があったなんて今では信じられませんね。 ゆうづるのうち、電車を使っていた編成はB寝台の他にグリーン車の座席車も連結していましたが、 1990年頃の水戸駅に最終ひたちを逃しても大丈夫という内容の水戸までのゆうづるグリーン車のPRがあった記憶があります。
・上下はないだろうけど。役割が違うだけで。土浦〜水戸〜いわき間でも東北への需用があったし、その逆も。記事の感覚が東京中心だよな。現実的には北側は単線だし、同じ線でも東京付近とは雲泥の差。もともと、日立付近の鉱物を都会に運ぶための敷設だったわけだから。でも、仙台行のひたちが存続しているのは嬉しい。仙台付近でも需用があるってことなのかな。
・かなり昔の常磐線は鈍行から特急までバラエティーだった。貨物列車も結構走って面白かった。しかし時代の流れで特急からなにやら限られている。東北本線が主力なのはともかく、さみしい。どこへ消えたのだろうあの賑わいは。僕の家の近くの奥羽本線も同じ。昔は賑わいあった奥羽本線だがさみしさはある。
・修学旅行で大阪から北海道に行く際に往復常磐線を走る特急を利用しました。学年主任の先生が大の飛行機嫌い。往復鉄道利用と言う事でした。行きは「みちのく」。583系特急電車。帰りはやはり583系寝台特急の「ゆうづる」。往復ともそれに東海道新幹線と青函連絡船を利用しました。今となっては貴重な体験だと思ったいます。ただ次年度からは飛行機に。学生主任が 違う先生だったからだと思いました。
・東北線より上だったと言ことは無いと思う、記事のとおり蒸気機関車の頃はそんな感じだったかもしれないが。 昭和40年代、上野から青森までの特急や急行(夜行)は東北線が主流ですが、常磐線経由や奥羽本線経由などもありました、これは常磐線なら水戸・いわき、奥羽本線なら山形・秋田など客も拾えるし、青森着時間も違うので都合よかったのではないかな。
・ちょっと違うけど個人的には御殿場線みたいなイメージはある。 どの路線であってもだけど、かたや事故や災害にあったとしてももう一方でサポート出来るような体制であって欲しいと思うね。
・常磐線は、通勤路線のイメージが強いです。 常磐線は、取手を境に都市近郊区間と幹線区間に分かれている感じです。 あと北関東の在来主要路線で、唯一新幹線が通っていないせいか、特急と普通列車の並走が楽しめる路線です。
・上野―平(現いわき)間常磐線複線化の主目的は,常盤炭鉱からの石炭を京浜工業地帯へ輸送するためだった。平(いわき)以北は現在でも完全複線化ではないではないだろうか。往年というか晩年というか,電化直前の平機関区は特急列車牽引用重量級SLの宝庫だった。夕張,北九州もそうだが,鉄道貨物輸送の花形が石炭列車だった時代を知る人はどんどん少なくなっていく。なまじ長生きすると,若い人たちの知識の乏しさに嘆きたくなる時もあるが,自分も若い頃にはそうだったかもしれない。
・むかしの北海道連絡の長距離列車は常磐線の方が主力で、急行群は東海道に負けない程の本数が走っていた。 一方、東北本線は勾配に加え、奥羽・磐越方面からの入込み、更には大宮以南の列車輻輳もあるので、常磐線が重宝されたのだろう。
・高校の修学旅行で寝台特急「ゆうづる」で青森までゆき、青函連絡船に乗り函館に行ったのが懐かしいな。 今じゃあ超が付く程寝台特急「サンライズ」何ぞチケットも手にすることが大変らしいが… 新幹線も良いがやはり「カシオペア」の様な寝台特急は残して欲しいですね。 「四季島」がって、言う方も居るでしょうが100万以上掛からないような誰しもが乗れる寝台特急にって、事ですから。
・無論常磐線は東北本線があったから本線の名前はついてないが、格から言えば本線同等。東北線の大宮、小山、宇都宮、郡山、福島と並べるとちょっと酷だが、常磐線にも取手、土浦、水戸、日立、いわき、原ノ町といった都市があり通過特急も大事だったが沿線の住民移動も少なくない。現在でも充分大事な幹線であり、だからこそJR東日本も震災後、原発事故とのダブルパンチだったのに、この線に関しては意地でも復旧したわけで。
・>その後も常磐線経由で首都圏と東北・北海道方面を結ぶ貨物列車が運転されていましたが、2011年3月の東日本大震災での常磐線被災以降、設定がなくなりました。<
この影響で宇都宮線上野口の負荷が増大して現在ではラッシュ時間帯の通勤電車が減便されて反対に貨物列車が増便されています。 常磐線復旧の過程で貨物列車も運行出来るように重軌道化するべきでした。
・東北本線には貨物輸送という大使命があった。そのため大宮、郡山に広大な操車場があった。貨物列車の輸送力を確保するため、特に夜行の青森方面の旅客列車は常磐線に退避ているような形をとったと推測している。
・国鉄時代に夜の東北本線は貨物主流の運送路線になりそのため一部の夜行列車は常磐線経由になっていると聞いたことがある。 個人的には常磐線沿線の海や単線区間のローカルさが好きであえて急行十和田やもりおかなどを利用していた。
・昔は、平より北は線路の状態が悪くて線路が壊れるんじゃないかと思うくらい揺れました。 でも、18きっぷで仙台に行く時は乗り換え一回で済む時間帯もあって宇都宮経由よりも便利でした。
・昭和末期頃は、朝の通勤時間帯に、松戸駅で夜行特急通過待ちがありました。朝の急いでいる時間帯に、『通過待ちかよ』って感じでしたが、屋根の上に沢山の雪を乗せて通過する車両を見て、『おおっ!』て感じでしたな。
・もう一つ、東北線の線路容量の問題もあるかな。 東北線は途中、郡山から会津方面、福島から奥羽方面へ主要路線が分岐してて、その分列車も混雑したから、常磐線へ分散してたというのもある。
・伊達藩をはじめとする東北の雄藩が水戸徳川家に遠慮して岩城浜街道→水戸街道ルートではなく奥州街道→日光街道ルートを選択していたのが、街道の発展に差がついた理由の一つとも言われていましたね。
・勝田を過ぎると段々と線路規格が下がっていくので、特急ひたちも大らかな走りになると表現して良い。そして岩沼で東北本線に入ると、特急であることを思い出したかのような力強い走りにw
・沿線住民の僕にとって常磐線はやはり重要路線です 誇りです
東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)と東京電力:福島第一原子力発電所事故で被災しましたが、除染と復旧工事(中には強引と批判はあるかも知れません…)を施し、2020年03月14日に全線再開。 奇しくも新型コロナウイルス感染拡大で利用者は減少しましたが、それでも利用者はいますから、感染防止を施して、赤字になりながらもインフラ機能は失わず運転されました
そんな中、2度の福島県沖地震(2021/02/13:土、2022/03/16:水)で被災が続きました、それでも "地震に強い構造物" で被災を最小限に抑えて、すぐに復旧
地震に強い常磐線、この先も続いてほしいです。
・「ゆうづる」の7往復時代は、深夜の平〜岩沼は賑やかだったんだろうなぁ。単線区間があるのにスジ引くのは容易じゃないと思う、5、6分空いて次の「ゆうづる」が来るんだからね。
・単線区間があるとはいえ比較的平坦だからね。常磐線は。 それと福島県で福島市や郡山市よりもいわき市のほうが人口多いからそれなりに移動需要もあるんだろうね。
・昔は上野-青森なら東北本線、常磐線、奥羽本線、羽越線経由といろんなルートがありましたね。
途中下車しなければどのルートでも運賃が同じだったりしていろいろ楽しめた。
・若い頃は青森までの夜行列車は常磐線経由ゆうづるが主力で、東北本線ははくつる一往復だったと記憶しています。平駅近くのホテルから常磐線を眺めると多数の貨物列車や583系夜行寝台列車が賑やかでした。やたらに合併し、無理矢理大都市になったいわき市も、未だに頭の中は平です。
・「ある機関助士」、あれは名作。水戸からの回復運転に全神経を注ぐ姿はしびれるね。取手で機関士が「定時〜」と叫んで一息ついてタバコを吸う姿すらカッコよかった。
「第三閉塞進行〜」とか、あの映画で信号の指差喚呼の仕方を覚えたな。
・国鉄末期でも常磐線は黒字路線だった。東北新幹線開業前は、仙台行き客車鈍行列車や、ディーゼル急行、夜行客車急行、食堂車付き特急みちのく、L特急ひたち、ブルートレインゆうづるなど様々な列車が行き交っていた。
・やはり、国土軸から外れましたのが、痛いです。。。 さらに石岡のアレのせいで、半分くらいは取手どまりですから。 それでも海沿いなのが幸いして、国道の番号は中央線や上越線より先ですが。
・シンプルに蒸気機関車は登りに弱い。平坦な線区の方がたすかる。常磐線と東北本線の違いはそこから来ているのでしょう。同じような所として、呉線と山陽本線などがある。
・上野発「ゆうづる」は北海道速達連絡を求められる前半に583系を投入してましたが、私はまったり走る後半のブルートレインが好きでしたね。ただ単線区間の揺れが酷くて熟睡できなかったですね…
・今では水戸から仙台に向かう場合でも常磐線を北上するより、逆に上野に出て東北新幹線で仙台に向かった方が早く着くこともある。
・御殿場線と熱海線も運命が変わりましたよね。
また、今の技術なら、丹那、新丹那トンネルじゃなくて箱根の真下を堀削できたかもしれませんし。
・しかしまあ、東京口における常磐線の不遇さ、冷遇ぶりと言ったらない。まあ高崎東北線をも上回るダントツの田舎臭い路線なので仕方ないんだが。 ・未だに上野止まり多数、最長品川止まり ・グリーン車無しの 15両編成あり ・北千住日暮里間の変則複々線のせいで色々不便。 ・そのせいで快速線なのに南千住三河島という閑散駅に各駅停車し遅くなる。 ・踊り子もあずさも東京近郊区間(川崎横浜大船八王子立川)止まるのに、ひたちだけは何故か上野でたら水戸。柏も松戸も北千住も止まらないので、東京近郊区間の常磐線民が水戸行くの不便過ぎ。 ・挙句、品川乗り入れ電車は東海道民に迷惑乗り入れ呼ばわりされる始末。 上野の薄暗い人の少ない地上ホームから始発の常磐線に乗り込むだけで暗澹たる気持ちになるのは俺だけか?
・距離的な面と優等列車も頻繁に走ってた歴史でいうと、常磐線も「本線」を名乗っていいぐらいの存在ではあるんだよね。
・時間かかるけど、週末パスでチケットレス得だね利用は美味しいな。最近、東京仙台で通しで乗りましたが、いわき以北も50%近い乗車率だった
・東北本線は、福島まで奥羽本線直通(山形・秋田方面)も線路を共用するから、線路容量の逼迫を防ぐ意味もあったそうです。
・偶々、先日常磐線を使ったが、駅で仙台行きの特急車両が通り過ぎました。 何となく常磐線は水戸周辺迄って感じで見てましたんで、そういえば仙台まで繋がってたんだと改めて思ってたので、いいタイミングの記事でした。
・今は主要路線じゃないだろうけれど…
JRとしても、日立は捨てられなからね… まあこれからも災害や事故は起こるからね…
でも、何かがあると、鉄道輸送が300キロも平気で止まるような国は 日本の他にはないよ!!
・戦後、常磐線の平より北は複線化にすべきだったと思う。 東北本線は勾配があった。それで特急はつかりは電車がするまで常磐線経由だった。
・在来線は明治の連中がよく考えて引いたものを元にしている 現在、苦労して整備した鉄道網が破壊されるのは見てらんない
・使い物になるのは勝田まで。我慢出来るのは高萩まで。そこから先は1時間1本とかそれ以下とか。 黒字なのも勝田までじゃないかな。
・バブルの頃には、仙台 水戸 つくば経由で、常磐新幹線の計画あったみたいけどなあ 東北本線 東北新幹線 or 常磐線で、災害時緊急事態にチャンネル走行できる
・この記事を読んだ瞬間、山陽本線と呉線の関係を思い出しました。 わかってくれる方だけ、わかってくれればよい感想です。
・それでも結局全線複線化は成し得なかった。
3.11からの復旧の際には、更に単線区間が増えた。
・福島県内は単線区間もあるからね ここが複線だったら状況は変わっていたかもしれない
・在来線で、唯一乗り換え無しで仙台〜上野間を走る「ひたち」にいつかは乗ってみたいです。
・常磐線は風ですぐ止まるのが難点だな。結婚式のときに止まってしまって代替の交通手段の確保が大変だった。
・まぁ、東北新幹線と比べたら主流じゃないけど、今でも特急が走ってる分、東北本線より上だと思うけど。
・常磐線は茨城県の大動脈でもあるし、福島県浜通りもそれなりに乗客が多いからでは?
・常磐線って少しは減ったが朝晩に鈍行の10両がいわきまで走ってるのが凄い 仙台もこんなに鈍行は長くない
・昔、水戸駅の常磐線下りホームには「日立、平、仙台、青森方面」って書いてある看板があったね
・リニア開通後の東海道みたいなものかな、東名間は勾配キツくても数十キロ短縮される。
・仙台市民にとって、東北新幹線運休時の常磐線の活躍は、ホントありがたい。
・夜行列車が水戸駅1時、青森駅に7時の寝台列車十和田が、有りましたね。
・東北本線が不通のときに北斗星が常磐線ルートで迂回したことがありましたので
・常磐線沿線に比べると東北線沿線の方が有力な政治家がいっぱい出てきた結果ともいえる。
・とはいえ、普通列車と貨物しか走らない東北本線の風景もかなり寂しい。
・御殿場線や肥薩線もかつては主要ルートでしたからね
・常磐線と言えば、下山事件や三河島事故などを思い出しました。
・ゆうづるの方が本数が多かったのが意外
・昔の常磐線はションベン臭くて、酒臭くて、田舎臭かった。 おっさん達が床に車座になってもベロベロに酔ってバカ笑いしていた。 イメージ悪かったな。
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