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生徒たちが“一糸乱れぬ”行進を…日本の卒業式は「まるで軍隊」 根深過ぎる「集団主義」はなぜなくならないのか(古市憲寿)

デイリー新潮 7/4(木) 6:05 配信

https://news.yahoo.co.jp/articles/680963e6ab2ef0f2abba112a98d2fee73932f6e7

 

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古市憲寿氏は、日本の学校教育における集団主義について違和感を感じている。

彼は学校が軍隊のような集団行動を強いることに疑問を呈し、戦争との関連性を指摘している。

彼は、戦争からの決別を望むなら、学校における集団主義を手放す必要があると述べている。

彼は、コロナ時代の日本が統制の取れた社会であることを指摘し、将来、同じような集団主義が戦争時にも現れる可能性に警鐘を鳴らしている。

(要約)

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古市憲寿 

 

 テレビを観ていたら卒業式の光景が流れてきた。恐らく今も全国どこでも見られる標準的な式なのだろう。番組では巣立っていく生徒に注目して、感動的なBGMが流されていた。 

 

 だが僕が抱いたのは強烈な違和感である。まだ日本はこんなことをしているのか、と心底驚いた。生徒たちが一糸乱れぬ様子で体育館に入場し、一斉にお辞儀をする。その姿はまるで軍隊そのものだった。 

 

 学校と軍隊が似るのは不思議なことではない。集団を統制する手段として、行進や敬礼など一律的な行動を構成員に強いるのは合理的である。実際、近代化における学校教育には軍人育成という側面もあった。行進ができて、文字が読めて、集団行動ができる人材というのは軍隊に必須である。 

 

 だがわが国は戦争に負けて、学校は平和教育の中心地となった。多くの教職員が所属していた日本教職員組合(日教組)も、極めて反戦活動に熱心な団体だった。そんな学校という場で、なぜ令和時代になっても軍隊のような集団行動を強いているのだろうか。 

 

 かつて教職員が式典において「日の丸」を前に起立したり、「君が代」を斉唱するのは義務かどうかが議論になったことがあった。「日の丸」や「君が代」は戦前の軍国主義の象徴であり、その強制は憲法違反ではないか、というのだ。 

 

イラスト・k.nakamura 

 

 僕自身は生徒であろうが教職員であろうが、義務はよくないという立場だ。だが同時に思うのは、学校には「日の丸」や「君が代」どころではない軍国主義の名残が溢れている、ということ。授業や式典のたび生徒に起立と礼を強いる。班活動によって生徒に相互監視をさせる。協調性が重視され、出る杭は打たれる。それは日教組が強く反対してきた戦争とは無関係なのか。 

 

 アジア太平洋戦争を可能にしたのは、当時の国民による集団主義である。強権的な国家が一方的に戦争を起こしたのではなく、人々の熱狂がそれを駆り立てた。戦時下の日本でも、国家よりも大衆の方が好戦的で、「非国民」に厳しかった。 

 

 だからあの戦争と本当に決別したいなら、ヒステリックな集団主義からも距離を置くべきなのだ。だが学校は、反戦を謳いながらも、軍人育成のような集団主義を手放さなかった。もちろん例外も増えているが、今でも予行練習を何度も繰り返し、一糸乱れぬ式典を催行して、自己満足に浸っている学校は多いのだろう。 

 

 学校教育の成果なのか、コロナ時代の日本は非常に統制の取れた社会だった。お国が自粛を求めれば国民は進んで服従し、足並みをそろえない人を「非国民」と糾弾した。熱狂した国民は、より強権的な政策を国家に求め、日本のコロナ有事は他国よりも長引いた。 

 

 将来、戦争が起きた時も同じようなことが起こるのではないか。「命を守るため」の戒厳令に人々は進んで協力して、妥結点を探ろうとする政治家を「国民の安全を考えていない」と非難する。この国のヒステリックな集団主義の根は深い。 

 

古市憲寿(ふるいち・のりとし) 

1985(昭和60)年東京都生まれ。社会学者。慶應義塾大学SFC研究所上席所員。日本学術振興会「育志賞」受賞。若者の生態を的確に描出した『絶望の国の幸福な若者たち』で注目され、メディアでも活躍。他の著書に『誰の味方でもありません』『平成くん、さようなら』『絶対に挫折しない日本史』など。 

 

「週刊新潮」2024年7月4日号 掲載 

 

新潮社 

 

 

( 187340 )  2024/07/04 14:51:38  
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(まとめ)軍隊や戦争というイメージがつけられがちな集団行動について、意見は分かれています。

一部の方は個性と調和を重視し、同調圧力や軍隊との関連性を否定する声もあります。

一方で、集団行動や統率の重要性を指摘する声もあり、災害時や社会生活においても集団の規律や協調が必要だとの意見があります。

また、学校行事や卒業式などの形式についても、簡素化や自由な姿勢を提案する意見もみられました。

多様性や個人の尊重、社会での適切な集団行動のバランスなど、さまざまな視点が含まれる意見がありました。

( 187342 )  2024/07/04 14:51:38  
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・何でも軍隊とか戦争に結びつけるのも根深いモノがあると思います。 

むしろ、それの方が良くないと感じます。 

 

個性と調和が必要と思います。 

 

同調圧力はあまり必要とは思わないですが、集団行動イコール軍隊とか過去の戦争と結びつけて連想させるのもどうかと思います。 

 

 

・素直に「一糸乱れぬ」集団行動ができているなら、その学校の生徒は、よく訓練(練習ではありません)に付き合ってくれていると思います。大概の学校では、訓練しようとしても、テキトーに対応していますよね。それは彼らの中に「いちいち邪魔くさい」という思いとともに「式典なんだからそれなりにはやらないと」という思いがあるからでしょう。後者の思いが強ければ強いほど「一糸乱れぬ」に近づくんだと思います。軍隊は有無を言わせず上官の命令は絶対な組織ですが、学校はさまざまな考えを認めている組織です。そもそも学校は「集団生活」はしていますが「集団主義」ではありません。集団主義というのは思想として「個」より「集団」を優先させる考え方で「現象」をとらえていうコトバではありません。ガンバレ社会学者! 

 

 

・集団行動には意味はないが、集団行動を取れる人間になることには大きな意味があると思う。することの意味より、それができないことの意味を考えるとわかりやすい。静かに人の話が聞けない。前を向いて歩けない。返事ができない。姿勢を保つことができない。ちなみに入学式ではそんな子たちで溢れているが、卒業式ではほとんどいなくなる。ここに子どもの成長を見て何が悪い?きれいに揃っていることにはさほど感動はないが、我が子が背筋を伸ばしてじっとしているだけで私は感動してしまうが、それも根深い集団主義の考え方なのか?いや、そんなことはない。育った喜びと育ててくれた学校に感謝する気持ちを、今風の言葉で批判して欲しくない。 

 

 

・元々学校が軍隊や工場で働くための、ある程度画一化された人材育成を目的として作られたのは事実で 

今でも日本の社会で働く人材にそういった能力が求められているので 

旧来の集団的な教育が続いているんだろうと思います 

ただ世界的に見ればイノベーションを起こす優秀な個の出現も求められていて 

そういった意味では以前に比べたら学校もだいぶ緩くなってますけど 

枠に収まらない自由な存在への寛容さはまだまだ足りないように思います 

 

 

・オリンピック閉会式 

 

開会式は比較的一糸乱れぬ入場行進のことが多い気がしますが、閉会式の独特のやり遂げた解放感での行進。日本も各国もゆったりとした行進もまた素敵です。 

 

卒業式は学校行事の中でも入学式と並んで重要なものなので、あまりとやかく言わず、素直にお祝いできる心で居たいですね。 

 

 

・古市さんはそれでやってこれたから学校みたいな集団行動を取らなくても問題ないと思うのかもしれないけど、テレビでの発言を見る限り人のことを慮った発言はできていないように思います。不要と思ってあえてしてないのかもしれませんが。 

人と過ごすこと、人に合わせることは生きていく上で大多数の人はそれなりに必要な要素だと思う。 

 

 

・体育祭や卒業式で一糸乱れぬ行進をしている学校って、どれくらい残っているか調べたことあるのかな?集団主義が悪というが学校って集団生活が前提だし、そもそも社会そのものが集団生活だよ。集団主義というと集団を尊重することが悪のように捉えられているようだけど、自分が好き勝手言えて商売が成り立っているのも社会集団を尊重する人たちが多数を占めているからなんだよね。個人の尊重の結果、個人勝手主義になり不安定な社会に陥る、その反動で極端に統制された社会がやってくる危険性もあるからきをつけましょう。 

 

 

・元教員です。入学式、卒業式ともに対象生徒が主役なので、式場に最後に入って席に着く。それを短時間に静かにやろうとすると並んで入場着席が1番効率的。しかも、入退場や式典中の行動は、主役の式に臨む姿勢が表れるので、自由にやらせると逆に本人や家族にとって残念なことになる。そこが理解出来て行動できる生徒は殆どいないのが現実。教員側は整然とした行動の指導の手間は出来るだけしたくないのが本音。 

 

 

・人間は集団で生きる生き物だから、集団行動について学ぶ必要がある。この人みたいに、好き勝手な人間ばかりだったら統制が取れず、アメリカみたいに他人を信じられず、敷地内にきたら射殺されても仕方ない、って民度になるよ。お互いが気持ちよく暮らすためには、お互いが少しずつ我慢することが大事 

 

 

・社会は集団で成り立ってるし、集団で入場、整列には混乱なく物事を推し進める上で理にかなっている、狭い場所でめいめいが好きに動くと収集がつかないし危険、日の丸や君が代ももう議論する必要すらないやろ、国旗や国家があると言う事がどれだけ成熟された国家の証であるか、また、公立の学校が国旗掲揚し国歌を斉唱する事は当たり前と言えば当たり前、むしろ滅多にない機会だから大事にすべき。 

 

 

 

・小学校3年生の時に学校が火事になりました。旧校舎の一つが焼失するくらいの大火事でした。真っ黒な煙が上がりパニックになりかけました。マンモス小学校でしたが先生の誘導の元、ひとりのけが人も出ず全校生徒避難できました。 

統率とか集団行動とか必要になるときもある。 

 

 

・一糸乱れぬ行進をしてる学校がどれだけあるか。 

逆に一糸乱れぬ行進とは共産圏内の軍隊の行進だと思うし、日本の学校でやってるところなど見た事無い。 

 

学校は集団主義を植え付けられる所では無くて、社会における団体行動の規範を学ぶ所。 

色々な人が居て、立体的に人間との結び付きを学ぶ所。 

確かに確立的な管理主義に陥った学校もあるだろうが、これら少数を全ての様に語るのは問題だし、少数の問題に対しては個別対応が必要で、なんでも同じじゃ無いと知る機会でもある。 

 

あまり無理な結び付けはしない方が良い。 

事の本質が解らなくなる。 

 

 

・統率をとることも重要だと思います。 

 

軍事行動は命を懸けるからこそ実効性が求められるため学ぶべき点は多いです。 

 

孫子の兵法はいまだにビジネスマンが勉強することもあるし、ロジスティックスは兵站に由来します。 

 

誰かの指示に従って規則的に行動することは有事には不可欠だから、日頃から訓練しておくことは重要です。震災時の津波対策のように。 

 

あと集団で行うダンスも一糸乱れないことが求められるわけで、比喩としては「ダンスみたい」と表現することもできたはずです。 

 

同じ一糸乱れない行動であっても軍隊みたいとダンスみたいでは、ずいぶん印象が違いますね。軍隊みたいという表現はかなり主観的かと思います。 

 

 

・日本はボトムアップ型の教育だからね。 

出来る子を伸ばすというより、出来ない子の底上げを図る社会だ。 

そういう傾向は特に義務教育で顕著だ。 

出来ない子を放置しないで出来る子にするための先生たちの苦労は大変だと思う。 

集団主義は、そういったボトムアップ型の社会における一つの方策だ。 

跳び箱を飛べない子に対してみんなで励まして飛べるようにする事が間違っているとは思えない。 

外国ならば出来ない子は出来なくて良い、出来る子を伸ばすのが個性を伸ばす教育と錯覚しているようなところがある。 

集団主義に間違いがあるのではなく、異なる意見を抑え込む事が間違っているんだと思う。 

異なる意見を言わせる事も大切だ。 

その意見が正しければ、集団はその正しい意見に従って動けば良いだけだ。 

 

 

・私は大の学校嫌い、学校行事嫌いでしたけど、冠婚葬祭に礼節が必要であるように、式典とは格式張っていて然るべきで、社会の入口たる学校に於いてもそうあるべきだと思います。 

古市氏の論評には保護者の視点が欠落しています。こと小中学校の入学式や卒業式は、畢竟保護者のために催されている面が強いです。保護者側に「我が子にあたかも軍国主義のような整列をさせてけしからん!」という声が多いならともかく、大抵の親御さん方は、かかる式典を肯定的に捉えていることでしょう。 

そして、現行の入学式や卒業式に代わる式典のあり方についても一切示されておらず、つまりは外野によるイチャモンの域を出ていないと断じざるをえません。 

 

 

・社会人になりそれぞれがいろいろな職業に就く時、協力し合って集団行動(行進とは限らない)をとる必要がある時もあれば、各自が考えて行動しなければならない時もある。学校で学ばなければそれも出来ない。教師側も軍国主義を植え付けるために指導しているわけではない。学校の避難訓練でも素早く整列するのは逃げ遅れ等がいないかを1秒でも早く確認するために行っている。日本人が災害で避難する時、整列こそしないが外国人に比べると落ち着いた行動かとれるのも子供の頃から避難訓練を始め集団行動を学んできたからだと思う。 

何でもかんでも軍国主義に結びつけ、それが正論であるかのように自己陶酔するのはいかがなものか。 

 

 

・統率と協調は軍隊に不可欠ですが、それらの教育が直ちに軍人の育成だとは思いません。戦時でなくとも統率と協調が必要な場面はありますし、その意味とルールを教えることを恣意的に軍国主義教育に結びつけることの方が問題です。 

そもそも行動において統率と協調を求めることはあっても、思想信条における自由もちゃんと教育しています。思想信条面にまで統率を求める教育こそが警戒すべきもので、これは右であれ左であれどちらの体制でも起こり得ることだと思います。 

 

 

・何の問題もないと思いますね。 

今は個人尊重なのか、放任で集団行動活動出来ない人も増えてるように思う。 

個性伸ばすのも大事だけど、人は一人では生きられないのだから、生きて行く上で周りとの協調性も必須。個人表現の前に最低限の集団活動が出来る必要があるので、日体大的な集団行動も取り入れるべきであると思ってる。 

 

 

・学校現場や今の子どもたちの実態をもう少し調べてから発言した方がいいのでは? 

 

集団行動と人権教育が互いに補完し合うものであるということが分かってないし、多くの教員は共感しないでしょう。 

 

こういう発言をするのもいいが、教員の働き方改革をいかに進めるか、中教審の委員になって考えてもらいたい。 

 

 

・言わんとしていることは分かるけどちょっとヒステリック過ぎやしませんかね。何でも軍隊と戦前の同調圧力に結びつけるのは極端。生きていく上で集団でしか成し遂げられない事もあるしその逆もまた然り。個人に踏まえた視線は大切です。でもなんでも何処でもそればかりを強調すれば良いという事にはならないでしょう。集団主義と個人主義を使い分けるバランス感覚が最も必要な感覚だと思います。 

 

 

 

・集団行動を意識する必要のない仕事で有名となり、生活の心配もなくなったこの方にしてみれば不可解な風習に感じるんでしょう。でも多くの日本人は、どこかの企業に入社し雇われてお金を稼ぐので、個々の会社ごとに社風も違ってくるし守るべき習慣があります。朝、体操する事務所もあれば、昼休みは、皆一緒にごはんを食べるとことも多いし、有給を取る場合は、2週間前までに申し出るなど、法律とはまた違った暗黙のルールが意外とあります。集団行動は、他の人達と足並みを揃える心構えを学ぶ事ができるのではないでしょうか。やり方は他にあっても良いと思いますが、言いたい事を言えて、周囲に合わせることも少ない人には、わからない世界が世の中には沢山あると思うので、むしろ有益な指導かなと思います。信号を守ったり道端でぶつからないように寄ったり、電車は降りる人が先とか、それらも集団行動の一つでは?にしても、些細な事に文句を付けますよね。 

 

 

・単純に式典だから形式ばった動きをするのでは? 

普段から教室の出入りや登下校で一糸乱れぬ行進をしている小学生なんか見た事ありませんが 

それに式の入退場の予行演習なんかは勿論やると思いますがそこで軍隊ばりの厳しい指導がされていて少しでも動きが揃わないと叱責されるような話は聞いたことがありません 

みんな緊張しながら不慣れな動きしてて可愛いもんです 

 

形式に沿うな、行進やめろってんならこの人はどうしたら満足なんでしょう 

入場は門開けたら子どもたちが一切に体育館に駆け込んできて思い思いの場所に適当に座って名前呼ばれたら卒業証書取りに壇上行って後は適当に帰るとか? 

今度はまた違う文句言いそうですね 

 

 

・「学生服」に象徴されるように、日本の学校教育、特に中等教育は旧軍の影響の名残がかしこに見られる。 

これは近代学校教育と旧軍の発足がほぼ同時で、いわばパッケージとして並行して整備されて来た歴史があるからだろう。軍事教練が必修科目だった時期もある。 

学校は「規律」を教える場という面があり、これは軍隊でも重要だ。 

一定の「ルール」に従い、「指示」に従順に従う人材は社会でも軍隊でも必要であり有用だ。 

日本の学校教育は、こうした一定の「規格」に合った人材の「量産」について成功したと言える。 

一方で、自律して行動しつつ、必要に応じて適切な「判断」を自ら行える人材も社会や軍隊では絶対的に必要だ。こうした人材は「選別」が必要だ。 

アメリカでも中国でも、こうした生徒を選抜するシステムがある。 

しかし、日本ではこのような「エリート教育」は「教育の平等」と相反するものとして、特に公立の義務教育では否定的だ。 

 

 

・日本の伝統における「式典」とはどういうものかを体験することも大切。 

軍隊を悪とする見方も偏狭。組論編成・人心掌握・持続活動時の疲労回復・サバイバル術等、軍隊組織に学ぶ点は多い。 

なぜならば、集団が危機的状況下でも沈着・冷静な行動が求められるからだ。 

集団全体の生存可能性を、より高めるためには、規律ある生活は必須で、幕末の漂流民でも、先の大戦後、南太平洋の島々に取り残された人々でも、規律を失わなかった集団が生き残れた。 

また一番重要な点は、学校というのは、大人数が生活する、そもそも不自然な形態であって、こうした環境下で非常時の際、子どもの安全を守るためには、私語なく素早い集合、指導者の話を一言も漏らさず聴くという姿勢が身についていなければならない。 

現代は、家庭でも社会でも、子どもたちに対して躾けにくい時代となった。 

こうした機会は子どもたちに「集団下での命を守リ方」を教えていることになる。 

 

 

・集団(もしくは大勢の人)が整然と同じ行動をとれることを、なぜ「軍隊」「戦争」と紐付けるのかが分からない。 

 

その集団行動をとれることが日頃から身についているから、急な災害が起こっても、先日のJALの炎上などの際にも冷静かつ整然と避難することが出来ているのではないのか? 

 

行動として身に付けていることと、思考思想とは全く別の問題 

 

いまの時代にそのステレオタイプの考え方こそアップデートしなきゃいけないと思いますよ 

 

 

・小さい輪を乱す子は大きく輪を乱す。 

遠足や旅行の引率で、二列縦隊と言っているのにフラフラ横にずれる子は、授業中も浮いた言動をする。集合時間に1分遅れる子は迷子にもなるし、他人への迷惑行動を起こすが自覚はない。 

小さいルールを守れない子は大きなルールをもっと守れない。 

結論として行進は大切。 

 

 

・集団行動が苦手な人の意見ですね。軍国主義になってから急に集団行動の訓練を始めたわけじゃないですよね。江戸時代は大名行列もあったし、もっと昔から集団で神事を行っていたじゃないですか。 

震災の時でさえ順番を守り、お互いを思いやれるのは学校教育で集団行動を学習しているからです。集団行動を学習していても好きなようしようと思えば誰でも好き勝手できます。でも、学校教育で学習していなければいざという時に集団行動をするのは難しいでしょう。 

ただ、集団主義という言葉には違和感があります。誰も集団主義を推進しているわけじゃありません。入学式、卒業式、運動会など大人数の集団になった時に統制をとってスムーズに物事が行えるかどうかの教育だと思います。 

 

 

・娘の学校は卒業式の練習も来客もなく、当日は担任の先生が1クラスごとしっかり生徒への思い出や挨拶の時間をとってとっても感動的で素晴らしい卒業式でした。 

 

それをみて、そもそも卒業式を練習するってなんだ?部外者である市議会議員とか市長とか呼ぶからつまらないものになるんじゃないか?と改めて思わされました。 

 

卒業式は子どもたちと親のためのものなのであれば、練習と来客はとっても不要で、形式よりも当人たちにとっての大事な時間にしてあげたらいいと思います。 

 

 

・集団行動=軍隊という発想自体が固定観念じゃないかな・・ 

 

人間の社会は1人では生きていけない仕組みになってるし・・ある程度のルールも決められている。そのルールは守れないより守れる人になっていたほうが・・将来困らない可能性は高くなると思う・・ 

 

こういう批判するのは簡単だけど・・じゃぁ未来の子供たちにどういう教育するのか・・そこも踏まえて論じてもらいたい。 

別に集団行動したから・・軍隊になるわけじゃないと思うけど・・ 

 

もっともらしく論じてはいるけど・・ 

子供たちの教育という点では、すごく無責任な発言に感じてしまうのは私だけなんだろうか・・ 

 

 

・集団主義はある程度必要なものかなとは思うし、教育現場から排除すべきとは思いません。集団の中でどうやってくかは大切だと思います。まぁ、ある程度誰にでも個性はありますから皆こうであるべきみたいなのの行き過ぎは良くないですが。 

 

でもって卒業式はもうちょい簡素化しても良いかなとは思いますね。最初から生徒さんに座ってて貰って卒業証書の授与や点呼だけちゃんとやれば良いと思います。 

何でこんなこと思うかっていうとうちの小学校の時は来賓とか校長の挨拶長すぎで時間押しまくったし、中学の時のは色々あったけど送辞も答辞も長すぎて立ちっぱで倒れた生徒何人か居たんですよね。小学生の時とか卒業式の練習も膝痛い時期で立ったり座ったり辛かったし。 

入場から退場までしっかりやるのも大事だけど、本来の目的は卒業証書の授与であることを思い直して欲しかった子ども時代でした。 

 

 

 

・アメリカに住んでるのと長年の友人が元アメリカ軍ということもあり教えてもらいましたけど、軍隊に入るとまず最初にするのが個性などの無くすこと。とにかくチームプレイ、団体意識を植え付けさせられると。なぜなら有事に個性や個人プレーは御法度だからと。 

しかし、逆に移民も多いし多様性が当たり前のアメリカだからか学校なんかは自由そのもの。色々な意見が教室内で飛び交うのは日常でした。 

多様性と団体意識、真逆の二つが共存してるのがアメリカですね・・・むしろ軍出身の人が一般企業に来ると馴染むのに時間かかっていたのも事実。 

 

 

・なんか、日本社会の全てを肯定するわけではないけど、気に食わない部分を戦争や軍国主義みたいなレッテル張りは違和感を覚える。 

集団的行動を軍隊や戦争に結び付けるのはナンセンス。 

個人の個性と集団生活や行動が相いれないわけではない。バランスが大事。 

バランスが崩れるから、権利だけを主張して義務は無視する人が現れるたり、義務だけを押し付ける人がいる。 

日本の良い部分は相手の気持ちを考える、そして共助の精神。それが日本らしい素敵な社会を形成していると思う。 

 

 

・集団行動=軍隊と結びつけるのが強引すぎる考えだと思うね。 

例えばチームスポーツだと、代表選になれば必ず各国の国家斉唱もあるし、みんな好き勝手にプレーすれば勝てない。 

また非常時でも集団の規律が守られないと暴徒と化す人が出て、海外だと街がメチャクチャになってる映像もあるわけで。 

○○の自由だの多様性だのを謳って好き勝手する連中がいると、社会ってのは成り立たない。 

集団行動は社会を守る理性を身に付ける意味でも必要なこと。 

 

 

・卒業式もそうだが私が気味悪いと思うのは就活の画一の黒スーツ。同じ髪型。大学3年になったら一斉活動スタート。高校の制服以上に色のない入社式。 

 

60代の私だが大学卒業した時はこんなに酷くなかった。男女平等の扱いではなかったが全体にもっとリラックスしてた。私は深紅ベースの花柄ブラウスに茶系のスーツで入社式臨んだ。悪目立ちしていたわけではない。 

当時は誰も多様性なんて言わなかった。 

個人的な感触にすぎないが、リクルート社が幅をきかせるようになってから学生や日本社会がのみこまれてしまったと思ってる。 

 

 

・「形」にだけとらわれると、「本質」を見逃しやすい。学校教育が軍隊をまねたのではなく、学校教育も軍隊も「御しやすい形」を取り入れたに過ぎない。さらに歴史を経ると、そのこと自体忘れ去られ、意味そのものを薄めてしまうので、「おかしい」ものも違和感を感じなくなる。極端な場合、男子の学生服は「ドイツ陸軍の軍服」であり、女子のセーラー服は「フランス海軍の軍服」、教えている先生たちのスーツだって、襟を立てたり、袖口の飾りボタンを見れば、学生服と一緒であることがわかる。見方を変えれば、軍服を着た先生が、生徒たちに軍服を着せながら、「戦争反対」を説いていることになる。でも、時代を得た今は、誰もそんな見方をしない。社会学者は「批判的な見方」をするのが癖だし、他と違う見方が出来ることを自慢しがちだが、普通の人たちから見れば「だからどうした?」「なんの不都合がある?」だ。相変わらず、この人の見方はこのレベル。 

 

 

・日本人の特性からして、自由の尺度を測るのは難しいのではないかと思う。 

 

団体で動くと良質なものが出来る文化も重要だと思う。 

ただ、サッカーを見ていても規範意識が高くてもNo. 1にはならない。思い通りのプレーもできない。自由さって取り入れるのも簡単なことではないと思う。 

 

 

・今東京知事選で起こっている掲示板や政見放送の問題は国民の注目を集めている。その現象に対してある程度の規制はやむを得ないとの意見が大勢である。こうやって本来なくていいはずの規制が入るのである。学校も同じ。学校が荒れた時期があって生徒の行動を規制する校則が出来てきた。やり過ぎだとは思うがそれを日教組のせいにする?多分、日教組の力が弱まっていた時期と学校が荒れた時期が多少のずれはあってもリンクしているのではないか。今の日教組はもう全く力がない。組織率は20%を切っているとも言われる。その日教組にいまだに責任を押しつけようとする筆者にも強烈な違和感を感じる。 

 

 

・時代は戦後に比べ、大きく発展しました。豊かになり、なんでもあり、自由ですが、飽和状態になると後は、減少状態になり、需要、供給、消費が安定しなくなり、偏った状況が生まれます。格差社会です。 

皆が一定の価値を得ることが難しく、 

勝ち組のみ、収益が上がり、負け組は 

倒産。それらを是正しない限り、明日の日本はないでしょう。 

戦後の時代に戻ります。 

皆が一定の安定水準にすれば 

おのすと、世界が安定します。 

災害は別としての考えですが、 

新しいものでなく、今あるものを 

循環進歩させる時代ではないでしょうか。 

 

 

・軍隊と戦争は、集団主義を前提とした国民国家の一つの側面からかも知れんが、それが全てではない。その点で彼の言説には違和感あるが、概ね問題意識は同意する。 

 

問題認識とは、現代の日本の国家システムが国民国家という一形態であるという点において、明確な客観認識がなく、まるで漠然と当然のような認識を持つ人が多数を占めてるということ。客観認識がないから筆者の言うような矛盾が起こるのだと思う。 

 

 

・学校時代の集団行動は、社会に出るにあたって必要じゃないですか?卒業後の会社就職、自治会、サークル、日本国民としての集団。統率のとれた行動となると異論があるとは思うが、集団行動の訓練は悪い物では無いと信じている。この人の考えは人類史を否定している。そもそも人間は集団を形成して人類を発展させて来た、人々が欲のままに自由に振る舞っていては社会は成り立たない。軍国主義を否定しているようだが、自分の集団が他国から攻められる時に、個人が好きに戦っていて勝てる訳が無い。個人が集団になり、それぞれがお互いに、行動や考えを合わせて戦ってこそ初めて守れる。 

 

 

 

・なぜ軍隊が集団行動を重んじるのか、ということを考える必要があると思う。 

つまり、集団行動に慣れさせた方が伸びる子供もいるし、個性を尊重して自由にやらせた方が伸びる子供もいる、ということ。 

古市さんは後者だったのでしょう。 

公立学校の多くが前者タイプの教育をしているのは、選択肢がなくて残念だけど、全否定するものではないと思う。 

 

 

・行進という一側面をもって、軍隊に直結させるのはいかがなものかと。 

また意図してかは知らぬが、集団主義と軍国主義を近くとらえているのも気になる。 

集団行動のメリットとデメリットの両方を語らずにデメリットのみを強調する論もいささか偏りがあると感じる点だろう。 

 

 

・日本人の気質が変わらない限り、一糸乱れぬ動きで入場して整列して礼をすることに喜びを感じることは変わらないんじゃないかな。まあ一長一短だよね。 

アメリカに住んでいた頃に子供を現地の学校に通わせていたけれど、祭典も文化祭も劇の発表もグッダグダだった。日本の幼稚園のお遊戯会のレベル。授業も床に寝っ転がって受ける状態。それもそれでなんだかなぁ、と。これもまたアメリカ人の根本的な気質が変わらない限り変わらないんだろうと思った。 

 

 

・一定以上の人数の集団において「右向け右」的に半強制的に全員に同じ方向を向かせて、何かの目標に向かって邁進させることは、非常に効率的であり時には最大限の効果も発揮するひとつの方法として選択されても良いし、組織によってはそれが必要とされるものだと思う。 

しかしそれはそこに参加する者全て(に近く)が納得して行なうべき事であり、それが教育現場たる学校(それも義務教育内とか)で行われるのには違和感ですね。 

日本国内であるのならば自衛隊や警察の本組織やそこに進むための学校のみでいいだろうし、芸術?や競技?としてそういうのを極めたい集団でだけやればいいことと思います。 

 

 

・古市氏の言っていることは概ね正しい。 

しかし軍隊式の行進と集団主義、同調主義、排他主義との関連性はいささか説得力にかけると思う。 

例えば災害時の避難訓練の題目ではどうだろうか。各自バラバラ好き勝手にちらばれというわけにはいかない。軍隊式の統制が必要となり整列、点呼、不明者等の異常確認、移動中も体調不良者等のフォロー救済も可能だ。生存率は圧倒的に後者のほうが高いのが目に見えている。 

人間は群れで生きる動物、相互で協力、助け合いながら進化し、文明や国家といった大集団にまで発展してきたことを忘れてはいけない。 

 

 

・式典で一糸乱れぬ行動を求めるのは日本だけではないよ。どこでもそう。なんなら、日本がそうした式典の形式を取り入れたのは欧米からだよね。 

ペリー来航の際に、ペリーは幕府を威圧するために音楽を流して儀礼の形式で颯爽と交渉の場に現れ、交渉を有利に進めようとしたという記述もありますから。 

欧米から国際的な国と認められるために伊藤博文をはじめとする歴代首相らが欧米の儀礼的な形式を取り入れる必要があったわけで。 

 

以前台湾やイギリスに行ったことがあるけど、国の象徴となる建物には衛兵がいて、交代の際には儀式的な一糸乱れぬ行動をしていて、その美しさに観光客が集まっていたよ。 

台湾では早朝広場みたいな所で衛兵の人たちが練習するのをたまたま見たよ。 

 

他の人も書いているけど、すぐに軍隊ガーとか言いたがる特に日本の特定の思想の年寄りの方がよっぽど異常だと思うよ。 

 

 

・かつて日本のオリンピックの入場行進は一糸乱れぬもので、ほかの国々がバラバラで行進をするところ、大変誇らしく感じたものです。記憶ではロスアンゼルスが最後だったでしょうか。集団行動というか、集団の中で個があるわけで、そのことに感謝し敬意を示すということは必要なものと考えます。 

 

 

・実際、集団行動ができないと人間社会は成立しないからな。 

ただ、時には自分の頭で考えて行動しないといけないこともある。集団が間違った方向に行きそうな時に、「本当に正しいのか」と考える必要もある。 

集団行動の大切さと、自分で考えることの大切さ、それを限られた時間のなかでどう教えるかも考えて行かなきゃいけないね。 

 

 

・高校のときに体育祭で組体操が危険だからと、3年の時に団体行動に変わりました。 

 

グラウンドを行進しながら集団を分割したり、集合したりして、正直演じている自分たちでは面白さが分かりませんでした。 

 

こんなのが面白いの?と思いながら練習して、体育祭本番では大人たちが「おぉ〜」と感嘆の声をあげていたので、終わった後に動画を見てみたら確かにタイミングを合わせて集団がバラバラになったり、キッチリ合わさったりするのがまさに一糸乱れぬといった雰囲気で、そこではじめてこんな風に見えていたのかと感じました。 

 

大人になっても思うのは、「生徒たちに対して、何が良いと思ってどういう意図でさせたいのか?」などをきちんと説明しないと言われたことをさせられただけになってしまいます。それこそ戦時中の学徒動員のよう。 

 

きちんと理解させればモチベーションも上げられるのにと思うのですが、教師に問題があると感じます。 

 

 

・一糸乱れぬ違和感というが、本来それは自然なことだ。野生の動物を見れば分かるが、動物には群れを成して生存しようとする本能がある。それは身を守るためだろう。鳥が群れを成して飛行しているときの一糸乱れぬ編隊はあまりに見事で驚かされる。だから日本人に違和感があるのではない。それよりアメリカという国は多民族で成り立っている。そこに人種ごとの生活習慣の違いがあり、その中で共存するしかない。そんな社会で自然と個人主義になったんだと思う。島国日本には人種の違いなどほぼ存在しなかった。だからそういう方向に発展性がなかっただけだと思う。日本が世界の中で強い国になっていくために個人主義がいいのか一糸乱れぬ方がいいのかは分からない。過ごしやすいのと強くなるのに求められるモノは違うと思う。 

 

 

 

・集団が統一した時は美しさもあるけれど、それが悪用された時には目も当てられない。その危険性が孕んでいることは常に念頭に置いておく必要はあると思う。なぜ、全体でまとまる必要があるのか、特に正義と思われることに関しては、心の隙をついたり感情に訴えたりしてつけいってくる。 

妙に従わない人間に腹が立ったり、何かしてやろうと感じた時は、立ち止まって自分を良く振り返る必要かある。 

 

 

・日本を訪れる外国人観光客が口を揃えて言う 

「日本人は電車を乗り降りするのも並んでて素晴らしい」という言葉が象徴するように、集団での動きを意識付けされた日本人の行動様式は、外国人からしたら羨望の対象になるということです。 

もちろん、その代償としてマイナス面もあるでしょう。 

でも、それはポジティブに評価される部分を上回るものではないと思っています。 

古市さんの考え方は理解はしますが、もうちょっと偏見を取り除いて欲しいかなというのが正直な感想です。 

 

 

・祖父母 親世代の影響でしょう  

家庭も、学校教師も、個人の自由度より、周囲との調和を重んじる教育を指導する傾向にあるので、 

集団行動が整然としていると、称賛されます 

逆に 集団行動を乱すと、非難されたり、毛嫌いされます 日本社会は集団を乱さない事をある種尊重されるので、いろんなイベントは 集団行動ありきです 

外国籍の人たちのなかには、整然と列をなすことは、日本人の良さという人もいます  

ただ、他の方が言う通り、個人に対して抑圧的な考え方や行動になりやすいので、ある種 窮屈な社会でもあると言えます 

個人の自由度を求める人達は、日本から飛び立って行くこともあるので、それは仕方ないかもしれません 

多様性がある社会を目指す? なかなか日本ではたやすくないかもしれないと思います 

 

 

・もし、集団行動で行きにくさを感じている子どもがいるとしたら?と考えると、集団行動的教育に疑問が残る。誰のための教育なのか?それは子ども個々一人一人がその人なりに成長していくためのものである。その集団に馴染めず、不登校やいじめに遭うのであれば、集団行動主体の教育は改革が必要だと思う。 

 

 

・自分がやってる側の時は嫌だったが、観る側になったら、こうでないとねーと思える様になった 

子供時代含めて軍隊ライクとまでは思わないが、ある程度統率する必要はあると思う 

あれだけの人数を自由にさせたら絶対ダラけるから定刻で終わらないのは目に見えてる 

それにああいう行事は年に数回しかないのだから、たまにはビシッと締めさせる事も必要なんじゃないかなぁ 

 

 

・卒業式は一糸乱れぬ行進というほどでもなかったような。。 

どちらかというと体育祭の方が、一糸乱れぬ感があった。 

でも、それは悪くないと思う。 

私はちょっと楽しかった。 

たまには、軍隊アリのように、周りと合わせて調和しようとする経験は、社会人になってからも必要に応じて合わせる時は合わせる事ができて、アウトローなハミダシ者にならない塩梅とか測れるひとつになるような気がしないでもない。 

 

 

・私も集団行動が苦手なので集団行動を強制されるのは嫌いだ。極端に協調性を求めてきたら子供にも「無視すれば?」と言っている。だが、卒業式で目上や同窓生の話を「相手に敬意を現す姿勢で静かに聞く」事は悪きことだろうか?いやそれはやるべきだ、というならそれができるには、どのような教育で達成されるのだろうか?ご本人は大人だから気が付かないだろうが、何かしらで学んだから今のあなたがある。 

卒業式で前を向いて歩いてくることが強制であると捉えるのは自由だが、静かに人の話を聞ける人間に育ってもらう為に、どのような教育を学校ですれば良いのか、その提言がないのならこの記事は役に立たないただの批判である。 

 

 

・夏の甲子園決勝で、最後、場内一周するが、負けた準優勝チームの全員が、堂々と胸を張り、足を上げ、大きく手を振って行進する姿に観客が割れんばかりの拍手を送った。自由の国、米国合衆国の元国務長官のオルブライト氏が米朝交渉で、北朝鮮に行った際、マスゲームを見せられ感動して泣いた逸話がある。このように、人間はそういう集団が乱れぬ行動、所作に感動をするものである。それを教える学校教育のどこに問題があるのか? 

 

 

・軍隊行動と揶揄されますが、そもそも姿勢の悪い子は勉強も仕事もできない。 

歩く、立つ、礼をするという姿勢はこういう訓練でないと育たない。 

 

自由を謳歌してもいいが、土台となる基礎がきっちりしていないと、自由を踏みしめることはできない。 

 

 

・うーん。昭和のお父さんのような言い草。 

もはや戦争の記憶は遠く、あるとすればAKB48などの一糸乱れぬダンス。 

渋谷のスクランブルに代表される、ランダムな歩きにも美は感じられるが、きれいに揃った行進にも美はある。 

素直に美を鑑賞すれば良い。 

 

 

 

・「集団行動には意味はないが、集団行動を取れる人間になることには大きな意味があると思う」と書かれているコメントがありますが、この一文に問題が表れているように思います。つまり、その集団行動にどのような意味があるのか、その是非を考えることを子供に教えないで、それに従うことだけを教えるという教育。 

話が飛躍しますが、究極的には、国民を統治する側から見れば、これほど都合の良い教育はないと思います。政府が国民に求める行動の是非は問わず、それに従うかどうかが判断の基準になり、国民自らが、政府に従わない国民を非難し、排除してくれるわけですから。 

 

 

・学校は社会に出る前の模擬訓練であると捉えるならば、卒業式くらい厳かにやるのは何ら問題ではない 

世の中にはそういう場もあるということを学生のうちに体験できることは教育上も重要です 

そこを履き違えるから、慰霊式典を大声で妨害することを気にしない連中が沸きだすのです 

 

むしろ今の日本の教育で問題なのは、安易に正解不正解で決めつける視点でしか思考できない人間を未だに大量生産していることです 

 

卒業式の集団行動の是否について単純な賛否で論じ合い、またその発想を他の場面にも拡張して、さもそれが日本社会のモラルで守るべきものであるという思想は危険に思えます 

 

厳かにやるべき場面が世に中には存在することを理解しつつ、一方で別の場面では自由で斬新な発想を存分に発揮する 

そういったしなやかな生き方がいまの時代求められているのではないでしょうか 

 

 

・日本は国民が勝ち取った民主主義ではなく、上から与えられた民主主義。実質は官主主義。 

 

そして集団主義でもないことは数々のアカデミックな実験が示している。つまり人が見ているところでは周りに合わせても、見ていないところなら自分勝手なことを欧米人よりもする。村八分主義とでもいうべきか。 

 

それが悪いとか遅れてるとかではなく、文化や歴史の違い。無意識から意識化することが大切。 

 

 

・集団主義を失くさないといけないのでしょうか? 

どこの会社も部課長係長という制度は軍隊の組織図に基づいて構成されているもので、個性を重んじるとは言ったものの会社からはみ出る人間は採用しないもの。 

一方でドイツなど未だ徴兵制が残っている国は経済的にも強いですよ 

どこの企業に勤めることになっても組織系統を理解するので。 

 

 

・礼を尽くすことを教育してるなら、どんな状態でも良いと思うけど 

 

式典というものをなんだと捉えてるのかにもよるね 

 

京大のお祭り騒ぎにしても、それを期に決意して社会人になる人もいるし 

そのまま王道とは違う道に進む人もいる 

 

自由でいいけど、責任はついて回る事を教えていたらいいと思うよ 

 

 

・揃っていないより揃っていたほうが気持ちいい、という感覚は意味がないようで大切だと思う。毎日の「起立、礼、着席」を揃うまでやらされるなら軍隊だけれど、厳かな卒業式である程度揃うように練習するのは「自由か」「厳かか」のテイストの違いじゃないの。ちなみに自由を主張しても統制を主張しても戦争は起きる。 

 

 

・日本は古来より災害が多く、一人ひとりが協力しあい困難を乗り切ってきた民族です。 

それゆえに協調性があり、集団を作ることで力を発揮してきました。 

個人主義に走る方もいるとか思いますが集団からは孤立します。 

それでもいいと思うならご自分の意思を通せばいいかと思います。 

但し、公共機関や教育機関では地域の力や能力を上げるために一定の集団行動をします。 

国旗、国家、そして天皇陛下の存在は日本を守るため、秩序や日本国の未来のためには必要と思います。 

 

 

・中高生の子供を持つ親ですが、生で卒業式を見てもそうは感じなかったけど(一糸乱れぬというほどではないし、まして軍隊など想像しない)。 

集団で行動するからそれなりの秩序がなければバラバラになってしまい、式自体も進行できなくなってしまう。 

子どもたちをまとめるのに手間取って、余計な時間がかかってしまう方が嫌だな。 

この方はテレビの切り取り画像しか見ていないから、そういう発想になったのでしょうね。 

 

 

・集団歩行が良くないというなら、高校野球の開会式もダメですね。あれから戦争や軍隊を想像するのかな。あと、相撲の土俵入りもダメかも 

個性を生かすのは大切だけど、同時に他の人の個性や自由を大切にしないといけないし、そのためには自分の個性や自由を抑制しないといけない。そういうのを学ぶためにもいい経験な気がする 

 

 

・何か大切な行事で学生達が集団で動く場合はある程度の 

集団訓練、集団行動の動きを教えることは大切なことと思います 

何でも自由な風潮ですが、場をわきまえること、PPOを知るうえで 

大切だと思いますがね 

自由奔放に行われる式ってのが、いいのか、よくないのか個人的なことだと 

思います。 

 

 

 

・ヒステリックな集団行動に危機感を覚えるのは理解するけど、卒業式にそれを見出すとか、ヒステリックな個人主義も相当面倒だな。まあ予行練習に時間を割くのも確かにどうかとは思うけど。 

結局はバランスなんじゃないかな。場に応じて自由と統率のメリハリをつければ良いわけで、両方がこなせるに越したことはない。 

 

 

・そもそもとして,中世からでも,最も優れた学問,高貴なる身として身に着ける学問として,武術・武芸だったことは否定しようがない。 

 

それは騎士道という言葉でもあり,武士道ということでもある。 

より洗練された姿勢・立ち居振る舞いというものは,そういう部分に通じるのは必然であろう。優れた学問を修めた学生の立ち居振る舞い・姿勢としてそれに近いものを良しと思うのは,別に戦中といった狭い歴史の範疇からくることではない。 

 

 

・学習指導要領の儀式的行事の記述に「厳粛」という言葉が入ってるし、卒業式という学校最大の式典に応じた所作や全体の調和を子ども達に経験させたいということでしょ。なぜすぐに「整列=軍隊」になるのかな。「整列」はデザインの大きな要素でもあるし、美しさでもあるよね。なんでも軍隊に結びつける思考そのものが理解できない。 

 

 

・元自衛官です。 

まるで軍隊というけど、この人、軍隊ってどんなところか知ってるのかな? 

卒業式の生徒の行動と貧しい個人的なイメージに過ぎない「軍隊」を直結させていまうところにこの人の古臭い価値観と知的深みのなさがよく表れている。 

卒業式は儀式だからそれなりの式次第と作法があるのは当然。整列入場・一斉の礼は儀式の作法として行われているのであって、軍隊の礼式とは目的が違う。表面的な類似点に目を奪われて本質が異なるものを直結して小理屈を捏ねる。昭和以来の左翼知識人と同じ。 

 

 

・ほとんどの人間は古市さんのように一匹狼で好き勝手なことを言っているだけでは生きていけないのです。 

もちろんそういう生き方ができる才能があり努力もしたのであろう古市さんは素晴らしいとは思います。 

でもそうでない大多数の人間がこれだけ複雑化した社会の中で生きていくには集団主義も必要です。 

むしろ才能もないのに人と歩調など合わせず自分のやりたいように生きろと言われることのほうが恐ろしいことかもしれません。 

 

 

・会社に入ったら嫌でもそれこそ机を小学生の班学習のように向かい合わせのように座らされて手の届くような位置でほとんどの時間を過ごす。我々庶民の仕事の殆どは集団行動力とコミュニケーション力が必要とされる。孤高の存在で仕事の成り立つ天才たちにはわからないと思う。 

 

 

・卒業式は「儀式」である。儀式とは通常の行動とは違う動きによって、日常とは異なる非日常的な時間と空間を作り出し、特別なひとときを演出するものである。それは、結婚式しかり、葬式しかり、開会式や閉会式しかり、入学式や卒業式しかりである。儀式の演出のために集団内で適度に緊張感を創出し、その時の時間と空間に特別な意味を持たせるための一人一人の特別な動きなのである。この記事の執筆者のあまりに不勉強で、上っ面だけの解釈で、よくもまあ、わずかばかりとはいえ、原稿料をもらって恥ずかしくないかと思う。次からは自らの価値をいたずらに貶めないような作文を選んで公表するべきだ。あまりに気の毒である。 

 

 

・じゃあ集団行動を無くして生徒がそれぞれ思い思いの学校生活を送るとして、それらを全て教職員が面倒見て管理しきれるのだろうか? 

スムーズな学校教育を進めるためにはある程度の規律と集団行動は必要だと思います。 

 

 

・学校生活全てが自由がない軍隊のようだったら問題ですが 式典の時に一糸乱れぬ行進には問題ないと考えます。学校では自由だけじゃなく集団生活で秩序を学ぶことも大切です。 

 

 

・>授業や式典のたび生徒に起立と礼を強いる 

 

少なくとも2000年代以降は、公立小中学校の授業で起立礼をしているのは見たことがありません。教壇もありません。ミスリードではないかと思います。 

筆者は1985年生まれで.1970年代の日教組が猖獗を極めていた時代を見聞していないからわからないと思いますが、日教組は「教え子を戦場に送るな」とは言いましたが、「教え子に革命をさせるな」とは言ってません。 

彼らの究極の目標は、教え子を赤軍兵士に仕立て上げることだったから、その基礎づくりとしての集団行動は必須でした。この点では皇民教育の復活を目論む保守層と同床異夢ながら目指す方向は一致していたので、いまだに筆者指摘のような光景が広がっています。目的達成のためには異論を許さない点では極左も極右も一緒だから、生徒をブラック校則で統制して集団行動をさせる点においては、日教組も同じ穴の狢です。 

 

 

 

・協調性が重視されなくなったら最早日本じゃない。一糸乱れる行進が出来るように教育することも悪くない。その上で個性が伸ばせるように教育することが重要だが、もしその二兎を得ることが出来ないなら協調性の方を重視すべき。 

 

 

・私も学校にいた時に感じました。日の丸君が代に反対して、なぜ、軍隊のような行進や統一した動作を強要し、それが正しいと教え込むのか、目立つことや人と違うことを否定するのかと。 

左翼も右翼も、自分の思想を押し付けようとしている以上、集団主義、全体主義であることは変わらないと思います。 

 

 

・少し論点とズレるかも知れないが、例えばオリンピックの入場行進で、海外の選手団が隊列を組まずにかなり自由に更新してても眉を顰める事がなくても、日本の選手団が隊列を組んで無いと声を出して文句こそ言わなくても心の中ではだらし無いなぁとか思う層が一定数居る。 

外国人の自由な行動は陽気だと捉えて、日本人の自由な行動は宜しくない感じを受けてるのは、年齢層が高くなるほど割合が多い気がする。 

それは、おそらく日本が戦争をしていた頃の軍隊式の教育の名残りの強弱が関わっているのではないだろうか。 

 

 

・言わんとしてる事はわかるけど、卒業式という晴れの日に各人がバラバラで、場合によっては、ダラダラやってたらそれはそれでどうなん?となる。行進に一糸乱れぬ云々まで求めるのは違うかもだけど、やっぱり、社会に出ればそれ相応に集団の中で仕事なり、生活する訳だから、何でもかんでも好き勝手という訳にはいかないし、それはもはや個性ではないと思う。 

 

 

・自分の昔の経験では皆の動きが揃うようになるまでは運動会然りその他式典の前でも何度も何度も同じ入場から退場までの練習をするのが不可欠だった。今から思えば教員にとっても生徒にとっても負担が大きく、そこに充てる時間をもっと他に有効に使えるところがあったのではと思うが。 

 

 

・まだまだ沢山ある旧時代の名残。 

子供を国に仕える臣民として養成する、その意図が亡霊のように生き残っている。 

例えば、修学旅行で京都等を訪れる運動用ジャージの集団。しかもご丁寧に胸と背中にクラスと名前まで大書している。まるで囚人の集団のようだ。 

何度批判されても変更しない生徒を型枠にはめ込む「とんでも校則」。パーマ禁止だからくせ毛の人はストレートパーマをかけろと指導するなどという狂気もまかり通る。・・・ 

こんな指導をしながら教育は「生徒の心身の障害の状態及び特性等を十分考慮する」のであり目標は学校教育法の第21条に事細かく書いてある。 

しかし実態は、上記の例のように役人や政治家の考える「理想的な子供」を画一的に生産する工場と化し、子供の人権も尊重しなければ論理的・科学的な教育もなされていないのが現実。 

 

 

・集団主義ととるか協調性を養うととるか 

 

両者を上手に使いこなす事が出来ると、人生楽だと思うけど 

皆が皆、学力や能力を持っている訳では無いから、我が自由に生きるなんて事は難しい 

だから集団に属する事になるが、そこには対人ストレスが伴う 

 

そこに於けるストレスコーピングを学ぶと考えれば苦にはならないし、変な事じゃないのではないかな 

 

 

・昔、日本人が集団を強く意識してた頃、つまり企業が日本式経営をしていた頃には日本は世界でも稀に見る高度経済成長を成し遂げました。 

その頃は従業員が務める企業の為に身を粉にして働いたから出来た所業だと思います。 

そこには集団意識があり強調し合う事で個人の能力以上の結果が生まれた。 

そして企業は従業員を全力で守り利益は従業員に還元してたから従業員も頑張ったんだと思う。 

それが欧米型の企業運営を持ち込み平気でリストラしたり、利益は株主に還元するようになったが従業員には旧来通りに身を粉にして働き、会社への忠誠だけは相変わらず求めるようになった。 

だから従業員も権利を主張し個人を大事にするようになった。 

 

その結果が30年も続く不景気なんだと思います。 

 

 

・そんな、一糸乱れぬ行動なんて、してない学校が殆どだと思います。実際私非常勤講師として勤めていた数々の学校の中では、1校もありませんでした。集団主義を議論するなら、もっとほかの素材を使った方がいいと思います。一部だけを見て恣意的に話したのなら、余計にダメです。コメンテイターとして。一人の女性の言動を見て。「これだから女はだめなんだよ」といってるようなもんです。少なくとも100のデータは集めるべきでしょうね、視聴率みたいに。 

 

 

・そういう経験から、自分にはこういうことは向いてないとか考える切っ掛けにもなるので、無くしてしまうのもどうかと思います。あと、お葬式など自由なようで決まりに沿って行動するのが当たり前とされるものもあるし。 

 

 

 

 
 

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