( 187763 )  2024/07/05 16:28:50  
00

イェール大名誉教授「筆記テストと偏差値は個性を潰す」…今すぐ日本の学校教育を改革すべきワケとは

プレジデントオンライン 7/5(金) 9:17 配信

https://news.yahoo.co.jp/articles/318fd3586391e6795d2ca359800b0057493b7433

 

( 187764 )  2024/07/05 16:28:50  
00

日本経済の停滞の原因は、生産性の向上が必要であり、教育や個々の労働者の能力向上が重要とされている。

日本の教育では偏差値重視や記憶力試験が主流であり、個性や創造力を生かす教育が不足していると指摘されている。

教育のあり方を変えることで、個々人の能力を最大限に引き出し、イノベーションを生み出す必要があるとされている。

AIの時代には知識よりも発見力や問題解決能力が求められ、偏差値教育では社会に貢献する能力を持つ若者たちも育ちにくいという指摘がある。

日本社会では集団への同調が重視されてきたが、今後は個性の発揮が求められる時代であり、教育の改革が必要とされている。

(要約)

( 187766 )  2024/07/05 16:28:50  
00

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/recep-bg 

 

■日本経済停滞の根本原因とは 

 

 日本経済の停滞基調を解消するためには、生産性の向上、つまり全体の労働能率を高める働き方を導入する必要がある。 

 

【画像】黒川清氏 

 

 少子化が経済成長の停滞原因としてあげられることが多い。たしかに人口老齢化が進むと、より少ない労働力で高齢者を支えなければならないので、国民全体にとって望ましい状態ではない。とはいえ人口が増えると、労働人口が増える一方で消費人口も増加する。単に人口が増加するだけでは、長期的な経済成長の停滞を根本的に改善できないのである。 

 

 また、女性や外国人の就業参加が少ないことを理由に、日本社会の多様性の不足が経済停滞の原因とされることもある。多様なスキルや視点が経済にプラスの影響を与える可能性はあるが、それだけでは日本全体の生産性を大幅に向上させることは難しいだろう。やはり、国民一人ひとりがより高い効率を発揮することが、経済成長には必要なのだ。 

 

 個人の生産性を向上させるための一番の根幹は、国民の教育にある。ところが、世界の教育水準と比べて、日本の教育について悲観的な見方を禁じえなかった。最近、同じような考え方を持つ専門家の書物や評論を読む機会があった。ここで内容を紹介しつつ日本の教育の問題点、しかもこれから日本の成長と、日本人の生活に長期的に影響しかねない問題点について論ずることとしよう。 

 

■「オタク」を生む教育が必要な理由 

 

 第一に、日本の受験システムが筆記試験で合否を判定するため、いわゆる偏差値教育が生まれ、若者が天から授かった得意な能力を十分に発揮できなくなっている。この点について、小林りんさんの『世界に通じる「実行力」の育てかた』(日本経済新聞出版)からの例を紹介しよう。 

 

 軽井沢市に世界各国から学生を集めた国際高校(ユナイテッド・ワールド・カレッジISAKジャパン)を設立した小林さんは、高校時代、学級委員などで活躍し、文系科目は成績も十分だったにもかかわらず、「あなたの数学の成績では優秀な大学には行けません」と言われ、弱点ばかりを見る教育方針に疑念を抱いた。そこで小林さんは、高校を中退しカナダに留学、さらにユニセフなど海外での経験を経て新しい学校創立の構想を生み出したという。 

 

 不得意科目をなくして皆を平均化する教育では、われわれの持って生まれた個性を生かすことはできない。各自の得意な分野を徹底的に伸ばす、言ってみれば「オタク」を生む教育をしなければ、イノベーションは起こらず、日本は世界の競争についていけないのである。 

 

 小林さんの理念をわたくしなりに要約すると、「各人が自分自身に尊厳を持ち、その理想を実現できるような教育環境を世界の若者たちにつくろう」というものだ。 

 

■AIの時代には知識より発見 

 

 医学者で日本学術会議の元議長である黒川清氏は、ペーパーテスト偏重で記憶力ばかりが問われる日本の受験勉強が、科学者にとってもっとも重要な、「なぜか」という問いかけを若者にさせなくなっていると指摘している(黒川清「随想 常に「なぜか」を考えよ」『學士會会報』2024III所載)。 

 

 アメリカには、「ジェパディ!」という物知り競争の人気クイズ番組がある。面白い番組ではあるが、アメリカ人が余興として楽しんでいるような記憶力テストに、日本人は真剣に取り組んでいる。このような偏差値教育で、社会に役立つほかの能力のある若者までもが、よい成績が取れないと将来を悲観し、自分の能力を伸ばすことを諦めてしまう。 

 

 黒川氏も述べるように、アメリカでは大学に応募する学生はこれまでの活動や将来の抱負を詳しく書き、面接を通じて全人格を評価される。このような配慮がなければ、今持っている知識が豊富な人だけが選ばれ、自分で問題を発見し解決する能力を持つ人材は選べない。私も日本で、ある年だけ、大学ゼミ生の選抜に面接を行わず書類審査だけで済ませ、不本意な選抜となってしまったことがある。 

 

 

 考えてみると、日本は昔から農耕社会で灌漑など共同作業をするのに長けており、協調性が尊重されてきた。その半面、皆が持つ個性を尊重せず、時には個性を抑圧することもあった。農耕社会では昔の記憶が役に立ったので、年寄りや物知りが「先生」として大事にされた。 

 

 しかし現代では、黒川氏がChatGPTを例にあげて指摘するように、百科辞書的知識の持ち主の有用性は格段に落ちている。現在、研究者に必要なのは、人を真似することではなく、人類のためになる新しい知識や新しい技術をいかにして見つけ出し、いかに現実に役立てるかを考えることだ。だからこそ、研究者は「なぜか」を問い続け、まだ知られていないアイデアを見つける努力をしなければならない。 

 

 これは自然科学に限らない。社会科学も、人間や各国の利害関係が生み出す社会的問題を「どうしたら解決できるか」を考えなければならない。研究者の醍醐味は、「世界で何が知られているかを知ること」ではなく、理想としては、「世界でまだ知られていない考え方をどう発見するか」にあるのである。 

 

 そのためには、若者はいつでも世界中から学べる環境が必要だ。留学では、外国から知識を輸入するだけでなく、世界の友人とともに新しい知識に挑戦するのが重要だ。しかし現在、円安のため留学が困難になっているのは大きな問題であろう。 

 

 さて、学者志望の学生や院生には、ただ人の真似をするのではなく、自分も世界に新しい知識をもたらす担い手になるのだという気概を持ってほしい。私がイェール大学で博士論文作成の指導を受けた際、「この主題で先行研究を調べてみます」と言うと、ジェームズ・トービン氏は「先に人の研究を読むと、君の発想が止まってしまうので、まず自分で考えなさい」と答えた。日本の鋭気ある研究者にも伝えたい言葉である。 

 

■集団への同調より個性の発揮を 

 

 藤崎一郎元駐米大使は、中曽根平和研究所のコラムで世界の外交問題についての健筆をふるっているが、教育問題に関連した『まだ間に合う元駐米大使の置き土産』(講談社現代新書)も非常に有益なメッセージを伝えている。日本の知識偏重の教育を受けた優れた学生が、いわゆる年功序列、会社一辺倒の日本的な組織に入った後、自分の能力をどう生かしていくのかについて貴重なヒントを与えてくれる。 

 

 まずは「自分の尺度で判断し、想像力と創造力を養い」「ほれた会社、ほれた職業を選べ」というアドバイスで、自分の能力を最大限発揮するための第一の条件だ。次に、個性を発揮しようとすると、伝統的な職場では抵抗にあうこともあるが、個性を抑制し集団に同調するように教育されてきた人々に対しても、組織の中で粘り強く工夫を続ければ、自分のためにも社会のためになる有益な活動に「まだ間に合う」というのが、藤崎氏の伝えたいことであろう。 

 

 この3つの論稿を通じ、日本社会で個性を生かし、未来を変えていく可能性について、真剣に考えている人がいるのは心強いと感じた。 

 

 

 

---------- 

浜田 宏一(はまだ・こういち) 

イェール大学名誉教授 

1936年、東京都生まれ。東京大学法学部入学後、同大学経済学部に学士入学。イェール大学でPh.D.を取得。81年東京大学経済学部教授。86年イェール大学経済学部教授。専門は国際金融論、ゲーム理論。2012~20年内閣官房参与。現在、アメリカ・コネチカット州在住。近著に『21世紀の経済政策』(講談社)。 

---------- 

 

イェール大学名誉教授 浜田 宏一 撮影=石橋素幸 写真=時事通信フォト 

 

 

( 187765 )  2024/07/05 16:28:50  
00

(まとめ) 

- 日本の教育制度には偏差値やペーパーテスト中心の問題点が指摘されているが、それでも現状の改善が難しいとの声が多い。

 

- 個性や思考力を重視し、学生の多様性を尊重すべきだという意見もあるが、評価方法や入試制度の変革が必要だとの指摘もある。

 

- 教育の目的や価値観の見直しが必要との意見や、大学入試や学力試験の在り方に対する批判も多く見られる。

 

- 資本主義社会や多様性の重要性、教育に対する期待や不満、海外の教育システムとの比較など、さまざまな視点からの意見が示されている。

( 187767 )  2024/07/05 16:28:50  
00

・大学の一般入試の問題よりも、中学高校の定期テストのほうがはるかに短期記憶による暗記のウエイトが大きいので、思考力重視に変えるのであれば、まず現状の定期テストを中心とした評定自体を劇的に見直す必要があると思います。 

 

また思考力に関しては、個人の能力差が出やすくなるので、同一年齢同一内容で進めることが難しくなるため、欧米のように高校以前でももっと留年や飛び級を一般的な形にしていかないと、有効に機能させるのが難しいと思います。 

 

 

・現在の学力評価は、筆記テストで点数化し、偏差値で難易度やばらつきの調整をするということです。 

 

これは個性を潰すことには直結するわけではありません。 

出題と評価次第でなんとでもなります。 

例えば論文なんかを書かせ、個性を抽出して評価することは可能です。 

 

しかし、個性を抽出して評価するという作業には出題や採点でかなりの労力が必要です。 

 

したがって、大量の学生を評価するには個性を抽出できなくても筆記テストでの評価は労少なくて結果は結構高いという有益な手法であり多くの学校で採用されています。 

 

これは決して間違いではないと思います。 

 

 

・うーん。理想を実現するためには、もう少し何かが足りない印象。その何かが最高に難しいのだが。 

自分は何を学び、何をしたいのか。どんな職業につきたいか。またはどんな仕事でもいいが、お金を得て何をなしたいか。お金は必要最低限で、どんな経験をしたいか。または大金を得てどんなことをしたいのか。 

それを見つけるのは非常に大変で、短い人生ではリスクが高いと感じる。 

社会の非合理、不適切な体制に気づき、もっと 

別な道を選び、改善しようとするのは尊敬します。 

資本主義社会…良い面、悪い面があり、一部の資本家にとって非常に都合の良い側面がある。この体制を改善するのは至難の業だが…理想はまだ見出せない。 

よりよい社会、幸せな世界を願う。 

 

 

・高度成長の頃までは必要な教育でした。 

当時はドローンもロボットもなかったから、人の心を子供のうちに速やかに潰して、言われたことを、その通りにやるリモコン人間が大量に必要でした。 

でも、これから先はそんな時代じゃなくて、そういうのはドローンやロボットやAIの仕事になります。 

ですから教育を根本的に変えて、人間の子供達は、細やかな感性を持ち、一人一人みんなガラス細工やバラの花のように繊細な気持ちを持ったまま、特別な個性を華やかに育てていくのが大事なんです。それぞれの子供達を、今よりも丁寧に注意深く大切に扱う必要がありますす。雑な扱いをしたら、絶対にダメです。雑に扱われた子供は、自分も他人も雑に扱い、社会を悪化させます。AIやロボは人の力を拡張するからです。 

古い教育を完全に終わらせる必要があります。 

これから、私たちは新しい未来を創るのです。 

 

 

・中高年の自分の実感としては、「知識を丸暗記する」ことの重要性は、昔より今の方がはるかに増大してる。つまり、AIに質問して答えを教えてもらえても、「答えの内容を理解するための前提知識」を自分が知らなければ、答えの意味を理解できないわけで。 

 

例えば自分は、今朝偶然読んだ半導体関連の記事に興味を持ったので、言及されてるIOWN(NTTが推進してる半導体の新技術で、光信号で情報を処理することで劇的に性能が向上するらしい)をAIに質問して答えを教えてもらったとする。 

でもど素人の自分は、その答えの内容を理解できないはず。「なんで光で情報を伝達できるの」「なんで半導体の回路の中で光を扱えるの」「そもそも半導体って何なの」等。 

前提知識が無ければ、AIの素晴らしい解説を読んでも理解できないし無価値だ。 

 

昔の方がラクだった。ネットが無く、自分の身の回りの事柄さえ知ってれば十分だったから。でも今は違う。 

 

 

・今まで筆記試験で評価してきたから、筆記試験で評価するのが楽だから、受験者が何故か筆記試験を「公平だ」と誤解して受け入れてくれるから、それに傾倒して他の評価法や評価基準の活用を疎かにしてきたよね日本人。 

 

結果、学校の定期試験も大学入試も、みんな頭良くするより「試験対策」するようになったじゃん。生徒や予備校の「試験対策」開発が進んで、今や頭のいい人より試験の対策がうまい人の方が点取れてるのではないだろうか。生徒の皆さんや、生徒だった皆さんには、その実感があるのではないか? 

 

今、筆記試験は学力試験と呼べるのか? 

学力を競う試験として、公平と言えるのか? 

試験を通じて評価したい学力って何? 

 

この辺が、試験や評価を考えるスタートラインだと思います。 

 

 

・これは私自身が勝手に言ってる事ですが、 

その子に好きな事を思い浮かべさせて、 

その動詞の部分がスキルに繋がると考えてます。 

 

例えば刺繍が好きという子が居た場合に、 

刺繍自体は動詞ではないですが、 

刺繍の中で刺繍糸を選ぶ時が楽しいと感じていると言う場合、 

「刺繍糸を"選ぶ"」と言う動詞がありますよね。 

ですので、その刺繍糸を選ぶ事が何かその子のスキルに繋がるんじゃないかと。 

 

例えば何百色とある糸の中から人に合う色を選ぶのが他人より長けてるとか、糸の太さの違いに気づいて他の糸との違いに気付く部分が他人より長けてるとか、この色とこの色を合わせたら凄く綺麗になるなんて色合いに長けてるとかって部分が見つかって、そしてそのスキルが職に繋がるんじゃないかと。 

そこから先に学ぶべき事だったりもその子自身で見つけて行動すると思うんです。 

それを見つける事が出来た人達って目を輝かせながら作業しますし。 

 

 

・識字率ほぼ100%を維持してる凄さの前提など全部ぶっ飛ばした話だね 

教育の大切さを広めた人たち、篤志家、子どもも働き手と頼っていた農家や専業種の人、みんな苦労して子ども全員を義務教育の場へ送り届けた過去なんか関係ないんだろうか 

国民すべて一定以上の知識が確保されている事、これがどれだけ凄い事か 

 

最近は個性の尊重も行き過ぎて個性の無い人を社会から消し去ってる気がするんよなあ 

個性は延ばすではなく自然と伸びるものと思うんやが 

 

 

・勉強、ここでいうところのペーパーテストは、やれば試験で良い成績ができるタイプ。 

自分なりの努力でそれなりの大学に行くことができ資格試験もクリアしてきた。 

ペーパー試験は他の推薦入試などの手段と比較すると平等だと思う。 

社会にでてきて思うのは、偏差値の高い大学出身の人は仕事面でも決して無能ではないということ。効率よく努力することが身についているから。例外もあるだろうが、それは例外であって標準ではないから。 

では、期待されるような個性や才能を持っている人は現実にどれくらいいるのだろうね? 

なかには本当のgiftedもいるだろうけど、そういうずば抜けた人は、社会の後押しがなくてもどこかの時点で抜きん出ている気がする。 

逆にやってもダメな人もいるわけで、人口統計的にも絶対数の少ない極端な例ばかり持て囃すのはどうなのだろう? 

 

 

・いつの時代も社会の枠に収まりきれない はみ出し者はいて、そのほんの僅かな人たちが凡人にはなし得ない業績を上げる。 

しかしそのような天才肌の人たちを制度的に作り出そうとしても無理であろう。 問題なのはそのような人たちの育成制度なのではなく評価の仕組みだと思う。そのような人たちが評価され居場所を与えられ合理的な報酬を得ることができる懐の深い 社会であることが望ましい。 

但し。あくまで 一握りの人たちなのであって、日本の強みである一般庶民の学習レベルの高さを損なうような改悪はするべきではない。 

 

 

 

・動物が好きでよく子供と動物園に行くのですが、時々図鑑を子供に持たせて、檻の中にいる動物を調べさせてる親がいますが、それって意味なくない?って思ってます。図鑑を見て調べるなんて、誰にもできるし、頭使わなくない?って思いました。自分はフラミンゴは檻に入れなくても何で飛んで逃げないと思う?って質問したり、虎って何で黒い模様があるの?って質問して、子供に考えさせるようにしています。まずは親が勉強しないとじゃない?って思ってます。 

 

 

・オタクを育てるべしってのはわかるんですけど、そのために筆記テストと偏差値をやめろってのは何か違うと思います。 

小学校では何十年も前から偏差値関係の評価は隠されていますし。 

 

どっちかと言うと、「ただ1つの正解」「標準であること」を求めすぎるのが良くない気がします。 

 

テストじゃなくても、何かの感想とかの、自由な発想でよさそうに思える時なのについつい「正しい答え」を探してしまうことってないですか? 

大人になってから建前と自覚して書く時はそれでもいいと思います。 

でも、個人の性質を探って可能性を増やすタイミングにそれは似合わないと思います。 

ああいう価値観はどこから来たんでしょう? 

 

あと、人と違うところを見つけた時にからかったり厳しい口調で指摘したりする子っていますよね。人のできていないところばかりをせっせと口にする子も。 

 

ああいうのをやめさせていかないと、オタクの芽は育たないと思います。 

 

 

・「数学ができないから優秀な大学へは行けなかった」 

私学は国立へ行けない人の学校というバイアスだが、文系私学は国立へ行けない学生の学校という風潮があったのは昔話。 

今や早慶マーチは一流大学とされており、旧帝大未満・地方国立以上の位置。 

また、一流私学入試の英文読解問題は暗記だけでは解けない。IQパズルの要素が強いからで、ほぼパズルの出来が合否を分けている。 

日本の私学の問題点は、むしろペーパーテストを経ずに、つまり頭脳チェックを受けることなく入学できるAO・推薦の制度の存在することだ。 

欧米と違って卒業ハードルが低いことを考えれば、頭の悪い生徒が高校の裁量だけで一流私学卒の肩書を持つことができる点だ。 

私学卒の評価は学校名に入学選抜方法も併記しないことには、信頼性を失う。 

 

 

・1年生になる子にどんな風に学習を教えていくか今、うちは大揺れです。興味関心をゆっくり伸ばすための時間などないです。宿題も結構あるし、家庭学習で最低限、漢字、計算をさせてるだけでも大変だなーと。ペーパーテストなくしても知識はいるよね?と思うのでやらせてますが、興味だけさせるならいまだに遊びだけなり、テストはできない感じ 

 

 

・いやこうすべきであろう。まず一般入試割合は必ず五割以上にする。残りは推薦AO附属で四割。残り一割は高専や編入学、社会人、飛び級にする。学士は三年にして修士号を二年。高校も二年にして22歳で修士号を修了できるようにすれば専門性もつく。 

 

 

・東京大学法学部入学後、同大学経済学部に学士入学。イェール大学でPh.D.を取得。81年東京大学経済学部教授。86年イェール大学経済学部教授。 

 

こういう経歴を持つイェール大学名誉教授が、教育についてのコラムや一般書を読んで、大した検討もせずに筆記テストはダメだと思ったというコラムを書くというのは、ずいぶんと無責任な話だと感じる。 

 

その筆記試験が公正であるという前提があるからこそ東大がヒエラルキーのトップということになっていて、その学歴が重要な意味を持ち、こういうエッセイにも権威性が生じているわけで、そうじゃなければ教育の研究者でもないひとの作文をありがたがる読者はいないでしょう。 

 

 

・教育思想からいくと、浜田氏の主張は「ゆとり教育」派ということになる。「ゆとり教育は、学力低下をもたらす」ということで、やめて元にもどされた。個人的には私は「ゆとり教育」支持だが、ゆとり教育を廃止するにしても「ゆとり教育白書」くらいの調査・研究の総括も何もなく、元に戻されてしまった。 

 実際には、ゆとり教育の時代は、学校教師の創意工夫が盛んになされた時代で、プラス面もけっこうあった。ある意味で「試行錯誤」の時代でもあったわけだが、その成果を待たずに、元に戻されてしまった。 

 

 

・主題が大きいからいつも論点がぼやけて見える。何をもって日本は筆記試験偏重というのかわからない。暗記を問うだけの問題なんて今の大学入試ではほぼ見かけない。どの入試においても記憶力=知識は必要。知識がなければ、読解はできないし、物事を統合させ、論理的に答えを出すなんて無理。筆記試験で能力は十分に測れる。 

個性なんてものは、ある程度の形(一般的な物事の考え方・見方)を身につけておかなければ備わるものではない。それを表面の字面だけ見て、人と違うことが個性だなんて勘違いさせることが問題。個性は確固たる知識の土台がなければ生まれるものではない。 

 

 

・おおむね同意だが少し反論したい。新しい考えは十分な知識の上に成り立つ。付け焼き刃の知識で自ら考えたことを実践しても、「生兵法怪我のもと」になるだけだ。先人たちの教えを十分に理解してこそ、新しいものごとへの取り組みが成功するだろう。 

 

 

・知識より発見だって言われても、 

発見だってことがわからないと 

どうしようもないだろう。 

 

授業で数百ページの英語の判決を与え、 

ここから特定の命題を示す頁を探させることを 

学生にさせている。 

 

学生は、ChatGPTにファイルを読み込ませて、 

該当箇所を抽出する。ただ、これが本当かどうかは 

実際に読んでみないとわからない。 

そして、そもそも判決が読めなければ 

ChatGPTは使いこなせない。 

 

体系的な知識をChatGPTは理解しているが、 

学生が体系知を持っていない状態で、 

ChatGPTの判断を下すことは難しい。 

 

 

 

・今に限らないが、昔から学力は低くても、研究成果を出す学生はいた。後で他の学生に聞いてみると「ああ、あいつは研究とかは向いてるからね」と言うが、大学教員がそういう学生の素養を見つけるのはかなり難しい。結局、学力しか判断指標がないと思う。 

 

 

・少し飛躍して。  

ある公開討論後の打ち上げ会で、パネリストの大学教授が嘆いていた。いまどきの若者は「知性が解放されていない」と感じることが多いという。 

ゼミで議論するにしても、学生たちはお行儀の良い、無難な答えを事前に用意してくるという。すぐにネットで検索して、コンセンサスがこんなところだろうとあたりをつけて発言しているように感じるらしい。 

まずは自分の頭で考えることが少ない。独自の視点や疑問を持つことが少なく、みんなと同じ意見を言う傾向になりやすい。多数派にいることを望んでいるようでもある。だから、議論を深めるディベートにならないと嘆いていたね。 

 

 

・日本の教育制度を変えることは無理だろう。なぜなら社会(主に上層部)が望む人材が新しいシステムを生み出す人間じゃなく維持していく人間だから。今のシステムを変えたくないのだから独創性とが論理性は不要。黙って教えられたことを「これが唯一の正解!」と信じる人を欲している。そしてそれに異を唱えるものを徹底的に排除する。こうして今の日本社会は成り立っている。今のシステムに疑問を感じる人間を全て排除してるんだからブレイクスルーが起こるわけない。社会の発展にはある種の寛容さが必要。または相手を叩き潰す徹底的な闘争。 

 

 

・イエール大学、アメリカの名門とされているけど、彼の地の名門って、社会の公器として公正な試験で…。じゃなくて、社会的な影響力とか将来性とかを重視するんだよね。 

つまり、家柄や財産や社会的地位。日本からも将来の首相候補が留学してました。 

公正な試験で決める科挙方式の方が、弊害はあってもずっとマシだと思います。中国の文化圏もヨーロッパも本当はそっちなんじゃ。 

 

 

・論文とか面接とかそれまでの経験とか「個性重視で筆記試験では測れない本当の実力」を測ろうとする試験にするほど、いわゆる「親ガチャ」の影響が大きくなって、格差が固定・拡大する。 

「本人の実力」ではなくて、親の財力(教育にかけるお金)とやる気がほぼ全てになるでしょうね。 

 

貧乏でやる気がない親の子どもでも、本人にやる気と才能があれば筆記試験一発なら受かる可能性はあるけど、そういう環境で育った子どもが「個性や意識重視の試験」で評価されるの絶望的に難しい。正直、土俵に立つことすらかなわなくなる。 

 

 

・大した取り柄もないし、英語も中学から習ってるけど全然できないから、日本の中で勝ち組になる選択をしたいと考えたときに、知育偏重の教育に浸かって受験を勝ち抜き、いい会社に就職して安定した生活をしようという、人生設計になるんじゃないかな。 

 

自分の個性を伸ばすことに成功していい生活が手に入ればいいけど、失敗したら悲惨なんだもの。 

 

安定した地位にいる人が、個性重視の教育を!と叫んでも、いまいち響かないのでは?日本で何の取り柄も金もない自分の立場でそんなこと言えるか?と。 

 

まあ、余裕のある立場だから見えるものもあると思うから、そういう人を否定はしないけど。また海外だと日本の問題点もよく見えるんだろうけど。 

 

ただ海外で日本の問題点の指摘をする人には、ある程度海外いて広い視野が身に付いたなら、その後は日本に帰ってきて日本をよくしてくれよ、と思わなくもない。この記事の方はお歳だけど。 

 

 

・連邦政府の犯罪者情報(前科前歴含む)に登録さたら生涯大学進学の道が閉ざされる人物重視のアメリカの大学より、たとえ殺人の前科があっても一定の年数を経て、入学試験の点数さえ取れれば、入学を認める日本の国立大学の方が、多様性という面では優れていると思います。 

 

 

・知識が浅ければ思考も浅い。思考の深さとスピードは、知識量に比例するよ。 

高等教育になればなるほど一定以上の数学の知識は不可欠になる。 

それはまったく理不尽な話じゃない。 

統計も確率も理解しない人間の研究結果なんて何の役にも立たん。 

 

頭のデータベースから素早く例を引き出せることが能力の高さの指標である時代は終わりつつあるけれど、外部記憶に頼らなくても済む知識を持っていることがあらゆる場面で役立つことにはなんら変わりがない 

 

 

・>文系科目は成績も十分だったにもかかわらず、「あなたの数学の成績では優秀な大学には行けません」と言われ、弱点ばかりを見る教育方針に疑念を抱いた。そこで小林さんは、高校を中退しカナダに留学 

 

これは違いますね。 

昔は文系科目だけで私立大学頂点に君臨する早稲田大学のトップの政治経済学部に入いれましたし、慶應義塾大学の看板学部の経済学部にも入れました。 

特に早稲田大学の政治経済学部は東大合格者が軒並み落ちるほど難化して、まともな受験勉強では歯が立たず、百科事典を丸暗記したような地歴のエキスパート(オタク)ばかりが合格していました。 

また一流国立大学は総合点で決まるため、東大でさえ二次試験の数学が白紙で合格する人が普通にいました。 

ちなみにセンター試験の数学は基本的な問題なので、これで足切りにならない程度の点数が取れない人は高校時代に何やってたの?中卒?って思われても仕方がない。 

 

 

・「公平さ」だけを突き詰めると,ペーパーテスト中心に落ち着いてしまう。でもこのペーパーテストも,予備校とマスコミの圧力で,どんどん複雑怪奇なものになっていく。おそらく出題するほうも疲れているのではないか。推薦などを中心にして,大学に入ってから勉強するシステムに変更すべし。欧米はそれでやれているのだから。 

 

 

 

・日本は右にならえ、をずっとやってきた。上に立つ者はそれが一番やりやすいから。命令だけしてれば良いから。個性は認められなかった。そうして日本は落ちぶれていった。今大改革しなければならないのは右にならえ思想。皆違って皆良い思想に変えないと個々の能力が活かせない。 

 

 

・勉強しても、個性は潰れないよ 

 

入試方式を公開することで、個性が見える 

 

勉強が得意な人、その他の個性優位の人、真面目に課題を取り組める人、それぞれの公開と真実の世間認識が必要だと思う 

 

 

・現状はさほど変更せずに、追加で得意な分野を一つ、ゲームでもプログラムでも電子回路でもなんでもいいが、認めてやるのはどうだろう。今まで以下の人材ではどうしようもないが、熱中している物を全く認められない現状も不甲斐ないとは思う。 

 

 

・日本、というより多分中国も韓国も、高等教育の目的は、技術を身につけるためではなく、偉くなるための資格を試験で得るためのものだったのではないでしょうか。天は人の上に人を作らずですが、学問が身分の上下を決めてきたのです。専門知識や技術を身につける教育体系にもっと資金を投じるべきでしょうね。偉くなりたいだけの人は上級の世界で頑張って貰うとして...。 

 

 

・ペーパーテストを攻略してきた人たちが官僚となって、国の行政を担っている以上、彼らの得意なペーパーテストを見直すことはあるまい。 

彼らは彼らなりにペーパーテストを攻略するために心血を注いできた。それをわざわざペーパーテストを攻略できない者に花を持たせることはなかろう。 

英語も話せない、数学の問題も解けない、物理や化学はさっぱりわからない、歴史の知識もない。しかし、手先は器用だ、球技が得意だ、実技科目はできるというケースは考えにくい。主要教科が不出来な者は実技科目もパッとしない。だって、認知能力も処理能力も低いのだから。 

やはり、学業成績優秀者は不振者より様々な能力で高い傾向にある。 

今の時代は、一芸に秀でるだけではなく、マルチな能力が求められる。 

昔より、社会が高度で複雑になっているので、優秀な人材の育成は急務だ。しかし、子どもを囲む周囲の大人がショボいと人材育成は絵に描いた餅で終わる。 

 

 

・偏り過ぎってのが悪いと思うよね。 

進学校の生徒は高校3年分を2年でやって、勉強漬けで人間的教育が足りない?とか、勉強諦めた人はその後ほったらかしで、大人になってやっても評価されないとか、そういう所。 

私立はエスカレーターとか、寄付や点数改竄とか金が物を言うシステムだったりして、全体的に公平性も担保されていないし。 

選抜に例えば体力項目を入れれば田舎の人が有利になると思うけど、勉強のみだし。 

昔は偏差値高い人が鼻高々で、頭がいいとされたけど、今色々言われているそのシステムに迎合しなかった人達は、ある意味頭が良かったという考え方も出来るかもしれない。 

これまでは努力しない人とされてしまったけども。 

一番思うのは足の引っ張り合い。 

結果として有能な才能が成長せず、いじめなんかに向かってしまう側面が有ると思う。 

選抜ってのは大きな影響を与えるから、より良き仕組みになるといいけどね。 

 

 

・どういう子を育てるかという目的がないとね。 

日本の場合は良質な労働者を育てるという明治時代からの方針があったので、今に至ってる。大学だって授業やらないと、父兄から電話がかかってくる時代だからね。そもそも天才は育てられないし、起業家を育てたいんなら、そういう人を中学高校の授業で呼んで、話をもっと頻回にやってもらったらいいんじゃないかな。大学は必修の授業にするとか。あとはTVで起業甲子園なんかやってもいいかもしれない。 

 

 

・いやー偏差値がぶっちぎりに高いって、それも個性では?日本の問題は偏差値教育じゃなくて、大学受験で勉強おしまい、大学は就活するためのところってなることでは?大学受験までで得た、ものの考え方や知識を社会に活かし、イノベーションを産むための勉強というか、学びが足りないのが問題だと思いますが。 

 

 

・欧米の何かの論文で「10代に数学をやらなかった人の思考力(正確な表現は忘れた)は数学をやった人より○%劣る」みたいなのがあった。「得意」を伸ばすのは大事だが、「苦手」を(ある程度)克服することもまた大事。 

確かに今の日本の大学入試だとやりすぎてる感があって「こんなこと高校生に聞く?」って内容も多いし、入試を通過さえすれば後はなんとかなるって大学教育もどうかと思うが、「個性を伸ばす」と言うなら大学教育は欧米のようにガチにして、「1週間で300頁の論文を読んでこい、そうしないと留年」とか、そういう世界にしないとほんとただのモラトリアム製造機でしかなくなる。 

日本は推薦入試の比率がめちゃくちゃ上がったが、結局大学がお遊び機関にすぎないから意味がない。 

 

 

・「アメリカでは大学に応募する学生はこれまでの活動や将来の抱負を詳しく書き、面接を通じて全人格を評価される。」 

↑これはとんでもなく悲惨な入試だ。入試を行っている側が、これまでの活動歴と面接で志願者の全人格に関する価値判断ができると考えているとしたらとんでもない思い上がりである。志願者としては、この試験に落ちることは自分の全人カウを否定されたことだと考えなければならなくなる。これこそ、人間の価値を狭い範囲でだけ判断しようとする発想だと思う。 

 日本の共通テストなら高得点が得られたなった受験生は準備不足かも知れないし自分はたまたまこの種の試験に適性がないと考えるだろう。試験の在り方として遥かに妥当だと思う。 

 

 

 

・偏差値教育は日本特有らしいですが 

個人さはあれども 

特に幼少期から 

机上で一つの答えを求める訓練を過剰に行っていたら 

機転の利かない横並びを好む 

無個性で既成観念に囚われてしまう懸念はあるかもしれませんね。 

世の中、理屈で考えることも大事だから 

一概に否定はできないけどね。 

 

 

・仰ることは尤もだが、学校教育を改革というのは因果関係の誤認識がありそう。 

 

今の教育システムはどこが発端かというと大企業ひいては経団連。学歴社会も彼らの意向。高度経済期~バブル期は新卒集団一括採用方式。企業側も応募者をいちいち精査する暇もなく、まずは学歴フィルターを通してふるいにかけてきた。 

 

そして失われた50年だが、当時とは情勢は異なるが採用方式に関しては大幅な変更はない。さらには多くの大学側も企業の採用期に合わせてカリキュラムを組むため、結局経団連の奴隷と化しているのが現状。 

 

そういった中で「変革を!」と言っても一蹴されて終わる話。むしろ財界の方が「学歴廃止!、論文審査実施、インターンを半年くらい行い選考する!」くらい提唱しないと学校システムは変わらない。なんだかんだで昔の教育システムが現存するのは効率的だからである。 

 

 

・会社員や公務員をたくさん作るもっとも効率の良い方法が今の教育の幹となっているから、この指摘は誤りである。 

そしてアメリカに反抗しない国民をつくるのが目的だからしかたない。 

敗戦するということはそういうこと。 

もう諦めようぜ。米軍を使い倒して、sp500 やオルカんを買うのが正解かな。旨味だけをもらう。 

 

 

・日本の教育は詰込み、丸暗記方式で、結果的に勉強嫌いを加速させている。なので大学入試前が一番勉強したり、社会人になるころには全く勉強しない大人たちを量産している。そもそも、教員自体が社会人経験がないそのような学歴主義で生きてきた人たちだからそれ以外を教えられないのも仕方がないが。 

 

 

・> 考えてみると、日本は昔から農耕社会で灌漑など共同作業をするのに長けており、協調性が尊重されてきた。…農耕社会では昔の記憶が役に立ったので、年寄りや物知りが「先生」として大事にされた。 

 

これは狩猟社会に置き換えても同じことが言えるのでは? 

 

 

・偏差値とは元々は生徒の進路指導において勘と経験の進路指導をなくし公平で客観性をもって生徒たちの役に立つために生み出されたものでふ。決して、生徒を選別したり学校をランク付けするために生み出されたものではない。 

 

 

・東海アジア諸国の理数系の成績は良いです。決して間違った方向ではないと思いますけども。ホームステイや留学で感じた事だが、海外の一般的な学生は日本と比べて数学のレベルが低い。 

 

 

・自己責任で賛同できるとこがやればいいんじゃないの?失敗してもこういう人が責任取るなんてあり得ないし。競争がなくなると努力しなくなるって考え方もあるでしょ。一概にあれこれ廃止しろって無責任にいうもんじゃないよ。 

 

 

・義務教育は個性を潰しているとは思うけど、それ以降は選択肢があるのだから、筆記テストと偏差値のシステムを (言い換えれば、好きで自らの個性を潰している人を) 否定する必要はないんじゃない? 

 

 

・そもそも、文系科目が得意だけど数学ができなかったら「優秀な大学にいけない」、オタクは評価されないというのは嘘です。行けますよ。慶応とか早稲田みたいな優秀な私立大学に。 

全科目優秀じゃないと入学できない東大みたいなところは、官僚養成学校という位置づけなわけだから、別に個性的じゃなくて良いと思います。 

個性を重視するのは良いとことだけど、半導体協定を強いて日本の半導体産業を潰したり、薬物中毒者がはびこる国の人に言われてもねえ・・・ 

まずは自国の中毒者達をどうにかしたら?  

個性派秀才揃いの国ならきっと問題解決できるはず。 

 

 

 

・「個性」自体が「神の前に平等」を前提とするキリスト教由来の概念です。自由、平等、民主主義などもそうです。西洋かぶれの人間がそういうものに囚われてしまい、母国本来のイデオロギー(武士道や和など)を失ってしまったのです。 

 

 

・中学ってもう少し楽しかった記憶があるけど、今は先生は内申の鬼、子どもたちも言いなり。 

小テストに定期テストがメイン行事で、運動会や校外学習はお飾りに思える。 

こんなんじゃ、勉強楽しくないよね。 

変えないのはなんでなの?て常に思ってる。 

大人が楽だから?? 

 

 

・何を仰っているのやら。 

小学校から続く日本の教育現場を破壊せよ、という意味かな。 

日本の教育方針は、周りをよく観察して、周囲に自分を合わせ、みんな一緒に頑張ろう、というものだ。 

整列して、前にならえ。 

ツマラナイ校長先生の話でも、我慢して、静かに聞きましょう。 

だから、上意下達、前例踏襲が大好きな人間が、営々とつくられて来た。 

企業だって、そんな教育の精華として、体育会出身の学生を喜んで採用して来たハズだ。 

だから、出世した彼ら企業幹部が集まる懇親会では、学生時代は何も勉強しなかった自慢が、嬉々として始まるのだ。 

イノベーションなんて、起こせるワケがない。 

忖度こそが、出世に欠かせない社会なのだから。 

 

 

・まずは「出る杭は打たれる」を大人も止めること。 

出て来たら上手く使おうという発想がないのがイノベーションがなんとやらのその前に考えなければならないだろうね。 

 

日本は農耕民族だと言いながらそもそもの耕地面積が圧倒的に少ない。 

 

人が足りないからという理由だけではないと思う。 

 

高齢化が進み農地を耕すのが大変になったら、もっと経営方法や大型機械の導入など若い人たちのアイデアで進めさせる事も出来るはずなのですがね。 

 

万事がそうんな具合なのが一番よろしくない。 

 

「井の中の蛙」にしておく教育は楽だが、今これではダメだ。 

 

 

・日本で個性は求められる機会は少ない。個性を出せば叩かれ弾かれる、協調性がないといい。 

少数派をなかったもののように扱う国が日本。 

最近は多少よくはなってきたのでしょうけども。 

 

 

・「アメリカの教育は良くて日本の教育はダメ」みたいなニュアンスで書かれていますが、アメリカ人の標準学力は、世界の学力調査結果からみても、日本人の標準学力よりもはるかに低いですよ。アメリカ型教育は、エリートを育てるだけで、日本の義務教育のようなレベルには全然届きません。アメリカ人の標準的な成人は普通に引き算ができなかったり、かけ算ができなかったりしますよ。偏差値は別として、日本の教育の「筆記テスト」は決して悪くはないと思いますが、、、。 

 

 

・推薦のない時代の方が学生に個性があったよ。勉強さえ出来れば教師に嫌われても良い大学に行けたからね。でも、今の学生は教師に好かれる人しか良い大学に行けないから無個性になってる。 

 

 

・といってもなぁ。 

アメリカと同じ教育をしても、アメリカと同じ結果にはならんよ。文化も違うし、そもそも普段の生活から違うからね。学校教育だけ変えても思ったとおりの結果はでない。そんで、もともと自分達のやり方じゃないからつねに二番手三番手の人間しか生み出せない。つまり常にアメリカの後塵を拝すようになる。 

アメリカや西欧文化に対抗するには、まったく同じではなく、ちがった視点と教育方法が必要なのさ。劣化版になると植民地化されそうだ。 

 

 

・1936年生まれの人でゆとり教育の失敗から何も学ばなかった人かな? 

教育の改革は担い手の育て方から論じないと意味がない。いきなり現場に変わってくださいってやっちゃった結果が公教育の破綻に繋がったわけで… 

 

 

・大学教育を受けるための学力を測るものとしてペーパーテストは必要だと思います。 

旧センター試験は、その点で優れていたと思います。 

 

 

 

・基礎学力が必要。それがあって色々考えるとができる。そこを無視して発表だとかディベートとか無理。あとエリート教育で責任を教えることが必要。言い訳ばかりうまくなってもだめ。 

 

 

・赤の他人から教育改革を指摘されるとは落ちぶれたものだ。他人さんの言われることは国民の多くが思っていたことだ。人こそ国家の基軸であるにも拘わらず金ばかり見る癖がついたために人格者が昔のように生まれてこない落ちぶれ国家になっている事を反省しないことにはどん底国家になるだろう。 

 

 

・過度な個性礼賛は社会を烏合の衆に貶す。 

「人としての基礎」が備わった上での個性が必要。 

「多様性」は何でもアリではないし「協調性」は自己犠牲ではない。 

 

 

・スポーツや芸術以外は、知識ベースの学力つけたほうがその後の個性を発揮しやすくなると思う。 

 

 

・偏差値高い人の被害妄想がゆとり教育、ひいては格差と二極化を産んだ。 

この人も東大出身。学校教育の必要な多数派のことなんて理解しちゃいない。 

昔から個性的な人は京大、東大は官僚養成という偏見。お勉強ができて世の中見えていないのは十分に個性。でも大概の人はそういうつまらない方向で個性的な人は関わりたくないだけ。 

 

 

・個性と言うと破天荒やワガママで協調性のない問題児をついつい想像してしまうのは日本人の悪いクセ。ここで言う個性はセルフマネージメント力や独創的な発想力なのだろう。確かにそれは日本人に足りないかどうか自分には分からないが今以上に必要な要素なのかも。でも日本の文化や社会は世界的に見て十分に個性的ではあるんだけどなwww 

 

 

・この論考にしたがうと、低レベルな暗記で評定を高くすることにこだわる「指定校推薦」という制度が日本の発展を阻害する最低な入試制度であると論じていることになる。 

 

 

・最悪なのが中学受験だという。 

遊び盛りの小学生に塾漬け勉強漬けの生活を強い 

幼い頃から偏差値で評価される世界にドッブリと浸かってしまうため 

想像力や独創性は破壊されるそうだ。 

 

 

・中途半端なんだと思う 

駒候補に個性はいらないしリーダー候補にはもっと個性伸ばせる環境がいる 

 

 

・イヤイヤ、偏差値をなくす?って無理でしょ。受験に関わる多くの企業が、偏差値に頼っているし、何より企業の採用自体が偏差値で足切りしているからね。 

 

 

 

・喋らせるとそれなりのことが言えるのに、逆にどんなに努力しても筆記テストになると点が絶対に取れない人がいる。あれは何なんだろうか。 

 

 

・>これまでの活動や将来の抱負を詳しく書き、面接を通じて全人格を評価される。 

 

全人格を評価されて合否が決まったら、今よりもっと格差社会になるのでは… 

 

 

・みんながみんな偏った能力や嗜好を持ってるわけじゃないからな 

少ない天才を活かすより多くの凡人を鍛える考えもありかなと 

 

 

・それで良いってやってきました。 

フリースクールやN高に見られる 

特化した教育を否定して 

受験業界を援護しているから 

無理でしょう。 

 

 

・大学の試験は小論文いすればいいのではないですか。自分が大学で何をやりたいのかを示すという事です。 

 

 

・一定数の貧乏だけどテスト成績がよい子が 

金持ちだけどテストの成績が悪い子を 

押しのけられる限られた門戸を閉じてはいけない 

 

 

・新しい知識をもたらす担い手になるために最初に必要なのは他人の真似。実は意外とそれを皆わかってない。 

 

 

・日本の学校のシステムは最小限の教員と施設と予算で最大限の生徒を教える、というもの。 

けちくさいやり方だ。 

何をやるにも「人、物、金」 

どれも最小限で何ができる? 

 

 

・留学経験のない貧乏人は大学に入るなって意図でok? 

体験による選別は今以上に親の資本力が問われる。 

 

 

・この方は内閣官房参与としてアベノミクスの旗を振った方。その総括のほうが興味がある。 

 

 

 

・このAIの時代に、相変わらず 記憶重視の入学試験ばっか。それも「漢字の書き方が汚い」「トメとハネがちゃんと出来ていない」とかで ✘ にしたり・・・ 何やってんだか。寺子屋か? 

 

 

・はいはい。これこそステレオタイプだね。偏差値は個性を潰す(笑)。個性を潰された人にあったことないけど。 

 

 

・>イェール大名誉教授「筆記テストと偏差値は個性を潰す」 

とすれば、S◯PIXと鉄◯が隆盛を極めている内は、日本はダメだろう 

 

 

・文科省の役人、教師、教授がペーパーテストで育った訳だし実社会に出ない人だからね。 

変わらないよ。 

 

 

・筆記テストや偏差値で潰される程度の個性なんざいらんだろ 

 

 

・暗記マシーンを育成する東アジア式教育 

 

 

・毎日マスコミが煽ってるじゃないですか? 

 

 

・アメリカの言う事など、聞かない方がよい。今の教育は50年も前からアメリカの言うママに指導要領を変えてきた結果。米国はそれで素晴らしい結果を産んでるか?人殺しばかりで金持ちがより金を儲けているだけ。米国の企業って、米国人だけじゃなく、どちからというと、中国人やインド人なんかで成り立っている。米国の教育が良い結果になってないのに、自国の問題を安易に解決しようとしないことが大切。 

米国は毎週どこかで、学校内の銃乱射事件が起きている。そんな学校が他国の批判など、「おこがましい」です。 

 

 

・イエール大学とか、名誉教授だとか、アメリカの有名大学とか、に日本人は弱くて、無批判に受け入れたがるよね。〇鹿みたいに。マスゴミもそれを知っているから、それを振りかざす。すると、日本人としての本来の道を誤る。そうして、戦後日本は本来の教育を誤ってきたんじゃないの。日本の教育は世界一だよ。そこから始めないと。 

 

 

・筆記テスト以外で評価したくても文科省が無能なのでやりたくても出来ないのです。無理にやっても公平に評価できません。何もできない文科省だから筆記テストなのです。 

 

 

 

 
 

IMAGE