( 188553 ) 2024/07/07 17:46:25 0 00 桜蔭学園(写真:MARODG / PIXTA)
浪人という選択を取る人が20年前と比べて1/2になっている現在。「浪人してでもこういう大学に行きたい」という人が減っている中で、浪人はどう人を変えるのでしょうか? また、浪人したことによってどんなことが起こるのでしょうか? 自身も9年の浪人生活を経て早稲田大学に合格した経験のある濱井正吾氏が、いろんな浪人経験者にインタビューをし、その道を選んでよかったことや頑張れた理由などを追求していきます。 今回は、桜蔭中学校・高等学校から2浪して東京大学文科三類に進学。現在は同大の博士課程に進み、総合文化研究科言語情報科学専攻3年生として大学に通う傍ら、「学習塾ネイビー」の講師をしている桑原咲弥さんにお話を伺いました。
【写真】東大卒業時の桑原さん。現在は塾講師をしながら研究に励んでいる。
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■多くの東大合格者を輩出する「桜蔭」
毎年多くの東大合格者を輩出する、雙葉、女子学院、桜蔭の3つの女子校。世間では「女子御三家」と呼ばれており、中学受験に挑む多くの親や子どもが憧れる学校です。
その中でも桜蔭は2024年に63人の東大合格者を輩出(※浪人生含む)し、全国の東大合格者数ランキングで7位となりました(インターエデュ調べ)。女子高だけで見ると、東大合格者数で首位を誇り、まさに日本一賢い女子校といっても過言ではないでしょう。
そのような環境で2浪し、東京大学に合格したのが今回お話をお聞きした桑原咲弥さんです。
彼女は言います。「浪人で私の人生が始まった」と。
彼女が語る「生まれる前」であった桜蔭での女子校生活は、彼女の人生にどのような影響をもたらしたのでしょうか。そして、なぜ2浪して東大を目指そうと思ったのでしょうか。
彼女の新しい人生が始まった浪人生活に迫っていきます。
首都圏に生まれた桑原さんは、会社員の父親と、専業主婦をしていた母親に愛情深く育ててもらい、両親の「自慢の娘」だったそうです。
「アンパンマンのおもちゃで遊んでいた、おとなしい消極的な子どもでした。勉強面に関しては、文字を読むのが得意で、幼稚園に入る前にはひらがなとカタカナを自分で勉強して覚えていたそうです。幼稚園のころからKUMON、小4から早稲田アカデミーに通わせてもらっていました」
通っていた公立小学校では、塾の勉強に熱心だったことと、自分の意見を言わない子どもだったことから、先生にはあまり気に入られてはいないと感じていた桑原さん。そのため通信簿ではいい成績をつけてもらえるタイプではなかったと語ります。それでも、塾での成績はよかったようで、中学受験直前のころには、通っていた校舎で上位2番の成績になりました。
「最初は雙葉を目指していました。でも、だんだん成績が上がっていったので、もうちょっと(上に)行けるかも……と思って女子学院に目標を上げて、その過程でさらに上を目指せそうだと思い、桜蔭を第1志望にしました」
「女子御三家」の中でも高みを目指して目標を引き上げていった桑原さん。中学受験では無事に第1志望だった桜蔭に合格します。
■ゲームにハマってしまった桜蔭での生活
日本最難関の女子校に合格した桑原さんは「周囲のレベルが高くて驚いた」と当時の日々を振り返ります。
しかし、彼女自身は学校に入ってから堕落の一途を辿ってしまいました。
「英語でつまずいてしまいました。『SVO』など日本語と仕組みが異なることに戸惑ってしまったのです。もともと勉強よりもゲームが好きだったので、『テイルズ オブ』シリーズや『どうぶつの森』、『牧場物語』などをよくやっていました。当時はあまり勉強する気になれず、友達とゲームの話をすることのほうが楽しかった記憶があります」
この当時「桜蔭は成績が開示されない」こともあって、高校3年生まで進路についてあまり考えたことはなかったそうです。
「将来の夢はなくて、大学受験も高校3年生になってようやく意識するようになりましたね。高2で文系を選択して、高3の夏に文学部に行こうと思って東大の文三を志望しました。この当時は本を読むのが好きなわけではなかったのですが、周囲に東大志望が多いから、という理由だけで志望校を設定してしまいました」
高2の夏から学校の後に駿台予備学校に通って勉強は続けていたものの、土日は3時間の勉強しかできていなかったと語る桑原さん。模試の東大の判定はずっとEで、3年生の最後のほうになってからようやくD判定が出るようになりました。
「センター試験は足切りを突破できそうな760/900点くらいだったので、予定通り東大文三に出したのですが、合格最低点より20~30点足りず不合格でした。当時の自分は、成績が伸びなくても、そのうちどうにかなると楽観的に考えていたのです」
現役で落ちてしまい、浪人しようと思った理由を聞いたところ「予備校でいい授業に出会ったから」という答えが返ってきました。
■センター試験直後の授業で浪人を決意
「センター試験が終わった後くらいに、駿台で直前講座があったんです。そこで受けた英語の大島保彦先生の授業がとてもよくて、浪人してもいいかなと思えました」
授業の中でギリシャ哲学の話を盛り込むなど、“教養”としての英語を教えてくれる大島先生の授業は、夢も目標もなく生きてきた18歳の桑原さんの世界を明るくしたそうです。
こうして、東大志望が集まる“駿茶”こと駿台お茶の水校3号館に入った桑原さんは、月曜から金曜まで予備校に通い、20人程度の少人数クラスで東大を目指して勉強に励みます。
「現役時よりは勉強時間が増えました。朝~夕方までの授業時間以外だと、平日は2~3時間、休日は4~5時間勉強していました。模試でも東大でB~C判定が取れるようになったので、ギリギリ受かるかどうかの状態にまで持っていけたと思いました」
センター試験では前年を上回る780/900点を記録した桑原さんは、再び東大文科三類の受験を決意します。
「現役のときはお試しという気持ちがあったのですが、この年は受かりたいという気持ちがありました」
しかし肝心の試験では手応えがイマイチだったそうで、蓋を開けてみれば、この年も合格最低点から10~20点差の不合格でした。
2度目の東大受験も惜敗に終わった桑原さん。併願していた早稲田大学文学部のセンター試験利用入試に合格はしたものの、2浪するかどうか、とても頭を悩ませました。
その理由には「1浪している間に東大に行きたい気持ちが芽生えた」ことが大きかったそうです。
「2浪するのは、心理的なハードルが大きかったです。自分の中ではなかなか決断できなかったのですが、駿台の先生が東大の授業内容を詳しく教えてくださったので、入学した後にいろいろと学んでみたいことができました。
あとは、同じクラスで一緒に勉強した友達もすごくいい人ばかりで、東大に入ったらみんなに会えるということも大きかったですね。最終的には、両親が『お金はなんとかするから浪人しなさい!』という感じで、背中を押してくれたのでもう1浪を決断できました。最初から最後まで一貫して応援し続けてくれた親には、今でもとても感謝しています」
こうしてもう一度駿台で東大を目指す覚悟ができた桑原さんは、前年度の受験で落ちてしまった要因を「勉強時間の不足」と「表面的な勉強しかできていなかったこと」という2点だと考えました。
「何かの科目で失敗したというよりは、全体的に(合格者平均より)取れていませんでした。今思えば、勉強も周りの人に比べると全然(量が)足りていませんでしたし、単語帳を覚えたり、問題を解いたりするときも、丸暗記になってしまっていたのです。
1浪目は18時くらいに帰宅していたのですが、この年は授業が終わっても自習室が閉館する21時まで残ってきっちり勉強するようにしましたし、勉強面でも本質的に理解することを心がけました」
■ストレスでお腹を壊した合格発表
勉強の量も質も改善した2浪目の桑原さんのその年の模試は、A判定で安定するようになります。センター試験でも820/900点を取り、ためらいなく3度目の東大文三への出願を決断。併願で出した早稲田の政治経済学部・社会科学部・文学部のセンター利用もすべて合格し「この年こそは受かる」という手応えを感じていました。
「ダメだったときのことは、考えたくなかったです。東大の試験も、まぁこの出来なら大丈夫だろうと思えました」
とはいえ、今まで2回落ちているため、さすがに合格発表のときはとても緊張したようです。
「母親と一緒に見ようと思い、母親のパソコンの前にいたのですが、ストレスと緊張でお腹を壊していました。なんとか番号を確認する決心がついて、自分の番号を確認したときは『やったー!』と言ったのを覚えています。母親は意外とあっさりしていて、すぐにスマホで『刀剣乱舞』のゲームをやり始めました(笑)」
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