( 191203 )  2024/07/15 17:18:32  
00

シャープ本社=堺市堺区 

 

シャープが大型液晶パネルを製造する堺ディスプレイプロダクト(SDP、堺市)を9月末までに停止する。シャープにとって液晶は飛躍の原動力であると同時に経営危機の元凶でもあり、社外分社化が何度となく検討された。「液晶のシャープ」を返上するが、「とうとう」「もっと早ければ」との思いが交錯している。 

 

【写真】ふるさと納税もピンチ…堺市の返礼品になっているシャープのアクオス 

 

おさらいの意味を込めて振り返りたい。同社は昭和48年に液晶表示板を搭載した電卓を発売し、世界で初めて液晶技術を実用化。ディスプレーとして進化させてテレビに搭載し、ブラウン管に取って代わった。平成16年に亀山工場(三重県亀山市)が稼働すると「世界の亀山モデル」のテレビが爆発的に売れた。同社はブラウン管を自社生産できず、テレビに他社製を搭載してきたコンプレックスを液晶の成功で払拭した。 

 

ここで同社は19年、世界市場のシェア拡大を目指し堺市に世界最大規模の生産能力の液晶パネル工場(SDP)の建設を発表した。計約4300億円を投じたが、工場が21年に稼働したときには前年のリーマン・ショックが直撃して需要が激減し、在庫が積みあがった。円高ウォン安の逆風も吹き、シャープは韓国メーカーとの競争に完敗。経営危機につながった。 

 

同社は企業理念に「いたずらに規模のみを追わず」と書き、「身の丈経営」を信条としたが、液晶の成功で企業規模が拡大し、生産能力でも世界最大規模を追ったことが裏目に出た。 

 

関係者は「液晶が巨額投資を続けなければ生き残れない競争に巻き込まれた段階でやめるべきだった」と指摘。その上で「身の丈経営を重視した2代目社長の佐伯旭氏は『亀山で液晶の投資は終わり』と周囲に伝えたと聞いたが、経営陣は巨額投資に突き進んだ。堺工場の稼働率は低迷し、生産能力を持て余した。まるで戦艦大和だ」と話す。 

 

同社には経営の重荷となった液晶事業を切り離すチャンスは何度もあった。 

 

24年4月にはソニー(現ソニーグループ)や日立製作所、東芝の中小型液晶事業を統合したジャパンディスプレイ(JDI)が発足したが、シャープも合流を打診されている。だが同社が選んだのは台湾・鴻海(ホンハイ)精密工業との資本業務提携で、それも暗礁に乗り上げた。 

 

経営危機が深刻化した27年5月に発表した中期経営計画では液晶事業の分社化が検討された。当時の高橋興三社長は分社化に前向きにコメントもしたが、発表時に撤回。高橋氏は「(売上高の3分の1になる)液晶をなくしたら計画が成り立たない。社外分社の考えは全くない」と明言した。しかし2カ月後に高橋氏は「いろんな可能性を探る」と再検討を示唆し、直近の液晶事業の業績低迷を知り「液晶さえなければ」と口走ったという。 

 

 

27年から28年にかけては官民ファンドの産業革新機構(当時)と鴻海がシャープの支援を巡り争奪戦を展開した。同機構は、出資するJDIとシャープの液晶事業の統合を目指したが、28年2月にシャープ経営陣が選んだのはまたも鴻海だった。鴻海側は24年の段階でSDP株の一部を取得、シャープを傘下に加えた後にSDP株の過半を取得したことで、本体から切り離された。 

 

シャープは鴻海流の徹底した合理化とコストカットにより30年3月期連結決算で最終黒字に転換し、回復軌道に乗った。が令和4年6月に「需要拡大が見込める」とSDPを再び完全子会社にしたことで暗転。液晶パネルの価格が急落し、6年3月期連結決算は純損失が1499億円となり、2年連続の赤字に。SDPの稼働停止が決まった。 

 

規模を追った巨額投資の末に外資の傘下に入ったシャープ。関係者は「鴻海にSDPを押し付けられても拒否はできない。子会社なのだから独立した経営判断はできない」と話す。(松岡達郎) 

 

 

 
 

IMAGE