( 194395 ) 2024/07/25 00:27:13 2 00 「先生、ここ教えてください」→「それ、板書したよ」→「ノート取ってません!」…コロナ×ICT教育の影響? ノートを取らない生徒増加 「意義から教える必要ある」現場の苦悩ABEMA TIMES 7/24(水) 15:00 配信 https://news.yahoo.co.jp/articles/a045f7562804778cf3b29923e2a9fec9e95fd901 |
( 194398 ) 2024/07/25 00:27:13 0 00 ノートを取らない生徒増加
「生徒がノートを取らないのはコロナ禍が原因」「はなからノートを取らない生徒 オンライン授業のせい?」
【映像】269万表示! プロ直伝! 目からウロコの「ノートを取るコツ」
今、SNS上で授業でノートを取らない生徒が話題になっている。
大手予備校で数学の講師をしている迫田昂輝さんも、予備校の授業でノートを取らない生徒の増加を感じているという。
「ノートを取らなくて学習が効率よく進むのであれば全然構わないが、質問に来る生徒に対して『それノートに書いてあるよ』『前回のノートを見てごらん』と伝えると、よく『あ、ノート取ってません』と返事をされる」
大手予備校講師 迫田昂輝さん
迫田さん自身も、高校2年生まではあまりノートを取らなかったので、その気持ちはわかるという。ただ、真面目に勉強し始めて、復習する時にノートの重要性に気づいたそうだ。
「私は授業の中で『ノートはもう一人の先生だよ』と伝えている。勉強し直す時にもう一度教えてくれる先生がノートであり、ノートを取ることで定着度を高めることができる。板書をしっかりと頭を使いながら写していく作業の中で、定着と理解が深まっていく。だが『ノートを取る意義』から教えなければ、今の生徒は『こんなことに意味があるのか?』と考えてしまう」(迫田さん、以下同)
デジタルを活用したICT教育が普及
生徒が授業でノートを取らなくなったのは、デジタルを活用したICT教育が普及して、ノートを取る習慣が減ったこと。また、コロナ禍で映像による授業が増え、字幕が出る授業などでわざわざノートを取る必要がなくなったことが原因だと言われている。ただ、それ以外に授業する側にも問題が…
「生徒がうまく板書を取れない原因の一つに『何を書いていいかわからない』『書いている途中で話が進んだり、次の話題に切り替わってしまう』など、“話を聞くことに集中できない授業”がある。その気持ちはよく分かるので、授業をする側も気を遣うべきだ」
迫田さんがそんなノートを取れない生徒に向け、コツをXに投稿すると269万表示という大きな反響を呼んだ。「ノートを取るコツ」は以下の3つだ。
その1「用途によってノートを分けろ!」
授業ごとにノートを分けるのはもちろん、予習用、授業用、復習用と用途で分けていく。さらに…
「『この問題集はどのノートに書いたっけ?』となってしまうと復習する時に面倒くさくなってしまうので、用途を細かく絞って分けることが重要だ」
その2「ノートは贅沢に使え!」
ノートを書くときは、後で説明を追加することがあるため、その分の余白を十分に取っておく。そうすると、見返した際に見やすいノートになる。
その3「本番のためにノートを使え!」
最近は板書を電子機器で書いている生徒がいるが、それだと本番の試験に向けての練習にはならないという。
「試験本番の時は、シャープペンシルや鉛筆を使って答案を書くため、Appleペンシルで書くことに慣れすぎると本番で違和感を覚えるリスクがある」
ノートを取る理由がわからない子どもには、ノートの取ることの良さを伝えることが必要だと迫田さんは話す。
「(大人が)ノートを取る意味を正しくわかっていなければ、子どももノートを取る意味を感じられない。自分の頭を使いながらノートを取れば、記憶にも鮮明に残る。そういった効果について、授業をする側も親も子どもに伝えるところから始めていくべきだ」
日本大学危機管理学部教授/東京工業大学特任教授の西田亮介氏
ノートを取らない学生の増加について、日本大学危機管理学部教授/東京工業大学特任教授の西田亮介氏は「ぼくは学生時代も今もノートテイクができないし、しない。記憶力とデジタルツールに頼り切り」と打ち明けた。
「学生時代、ノートを取らない生徒は怒られた。ぼくは手書きに色々と問題があった(要は字が汚く、なぜか書く気もしない!)こともあり、“やる気がないノート”を書いては先生に注意されていた。だが、そもそも記憶の方法は人によって異なる。僕の場合は音読と視覚でスムーズに覚えることができることが後にわかった。研究の記録はクラウドツールに記録しておけば今では安心だ。暗記だけではなく、過程の理解など様々な目的に応じてノートテイクするかどうか、音読するか、見て覚えるか、動画を視聴するなどツールが豊かになったのだから各自に応じて道筋を選択できるようになればよい」 (『ABEMAヒルズ』より)
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( 194397 ) 2024/07/25 00:27:13 1 00 (まとめ) - 個々の体験や考え方には、ノートを取る重要性や方法についてさまざまな意見がある。 - ノートを取ることによって、情報の整理や記憶が促進されるという意見や、手を動かすことで記憶定着が向上するという意見がある。 - 一方で、ICT化が進む現代では、デジタルツールを活用した情報の記録や学習方法も重要視されている。 - 教員や教育者、学生自身が、自分に合ったノートの取り方や学習スタイルを見つけることが重要であり、一律ではない個別対応が求められている。 - 教育の一環として、ノートの取り方や学習方法を指導し、自己の学習能力を高めることが重要視されている。 | ( 194399 ) 2024/07/25 00:27:13 0 00 ・板書の話ではないが、高校時代古文が全くできなくて、テストは大体20点30点しかとれなかった。ある時一念発起して、源氏物語を全部ノートに清書して、それをさらに全部自分で訳して記入してみた。 次のテストは90点超えだった。
やる前に「タイパが悪い」とかではなく、やってみて意味があるかどうか判断することは大事だと思う。
・うちの息子はADHDがあるからか、板書がめちゃくちゃ遅くなかなか写せません。 プリントなどにまとめてくれたり、学校のアプリに送ってもらったりするとものすごく助かってます。 逆に娘は難なくノートを取っています。 自分でノートにまとめることにより、よりわかりやすく整理して覚えることができ、板書のメリットも確かにあると思います。 自分が見やすいノートや可愛くする工夫をするのも楽しかったものです。 どちらが良い悪いではなく、場合によって適切な工夫をできることが大事だと思います。 ノートを取らない子がどうして取らないのか?本当に苦手ならどうしたらいいかを考えるのが大事です。
・板書は、それを記した教員の能力によっても価値は異なると思います。記されたことが、これは大切と感じ取れるような授業であったなら、学生側もノートに書き残すでしょう。テキストの内容を更に補ったり深めたりしたものが理想かと。ただ、学生側に関心の無いことなら、いくら充実したものでもノートは無用なのかもしれませんね。 昭和を長く生きた世代としては、思考の整理には『紙と鉛筆』は欠かせないと思います。一方で、若い人たちにはそれなりの方法があっても当然です。それが、自分の考えを深めたりすることに役立つものなら。
・講師が板書をするときは、印刷物と異なり書く過程を見ることができます。 教えている人間の思考の過程を見ることができるのが板書です。 完成しているテキストやスライドには、思考の過程がありません。 講師の思考の過程を板書でみて、それをノートに写す時に自分の頭の中で再度、思考の過程をふり返れます。 完成したものだけがあれば良いという考えで板書の写真を撮ろうとする学生もいますが、写真は覚えてくれていても、学生の頭には何も入ってきていないことに気付こうともしていないようです。 自分の頭で考え、手を動かすことで気付くこともあるのに、効率的な気がしているだけで多くのものを失っていることに気付いてもらいたいものです。
・中学教員です。 数年前までは生徒にノートを用意させて、時々ノートチェックしたりしていましたが、昨年からすべてプリント+ファイルにしました。今はノートの綺麗さなどはまったく通知表には反映してません。
理由としては、板書を写す時間より、自分の考えを書く時間をより多く確保したかったからです。あとは、生徒たちが板書を写すのが遅すぎて授業が進まないからです。初任のころから、すでに「先生の話を聞きながらノートを取る」のは無理な子が多いな、と感じて、「先生の話を聞く時間」と「ノートを書く時間」を分けて授業をしてました。 紆余曲折を経て、ノートのチェックはしない、という現在に至ります。 でも字を書いたり、自筆でメモを取ったりするのも基本的な技能のうちなのでは?という葛藤はあります(担当が国語なので)。研修に行けば若い先生はスマホの写真で記録を取ってるし、「手書き信仰」はもう時代遅れなのかな?
・小から大まである私立一貫校の小学校教員(理科専科)をしています。 この立場だと卒業生がどのような道をとったかが分かるので、自分の教育の答え合わせがある程度できます。 20年弱勤めて分かったのですが、小学校時代に所謂「きれいなノート」を取っていた子は必ずしも上の学校、特に大学で振るわない傾向がありました。おそらくノートを取ること=勉強になっていたのが良くなかったのでしょう。 逆にノートがボロボロだった子は大学段階で成功と失敗の率が半々でした。このことから、ノートのきれいさは後の学習には関係がなく、きれいなノートに拘泥することはマイナスであると結論付け、以降私の授業では板書をノートに写すことを強制しないようにし、個人の個性に合わせるように指導しています。 勿論、これは専科だから言えることで、国語や算数では書き取りや計算などノートをバリバリ書くことが意味があると思います。
・ノートは取れば良いと言うものでもないから、難しいですよね どちらかと言うとノートを取るのが好きで、ノートは過剰なくらい綺麗なのに成績は低い子供も良くいました 自分はノート汚いけど成績は良かった派ですが、かと言って綺麗なノートとれる子もダメというわけじゃなく、テストだけが勝負じゃない社会に出たら、資料を綺麗にまとめる子も重宝されるんだと思います そういうバランスも多くの子は授業で学ぶんだなと思う
・勉強に関して言えば覚えることは書くという行為を体に覚えさせるというような感じでノートに取るというのはすごくいいことなんじゃないかなと思う。書き取ることでなんとなくですが、記憶に残りやすいような気がします。 実際スマートフォンやパソコンを使いだしてから実際に紙に書く際に漢字が出てこなかったり言葉がぱっと出てこないときが多々あります。ICTもいいことではあるとは思うけど、タブレットでは自分の頭の中に情報が残りづらいんじゃないかなと思いますね。
・私が子供のころは板書のスピードについていくのが大変で、とりあえず書き写すことだけに集中していました。ただ、それだと見た目がきれいではないので人に見られても良い様にまとめ直すという事をやっていました。 最初は汚いノートを見られるのが恥ずかしかったからやっていたのですが、途中から自分で見やすいようにレイアウトを少し調整したりアレンジを加えていくようになりました。その後ノートをほかの人に貸すことがあり、内容が分かりやすいと好評で、以来他人が見てもわかりやすいノートを作るようになりました。 結果的にアウトプットの練習になり内容も整理が出来て覚えやすくなったという経験につながりました。なので、私自身はこういった部分がノートに書くことの意義であり、勉強のやり方なのではないかと感じています。
・教育実習では、板書の仕方はひとつのポイントだった。指導者には板書の仕方まで書いてあるし、見やすくわかりやすい書き方は教員のひとつの技術。重要な言葉だけしか書かない教員、フローチャートのように書く教員。いろいろいた。でも板書はポイントだと教員も思っていると思う。 この記事の方々は、それを生徒がどのように理解し記憶するかは自分で決めようと言っていると思う。質問して板書にあったのなら、それはノートの撮り方が悪いということ。自分の覚え方、理解の仕方のシステムが理解できるまでは、まる写しも必要かと思う。手間はかかるけど、その上で自分に合った方法を見つけるしかないと思う。
・見ている聞いているだけで全て記憶出来る力があればいいでしょうけど。 私が今まで見てきた人間でそれを出来たのは二人だけですね。万近くは見てきましたが。
別に紙でも電子でもいいんですが、必要な情報があってそれを記憶出来る能力がないのであれば、手を動かすべきです。
・人間は意外と繊細で、同じ文字でも紙と電子デバイスとは別で記憶の定着に差が出てくるし、自分の手や口を動かしながら反復しないと記憶できないし、映像でやりとりをするより実際に会って会話をする方が捗る。 もしかしたら電子デバイスならではの記憶の定着方法があるのかもしれないけど、現時点だと昔ながらの方法が確実ということのような気がする。
・ノートを手書きするのではなく映像で撮っておく時代なんでしょうか。 私は中高時代、ノートをほぼ取らない生徒でした。不器用故、考えながら書けなかったので。結果、よく聞き考え続けるのが授業でした。これは数学や物理のような考える学習には親和性が良く、帰宅してから問題集に取り組めば十分でした。一方、内容を整理して覚える語学や、社会科などの学習には不協和だったと振り返ります。 手段は一つでは無く、自分の個性と学習内容の特性の組み合わせからベストの学習方法を採用すれば良いと思います。ただし、ノートの取り方を知らず未経験ならば、正しく判断する一つの基準を持ち合わせていないので、良い手段を採用するのは困難と想像します。
・現職ですが、今、まさにこの問題に悩んでいます 私の手法では考える時間をより多く生み出す目的で黒板の撮影を許可しています。 しかし、楽を覚えた生徒は考えることをやめるし、書く作業もないので頭に入らない。結果、試験では難易度の高い試験になってしまうという悪循環が生まれています。 メリットとしては、書く時間がとてもかかる生徒からすると時短になって授業で置いていかれることはない。しかし、そのレベルはそもそも授業の内容についていけていないのです。あれこれ模索しながらもメリット、デメリットを分析して良い形を見つけていきたいものです。
・指導内容を書き出すことでまとめるというのは、思考の訓練として非常に大切なことです。
ノート取りの下手な子は、「見出し」をつけることができません。 見出しを大きく書き、細かい内容はそれより一段下げて書く、等の工夫ができないのです。 これは単に、ノートが取れないというだけでなく、その子の頭の中で、何が情報の大枠で、何が情報の詳細なのか、といった、情報のレベルの高低が見えていないことを示唆します。
ICT機器を用いた情報の記録、特にディクテーション機能を用いての記録の場合、残される情報は、ただ文字の羅列であり、情報の整理とはかけ離れた次元のものでしかないのです。
既に思考力が十分に身についている子にはノートは不要かもしれませんが、そんな子はごく一握りです。 ノート作りを通して思考の訓練をすること、指導者がノート指導に時間を使えることが現場では必要だと思います。
・教えられた内容をは入力してくる情報であり、それを理解の引き出しに入れる時に、どのように畳んで形を整理して分類とまとめてどこに入れるかを意識するには、ノートという媒体に形を残す作業が重要ではないかと思う。その時点で完全ではないにせよ大方の内容と引き出し方を感覚的に覚えてしまう。
無論情報として正確に記録する必要があるケースがあるし、それらは別に配布されればよいが、その場限りの貴重なモノである場合がある。当然ノートに取らないと話にならない。再度使うことができない情報にして流れ去ってはいけない。
ノートとはこのような作業の場であるし、受動的ではなく、むしろ情報管理のアクティブな作業と思う。
・先生と同じ授業が再現できるか、といった何らかの目的を持ってノートを取れば、一字一句メモするのは無駄だし、その場で理解できたことは細かく書く必要は無いしで、方向性が見えてくる。何ならノート不要で教科書に書いてもいい。自分はポストイットに書いて教科書に貼ってた科目もあった。教科によってやり方が違って当たり前。人によってもやり方が違う。やり方を探して掴み取るのがそもそも勉強全体の半分を占める重要事項だ。なのにそれを全教科で統一的な扱いをしてしまう電子化は、窮屈で非効率で無理があると思う。
・見ることで覚えることが出来るタイプの人はいいと思いますが、それ以外の人は書くこと、それを読み返すことで覚えられるんじゃないかな。 ノートはとにかく書き写しで、空いた時間にきれいにまとめるとか、先生が書いてないけど話したこととかもメモっておいて後で見ると理解できるときもあると思う。自分なりにまとめる行為が大事なんじゃないかと思う。
・デジタルは便利だけど、文字を覚えるには書くのが1番。この頃の人は字が汚い。書かないと書き順も覚えられないし、綺麗な字を書く事も出来なくなる。 ノートを取る時には先生の話を要約して、大事な部分を強調して書きます。これで頭に入るものが、整理されて後から見直す時に役立ちます。 書く事で新たな発見もあるし、興味を持つ事が出来ると思います。何より授業に集中できます。
・昔、科学の授業で説明する時間とノートを写す時間を分けてくれた先生がいました。黒板で説明しているときは絶対にノートを取らせないという徹底ぶりで、すべての説明が終わったらノートを書かせるという順番です。説明でなんとなく理解しているので、ノートに書く時は理解しながら書いているので記憶にとても残りやすかったです。 今思うと、授業中の説明が予習で、ノートを取るのが復習になっていたのかと。 授業はノートをとるのに必死になったりすることもあるので、ただ書いてるだけの作業になっていることが多いです。 ここら辺がタイパ悪いって言っている可能性がありますのでノートを書き写す時間は別に作ってあげてほしい。
見て聞いて、書いて覚えるは、うまくやると一番効率の良い勉強法ですよ。
・30代ですが自分が学生時代にはすでに半数くらいがスマホ、タブレット、ノートPCなどデジタルツールでの記録でしたよ。 先生もスマホでの板書の写真撮影や、動画撮影OKというスタンスの人が多かったです。 手書きで覚える方が効率がいいならそうすれば良いと思いますし、そもそも真面目に授業に取り組んでいれば自分に合った方法を自ずと身に着けると思います。
・先日、保護者説明会があってメモをとる必要があったんだけど大多数の保護者がパワポ画面を写真撮ってるという異様な状況でした。 最初はメモをとってた人も写真を撮る人がいたらどんどん写真撮り出して。親がこうだし、子どもなんてもっとだと思う。 何となく話してる人にスマホを向けるのが恥ずかしいと思ってしまう私は要領が悪いのかなとか考えてしまった。 自分で必要な事を取捨選択する必要も無いし考えないからノートを作るという作業が出来なくなっていく。全てがICT化されると頭を使わなくなる。タイパも大切だけどもっと大切なものを失ってる気もする。
・高校などの場合、教師がボードに書いたことをそのまま写すだけがノートではない。教師の話したことをメモしておくことも、ノートの正しい取り方だ。このことから、ノートは「もう一人の先生」であることが納得できる。 また、ノートについては、科目別に使い分けるのが一般的だが、同じ科目であっても、用途別に使い分けると良い。 この記事では、「予習用」「復習用」「授業用」の3つの用途にノートを使い分けると書いてあるが、その他に、テスト後の始末をするための「訂正用」のノートも作成すると、なお良い。
・個人的に授業の進め方でこれは非常に良いと感じたのは中田敦彦のYoutube大学。先の先まで板書があらかじめ書いてあり、それらを順に説明していく形だが、前情報ゼロの状態と、先に何が来るか把握できている状態で話を聞くのとでは理解度が大きく変わってくる。 これは大人でもよくあるが、急に知らない話題を話しかけられて全部把握しろと言われても難しいのと同じで、頭の回転がゆっくりな子供達には特に助けになるだろうと感じる。板書は無理でもアジェンダのようなプリントを最初に配ってあげると良いのかなと思う。 ノートを書くという行為自体はそこまで重要ではない、1発目でどこまで把握できるかが重要だよ。
まぁあっちゃんの授業内容がどこまで正確かは別問題ですが。
・大学生です。 ノートは今学期ほとんどの教科、残すはテストのみですが、ノートは一切使いませんでした。 ですが、レジメ(配布資料)にはメモ書きをしました。大学生になれば基本的にはノートを取らなくなります。しかし、高校までのノートを取り知識を整理する手順を学ぶという行動は大切だと思います。
・ノートを取らずに、授業(勉強)が成立するのであれば、何の問題ないのでは?
板書を書き写すことのメリットもあると思うが、これが古い慣習で非合理的だというのであれば、完成しているテキストやスライドを使う事を前提として、効率よく勉強ができるような方法を同時に取り入れていかなければならない時代になっていくのだと思う。
・ノートを取らないのではなくて「ノートを取れない」のだと思いますけどね。
「取らない」だと取る必要があることを知っているのに自らの意思でそれをしていないという意味になってしまう。
手で文字を書くのは確かに面倒だが、画面に映る文字を読んだりコピペするのとでは、脳の使い方が全然違う。
楽だからと補助付きの筋トレをしているようなものであり、そればかりやっても全然身につかない。
視覚優位だの聴覚優位だのというのは「物事の捉え方の優先度」であって、それぞれに合った伝え方があるということ。
聴覚優位の人には聞いた事を書けば良いと伝え、視覚優位の人には見たことを書けば良いと伝えるとか、その人の優位性に合わせたコミュニケーションをとればより円滑に行くよって事。
聴覚優位だからノートを取らなくていいなんてことではありませんよw
・ノートを取ることに意味がある・ないの話ではなく、ノートを取ることを先生から指示されたのであれば取るべきです。 タブレットで問題を解けと指示されたら、タブレットを使用して問題を解くべきです。
漢字の書き取りもしなくても覚えるのであれば良い訳ではなく、言われたことをきちんと遂行するということを社会の基本として覚えておく必要があると思います。
その上で目的を達成するために遠回りせず、ゴールを目指す方法をそれぞれ身につけていけば良いと思います。
・高校時代は全くノートを取りませんでした。 授業中はとにかく先生の一言一句を聞き逃さないように、言葉を丸暗記する勢いで集中していましたから、ノートを取る暇がなかったのです。 ノートを取らなくても教科書や問題集を見直せば授業を思い出せますので復習は可能でした。 たまに思い出せない時もあったので、翌日すぐ先生に質問していました。 ノートはビデオ録画みたいなもので、旅行先でビデオの録画に専念して観光した気分になっているような感じです。 自分の目で見てその場で感動した方が良いと思うのですが。
・自分は大量の板書をしながらしゃべり続けられても、書き写すだけで精一杯で話の内容も聴く余裕が無く、結局は内容の理解や記憶に結びつかなかった。 パッと見て全てを理解して記憶できる能力がある人は、また違うのだろうか?
基本は印刷物を渡して、要点を書き込む程度にして欲しい。 教科書と印刷物をメインにして、板書は考える過程を書いて教えてくれた先生の授業はしっかり理解出来て成績も良かった。
・30年前に米国大学院授業で思った。
その頃急激にパソコンで資料を作って OHP で(今の PowerPoint の手前の形態)画面を映し、同じ資料を配布する、という形態が進んだ。 (アメリカでは BestTeacherAward いうのがあったことも影響あるかも)
で、板書のノート書きが要らなくなって、 話を聞くのに熱中できるようになった。
と同時に、一度貰った資料は結構見直さないことにも気づいた。
板書を手描きしつつ、その理解の為に、先生の話を一所懸命聞く、 というスタイルから変わった、と思った。
良し悪しではないけど、一長一短と思う。
・ノート代わりにタブレットを活用するのは「記録は自分のやりたいようにして良い」ということだと思う。 しかし授業では正確な知識の定着が求められる場合も多い。たとえば小学生がそのような「自由」を与えられて、知識は定着するか? 聞けばタブレットへの記載はプリントへの記載に比べて数分の一しか知識が定着しないという論文があるらしい。子どもを見ていると納得しかない。
・現役教員です。
ノートが取れない学生はプログラミングが苦手な傾向にあると思います。 思考の整理ができなかったり、 集中して作業することが苦手な傾向あるのか、 流れがめちゃくちゃであることが多いです。 また、インデントもしないし、コメントもつけないから 保守性が悪いし構文エラーでコンパイルすら通らない有様。
小中学校では紙と鉛筆でしっかりノートをとる練習が重要だと思います。
・「書く」という、ひと過程をこなすことで、体と頭が覚えますからね。
ノートを如何に読みやすくまとめるか、という枝的な思考も、ノートという空間の把握や配置への思考があり、頭の働きの活性化になる。
また指先を無意識にどう効果的に動かすか、という運動でもある。
良いことばかりです。
・40年前の授業は、先生の板書が中心であったように思います。 それが、コピー機の普及により、授業がスムーズに進む(板書を減らす)ことを目的として、先生がプリントを配るようになり、そのプリントに授業の要点を穴埋してノートに貼り付ければすれば、ノートが完成するような授業が主流になった。 今は、そのプリントがタブレットやパソコンに代わっただけ。 ICT教育の影響だけではなく、先生が板書を減らしたことが一番の原因だと思います。
・ノートに書く事で、手が記憶する事も有るのを知って欲しい。特に漢字や英単語等は、一瞬記憶が定かではなくても書き始めると思い出す。
そうした機能を使えるものは全て使う事で目で記憶し、耳や手といった五感をフル回転させて学ぶ事は脳の様々な神経を使うので社会に出た時にも応用出来る。
もしも使わない神経や機能が増えれば、その機能は衰退して行きますよ。若いうちは分からなくても、中年期になって後悔しない様に怠け癖は出来るだけ早く、克服してた方が良い。
・授業のノートというと30数年前の駿台の物理の坂間先生を思い出します。今回とは全く逆で、ノートを取っちゃいけない授業でした。その場で理解するべきものだからということだったと思います。 壇上に上がるなり、自己紹介もせずに「只今アトム接近中、、、」と始まった授業には度肝を抜かれました。物理がカラキシだった自分には合わなかったけど、物理の本質をついている授業だと一部の人には好評だったように記憶しています。
・「授業の受け方」「ノートの取り方」…という専門家の指摘がありました。重要論点です。が、直ぐ「ガイダンス」できるほど、単純な話ではありません。当事者や専門家は「学習活動の在り方」という本筋議論に正面から立向かわなければならないでしょう。小中学校段階でのタブレット利用の問題と通底します。「教科書、板書、ノート」という教授法の基盤は「初等・中等教育段階」においては深まりこそすれ、決して軽んじられることはないと考えます。
・授業を録画し、再度見直せる状況を作るのも一つの手では? 記録漏れ、聞き逃しを確認する事が出来る上に、自宅で再授業を受けれるというメリットもある。 確かに聞いて見た情報からノートに書く事で覚えて理解出来る。しかし進む授業についていけない、たまたま聞き逃した、休んでしまった場合のリカバリーが出来る事も必要かと。
・ノートをとるかとらないか、という見かけ上の問題ではなく、知識力・思考力が向上しているかどうか、で見なければなりません。その点で各種試験での細かいチェック・検証が必要です。ざっくりですが、成績中~下位層の学習観・脳の構造は昔とは大きく変容しつつあるように思います。その層が今後基盤的な産業に従事し、また社会保障費をつぎ込む可能性が高い層となるわけで、20年後30年後の日本社会に大きく影響が出てくるでしょう。なお、スウェーデンがアナログ学習に戻す取り組みを始めましたね。日本ではICT教育による既得権者がたくさん発生し、ICT学習礼賛を続けるでしょうから、そういった動きにも惑わされない冷静な検証が必要です。
・個人的に、ノートを取ることより、授業を聞くことのほうが大事だと思います。 これは、ノートを“取るだけ”に偏って、復習や内容理解ができなければ意味が半減してしまうからです。 聞いて、理解した上で、板書されたものの要点を写せばよいと思います。 消される前に「待ってください」の一言を言えれば、普通の先生は待ってくれます。
・この記事の結論に同意します。 ツールが豊富にあるのですから、本人が学習内容を理解できるのであれば一律にノートをとる必要はないと思います。 例えば、VCIの値が高いがWMIやPSIの値が低い子などは、ノートをとることは意味をなさず苦痛でしかないです。 筆記を伴うことで一般的に記憶の定着がされやすいことはわかりますが、ツールのなかった時代の古い学習方法から早く脱却してほしいです。 現代は、個別最適な学習方法が可能なのですから。
・書いていると覚えやすいのは確かにある。
社会人だとメモを取らずに後でミスすると 指示した上司側からの評価がかなり下がります。
後々パソコンの文書ソフトやスマホの文書アプリにてまとめるにせよ、 指示を受ける時にはやはりメモ帳に手書きで メモを取るという基本的な習慣は 今後も大事にされ続けるはずです。
・学生の頃、黒板をノートに写して勉強した気になってました。 そしてその内容はほぼ教科書に書いてあったり…。 思い返せば、授業の予習をして分からなかった箇所や、授業の内容で分からなかった箇所をメモし、後で見返せばより理解できたのかな、と思います。 勉強のやり方を教えて貰えてたら良かったのにと思いつつ、聞いた通りに出来ないとも思ったり。 黒板を写した方がいい場合は、先生が教えてくれたらいいかもしれませんね。
・私は板書をノートに書き留めるのに一生懸命になって、リアルタイムで先生が話している内容についていけず学校の勉強が苦手でした。 あとからノートを見ても内容の本質がわからない事がほとんど。 ひとつ理解できなければその先ずっと落ちこぼれになりやすいのが学校の勉強。 自分は頭が悪くて勉強ができない平均以下の馬鹿な人間なのだなあと思って学生時代を終えました。
大人になって自分のペースで必要なことを調べて学んでいくようになると、意外と自分も知識を吸収できるものなのだと気づきました。 当時はみんな理解できているのに今さら聞けない…なんて空気が普通だったので、あの当時不明点を何度も確認できる寛容な環境があればもっと違っていたのかもしれません。
・教師側が「板書するのが前提」という発想を改めるべきでは。
資料をパワーポイントで共有する、動画(そんなに大切だと思うなら板書してる動画でもいい)を提供するとか、やれることはいくらでもあるのに教師側が思考停止してどうするんだって思います。
どうしたらいい板書ができるか研究を重ねてきた人ほどそれを捨て去るのは忍びないんでしょうが。学習方法もどんどん更新していかなければ。
・昔、学生だった頃、「ノートをとることの大切さ」を説かれ、ノートをとったことがあるが・・・ キレイなノートを作る人に感化され、キレイなノート作りに熱中した。 一向に、勉強の成果は上がらなかった。 歳を取って、近年は、仕事上の必要性から、ノートではなく付箋に、講義の中で興味深く感じたところを走り書きして、テキストに貼って学んでいる。 テキストは、付箋がべたべた張ってある。 講師としては、受講生にノートをとることを要求しない。 熱心にノートをとる受講生もあるが、長く下を向かれると講義し難い。 できることなら講師を見つめ講義に耳を傾けて欲しいと願っている。 ノートをとることで完結する授業なんて無いと思う。 少なからず講義内容に関心を持ってもらい、それをきっかけに自分で、ネットででも調べてもらって・・・ それを受講生が他の誰かに「知ったかぶり」したとき学習は陽の目を見ると考えている。
・ノートを取るとらないは自由で良いと思う。 教えることですら無いとも思う。 一方で、テキストに(後で確認)とか、(重要)とか、書き添えて、授業に追いつくようにした方がよかった気がする。 今、社会人でセミナー受けて、そう感じてる。(でなければ、テキストダメだわと思い、無駄に感じる。) 先生が正しいではなく、子供に寄った教育が出来る転換点かもしれない。 うまく映像と資料と使いながら教育していくチャンスと思って、意識自体を変えていって欲しい。
・板書をノートに写す過程で授業内容を咀嚼して、「あとから思い出すためにはどうやって書くのがいいか」を考えるし、それ自体が覚えて思い出す助けになったから、個人的にはノート筆記を推奨したい
けれども、生涯かけて「自分では字を書かない」というポリシーを貫こうとした(公文書からは逃げ切れなかった)大隈重信という内閣総理大臣もいるので、まぁ学習スタイルは人それぞれなんだとは思う
ともあれ、試してみてどうしても手に馴染まないことが分かってからでもやめるのは遅くないので、まずはやってみるのがいいと思う
・学生の頃、漢字だろうが英単語だろうが、ひたすら書いて覚えたものは、40歳こえた今でも結構覚えてる。漢字なんか、他人が書いてるとこ見て、「あっ、書き順違う!」と気づくことも良くある。感覚的な言い方になっちゃうけど、「書いて覚える」はかなり大事だと思う。
・ノートを書くのに、顔を上げて黒板見て下向いて書いて、という一連の動作がとても苦手で、加えて聞き取りが苦手だったこともあり、ノートを取るのはとても苦痛だったな。今社会人になって、ほぼ書くことが業務になくなってしまったが、書くことは頭を整理するのにとても良いし、そういうことが日常にないのが少し寂しい。学生のうちに良さを知ってほしいですね。
・第一、今の高校の先生は、弁解する人もいるでしょうけども、黒板に書きませんよね。コンピューターの文字を投影して、それをやっているので、はっきり言ってムダ。ノートを取らなくなったのも解りますね。タブレットの教育も必要ですが、黒板に書いた文字の方が良い。私も教員免許を持っていますが、タブレット機器は苦手だと言ったら、その場で授業は止められてしまい、タブレット機器を操る若い先生に交代されました。その先生は黒板に文字は書きません。つまりノートも持たずにタブレット機器だけで指導をするのはおかしいですよね。そんな私は時代遅れだから、教員としては要らんのか。
・昔、中学校の先生に言われた。 黒板に書いたことは、話を理解してもらうための補助なんだ。そっくりノートに書いたって、そんな断片的なこと後で見返して意味わかるか? まして書くのに精一杯でほとんど先生の話を聞いてないとか、本末転倒だ。そっくり書き写すっていうんなら写真に撮ればいいんだ。
実際、黒板にたくさん書くような先生だと書く速度が追いつかないこともある。書き殴っては消してを短めのサイクルで繰り返す先生もいた。
だから、なるほどとは思った。でも周りを見ると、みんな書き写ししてたなあ。自分も何となくそうしてた。
・学生時代、意識的に勉強していなかった時はひたすら黒板の内容を丁寧に書き写すのに必死で授業中は考える暇もなかった。 授業中はひたすら殴り書きで内容を書き留めておき、授業終了後に他人にも理解できるように自身でノートをもとに資料を作成するようになってからは学習内容の理解も深まった。
与えられた情報をただ見て覚えるだけでなく、自身の中で解釈することが重要で、ノートを書く意味を理解していないというより学習の方法を身に付けていないのだと思う。
・自分の時はパソコンがまともに普及してなかったので板書はみんなとってましたが
今は携帯で写真1枚撮るだけだったり、オンラインが一般化されてしまったのでより事前事後学習が必要になると考えますね
というより事前事後学習をするかしないかで理解吸収率だいぶ変わります
・生徒の実態によっては、プリントの穴埋め形式や、スライドショーの一部を印刷して右側にメモ欄を設けて書かせる形式がいいのかもしれません。 「板書しながら説明する」と、教師が思っている以上に生徒は話を聞いていません。 説明する前に、時々間を開ける時間も、授業の中では大事だと思います。
・記憶方法は個人差が大きいと思う。 私は黒板を書き写すことに必死になると声が入ってこずよく分からなくなった。 私は視覚優位。 出来たらYouTubeのように動画に文字起こしがあると最高。 書いて覚える人もいるし、何度も動画を見て覚える人もいると思う。 自分に合う勉強方法を探すために色々試していいと思う。
でも授業中動画取りながらイヤホンしながら追再生繰り返してたらサボってるように見えるし「授業」って難しい。
・自分の思考スタイルに合わない板書は学習効果が薄くストレスにもなると思いますね 学校の授業は基本的に頭から順番に説明していくので、例えば受験対策本で見かけるような「最初に単元のキーポイントだけ記述し、詳細は後」という書き方を好む方は結局板書を書き直す羽目になるでしょう。
口頭においても、背景から聞きたい人、要点を先に知りたい人、疑問を即解消したい人、話の最後まで聞いてから理解したい人など、理解しやすいパターンは人それぞれです。 授業で一律の板書スタイルを強制する必要はないと思います。
・本来学校で習う勉強はそのものを覚えるという以外に、五感を鍛える意味がある。書くことで脳や体などが活性化する。 その裏返しとでもいうべきなのは正直学校で習う事のほとんどは社会人になってからは直接的関係のあることが少ない。
逆に学校時代出来なかった科目などの内容も必要となった時点で調べることで学校時代より論理的に考えられることも多々ある。
・授業にスマホを持ち込んでいいなら、先生が板書を消す直前に写真を撮る。 その繰り返しで、授業を聞き、家で写真を見ながら自分なりのノートを書き直す。 そしてわからないところを聞きに行く。 その方が腑に落ちた上でのノートが残るし、後で見ても効率が良い。 ちなみにノートは罫線入りでもなしでも、方眼紙でも、ドットでも、もっと自由で、良いと思う。
・勉強とは勉めて強くなろうとする事です。 教科書を開いてそこに書いてある物を読んで、言われたとおりに問題をやるのは勉強とは言いません。 これが分かってる子供は成績が伸びますし、なにより勉強は楽しいと言います。 何故かというと、勉強で学問を勉強する事は、ゲームで攻略を勉強する事と行為は同じだからです。 つまりは興味の無いゲームをうまくなろうとか遊ぼうとか思わないわけですから、上手になる気も起こりません。 それは興味のある学問を見つけたら、もっとよく知ろう、仕組みを理解しよう、応用して様々な変化球に対応しよう、となります。
だからノートを書いたか勉強した。書かないのは勉強してない。というのは根本から勉学が何か理解してない訳で、そんな人が勉強について何を話しても説得力はありませんし、良い指導もできません。
まず大人が勉強とは何かを理解すべきです。
・どんな理由を言われても、ノートを取るという選択肢はないなぁ。 必要があるか無いかは、その人次第だと思う。
必要な時に瞬時に必要な情報を得るためには、アナログでは限界がある。 書くと記憶に残るとは言うが、自分にとって大事な情報って記憶に残ると思っている、それでも忘れるから記録する。 その記録はノートでは使い勝手が悪すぎると思っている。
そもそも記憶の無駄遣いをする必要はない。 大事なことを記憶して、それ以外はデジタルで記録すること、管理することの方がこれからはより大事だと思う。
・大学で物理科や数学科行くと一か月で10冊以上ノート書くこともしょっちゅう。途中で間違っても消さないで訂正線で消して残しておかないと、遡ったときに何がおかしくて間違いが発生したのか分からなくなるから。タブレット等で代用もできると思うけど、やっぱり手書きがいいと思う。
・最後に登場した先生は、ノートなんて取らなくても記憶の仕方は人それぞれと言っていますが、自分に最適な記憶の仕方にたどり着いてから勉強を始めるわけにはいかないし、やってみないと何が自分にふさわしいかわからないですよね。 だったらまずは多数派であるノートへの記入をやってみたほうがいい。 そして 「試験本番の時は、シャープペンシルや鉛筆を使って答案を書く」 これ、実はかなり大きな理由になります。 久しぶりに字を書くとわかりますが、字を書く筋肉って日常的につけておかないと、急に手紙を何枚か書こうとしても疲れちゃって全然書けないです。
・字を書くのが遅い人もいるのでノートに黒板の内容を写すのが絶対的に正解とは思えないです。 字を書くのが遅い人は板書を写すのだけで精一杯で教師の話を聞く余裕がないと考えています。
個人的には黒板に書く内容をあらかじめプリントで配り、そこに教師の言っている事を書き込んで行くのが一番自分に合っていました。
・高校や予備校までは、先生も綺麗な板書をしてくれるのでそれを写せばいいが、大学以降になると板書はメモ書き程度。板書だけ写しても、後で見返した時に何のことやらさっぱり。板書を写しつつ、先生が喋っていることをリアルタイムで要約しながらノートに書き込んでいく必要があるし、先生の言ってることがわからない場合は、その場で質問したり、スマホで調べたり、とにかく同時進行でやることが多い。そうして「自分でノートを作る」のが大学以降の話だ。
高校までの板書写しは、その前段階。ここまでに(写すだけとは言え)ノートを作れるようになっておかないと、大学に入っても講義についていけなくなる可能性が高い。
というわけなので、高校生以下の学生さんには、ノートにシャープペンでも、タブレットやノートPCにタイピングでもいいから、とにかく板書を写してノートを取る(作る)ことを強くお勧めします。
・中学生だと板書はタブレットで写真を撮って終わりの子もいれば、手でノートに書き写す子もいる。各教科でノートの書き方の指導もしている。ただ、紙ではなくタブレットのノート機能を使って書いている子もいる。 自分は研究者ではないのでどの学習法が一番良いのかわからないし、本人に合った学習法(ノート作り)が一番良いのだろうが、点数が高い子は、全員ではないが昔ながらの神ノートに板書を移したり、自分なりに考えたことを書きまとめている子が比較的多い。
・元教員です。ノートを取る時間をきちんと確保すればいいだけのことなのでは。これは指導が悪い。何でもかんでも何かのせいにしないほうがいい。ノートも定期的に集めないと。あ、これもまた忙しいと言ってやらないか。教育に関わるところは手を抜いては駄目。やらなくていい部活、校務分掌、親のクレーム処理こそ省く対象。最近は、丸付けを業者に頼むらしいけど、丸付けを通して自分の指導が浸透してるかどうか確かめるわけだから、そこは省いちゃだめなところ。
・今まではノートを取らないと怒られた。ノートの作成内容を成績に反映する先生もいた。だから、真面目な生徒は授業中コピー機になって必死に板書を書き写した。そして、ノートを丸暗記すれば期末試験で90点は取れるだろう。 しかし、こんなことをしていたら、自分で考える力は全く身につかない。現代は情報がたくさんあるのだから、板書に固執する必要はない。むしろ、あまたの情報を取捨選択する技術を早期に身につけた方が良いと思う。
・学生時代だったのは何十年も前の世代ですが、当時から板書、ノート取りは無駄だと感じていました。 あくまで私の場合ですが、ノートを取ることに気を取られ過ぎて、肝心の授業内容理解が追いつきませんでした。 友達に頼る方法でダメなことかもしれませんが、板書全体は書かずに気になったポイントだけメモするやり方にしてから成績がどの教科もかなり伸びました(後で友達のノートをコピー)。 今の時代、板書はスマホで撮影するとか、眠くなる対策なら穴埋め方式のプリントにするとか(もしくはPCを用いて完全電子化とか)やりようはいくらでもあると思います。
・ノートを取ると黒板を丸写しにするのに夢中になってあまり話を聞かなくなる。 経験上、自分がそうであった。ポイントだけあとで思い出せるようにメモ方式で書いておいて後で思い出しながらノートを作る方が効果的だと思う。 先生も最近ではプリントばかりで黒板を使わない先生も多い気がしますが? 個人、個人で効果的な学習ができるのであればノートにこだわる必要もないと思うけどね。
・黒板の写しをしないのはダメだという記事ですが。
私も学生時代何も考えずにひたすら板書したものです。
後に国家試験に挑戦し、一度失敗してから勉強方法を考えました。
学校では一切板書せず、ひたすら授業を見て聞く。板書はせずに、教科書の該当箇所に蛍光ペンだけ。それだけではありませんが、無事合格しました。
「書く」に集中している間は、授業を見ても聞いてもいません。しかも板書は教科書の内容ですから、つまるところ「意味がない」事に気づきました。
しっかり先生のお話を聞き、理解する方が頭に、目に、耳に残ります。
・先生が黒板に書いたことを写す作業は、私にとっては何も考えない作業なので学習にはなって無いって気がついて以来、授業中のノートはまともにとってはなかったですねえ。
だから提出とか言われると「うわぁ」でしたし、ソレが原因で成績表の評価が多少下がることもありましたが、基本、テストが上位の生徒だったので、そこまで酷く評価されることもなかったです。
教科書をもらったら、独力でそれをノートに要約してましたし、参考書を全教科分揃えて予習もしており、質問にも良く行っていましたので、勉強してないワケじゃないことを先生方は了解してたと思いますし。
とは言え、提出されたノートが綺麗なことが大好きな先生っていうのもいますし、昨今は受験が評定重視・推薦枠増大になってたりするので、一般的な学習法を取らない変わり者生徒は不利かもしれませんね。そういやウチの子も不利組で、高校受験はテスト一発で乗り切らせたなあ。
・塾講師に予備校講師に学校教師と全部やったことありますが、自分は板書を写したことは殆ど無い。学校の先生の内容よりもいい参考書がいくらもあったし、今ならネットもある。 ただ、板書はよくやった。それは、板書も人事考課の一つだし、研修で叩き込まれるからだ。板書は商品なんだそうだ、それをノートしたのを親が見てどう思うかということだそうだ。色チョークもよく使った。親から見て映えるノートを作らせる為だと研修で言われるからだ。 ノートはして貰わないとセンセイの立場がチョッとかもだけど、ノートの重要性は分らないかな?
・ノートを取るのは、あとで見た時にポイントがわかるかを重視、教科書に書いてあることは書かなくても良いと思っていた。先生の「つまり」のところが大切で、そこがわかるようにメモを作っていた。ただ、予備校に入って東大コースなるものに行っていたが、そこの予備校教師の板書はレベルが違うもので、参考書にも書かれていない内容で、必死こいてメモしていたという浪人時代の思い出。つまり、先生のレベル次第。
・授業中はノートを取らずに理解に努めた方がいいかと思います ノートを取ることに意識が取られ理解がおざなりになる可能性があるからです またノートを取っただけで理解できた気分になるのも良くないと感じます ノートを取らなくても、知識を整理した参考書が販売されていますので、復習にはそれを使えばいいかと思います
・自分の場合は、ノートは書いたけど見返すなんてことはなかった。 そもそも、何を書いたか判別できないくらい字が汚かった。 それでも、書くという行為で頭に入ったので困ることはほぼ無かった。
記事の後半に「そもそも記憶の方法は人によって異なる。」とあるが、その通りだと思う。 ノートを綺麗に書いて復習することがベストの人もいるし、ベストではない人もいる。ただそれだけのこと。 自分に合った勉強法を見つけてほしいね。
・紙とペンを使った授業・勉強は、今後いくらIT化が進んでも継続するべきであると思う。今大学に通っているが、タブレットは資料の閲覧用で、それを使ってメモをとることはない。紙の教科書に直接メモ書きするのが1番やりやすいし、復習する時にめくりやすいからすぐ目的のないようにたどり着ける。
・ほんとそれなんだよね。スライド映写でハンドアウトを配布すると「先生の資料が一番まとまってるから自分でまとめ直してません」とか言い出す。教育の目指すところはインプットではなくアウトプットなのは同意なんだけど、そもそものインプットがおろそかになっていると「どうやって勉強したらいいかわかりません。全部暗記するんですか」となる。
インプットには知識の構造化が大事で、ノートもとらない、まとめ資料も作らないとなると、構造化されずにメリハリがない理解になる。結果的にアウトプットも覚えたことを垂れ流すだけになり、活きた知識にならない。
・私は個人的にノートを取ることは「自分にとって重要な箇所を書き留めるメモ・頭で記憶しきれないことを補う記録」だと思っている。
何故なら、それによって「物事の理解が円滑に進むと思う」から。
確かに、「聞いた方が早い」等の意見もあるだろう。
しかし、記事でも述べられている「復習」のように、例えば学習を効率よく進めるにおいて「ノートを取ること・書くこと」が有効に作用することもあり得るわけで、自己で理解が完遂でき先生に再度教えを乞う必要が減れば、それは学ぶ側にとってもメリットのはず。 また、いかにICT教育が流行ろうとも、見ただけ・聞いただけで何らノートを取ることなく十分に内容を把握するなんて普通に難しいと思う。
よって、「ノートを取ること」は必要であり、積極的にやるべきだと思う。
・実際のところノートを取らないほうが私にあっていた。もし子供の頃に戻れるなら「ノートを取らないで、先生が黒板に書いた部分の教科書にラインマーカーを引き、ここ重要と言った部分や補足の説明を全部教科書に書き込め」と自分に言いたい。箇条書きより文章になっていたほうが理解しやすいし、ノートを言われるがままとっているより、文章の中から大切な部分を探す方がよっぽど勉強になる。
・大学の数学まで行くと、板書を写すので精いっぱいだった。教授のスピードは学生には全くついていけなかった。高校までの分はゆっくりだからノートとっても話も聞ける。まあノート取らなくて教科書自分で読んで進めばいいって話です。理系だとそれぐらいの学力は必要だと思う。後、成績高い高校の生徒はノート書くの早いよ。成績が低くなるとだんだん遅くなって最後は書かない生徒になる。
・勉強を何のためにしてるかというと大多数は受験のためだと思うのです。 中学・高校・大学・資格・その他諸々。 それらの実際の試験がデジタル化されてるのって現時点ではほとんど無いと思います。 だからやっぱり現時点では「紙に書く」という事を重要視するべきです。
・高校の時の世界史の先生がやたらノートの取り方にこだわりがある先生で、はっきり覚えてはないけど評価がテストの点数とノートの取り方で半分半分かノートのウエイトが少し高いくらいだった。 定期的にノート提出があるんだけど、ノートは通常より大きいB4サイズを使えと言われたり、色使いはああしろ、こうしろだのとにかく細かかった。 結局のところ、型というか先生の好きなノートの取り方ってのがあってそれにハマるかハマらないかで評価が分かれたのでどうも釈然としなかった。
・高校の頃に、プリントを授業の前に配り、 「必要なことはそこに全て書いてある。ノートを取らなくていいから授業を聞く事に集中しろ」、って先生がいた。
その授業を受けて、板書をする事でどれだけ労力と集中力が奪われているのかを実感した。
ノート自体は重要だとは思うけどね。
・私も高校くらいでガラケーが出始め、「写真に撮らせてくれたらいいのに」「プリントでくれたらいいのに」とか思ったこともありましたが、「自分で書く」って圧倒的なんですよね。 書かないで出来る子はそれでいいと思いますが、今はノートの取り方も本や動画が山ほどあるし、なによりそういうものを自ら探しに行ったり、見たり、自分にあったやり方に変えたり…という力が無いように感じます。
何に関しても「言われてないから・わかんないから・面倒だから」しない子が増えてる印象がありますね…。
・ノートというのは基本自分の思考を整理するためにつくるもの。 人に伝えるなら論文とか決まったフォーマットがある。 それをノート点とか訳のわからん評価をつけたりすると、仕上げることに意識を取られて内容理解が二の次なんて本末転倒なことが起こる。 別に板書を写真で取ったって構わないと思うけど、自分用にカスタマイズできなけりゃ必要なときに必要なアウトプットはできないよ。情報を持っていても使いこなせない、あふれる情報に振り回されるだけの人になる。
・ノートをとる意味は今教えられたこと=自分の頭にインプットされたことを即座にアウトプットすることなんです。このインプットとアウトプットの反復動作が教えられたことを覚えることにつながります。反復動作が大切なことは不死川玄弥くんも言ってます。ですから、ICTの導入によってノートをとる習慣が減ったならば、ノートパソコンなりタブレットなりを使ってノートをとらせればいいんです。ノートパソコンならタッチタイピングの速度が向上すること請け合いですし、パソコンやタブレットを使って情報をまとめる文書作成能力も身に付きますよ。そういう方向へ今後の学習指導要領をまとめりゃいいんじゃないですかね。
・昔はそもそも学問の為の情報自体が貴重で、それ故にノートを取ることが過剰に美化されてきた
でも、今は洗練された情報があっちこっちに出回っており事情や価値観が異なる
昔は疑問があると辞書のように分厚い参考書から情報を抽出し、なんとなく理解出来るようになったら、それをノートに整理してまとめて、最後にノートを見て再び理解するという面倒な仮定が必要だった 当然上手く理解出来なければ詰まる だから、これを大人達が二次的にビジネスにし、塾や予備校、家庭教師が事前に情報を極限まで圧縮し必要最低限な分だけ頭に入れれば良いところまで持っていってくれるから納得もしやすい 当然、これを繰り返せばお金のある家の子は知識の習得が楽になり、要領良く理解する癖だけ付ける事が出来るようになる 一方、お金のない家の子は圧倒的に不利になる そんな理不尽な時代がもう終わったというのなら素晴らしい事だとは思う
・塾講師です。 私も生徒にはノートにこだわるように指導しています。 ただし、ただ見た目だけのノートではダメで、何が大事なのかを後から見てわかるように心がけるように話しています。
私自身、学生時代(今から30年近く前ではありますが)にノートにまとめることの大事さを体感しました。 私も字が汚かったので、あまり書きたくはなかったですが、大学入試を迎えるときには、やはりきちんと書いて学ばないとと感じました。 大学の講義では、講義の内容を板書されても体系立てて書かれているわけではなかったので、聞きながら自分なりに情報を整理してまとめることをしていました。それを後から見直して復習に充てたり、疑問点を整理して質問したりしていました。
今は様々なツールがあるので、学び方に多様性があってもいいのかもしれませんが、ノートに書くことの優位性はきちんとあると思います。
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