( 195686 ) 2024/07/28 17:06:30 2 00 「サンモニ」識者「国家同士が競い合うモデル限界。五輪は見直す時期」膳場貴子は冒頭から「日本勢が早速メダルを」デイリースポーツ 7/28(日) 10:59 配信 https://news.yahoo.co.jp/articles/e3a1ee505bc84cfd1a2fabe05cfa401ade2d04b4 |
( 195689 ) 2024/07/28 17:06:30 0 00 膳場貴子
TBS「サンデーモーニング」が27日、放送された。冒頭から、キャスターの膳場貴子が「昨日からパリオリンピックが始まりました。日本勢が早速、素晴らしいメダル2つのニュースが入ってきてます」と柔道女子48キロ級で角田夏実が金メダルを、男子60キロ級で永山竜樹が銅メダルを獲得したことを、喜びいっぱいに伝えた。
【写真】金メダル獲得の角田夏実 国歌を聞きながら号泣 胸を打たれる感動シーン
その後、スポーツコーナーでも女子柔道五輪連覇の谷亮子さんが登場し、「あっぱれ!」を送りながら、たっぷり五輪情報を届けた。
しかし、続く「風をよむ」のコーナーでは「五輪と戦火」をテーマに、内戦が続く南スーダンの選手団にスポットライトをあて、平和の祭典としての五輪の意義を問いかけた。
同志社大客員教授でジャーナリストの元村有希子氏は「アスリートの方々の頑張りに胸を打たれますし、心から拍手を送りたいですけれど」と前置き。「ガザで血まみれになっている子供たちの映像を見たあとで、あのきらびやかなショーを見るとパラレルワールド、別世界のような感じがする」と話した。
今大会には、ロシアが出場できない一方で、イスラエルが出場していることを「二重基準。そこの裏に何があったんだろう」と指摘。「私見ですが、国家同士が競い合うモデルは限界が来ていると思う。そこには必ずプロパガンダが入るし、国威発揚、国が押しのけて勝つということを政治家に利用されるということもある。オリンピックは色んな課題がありますけど、根本的に見直す時期に来ているのでは、と私は思っている」と語った。
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( 195690 ) 2024/07/28 17:06:30 0 00 ・国家同士は競い合う性質だからこそ、オリンピックのような場の重要性があるのだと思います。 そして愛国心はとても自然で根源的なものであって、国民がそれを育むことは健全な国家の形です。 結局、問題はそれを政治利用しようとする指導者であって、オリンピックはむしろそれにブレーキをかけるような大きな力として、今後も存在して欲しいと願っています。 ただ一番は、アスリートに最大の名誉を残してあげたい。
・番組後半のコーナーで、コメンテイターが「ガザで血まみれになっている子供たちの映像を見たあとで、あのきらびやかなショーを見るとパラレルワールドのような感じがする」と話し、今大会にロシアが出場できない一方でイスラエルが出場していることを「二重基準」と指摘したという。 番組の冒頭とスポーツコーナーは、当然オリンピック話題で構成されている。 この番組そのものが、まあ「パラレルワールド」であり「二重基準」だよね。
・スポーツの場で国家同士が争うから、それぞれの国がお金を出してスポーツ振興して、オリンピックにも費用を負担して送り出しているのです。国家として争うことがなくなれば、国からのお金は期待できなくなり、スポーツの祭典としてのオリンピックは、企業宣伝のための場という面が前面に押し出されることとなります。一部のスポーツ競技は、個人間競争ということで成り立つかもしれませんが、団体スポーツなどは成り立たなくなるのではないかと思います。今回発言している識者は、識者と言えない(素人かなと思える)ほど、視野が狭く感じます。
・ワールドカップや世界選手権が存在以上は、オリンピックやパラリンピックは権限委譲させて、世界的に活躍した選手のアワードとして役割を変えるべきとも感じている。明らかに肥大化権力化しており、オリンピック委員会維持のための生命維持装置が今回のパリなり前回の東京など、でもある。そうなればアジア大会など要らないし、むしろ学生スポーツに特化させた方が教育の観点からも期待はできる。
・人間は、他者より優位に立ちたいということを、いま時点で知らしめたい動物。 国家同士が争う、オリンピアンが争う、何も変わらないね。 人が死なないという時点では、オリンピアンは、俗に言うスポーツマンシップに習っているだけ。 人間の本質を理解するべきで。 まぁ、人間が存在する限り無理な話なんだけど。 オリンピックの創設の意味を知るべきだね。 争うなら、権力の見えるところでやるべきだから、オリンピックが存在することになった。 競い合い、争い、人間の本質だから。
オリンピックが、開催されるようになっても、戦争はなくならない。 戦争を、なくしたいのなら人類が滅亡するとき。 綺麗事はいらないよ。
・ロシアは領土を求めての侵略。イスラエルは防衛10倍返しの違いがあります。イスラエルとパレスチナの問題を根本的に解決する糸口は、このオリンピックにある。双方の選手団が手を繋ぐ絵が欲しいところです。次にアメリカの新政権が仲介役となり、領土問題の解決を図る糸口となりえます。それでこそオリンピック。
・戦争で争わない代わりにスポーツで競うのはいいのではないだろうか。 人は本能的に争いを止められない面がある。 ならば血を流す以外の方法でそれらを満たすことも 対応の一つではないのか。 そしてその中からも才能を発揮する人がいたり、 様々な感情を呼び起こす効果もある。
よく紛争が悲しいとか悲惨で そういう理由でイベントを止めろという人がいるが、 ならば自分で紛争を止められるのか、 止めに行くのかと問いたい。 そういうのは正義感とは言わない。 対岸の火事に偉そうに講釈を垂れているだけだと いうことに気がついていない。
・今の世界情勢、こうした見解が出るのもわかります。 世の中には明暗があり、華々しい活躍を喜び褒め称える人々もいれば、戦火に逃げ惑い、助けを待ちながら命の危機に晒されている人々もいます。 だからオリンピックを自粛したり今のやり方を根本から変えようというよりは、時代の流れの中で、人々がオリンピックに対する意識を少しずつ変えていく必要もあるのでは。
「日本頑張れ!」と言っていた人達が、今年の終わり頃から来年にはきっと「日本はダメだ」と政府に文句を言っているでしょう。 政府や国の上層部の人達が、日本の基盤を築いてきたから、国際的大会にも参加できます。 現在の世界の大戦に対応しているのも、各国の首脳部です。
オリンピックは、戦火の中の被災者達にも心の支えになっているのではと思います。 今回、テロ対策で世界各国が力を合わせている事も尊いです。
本当の、平和への祭典になってほしいです。
・かつてはナチスドイツが、そして共産圏の国々が、オリンピックをプロパガンダの場として利用した。 よくも悪くもオリンピックは時代を映しこむ鏡。 1964年の東京オリンピックと、2021年の東京オリンピックと、どれだけの歴史的意義があったかの差は大きい。 政治利用や商業主義といった問題点はもちろんある。 国家同士が競い相手を押しのけるのではなく、互いに尊重しあう未来を目指すこと。 スポーツマンシップの原点は相手へのリスペクトだから。 きれいごとと言われようと、クーベルタン男爵の掲げた理想は、今も決して古びてはいない。
・国家同士の競い合いでなければ盛り上がらないじゃないか?高校野球だって、野球留学など私学による選手集めが盛んでなかく、地元公立の近所の兄ちゃんたちが出場していた昭和の頃の方が「故郷代表」って感じで盛りあがっていた。生まれた場所ってそれだけで共通性をつくるんだよ。その共通性を他者を廃除することや傷つけることに使うのではなく、スポーツで競うことに使うのだから健全ではないかい?
・別に日本選手がオリンピックで勝ったり、大谷選手がホームランを打っても、自分に直接利益が有るわけではないんです。 極端な事を言えば「自分さえよければ、他人はどうでも良い。」こうなってしまいます。 でも、社会性動物である人間にとっては、どの範囲までを自分の仲間と感じるかという事は、結構、重要なことなんです。社会が成り立たなくなりますからね。
・国家同士の競い合いがあるからこそ見直すのではなく原点回帰すべきなのでは。近代オリンピックの理念に立ち返り、スポーツを通じた平和への貢献を強化して欲しい。商業オリンピックとしての価値が高まれば高まるほど、その崇高な理念よりも経済的価値に重きを置き、お互いが憎しみあえばあうほど国威発揚に使われる。だから止めてしまえではなく、また分断された中で行うのでもなく、一つの世界のなかでお互いが尊重しあう貴重な機会であって欲しい。
・ロシアが国として参加出来ないのは戦争以外にドーピング問題もあるはず。そして大きい理由は、自らウクライナを攻撃したのでそこがイスラエルとは違っている。イスラエルとロシアと同一視するのは如何なものか?いずれにしても、独裁的な国家は、戦争の可能性があることを忘れてはいけないし、武器ではなく、選挙で政権交代がされなければいけない。
・>あのきらびやかなショーを見るとパラレルワールド、別世界のような感じがする
身内が亡くなった直後、茫然自失で病院から出て「何もかわらない日常の風景」をみたとき、「自分の不幸なんて世の中のほとんどのひとにとっては何の関係もないんだなあ」と、ある意味、こころが落ち着いた気がしました。
不幸な人がいることを忘れてはいけない、寄り添う気持ちは必要ですが、不幸なひとに波長を合わせる必要もない、むしろ有害だったりする。
不幸な出来事に引き摺られてしまうと正常な判断ができなくなっちゃうから、助けられるものも助けられなくなっちゃう。
こころは熱く、しかし、あたまのなかは俯瞰してクールに保つことも大切じゃないでしょうか。
・オリンピックはやるべきだと思う 問題は既存の施設等をフル活用してでも無駄な建設や着服を無くさせるべきだと思う オリンピックの(見栄を張る)為に最新のスタジアムを作って、その後全く使われなくなるようなものは無くてもいい 着服の温床になるのが目に見えてる 特に東京五輪の着服や無駄は酷かった どれだけ無駄にしたかもあやふやにして終わったし 見直すところはたくさん有ると思う
・スポーツ以外でも、例えば技能オリンピックなどと呼ばれるものがあるように、特定の分野で頂点を目指すというのが、人間の本能の一部であるような気がします。むしろそういう場を閉ざしたり機会を与えないのは個人の可能性を潰すことになると思います。
・どんな形にせよ、競い合う大会なのだから必ず敵対関係にはなるし、それが国家であれ宗教であれ民族であれ文化であれ、同じことを繰り返すだけだと思う。 また、そういったカテゴリーに当てはめずに単純に白組赤組等に分ければ、それほど世界は熱狂しなくなり、スポーツ自体が廃れてしまう恐れもある。 今の形のまま、殺し合いではなく、それぞれの国家が結果を残すために努力し、平和的に競い、終わればノーサイド、肩を組み抱き合える祭典にすべく考えるほうが現実的のように思う。 その上で平和理念から外れた国家の参加を認めないということには一定の効果があるように私は思う。 本当はビジネスもスポーツも国際情勢も少なからず繋がっている。 だからこそむしろ、スポーツを通じて平和的に競うことが大事なように思うがね。
・ん、地球市民と言う考え方は昔からあり一見理想的な社会とも思えるが、やはり人には優先順位と言うものがある。多分、困難に立ち向かう場合、守るのはまず家族と言う単位が最優先とはならないか?その後 次は友人諸々と単位は様々だと思うが、その先は国家に結びつくのでは?人が皆、自分1人だけで全部やって生きていると考えるのはかなり無理があると思える。
・かつて卓球の世界大会では、 国旗掲揚、国歌斉唱は無かったそうです。
選手は、その地域の(実際には国なのかな)の卓球協会の代表なんだと。
ナショナリズムからは少し距離を置いていたそうですが、 オリンピック種目に入れる条件として、 国旗掲揚を受け入れたそうですよ。
オリンピックに入るかどうかは、 現実、競技の人気に大きく関係しています。
悲しいかな?、自分の属する地域や組織を応援してしまうのは人として本能的なものだと思います。 高校野球だってそうでしょう?
まして40年ほど前からは商業オリンピックになっており、国対抗で熱く盛り上がるモデルは儲かるのです。
オリンピックの仕組みを変えるのは無理でしょう。
言わんとする『理念』は、理解は出来ますが…。
・柔道、レスリング、フェンシング、射撃など戦いの手段を競技にした。 戦争を平和なスポーツに変えた人間の知恵だろう。 人間に競い合う本能があるとすれば、平和なスポーツで競う事は良い事だ。 その為にもオリンピックは最高の祭典である。
・見直す時期について、どう見直すのかの叩き台くらいの例示がないと検討する術がない。それよりも、代表を決める何とか協会の存在が気になる。アスリートはプレッシャーを感じている。メンタル面のチェックなど可能性を見ることで、持てる力以上のパワーが出せる人選びこそ大事であって、そのやり方の検討が欠けていると思う。
・スポーツは個人チームの競争を超え、国の競争どころか、代理戦争の性質がある。だから権威主義的な国は組織的なドーピングをするのでしょう。五輪のように32種目329競技も実施すれば国威発揚の競争になるでしょう。どの種目も五輪に参加したがってるから、この流れはどうにもならない。手を挙げる地域が無くなるか、暑くて夏季五輪ができなくなるしか、この流れは変わらない。
・国同士で戦うのは全然かまわないと思うけどね ただ1年以上も世界各国を転戦しながら、ポイントを溜めないとでれないとか そういうシステムを止めればいいのにと思う どこの国も、どの競技も、代表は1人もしくは1チームのみ 開会式もあんな派手な式典は止めて、全ての競技の対戦相手を決める抽選会 対戦相手が判らなければ対策のしようもないし にくい相手と初戦で当たるか、決勝まで当たるか判らないのも 国としては盛り上がると思うんだけどなぁ
・昔「ロッキー4」の映画の中で、ソ連のドラゴを倒したアメリカのロッキーが、「今日2人の人間がリングの中で闘ったが、何万人もの人間が殺し合うよりましだ、そして初めはお互い憎しみ合ってたが次第に感情が変わり始めた‥人は変われるんだ」って言うセリフが今でも心に残ってる。 オリンピックを政治利用する事は問題だが、スポーツは国境を越えて世界が繋がれるとても大切なものだと思う。 スポーツの祭典を通して、世界の紛争がいかに馬鹿げた事であるかを知らしめるのがメディアの役目ではないだろうか‥。
・この世の中は、ある種、パラレルワールドでしょう? (ここで描かれているのとは、本来のパラレルワールドって違うと思うけど) 国と国じゃなくたって、個人の中でも別世界というのは実在するわけで こっちで悲惨な目にあってるけど、あっちではハッピーなのは如何なものかと思う方がおかしい。 フランスの中だって、お祭りムードの裏では銃を持って厳戒態勢が敷かれてるわけですから。 ただ、色々な面においてオリンピックのあり方を見直すことは必要だと思います。
・ロシアとイスラエルを同列で考えるのは流石に無理があると思います。 ロシアはウクライナを支配下に置きたくて自ら開戦。イスラエルはハマスによる音楽祭の襲撃で1000以上の死者と数百人の拉致を受けた被害国で、その報復。 現状は似たような状態にはなっているかもしれないが、今回の紛争だけみれば経緯は全く異なります。
・新しいモデルを作るとすれば、アジア選抜とか南米選抜とかで様々な国が同じチームで戦うスタイルが観てみたいです。個人競技だと団体戦みたいな感じでしょうか。政治で仲の良くない国同士でもスポーツから友好を深められそうです。
・オリンピック開催中も、ウクライナ国内は戦闘が継続されている。
ウクライナ人にとっては理不尽極まりない世界情勢だけど、これが現実。
五輪休戦が国連で可決されても、常任理事国が破ってたのでは意味がない。
オリンピックが平和の祭典だったのは、もはや過去の話といっても過言ではない。
ちなみにロシアとその同盟国のベラルーシの国籍を持つ選手は、ウクライナへの軍事侵攻などを理由に、国を代表せず、国旗や国歌を使用しない“AIN”と呼ばれる「中立な個人資格の選手」として参加することになっています。
その数、ロシア15人とベラルーシ17人の計32人が10競技に参加するらしい。
ウクライナ約140人参加しますが、ウクライナ・オリンピック委員会は自国選手団に対し、両国選手との握手や写真撮影などの禁止を勧告している。
・子どもだけでなく大人にも大きな夢を 与えるひとつがオリンピックです。 競技に限らず、人間がやることに 問題を全くはらまないイベントなんて ない。矛盾だらけの人間が一つに まとまりそこには喜びも悲しみもある。 しかし調和があります。紛争国の問題も 確かにあります、それはそれで個々に解決 すべき話でオリンピックの意義に 引っ掻けるのは飛躍に過ぎない気が します。
・戦国大名が織田や豊臣、徳川と渡り歩いて家名を保ったみたいに強い国になびかないと存続できないのは世界共通。日本もアメリカに理不尽なことされても我慢してるし。結局が武力が強いものが生き残るってことに変わりはない。理想は理想現実は現実だと思う。
・対戦相手を憎むのではなく感謝し尊敬するスポーツマンシップの醸成が大切と思う。 そういう精神が戦争を抑止する精神を育てる。 勝ち負けに固執しすぎる愚かさを知り、人間らしい生き方を学べる機会でもある。
・オリンピック憲章には、あくまで参加してる個人選手同士が競うのであって、国家間で競うのものではないとはっきり書いてあるのにね それを国家の権威に引っ掛かけて、何かと利用するのがそもそもよくないし、国ごとのメダル数を報道するのもよくない けど、この意識を変えるのはたいへんそう なんだかんだいっても国ごとの成績を見てしまう
・物理として決まっている法則に「ルール」は優先しないから。いくら「ルール、ルール」と言っても現実には物理法則通りの結果になる。それを踏まえた上で、ルールの効力を最大限活用してどうやって物理法則を規制するか。
限界はある。
・いろいろな国際大会があるから必ず五輪をやる必要はないと思う 平和の祭典を歌ってるわけだから平和ではない時はやらなくても良いと思い じゃないとどこの国も平和に意地にならないと思います 平和の祭典を歌わなければやって良いと思う!
・国同士で競い合うから盛り上がるのかもしれないけど、確かに以前のような感覚でオリンピックを見る事はなくなったかなぁ。 勝利の喜びと敗北の悔しさ。一般人だってそれを知ってるからこそ、大きな舞台での躍動に感動するんだと思うよ。 本当にねぇどの競技でも、始まる前の緊張感ある顔とか見てると、泣けてくるんだよね。 人間性なんかわかりはしないけど、その競技に対しての純粋性や真剣さが伝わってくるからだろうね。
・行き過ぎた金融資本主義のせいで国家という単位が人類にに幸福をもたらすのか疑わしい状況になっていますね。 挙げ句の果てに戦争や気候変動で自滅の道を突き進んでいます。 スポーツに限らず経済含め国家という単位を無くして人類皆兄弟みたいなシステムにしなければならない時期に来ていると感じます。
・世界中には国家同士がメダルを争うのが好きな人がたくさんいる。オリンピックはそこにつけ込んだスポーツビジネスなのだから変わるはずがない。だから、いろんな国でメダルが取れるように年々種目が増えて行くのですよ。
・国家と言う括りで競い合うのがダメと言うのなら、世界選手権だって、ワールドカップだって同じことでしょ? 一番じゃ無ければいけないとは言わないけど、やっぱり競い合う原動力にもなるし、自分は国家が競い合うのは悪いことでは無いと思います。 今回はスポーツだけど、経済もしかり文化・芸術もしかりでしょう。 ただ、日本は人口減少に突入してますから、大選手団をいつまで維持できるかは疑問ですけどね。
・そもそも論になるが、今の国連がまったく機能してないというか限界。第二次大戦の戦勝国による常任理事国の拒否権だったり、その常任理事国が他国を侵略して、それを国連として何の実力も行使できない。
日本がペリー来航により明治維新に繋がったように、地球規模で考えても地球で改革なんかできっこない。各国の思惑によりまとまることはないし、国連改革もできない。
地球規模の災害なり、映画じゃないが、地球外生命体による外敵があってはじめて地球は一つになるし、他に選択肢はないだろう。
・人間社会とはそう言うものだと割り切る事が不可欠なのが、まだ分からないのだろうか?
政治とスポーツは別だと言いながら、政治に左右され続けたアスリートは、日本も含めて多数に及ぶ事は歴史が証明している。
一方で華やかにスポーツの祭典を開きながら、他方で戦争で死んで行く者たちがいるが、このような事は今に始まった事では無い。
別の事で例えれば、ぺットの動物は虐待禁止で可愛がる一方で、家畜の動物は平気で殺して食す。また、地球の環境破壊するなと言いながら、そもそも人間が地球に住んでいる事そのものが環境破壊・自然破壊なのだと、自然や環境に人格があれば人間を大非難するであろう。
これらは、地球が人間社会であるから人間最優先で考えている結果に過ぎない。
政治とスポーツも同じで、政治が安定して初めて安心してスポーツが出来のであり、政治が不安定な国では安心してスポーツが出来ないのは当然の事である。
・選手は人生の多くを掛けて頑張っていると思う、唯それを利用し権力者や既得権者が儲けに使っている、五輪憲章も関係ない、五輪開催後は無駄な維持費で負担がかかる、平和の祭典ならアフリカや戦争何年後かにウクライナやガザに五輪を開催して壊された街の復興をすべきだし、水も飲めないアフリカの地をより良くすべき、多くの選手はそれを望んでいると思いたい
・各メディアが軒並みオリンピック一色の中、まずガザの最新の惨状を生々しく報じたサンモニの心意気には拍手をしたい。
とはいえ、それで「国家同士が競い合うモデル限界」はなんか違う気がする。 確かに国威発揚やプロパガンダは入るし、ロシアの扱いとイスラエルの扱いの違いなど、問題は多い。
それでも、サッカーW杯同様、政治的に対立関係にある国や地域同士が、一滴も血を流さないスポーツで争い、「同じ喜んだり悔しがったりする人間である」と感じる場は、その政治的な意味においても、意義は大きいと思う。
こういう機会がなければ、イスラエルの人も、パレスチナの人も、あるいは他の様々な普段接しない国の人たちも、我々にとっては「単なる名前」で終わってしまう。
・オリンピックはスポーツの祭典。スポーツはルールに則って、人間同士が身体能力の限りを尽くして競い合うもの。そこに政治的要素を介入させてはならない。 日本人だから日本を応援するのは、関西人だからタイガースを応援するのとあまり違わない。なぜそこで「国家同士が競い合うモデル」とかいう発想に結び付けるのか。 五輪を見直していったいどんな新しいモデルを描くつもりなのか。そこまで言ってくれなければ識者の名に値しない。
・スポーツは観るよりする方が好きな私にとっても、戦争でおびただしい人命が犠牲になっている今、0.1秒、0.1cmの記録を更新することに何の意味があるのか理解できない。 ましてやそのために莫大なお金をかけることなど尚更のこと。 人類はその英知をもっと建設的なことに使うことを今一度考えるのが、求められるのではないだろうか。
・1984年のロサンゼルスオリンピック以降顕著になったオリンピックの商業主義化とそれに伴うIOC委員たち、所謂五輪貴族の利権の問題と、1980年のモスクワオリンピックのボイコットなどに見られる政治利用など、オリンピックの負の側面が大きくなり過ぎて来ており、僕もオリンピックはそろそろ見直すというか、もはややめるべき時に来ていると思う。世界では飢餓や貧困に苦しむ人が大勢いる中で何兆円も使って、あんなお祭り騒ぎを開催する大義名分などないと思う。
・これは超ど正論だと思います。 オリンピックの裏側には 汚職やスポーツビジネス、格差など たくさんの不条理が存在しています。 スポーツの世界大会は各々が 開催するとして、オリンピックの 在り方を見直すべきだと思います。 極端な言い方をすればオリンピックを 開催しないことも考えるべきかと。
・曲がり角にあるのは間違いないでしょうね。財政的に負担が大きいわりに期間が短くうま味が少ない。SDGsを言い訳に結構ケチってますよねいろんな所を。本当に一部の大国以外は開催が難しくなってる。冬季五輪は更に地域が限られるからもっと厳しい。そのうちどこも立候補しなくなって特定の国で持ち回りするしかなくなるのでは。
・オリンピックの開催意義は今でもあると思う。それは普段注目されにくいスポーツに脚光が当たる事による選手のモチベーション向上は計り知れない。只オリンピックで行わなければならないのかと思う競技が増えすぎた。サッカー、ゴルフ。莫大な年収を稼ぐ選手もいるし各々大きな大会もある。サッカーに関しては世界一のスポーツイベントのワールドカップがある。兎に角商業主義になりすぎた。それによる汚い部分は東京五輪の開催前、開催後でいやという程見せられた。
・そんなことを言うなら、今回の戦争のきっかけを作ったパレスチナ側はオリンピックに参加しているし、イスラエルの対応に問題があるのは当然として、パレスチナ側も無罪というわけではない。もう少し頭のいい人のコメントが求められる。
・少なくとも、今でも、国威発揚の側面が拭いきれないかな?そうでなければ、国家を前面に出して、公金を支出してまで、選手をオリンピックに出場させる必要性が乏しい。そして、過度に進んだオリンピックの商業主義の傾向も拍車がかかっているようですし、私も見直していいと思う。
私は、各競技が各自で世界大会を企画開催すれば、それでいいような気がするが・・・
・損害が発生したりリスペクトを欠いたりするのが悪いってだけの話で、国同士が競うこと自体はむしろ良いことでしょ。 国威発揚?すればいいじゃん。自分の国を堂々と誇って、国同士競い合って高めていけばいいじゃん。 これはスポーツに限ったことじゃない。競い合うからこそ進化が生まれるんだと思うよ。
・ガザがあんな状態で、イスラエルは平然と出場していて、手放しでオリンピックは素晴らしいなんて言えないというのは、心ある人ならみんなそう思うでしょう。でも、オリンピックがなくなれば解決するのかと言えば、それもまたありえなくて、むしろこのパラレルワールドを描き出して明暗を対比することによって、私たちの社会や世界の矛盾が鮮明化するという利点はあるのだと思います。
・ロシアとイスラエルは、戦争を始めた理由に根本的な違いがある。 その元を辿れば、過去の歴史的なものはあるにしろ、ロシアは単なる侵略戦争でイスラエルは、被害者。 イスラエルのその後のやり方には問題があるにしろ、ロシアとは同列にはならないのでは。
・私も国家ナショナリズムをことさら煽るオリンピックはもう時代遅れだと思います。かつてヒトラー・ナチスは国家高揚プロパガンダとして五輪を最大限に利用しました。パリ五輪の開会式を見てもこれでもかこれでもかとフランスを美化して自己顕示と自己陶酔の極致です。国家や民族のナショナリズムが差別や紛争や戦争に発展してしまいます。未来の五輪は国の枠にとらわれないチームや個人で出場するようになっていくべきだと思います!
・ロシアは隣の主権国家に攻め込んで領土を奪い取ろうとしている侵略者。イスラエルは隣の自治区を実効支配する「準国家組織」から攻め込まれて反撃している国。ウクライナもガザも市民が悲惨な状況にある点では共通だが,その原因は180度異なる。ウクライナ国民の犠牲はプーチンのせい。ガザ住民の犠牲はハマスのせい。イスラエルがオリンピックに参加しているのは二重基準などではない。イスラエルとパレスチナがともにオリンピックに参加しているのは,平和の祭典にふさわしい。オリンピックにはいろいろな問題があり,改善の余地があるのは事実だが,「国家同士が競い合うモデルは限界が来ている」などというのは論理の飛躍だ。
・国家間の争いはすり替え。 選手は 例えば国旗を背負って練習をしているのではなく 自己の限界に挑戦しているのであって 日の丸のために挑戦しているのではない。聴衆は 選手の努力に共感し、その歓喜の表現として国旗を振っているに 過ぎない。 正確には 日本国籍を持っている○○選手が正しく 日本国選手は間違いだ。 例えば大谷は日本を背負っているわけではなく 日本出身の選手が活躍するのが楽しいのである。自分の出来ないことを 自らの分身が活躍に共感し喜ぶのです。 常人が出来ない努力をした結果を 国家同士の・・にすり替えるのは選手に気の毒だ。 この識者とか言う御仁は選手の事を全く考えていない。 日本勢がという発言そのものが国家間争いに持ち込もうとする表現であって この識者は まずそこを否定してから論評すべきだ。 ロシア イスラエルの問題は参加資格の問題で 国家間の競い合うというのとは問題が違う。
・五輪の改善には賛成 政治色は関係なく規模縮小、既存の施設はなるべく使用する仕組み、縛り、マイナー競技の廃止、階級別を簡素化、サッカー、テニス、ゴルフの五輪より格上のプロ開催があるスポーツの廃止 本気で縮小化しようと思えば現実に出来ることは沢山ある
・人間は暇になるとロクな事がない。スポーツという参加型のエンタメとオリンピックという頂点を作る事で大勢が平和的に時間を潰す事ができる。なので必要だし、各国が協力し合う事に意味がある。
・お手々繋いでみんなでゴール。 全員がそう思うならすればいい。 全世界のスポーツ代表、人類から負託を受けた人たちが決めたならそうすればいい。今の組織は違う。 お気持ちを述べたいなら主語は自分自身でお願いします。
・逆です。もう少し深い洞察が元村有希子氏には必要でしょう。 オリンピックを平和の祭典として政治的に利用することで国家間の戦争が融和されるのです。 また、国民の帰属意識も高まるのです。日本人は日本人選手を応援するのが自然でしょう。 ロシアはドーピングで参加できないだけなので二重基準に当たらない。 そして、TBS及び膳場貴子アナの節操の無さ。 日本人の金メダル獲得を番組の冒頭で取り上げて日本人の活躍を讃える。 その一方でオリンピック批判。批判するならオリンピック中継するな。こちらの方が二重基準。 左向きは論理が破綻している。
・全く思いません。 国家間の戦いになったからこれだけオリンピックが大きなイベントになったのです。利権が生まれて弊害もないとは言えませんが。 個人参加だとチーム競技は矛盾が生じるし大きな運動会みたいになってこじんまりしてエンタメや商売としては不正解でしょう。 国家間の戦いだからこそ平和を訴えやすくなるという側面もあります。 そもそも選手には罪はないのです。選手としては国費のトレーニングセンターもあるしお金も出るしそれが嫌という選手はいないと思います。そして大人の都合でオリンピックを無くしてしまえばその選手が活躍する舞台が無くなってしまうのです。アマチュアスポーツをやる人の最高峰の舞台としてオリンピックは必要なのです。
・世界中が恒例行事に浮かれているだけ。 大会の意義はとっくに失われていて、アメリカを中心にした商業イベントに成り下がっている。 競技そのものを楽しむなら、各競技ごとの世界選手権でいい。
・/////オリンピックは色んな課題がありますけど、根本的に見直す時期に来ているのでは、と私は思っている」と語った。//////
どんな課題があるかと どう見直して、どういうメリットデメリットがあるのかまで話ししてほしい。 まあ番組内では時間がないだろうから、SNSでも使って。
あとオリンピック会場と戦場を見比べてパラレルワールド、、、、いやそんなん日本の日常生活と見比べてもそうだと思うよ
・オリンピックについて、特に今回は、悪い意味で戦争の代理という感じを受ける。
スポーツ、特にオリンピックは良い意味ではスポーツと平和という概念が付き纏うが、 戦争中のお国のために自己を犠牲にして奉じるという感じを受ける。
今回の女子体操競技に出場する予定だった宮田選手は、金メダル候補と言われるほど体操能力が高く、主将を務める予定だった。 結局、二十歳未満での飲酒喫煙が発覚し、辞退した。
しかし、それは厳し過ぎるとSNSで炎上している。 しかし、宮田選手の健康を気遣う意見は少ない。 喫煙は、ニコチン中毒があり、血管の収縮や肺機能の低下とスポーツ選手にとってはタブーになる行為です。 一方でストレス解消などあるが、戦争中に行われた配給の根拠です。
一生を棒に振るうなどのコメントには、金メダル候補者の辞退は許せないと言っている様に思える。 お国のために喫煙しても良いから出場させよという事か。
・無理矢理、戦争とオリンピックを結びつけようとするのはよくない。 中東なんて永遠に戦争や紛争をし続けるだろうし、ロシアも他の国土を脅かし続けるだろう。改めてスポーツと政治は切り離す原則を忘れてはならない
・金メダルに罪はないけど、もう昔のように手放しで喜びに浸ることが出来なくなったのは私だけか? 世界の『大人達』の思惑が透けて見えることがそう思わせるのだろうけど、それでも努力の末の喜びの涙を見ると金メダリストたちには『天晴れ!』をあげたい。
・オリンピック憲章上、オリンピックは国家間の競争の場ではない。にも関わらず、そうしたものとして機能しているのならば、それはインフォーマルなものであり、それを必要とする様々な要素に手を入れない限り、どのように制度をいじったとこれで無くなるものではない。
・オリンピックを変えたから(たとえ止めても)戦争がなくなるわけでも無いし、悲惨な状況の(戦争や飢餓)が無くなるわけでも無い。クーベルタン男爵の理想とはほど遠いオリンピックになってしまっているが、それでも世界平和を願う祭典ではあると思っている。
・創始者のクーベルタン男爵の人類愛の精神や平和の祭典の真髄が薄れてきた。 誰かが甘い汁を吸い、国家間の見栄やエゴの塊がぶつかり合う場所に成り下がってしまった。 純粋なスポーツマンシップは後退した。 聖火の灯火は本当は意味が深いと思います。 ヒットラーみたいに戦争の道具、宣伝、自分たちだけが偉いという見せつけに使われないように。 勝つことも大事だが、遠くからわざわざ訪ねてきた人類の兄弟姉妹の健闘をなぜ心の底から励ましねぎらってあげないのだろう? オリンピックは最早参加することに意義がある時代ではなくなったのか? 政治家以外が世界中から集まって生まれた喜び、共に生きていく喜びを分かち合うべきだ。 いつか、この地球から貧乏や病気や困った人がいなくなることをせつに願っています。戦争などせずに、仲間外れにもしないで、誰でも助け合うことが喜びになる世界が実現することを。
・運動会のクラス対抗で、自分の子どもが属するクラスを応援したり、町内対抗で自分が住んでいる町を応援するのは自然なこと。 それと同じように、自分が属している国を応援するのも、ごく自然ではあると思う。 ただ、他の国だって、同じ思いを持っていることを理解したり、国威発揚にスポーツを利用しようとの魂胆は見抜かなければと思う。 例えば、日の丸を背負ってなんて言い方、やめた方がいい。そこまで1人の若者に背負わせては酷過ぎる。 ある意味、所詮はスポーツの世界という、割り切りだって必要じゃないか。 逆に国威発揚路線で行くならば、戦争で殺し合うのではなく、国家間の案件をスポーツの勝負で決着を付けるところまで行ってしまった方がまだマシだ。実際には、そんなことにはならないだろうけどね。
・オリンピックの基本精神に則して、オリンピック期間戦争を中止しない国は出場禁止にすべきです。選手には厳しいが、戦争で争うので無くその為にスポーツで競うことの重要性を考える時期です。
・国同士が争い健闘をたたえ合うのがオリンピックの醍醐味なんだよ。選手は金メダルの為に4年間準備して、ある国では英雄とされ一生涯の生活を保証される。浅い知識で見直す時期とか言わないで欲しいね。膳場さんこそ、進退の時期なのでは?
・お二人の見解、妥当と思います。五輪は、商業主義が蔓延し利権絡みの闇横行でしょう。招致からしても、デタラメが横行ですね。あの馳の発言が証左。 少なくとも、『平和の祭典』などと考えている人間などいないと思います。ガザ、ウクラナイナだけでなく各地での紛争、そして飢餓、こうした世界情勢の中で国威発揚的あり方は、改められて当然と考えます。 柔道で、思わぬ判定で敗者となった選手が、母親、奥さんが応援に来てくれていたからこのままではいけないと奮闘し3位となりましたが、国や国旗云々よりも伝わる言葉でした。
・そりゃ膳場さんの様に愛国心など微塵もない様な方にはわからないだろうね。 ならあなたは見なくていいし応援などしてほしくもない。せめて選手の方がたの為に水をさす様な事はして欲しくない。 私は選手をリスペクトしてるし 日の丸を背負って頑張って欲しいけど、それよりも祭典だから目一杯楽しんで来て欲しい。
・五輪の政治利用の最たるものはナチス政権下で開催された1936年民族の祭典ベルリン五輪で、ヒトラーは新らしく強いドイツのイメージを誇示する一方、ドイツの軍国主義と反ユダヤ等の人種差別政策を隠蔽した。 そして五輪をを利用して外国人の観衆や記者に平和で寛容なドイツの印象を与えた。
その後も中国の国威発揚の北京五輪であったり、その友好的な雰囲気からは共産党一党独裁覇権主義国家の自由への弾圧などは見えて来ない。 五輪にはそのような難点もある。
ただ選手たちにとって国の代表という肩書は勝利によって得られる名誉、そのステイタスを強固にする。 日の丸を背負っていることの高揚感はあるだろう。 それが悪いとは決して思わない。
しかし一方で、個人競技では国の代表ということとは関係なく純粋に自分自身が世界の頂点に立つ歓びが大きいのも確かで、五輪の性格は個人競技では既に変わりつつあると思う。
・オリンピックは観戦する側から見ても、いろいろ競技がありすぎてゆっくりみられない。オリンピックはお祭りとして、その競技の真の実力者を決定するのは、各競技ごとに開いているW杯や世界選手権にした方がすっきりする。
・いや本当、その通りです。スポーツは国家間同士ではなく、個人の間で競われるべきもの。国や地域での出場枠を決めたり、そういうのは四半世紀遅れです。国を背負わず、みな個人で出るべきだと思います。
・戦争と絡めるとは流石はサンデーモーニングだ。オリンピックは国同士が戦うから、色々とドラマがあるのだ。ロシアとベラルーシが排除され、イスラエルは出て来ているとしてますなあ。たしかにイスラエルが出て来るのは、あれっと思ったが、イスラエルには逆らえませんわ。しかしロシアは、今回に限らず冬も排除されており、何ら問題ない。オリンピック以外にも、国家レベルで戦っているスポーツは、多々ありますで。スポーツと戦争を同列に扱うとはねえ。
・オリンピックでそれぞれで国家のアイデンティティを大事にすることで、国家の自決権の尊重、国家の多様性を認めていることになっている。 単にスポーツの祭典ではない。 色とりどりの国旗を見て、素晴らしい祭典だと感じる。 国家を大切にしない、という意見の押し付けも良くない。
・東西冷戦の時代ならいざしらず、何故、今が根本的に見直す時期なのかわからない。 見直すといっても、具体的にどう見直すのか? 国のスポンサーシップをやめるのか? ワールドカップ始め、あらゆるスポーツの国際大会も国威発揚だからすべてやめろと?
こういう興醒めの陳腐なコメントしか言えないコメンテーターこそ、TBSに出演させるのを根本的に見直す時期だと思いますが。
・国家を代表して出てるから応援するのであり、個人で競いあうなら、知らない人を応援することはない。第一競技そのものも見ないと思う。純粋にアスリートだけの大会にすれば、お金もかからないものになるかもしれない。
・「国家同士が競い合うモデルは限界」か。 それはオリンピックにとどまらないよ。政治、経済全部そう。
国があるから戦争があるという人もいる。 50年も前に、ジョン・レノンは「イマジン」で「もし国がなかったら」と歌った。
でも、国はなくならない。戦争もなくならない。
頭の良いジャーナリストが「そのモデルは限界」と言ったところで、戦火に焼かれる子ども一人、救うことはできない。
そのむなしさを身にしみて感じた人は、そんなとこでくっちゃべってないで行動を起こしている。
・せめてスポーツの世界では政治や権力争いではなく公平にお互いにリスペクトを持ってほしいと思います。国家が競うというが、それなら出場者の選別はどうするのか?ただ自分の主張の為にスポーツを利用しているように自分の目には映りました。
・まあそこらへんを、上手い事やって答えを示すのが日本の役割、だと思うよ。 スポーツ応援に関しては、日本は最先端、と思って良い。
小中学校の運動会・体育祭から高校の野球応援まで、日本はスポーツ応援とはを学ぶからな。
例えば、軍隊で「応援」と言えば、敵をやっつける助太刀だが、スポーツの「応援」ってのはそれとは違う、って日本人はフツウに思うじゃん。 敵をやっつける手助けをするものではなく、味方を「応援」するもの、と。
世界はそこから、だから。
だから、日本におけるオリンピック応援も、国威発揚とかナショナリズムとかって負の側面も乗り越えられる、と思うのよね。 国威とか国とかって話を置いといて、自分と同国の「選手を応援するもの」と。
敵という概念がない、のかもしれない。いい意味で味方原理主義。味方を応援する。
そこから文化発信の在り方ってのも繋がって行くと思う。 欧米の考え方は正しくない。
・情報化故に多くの人が世界中の状況をより正しく認識出来るようになってはきているので、その悲惨な現実とのギャップが生じるオリンピックに違和感を覚えるのは理解は出来るが、問題点は「国家同士が競い合う」というモデルではなく、オリンピックに関わる組織の方なのでは?
情報化の現在だと、過去において反対派などの声を封じ込め、開催の為に一部弱者の土地や資産を搾取し、あまつさえ人命までもが蔑ろにされていた事が周知されつつあるし、調べれば容易に出てくる状況にある。
にも関わらず手放しで称賛を送れるのは、テレビ依存症などの一部人間だけだろう。 恐らく、多くの不祥事を起こしているテレビを見続けている層と、オリンピックを盲目的に称賛出来る層は重なっているように思う。
そういった既存のエンタメへの盲目さや美化から目が覚めて、オリンピックに代わる新しい舞台を作れるのなら、社会が一歩前進した証のように思えるが。
・まぁ、参加できる国とできない国があるっていうことは物事の本質ではなく、アスリートが皆全力でプレイできるような環境をそれぞれの国が整えるという意識を持つことは重要なことであるのだろうとは思う しいていうロシアはその意識がまったくない その差ではないかと思う
・オリンピックは、もういいかなと思いますね。競い合う、そのことを否定する気はないが、莫大な資金遣い、何の意味があるのか?世界の平和的な意味合いはない上に、世界大会だらけのスポーツが、年がら年中実施されてどの国が強いとか、無意味。娯楽の一つでしかない。
・ガザの住民から見たら平和な日本で過ごしている元村有希子氏の日常も別世界のパラレルワールドみたいなもんだよ この世からオリンピックが無くなったとしても、更に言えば煌びやかな物が無くなったとしても、それでガザが救われるものでもあるまいし オリンピックの有り様を問うのは悪い事ではないけれど、ガザの惨状をオリンピック批判の為のネタとして利用するのはガザの住民にもアスリートに対しても無礼だよ
・どんなイベントでもなんらかの課題はある。国を代表して競い合い、勝者を祝い敗者の健闘をたたえる。国境を越えたアスリートのスポーツマンシップに人は感動するのです。それ以上でもなければそれ以下でもない。
・スポーツの祭典と戦争を同じテーブルに置くのはどうなんだろう。 この話しが通用するなら、毎日何処かの地域で戦争や紛争が起きているからオリンピックは常に開催出来ないって事になると思うけど。 紛争が起きている地域はウクライナやイスラエルだけじゃ無いし。
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