( 197114 ) 2024/08/01 15:32:01 0 00 Photo by Satoshi Tomokiyo
千代田区・大手町のオフィス街に祀られている「将門塚」をご存じだろうか。その昔、討ち取られた平将門の首が平安京から飛んできて、この地に落下したのが始まりという、都内の有名なオカルトスポットである。こんな酷暑の時期だからこそ、改めて将門塚にまつわるエピソードと真実を振り返り、ゾクリと涼んでいただきたい。(フリーライター 友清 哲)
都心の真ん中に佇む「平将門の首塚」
● 空を飛んで故郷へ帰った 将門の“首”
千代田区・大手町のオフィス街のど真ん中に祀られている「将門塚」。これは平安時代中期の豪族、平将門の首を祀ったもので、別名「首塚」とも呼ばれている。
将門といえば、時の朝廷・朱雀天皇に対抗して「新皇」を名乗ったことから、朝敵として名を馳せた人物である。しかし即位から間もなく、藤原秀郷らに討ち取られてしまったことはよく知られている史実だ。
問題はその後である。伝承によれば、平安京で討ち取られた将門の首は、強烈な無念の思いから空を飛んで江戸に戻り、現在の千代田区内に落ちたという。その日、周辺は昼間でありながら闇に包まれ、大地は鳴動したとされ、恐れ慄いた村人たちは将門の怨念を鎮めるために、首を落下地点に埋葬して塚を建てた。これが将門塚の起源である。
現在、高層ビルが林立する一等地でありながら、ぽっかりと穴があくように佇む将門塚。周囲の地価を考えれば、その風景はいかにも不自然に思える。
調べてみると案の定、将門塚には撤去できない“事情”が存在していた。
● 将門の怨霊が引き起こした “祟り”とは?
塚を建てたことで将門の御霊は、一度は怒りを鎮めたかに思われたが、そうではなかった。周辺地域では何年もの間、水害や水難の類いが頻発し、人々はそれを将門の祟りと捉えて恐れ、震え上がった。
そこで時の僧侶が板石塔婆を建てて、あらためて供養したのが徳治2(1307)年のこと。この際、近隣の神田明神に将門の霊を祀ったことで、ようやく怨念は鎮まったという。
ところが大正時代、1923年の関東大震災で塚が倒壊したのを機に、再び将門の怨霊は猛威をふるい始める。具体的には、この地で不自然な事故や災害が相次いだのだ。
例えば、将門塚の跡地に旧大蔵省が庁舎を建てようとしたところ、工事関係者や省の職員に不幸が相次いだのは有名な話である。そればかりか、できあがった庁舎を雷が直撃したり、時の大臣が急死したりと、不審な事故が立て続く。
さらに戦後に入ってからも、焼け野原となっていたこの地にGHQが駐車場を造成しようと工事を始めたところ、重機が横転する死亡事故が発生。こうした災いは枚挙にいとまがなく、気がつけば将門は、崇徳上皇と菅原道真と共に「日本三大怨霊」に数えられることとなる。
こうした一連の奇妙な事故について、単なる都市伝説と疑う向きも多いだろう。実際、筆者も怪談の類いと高をくくっていた。
しかし、いざ現地を訪ねてみれば、将門塚が祀られた一帯は、日本の経済成長に伴って目覚ましい開発が進められてきたエリアであることがひと目でわかる。これほど地下が高騰した現代において、いまなお将門塚がそのスペースを維持し、静かに鎮座している光景をどう説明するべきか――?
● GHQを真剣に悩ませた ブルドーザーの横転事故
筆者は以前、将門塚保存会の運営者である神田神社の関係者に、将門塚について直撃したことがある。神職の立場からすれば、祟りだ何だとメディアに騒ぎ立てられるのはさぞ不本意だろうと思いきや、返ってきたのはあまりにも意外な言葉だった。
「かつてこの場所に大蔵省の庁舎が置かれた際、大臣が病死したり、庁舎が落雷を受けて燃えてしまったりしたことは、当時の新聞にも載っている事実です。また、GHQが工事を進めようとした際にブルドーザーの横転事故が起きたというのも、やはり事実であると聞いています」
なんと、祟りとされる一連のトラブルは、どれも事実だったのである。とりわけ後者については何度も事故が続き、困り果てたGHQ関係者から当時の神田神社の氏子総代に「どうすればいいか」と深刻な相談があったという。結果的にGHQがこの地の工事から手を引いたのは、“目に見えない何か”に屈したように受け取れる。
朝敵として語られがちな将門は、歴史の物語においてどうしてもヒール(悪役)として扱われることが多い。そのイメージが今日、怨霊の伝説に拍車をかけているのは否めないだろう。しかし、先の神田神社関係者はこうも言う。
「平将門は非常に勇壮で大きな力を持った人物で、関東ではむしろ英雄視されています。噂というのはどうしても面白おかしく拡散されるものですから、こうして怨霊のように扱われてしまうのも致し方がないでしょう。でも、そもそも祟りというのは悪いことをした人に起こるもの。そうでない人にとっては、何も恐れる必要はないはずですよ」
たしかに歴史を詳しくひも解いてみれば、政権を握る藤原氏が京都で権力をふるっていた頃、人々は悪政に悩まされ、衣食に困窮していたとも伝えられる。見方を変えれば、将門には大きな期待が寄せられていたのかもしれない。
また、討たれた後もこうして祀られ、これだけ長きにわたって存在感を発揮し続けている事実から、「それだけ強い力を持った神様であるとも言えます」(先の神田神社関係者)という解釈も成り立つだろう。
● 1000年の時を越えても 失われない将門のパワー
将門塚を含む現地周辺のブロックは、ここ数年の間にも再開発工事が行われているが、開発計画のエリアから見事に将門塚だけがはずされている。
そればかりか、塚の三方を囲む高層ビル内では、嘘か真か、将門公にお尻を向けないよう、塚がある方向に向けて机を並べているとも聞く。1000年以上の時を経てもこれほどの影響力を発揮しているのは、たしかに将門の強力なパワーの賜物というほかないだろう。
何より将門は、首1つになっても「帰りたい」と強く念じ、ついには空を飛んでいったほど、故郷を大切に思っていた人物だ。祟り神と見るか、それともこの土地を大切に守るために帰ってきた存在と見るかは、受け手の心持ち次第なのかもしれない。
そう視点を切り替えてみると、常に手入れの行き届いた将門塚は、コンクリートジャングルの中の一服の清涼地と思える長閑なスポットで、心安らぐ雰囲気すらある。
将門の「帰りたい」という強い想いになぞらえて、塚には蛙の置物がいくつか奉納されている。最近では、行方の知れない家族の安否を懸念する人や、不本意な転勤を命じられた会社員がお参りに来ることも多いという。
将門塚は単なるオカルトスポットではない。むしろ、関東随一のパワースポットとして鎮座する、偉大なる旧跡なのだ。
友清 哲
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