( 197501 ) 2024/08/02 15:24:25 2 00 14歳で失った左足は「生き証人」 名古屋空襲生き抜いた93歳の願い毎日新聞 8/2(金) 8:15 配信 https://news.yahoo.co.jp/articles/4914637315a1d883f6781f258b272acdc7622476 |
( 197504 ) 2024/08/02 15:24:25 0 00 79年前の名古屋空襲で左足を失った牛田鏡子さん。いまは義足が牛田さんを支えている=名古屋市中村区で2024年6月25日午後2時47分、川瀬慎一朗撮影
あの日の痛みは今も鮮明に覚えている。14歳で左足を失ってから、79年が過ぎた。口には出さないが、不自由や苦労も多かった。でも、今やその傷は大切な存在だ。恐ろしい戦争の「生き証人」だから--。
【写真まとめ】広島原爆写真1532枚 「世界の記憶」に
名古屋市中村区の牛田鏡子さん(93)は1945年3月、深夜に空襲警報を聞き、両親やきょうだいと逃げ惑う中で焼夷(しょうい)弾の破片が刺さり、左足を失った。あの日の出来事を、忘れることはない。
◇左足に走った激痛
45年3月18日。家族とともに中区にあった「白川国民学校」近くの寺に身を寄せていた。自宅は数日前にあった空襲で全焼。寺は他にも自宅を失った多くの人々であふれかえっていた。翌19日には国民学校高等科の卒業式を控えていた。
深夜、眠っていると急に空襲警報が鳴り響いた。「早く防空壕(ごう)を探して避難するんだ」。父親が血相を変えて叫んだ。焼け残った寺は目立ち、標的になる恐れがあった。防空頭巾をかぶり、両親と3人の弟と妹と寺を飛び出した。
牛田さんは5歳の弟を背負い、暗闇の中をさまよった。「ゴー」「ヒュルヒュル~」「バーン」。花火のような音が鳴り響いたかと思うと、突然ドンと地響きのような衝撃があり、とっさに身をかがめた。
その瞬間、左足に激痛が走った。寺に落ちたとみられる焼夷弾の破片が、左足の甲に刺さった。足は今にもちぎれそうだった。「痛い、痛い」と大声で泣き叫び、母親が落ちていた木を使って足を固定し、三角巾で必死に止血してくれた。
◇14歳で左足失う
長い夜が明けると、トタン板に載せられて近くの救護所へ向かった。しかし、どの救護所も多くのけが人でごった返し、運ばれてきた死人であふれていた。鎮痛剤を打ってもらうことしかできず、名古屋城近くの陸軍病院に移動してようやく手術を受けることができた。
しかし、けがをしてから時間がたちすぎたせいで、患部は壊死(えし)しており、太ももから切断せざるを得なくなった。突然の切断宣告は、14歳の少女にとって大きなショックだった。
でも、牛田さんは「身内が一緒にいて、命が助かっただけでもよかった」と振り返る。陸軍病院では、隣で寝ていた女性患者がいつの間にか息を引き取っていた。寺への空襲で友人も亡くなった。
手術後に移った市民病院を5月に退院し、その後は祖父江町(現稲沢市)の善光寺に疎開し、終戦を迎えた。「もう夜、真っ暗にしなくてもいいんだ」と純粋に喜んだという。
◇進みつつある民間被害者の救済
名古屋市内では42年4月~45年7月までに計63回の空襲があり、約8000人が犠牲となった。
国は軍人軍属には恩給、その遺族には年金を支給しているが、民間の空襲被害者への救済措置はない。牛田さんも「長年、そういうものだと思ってきた」。
名古屋市は2010年度から、空襲で重度の障害を負った民間被害者への独自の見舞金制度を始めた。現在、1人につき年間10万円を支給している。市によると、10年度の受給者は95人だったが、23年度は33人まで減少。多くの被害者が亡くなっており、平均年齢も78・9歳から86・8歳に上昇した。
国でも救済に向けた議論が進んでいる。超党派の国会議員連盟(空襲議連)が早期の立法化を目指しており、今年6月には河村たかし市長が市の取り組みを議連に初めて説明した。牛田さんは「法律ができれば、民間人の空襲被害を忘れないことにつながるのではないか」と期待する。
◇若者の声で生まれた「なごや平和の日」
名古屋市は今年、太平洋戦争中にあった名古屋空襲で多くの市民が犠牲となった日にちなみ、5月14日を「なごや平和の日」に制定した。制定のきっかけとなったのは、高校生らの請願がきっかけだった。
同日開かれた祈念式典に、牛田さんも参加。「若い人が一生懸命に動いて制定されてよかった」と喜ぶ一方で、焦りも募らせる。若者に戦争で足を失ったと話しても、「いつの戦争?」ときょとんとされるという。
終戦から来年で80年。戦争の実態を知る人はごくわずかになった。牛田さんは「私の傷は戦争の生き証人。若い人には今の幸せに感謝し、戦争があったことを忘れないでいてほしい」と願っている。【川瀬慎一朗】
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( 197505 ) 2024/08/02 15:24:25 0 00 ・戦争を体験した祖父母はずいぶん前に亡くなった。従軍していた祖父は具体的なことを語りがたることもなく、それでも当時の辛さに想いを馳せるようなことをポツリポツリと言っていたことくらいしか私は知らない。 戦後に生まれた父母ですらすでに亡い。 子供の頃は8月15日が近付くとテレビは戦争特集号だらけだったけど今はそれもない。 アラフォーの私ですらこれなんだから、今の若い世代には教科書の中の出来事、歴史の一つでしかないのかも。 それはとても怖いことだけど忘れないって難しい事なんだなと、記憶や歴史の狭間に埋もれていく出来事の数々を見ていると感じる。
・40代です。子供の頃は戦後50年になるとか言いながら戦争を忘れるなみたいなことをよく聞いたものだけど、もう戦後80年になろうとしてる。どんどん遠い昔の出来事になっていくわけだけど、14歳で大空襲を経験した方がまだ93歳。戦争はまだまだ最近のことなんだよなと感じる。
・私が小学生の頃(昭和40年代)は繁華街に行くと片足、片腕を失った人と普通にすれ違っていました。 いつの頃から街中ですれ違うことはなくなりました。 考えて見れば戦後25年くらいなら戦争に行っていた兵隊さんたちは現役バリバリの年齢ですよね。 既に街は完全に復興していたから私は戦後なんて思っていませんでしたが、当事者にとってはずっと戦争を引きずっていたんですよね。 出来るだけ記録には残していただきたいです。
・祖父は20年ほど前に亡くなったが、戦中は体が弱く兵役検査に通らず、軍靴を作る仕事をしていた。 近所では非国民だと罵られ、随分辛い思いをしたそうだが、空襲の時には数少ない男手として避難誘導などを率先し、そこで祖母と出会ったそうだ。
もしかしたら記事のような怪我をした人を運んだかも知れないし、必死に消火をしていたかも知れない。祖母がそこで助けられた事で恋に発展したのかも知れない。 祖父は兵役に通らなかった事を生涯悔いていたが、こういう記事を見ると、やはり立派な事をしていたんだと思う。
・空襲で足を失う重症を負っても国からの救済措置は何も無し。本当に理不尽だと思います。戦後八十年を機に地元の空襲をテーマにした物語を執筆しているのですが、当時の体験談を読んだり、空襲体験を聞きに市のイベントに行ったりすると平和の尊さが身に染みます。もう二度と戦争で苦しむことが無いように、戦争を知らない私たちが記憶を繋いで行かなければならない。強くそう思います。
・多くの日本人が「戦争はしたくない」と思っていても、隣国が同じ気持ちではない可能性もあります。相手国から攻撃されて、ある日突然一方的に始まる戦争もあるので、「とにかく戦争はダメ」「平和が一番」で話が終わるのではなく、もっと日本国内でタブーとされている部分まで深く議論する事が必要だと思います。
明日中国やロシアなどの核保有国が攻めてきたらどう戦うのか、事前に十分議論し備える事が、結果的に戦争をしないで済む未来につながるのではないかと思います。
・若くして片足を失い 人生が大きく変わってしまったでしょう。 天は酷い試練を与えたものです。 日本は引き続き戦争を起こさないように、政治力を発揮するとともに戦争を起こさせないように国力を高め国際的に通用する備えを万全にしてほしい。
・戦前生まれの親をもつ子世代だが、親は疎開を経験し、心身ともにかなり辛い思いをしたらしい。 本当に辛い時、人は黙する。 年老いても、親は戦争時の苦痛をあまり語らなかった。
只、子供が、お腹を空かせているのは耐えられなかったようだし、子供の虐待や自殺のニュースは嫌っていた。
親の家は代々東京在住だが、東京での戦争体験は語られることがほぼ無い。 東京も空襲があり、多くの家が焼けた。 当時は支援や復興意識など無いから、家族と協力し、自力で生き抜くしかなかったらしい。
戦争を知らない世代がその経験談から学ぶことは貴重だが、語ること自体も、本人にとっては相当な負担であることも忘れてはならないと思う。
・私がこどもだった昭和の終わり頃は 夏休みの8/6は登校日で戦争に関する 話を聞いたり、映画鑑賞があったけれども 今の令和のこどもたちは 戦争といってもなんのこと?ウクライナ? という感じで、遠い世界の話だと思うだろう。
祖父母にしても戦後生まれだから 意図的に戦争の話に触れて 戦争はこわいもの、やってはいけないもの とこどもたちには認識してもらいたい。
・祖母は沖縄戦の経験者でした。砂浜でB29の銃撃を受けて走って逃げたそうです。
石垣島気象台の壁にはほんの十数年前まで弾丸の跡がありましたが、壁の老朽化なのかいつの間にか新しくされてしまいました。 戦争の跡がもう見られないのかと、なんだか寂しいような残念な気持ちになったのを覚えています。こうやって何もかも新しくなって、戦争の記憶が薄れていくのかな...と。
沖縄戦の映画「ひめゆりの塔」では兵士が麻酔無しで足を切断手術している映像が衝撃的でした。 いつか日本が戦争になったら、子ども達や孫達が同じように麻酔無しで手足を切断するかもしれない。恐ろしいことです。
日本はノーウォーを貫いてください。
・広島県の出身ですが昭和の40年代ころは まだ 戦争や原爆の体験がある先生がいて ことあるごとに 悲惨な体験を 涙しながら 聞かせてくれました。子供だったので あまりピンとこず 他人事でしたが、大人になってからは 大変さがわかる気持ちになれました。 いま わからないから話さない ではなく 生きている人から聞くのは 大事だと思います。.
・戦争は一般市民も巻き込まれる悲惨なものと、頭では分かっている。でも、経験したことない人からすればどこか他人事と言うか、実感が湧かないことがある。 戦争を実体験した人の具体的な話を聞くのが、生々しくて戦争の悲惨さを一番実感できる。
・かつてはお盆前後はたくさんの戦争に関する番組が放送されていた。 夏休みの宿題には、「おうちや、近所のお年寄りに戦争中のことを聞きましょう」といった宿題が夏休み帳に載っていた。 非戦闘員として国内で戦時中を生きた人はもちろん、戦地で戦った人も大勢いた時代(ついでに、よく知らない近所の老人にインタビューすることや個人情報などに躊躇のなかった時代)、戦時中のことを聞くことは容易だったからこその宿題。
今では明治生まれの方は女性のみとなり、大正生まれの方もたくさんはいらっしゃらないだろう。 戦争を知る人が少なくなるということは、新たに戦争が起きていないことなので喜ばしいけど、戦争がもたらす悲劇に対する関心が薄れてしまう恐れもある。 戦争体験は辛い記憶で、今でも口にしたくない方もいるだろう。 戦争体験を語ることのできる方々がご健在のうちに、話してくださった内容を記録して伝えていく必要があると思う。
・年間10万円か…。 義足の維持も大変でしょうね。
それにしても義足で93歳までお元気に生活出来るのも驚きであり、すごいことだなと思いました。
お母様の応急処置も、今それができる人がどのくらいいるだろうかと考えてしまいました。
戦争は風化させてはいけない歴史の1つだと思うし、なぜそれが始まったのかどのように終わったのか、被害はどのくらいであったかなど語り継がなければならないですよね。
日本はあまり歴史を捏造したり改ざんするようなことは無いと信じていますが、加害も被害も伝えていって欲しいです。
・私の祖父は満州で隊の上層部の人だとききました。 祖母は東京での空襲で両親・5人の兄、妹、弟とはぐれ生前では、その後会えませんでした。 祖母は空襲で空からキラキラ光っていて花火みたいで綺麗と思い、そちらに引き寄せられ川に向かわず違う方向に向かったそうです。 川付近爆弾が落ち川付近にいたらと後々考え恐怖が拭えなかったと聞いたことがあります。 祖母亡き後に祖母の兄の息子さん夫婦と偶然会うことが出来ました。 それも名前が同じということで話していたら兄弟の名前が同じ・故郷が同じことが分かり祖母の両親の名前を伝えると一致時しました。 あと12年早く会えたらと両家族ではなしてましたが空襲や核兵器など本当に無くしてほしいです。 今後繰り返さないで欲しいし、体験者も少なくなり語部が減ると忘れられてしまうような気がしています
・小学生の頃は担任の先生も普通に戦争経験世代で、しょっちゅう授業をつぶして戦争体験を話してくれた。
戦争によって儲かったり権力を思いのままにできる人間がいる以上、哀しいかな戦争自体が完全になくなることはない。
でも、勃発までの時間を引き延ばすことは人間の叡智で可能になると思う。 起こさないようにするという空気だけは保たないと。
・僕のお父さんは60代ですが戦争で足が無くなった人がお捻りを貰う 集団を子どもの頃に見てたと言ってました、祖父も祖母も戦前世代ですが それでも戦争が起きた頃は小さい子供で今は戦後の世代の祖父や祖母が 存在して、これからそういう世代に育てられた人達が時代を作っていくと 実感してます。
・自分は40後半だが、小さい頃は手や足がない人を今よりも多く見た気がするよ。 戦争は起こしてはいけないものだが、戦争を起こすのは悪い政治家というよりは、よりよいものをより安くとか便利にとか、生活を守る、子どもを守るとかいう人間の欲望からくるものだから、普段の生活者が自覚をしてきをつけないといけないね。 戦争反対って言ってるだけで、土産を相手に渡すだけなら奪われて終わるだけで、それでいいのならばその意味では平和になるけどね。
・戦争したら損害の保証とか生存権とか言っとる場合ではなくなる。 電気、水道、ガス、ネットも止まり生活に必要なものは配給か闇ルート。 特に昔に比べ自給率の落ちた今の日本では確実に餓死者が出るだろう。 猛暑とはいえど、クーラーで快適に過ごせるのが今がいかにすごいことか 戦争が起こらないことを願いつつ平和に感謝してビールを飲むのであります。
・40代です。小学生か中学生の頃、学校の宿題で、戦争の事を聞いたら、祖父は軍での武勇伝しか語らず、祖母は「そんな昔の事は忘れた」と言ってました。なので、祖父の武勇伝を書いて提出したら大きくバツ点を付けられました。祖母がぽつりぽつりと本当の事を話し始めたのは、90代で亡くなる数年前でした。 働いていた軍事工場がB29に攻撃され、小さな防空壕に逃げれたけれど、最後まで逃げ遅れた工員はいないか見回っていた工場長が爆弾によって、目の前で吹き飛ばされ亡くなった事、先に祖父に嫁いでいた姉が病気が悪化して、子供を産まずに亡くなった為、代わりに子孫を残す為だけに、祖父に嫁いだ事、戦時中は子孫を残そうと必死だった事、色々とぽつりぽつりと話してくれました。祖父が亡くなった後、祖母は祖父が大事にしていた満州国開国記念の皿を「こんなもの!」と言いながら、全て割っていて狂気さえ感じました。
・日本の戦後補償や恩給は軍人、軍属に限られ、(後から被爆等にも救済措置が適用になったが)、80万人とも言われる空襲犠牲者等には適用されなかった。 これは、敗戦国でもドイツ、イタリアが総力戦と言う観点から民間人も補償の対象としたのと比べ大きな差がある。また2021年夏のクロ現では「日本政府は補償は、調査とセットのため、民間の実際の戦争被害がどの位あったかを敢えて調査していない」と驚くべきことを言っていた。なお今も軍人やその遺族等への戦後補償と恩給は年間数千億円(2018年度5千億円)も支出されそれは、遺族も今なお受け取れるなど優遇されたままであることは知っておいて良い。
・還暦過ぎの世代ですが子供頃親や祖母から 戦争の話しを聞いたり、裸足のゲンのマンガ や戦争を題材にしたドラマも有りました 大人に成って思うのが自分が産まれた時は 戦後20年位で裕福では無かったですが 当時の大人達は物も無い時代凄いと 思います 戦後親や親戚も居ない孤児達も沢山亡くなられ て居ます 自分達が出来る事は子や孫の世代に ソレを伝える事が大切だと思います
・私の父は陸軍航空学校を出て、少しだけ飛行機に乗っていました。朝鮮半島だったので生きて帰りました。その話よりも母の熱田の空襲の話の方が余程すごかった。学徒動員された学生さんたちは防空壕には入れてもらえなかったそうです。それでも生き残り死体整理をしたと話してました。その母は96歳になり、記憶もどんどん無くしています。戦争の生き証人がいるうちに後世に伝承し残したいです。昔は、夏になるとテレビからは戦争に因んだドラマや漫画が流れていました。今は全くありません。オリンピックよりもこちらに力を入れて欲しい。どこかの国のように曲げた過去を伝えてはいけないけれど、本当の話を伝えるべきだと思います。
・「若い人には今の幸せに感謝し、戦争があったことを忘れないでいてほしい」と願っている。
これは日本の歴史全ての国史にも通ずる言葉ですよね。日本は皇紀2684年続く歴史有る国。昭和時代に起きた史実だけが全てでは無い。 そうやって数百年経てば、歴史になって行くのが世の常。
只々、今あるこの国に感謝だし御先祖様達が築き上げて来たこの日本の土台に、今自分達か生きている事を知り未来をどう思い描き創り上げて行くのか。 これが今の時代を生きる国民としての責任と義務に有るのだと思う。
・以前は、終戦記念日あたりになると、 「火垂るの墓」「対馬丸」「はだしのゲン」とかのアニメを、テレビとかで見る機会が結構ありました。 また第二次世界大戦の記録映像なんかもよくテレビで放映していましたが、今はそういうのが殆ど見られなくなりましたね。 「残酷なシーンだから」「かわいそうで見ていられないから」そんな理由もあるのでしようが、 そもそも戦争ってそういうものでしょ?ということを多くの人に認識してもらうためにも、 積極的にテレビが発信しても良いのでは…と思います。 空襲被害を受けた方がご存命なくらいなんだから、日本が戦争していたのはそんな言うほど昔話でもないんですよね…
・左足が生き証人という文字で、アウシュビッツに収容されていたユダヤ人の方が、腕に彫られた番号のタトゥーがアウシュビッツがあった証だと言っていたことを思い出しました。 私の祖父も戦争で左肘に怪我を負い、死ぬまで曲がったままでした。子供ながら『なんでおじいちゃんの腕あんな形なんだろう…』と思ってましたが、すぐ病院にも行けない、すぐに治療も受けれないという戦争下の環境って辛いしかないなと感じました。
・「空襲」で身内から聞いた話。 はしかでぐったりした下の弟を背負って 腰にわずかな米を巻きつけて、 上の弟の手を引いて、 小学校3年生で逃げ惑った。 弟の靴(?下駄?)に火が着いて、 「脱げ!」と叫んだ。 空は真っ赤に燃えていた。 母親の方は自宅に残り、燃える自宅を懸命に、井戸の水を汲んで来ては掛け、汲んで来ては掛け。でなんとか鎮火。
わたしは子どもの頃にそんな経験はしたことがないから、そんな話を聞かされても実感がわかなかった。 けれど、やっと恐怖を想像ができる様になった。 今は理解できなくても、語り継ぐことは大事かも。
・戦争を体験した世代の高齢化が進み、その悲惨さや実態を直接聞く機会が少なくなってきています。
国は、これまで民間人の実態解明を行わず、犠牲者の名前や人数は未だに正確に把握できてはいません。その状況の中で、民間被害者への補償についても行われていないのが現状です。
ある識者の方によると、国が民間人への補償を阻む壁として、「受忍論」があると仰っています。「戦争中に犠牲者が出るのはやむを得まい」という考えが根強く存在する事を指摘されています。
また、救済の対象が、空襲被害者のみならず、アジアの民間人まで補償の対象が及ぶ事に対する懸念もあったようです。
ドイツやイタリアでは、軍人と民間人に対して区別せず、補償する考えになっています。そこには、「国家の戦争責任」が明確に確率されている事が日本との違いだと考えられます。
戦争責任に関する議論や実態解明が、強く求められていると思います。
・いちいち言われなくても、戦争が良くないことはほぼ全ての日本国民が分かっていると思います。 でも戦争や軍事的な衝突は世界各地で現在進行中ですね。 我が国の近くでは、中国や北朝鮮も核とミサイルをちらつかせながら、侵略戦争を起こそうとしています。 その流れを止める現実的な方法があれば、具体的に教えてほしい。 精神論を語るのは簡単だが、ほとんど無意味だと思います。
・日本人は「戦争」という言葉を使った時点で思考停止になり、「戦争反対」「戦争反対」という議論しか出来なくなる。自国を守り切れないと同様のことが起きます。今こそ、軍備増強、核保有で防衛力を確保するべき。日本の様な防衛線が南北に伸び切っている国で、一体どうやって国を守るのかの議論が必要。「戦争」ではなく「国防」という考えが出来ないと、侵略されっぱなしになる。結果、竹島や尖閣の様に領土を守れず、かえって危険な状況になっている。自国の領土を守れない国家は国民も守れません。拉致被害者を取り戻せない状況と、国土を守れないのは根幹は一緒。
・私は今40歳。
子供の頃は火垂るの墓を見て、洞穴に一回泊まってみたいとか、戦争映画を見ても銃を打つ真似や、打たれて死ぬ真似して遊んでいたが、
子を2人持つようになり、戦争映画見たりこのような記事を読み、より怖いと思うようになった。
火垂るの墓のように我が子があぁなってしまったらと思うと泣けてくるし、
我が子を戦争に取られ、どこでどう死んだかもわからないまま、手紙一つでお宅のお子さん立派な最後でしただけで、相当な辛さや怒りがあったことに違いない。 またその怒りをぶつける相手もいないんだから。
この世代の人達の苦しみはいつまでも浄化できないし、辛いだけでは表せないですよね。
・今年82歳になる父も幼いながらも米軍機の機銃掃射の記憶が微かにあるって言ってたよ。歳の離れた兄さんが結核で亡くなって、その葬列を狙ってきたらしい…大阪の南河内の田舎道だったらしいけどね。大規模爆撃から少数の機銃掃射まで79年前の日本は何処でも空襲の恐怖に脅かされていた。
・空襲被害者への補償が無い事に以前より怒りがあった。 家屋を失い親族を失い何ら国家の支援制度がないまま未だ放置とは言語道断である。 戦後直後ならば等しく我慢であったろうが 真先に補償支援制度の法整備が何故に出来なかったのか。国防もできず終戦の決断もあやふやの中たくさんの都市が無差爆撃の空襲被害にあった。 国家責任であり今からでも補償支援を優先すべきことである。
・京都在住です(出身は別)。 この地で直接体験した方にお話しを聴いた経験はありません。 そして京都は、一面焼け野原となった名古屋とは違い、 空襲のイメージがあまりありません。 しかし、今住んでいる地域には、いくつも「ここで空襲がありました」という掲示があり、京都とて無縁の話ではないということが分かります。
そして、日本本土ではなく、特に満州やその周辺に住んでいた一般人は、 いわゆる「引き揚げ」のときに命からがら本土に帰えられた人だけでなく、 途中でソ連兵等に命を奪われた方達も少なくありません。 あるいは、シベリア抑留で多くの人が命を落とされました。
本土以外に外地でも多くの不幸、ご苦労があった訳です。 それを考えるとメディアに取り上げられる戦争に関する情報は偏りがあると感じます。
今は、ネットがあるので、オールドメディアには期待せず、 ネットでの補完がすすむとよいと思います。
・戦争を直接体験した人にお話を聞ける世代もそろそろ終わって、歴史上の出来事としてとらえられていきますね。 こういう生の声はやっぱり心に響く。平和がどれだけ大切なことか、今一度心に焼き付けたいと思います。
・私のおじいちゃんも片腕がなかった。 戦争に行き片腕失って帰ってきたらしい。 おじいちゃんからは戦争の話を聞いたことがなかった。
おじいちゃんもう亡くなってしまったけれども、この方も思い出したくもない記憶と忘れないで欲しいと思う思いと両方の思いがあるんだろうな。
・以前は夏休みになると、火垂るの墓だったりはだしのゲンだったりがテレビで流れるのが当たり前だったのですが、 現実をマイルドにして、しかし子供の心に何かしこりを残し続けるそれらすらテレビで流すと苦情が来る世の中になってしまいました。
”若者に戦争で足を失ったと話しても、「いつの戦争?」ときょとんとされるという。” 人によっては学校の歴史の授業でしか出会わないものとなってしまったのですね。 ベストなのは世界中から戦争が無くなって、戦争に関することを受け継ぐこともなく誰もが戦争を忘れさった世界になることなのでしょうが、 人間という生命体がいつになったらこの領域に辿り着けるのか、なかなか難しいですね。 やはりまずは、戦争の悲惨さを引き継いで、自分達は絶対戦争なんてしないと皆が強く思うことがベストな道への第一歩なのだと思います。
・戦中派の父(昭和4年生まれ)から事あるごとに空襲や戦争の話を聞いてきたので、ある程度は自分の子どもたちにも受け継げていると思います。しかし、本当に従軍経験のある人は話したくないのも理解できます。
・またこの時期が来ましたね。 戦争は悪。日本は悪いことをした。 あっているようであっていない。 そもそもあの大戦の話をするなら全部してほしいと思います。 北方で何が起きたのか。旧ソ連に何をされたのか。これは戦後を含めて。 そしてアメリカによる民間人を狙った組織的殺戮の数々。 日本が悪い部分もあったとは思いますが、全否定するほど悪いのか。 判断するのは個人ですよ。 メディアの自虐史観埋め込み活動に巻き込まれないように気をつけましょう。
・戦後生まれだから 日本がどんな状況下にあったのかは知りませんが? 今現在でも多くの方達が 戦争後も苦しんでいる その方々が日本を守ってくれたから 今の現役世代の日本国民の方々が 生きていられる。 現役世代の我々も 戦争犠牲者の方々の供養を忘れる事無く 次世代の方々に引き継いでいく義務があるって思ってます。 ソ連とウクライナの戦争も イスラエルの戦争も 一日も早く終戦になる事願うしかない
・平和呆けした私達には想像もできない体験、辛い思いをされてきたことと思います、よくここまで頑張って生きてきてくださいました。まだまだお元気で長生きして語り継いでいただきたいと思います。
・子供の事、教科書や先生の話から空襲は数回だったと勝手に思い込んでいたが、少なくとも空襲は日本全国で400回以上だったとだいぶ経ってから知った。罪のない一般民衆を無差別に虐殺していたのはむしろ米国の方だったのだとショックを受けたことを覚えている。そして検閲されている日本の歴史教科書と海外の歴史教科書の内容はだいぶ違っていたことに驚かされた。日本はアジアを西側諸国から解放したが、敗戦国になり米国をはじめ西側諸国から全てをなすりつけられた。有る事無い事全てを。NHKやテレビに洗脳されず、自分の目で歴史の本をいろんな方面から読むことをおすすめします。
・私の曾祖母は戦時中樺太に住んでいて、日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連軍が攻めてきた 着の身着のまま脱出し、旭川迄なんとか辿り着いたものの財産を持ち出せず無一文 その日は近隣住民の家にある馬小屋に泊めて貰い、他の避難民と共に歩いて札幌まで行こうとした 300キロもあるのに無謀だと漁師が一団を漁船に乗せ送ってくれたそうです 何とか辿り着いたものの、金も住むところもなく仕事もなく、やむなく物乞いをして何とか生き延びたそうです 筆舌に尽くしがたい苦難を味わったそうです 樺太に取り残された人たちは、男性は軍人一般人問わずシベリアに贈られて強制労働 女性は慮辱されたり殺害されてます 逃げ出せた曾祖母はまだましだった様です ソ連を継承したロシアは今も本質は変わっていないので、私はロシアは信用ならないと思ってます
・祖母も 2人の息子を沖縄でなくし 軍人恩給をもらっておりました 死ぬまで貰えて 助かったと 親孝行な息子だと 言っていました
被害にあった方 全員に 支援は 無理なのかもしれませんが まだ ご存命なのですから 多くの支援をおねがいします
・戦後から79年も経つわけですかぁ....
よく考えたら、80年近くも日本は戦争に絡まなかったわけですが、理由はいろいろあることはわかっているのですが、大きな理由はあの大東亜戦争が悲惨すぎて、近代帝国日本が反面教師となっていることが大きいのではないか...
だから、護憲の人だけではなく改憲を考えている人ですら、「戦争をしていた日本に戻りはしないか?」と気になっている人が大勢を占めていると思う。
戦後の影響はまだ終わってないと言える。
・アメリカが勝ったから何も追及されないけど、非戦闘員である一般市民を殺傷するのは国際法において犯罪の気がするけど。 勝者が歴史を作るから仕方がないといえば仕方がない。 ただ事実的には、人道に反する罪だと思う。
・空襲の見舞金は、戦時国際法違反である民間人への攻撃を行なったアメリカ軍が行うべきである。ポツダム宣言、サンフランシスコ講和条約には、戦争犯罪に対する結果の受諾までは明記されておらず請求権は残っているはず。
・戦争の悲惨さを忘れないためにも お辛いでしょうが語り継いでいただきたいですね。 でも、戦争をしたがる上層部の権力あるひとたちには、その声は届きにくいのが実情。 彼らは自分たちは安全な場所で指示を出すだけですから。 多くの人が苦しんでも彼らにはダメージないんです。 そして戦争で儲けて私腹を肥やす… そういうことをさせないためにもひとりひとりが政治や世の中に関心持って。ダメなことはダメだと言える世の中で有りたいです。
・先の戦争を直接体験した方はどんどん少なくなっている。 戦後生まれの私にとって戦時中の情報は、親父、お袋の世代から聞いた限られた体験談しかない。 私の親父は仕事の関係で戦時中に家族と共に平壌に赴任し、終戦の翌年に命からがら三十八度線を越えて引き揚げて来た。でも、この時期の踏み込んだ話が聞けたのは、終戦後半世紀以上が過ぎ齢90歳を越えた頃だった。
誰であっても本当につらい経験は容易には口に出せないものだ。 それまでにも親父とは先の戦争に関る話しはしたが、ABC包囲網、南京大虐殺とか東京裁判などいろいろな部分で意見が対立していた。 親父の口癖は「お前に何が判る」だったが、この戦争が一朝一夕に始まったことではないことだけははっきりしていた。
残念ながら過去には戻せない。私の世代に出来るのは、親父たちの体験を参考にして、二度とあのような悲惨な事態を引き起こさないように努力することだと思っている。
・名古屋ってあんまりクローズアップされないけど、今のナゴドのあたりに三菱の工場(ジブリの風立ちぬに出てきます)があったから、空襲が激しかったみたい 私が子どもの頃の20年くらい前でも不発弾がやたらと出てきた 母校は千種区にあるけど、テニスコートの下が防空壕だとか、戦後プールを造ろうとしたら大量の人骨が出てきたという七不思議があった 夏には象列車のアニメがやってたなぁ、名古屋人視点の方の 東京人視点の象列車のアニメを見たら解釈違いすぎてビックリした
・93歳と言えば、亡くなった母が生きていたら同じ歳。 母もまじかで焼夷弾を受けた経験があり、ほんの数メートル先に逃げていた人が亡くなったと話していた。 『あと数秒間早く走っていたら、お前は生まれてなかったんだよ』と。 母は4人の子供を産み、その後7人の孫、そして現在6人のひ孫がいる。
母がほんの数秒間早く走っていたら、今現在生きている17人もの人間がこの世に生まれてこなかったわけだ。 たかが数秒、されど数秒である。
・祖父は戦争のこと何も語りたくなかったみたい、聞いても「そうじゃなぁ……無言」決して話してはくれなかった
でも90才過ぎに胃の手術で入院した際によかれと思って個室にしたらほんの一週間ほどでボケた 「ロシア兵が攻めてくる見廻りに行かないと」と叫んで夜中にベッドから飛び起きたり日本刀を探したり…看護士さんから聞きて慌てて4人部屋に移したらその日からボケは収まってすっかり元に戻りました
そのことについて祖父は覚えていないようなのでなにも聞いてないけど、そろそろ人生を終えようとする今でも何十年経っても心の深くにある傷なんだと思って、泣けました
・こんな悲惨な体験と同じこと、もっとひどいことを ウクライナの市民やパレスチナの市民が日々経験している。 日本は当時侵略国家の立ち場だったが、 今の時代、武器も持たない一般市民を虐殺するような 野蛮至極な行為を平気で続けることを世界は許してはいけない。
・東京、名古屋を含む日本各都市に無差別爆撃を敢行し原爆投下にも主導的役割をはたしたたカーチスルメイに、自民党政府は勲章を授与しました。おかげでアメリカでは、「日本人はアメリカの行った無差別爆撃や原爆投下の責任者に天皇が勲章を授与するほど感謝している。当の日本がもろ手をあげて感謝している以上、米軍の作戦は全く正しく、戦時法と人道と道徳にかなうものである」と広く認識され、子供にもそのように教育されています。米軍の都市無差別爆撃や原爆投下を非難する日本人はごく一部の反米反日分子、共産主義者だけだとされています。確かに自民党政治家には、アメリカと同じことを主張する御仁もいますが。
・日本の防空体制がしっかりしていれば鏡子さんにこのような悲劇は襲ってこなかったのです。 しかし、日本の防衛強化に反対する人たちは第二第三の鏡子さんを生み出そうとしているのです。 失ってからでは遅いのです。
・父親が昭和一桁の生まれでよく戦争の話されたなぁ。正直子供の頃はアメリカが怖かった。後世に伝えるのは大切だけど伝え方悪いと何時までも凝りになって新たな火種になりかねないから正直原爆とかの追悼行事にわざわざアメリカの大使とか呼ばんでもいいのにっておもう。なんか原爆関係のやり方日本だけが 被害者ってアピールしてて日本人にも違和感ある。
・生き証人って大事だなぁって思うけど、戦争被災者給付金って、80年経った今でも払うべきものなのかとは思う。 原資は今の国民の税金であれば、戦争の責任を、今の労働者が負っている、みたいな構図になっちゃってる気がする。
・アメリカはロシアの悪魔プーチンの攻撃でウクライナの子どもたちが何人亡くなったとか、ハマスの攻撃で…とか報道しているけれど、80年前、日本全国でアメリカ軍の攻撃で何人の少年少女が亡くなり、何人の少年少女がその攻撃で腕を失い足を失い目を失ってその後の「ン十年」を過ごしてきたか?さらに、それは「おとうさんがいけなかった、おじいさんがおにいさんが・・・」と学校教育を通して教えられてきた「まぎれない事実」。
・戦争はしてはいけない。 だが、残念なことに現在の自公政権は軍拡を進め、外国軍と戦争訓練をするなどし、アジアで摩擦を起こしてしまっている。 日本は再び悲惨な戦争へと向かっているのではないか。 軍拡ではなく積極的に軍縮を行い、平和を大切にする政権の誕生が必要となっている。
・祖父は6人兄弟の四男でした。上の兄三人は全員戦死しています。 20歳から24歳で戦死しています。子供の頃から座敷に軍服を着たこの三人の若者の写真が飾ってありました。私はもう還暦ですが、いつか必ず靖国神社に行って、祖父の三人の兄達に、手を合わせたいと思っております。
・毎日や東京(中日新聞社発行)新聞はこのての記事に熱心で評価したい。 しかし、この方が、どんな戦後を送ったのか、仕事や家族などにもちょっとは触れたほうがより良い記事、共感できるものになる。
・本来、民間人を対象とした攻撃はしてはならないはずなので、 ジュネーブ条約やハーグ条約に違反していると日本も アメリカを提訴すべきだと思います。 日本が無条件降伏をしたので何も言えないと思っている人が 多いですが、今、生きている人が訴えないと意味がありません。
・時が過ぎて語り手も兵隊さんではなく、子供時代に戦争経験してる人になってきてますね。貴重な証言や体験、少しでも語り継いで行って欲しいです。
・アメリカは、米本土に日本の木造密集市街地を再現し、非武装の女子供を効率的に焼き殺すことだけに特化した「M69焼夷弾」を開発。 シーレーンと制空権を失い、既に交戦能力のなかった日本の200都市をターゲットにB29で空爆し、何の罪もない赤ちゃん、女子供、妊婦まで80万人を殺害した。 明らかな国際法違反であり、人道的に許されない戦争犯罪です。
・非戦闘員の方々への無差別攻撃本当に許されません。そんな日本本土への無差別空襲を指揮した指揮官を自衛隊の発足に力をくれたという事で日本政府は終戦後に勲章を与えているこの事も許せない。
・戦争が悲惨なのではない。戦争に負けると悲惨なのだ。勝ったアメリカは悲惨でも何でもない。 だから我々日本人は、二度と戦争に負けない準備をするべきだ。戦争を仕掛けろとは言わない。万が一責めてこられても負けたら敗戦国家になり、惨めになるのだ。そういうことを避けるために核武装を含め、準備する。その当たり前の議論さえできない国日本。未来ないよ。
・前にテレビでやはり空襲で足を負傷して切断せざるを得ないが、麻酔がないので大人に押さえつけられながらノコギリでそのまま足を切られたなんて話していたおばあちゃんがいた。どれだけの苦痛だったのかと思うと言葉がない。 どんな理由であれ戦争は良くない。
・私は40代後半のオッサンですが、15年くらい前からでしょうか…8月だからといって、テレビなどで戦争特番を見る事もなくなりました。 昔はここぞとばかりに戦争特番やドラマを放送してましたね。
東京大空襲の真っ黒こげ⇒マネキンみたいで怖くない 原爆などの大やけど⇒痛々しくて遺体の写真よりきつい
中国か朝鮮?の人が手足を縛られて穴に放り投げられて生き埋めされる映像とか、火だるまになって転げまわる映像とか銃で撃たれる瞬間などが普通に流れてた。
自分は同じようになりたくない・苦しみたくないと思ったものです。
私の祖父母世代の戦争の「生き証人」といわれる人達も、あと5~10年くらいでいなくなるのでしょうね。
まあ、今はネットがあるので、調べよう・見ようと思えばいくらでも検索できますが。
・二度と戦争なんか起こしてはいけない だからこそ外交努力は必要です そして、周りが軍備拡大したら 防衛強化をし
その間に外交努力をし 戦争をしないさせない 世界にしていくべきだ
それが出来るのは日本です。
・8月15日 夏の暑さのなかで 昭和天皇はこの国の敗北を宣言した
毎年お盆と言われるこの時期 夏の暑さの中 証人の方々の言葉から学ぶ 平和を守るには努力が伴うことを
・都市の人ってみんな疎開してたんだとばかり思ってたけど、違ったのね 名駅から西に10kmほどの家で生まれ育った90歳になる私の祖母、彼女は空襲でも何ともなかったと言ってたけど 8歳年上だった祖父は満州で終戦を迎えたとか言ってたけど、なにぶん軍隊学校を出たばかりで下っ端だったらしいから詳しいことは分からず
・あと20年もすれば戦争を体験した人たちも居なくなってしまうだろう。このように生きた声で伝えることが出来なくなってしまったら、戦争の恐ろしさも薄れていってしまうのだろうか
・そう 今までは 「私なんか」と話せない人がいた
そういう「差」があった
>945年3月、深夜に空襲警報を聞き、両親やきょうだいと逃げ惑う中で焼夷(しょうい)弾の破片が刺さり、左足を失った。あの日の出来事を、忘れることはない。
そう 南方でも 北支でも 散って言った若き青年もいた
同調圧力と マスコミの煽動 あおり に抗えず 非国民のレッテルを張られるのを その影響が家族に及ぶのを恐れ 同調釣力をかけるメディアに 黙って死んでいった傷ついた 一般市民がいた
煽った新聞社が 今度は真逆の・・・
事の大小は有れども 規模の大きさじゃなく その一個人に起きた 悲劇を
メディがどう伝えるのか 「オッサンの壁」という近書で 「憎しみ」「攻撃」で煽る佐藤千矢子という論説員のいるメディアが 男が!というのだろうか? 戦死した男たちだって戦争は嫌いだったかも
・理由のわからない外国人に対する生活保護の支給や、一円も払って無い外国人への年金支給とか一切やめて、こういう人へ手厚い援助をやって欲しいです。
・祖父は満州からシベリアに連れていかれ命からがら帰ってきた 大勢の仲間が亡くなったそうだ 酔うとぽつりぽつりと話してくれたが想像を絶する体験で幼心に恐ろしく夜眠れなくなった
・テレビで戦争ドキュメントみてもどこか他人事な感じがするけど実体験のある人の話はすごく響きますね。 思いも人一倍でしょうし、何よりその時よく生き延びられたと敬服します。
・二度と国土を戦場にしてはいけない ウクライナ戦争でロシアは核があるから攻められない一面があることを認識し核を持つ為の働きかけをするべき
・空襲で家や財産を失った人も補償されるのでしょうか? また、国が補償するといっても、結局、将来世代が補償するということ。ただでさえ国には天文学的な赤字があり、将来世代はそれを返済ていかねばならないうえ、年金もほとんどもらえないなどかなり割を食っているのに、更に負担をさせるのですか?
・開戦を決めたルーズベルトや裕仁陛下は護衛に守られ 空調の効いた部屋で温かい快適なベッドで寝てるのに 徴兵された一般国民は汚れた軍服を着せられ風呂すら入れず泥まみれの地べたに雑魚寝。 どの国も戦争は国家元首がぬくぬくとしてるのに傷つくのは国民 国家元首が殴り合って勝敗を決めればいいのにと思う
・戦争はこちらか望んでいなくても、仕掛けてくる国がいるから仕方ない!自存自衛のためには戦うべき! と勇ましい人たちの中に、進んで自衛隊に入り、自ら一兵卒として銃を取る覚悟のあるやつが果たして何人いることやら。 自衛官がどれだけ死んでも勇ましいこと言うだけの口だけ愛国者でないことを願いますよ。
・今の若い人は日本でも空襲で多数の老人と女、子供が被害に遭った事は知らない。おやじはサイパンでの玉砕を経験し、伯父さんは上陸戦車に火薬持って飛び込み死んだ。お袋は大阪、神戸で空襲を経験した。グラマンのパイロットの顔が見える高さから何度も旋回して機銃掃射して来る恐怖を体験した。戦争の被害はそれで儲ける人でなく一般人。今も金儲けの為、死んでいる人がいる。平和はユダヤ商人の支配下では続かない。
・戦争は昔のことだと思っていたのに、ウクライナも台湾も、大きな波に飲み込まれてる。 兵器が必要な世の中にしたくないけれど、自分だけ得したいというエゴが人間になくならない限り無理そう。
・ロシアに侵攻されるウクライナのように、 仮想敵国に蹂躙されるようなことが無いように。 戦争を知る世代は日本が専守防衛で 守りきれるか意見してほしい。
・死と隣り合わせの時代とは言え、その時の痛み、、、 左足がちぎれそう、その描写から想像を絶するものが、死の恐怖、現実的に蔑みの眼差し、生きる不安など、どれほど言葉に出来ないほどの苦悩と共に生きて来られたのでしょう、、、
・>国でも救済に向けた議論が進んでいる。超党派の国会議員連盟(空襲議連)が早期の立法化を目指しており、今年6月には河村たかし市長が市の取り組みを議連に初めて説明した。
お国は、何故かこうした戦争関連の救済には、長年ガン無視だったからなぁ。
そんなに、何一つ救済するのが嫌なんか?と思いたくなるくらいに
・今この瞬間も、世界の至るところで戦争による犠牲者が出続けている。 人間とは本当に罪深い生き物だ。 そんなに戦いたければ、為政者同士が直接決闘すれば良いだけの話だ。
・一番可哀想なのは徴兵男性です。 男性だからといって国の命令で徴兵に出され、他国の人を殺すように命じられた徴兵男性、ほとんど亡くなっている。 記事の方も災難だが、徴兵男性のことを連想させられる。
・ライト兄弟は 戦争するために 飛行機を発明したのでは ないと思います。 空の旅を楽しむために 発明したと思います。 飛行機の使い方を間違えてる事ですね。
・ただ祈っていれば平和が続くわけではない 敵国と軍事力が拮抗しているからこそ戦争が起きず一時的に平和が保たれている それを持続しなければやられるだけ
・戦争で被害にあったのは日本だけではない 米国をはじめとして死者は山ほどでている 悲しみの家族も多い それでも戦争はおきるそれが人間社会 いい加減被害意識から抜け出し 悪魔の如くの〇国との同盟を見直し 戦争に加担するのは辞めたらどうか
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