( 198229 ) 2024/08/04 15:41:10 0 00 加藤良三氏
公に目にする記者会見の裏で、ときに一歩も譲れぬ駆け引きが繰り広げられる外交の世界。その舞台裏が語られる機会は少ない。ピアニスト、ワイン愛好家として知られ、各国に外交官として赴任した大江博・元駐イタリア大使に異色の外交官人生を振り返ってもらった。
【写真】湾岸戦争時の人質解放を巡り、バグダッドでイラクのフセイン大統領と会談する中曽根康弘元首相(いずれも当時)、1990年11月
■「カネを出すが、人を出さず」
《在韓日本大使館赴任中の1990年夏、湾岸戦争が勃発した。外務省から「一時、帰国せよ」との指示があり急遽、東京に戻った》
日本は90億ドル(約1兆2000億円)という巨額の財政支援を行い、増税までしましたが、国際社会から「日本はカネを出すが人を出さない」と非難されました。日本ではそれを受け、人的貢献ができるよう、法整備をしようという話が持ち上がった。ソウルで私は「大変そうだな」とひとごとに思っていました。
外務省に戻ってみると、法律作成のためのタスクフォースができていた。しかし、メンバーの半分以上が過労のため病院通い。法律案らしき物はでき上がっていましたが、さまざまな人が手を入れ、整合性のない、案とはいえない形になっていました。
■「指揮は君が取れ」
条約課長から官房総務課長になっていた加藤良三氏から呼ばれ、「なぜ、君を呼び戻したか分かっただろう」と言われました。「君が必要だと思う人は私に言ってくれ。誰でもタスクフォースに入れる。指揮は君が取れ」と。
《まず、過労で病院通いだったメンバーを全員外し、優秀な若手の人材を加えた》
法律案も自分1人で1日で書き直しました。タスクフォースのメンバーには、私より先輩の人もいましたが、指揮命令系統がはっきりしないと混乱を引き起こす。このため、「今後、私の了解なしに、私以外からの指示を受けるな」と宣言。私が法律案を書き直した3日後から、内閣法制局で審査を受けるという異例のオペレーションとなりました。
■前代未聞の法制局審査
審査は通常、法制局参事官が3回チェックした後、部長、次長、長官へと上がるプロセスを踏む。しかし、超短期間で国会に法律を上げるという自民党からの要請もあり、参事官審査は1回だけ、その最中に部長、次長、長官に確認してもらうという前代未聞の対応となりました。
私は朝から晩まで、法制局で審査を受け、外務省に戻ると国会審議に備えて想定問答を毎日20問ほど作成。若い人たちに口述筆記させ、合計200問以上作りました。国会審議では、答弁者の補佐をしました。
■洗濯物、妻が受付に取りに来る
ソウルからの3週間あまりの出張で私は1日も家に帰れず、外務省での宿泊が続いた。省内の受付に洗濯物を預け、取りに来た妻が洗濯してまた届けるという多忙な日々でした。
《自衛隊員を個人資格で紛争地に派遣するという政府案は〝ねじれ国会〟のため、自民党だけで過半数を取れず、公明党の協力が必要となった》
私は公明党とこっそり連絡を取り合いました。公明党が修正案を出して自民党に賛成するというシナリオを描き、公明党の修正案も作ったのです。
小沢一郎氏、土壇場で…
しかし、海部俊樹総理から了解を得ていた当初案について、小沢一郎官房副長官が最終段階で、「自衛隊は『部隊』で動くもの。『個人』資格での派遣はダメだ」と言い、変更することに。公明党はそれを飲めないと言って賛成せず、結局は廃案となりました。
《政府は翌年、平和維持活動(PKO)だけに絞った「PKO法案」を国会で通過させ、日本の人的貢献が始まった》
人的貢献は、その後に成立した周辺事態法、テロ特別措置法で少しずつ、道が開けていきました。しかし、私たちが作ろうとした法律を91年当時に通過させていれば、もっと早く進められたと思うと残念でなりません。
■「君の責任ではない」
さらに、自民党はそれ以降、公明党との関係を重視し自公連立政権となった歴史を見るとき、なぜあのとき、公明党が飲める案で合意できなかったのかと残念に思います。その後、公明党委員長だった石田幸四郎氏が韓国を訪問された際、「法律を通せなかったのは君の責任ではない」と慰めてくれました。
ちなみに湾岸戦争中、日本政府は少数の医療団をサウジアラビア大使館所属との形でサウジに派遣することになりました。ただ、希望者はほとんどいない。国立病院と公立病院の医師を必死に説得し、数人行ってもらいました。
ところが、彼らが日本に帰国した際、病院に足を運ぶと、建物に「反動医者の〇〇君を糾弾する」と書かれた垂れ幕が掲げられていたのです。当時、日本で人的貢献を進めることがいかに難しいかを痛感させられました。(聞き手 黒沢潤)
〈おおえ・ひろし〉1955年、福岡市生まれ。東京大経済学部卒。79年に外務省入省。国連政策課長、条約課長などを経て、2005年、東大教授。11年にパキスタン大使、16年に環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)首席交渉官、17年に経済協力開発機構(OECD)代表部大使、19年にイタリア大使。現在は東大客員教授、コンサルティング会社「神原インターナショナル」取締役などを務める。
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