( 198509 )  2024/08/05 14:40:08  
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現役時代の作業着を着た丸山さん。戦時中もほとんど同じデザインだったという(群馬県高崎市で) 

 

 日本三名泉の一つ、草津温泉(群馬県)の最寄り駅であるJR長野原草津口駅からはかつて、鉱石輸送のための支線が延びていた。終戦の年に突貫工事で開通したうねる線路を何度も脱線し、空襲の危険にもさらされながら駆け抜けた蒸気機関車の「少年機関助士」が、石炭にまみれた日々を振り返った。 

 

主に貨物用として使われた蒸気機関車「D51型」。丸山さんも機関助士時代に従事した 

 

 「ヤッター、ヤッター!」。1941年(昭和16年)12月9日、高崎市の第一国民学校高等科の教室は熱気に包まれた。真珠湾攻撃の戦果を伝える朝刊を読み、興奮する少年たちの中に、当時13歳だった丸山吉治さん(96)がいた。 

 街中には旧日本海軍の「海軍飛行予科練習生」を募集するポスターが貼られていた。俗称は予科練。航空機の搭乗員に必要な基礎訓練教育を行った。ゼロ戦の活躍を伝える報道に憧れを抱く少年も少なくなかった。「よし、俺も」――。社会の雰囲気に押され、丸山さんの気持ちも予科練へと傾いた。 

 

 そんな丸山さんを、母は「20歳を過ぎたら徴兵で入隊できるんだから、それまでは勘弁してくれ」と必死で引き留めた。丸山さんに鉄道省で働いてほしいと思っていたからだ。丸山さんの伯父にあたる母の兄は機関士として勤めていた。月給は55円。籠職人だった父と比べ、羨ましいほどの高給だった。 

 ただ、給与以外にも理由はあった。丸山さんは「鉄道関係に入れば、すぐに前線に出されずに済むだろうと母は考えていたのではないか」と振り返る。予科練に応募し、戦死した少年もいた。 

 

機関助士になるため「東京鉄道教習所」に通い、記念撮影をする丸山さん(丸印)と同級生ら 

 

 母の説得を受け、丸山さんは勉強に励み、翌42年2月、鉄道省の採用試験に合格。国民学校高等科を卒業後の4月には、群馬県の高崎機関区へと赴任した。職場周辺はSLから出される黒い煙で覆われ、石炭のにおいが鼻についた。 

 初日に機関区長から、「戦時下で機関士らは戦地に軍属として派遣され、鉄道輸送で活躍している。先輩がいなくなった分、銃後の守りとしての役割を諸君に果たしてほしい」と訓示を受けた。当時は機関士が中国などへ徴用され、丸山さんらはその補充という形で、若くして採用されたのだった。 

 

 

東京・万世橋にあった広瀬武夫中佐の銅像前で記念撮影をする丸山さんら。戦後、銅像は戦意高揚に結びついたなどとして撤去された 

 

 最初の配属は、車庫に並ぶ汽車の清掃や整備などを担う「庫内手」だった。作業着を真っ黒にしながら、乗務員が乗り込む前の汽車を磨いた。人身事故を起こした汽車を清掃したこともある。血肉を洗い落とす時の気持ち悪さは今でも忘れない。 

 43年6月に、機関士を補助する「機関助士」を目指し、東京・池袋にあった「東京鉄道教習所」に入所した。同年代の約100人とともに、複雑な汽車の操作を学んだ。同級生らと上野や万世橋などを見学し、空襲で焼ける前の街並みは活気があったのを覚えている。試験に合格し、44年4月に群馬県に戻り、念願のSL乗務が始まった。 

 

 機関助士の主な仕事は、炭水車の石炭をスコップですくって、焚(たき)口(ぐち)戸(ど)から火室に投げ込むことだ。走行に合わせて火力を調整したり、維持したりするのは技術と体力が必要で、簡単な仕事ではない。 

 高崎機関区には貨物用のD51(愛称デゴイチ)や、旅客用のC57(シゴナナ、貴婦人)があった。それぞれ焚口戸の大きさが違い、機関車によってスコップを使い分けた。「片手持ちの小スコップだと何往復もする必要があって本当に大変。勾配がある路線に従事したときには、腕が鉛のように重くなった」 

 

【地図】長野原線太子線 

 

 その頃、県北西部へ延びる新路線の工事が急ピッチで進められていた。兵器製造の需要が高まり、国内の地下資源の開発が急務だったからだ。 

 草津温泉の近くに鉄鉱石の沈殿鉱があり、採取した鉄鉱石を神奈川県の製鉄所へ運搬するために約50キロに及ぶ鉄路が計画された。  

 昼夜を問わない突貫工事には沿線住民らも駆り出され、丸山さんも泊まり込みで線路の敷石の調整などを担った。45年1月、路線は着工から2年半という異例の早さで開通した。 

 

群馬鉄山跡。現在は鮮やかな「チャツボミゴケ」が繁殖している(群馬県中之条町で) 

 

 なんとか開通にはこぎ着けたものの、線路は鉱山に近づくほど劣悪で、「先を見れば、線路がうねっているのがはっきりと分かった」。時速20~30キロで慎重に運転せざるを得ず、それでも脱線が相次いだ。脱線が前方の車輪だけで済めば、丸山さんは機関士と2人だけで線路に戻して、復旧するとすぐに走らせた。 

 また、小型の蒸気機関車しか使えず、石炭くべは重労働だった。物資不足は作業用の靴にまで及び、油で滑りやすい床にげた履きで踏ん張りながらの作業は、車両から転落の危険と隣り合わせだった。 

 当時、鉄道は空襲の標的にもなった。この戦争で国が管轄する路線の5%、1600キロが空襲を受け、完全に廃車扱いとなった車両は27%に上った。 

 丸山さんは「首都圏に向かう機関車には危険が伴っていたが、逃げることはできない。なんとかやるしかないという思いだった」と話す。 

 

 

 45年7月、機関士になるために再び教習所に入所した。戦災により東京の教習所には通えず、高崎で学んだ。そして、試験に向けての勉強中に終戦を迎えた。ラジオで天皇が敗戦を告げる玉音放送を聞き、みな、ぼう然としていた。高崎駅では上野駅へ向かう汽車に乗るはずのある機関士が、「こんなことになるならやっていられない」と叫んで、そのままどこかへ行ってしまったという。丸山さんは「混乱も混乱、大混乱だった」と語る。 

 丸山さんが懸命に運んだ鉄鉱石が、戦力として十分に生かされることはなかった。度重なる空襲を受け、製鉄所が思うように稼働できなかったためだ。 

 

 終戦後の鉄道は、食糧不足で買い出しに向かう人々でますます混乱した。配給米は1人あたり1日1合5勺(しゃく)(約270グラム)に満たないこともあり、それも滞りがちだったという。新潟方面へ向かう列車には、米を求めに行く人が殺到。一度降りると再び乗るのは困難なため、川にさしかかると車内から用を足す人も多かった。「本当にみんな必死だった」 

 違法な取引米「闇米」などを売る「闇屋」も乗車していた。駅で警察官の抜き打ち検査が実施されると、「闇屋は慣れたもので物資を置いてそそくさと逃げるが、買い出しの女性なんかは米を抱え込んじゃうから警察官に捕まって没収される。あれを見るのは切なかった」。車内は社会の縮図でもあった。丸山さん自身も食べる物に困って体力が落ち、過労も重なって肺結核を患った。 

 

一部が復元された旧太子駅。鉄筋コンクリート製の「ホッパー棟」(奥)は国の登録有形文化財に指定されている(群馬県中之条町で) 

 

 3か月の療養後、職場に復帰。機関士の見習いとしてSL乗務に従事した。だが、鉄道の電化は進み、徐々にSLは姿を消していく。「電気機関車に乗ったときはずいぶん楽になったものだと驚いた」。その後は主に電気機関車や電車の機関士を務め、78年に国鉄を退職した。 

 戦後、鉱山への支線は鉄鉱石の運搬で復興を支えた。後に旅客用としても使われたが、71年に役目を終えた。跡地には、鉄鉱石を受け入れて貨車に積み込むための施設の一部が残り、国の登録有形文化財となっている。 

 丸山さんが暮らす高崎市は今年、高崎駅開業140周年を祝うイベントでにぎわい、記念列車のSLが汽笛を響かせた。「今は本当に幸せな時代だということを、若い人には知っていてほしい」。かつてのSL乗りはそう訴えた。 

(原新) 

 

※この記事は読売新聞とYahoo!ニュースによる共同連携企画です 

※読売新聞の投書欄「気流」に寄せられた投書をもとに取材しました 

 

 

 
 

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