( 199229 )  2024/08/07 15:22:23  
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台湾での過酷な幼少期を振り返る相羽さん(神奈川県横須賀市で) 

 

 日本の統治下にあった台湾で生まれた男性は戦時中、空襲を避けてジャングルへと逃げ込んだ。毒ヘビや伝染病の危険が潜む森で、生後間もない妹の母乳代わりの豆を探し奔走した4歳の過酷な記憶を語ってもらった。 

 

【写真】日本統治時代のものとみられる台湾・台北の街並み。日本語の看板が目立つ 

 

 「護衛艦なしでは砂糖は送れない。無理だ」 

 台湾で砂糖の販売業務を手がける父が受話器にどなる姿を、神奈川県横須賀市の相羽喜元さん(83)は時々、ふと思い出す。 

 相羽さんは1940年10月、父・喜久夫さんと母・孝子さんの長男として、日本統治下の台湾南西部・台南で生まれた。喜久夫さんは、当時の明治製菓などの販売代理業だった「明治商事」に勤務し、砂糖の一大産地だった台湾に赴任していた。41年、喜久夫さんがさらに南の高雄の販売所長に任命されると、家族も一緒に高雄へと引っ越した。 

 

1943年10月に撮影された3歳の相羽さん(右)と父・喜久夫さん(相羽さん提供) 

 

 高雄は重要港で、市街地を少し離れれば工場が立ち並び、近くには日本軍の基地もあった。街は活気があふれ、全速力で人力車が走り回り、道を渡るのも一苦労だったという。 

 販売所と社宅が兼用だったため、相羽さんはビジネスマンとしての父親を見る機会があった。受話器を手に声を荒らげる父の姿を、相羽さんは「本社から砂糖を送るよう要求されて、大変だったのだろう」と振り返る。戦局の悪化によって、日本本土までの航路は米軍の潜水艦の脅威を受け、物資の輸送が困難になっていた。優しかった父がどなる姿は、少し怖かった。 

 

台湾・台南での祭りで集まった日本人の集合写真。後列の左から3人目は母・孝子さん(相羽さん提供) 

 

 台湾は日本にとって東南アジアなど南方進出の重要拠点だった。逆に米軍にとっては、沖縄本島上陸へ向けて背後の脅威となる懸念材料であり、台湾の「無力化」を目指す作戦を繰り広げた。台湾は44年秋頃から空襲が相次ぎ、45年になると連日のようにフィリピン方面から爆撃機が飛来した。周辺に陸海軍の基地が複数ある高雄は、集中攻撃を受けるようになった。 

 防空壕(ごう)の建設が急ピッチで進められ、疎開する日本人も増え始めた。相羽さんの同年代の遊び相手も日に日に減っていった。そんな中、12、3歳ぐらいの「もの知り李(リー)さん」と呼ばれた台湾人の少年を中心にグループができた。彼は台湾語と日本語を織り交ぜながら敵の飛行機の見分け方などを教え、「防空壕に入ったら手で耳とまぶたを守れ」と話した。 

 

 

喜久夫さんが所長を務めた明治商事高雄販売所(明治ホールディングス(株)提供) 

 

 市街地も空襲で大きな被害を受け、開店間もない明治商事の売店も焼失した。 

 ある日、相羽さんが一人で外にいると、空から落ちる「黒い粒」を見た。米軍機が投下した爆弾だった。とっさに頭に浮かんだのが、李さんの「教え」だった。一目散に防空壕へと逃げ込むと、脳が揺れるような爆音が響き渡った。丸まって手で目と耳をふさぎ、爆音がやむまでじっとしていた。「あのまま外にいたら死んでいた。生き延びることができたのは、もの知り李さんのおかげだ」 

 

米軍によって上空から撮影されたとみられる、戦時中の高雄市街の様子(米国国立公文書館所蔵) 

 

 連日の空襲や米軍の上陸を恐れ、相羽さんらは高雄からの避難を決める。会社の配給業務のため、喜久夫さんが一人残り、相羽さんは孝子さんに連れられ、20~30組の日本人と一緒に集団で避難した。先住民が暮らす山岳地帯の付近まで行き、ジャングルの中にあった木造の空き家で生活を始めた。 

 避難してまもなく、毒ヘビにかまれた同年代の子どもが大声で泣きわめき、のたうち回りはじめた。患部の右腕は腫れ上がっていた。適切な治療ができず、ほどなくして亡くなった。「数人で復讐だと鎌を持って毒ヘビの首狩りをしたが、空き家の縁の下までヘビが潜んでおり、あまりの多さに怖くなった」と当時の過酷な生活を振り返った。 

 

米軍の空襲により煙が激しく立ち上る高雄市街(左下)。1945年2月の空襲とみられる(米国国立公文書館所蔵) 

 

 ジャングルでの生活に慣れた頃、相羽さんは蚊を媒介とする伝染病・マラリアにかかる。高熱にうなされ、ほとんど気絶したような状態で数日を過ごし、なんとか命はとりとめた。周囲の騒がしい声に促されるように目を覚ますと、一人のおばさんが目覚めている相羽さんに気付き、「おめでとう。お兄さんになったね」と話しかけてきた。妹・瑞枝さんが誕生したのだった。45年8月10日、終戦の5日前の出来事だった。 

 孝子さんは出産や避難生活の疲労が影響したのか、なかなか母乳が出なかった。病み上がりの相羽さんは、母乳の代わりとなる食材を探しに毒ヘビが生息するジャングルへと向かった。 

「大人に『妹のために』と言われたらやるしかなかった」。 

 自生豆を採取し、それを細かく砕き、水で煮たものを飲ませていたという。朝起きるとジャングルの中を探し回り、夕方に小屋に戻るという生活だった。 

 

 

【地図】台湾の高雄の場所 

 

 避難生活も数か月がたち、空腹に耐えかねてジャングルの近くの道で座っていると、遠くから車のエンジン音が聞こえてきた。そして、「日本人はいるか」という大きな声。父だった。戦争が終わり、喜久夫さんが家族を探しに来たのだ。相羽さんはうれしくなり、近づいて来たトラックに向けて体を大きく動かし、自分の存在を知らせた。 

 父は家族をトラックに乗せ、高雄へと戻った。幸い自宅兼用の販売所は戦火を免れていて、相羽さんは久しぶりにぐっすりと眠りについた。 

 

 敗戦により日本の台湾統治は終わりを迎えた。45年10月には中国大陸から国民党軍が上陸した。台湾の現地新聞の1面は日本語から中国語に変わり、国民党軍を「歓迎」した。台湾にあった日本企業の財産の多くは中華民国政府のものとなり、明治商事の現地事業所なども46年2月に接収された。 

 「終戦後、街に大きな混乱はなかった」と相羽さんは話す。ただ、日本人と台湾人の立場は逆転した。仕事や家を失った日本人は内地へと引き揚げざるを得なくなった。相羽さん家族も46年春、米軍の貨物船に乗り、横須賀に向かった。船はすし詰め状態で、甲板には帰還兵らしき男性が多くいたのが印象的だった。「疫病の発生」を理由に行き先が変更となり、相羽さんが初めて訪れた本土の地は横浜だった。 

 

 引き揚げ後、母の実家があった東京都杉並区で暮らし、父の転勤に伴い北海道や秋田、仙台などで少年時代を過ごした。福島大を卒業後、電気機械メーカーに就職し、神奈川県横須賀市で暮らすようになった。現在は金沢市に暮らす妹の瑞枝さんは、幼いときから誕生当時の過酷な生活を聞き、「ここまで生きられたのも兄らのおかげだ」と語る。 

 相羽さんは、かつて慕った「もの知り李さん」に日本で一度だけ会ったことがある。李さんの父親が明治商事の現地職員だった関係で、李さんが日本を訪れたのだ。李さんは現地の銀行に就職していたというが、意思疎通はうまくできなかった。「かつてなら彼はもっと日本語を話せたと思うし、私ももっと台湾語が理解できていたのだろう」と気づかされた。 

 

 

 近年、中国の習近平(シージンピン)国家主席が中台統一への意欲を示し、「台湾有事」への懸念も高まっている。ニュースで「台湾」と聞くとやはり気になるが、相羽さんにとっては故郷というよりも「不思議な場所」だ。戦後、日本各地で過ごし、あの頃の台湾は「日本であって、日本ではなかった」と感じるようになった。 

 「パスポートをとって古里に帰る、というのも何だかね」。戦後は一度も台湾を訪れていない。ただただ、自分が幼い頃に味わった恐怖が二度と繰り返されないように、と願うばかりだ。 

(原新) 

 

※この記事は読売新聞とYahoo!ニュースによる共同連携企画です 

※読売新聞の投書欄「気流」に寄せられた投書をもとに取材しました 

 

 

 
 

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