( 199269 )  2024/08/07 16:08:27  
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窓口担当者が怒らせてしまったお客をなだめるのが上手い百戦錬磨の行員がお手上げに?高齢男性の要求とは?(写真はイメージです) Photo:PIXTA 

 

● 「早く出せよ、ほら!」 店内で響く男性の声 

 

 「分かっとるんだぞ!お前さんたちがウソをついているって。そんな見え透いた口車に誰が乗るかといってんだ!早く出せよ、ほら!」 

 

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 窓口カウンターで、男性の声が響く。トラブルのようだ。セリフは銀行強盗がよく言うそれに近い。ただならぬ予感がした。 

 

 「なんで怒ってる?3番窓口のおじいさんは」 

 

 隣に座る課長代理の山川さんに尋ねると、 

 

 「『お金があるに決まってる』『ないわけがない』とか何とか聞こえましたけど…。ちょっと行ってみます」 

 

 「うん、相手が落ち着かない様子なら早めに応接室に移ってもらおう。僕が対応するよ」 

 

 「その時はお願いします」 

 

 山川さんは、窓口担当者が怒らせてしまったお客をなだめるのが上手い。私が10年以上この職務に就き、部下を見てきた中で、最も安心して見ていられる。 

 

 「どうぞ、こちらへ!」 

 

 山川さんの優しいながらも大きな声がロビーに響く。前に聞いた話だが、第一声が大事なんだそうだ。相手が大声ならば、こちらもそれ以上の声量で立ち向かうと、相手の態度が変わるらしい。カンガルーは縄張り争いで、相手よりも自分を大きく見せて威嚇する習性があるという。あの、ボクシングポーズで胸を張るしぐさがそれらしい。山川さんは、そこから学んだそうだ。 

 

● 怒りが収まらない老人の あきれた要求とは 

 

 いつもだったら、しばらくすると山川さんが一仕事を終えた表情で帰ってくる。だが、この日はそうではなかった。山川さんはお手上げだと言わんばかりのポーズで戻ってきた。 

 

 「課長、すいません。ダメです。お客さんはA応接室にいます。どんどん興奮してしまい、もう手がつけられません」 

 

 「何を怒ってるんだい?」 

 

 「新紙幣です。1万6000円を、新紙幣の1万円、5000円、1000円の一枚ずつに両替しろと言うんです」 

 

 「はあ、そりゃあ無理だ。だって今日は6月28日なんだぜ。新紙幣の発行は来週からだって分からないのかな?」 

 

 「何度も説明してます。でも、こちらの言うことを何にも聞かないんですよ!」 

 

 百戦錬磨の山川さんが、ここまで手こずるのは珍しい。よほど聞く耳を持たないご老人なのだろう。とにもかくにも、私にお鉢が回ってきた。名刺入れの中を覗きこみ、自分の名刺の枚数を確かめて、上着を羽織って出陣した。 

 

 「失礼します。私、預金担当課の課長の目黒と申します。今日はご来店ありがとうございます。お困りごとがあると伺いまして…」 

 

 「ああ、困ったねえ。本当に困ったもんだよ!わしはこの銀行の株主だぞ?」 

 

 「それはそれは、いつも応援していただきまして、ありがとうございます」 

 

 「その株主に向かってなんたる無礼なことじゃ!」 

 

 「あ、あのう…新紙幣への両替と聞きましたが…」 

 

 「そうじゃ。早く出せ!」 

 

 「正直に申しますが、新紙幣は7月3日から…」 

 

 「それは何度も聞いたわ。もう銀行に届いていることは分かってるんだぞ」 

 

 

● 新紙幣の各銀行への引き渡しは発行日当日 発売前のゲームソフトとはわけが違う 

 

 どうやら、この老人は1週間後に発行される新紙幣が、すでに銀行の各支店に保管されていると思いこんでいるらしい。新発売のゲームソフトが、発売日の開店時から家電量販店に山積みされているように、発行日前に各支店へ届いていると思ったのかも知れない。 

 

 「本当に届いてないんですよ」 

 

 「ウソじゃ!」 

 

 そんなやり取りが続き、押し問答に疲れたのか、現実が分かったのか。急に寂しそうに呟いた。 

 

 「びっくりさせたかったんじゃよ…」 

 

 「はい?」 

 

 「まだ誰も持ってない新しいお金を、孫に見せてやりたかったんじゃ」 

 

 「は、はあ…」 

 

 どうやら、それが本心だったようだ。何か深い理由があるかと思いきや、そのせりふはまるで、アニメの『ちびまる子ちゃん』に出てくる友蔵じいさんかと思うくらいだった。 

 

 「どうしてもダメかのう?」 

 

 「はい、残念ですが、7月3日に各銀行と郵便局に引き渡されますので、今日はございません」 

 

 可哀想な気がしたが、どうにもならない。ないものはない。そう言い切るしかなかった。力なく老人は席を立ち、深いため息とともに店を後にした。銀行強盗のようなせりふを声高に叫んだ元気など、もうそこにはない。願いの叶わなかった孫煩悩な老人の姿しかなかった。 

 

● 「ダメな銀行!もういいわ」 新紙幣を手にできず怒る人たち 

 

 銀行では今回の新紙幣を「F号券」、通称「F券」と呼ぶ。戦後から今日まで発行してきた紙幣は、A、B、C、D、Eと5券あり、今回の「F号券」が6番目になる。ちなみに1946年に発行を開始した「A券」の百円紙幣も、現行紙幣と同様に扱われる。銀行窓口に持ち込めば、口座に百円が入金される。今でも「年末の大掃除でタンスや仏壇から大量の百円札が出てきた」と、窓口に持ち込むお客もいる。 

 

 そして迎えた7月3日の開店前。私が勤務するみなとみらい支店前には20人ほどの行列ができており、ほとんどが高齢者だった。偶数月の15日は年金支給日で、ATMコーナーではよく見る光景なのだが、その日は違う。 

 

 テレビのニュースなどで報じられた通り、国立印刷局で発行された新紙幣は、発行日と呼ばれる7月3日水曜日の午前8時に、日本銀行各支店から各銀行の本店に出荷された。そのため、各銀行の本店から各支店に輸送される物流の事情によっては、7月3日に新紙幣での引き出しや両替が間に合う支店と、間に合わない支店に分かれる。 

 

 私の支店へは、7月4日の午前中に届くことがあらかじめ知らされていた。したがって、預金担当課の責任者である私の判断で、7月5日午前9時の開店から新紙幣の取り扱いを始めることになっていた。 

 

 こうした判断は、各支店の裁量に任されている。というのも、7月4日の午前中に新紙幣が届いても、その日のうちに対応できる支店もあれば、できない支店もある。人員にゆとりがある大型店なら可能でも、ギリギリの人員で回している小型店では難しいのだ。悪い言い方をすれば、新紙幣への対応は余計な業務に他ならないからだ。 

 

 開店のシャッターが開くと同時に、同じせりふが飛び交った。 

 

 「なぜ新しいお金、用意してないのよ!」 

 

 「お客さま、私どもの支店では7月5日から新しいお札に対応いたします。どうかご理解下さい」 

 

 「暑い中せっかく来たのに、どういうことなの?何とかしなさいよ」 

 

 「前もって、店頭でポスターを掲示してまいりましたが…」 

 

 「普段は銀行なんか行かないわよ。電車代払ってわざわざ来たんだから、なんとかしなさいよ!ダメな銀行!もういいわ。本店に電話するから。あなた、名前は…目黒っていうのね。覚えてらっしゃい!」 

 

 

● 高額取引や詐欺の横行… 新紙幣発行で誰が得をするのか 

 

 いやはや…全くこちらの話を聞いてもらえない。帰宅すると、ニュースは新紙幣の話題で持ちきりだった。銀行窓口に長時間並んで手に入れた紙幣を、テレビカメラの前に差し出す老人たちの姿が目立つ。 

 

 当日、新しい紙幣に対応していない銀行があったことについて、コメンテーターがしたり顔で嫌みをいう番組もあった。マスコミこそ、正しい情報をしっかり伝えてもらいたいものだ。また、新しい紙幣が発行されると「古い紙幣を持っていてはいけない」などの手口で高齢者を騙す詐欺が横行するが、全くのウソだ。騙されてはいけない。 

 

 入手困難な新紙幣。そんな時に出てしまうのは、メルカリなどのオークションサイトだ。1万円札、5000円札、1000円札の3枚合わせて1万6000円を2万円で取引したり、1000円札1枚を2800円で取引したり。世の中、おかしいんじゃないか。これからいくらでも拝める紙幣なのに、なぜそこまでして発行日に手にしたいのか。 

 

 キャッシュレス化が進むにつれ、新紙幣も使われる場面が減っていくことが容易に想像できる。発行日の7月3日から3週間ほど経過したが、もう両替に並ぶお客の姿はない。あの日、手に入れようと躍起になっていた老人たちは、どうしているだろう。もう、関心すらないのかも知れない。 

 

 こうして預金担当課で窓口の責任者をやっていると、営業担当時代ではなかなか経験できなかったことに遭遇するものだ。ただ、紙幣の改刷だけは、今回限りにしてもらいたい。いったい誰が得をする話なのだろう。疲労感だけが残った。 

 

 この銀行に勤務して四半世紀。疲労感にさいなまれつつも、毎日懸命に勤務してきた。今日も私はこの銀行に感謝しながら、業務に従事している。 

 

 (現役行員 目黒冬弥) 

 

目黒冬弥 

 

 

 
 

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