( 199559 )  2024/08/08 15:09:26  
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南樺太の地図から、生まれ故郷の豊北村小沼を指し示す千葉さん(札幌市北区で) 

 

 1945年8月15日、南樺太の旧制中学の4年生だった男性は、勤労動員に駆り出されていた陸軍の飛行場で「終戦」を告げられた。日本軍の飛行機は北海道へと飛び去ったが、その後も侵攻を続けたソ連に故郷を追われ、いまも複雑な思いを抱いている。 

 

【写真】空を飛ぶ四式重爆撃機「飛龍」(防衛研究所戦史研究センター所蔵) 

 

小沼の街並み(稚内市教育委員会提供) 

 

 札幌市北区にある高齢者向け住宅の一室を訪れると、玄関ドアの内側には南樺太の地図が貼られていた。恵須取(えすとる)、真岡、大泊――。現在の学校の教科書では白地などで「帰属未定」とされる場所に、日本語の地名が並ぶ。 

 この部屋に住む千葉藤雄さん(95)が地図を指し示した。 

 「豊原市は、北海道で言えば札幌のような樺太の中心。そこから北に12キロくらいの豊北村小沼で生まれた。襟巻きにするための養狐(ようこ)業が有名な、キツネの村だったんだ」 

 

小学4年生の時の集合写真(千葉さんは前から3列目、左から2人目)。日本へ譲渡される前のサハリンはロシアの流刑地で、同級生にポーランド人もいた 

 

 樺太(サハリン)は1905年(明治38年)、日露戦争後のポーツマス条約で北緯50度以南がロシアから日本に譲渡された。 

 千葉さんの祖父は、北海道の寿都(すっつ)郡で客馬車を営んでいたが鉄道開業のあおりで廃業し、大正時代に樺太に移り住んだという。小沼(現ノボアレクサンドロフスク)は農業や酪農が盛んで、千葉さんは牛馬商をする父のもと、5人きょうだいの3番目として生まれ育った。 

 小沼国民学校初等科の6年生だった41年12月8日に日米が開戦し、翌年4月に千葉さんは豊原市(現ユジノサハリンスク)の豊原中学校に進学した。 

 中学校には30分ほどかけて汽車で通った。学校では勉強のかたわら、行進やほふく前進、射撃の練習もした。帰りの車内で友人と将棋を指していると、大人のやじ馬が「こっちだ、こうだ」と駒を動かし、最後は誰が指しているのかわからなかった。 

 

豊原中学校(稚内市教育委員会提供) 

 

 最終学年の4年生になった45年春からは勤労動員が増えた。千葉さんらは6~7月、湾岸の弥満(現ノビコボ)でニシン場の手伝いをした。この時期のニシンは小さいが、油が搾れる。 

 作業中、青森・津軽から出稼ぎに来た漁師の「ヤン衆」に、「あんちゃん、日本は戦争に負けんじゃないかい?」と聞かれ、千葉さんは「神国の日本は負けないよ!」と言い返した。 

 「後から振り返れば、大人はわかっていたんだな、と思ったね」 

 

 

【地図】ソ連侵攻当時の南樺太 

 

 7月末には4年生約150人で、豊原から30キロ余り北方の落合町にある陸軍・大谷飛行場に向かった。千葉さんは小学生の頃に1度、航空イベントで飛行場に来た覚えがあった。たくさんの機体が並び、宙返り飛行も披露していた。 

 飛行場にかつての活気はなく、あるのはシートがかけられた小型の練習機くらい。戦闘機を格納する掩体壕(えんたいごう)には、木で造られた偽物の飛行機が置かれていた。 

 一機もいない格納庫で簡単な健康診断を受けると、スコップやツルハシを渡され、飛行機の誘導路を拡幅するよう命じられた。 

 

四式重爆撃機「飛龍」(防衛研究所戦史研究センター所蔵) 

 

 ポツダム宣言で降伏を勧告され、広島に原爆が落とされた日本に対し、ソ連は宣戦布告。8月9日に満州(現中国東北部)に侵攻し、樺太の国境付近でも戦闘を始めた。日ソ中立条約を無視しての参戦だった。 

 大谷飛行場にもソ連参戦の知らせが入り、豊原に住んでいた生徒は防衛戦力として帰された。残った「汽車通学組」は、千葉さんの記憶では十数人だったという。ソ連の空襲に備えて重要書類を兵舎に運ぶなど、飛行場はにわかに慌ただしくなった。 

 その頃、格納庫の前に突如、4機の飛行機が姿を現した。見覚えがある戦闘機「隼(はやぶさ)」とは違い、両翼に十字のプロペラがついていた。 

 「兵隊さんから四式重爆撃機『飛龍』だと聞いた。対米用の新しい特攻機で、それまでは山の中に隠してあったのだ、と」 

 

小沼から豊原中に通った生徒たち。千葉さん(最前列、左端)は撮影時1年生で、後に日本歯科大学長となった佐藤亨さんらが同期だった 

 

 「日本、負けたんや。作業やめい!」 

 15日の昼食後、地下壕を掘る作業を再開していた生徒たちに、関西弁の兵長が叫んだ。午後3時頃には爆撃機が離陸し、1度旋回して爆音を響かせながら飛行場の真上を低く飛ぶと、そのまま南の空へ飛び去った。北海道・帯広の原隊に帰ったのだと聞かされた。 

 その夜はお汁粉、翌朝は白米が出た。「それまではイモと米が半々の芋飯ばかりだったから、本当においしかった。この先どうなるかはわからないけど、戦争が終わってほっとした気持ちだった」 

 16日の午前にはトラックで小沼の自宅まで送ってもらった。千葉さんの記憶では、その日の朝の点呼では、飛行場に20~30人ほどの兵隊がいた。その中には、ソ連に捕まってシベリアに連れていかれた者もいると、後日聞いた。 

 家では家族が布団などの荷物をまとめて待っていたが、北海道への引き揚げ命令は来なかった。 

 

 

故郷に侵攻したソ連や現在のロシアに対する思いを語る千葉さん(札幌市北区で) 

 

 北海道の北半分の占領をもくろんでいたソ連軍は南樺太に侵攻し、日本のポツダム宣言受諾後も攻撃をやめずに南進を続けた。抗戦する日本軍や避難民らの犠牲は増え続けた。 

 小沼からは、西海岸の真岡(現ホルムスク)に浴びせられる艦砲射撃の音が聞こえ、停戦合意後、豊原駅前をソ連機が空襲して街から黒煙が上がる様子も見えた。 

 その後、家の前を、進駐するソ連の戦車やトラック、捕虜にされた日本兵の列が通り過ぎていった。ソ連軍にはスカート姿で自動小銃を担いだ女性兵もいて驚いた。ソ連兵たちはトラックから降りて、歌ったり踊ったりしていた。 

 「『負けたのだから仕方ない』という気持ちで、恨みや悔しさはあまりなかった。空襲などの被害を直接見ていなかったからかもしれない」 

 

豊原中の卒業証書。縦約18センチ、横約25センチの証書に約6センチ四方の大きな学校印が押されているのは「戦後は紙が不足して本来の大きな証書が作れなかったから」(千葉さん) 

 

 ソ連は南樺太全域に加え、千島列島や北方四島を占領した。日本はサンフランシスコ平和条約で南樺太と千島列島に対する権利を放棄し、北方四島の領土問題が現在まで続く。 

 千葉さんは終戦後の秋から通学を再開した。中学の校舎はソ連軍に差し押さえられ、市内の別の小学校でロシア人、朝鮮人、日本人の小中学生らが時間交代で学んだ。千葉さんたち4年生は午後に2時間、中学の先生から英語とロシア語を習った。 

 翌春には、ニシン場での労働を卒業条件に課され、1か月遅れでようやく卒業した。役場から頼まれ、同級生4人でパスポート発行申請の書類に書かれた日本名をキリル文字に書き換える手伝いもした。 

 家族で北海道に引き揚げることができたのは、翌47年冬。ソ連占領下の樺太での生活は2年余りにおよんでいた。 

 

小沼で飼育が盛んだったキツネ「銀黒狐(ぎんこっこ)」(稚内市教育委員会提供)。千葉さんもソ連の国営農業とされた養狐場で働いた 

 

 千葉さんは、ソ連、そして現在のロシアに対し、複雑な思いを抱いている。 

 小沼では、父が育てていた乳牛がソ連兵に殺されて肉にされた。母が一人でいた自宅にソ連兵が押し入ってきて、タンスにあった千葉さんの置き時計や中学の制服も奪われた。 

 中学卒業後、ソ連のソフホーズ(国営農場)となった養狐場で働き、キツネの餌にする馬の世話をしていた時は、ロシア人の馬の扱いのうまさに感心した。増築資材を取りにロシア人らと北方の村に出張し、初めてウォッカを一気飲みして一緒に酔いつぶれた。仲良くなって、家を毎晩訪ねておしゃべりをしたウクライナ人男性は、引き揚げの際には泣いて別れを惜しんでくれた。 

 いま、千葉さんの目には、ロシアによるウクライナ侵略のニュースが樺太に重なって映る。 

「ロシアは今でもウソばっかりの泥棒の国だと思っているよ。だけど、人間としてはロシア人も日本人もおんなじだ。友好的で信用できる国になってくれたらいいんだけどね」 

 

 

札幌市中央区の旭山記念公園に戦後に建てられた豊原中学校の記念碑。開校100周年となる来年、千葉さんは数少なくなった同窓生と記念撮影をするつもりだ 

 

 はたして千葉さんが落合町の大谷飛行場で目撃したのは、本当に四式重爆撃機「飛龍」だったのか。明確な記録はないが、ソ連の樺太侵攻を研究して著書「知られざる本土決戦 南樺太終戦史」(潮書房光人社)にまとめた藤村建雄氏は、「ソ連参戦時、大谷飛行場に飛龍がいた可能性はある」と分析する。 

 樺太・千島・北海道を担当する陸軍第5方面軍の参謀だった福井正勝氏は戦後、「四式重爆は一時落合に移ったことがある。落合を根拠に訓練していたが、敵が樺太に来たので帯広に戻ったという記憶がある」と回想している。 

 藤村氏は、「飛龍は米軍に対して比較的安全な後方の北海道で訓練していたと思われるが、ソ連の侵攻を受けて樺太から帯広に移されたのではないか。ただし、飛龍が戦闘に参加しないまま8月15日まで空襲を受けるリスクがある樺太にとどまるのは合理的ではなく、15日に大谷飛行場から飛び立ったのは、他の任務に就いていた別の飛行機だったと考えられる」と指摘する。 

 第5方面軍は8月14日、北海道から樺太に向けて飛行戦隊を出撃させたが、宗谷海峡の悪天候に阻まれて引き返し、日本の航空戦力が戦いに加わることはなかった。 

 福井氏の回想には、飛龍を「樺太作戦に使いたかった」との言葉が残る。藤村氏は、「もし爆撃能力に優れた飛龍が戦闘に参加していれば、ソ連の侵攻を遅らせ、樺太の歴史は変わっていたかもしれない」と語る。 

(深谷浩隆) 

 

※この記事は読売新聞とYahoo!ニュースによる共同連携企画です 

※読売新聞の投書欄「気流」に寄せられた投書をもとに取材しました 

 

 

 
 

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