( 200050 )  2024/08/09 17:18:18  
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・工事の最終的な艤装を行うために呉に回航している際に雷撃されましたね。 

艦内は工事中だったため、電線があちこちはい回り、雷撃の危険があるにもかかわらず水密扉もきちんと閉められていない状態だったとか。 

亡くなられた乗員のご冥福をお祈りいたします。 

 

 

・祖父は職業軍人で海軍にいて、子供の頃、上海事変やミッドウェー海戦の話をひざのうえで聞いたのを思い出す 

 

いろいろな従軍記章を見せてくれたり、勲章をみせたもくれた。大切に海軍士官の帽子や海軍の戦闘帽?も飾ってあった 

 

今、俺は祖父や父親が経験してきたような艱難辛苦を乗り越えて来ただろうか、と常に自問自答している。戦争は良いとは言わないが、そういう歴史に残るイベントに参加し、生き抜いてきたという事実は素晴らしいと思う 

 

 

・元々信濃は機動部隊の前方に進出して、攻撃部隊の中継地点となる事を求められた空母。なので装甲空母にする事で抗堪性を高め、デカい図体の割に少ない搭載機数はその辺に理由がある。 

 

確かに姉妹艦である大和と武蔵は多数の魚雷に耐えたけれども、それは艦が完成されており、尚且つ乗員に対して適切な訓練が施された状態だったから。信濃はそもそも艤装工事中であり、艦内は工事に伴う多数のケーブル類が這っており、被雷時に水密扉が閉め切れない原因となった。 

 

それだけでなく乗組員が信濃の艦内構造を熟知しておらず、更に各種機器の操作にも不慣れな状態だったので対処が遅れた。防水区画は機能せず、機関部に浸水した事で電力を喪失し排水ポンプは使えない。更に装甲空母は広大な飛行甲板に装甲を施したことで重心が高い。色々な条件が悪い方向に全て働いてしまい、本来の性能を活かすことなくたった4発の魚雷で沈んでしまった。 

 

 

・30年以上前、日本の戦艦、空母のプラモデルを作ってました。パッケージや組立て説明書に書かれた当時の背景を見ていたものの、単にカッコいいというだけの感情でした。信濃は独特の色で印象深かく、人気がありました。改めて信濃の歴史背景、なかった事に…を知るととても悲しくなります。信濃だけではなく全ての戦艦、空母、戦闘機をいかにリアルに作るか?と、必死だった思いが蘇ります。改めて、当時と違う感情で信濃を作りたくなりました。 

 

 

・恥ずかしながらこの事実、存じ上げなかった。読んで、当時の日本軍部の杜撰さと、命を軽んじる戦争の浅はかさに、憤りを感じました。大和の建造地県出身で、大和の事は教育的にも資料的にも触れる機会が多かった為、知ったつもりになっていた。が、実際に体験した方の思いは、戦後生まれの自分には、想像も及ばないものだったと思う。辛い記憶なのに、語って下さって、有難うございます。当時無念の思いで沈んだ若い兵士の皆さんに、改めて鎮魂の思いを伝えたい。 

 

 

・人命軽視の結果が、神風や人間魚雷、はたまたインパール作戦等の実行です。それに加え、本来、責任をとって断罪にされないといけない上層部の方が責任の所在があやふやにされるため、繰り返される。日本の行政組織等の構造は基本的に今も戦前と変わっていません。江戸時代から、支配階級の武士以外の人々は、統治の対象でしかない。戦後に民主主義の考えが欧米から導入されたといえ、その思想がずっと残っているから、日本に民主主義が根付かないのです。 

 

 

・先日30歳を超えた娘と、孫たちにどう戦争を伝えていくのかを話した。娘が言うには、小学生で観た「はだしのゲン」や「火垂るの墓」は私には辛すぎた。自分の子どもたちにいつから見せていいものかと。 

気がつくと全くと言っていいほどテレビで放映されなくなった戦争関連の番組。いつからなんて思うこともなく、家族で当たり前に観ていた昭和時代。 

55年前、小3で「八月が来るたびに」が課題図書になった。今でもしっかりと覚えている。いいも悪いも現実に体験した幼い命があるのだという事を決して忘れてはならない事だけは確かだと思う。 

この様に話してくださる方がいらっしゃる事、取材をしてくださることが 

本当に大切だと感謝した記事でした。 

 

 

・侵略されれば反撃しなければなりませんが、戦争の悲惨さは常に語り継がなければなりません。戦前の日本では、不況になると戦争による景気の回復を望む声が出て、マスコミの扇動に世論の多くも同調しました。つまり戦争を生む土壌を作ったのは、多くの庶民にも原因があったと言えます。世界中の人々、一人一人が、戦争の悲惨さを常に意識し、戦争へと向かう流れに同調せず、戦争回避の努力を続けることが重要と思います。 

 

 

・子供のころ、ホビーショップで空母「信濃」の勇壮なパッケージイラストに魅かれて小遣いはたいてプラモデルを買って来た。それで説明書読んだら、これだけ凄そうな船が何の成果も得られず沈んだ…と書かれていてショックを受けた。 

 

そこから興味をもって色々調べたら「大和」も「武蔵」も、活躍らしい活躍も出来ずに海の藻屑になっていた。子供心にも納得行かなかったが、まして当時、直接関わったり乗船していた人の無念は計り知れないと思う。 

 

 

・信濃建造時には造船の職人すら徴集されてしまい苦労しながら突貫工事を繰り返し建造しないといけない状況だったと読んだことがあります。 

姉妹艦の武蔵は凄まじい数の航空機に襲われ数時間の空襲に耐え続けることができたのに、信濃は追跡してきた米潜水艦の魚雷を受けたことが致命傷になり沈没してしまい、呉にたどり着くこともできず艦に乗り合わせた全ての人が沈没してしまい無念だったと思います。 

 

 

 

・信濃はなかったことに、それもまた大本営発表 

亡くなった兵士への冒涜であろう 

一人ひとりの兵士の生命よりも、組織の面子の方を重んじる 

それが旧日本軍の悪しき特徴である 

いったいどれだけの命が犠牲になったことか 

我々は旧日本軍の組織としてのあり方を改めて総括しなければならないだろう 

 

 

・亡くなった祖父が空母・赤城の航空整備兵でした。 

 

飛行機好きだったようで本当は予科練に入りたかったようですが、目が悪くて不合格だったから、整備兵になったんだと生前に話してくれました。 

 

ミッドウェー作戦の前に後進整備のため、艦を降りる事になったようで、同作戦で作戦に参加した主要空母が全部沈んでしまい、多くの仲間を失った事を人目を避けて泣いたようです。 

 

祖父はその後の激戦を終戦まで生き抜きましたが、多くの仲間や大切な物を失って、敗戦から立ち直るのはとても大変だったようです。 

 

祖父が亡くなってもう25年が経ちますが、毎年墓参りが近付くとこの話を思い出します。 

 

今は天国で祖母や旧友達と仲良く過ごしていれば良いな…と思います。 

 

 

・赤潮が発生した後、その海域に生息している魚が死んでお腹を上にして浮いている光景を人間に例えたら、その様子は手に取るように理解出来るのではなかろうか。こんな事書くと随分非難されそうな気がするが、水害で死体を見る度にこんな光景が想像されてしまう。 

 

 

・2年前に92歳で父が他界しました。戦争体験者でもあり、終戦記念日のときなどよく戦争での体験や悲惨さを話してくれました。大空襲があり、学徒動員に出ていた父は家族の安否を心配し帰る際、道端で倒れてる人に助けてくれと叫んでる人がたくさんいたとの事。父はギリギリの年齢で戦争には行ってません。広島に近い事もあり原爆での悲惨な話もよく聞きました。戦争の話を聞く度に息が詰まる様な思いで胸が痛く、戦争に行ったご本人や見送る家族の思いを思うととても苦しくなります。日本の為とは言え、天皇陛下万歳としか表向きでは言えず。父が他界し、今はもう話が聞くことも出来ません。 

今まで辛くて話して来られなかったこと。どうか後世に戦争がどれだけ悲しく辛いことか語り続けていただきたいです。 

 

 

・戦争で生き残った人たちの話を聞いていつも思うのは「戦争をしてはいけない」というただ一点のみ。 

亡くなった祖父に聞いた話だが一人目を殺す時は抵抗感がすごく体が震えた。しかし2人3人と殺していくうちにそういう感情が擦り減っていく。だんだん自分が人間ではない何かになっていくんだと。 

戦争は終わった後に悲惨な現実しか残さない。同じ人間同士仲良くできる世界であって欲しいと思う。 

 

 

・亡くなった叔父が海兵でした。全く戦争の話をしませんでしたが、晩年脳を患った時に錯綜する意識の中で戦時中の体験が蘇ったのか、突然敬礼したり何か軍隊内のことを譫言のように叫んでたらしいです。当時の軍隊での記憶は戦争を体験してない我々からしたら想像を絶する非人道的なもので、映画に出てくるような綺麗事では済まされない壮絶な世界だったんだと思います。 

 

 

・元は大和型戦艦なので大きさは同じ。当時は世界最大の空母だったはず。 

20世紀冷戦時代の原子力空母はともかくも、21世紀になった現代では正規空母と呼ばれる大型空母も信濃と同じだと思いますよ。最新の対艦弾道ミサイルや核魚雷を食らえば簡単に沈みかねない。敵からもっとも狙われ易い標的です。トレンドは大きな被害リスクの空母のような打撃力の一極集中から、小リスクな小型艦艇の分散多配置に向かうんではないでしょうかね。 

 

 

・30年以上前に6年生のときにウォータラインシリーズの信濃を製作した際にとにかく全長よりも幅が大きいと思ったことを思い出す。 

隼鷹、大鳳と作ったが幅が大鳳の1.5倍くらいあった。しかし、大鳳も信濃も現存する写真が少ないのが悔しい。雷撃された際には直ぐに沈まないと思ったという証言がありましたね。無理に航海せずに近隣の港に座礁させれば助かったのでは?という話を聞いたことがあるが私にはわからない。いずれにせよ、呉に無事に辿り着いても江田島付近に偽装係留されて、天城などと同じ運命を辿っただろう。 

 

 

・大和が映画にもなり、多くの人に覚えられている一方で、信濃は歴史の闇に葬られてしまったのですね。 

同じ戦争の犠牲者であるにも関わらず、あまりに不平等だと感じます。 

ただそれが葬られたままでなく、生き延びた方の手によって語ることが出来る社会になって良かったと思います。 

よくぞ取材してくれました。 

ウクライナやガザのニュースを目にするたび、戦争は遠い過去のことでも、遠い外国のことでもないと強く思います。 

終戦の日の前に、お話が聞けてとても良かった。 

信濃のことを忘れずにいようと思います。 

 

 

・信濃艦長阿部大佐が潜水艦の雷撃よりB29の爆撃を危惧し、日本本土はるか沖合の航路を行く事を決定。これに対し駆逐艦雪風艦長寺内正道中佐など歴戦の艦長達は沿岸航路を選ぶべきだと主張したが却下、これにより米潜水艦セールフィッシュに捕捉される事となった。信濃沈没時、海面は荒天により大しけで救助は困難を極め多くの者が犠牲になった。この時、寺内艦長は艦橋から、賢そうな役に立ちそうな奴から救え、と叫んだそうな。ちなみにゴジラ最新作での雪風艦長役はこの寺内艦長だと思っている。体型その他から。 

 

 

 

・20年近く前に亡くなった私の叔父は、沈没した空母信濃に乗船していました。 

 

私が小学生の頃(50年位前)、空母信濃のプラモデルを作って自宅のリビングに置いてあったのを、たまたま訪れてきた叔父が見つけ「俺はこれに乗っていた」と話すのを聞き、驚いたことを記憶しています。兵士ではなく、調理担当として乗船していたらしいです。 

インタビューに答えていた方と同様に自力で泳いで、他の船に救助されたようです。 

口数の少ない叔父さんから戦時中の体験を直接聞いたのは、そのときの一回だけでした。 

 

間もなくお盆。今年も叔父の墓前にお参りして手を合わせて来たいと思います。 

 

 

・今から半世紀前の湘南地方にある高校の数学の授業の終わりに教師から信濃の話を聞いた。数学教師は横須賀の海軍基地で数学を教えていたという。教師が話したことによると夜間に出向した信濃は魚雷攻撃を受けたという。もとより、大和は片側に9本もの魚雷命中で沈んだので、同型艦の信濃は沈むはずはないと楽観視していたようだ。潜水艦からの魚雷なので、士官たちは陸側からではなく太平洋側から発射されたものと錯誤したそうだ。艦に命中した場所を確認せずに、魚雷を受けた側(陸側)に注水してしまったという。艦への浸水は加速度的に起こり、大きく艦が傾き注水個所が誤りと気が付いた時には対処不能だったという。もし、魚雷を受けた反対側(太平洋側)に注水していれば呉までたどりつけたどろうと言われたそうだ。横須賀基地内では信濃沈没に関して箝口令が敷かれたそうだが、何処こら漏れたか不明であるが、公然の秘密になったという。 

 

 

・80年前の人たちは大変な経験、思いをされている。当時の体験を聞くことはとても大切で後世に残して行かなければならないものだと思う。ただ…いつもこういう記事を見たり読んだりして思う事は最後には戦争は悲惨だ、絶対にやってはいけないで結んでいるという事。あたりまえではないか、戦争なんかしては駄目だ、日本は二度と戦争なんか仕掛けない。しかし、現実は核攻撃能力を有した隣国の脅威、挑発に晒されている。80年前の戦争の真実も今ではいろいろと研究され決して日本は戦争をしたかったわけではない時わかってきた。本当に戦争反対を意識する記事、報道をするのならば、外威に屈せず自国の領土や国民の命をを守るにはどうしたらいいのかという所までやるべきだ。相手国が戦争を仕掛けて来ました、日本は非戦の態度で両手を上げました、それを見た相手国は何もせずに帰って行きました…そんなお伽話はない。 

 

 

・信濃が建造されたころの日本では、既に機動部隊が壊滅し、艦隊決戦が不可能になっていました。それでも連合艦隊は希望を失わず、信濃を装甲空母化することで前進基地のように運用して、多数の米空母と対等に戦う事を考えます。そのため信濃は格納庫を小さくし搭載機を減らして甲板を強化しました。そして、決戦時には本土から次々と送り込む特攻機の中継地として利用し、多数の敵空母を特攻で撃滅する作戦でした。 

しかし装甲空母の大鳳に続き、潜水艦に簡単に沈められたことから、海軍軍令部は、潜水艦と人間魚雷回天を主力とした作戦に転換したと私は思います。こうした奇策は奇人参謀であった軍令部の黒島亀人などが主に考えていたようです。 

いずれにしろ特攻機や人間魚雷を主力とする非人道作戦でした。どこまでも特攻を無限に続ければ、アメリカは根負けし日本は絶対に勝てる「特攻こそ日本」と最後まで本気で考えた軍人たちが日本には多く居たのです。 

 

 

・信濃の回航に関して、護衛を預かる駆逐艦艦長たちは、自らが操艦する駆逐艦のソナー故障を理由に、昼間の沿岸部の航海を主張したが、当時の信濃艦長は夜間の遠洋を回るルートを選択した。 

また、夜間航海中は灯火管制が敷かれていたが、信濃の艤装を少しでも進めるために夜間も溶接作業が続けられていたと聞いている。 

 

 

・重防御を施した甲板で、洋上プラットフォームとしての役割を期待されたが、もはや載せる艦載機は無かったと言われている。「恥だから」というよりも、大和型戦艦は建造から就役後も軍事機密で、国民のほとんどは戦後まで存在すら知らなかったのが実情だろう。信濃は回航中に米潜アーチャーフィッシュに雷撃されているが、44年後半には日本近海も米潜水艦が遊弋している状態にあった。レイテで武蔵も沈み、海軍がほぼ壊滅した時期に信濃は竣工したが、突貫工事続きであちこち未完でドックでの浮揚テスト時にも事故を起こしている。紫電改の艦載型などで離着艦試験を行った際には、乗組員の操艦にやや不安があったという証言もある。仮に、雷撃に耐えて無事に残っていたとしも、大和とともに沖縄に突入するぐらいしか、使い道はなかったかもしれない。 

 

 

・信濃の撃沈は知っていたが日本近海沿岸での沈没はやるせない。仮に出来ていたとしても載せる飛行機があったかどうか、又護衛する駆逐艦や油槽船などが 

そろえることが出来たかで戦闘能力が変わってくる。十分に戦闘働けなかったのは残念です。 

 

 

・今の幸せポケしてる時代からは考えられない時代を過ごされた方がたくさん居て、後世に語り継ぐ方達が亡くなっていってしまい、こんな悲惨な考えもつかない恐怖や悲しみが忘れさられて行くのでしょうか。 

今私達は戦争もなく幸せな毎日を過ごしています。(もちろん悩みなどはみんなあります)自分のしたいことを選び、好きなものを食べて毎日笑って過ごせている毎日に感謝しています。 

 

 

・この方は公に仲間を弔えなかったことを怒っているんでしょう。それは信濃の出航がなかったことにされていたからに他ならない。 

搭乗員一人一人の想いや記録を無視して、プラモが出てるから歴史から消されてはいないとか、馬鹿馬鹿しいにも程がある。 

 

辛い記憶、記者はよく聞き出してくれたと思う。 

 

 

・大和・武蔵・信濃は極秘で建造だったんで、戦時を過ごした方には戦艦というと長門のほうが有名ですね。時代は戦闘機が主力だったのに、なんで病的なまでに戦艦にこだわったのか。高性能な戦艦を作っても敵に制空権を取られてたら手も足も出ないのにね・・・。この3隻に加えて戦闘機が十分にあったなら戦局は変わっていたかもしれません。 

 

 

 

・反戦教育熱心な自治体の小学生だった私は子どもの頃からはだしのゲンやにんげんを返せなどの本や映画をみて育った。 

あまりに怖くてある夏に寝られなくなった。 

目を閉じるとその光景が目に浮かぶ。 

母が一晩中付き添ってくれたけどウトウト寝ようとすると目に浮かぶので泣き叫んで寝られない。 

次の日病気でもないのに学校を休む時代じゃなかったのでフラフラしながら登校した。 

そしてその記憶が薄れた頃また反戦教育を受けて帰ってきて寝られない夜を過ごした。 

親は困惑したみたいだけど学校に意見する事なく「あれは過ぎた事だから、あなたは大丈夫だから」と言い聞かせてくれたけど今でもトラウマで原爆や戦争関係の悲惨な場面は直視出来ない。 

怖くて怖くてたまらない。 

 

 

・私の父から生前、一度だけ戦争にまつわる話を聞いたことがあります。 

終戦の少し前、父は神風特攻隊に志願し、出陣が迫っていた時のこと。 

ある日上官から呼び出され、「お前にはお父さんがいない(私の祖父に当たる人、父が小学生の頃亡くなったとのこと)。家族で男はお前一人だけ(父以外兄弟全てが女)。お前が家族を守らないでどうする。特攻は認めない。今すぐ帰れ」と言って追い出されたそうです。 

特攻は誰が考え付いたのか、最も愚かな作戦と思っていましたが、こんな人もいたんだと感心したものです。 

父と同い年の蟻坂さんのインタビュー記事を見て、ふと思い出しました。 

 

 

・信濃だけではなく、大鳳と言う新鋭空母も有ったはず。 

ミッドウェーで正規空母と準正規空母を失っただけでは無く、熟練の乗組員を失った事も、信濃・大鳳を進水から直ぐに失う原因の一つだと思う。 

 

 

・私は今50になって、戦争ってそんなに遠い過去ではなかったんだと実感しています。私が生まれる30年前頃まで戦争をしていた。今2024年で、30年前と言えば1994年。ついこの前のような感覚です。携帯が普及し始めるちょっと前。社会は随分変わったけど、絶対に油断してはいけないと思う。 

 

 

・加賀、赤城、蒼龍、飛龍、龍驤、瑞鶴。 

 

日本が誇る空母でしたが、 

打撃【群】というだけにその運用には空母単体ではなく、様々な取り合わせがあってこそなのでしょう。 

 

上記と肩を並べるはずだった信濃も、 

出港から17時間で撃沈とは。 

 

国を守る使命に燃えた日本男子が呆気なく海の藻屑となってしまった様を想像するには、壮絶過ぎます。 

 

馬鹿な大将は敵より脅威と言いますが、 

指導層の判断一つで幾多の人間の運命が左右される恐ろしさを感じてしまいました。 

 

改めてご冥福をお祈りいたします。 

 

 

・ゴジラの中の俳優、中島春雄さんは予科練を卒後に一時的に信濃に配属された。 

出港前に配置換えで信濃を下ろされたそうだが、乗ったままであれば映画出演も叶わずその後の特撮映画史に影響しただろう。 

 

 

・現在ではかなり信濃のことは詳細にわかっています。敗戦色が濃くなってきてから造られたため、横須賀で完全に完成できず、大和を造った呉に泣きつき、呉まで移動させるため横須賀を半完成で出航したそうです。そらやられます 

 

 

・もう太平洋戦争を経験した方が少なくなってきているので、こういうお話を記録してYouTubeなどで若い世代が知れるように国が動いて欲しい。直接お話をお聴きできれば一番良いと思うが、ご年齢的にも大変だと思うので今のうち映像記録だけは残して欲しいと思います。 

 

 

・まぼろしの空母...私の祖父が乗船したのかもしれなかっただろう。昭和19年に沈没し、日中泳ぎまくって広島に漂流したという話を聞かされた。その話は亡き父から聞いたので,もっと詳しく聞いておけば良かったと悔やまされる。 

 

ご冥福をお祈りします。 

 

 

・戦争は勿論しない方がいい。当たり前です。きれいごとだけでは割り切れない。戦争は相手がある事。喧嘩は両成敗。どちらにも正義も大義もある。 

現在でも武力や核を持って一方的に蹂躙してくる国もある。また世界から孤立化させて経済的に餓死させようと悪意を持って画策してくる国もある。その中で国家国民民族が存続していく為には最終手段は必ず必要なのかもしれない?座して奴隷となるを選ぶか?たとえ負けるとわかっても一部の望みを掛けるか?難しい選択です。あの悲惨な戦争から、現代の我々を守ってくれた先人の方々にはほんと感謝の気持ちでいっぱいです。今の日本の繁栄があるのもあの大戦を戦ってくれたおじいさん、おばあさんのおかげです。ありがとうございます。 

 

 

 

・やはり実際に体験した方の言葉は響く。 

どこか遠い自分には関係ない出来事が、体験した方から聞くと一気にリアルに現実のものとして捉えることができる。 

 

そう言う方がいなくなってしまったら、本当に戦争を概念としてしか捉えられなくなってしまい、人間はまた同じ過ちを明かしてしまうのだろう。 

 

 

・”「体験していない人が戦争について考えることは難しいことだと思うが、戦争は絶対にやってはいけない。罪のない、関係のない人も殺してしまうから」。 

故水木しげる先生もガダルカナルなどで行われた、玉砕について生き残った兵を殺すために日本軍が来たという衝撃的な漫画を描いていた。押し殺していた怒りを語れずにいられなかったんだろう。蟻坂さんも自分の命が尽きるその前にしまっていた想いを語れずに死ぬわけにはいかなかったんだろうな。戦争は政府が主導してマスコミがプロパガンダを繰り返せば簡単に起こせる。心しなければならないだろう。 

 

 

・私の親戚のお爺さんが武蔵の乗組員でした 

亡くなる数年前に語ったことは悲しい話より、海軍は食い物がうまかった、1番は鯨肉の缶詰は美味くて酒の肴に最高だったなどと面白おかしく語っていて、出航前日に仲間と最後かもしれんと酒を飲み過ぎて乗船に遅れて 

しまい、乗船できなかったとそうです。その後、武藤は沈んでしまったんだよーって苦笑いしてました…語ったのはあの日一回だけでしたね。あえて悲しい話しはしたく無かったのかも。 

乗り遅れてしまったけど、酒飲みで親戚たちから煙たがれる人らしかっみたいだけどユーモアのあるお爺さんでしたね。 

 

 

・中国地方の高齢者施設を訪問した際のことを思い出しました。。。 

戦争を経験された男性と話した際の言葉です。 

 

「大和。アレらは無用の長物であった」と。 

内心は皆、そう思っていたと。 

 

広島、山口なだけに当時は様々な情報がありリアルな心情であった事が伺えた。 

当時車椅子上で語るあの方が発する言葉は非常に説得力があり真実味があった。いや。真実しかなかった。 

 

大和、陸奥、武蔵そして信濃。思想を信じ思想の為に散った方々を思うと無意味と片付けるには余りにも悲痛。それが戦争なのだと痛感した。 

 

 

・戦後生まれですが 

信濃の話は前から知ってましたよ 

確かに若い人は知らないかも 

 

私達は 戦争にいった人から話聞いているので 

戦艦大和に乗ってた人から 沈む船から泳いで逃げた話や ガダルカナルに行って死んだおじさん(お祖父さんの弟)もいました 

 

戦争は本当に悲劇ですよ 

 

 

・無念のまま散られた信濃の乗組員の方々のご冥福をお祈りいたします。軍隊という組織で上官が判断することはいかに世の中の常識とは異なっていてもそれが正義、だから正義の名のもとに無謀なこと残虐なことも行いそれが正しいと言い切る。しかしながら判断するトップは自分たちの保身や権益も守ることが判断材料に加わる。だから不都合は正義の理由をつけて隠ぺいする。それはいつの時代でも同じ。例えば警察トップが不祥事を起こし部下が告発してもトップのやることは正義、よって部下が罰せられる。冤罪事件でも検察は自分たちの見立てが正義、だがら悪である容疑者はなんとしても有罪に陥れようとする。常に盲信、猛進するのではなく「自分たちの正義」って本当に正しいのかという自己への問いかけを常に持ち続けるべきと思う。 

 

 

・大和型の三番艦の予定だったが戦艦など無用の長物になり空母に転用された。 

そもそも載せる飛行機も飛ばす搭乗員もいなく、随伴する船もないのだから全く無意味な船。 

鋳潰して他の兵器に転用する意見もあったが官僚のメンツで工事を止められなかったのだろう。 

近海を敵潜が徘徊し民間戦も含めほとんど撃沈されていた。護衛の駆逐艦長は昼間ならなんとしても守ると言ったが、無視して夜間に移動し敵潜に撃沈された。敵はタンカーか何かと思ったという。 

防水区画が完成していれば多少の魚雷では沈まないが未完成であえなく沈没した。 

戦艦大和も護衛機もないのに無意味な沖縄特攻を命じられ多くの将兵随伴艦とともに敵機動部隊の空襲で撃沈された。 

無責任で愚劣な官僚の証拠隠滅作戦のために多くの人命、国民の財産が犠牲になった。 

 

 

・特に太平洋戦争においては「作戦重視の日本」と「情報重視のアメリカ」の差がはっきり出ました。最初に立てた作戦を状況変化があっても死に物狂いで完遂しようとする日本に対して、米軍は暗号解読やスパイ活動、潜水艦などによる情報収集で臨機応変に対抗、戦争末期にはことごとく米軍が制海権を支配しました。 

そういう背景にも関わらず出航した空母「信濃」が早々に沈められるのは想像に難くない…しかもほとんど護衛もなく、不完全な武装で回航を強行したのは実に不可解です。 

日本では信濃の存在がほとんど知られていませんでしたが、米海軍ではみんな知っていて撃沈しようと待ち構えていたことは皮肉でしかありません。 

 

 

・辛い経験を胸に秘めて生き抜いて来られたのですね。。 

 

子供の頃祖父母と同居していたので、戦争の話はよく聞いていました。 

空から爆弾が降ってくる中防空壕へ走ったこと、たまたま他人の防空壕へ逃げ込んだ人が、そこへ爆弾が落ちて亡くなった話など。 

 

祖母はいつも「おばあちゃんには青春がなかった」と言っていました。 

 

 

・こんな巨大な船であっても数本の魚雷で沈んでしまうものなんですね。子どものころ旧海軍の駆逐艦で勤務していた方から、魚雷の他にも陸で使うような爆弾も岩が跳ねて転がり落ちてくるような勢いで海面を跳ねてくる、と聞いて感心?した事を思い出しました。 

 

 

 

・>「亡くなった人たちまで歴史から消されてしまった」。 

 

この方がずっと抱え、苦しんできたことなんだろうなと思う。 

彼らは愛国心と忠誠心を持って乗組んでいた仲間だったなのに、何も悪いことをしてない彼らの存在すら消されてしまった。弔うことすら出来ず、このままでは命を落とした人たちが浮かばれないだろうという想いもあり、ずっと悔しくて、苦しかったはず。 

 

今の時代にはにわかに想像しがたい光景だが、実際その事実があった。想像力を持って当時を振り替える必要があると思う。 

 

 

・自国の防衛も含めて戦争を避けようともしない人達には、 

非常に残念ながら届かない声なのだと思います。 

そもそも旧日本軍やナチスドイツが他国に攻め込んだ時、「自主防衛」を主張しながら攻め込んだのです。 

今のイスラエルも自国防衛を理由にガザ地区で虐殺行為を行っています。 

それらに目を背け続ける人が増える限り、また再びこうした悲劇は発生するでしょう。 

 

 

・私の曽祖父は、僧侶でした。 

「横須賀から出てすぐ魚雷でやられた。なーんにも戻ってこなかった。」と生前曽祖母が言っていました。それ以上はわからないと。 

今日この記事を読んで、「これだ!」と思いました。曽祖母が亡くなった時、曽祖父からの手紙が大事にしまわれてたのを見つけました。家族は元気にしているか?など書かれていました。涙が出ます。 

 

 

・こちらから戦争は仕掛けない方がいい。 

だが、向こうから仕掛けてきたらきたら防御するしかない。 

防御の中には正当防衛である敵機を破壊する行動も含める専守防衛が日本のやり方だけど、現代においては相手国が核で威嚇し実際に仕掛けてくる可能性もある以上、抑止用の核保有は必須のような気がする。その上での空母運用が望ましい。 

 

 

・戦争をすると関係ない人まで亡くなる。と言ってましたが、今の時代は国民の選挙で政治家を決めて、その政治家が国の舵取りを行います。プーチンはほぼ独断で侵攻しましたが、プーチンを選んだのもロシア国民。日本人も世襲議員に悪態をついてますが、国民一人一人が政治に無関心なことも原因だと思いますし、国もあえてそういった教育方針にしている気がします。 

 

 

・平成に入り幻の空母信濃の人智を超えた大改造工事の全廊が分かる書籍が多く出てきて読んで驚いた。信濃が日本を救う の大号令の元、日夜の突貫工事、資材の乏しい時節の主計局の涙無くしては読めない資材調達。もっともっと表に出して良い話だと想う。 

 

 

・昔々は日本の技術力も今ほど優れていない。すぐに沈んでしまう船に乗りお国の為に仕方なく戦っていた。しかし、今の人は日本の為とはいえ大切な命を投げ出してまで果たして戦うかなぁ?特攻隊もみんな若い人達が突っ込んで行く。昔の人達が日本の為に戦かったおかげで今があるのかなぁ?私には到底真似なんか出来ないって思ってしまいました。 

 

 

・こうやって生き証人となって当時の体験を語ってくれる人の話を聞けるのも、あと何年あるんだろ… 

来年、戦後80年の節目の年。 

彼らは経験してるから自信をもって「殺し合いを生む戦争なんてやるもんじゃない」と言えるのだろう。 

 

国大なりといえども 

戦いを好めば必ず滅ぶ 

天下安きといえども 

戦いを忘れれば必ず危うし 

 

故・山本五十六 

 

この言葉の意味を今一度考えてみようと思いました。 

 

 

・戦争に行っていた人の話を聞く機会が沢山あった。俺が年取ったて事でしょうが。その方達の話ですから局地的な話で濃厚な話しを聞かせてもらった覚えがあります。飛行機整備兵で操縦桿席に座り整備をしていた時に銃撃をうけた。生きてたんですね、あったけぇな〜と触ったらヌルッとしたんだよ手が。どちらの胸か覚えていませんが夢中になって操縦席で整備をしていて気がつかない。聞いていてありえないだろ〜と、思っていましたが自分が仕事をする様になると アリ だな、と思うました。嘘偽りのない若い男の仕事ぶり、我を忘れて熱中した結果です。同じ様に作業をしていて亡くなった方が沢山いると思います。ご冥福をお祈りいたします 

 

 

・まさか信濃の乗組員でご生存されてる方がいるとは思わなかった。写真も確か一枚しか残ってないんですよね。 

大和、武蔵共に現代の技術で発見出来たから、是非信濃に関しても発見していただきたいと切に願う。 

それにより「なかったこと」にされた乗組員等の供養も少しはされるのでは?と感じてしまう。 

 

 

 

・無かった事にされるといえば、割と最近、近くの国で新幹線によく似た車両が高架から転げ落ち、翌日には落ちた所に被害者ごと地下に埋められてしまい、無かった事にされそうになった事が思い出されるなぁ。 

 

 

・現在95歳にもなる蟻坂さんが信濃に乗艦していたのは16歳の頃の話。 

もうそれだけ時が経ってしまっています。 

沈没時の話は、とても貴重なお話です。 

下から天井をたたく音が聞こえたとか、生々しすぎて胸が痛くなります。 

 

14歳で少年兵に志願って、中学2年生が軍に志願するとか、 

今、そんなの考えられます? 

もはや政府も自国民の若者をを守る気ゼロですやん。 

子どもを戦地に送るのを合法にしちゃうんだから。 

戦争ってのはそういうのが平気で行われてしまうので、絶対に起こしてはいけないと思うのです。 

 

 

・回航するのに何故昼なのか、沖合を選択したのかいまだかつて全く意味がわからん。信濃艦長は昼の方が潜水艦を発見しやすいとの理由だったらしいが、駆逐艦艦長連の主張は夜に沿岸なら本土をバックにカモフラージュができ、護衛も外洋側だけで済むと言う合理性がある。だが、それを押し切っている。 

このガタイでは先に潜水艦発見されるのは目に見えているのに…。 

 

 

・戦争体験を語れる人が減ってきた。 

私の父も90代。消えゆく世代である。 

 

若者の中に「高齢者不要」論を唱える人が増えているようだが、安全で便利で衛生的な世の中があるのは、沢山の犠牲者と貢献者がいた結果であることを認識しておいた方がよいと思う。 

 

いつまでもこの平和な社会が続くと思わない方がよいかもしれない。 

 

 

・乗組員としか書かれていないが海軍では船種類別に関係なく船底は下階級、上がるに連れ水面から地上監視司令塔へと上り、階級も下士官・士官へと上がります。船底は酸素が薄く蒸し暑いので機関兵は大変だったと聞きます。潜水艦も鉄不足で母体が薄く、水圧負けするので深度を浅く、その下を掻い潜って魚雷を撃ちまくっていたのが米潜水艦、ということを江田島兵学校の親族は言ってました。実の経験談はリアルです、可もなく不可もなく 

 

 

・1400人もの人間が亡くなったのに、無かったことにするなんてあり得ないな。 

亡くなられた人は一人一人家族もいたであろう。 

特に母親は、亡くなったことも伝えられず、 

ずっと息子さんの帰りを待っていたかも知れない。 

岸壁の母はたくさん存在していたはず。 

自分の子供を先に亡くすほど不幸なことはない。 

 

 

・艦これで未だに実装されていない艦のひとつが空母「信濃」です。艦これは、ゲームとはいえど史実に準拠した設定のあれやこれやの啓蒙系ゲームなので、リアルの事実の知識がプレイヤーに残ります。新規実装艦が出れば、それを深く知るために沈没までの歴史を調べて、戦記を噛み締めて、当時の苦しい日本の状況に思いを馳せつつ、毎日資源を貯めて兵站を整え、任務を遂行して、常設海域に出撃してレベルを上げ、装備を充実させて、理不尽な不定期イベントに備える、そんなマゾいゲームです。 

 

艦これ未実装の「信濃」は、当然ですが全く意識にありません。忘れてました。運営も忘れているのではないでしょうか。それら全体構造が偶然にもこの記事の帝国海軍の秘密主義なやり方と重なるところがあって、申し訳なく思ったりします。 

 

 

・この方はギリギリ昭和生まれか・・・。 

団塊ジュニアとか就職氷河期だとか近年の貧乏くじ世代なんて言われる世代があるけども、本当の貧乏クジ世代は大正生まれの男性だよな。 

大正生まれれの男性の6~7人に一人は戦死されたのだとか。亡くなった方の割合だけでもこれ程なんだから、言えない傷を負ったひとはどれほどいたんだろうか。すべての日本人はこの世代の方たちに足を向けて寝られない。この世代の人達への年金とか医療については誰も文句を言う人はいないと思う。 

 

 

・当時の戦争は日本から始めた侵略戦争だ。戦争は始める側と仕掛けられる側がある。心配しなくても当時の世代と違い、今の世代は自分から戦争を仕掛ける人はいない。今の問題はウクライナのように仕掛けれた時どうするかだ。戦争をしてはいけないの言葉を言う人は、仕掛けられても戦うな言う事か?。 

 

 

・信濃はガキの時分、プラモデルで作った。けど船体の色を深緑一色で塗ってしまった記憶がある。それはともかく、もしも日本が負けずに大和・武蔵・信濃をはじめ他の正規空母や戦艦を戦後も保有してたらなあ・・無念だ。 

 

 

 

・何とも悲しく壮絶な体験ですね。 

しっかりと歴史に刻まれるよう、命ある限り語り続けて頂きたいと思います。 

そして絶対に戦争をしてはならない。今を生きる大多数の日本人の願いです。 

そのために、日本の防衛や外交姿勢、安全保障や憲法、自衛隊の位置付け、この辺りの思いや提言も語って頂けるとありがたいです。 

単にマスコミのお花畑記事に利用されるだけでは戦争の犠牲になられた英霊や国民に申し訳ないと思います。 

 

 

・大和と同サイズで完成すれば世界最大級の空母となった筈だが…建造途中での無理な変更に、艦載率は赤城、加賀に劣ると聞いた事が有る。また、まともな機体機数の艦上戦闘機、艦攻、艦爆、水偵に搭乗員から乗組員を揃える事が果たして可能だったたか?護衛艦から直援の問題に恐らく短命だったろう… 

 

 

・年々生きた語り部さんが少なくなっていき 

話を聞く機会も減って来ましたが 

認知症でボケてしまった御年寄でも戦争の話をする時はしっかりとした話をしてくれる事があり、戦争の悲惨さがどれだけ脳裏に焼き付いているかを物語っているかのようでした 

戦争は無い方が一番だけど 

だからといって無抵抗に占領される訳にはいかない 

先人達が命を賭して守って来た物を平気で売り渡すような事はあってはならない 

 

 

・ん・・??? 

確かに悲惨なことですが、第二次世界大戦中は大戦に参戦した多くの国の兵士が亡くなったんです あえて職業軍人は別とします。 

参戦した国でも自分の意思で兵士に成った者より徴兵されて自分の意思に反して兵士に成った方の方が遥かに多いんです。 

民主主義と言えども 戦争を始めた政治家が最終的に悪なんですよ 徴兵された一般人は溜まったものではない・・ 

今 ウクライナ・イスラエル ウクライナ兵の多くは徴兵 言わば無理やり戦場に・・別にウクライナがロシア領に戻ってもウクライナ国民の生活は旧ソ連時代に変わるの?・・国外に避難しているウクライナ国民は戻るの?一時的に国籍は無くなるが・・ 

イスラエルでは非戦闘員の多くが亡くなってます、隣国との国境は閉鎖され G7のG6がイスラエルを援助同然。 

全て 最終的に政府の政治家が悪いんだろうね。 

そもそも ハマスの初めの攻撃すら 本当にハマスだったの? 

 

 

・>>「『船が沈むときは絶対後ろを見ないで泳げ』と言われた。なぜなら後ろから泳げない人が足を掴んでくるから。その時は後ろを見ないで蹴っ飛ばせと。2人死ぬより1人でも生きるほうがいいから」。 

 

この教えは、歴戦の犠牲の上で得た教訓だと思うと本当に壮絶ですね 

今の平和は夥しい犠牲の上にあるのだと改めて思います 

改憲賛成派ですが、戦争は本当に起こしてはならない。 

 

 

・祖父母が沈没海域周辺の串本町(旧古座町)の漁村出身です。この時の爆発はかなり大きな音だったらしく、爆音を聞きつけた人達が慌てた様子で何人も浜に集まって「一体、何があった?」と沖合いを眺めながら話し合っていたそうです。爆発は数時間後にもう一度あり、いよいよ只事ではないと皆と相談していたが、航空母艦が轟沈した情報が和歌山県の僻地に伝わる事など当然無く、実際に信濃が沈んだと知ったのは戦後数年を経てから。その時も集落で噂になったそうです。 

 

 

・この時の戦争に行かれた方は 

負け戦に弾も銃器も食料も少なく 

時代遅れの船に乗らされ 

無謀な作戦のまま突っ込まされ 

日本の国民を守る為に戦い.或いは戦わされたのに 

戦後、戦犯のように言われ、無駄な戦争だったかのように言われ続け、敵国だったアメリカが大好きと 

いう今の日本 

欧米人が好きな日本 

私の父も叔父さんもそうでしたが 

報われない青春時代を戦争でむちゃくちゃにされたのに、戦わなかった方がよかったみたいな 

報道しかしないが、 

戦わなかった国がどうなったか歴史を 

勉強すれば解ると思う。 

この時の軍人さんは本当に可哀想。 

もっと私はありがとうございました 

ご苦労様でしたと言いたい。 

 

 

・横須賀から呉軍港に向かう途中、あっけない最後でした。フィリピンでの特攻も始まり、搭乗員の練度もガタ落ちと烈風、流星等の後継機の開発もままならず、例え、後日出撃出来たとしても沈没は時間の問題でした。 

 

 

・戦艦とか戦闘機とか見た目は勇ましくカッコいいと思うものの、 

 

例えば戦艦が沈めば乗艦しているほとんどが何も出来ずに艦内や海の中で亡くなる。個人の選択も意思も自由も何もない。 

 

これは想像出来ない程怖い事だと思うし、 

戦争は一般市民にとって避けようがなく降り掛かる。 

 

 

・権力がある人間が愚かだと、こういう悲劇が生まれるということを歴史から学ばなければならない。 

それなのにマスコミに踊らされ、未だ権威主義や政治に無関心だったり、自分の利益に関係なければ現状維持を求める国民が多いのはどうかと思う。 

 

 

 

・頭の上を弾丸が飛び交い、撃たれた者は、流血しながら、のたうち回って死ぬ。 

戦争はしてはならない。 

頭では分かっている。 

しかし、実体験のない者達は、こう思う。 

やむを得ない戦争もある。 

正義のための戦争はやるしかない。 

だから、人類が存続する限り、いつか、どこかで必ず戦争は起こる。 

そして、戦争が終われば、こうつぶやく。 

戦争はしてならない。 

 

 

・そうしたのは、戦争に勝つ為なのだから仕方が無い。 

 

と言うか、当時の日本軍なら当然というものだろうに。 

 

公表すれば国益を損なうことを秘匿するのは、現在も、どこの国も同じだ。 

 

空母信濃の沈没については、現在は秘密などされていないし、知らないのは無知なだけ。 

 

問題があるとすれば、太平洋戦争について、学校教育でろくに教えない、日本の教育制度だ。 

 

 

・政府というものは過去にいろんな悪事をしてきました。一番信用ならない存在なので今回の地震騒動もなにか裏がありそう。こんな政府が進めてきたワクチン、信用してきてしまった方々は本当に気の毒だと思います。 

 

 

・96歳という御歳ではっきりされているというのは凄いです。 

たいへんおつらいお気持ちでしょうが、是非とも手記とかの 

形で体験の記憶を後世に残していただきたいです。 

これからもお元気で。 

 

 

・わずかな想像力でわかること。 

戦争を学ぼうとしない平素勇ましい軍国少年議員がいる。 

自分の命だけが大切だから、有事はまず家族を逃がし、自分も逃げる。 

国の国防とは無縁な人間性は確実に存在する。 

取り残されて犠牲になるのは、いつの世も兵士と国民。 

その時になって驚いてはいけない。 

 

 

・子供の頃、ウォーターラインシリーズのプラモでジオラマを作りました。連合艦隊ぜんぶを並べてました。たしか、大和、武蔵級の船体で空母として作られたのが信濃だった記憶があります。祖父がビルマで戦死しています、いまの日本人は戦争で犠牲になった方々の分も懸命に生きなくては、バチがあたりますね? 

 

 

・第二次世界大戦もそうだし、今のロシアやウクライナなどもそうだけど、国の上層部が勝手に戦争を始めて多くの国民が犠牲になる。 

改めて、戦争で亡くなられた方々に黙祷を捧げます。 

 

 

・これ、生き延びた人以外、誰が乗っていたのかすら分からないとしたら。 

戦死者の死亡通知すら家族に渡っていなくて、戦後何十年も、生きていると信じて待っていた家族が相当数いたということ。 

そして何よりも。 

誰が亡くなった方の分からないので、英霊なのに靖国に名前が祀られていないということ。 

せめて国は、調査を入れるべきだ。 

無念すぎるだろ。 

 

 

・信濃の護衛をする駆逐艦の艦長達が米国潜水艦が居るから、と別の航路や出航時間を提案したけど、信濃の艦長が受け入れずに行った結果、米国潜水艦に発見、追尾されて撃沈の憂き目に 

 

 

・信濃は姉の大和を調べていて知った。 

兄弟共信濃の数少ない写真で綺麗な艦だなと思ってたが沈む原因と軍への怒りが込み上げてきていた。 

後中高生時代は横須賀の学校に通っていたから 

縁があるから好きな空母の一つ…乗組員さん以外にも忘れないようにしないと 

 

 

 

 
 

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