( 201064 )  2024/08/12 18:12:18  
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疑惑の判定に泣くも、銅メダルを獲得した永山竜樹選手/Photo by Gettyimages 

 

パリ五輪の柔道競技は審判裁定に大揺れに揺れた。まず初日の7月27日。男子60kg級の永山竜樹の絞技による一本負けだ。 

 

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相手はスペイン代表のガルリゴス。昨年の世界選手権優勝の強者である。永山には内股や袖釣の一発があり、ガルゴリスは寝技が得意。力は拮抗しているとみられていた。もつれた試合は終盤、永山の背中についたガルリゴスがネルソンから袖車絞め(公式記録は「片手絞め」だが明らかに袖車だった)を狙った。しばらく見ていた主審が寝技膠着の「待て」をかけ、開始線に戻って立技から再開するよう指示した。このとき永山にはまだ意識があった。しかしガルリゴスが主審の「待て」を聞かず絞め続けたため永山が落ちてしまう(絞技で失神して意識を失うことを柔道では「落ちる」という)。 

 

ここで主審が副審を含めて協議をすればよかったが「一本」を宣して試合を終わらせてしまった。場内外が大騒ぎとなり世界中のSNSに拡散して収拾がつかなくなった。3日後に選手村の中でガルリゴスが永山を訪ねて謝罪したため問題は沈静化するかに見えたが、SNSは燻り続け、日本のネットでは「ガルリゴスは殺人未遂者だ」「絞めで永山は死んでもおかしくなかった」「黄色人種に対する民族差別だ」という意見まで出た。だがIJF(国際柔道連盟)の裁定が覆ることはなかった。 

 

講道館柔道の開祖、嘉納治五郎の像が建つ東京九段下の講道館。東京大学卒の嘉納は31歳で旧制五高、33歳で東京高等師範学校の校長になるなどのスーパーエリートだった。現在でいえば31歳で熊本大学学長、33歳で筑波大学総長ということになる。(筆者提供) 

 

この永山竜樹の試合の後も多くの不可解裁定が続出した。そして審判の能力が低いのではないかという方向へネットは延焼を続け、それぞれがそれぞれの論を推して牙を剥くような状態になった。 

 

「増田さんはどう考えますか」 

 

私のもとにも各マスコミから問い合わせが多数きた。五輪が開催される4年ごとに起こる現象だが、今回ばかりは疑念の裁定が多いと私も思った。だが仕方のない部分もあるのだ。それを一般の人にすべて説明するのは難しい。だから今回は核心の幹だけを論じる。「かつての武道としての柔道、漢字の柔道が横文字のJUDOに変わってしまった」という一論だ。この論はそもそも事実なのか。 

 

たしか20年ほど前のNHK特集のキャッチだ。それを他のマスコミが4年後に真似、さらに新聞などの紙マスコミも真似、いつのまにか自分が考えたかのようにネット住民たちまで言い出したものである。そもそも一般の人たちはいま世界に拡がっている柔道が正式名称を講道館柔道という明治期勃興の柔術の一流派であることすら知らない。それが巨大化して世界に拡がった。開祖は東京大学を卒業した学士、嘉納治五郎である。 

 

 

1921年、ドイツ系アメリカ人のプロレスラーであるアド・サンテルとその門弟たちの講道館挑戦を調べて書かれたノンフィクション『講道館柔道対プロレス初対決-大正十年・サンテル事件』(丸島隆雄)。嘉納治五郎は受けて立とうとするが岡部平太らの必死の説得で撤回。…… 

 

嘉納は東京大学文学部の学生時代に、文明開化で廃れゆく古流柔術を憂い、いくつかの流派を習ったのち、1882年に講道館柔道を創始した(現在、世界中にブラジリアン柔術の競技者が増えているので本稿では日本古来の柔術を「古流柔術」の名で区別する)。 

 

柔道という名称は嘉納の発明発案であると思われているが違う。いくつかの古流柔術は江戸期よりすでに柔道と名乗っていた。柔道はたくさんあったのだ。 

 

技術論からの斬り口「古流柔術の技術のなかで危険な当て身技を取り除いて講道館柔道を創った」というのも間違いである。後述するが嘉納は講道館柔道の乱取りや試合に当て身(パンチや蹴り)を組み込もうとしていた。 

 

精神面からの斬り口「古流柔術という技術だけのものに道という哲学的概念を付与したのが嘉納であり、その結果できたのが講道館柔道である」というのも間違っている。かつて「やわら(柔)」と呼ぶ流派が多かったことでも判るとおり、古流柔術には中国大陸から老子思想の血が入っている。堅強なものより柔らかいものを上とする考えである。「柔よく剛を制す」の言葉の元となった考えだ。 

 

嘉納治五郎だけが思想をもって柔道をやり、古流は危険で野蛮な武士崩れであったという間違った情報の源は、じつは嘉納治五郎の一番弟子の富田常治郎の長男で後に作家となった富田常雄がベストセラー『姿三四郎』で流布した講道館柔道(作中では紘道館柔道)である。古流柔術各派の生き残りたちに勝って講道館柔道が日本の徒手格闘技界を制圧していくという完全なプロパガンダ小説である。 

 

あの小説で描かれる嘉納治五郎(作中では矢野正五郎)とは違い、嘉納は気の強い一面を持っていた。1921年、海外で複数の日本人古流柔術家と柔道家に勝利したプロレスラーが来日し、講道館に挑戦した。アド・サンテルとその弟子たちである。有名な靖国神社の決戦だ。嘉納治五郎は受けて立とうとした。徳三宝ら強豪をぶつけようとしたようだ。それに反対した高弟のひとりが岡部平太(日本にアメフトを紹介したアメフトの父)である。米国留学時にプロレスの実態を見ていた岡部は「利用されるだけです」と他の高弟たちとともに徹夜の説得。「講道館柔道の真価を世界に問う絶好の機会だ」と力の入る嘉納館長を翻意させた。 

 

 

そもそも嘉納治五郎は講道館柔道を世界最強の格闘技(広義の意味)にしようと思っていた。1930年(昭和5年)に第1回全日本柔道選士権が始まり、柔道の競技化が本格的に動きはじめたころ、試合会場で見ていた嘉納治五郎が苦渋の言葉を漏らしている。 

 

「まるで牛の角突き合いだ。これは私の柔道ではない。当て身でみんなやられてしまう」 

 

相手のパンチやキックを想定しないで間合いを詰め、頭をこすりあわせるようにして組み合い、投技を掛けあう試合に絶望したのである。嘉納がイメージしていた講道館柔道は離れた間合いでパンチや蹴りを繰り出し、捕まえて投げ、寝技で制する格闘技であった。素手による顔面パンチは流血を伴うので嘉納はこんなことを弟子に言った。 

 

「剣道の小手を改良して、相手を殴り、道衣をつかんで投げることもできるものはできないだろうか」 

 

これは現在、MMA(総合格闘技)で使用されているオープンフィンガーグローブである。嘉納は西洋のアマレス技術本に飛行機投げという技を見つけて柔道に「肩車」という名で取り入れたりもした。今回の五輪最終日に行われた団体戦で阿部一二三が投げられて紛糾したあの技である。だから阿部の敗戦を見て「柔道がJUDOに変わってしまった」と騒いだマスコミやネット住民は的外れもいいところなのだ。他にも嘉納はボクシングや空手に興味を示し、沖縄から来た松濤館空手の開祖船越義珍に「講道館に空手部門を置きたいのでやってくれないか」と頼んだり、合気道の開祖植芝盛平の元に講道館の有望な弟子を遣り「離れた間合いから相手をコントロールする技術を研究してきなさい」と命じたりもしている。 

 

もちろん「打撃技を吸収して現代柔道も総合格闘技にすべきだ」などと私は主張するつもりはない。投技中心に研ぎ澄まされた現在の柔道の進化はこのまま止めてはいけないと思う。 

 

では現在の海外主導による柔道の流れは放っておけばよいのかとお叱りを受けるだろう。試合後のガッツポーズや試合後の挑発など、私も見ていて気分がよくない。だが柔道は「武道」だからうんぬんと言っても海外修行者に伝わるはずがない。なにしろ日本選手ですらよくわかっていないからだ。試しに知り合いの柔道経験者何人かに武道とは何かと質問してみてほしい。聞く人ごとに違うことを言うに違いない。この言葉はそれほど曖昧で雲のようにふわふわしたものだ。だからまずは講道館が「武道」というものを規定し、それをもとに演繹的手法で柔道を整理し、海外へ向けて新たなブランディングをしなくてはいけない。 

 

100年前、19世紀後半から20世紀はじめのこと。欧州の人々は極東の島国の華々しい世界デビューを感嘆の声とともに迎えた。江戸幕府が倒れて鎖国の縛めが解かれ、日本文化が一気に流れ込んできたのだ。閉じ込められていたガラパゴス時代に驚くべき先鋭化をしたその文化はあまりにショッキングなものだった。盆栽、焼き物、金魚、着物、花火――。浮世絵と呼ばれる絵画には遠近法がなく、茶道や華道はとことんまで華美を排した無機質の美しさを湛えていた。 

 

パリを拠点とする欧州各国の芸術家たちはこぞって日本のものをイミテートする。ゴッホやロートレック、ルノワールやクリムト、みな舐めるように観察してイミテートした。それらは商業物にまで拡がっていく。例えばフランスでは家紋を真似てヴィトンのモノグラム柄がデザインされ、風呂敷などの市松模様をモデルにダミエ柄がデザインされた。古流柔術と講道館柔道もこの時期に欧州に渡り、三宅タロー(不遷流)や谷幸雄(天神真楊流)、前田光世(講道館)らが地元格闘家を見知らぬ技で翻弄した。 

 

 

海外の人たちが柔道を学びはじめたのは憧れからである。ジャポニスムのなかの“格闘技部門”が柔だった。そして今でも彼ら西欧の人々は柔道のなかにジャポニスムを見続け、憧れをもって修行している。もちろん技術的なものもある。しかし最大は精神の部分である。それなのになぜ五輪柔道で摩擦や齟齬が起こるのかというと、武道の精神といってもそれは眼に見えず手で触ることもできないものだからだろう。彼ら海外の人たちにも見え、実体のあるイメージ作りをしなければならない。何よりそれは日本の柔道関係者の内面を整理することにもなる。 

 

実は戦前の日本には講道館や古流柔術のほかにもうひとつ高専柔道という“流派”があった。旧制高校生たちが戦っていた寝技中心の変則的な柔道である。この技術がブラジルへ渡り、エリオ・グレイシーらブラジリアン柔術草創期に大きな影響を与え、三角絞めなどの独創的な技術も流用された。 

 

現在、その高専柔道は「七帝柔道」の名前に変わって全国の7つの旧帝国大学(北海道大学・東北大学・東京大学・名古屋大学・京都大学・大阪大学・九州大学)だけに受け継がれているが、注目すべきはそのルールだ。15人vs15人の大人数の団体抜き勝負、一本勝ちのみ、場外なし、膠着の「待て」なし、試合開始後いきなり寝る引き込みOKなど、デスマッチのような戦前の高専柔道ルールをそのまま引き継いでいる。先月7月6日と7日。愛知県武道館で開かれたこの大会で、戦後の大会では初めて「座礼」が復活した。私も現場で見ていたが、その瞬間、会場全体から喧騒が消え、観客席からは溜息が漏れた。 

 

五輪でもまずは座礼を導入してみてはどうだろう。主審はネクタイではなく和装にしてもいい。これなら眼に見える。実体がある。説明もしやすい。講道館と全柔連からぜひIJFに提言してほしい。 

 

増田 俊也(小説家) 

 

 

 
 

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