( 201065 )  2024/08/12 18:12:18  
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・柔道がどういうものかということより、審判の制止を無視して技をかけ続けた事が、本件の問題なのでは? 

審判の指示を無視したら、ルールに守られた全ての競技が公平性を失ってしまう。オリンピックの『競技』として問題があったのであって、そこに、柔道の本質の議論は必要ない気がする。 

 

 

・今に始まったことではないのですが、外国人選手の中には道着を着たレスリングという感覚で競技をしている選手もいるように思います。だからといって、礼に始まり礼で終わる伝統的な武道の柔道が、消えてしまうということはありません。 

そもそも武道における礼の精神は、武士道精神や日本古来の精神に基づいたものであり、それは日本に生まれて日本で育った人であれば、本質を理解しやすいのですが、外国人に本質を理解してもらうのは難しいと思います。 

武道としての柔道の精神を伝えることは、今も日本人の柔道家が世界中で行っています。継続していくことが大切だと思います。 

 

 

・オリンピック競技の中には、オリンピックが無くても盛り上がっている競技がある。 

野球なら、メジャーリーグ、サッカーなら今はUEFA主催の大会など。 

今や、陸上ですらオリンピックに頼らなくても、盛り上がる仕組みを作っています。 

それが作れないのなら、納得いかなくても、みんなと仲良くやっていくしかないのではないでしょう。 

ただ、私は、柔道にはオリンピックに頼らない盛り上がりを作るたことは可能だと考えています。 

たぶんそう思っている人は大勢いて、現状の日本柔道界を歯痒く見ていることでしょう。 

 

 

・日本人側が定義しないといけないというのは全くもってその通りだと思います 

柔道はスポーツじゃないというのなら負けた時に騒ぐだけではなく 

勝った選手に対しても武道家にふさわしい勝ち方だったか検証してそうでなければ批判するくらいの覚悟がいる 

そしてそのための武道とは柔道とは明確に言語化せねばならない 

「道だから」とかいう言葉だけでは日本人にも外国人にも伝わらない 

色々と岐路なんじゃあないでしょうか 

スポーツではないというのにこだわるならそもそもオリンピックに参加しないという選択肢もある 

そして参加する以上徹底的に勝ちに行くという選択肢もあります 

 

 

・日本発祥の柔道かもしれないが世界に広まった段階で、目指すところが異なる別の競技になったと考えるべきです。 

海外ではレスリングのようなポイント制、国内では 技のキレを争う1本制。 

 

記事のようなノスタルジックな意見は、今や意味をなしません。  

 

国内と海外で別競技として開催される、そういうスポーツになった ということです。 

 

 

・それよりも早急に着手すべきは審判の質を上げることです。個々であまりにも基準が違うし、素人か?と思われる方がオリンピックや世界柔道で審判を勤めている。これこそ日本が主となって、審判講習とライセンス制(ランクを5つくらいに分ける)を導入して、実技試験に合格した者だけにライセンスを与えて、最高ランクの審判しか国際試合の審判を出来ない規則作りをしてほしい。 

 

 

・柔道を習いに来る外国人選手は当然にいます。 

彼らの中にはすぐに帰ってしまう選手もいます。 

理由は教えてくれないから。 

日本では師匠の技を見て盗む、という云うような風潮があり先輩などが教えるのだけど、外国人には理解できず、閉鎖的、あるいは自分が外国人だからだと差別意識を持って帰ります。 

そうして帰った人達が海外で教室などを開くので隔たりが生まれます。日本で正式に習ったという経験だけが欲しいので。日本でも有名店で修行してきたという飲食店をよく見ますよね。免許皆伝を貰った訳ではないけど泊がつくからです。 

このような多くの誤解は相互の不理解から始まるので説明不足の日本人にも問題はあります。 

 

審判に関してはその育成が上手く言ってないのではないでしょうか。黒帯以上の〜とか必要かもしれないですがサッカーなどのように審判専門の育成は乏しい気がします。 

 

 

・Judoという競技名である以上、ベースに「道」があるべき。そうでなければ、「ゆるゆるの服を着た投げ合いっこ」的な新しい競技名にして新団体を設けるべき。 

柔道である以上、精神的な部分は切り離せないので、本部は日本において、指導者や審判の本部での定期的な研修を義務化するなどが必要では? 

 

 

・団体初戦で負けた橋本選手。 

握手を求めてきた対戦相手に礼すらせず、さっさと畳を降りた。 

悔しさからの行動とは思うけど、日本にもそういう選手はいて、柔道かJudoか、武道かスポーツかは問題じゃない。 

 

柔道は世界的なスポーツになり、国際団体もある。多種多様な民族が柔道をやっている以上、日本独特の考え方を当てはまるのは難しい。 

現行ルールの中で、日本人選手が世界で勝つ策を練るのが当たり前のこと。 

 

もし、所作も組み手もすべて日本古来の武道としての柔道を貫きたいなら、国際団体から離脱して、日本だけ勝手にやるしかない。 

 

 

・他流派のいいところを採り入れながら創意工夫して完成したのが講道館柔道。講道館創設から140年余、柔道はJUDOになったと揶揄されるようになったが、いいところを採り入れながらも変えてはいけない精神的な部分を守っていくためには、全柔連と講道館がIJFに深く食い込んで影響力を強めていくしかないと思う。 

 

 

 

・嘉納治五郎が柔道というものを再定義した際、意識したのはスポーツとしての柔道でした。 

柔術から生まれた柔道は日本に最初に普及したスポーツでもありました。 

それゆえ、嘉納治五郎は初代JOC会長を務めるなどスポーツの普及に取り組み、あまり知られていないが初代日本サッカー協会会長でもあります。 

 

 

・なるほどなと思う反面、歴史的な知識を持たない者からすれば日本の柔道と世界の柔道の違いを感じずにはいられないのも事実。いつの間にか日本の存在を意識されることもなく世界基準が一人歩きしている様に見える。そこに来て日本視点で何か提案をしたとして受け入れられる土壌自体もう無いのかも知れない。せめて審判の判断基準の統一化や技のかけ逃げなど、ルールを正しい方向に導く声は上げ続けて欲しいと思う。 

 

 

・この柔道はたしかに今回は、問題を生んだ、それに関して色々な意見があるが、今よりも次のロサンゼルスオリンピックだ、このロサンゼルスオリンピックで同じような判定決定になったらどうする、そしてそれがそのまま続いて行ったら、日本の柔道経験者、関係者はオリンピック委員会に意義申し立てを言うべきだ、申し立てをしても聞いてもらえぬならば、日本はオリンピックから離脱すべきだ、オリンピック以外にも大会はある、そこで日本の柔道を出せば良い。 

 

 

・この人は、嘉納治五郎のことを強さを追求した人という形で書いてますが、彼は英語も堪能で柔道を武道から世界的なスポーツにしたかった人です。 

だから、戦前に行われるはずだった幻の東京オリンピックのために尽力しました。(中止になった) 

戦後GHQの方針もあり、日本の武道が禁止されました。 

講道館は、スポーツだということで再開が認められたのです。 

他の流派は、認められなかったのです。 

本来の武道というなら、柔術の方が原点に近いような気がします。 

 

 

・武道と言うけれど武である以上、相手を力と技でもって無力化するのが目的だし、そこに禁止事項はできる限りないのが理想だと私は思います。 

禁止事項があるのは鍛錬だから本当に殺したり不倶にしてしまってはいけない、有利不利があっては鍛錬にならないということですが 

今回のオリンピックで物議を醸したのは武道論議とは別問題で、スポーツマンシップとして締めて落した側も畳上に残って不満の意思表示をした側も 

ルールをどうとらえたかの問題に尽きると思います。 

 

 

・エンターテイメントスポーツなら観客から見て分かりやすい事は無視できないと思うが、果たしてアマチュアの競技スポーツがそうあるべきかどうか。 

あくまでも競技として公正に技量を測れるように研鑽を繰り返して突き詰められたルールや競技性が不明瞭に感じられても、何故そうであるのか、観客の側が歩み寄るべきだと思う。 

 

アマチュア競技を4年に1度エンターテイメントにして大きな注目を集めるオリンピックだからそういう混同が起きるが、 

4年間の努力が発揮される場だという認識があるなら、憤る前に学ぶ、選手や審判より自分が詳しいはずがないという謙虚さがまず必要だろう。 

少なくとも今回声を上げている者はその競技の大きな大会くらいは今後も見続けて欲しい。 

1週間も経てばすっかり忘れてまた4年後に判定や技に納得いかないと怒りの声を上げる、日本文化がどうこうなどと騒ぎ立てるのはあまりに無責任で滑稽というしかない。 

 

 

・JUDOという揶揄がなされたのは、当初は有効や効果ポイントを狙った不十分な技の横行、次いで腕で脚を狩り倒しに行くようなタックル技の隆盛、そして同時期に出現した組み合うことを嫌って腰を後ろに引く極端な防御姿勢。 

 

ルールの構築が進み、今ではそういうJUDOはあまり見られなくなりました。それでもJUDOというネガティブな表現だけ残ってしまい、時には国際連盟を外国人がコントロールしていることを批判する向きさえあります。ここまでいくと、正直、差別的な考えだと思います。 

 

礼儀という面では、重要なのは対戦相手へのリスペクト。作法が必ずしも守れない選手も国籍問わずいますが、柔道を通して学んでいけば良いものだと思うので、まだまだ若い選手たちが未熟なのは批判するほどではないでしょう。 

 

 

・確かに柔道も歴史を振り返ると変化はあります。 

海外での変化も許容することもありかもしれません。 

 

しかし、今回のオリンピックでは現状を正確に把握しない状態での変化が多すぎます。だから誤審だというクレームになるのは当然です。 

ルールの変更はまず現在のルールや作法を正確に理解して身に付け、その上で変更を行って広く関係者に周知しないといけません。 

 

前回東京オリンピックで優勝したオランダの巨人、アントン・ヘーシンクは当時の柔道を正確に理解して身に付けていました。その行動は日本のお家芸でしかも最重量級で金メダルを奪い取った敵、とみなされても仕方ないにもかかわらず、日本人からも尊敬されていました。 

 

ヘーシンクのような柔道家であればルール変更は許され、同意を得ることができると思います。 

 

 

・「まるで牛の角突き合いだ。これは私の柔道ではない。当て身でみんなやられてしまう」 

昭和5年に嘉納治五郎がこう言っているんだね 

我々が見ていた柔道だって、最初の柔道からは 

滅茶苦茶変わっていたわけだ、それでも柔道を 

世界に広めていった先人達のおかげでこれだけ 

世界的なスポーツになった、これは素晴らしいこと 

じゃないかな、日本発祥のスポーツで海外の選手が 

活躍することは喜ばしい事ではないでしょうか? 

 

 

・『礼に始まり礼に終わる』というのは、武道から始まったにせよ、どのスポーツでも実施されていること。そこに日本人の精神性が表現されていると思うし、柔道を学んでいる海外選手たちはその精神性に憧れを持っているのでは、と思う。だから、JUDOになったから、という指摘は間違いでは? 

座礼は良いかもね。正座ができる、できないがあるかもしれないけど、少なくとも試合後に『礼』を忘れることはないと思う。 

 

 

 

・嘉納治五郎が目指そうとして作った柔道が現代まで寸分違わず残ってるわけでは当然ないので、それと比較すると言うのが論としてそもそも間違っていると思いますが。 

技術だけではなく、武道としての精神論も含めて後進が進化させてきたのが今の柔道なわけで。 

そもそも海外のJUDOでは、礼と言うものを教えているのかどうなのか。 

日本では柔道の指導では、技ではなく礼から教わるものですが。 

そこが武道とスポーツの一番の違いだと思います。 

 

 

・確かに海外の柔道が違うとか言う前に、まず日本で明確に柔道の概念理念とそれを具体的な技や反則に落とし込んで日本全国で指導する側学ぶ側がきっちり共有して理解してからでないと、何を言ってるんだ?という話になりかねない。 

というか、オリンピック競技として導入させるべく活動する前にそこをしっかり固まる必要があったと思う。 

今やフランスやブラジルの方が競技人口が日本より多くなっていて、彼らは発言権主導型を強く主張する可能性もある。 

オリンピックをブラジルで開催すれば柔術寄りの判定で自分達に有利な方向に持ち込むかもしれない。 

結果もしかすると、柔道以外に柔術もオリンピック種目になる未来も考えられる。 

スポーツ化競技化すると理念の違いで枝分かれもする。格闘技も団体が乱立するのはそれぞれに追求する形が違うからだ。 

できるだけ世界的にわかりやすくシンプルで審判の差異を生まない形が望ましい。 

 

 

・プロレスでよく見る逆水平チョップ 

日本では力道山の影響で「空手チョップ」と呼ばれるけどアメリカのプロレスの正式名は「ジュードーチョップ」なんだよ 

この技名は元々は投げる際に逆水平で相手に当て身をしてから投げるという柔道技からつけられた 

そのうち柔道からも柔術からも使われない技になりプロレスだけに残る技になった 

 

 

・武道として日本の価値観を押し付けたいなら世界に広げなければ良い 

 

剣道のようにあくまで日本が主導でやればよい 

 

そもそも国際柔道連盟はほぼ外人で会長も外人です。 

 

見やすいように畳の色から道着の色までカラフルに変え、ルールもとにかくシンプルにした 

 

そこに武道としての想いはない。 

 

あくまでもスポーツとして、観客や見せ方が1番重要になっている。 

 

その弊害として指導を取りに行く、組み合わずに変則的な組み方や投げ技が有利になっている 

 

 

・2極化していくしかないのかもしれない。武道としての精神面を重視した柔道と、レスリングのようにポイントを稼ぎ、如何に相手より優位であると審判にアピールするかを競うJUDOに。嘉納治五郎が目指したのが後者だとしても、嘉納治五郎亡き後に発展していった礼に始まり礼に終り、勝って浮かれず相手をおもんばかると言う精神の柔道の方が自分は好きだ。 

 

 

・柔道を巡る 文化史、文化論として とても興味深く読んだ。 

柔道も、明治 文明開化のジャパンデビューであったということ。 

そこから始まる文化間の軋轢と順応、葛藤と協調との歴史が今も続いている。 

 

内村航平さんがリネール選手にインタビューしていた。 

リネール選手は終始 紳士的で穏やかな態度だった。 

日本人の柔道を美しいと称賛していた。 

斉藤選手のことも 讃えていた。 

 

リネール選手は斎藤選手に試合直後、リスペクトと言ったという。 

斉藤選手は英語ができないのでノーノーノー と首を振ったとか。 

井上康生 さんが ロンドンに留学した時、意味がよくわからなかったが、今は理解できる。 

審判の力量も含めて、ルールに従うのではなく、ルールを作る側に立つことが大切であり、語学の習得 も含めた人材の育成が必要だ。 

 

 

・別に形を替えながらルールも変わりながらjudoとして柔道のは違う理念として広がっていくのは全然構わないよ。 

武道と競技は違うからね。 

そうやって進むのはいい。 

 

言いたい事は、審判ね。 

私も学生柔道の審判をしますが、責任もあるし難しいのは幾分かわかります。 

しかし、今大会は信じられない様な判定が日本選手以外でもあった。 

あと、ルーレットとかね。 

見る側もスッキリして、素直に選手達が勝者敗者も称えられるものにしてもらいたい。 

選手が主役であり、審判は主役ではないのだから。 

 

 

・悔しいけど、武道ではなく完全にスポーツに特化したテコンドーのほうが世界的にはウケが良いってことか。 

 

競輪は日本発祥だけど、五輪や国際大会の自転車競技種目における「ケイリン」はルールがかなり異なる。 

柔道の日本勢も、国際大会の柔道は違う競技であると割り切るしかないのかな。 

日本選手は武道家としての精神は持ち続けるべきだけど、外国人選手にもそれを求めるのは土台無理だ。 

 

 

・「効果」「有効」や「教育的指導」「注意」「警告」を廃止したのは良いルール改正だと思う。偽装攻撃の禁止も良い。目指すところは一本取る柔道だろう。良い事だと思う。問題は審判ごとに「指導」や「偽装攻撃」をとる基準が曖昧なこと。またカメラに映らないところにいる審判員ジュリーの介入が不透明なことだ。例のルーレットも不透明さ故に疑念を呼んた。畳の上以外の可視化が改善の肝だと思う。 

 

 

・武道とスポーツ競技の違い。国内では武道としての柔道試合をやり、国際試合ではJUDOをやるよう日本が変化してくしかないのでは。まったくの別物として捉えるべきかと。 

それに、外国人が武士道やら武道やらの精神や作法を知るのは無理です。もはや日本人ですら怪しいのに。 

また、経験値の少ない低段者のレベルの低い審判が試合を裁く事を事前にもっと知る必要があるでしょうね。 

 

 

 

・どの競技も誤審や曖昧な判定が目立つ。 

競技役員は経験者でも構わないが競技審判は国際大会上位者やメダル獲得者に限定したらいい。いろんな場面での判定もあるだろうから経験と説得力がないと納得がいかない。 

それでも決して人員は足りなくはないはず。 

問題は引退後も携わってくれるかどうか本人次第ではあるが。 

柔道に関しては海外の競技人口が増えるにつれて『本家』を知らずに伝えるのが原因。 

伝言ゲームのまさにそれ。 

 

 

・日本古来の柔道が海外に渡ってルールを変えられ今のようなJUDOに変質してしまったのは、日本がルールの変更を認めたからだと思う。 

数の上での力関係だと思うが、やはり基本理念であるルール変更は認めず日本だけは柔道を続けてほしかった。 

こうなったからには、日本の「本来の柔道」と 海外でやってるような「JUDO]の二つに分けるしかないと思う。 日本は柔道に回帰すべき。 

 

 

・今回はそもそも審判に問題のある人がいた。公平さにかけた。 

最後のルーレット、柔道と、レスリング後が異が解っていない方、等々で、不公平なジャッジがあった、ということではないか。日本だけではなく他国の選手も合点がいかない方が居たように思う。国際柔道連盟で正すことは正せばよいのである。他の競技も同じくである。 

 

 

・オリンピックしか見ないから柔道とJUDOは別物みたいな意見が出てくるんだよ。国内大会でも海外選手的なスタイルの柔道の選手も大勢いるし、そもそも角田の巴の掛け方や引き込んでからの腕十字は、元は海外選手の得意技だった。自国発祥のスポーツに誇りを持つのは良いことだと思うけど、それにしても日本人の選民思想は度を超えてる。 

 

 

・今回のオリンピックの問題点は、オリンピックが商業主義に走り、勝ち負けを競うだけの競技になって事。 

其処には礼に始まり礼に終わるという精神はない。 

さらに、相手に対する敬意もリスペクトも無い見世物に成り下がった。 

もともと武道は、戦場で生き残る為の武術を源流としているから、敵を56す事を目的とする。 

それが江戸時代に戦争戦乱の無い世の中になって564の技から精神修養の場に変容する。 

戦わずして勝つという言葉もあるくらいだ。 

JUDOが世界に伝播して久しい。 

その間、講道館柔道は日本の礼の文化を伝えて来なかったのだろう。 

だから、柔道の上澄みだけを掬ったJUDOが世界を席巻したのだ。 

探偵とは生き様だという言葉がある。 

武士道とは死ぬことと見つけたりという言葉もある。 

武の道は生き様である。 

そんな言葉を創ってみた。 

 

 

・「JUDOがー」って言ってる人は4年に一度しか柔道を見てなくてルールの変化についてきてないだけだと思います。 

20年ほど前はもっと組み合わなかったし、双手刈り、朽木倒しばかりだったのが、だいぶ改良された。その前は相手の引き手を膝で切ってたし(今はもちろん反則)。その都度、改正されたルールに対して選手の技が技術革新してるんですよ。帯より下に触れちゃダメってルールができたから肩車なんてもう出来ないと思ったら、フランスの選手が上半身のみで阿部選手に肩車を仕掛けてたし、角田選手の巴投げも昔なら待てが入ってたかもしれない。その都度、ルールに対して対応する力って大事だと思う。 

 

 

・レスリングを見ていて思いましたが、実に合理的な裁定方法です。 

勿論微妙な点もあるし、判断を下すのは人間だから間違いも犯す。 

しかし柔道に比べると遥かに納得のいく審判が下されていた。 

JUDO か柔道か、等と詮無い観念論を戦わせても不毛です。 

より合理的な審判にする余地は多分にあるのだから、速やかに検討してもらいたい。 

でないと、競技そのものの魅力が褪せてしまう。 

 

 

・さすが増田氏だ。いち柔道家として思っていることを完璧に文章にしてくれたと感じます。 

そもそも『道』なんて完璧に定義されたものではなく、日本人武道家それぞれの心の中にあるものでしかない。海外選手にも精神性を求めるなら、そんなふわふわとしたものを適切に定義して教育していかなければ話にならないと思う。過度な煽りやパフォーマンスに対しては審判なり運営が毅然と注意をするとかね。 

だが柔道は柔術をスポーツにしたもの。それは柔道家なら皆知っていること。そしてスポーツは個々が楽しむものだ。何かを背負ってもいいし、背負わなくてもいい自由なものだと思う。 

 

 

・そもそも武道の柔道からスポーツのJUDOになったって話です。 

武道ならば勝負がついた瞬間に泣いたり喜んたりしないです。せめて相手との礼が終わってから。 

それを考えると阿部一二三選手は負けた時でもしっかりと相手を見て礼をし畳を降りた。負けはしたけど今柔道界で残ってる数少ない武道家だと思います。 

 

 

・今回のは柔道精神が唯一最大のポイントだと思う。 

技法的にレスリング化は仕方ないにせよ、やはり審判が止めと言ったら止めないと、老若男女みんなができる健全な武道かつ自分も相手も共に栄えましょうという自他共栄はどこにいったんだ、ということ。心の部分だよね。 

審判や欧州世論は選手が落ちたことにおまいは武術格闘で負けてるではないか、というが審判として止めてる以上、止めないと、これはjudoすら超えて殺戮や魂のない格闘技に成り下がる。そこは落ち着いて欧州勢も考えて欲しいね。 

それほど、世界の、特に白人というのは、武道や武術の根本精神の相手がいるからお互い強くなれる、人として成長できるという大原点を見失いがちなり、目先の相手を倒すかどうかという事にいきがち。 

この記事見てたら日本人すらその精神や心、概念がなくしてるよ。コメ欄は違う。人としての心を持ってた。この差だよ。なくしちゃ・見失っちゃ駄目なんだよ。 

 

 

 

・そんな歴史を持ってくることはない。 

柔道は世界に広まったスポーツ、変わるのは当たり前です。私は昔人間で六段、若い方の練習を指導することもありますがその練習方法は昔と同じです。襟や袖を取って投げる綺麗な柔道、でも今どきそんな柔道が通用するはずもありません。外国からコーチを招いたりして強化したらどうですか? 

また、海外選手との試合を増やし世界ランクをあげてシードを確保することも大事です。 

これからも柔道は変わり続けると思います。そんなことに嘆くよりそれに対応出来る人を育ててほしいです。 

「押し込む」なんて言葉が使われていると通り綺麗な技はまず決まらないことを分ってほしいです。 

 

 

・待て、の後に一本はあり得ない。judoの問題ではなく審判の問題。他のスポーツでも審判が止めた後の事は認めないもの。組織のとして問題にすべきで審判の質を上げつつ、今やビデオで確認やチャレンジなどの導入も必要。 

JUDOは世界の連盟が柔道とは関係なくスポーツとして都合の良いようにルールを変えているのは明らかであり、柔道から変わったのも明らかである。 

海外選手が行う反則とらせあうjudoとは別に、日本は講道館柔道を柔道として世界に広めてもらいたい。 

 

 

・フランスはサッカーも強いから、いくら人気があり競技人口が日本の3倍ぐらいいるとは言え、流石にサッカーの方が人気でパリオリンピックの開会式にも出たジダンの方がリネールより有名だろうと思いきや、柔道の方が人気で子供時代から柔道に親しみ、あのジダンよりリネールの方が有名というぐらい柔道はフランスの文化に溶け込んでいるという。サッカーでも世界的強豪国でもあるフランスで、サッカーを凌ぐ人気と競技人口が多いのは、柔道の精神に人として学ぶべきものと護身はもとより人を傷付けない武道というところに魅力を感じているとの事。そういう日本の美徳が柔道を通して世界に広がり国境を越えて多くの人達がその精神性に触れてもらう事は素直に嬉しい事だと思う。 

 

 

・五輪での柔道を見てきたがで1本と判定された投げ技は投げ切るというより相手を転がすというような感じの物が多かった。斎藤を破った韓国選手の背負い投げも転がしたみたいだし欧州選手がよく使う肩車なんかはレスリングのように密着して相手を転がす感じの技に見えた。スローモーションのように相手を転がせ背中が畳に着けされれば1本と判定される。いまや世界のJUDOはこれが現実。 

 

 

・柔道のルールが年々変わっていくと言っている人も多いですが、そのルールを世界の柔道選手に誰が伝えるているのでしょう。 

各競技にルールを明確に伝える組織も必要ですし、審判の判定が正しいかを監督する組織も必要です。 

審判も資格制度導入で格下げ、追放など、審判もランク付けが必要です。 

不平等にならないように、審判を監督する組織をつくらならないと選手の努力が無駄になってしまいます。 

 

 

・今回の柔道に関して、非常に印象に残ったのは、阿部詩選手が畳を降りてから号泣してしまったのを、実際やっている人も含めた「武道家」が批判をしていたこと。 

武道家と言うのなら、それをこういうSNSで主張するようなことを控えるべきではないかと思った。「道」と言う観念、哲学は何であろうか。 

五輪の柔道は世界に普及をした日本発祥の競技。 

競技であるからには、ルールの中でどうやって相手に勝つかを考えて競い合うのは当たり前のこと。以前のほうが日本人から見てもっと酷かったと思う。アマレスの要素を取り入れて、それで勝利する選手が出た時にルールが改正されてきている。競技であるからにはまた現行ルール内で勝つ方法を考える選手がでてくるだろう。 

その時に日本が中心になってルールをまた定めていけるのか。 

審判が未熟と言うのは、ルールの解釈のところが曖昧になっているのではないのかと思った。 

 

 

・オリンピックの競技になった時点で勝利至上主義になるのは仕方ない 

だからこそもっと審判の技術を向上させないと、そもそも返し技すら知らない、指導の出し方が出したり出さなかったりでは、やってる方も何が何だか分からない 

審判に限っては1年くらい日本でみっちり教育するのも有りかなと思う 

 

 

・私もオリンピックはJUDOというレスリングのような競技になったのを見て残念に感じる一人です。 

講道館柔道の有段者です。たしかに言語化すると人それぞれ言うことは違うかもしれません。私の解釈を述べます。 

 

柔道や剣道はもともと柔術・剣術であり言わずもがな人を殺傷する技術です。それを道とし、人間的な成長を目的としたのが武道です。特に柔道の技は相手を怪我させることなく制するよう改良がされています。 

またこれは格闘技全般に言えることですが、相手への礼節を欠いてはただの喧嘩・暴力です。ここが球技など一般スポーツとは違うところです。 

試合は一人ではできない。相手がいるから試合ができる。そのことへ感謝しなければなりません。 

試合上でのガッツポーズや挑発、号泣などが善しとされないのはこのためです。 

 

 

・座礼と審判の和装は良いアイディァですね。 

私が中学の時に空手が流行り、私は柔道をやっていました。 

もし柔道と空手が闘ったら、組み技の柔道では不利だと思います、と当時の大先生に言ったら、「今の柔道ではね。」と言われ、本来の当て身有り柔道の事を教えていただきました。 

面白い先生でした、その時に我々の前で戦争が終わり混沌としていた東京での先生の武勇伝を話して下さいました。 

武者修行のつもりで、ガラの悪い連中に喧嘩を売るそうです。 

で、数人を相手にするので、まずは蹴りや当て身での攻撃の後に投げ飛ばしたそうです。 

時々空手やボクシングの猛者と当たった時には寝技に引き込んで締め落としたそうです。 

そう言う強い相手はたとえ何人いても一対一との闘いになったから寝技が使えた、と仰ってました。 

やはりスポーツと武道は別物ですね。 

 

 

・日本の武道は柔道だけでなく剣道・空手道・・等、海外に普及を優先させ精神をきちんと教え理解させなかった時点で「道」ではなくなったのだから今更だ、今回のJUDOは明らかレフリーの知識・勉強不足、レベルの低下だがしかしこれも数十年前のツケが来ている。 

「道」の精神が無くなったJUDOはじめとする武は勝たんがための販促も平気で見過ごされているのが現実だから日本は日本の武道は別物とはっきり分けるべきだ。 

 

 

 

・今までのオリンピックでも特に柔道は外国人の審判による誤審や不可解な判定が問題となってきました。 

今回のパリ大会においては、試合後の選手の感情表現が激しい様がクローズアップされることで、昔の武人然としていた選手達の姿を見知っていた日本人達が衝撃を受け『柔道とは何か』が意見されることが目立ちました。 

個人的には『日本の柔道』と『オリンピックの柔道』は違うものとして認識しています。例えば『空手道』と『K-1』は似ているし、K-1に空手家も出場していますが違うものですし、『剣道』と『スポーツチャンバラ』も同様に違うものです。 

『日本の柔道』と『オリンピックの柔道』も非常に似ているけれど違うものなのです。でなければ、武術を源流とする柔道家が、審判の指示があれど試合中に相手から締め技中に体の力を抜いたり、負けて泣きわめくなどするはずがありません。 

『オリンピックの柔道』はスポーツです『JUDO』です。 

 

 

・いろんなコメントに「武道」「武道家」という文字が何回も出てきます。 

号泣した女子選手に対しても精神論がぶつけられます。あの姿を咎め、まるで人間性が劣る様な文も多数ありました。 

しかしながら、他の競技でこのような批判があるでしょうか? 

柔道に武道としての在り方があるにしろ、オリンピックでは柔道はスポーツです。 

ここで戦うのは武道家ではなくアスリートです。 

日本人の感覚としてはなかなか区別しづらいとは思いますが世界の中で戦うならそれを理解すべきかと思います。 

 

 

・ルール上、『待て』が掛かってもいる最中に何故か『一本』が取られたのが問題であって、『柔道』だろうが『JODO』だろうがちゃんと審判が公平な判断をしてくれさえすれば良いんですよ 

 

要は、疑惑の掛かる判断をする様な程度の低い審判と、その不備を補う為のビデオ判定や複数人での協議すらも活用しない審判たちの姿勢が批判されているんですよ 

 

何で選手たちに歪な現状の我慢を強いるような『スポーツマンシップ』を押し付けているんです? 

 

少なくとも、大多数が不満を抱くような判定をされて怒るのは人間として当たり前では? 

 

自分がされても到底納得出来ない判定をされて、他人には偉そうに「我慢するのが美徳」だとか偉そうに説教を垂れる人間の下で働きたいとか思う人間がいるんですかね? 

 

少なくとも、人を指導するなら「無慈悲な正しさ」よりも「その人が欲しい言葉」を掛けてあげる方が部下のモチベーションが上がると思いますよ? 

 

 

・座礼案は良案だと思う。 

誰も彼もが形式的な礼になってしまっている。 

礼に始まり礼に終わるものなのに最初の礼からして一連の動きの中でやってしまっている。 

止まって礼しろよ、と思うので必ず止まる座礼は良い。 

 

 

・変わってしまったかどうか、の前に、キチンと、ルール、概念、作法、等々の統一、それも可能なのかどうかを議論すべきですよね。 

今のままでは、団体戦で阿部一二三選手が敗れた技が肩車、というのは日本で「講道館柔道」経験者なら納得いかないでしょう。前に押し倒してるなんてあり得ない。無理やり押し倒して背中をつけりゃイッポンか?とね。 

日本はあんな技絶対にやりませんけど、あれで日本が勝ってたらルール改正になったかも、と。 

型の基本書を見たって何なんだ?とね。 

 

 

・>だが柔道は「武道」だからうんぬんと言っても海外修行者に伝わるはずがない。なにしろ日本選手ですらよくわかっていないからだ。試しに知り合いの柔道経験者何人かに武道とは何かと質問してみてほしい。聞く人ごとに違うことを言うに違いない。 

 

これは同感です。「本来の柔道」について語る時は、いったい何年頃のルールの話をしているのかを明確にすべきだと思います。 

なお、記事中の嘉納治五郎氏の意見によれば、1930年(昭和5年)の第1回全日本柔道選士権の時点で既にその競技は「柔道」とは別物だったようです。 

 

 

・嘉納治五郎が打撃ありのMMAみたいな方向を目指してたというのは面白い。明治の混沌のなかで最強を求めたのかな。 

 

80年代、90年代の日本でUWFとか極真系の人たちが総合格闘技を模索したのと似てるのかな 

 

 

・日本古来の柔道と言っても、元々は戦国時代の足軽の武器を 

持たないで敵を倒す術。それが柔術となり、柔道へと発展した 

もの。だから柔術を経験して柔道を練習すると、人を殺める術 

と人を育てる柔道の違いがよく分かる。 

 

 

・今の柔道がJUDOに変わってきていても選手達はそこに合わせた練習を重ね試合してるので大した問題ではない!問題は審判の判定に一貫性が無いだけで世界柔道連盟のガバナンスがユルユルって事! 

高性能のビデオをいろんな角度から数台設置しないとこの問題は堂々巡りです。 

 

 

・例えばサッカーは英国発祥ではあるけれど世界中でプレイされ競技人口も多くすでに「みんなのもの」なったということに似ていると思うのです。プレミアリーグだけ伝統的な英国サッカーを追及してるのかと言えばそうではなく、監督の国籍も様々だし戦術も多様ですよね。柔道とは違いJUDOは世界中のみんなのものだし、今回は審判の質の悪さと日本人に不利な判定、マナーの悪い選手が目立ちましたが日本人以外の試合でも講道館柔道の精神性が受け継がれていると思うような美しい場面は多くありましたので別に「大きな勘違い」ではないと思います。 

 

 

 

・柔道入門の本を読めば良いと思っています。昨今の柔道の投げ技にはレスリングのような技が見受けられます。巻き込みは1本にはならないと学生時代は教わってきました。相撲の決まり手同様、投げ技も多様化しなきゃ発展はないのかも知れませんが、講道館柔道からかけ離れているのか残念です。 

 

 

・ちょっと違うんだなぁ。日本の「柔道」は、一本勝ちを良しとする美学があるが、世界の「JUDO」は、ボクシングのようにKOしなくてもポイントを稼げば勝ち、という競技としての戦略がある。全日本選手権ではみんな一本勝ちを狙って勝負するからいいが、世界大会では一本勝ちにこだわると、足元を掬われてしまう。だから意識を変えないと、世界大会ではなかなか勝てない。そういう事だと思うよ。 

 

 

・そもそも、武道なのか、スポーツなのか? 

礼節を重んじるのか、重んじないのか? 

目的は何なのか? 

一つ一つ、考え直す時期と思う。 

日本人側の礼も良くない、勝てば良いのか、ルールが選手を作っていないか? 

柔道をする目的は何なのか? 

良く考え直す必要がある。空手にも言える。 

武道なのか?指導者がしっかりして欲しい。 

 

 

・日本の柔道界に、果たして世界の柔道界をリードする、提言できる人物がいるんでしょうか?確かに日本は柔道発祥の国だが、今やフランスの柔道人口は日本の4倍であるらしい。そりゃあ、フランスに負けるでしょう。日本の国内大会なら伝統を守ればいいが、世界選手権やオリンピックなどの国際大会でやるのはJUDOだという現実がある。だから日本人選手の中にはサンボや柔術までやって関節技に磨きをかけているわけで。こうなればフランスからコーチを招くか、選手をフランス留学させることだって考える時期ではないのか? 

 

 

・日本のマスコミが五輪の{柔道」を柔道表記で紹介していることが問題だと思う。 

 

フランスでは五輪で勝つ為に投げられた時に背中からでなくうつ伏せで落ちる 

練習している。 

日本選手が試合でいくら投げてもうつ伏せで落ちるのでポイントにはならない。 

日本では投げられるよりも投げられないような練習しているが、もし投げられた時には普通に背中から落ちるのでポイントを失う。 

 

柔道は一番最初に習うことは受け身からだが、フランスではどうも違うらしい。 

 

日本の柔道家が五輪に出る再には「柔道」でなく「JUDO」の訓練が必要だし 

日本で五輪の選考会を行う際には「JUDO」のルールで行う必要があると思う。 

 

マシコミも五輪ではスポーツJUDOで統一しないと見ている方が混乱する。 

 

 

・オリンピック柔道は講道館柔道とあまりに違いすぎる。 オリンピックを責めるより、心身鍛練や世界柔道選手権大会などを目指す本来の柔道とオリンピックを目指すJUDOは別物と別けてそれぞれ育成した方が良いと思います。 

 

 

・日本の精神を広めたいのなら、まずは圧倒的な結果を出さないと。今のままではJUDOに埋もれてしまう。 

 

どんどん世界の選手を呼んで国内で合同合宿、国際大会を国内で開催。技に頼りすぎてスタミナ不足なのを改善。国際大会への審判員の更なる派遣、ルール改正への迅速な対応。やれることはまだまだあると思います。 

 

「JUDOではなく柔道を」なんてのはロス五輪で圧倒的な結果を出してからです。 

(言ってるのは部外者だけな気がしますが) 

 

 

・JUDOが盛んなフランス。 

そして開催国。 

どうしても勝たなければいけなかったし 

団体戦も国民的英雄であるリネールで最後を締めるというシナリオを開幕前から考えていたのだと思う。 

振り返れば阿部選手の相手に指導3つ目が全く行かなかった時点でそれはもう演出の始まりだったのかも知れない。 

 

 

・いろいろ書かれてあり参考になるが、 

今回の問題の根本はあの審判員の対応だ。 

自ら「待て」として試合を止めておいて、何故九竜が気を失うまで黙っていたのか? 

そして、試合開始ではなく判定を下したのかではないか? 

自分も柔道は少しはわかっているつもだが、「待て」を聞けば試合は一時中止であり、審判員が止めるものと思ってた。 

当日偶々ライブ放送を見ていたが、あの審判員は声が小さく聞こえたし、「待て」を出した後数秒間両者を眺めていたことはハッキリわかった。 

これは審判員の責任問題だ。何故そのことをもっと追求しないのか? 

その後同じ審判員は謝罪会見もないまま試合の審判をしていたようだ。 

今はもっとしっかりとした審判員、協会の謝罪、経過の報告、今後の対応などをこちらは聞きたいのであって、柔道の歴史は今は時間をかけなくてもよい。 

 

 

・私は長く剣道してます。 

最大は精神の部分である。と言ってますが、そこを壊したのは日本選手ですよ。 

 

山下泰弘や谷亮子、井上康生とオリンピックの決勝で勝った瞬間飛び跳ねてガッツポーズして。試合の結果が決まった途端戦いの場で相手に背を向けて。武道で言うと油断でしかない。 

残心、というものは消えてなくなった。 

最初と最後に礼さえすればいいってもんじゃない。 

柔道の道を投げてポイント取る金メダルへの道に変えてしまったのは日本人です。 

猪熊治五郎さんも認めないでしょう。 

柔道連盟の会長さんも柔道のことをスポーツって呼んでますし、早く武道と名乗るのをやめてもらいたい。 

 

 

 

・私は長く剣道してます。 

最大は精神の部分である。と言ってますが、そこを壊したのは日本選手ですよ。 

 

山下泰弘や谷亮子、井上康生とオリンピックの決勝で勝った瞬間飛び跳ねてガッツポーズして。試合の結果が決まった途端戦いの場で相手に背を向けて。武道で言うと油断でしかない。 

残心、というものは消えてなくなった。 

最初と最後に礼さえすればいいってもんじゃない。 

柔道の道を投げてポイント取る金メダルへの道に変えてしまったのは日本人です。 

猪熊治五郎さんも認めないでしょう。 

柔道連盟の会長さんも柔道のことをスポーツって呼んでますし、早く武道と名乗るのをやめてもらいたい。 

 

 

・あの不可解な一本判定した審判が学生時代に数年だけ柔道やって 

卒業してすぐ審判に転向したってのを見て段位を持ってるか怪しいと思ったし 

日本なら審判=指導資格があるってのと違うのかと疑ってる。 

そういう人がよりにもよって国際試合の審判として出てくるって 

柔道とJUDOは違うのかなって感じる。 

 

 

・柔道でもJUDOでもどちらでもいいですが、誤審はなくしてもらいたい。 

明らかに能力の劣る審判がおり、審判しだいで結果が変わるという印象をもたざるをえなかった。 

 

団体決勝の一二三選手の対戦がまったく攻撃しないのに指導をだすべき場面で出さなかったのは異常だった。開催国フランスに忖度したといわれても仕方がない。 

 

あれは日本チームは抗議をしたのだろうか。抗議をしていなければ日本チームにも責任がある。 

 

 

・試合は漢字では「試し合い」と書くが、これは稽古の成果を試す場でしかなく、武道の本義は日頃の研鑽、あくなき技の追求にあることを表している 

一方、英語では"Game"となり、動詞としては"Play"となる 

これはスポーツが娯楽である事に発する 

スポーツと武道では淵源がそもそも違うわけだ 

柔道が柔術から分化した時点で既に国際化・スポーツ化が構想に含まれていたわけだからある程度ドライになるのは仕方がない 

あくまでも日本人の美意識の問題ではないか 

 

 

・剣道歴50年の末席の剣士です。 

私も柔道はjudoに変わったと思ってます。 

理由 

①1本を取って平気で相手の居る前で喜ぶ。 

②最初の礼と最後の礼をおそろかにする選手が多い。 

③勝つ事が優先されている。 

 

このような事は非礼であり武道では認められない。上記の事をやりたいのならスポーツとしてやれば私は何の文句もない。 

そもそも武道とは何か?これを答えられる人は少ないと思う。柔道は武道だ!スポーツになってると批判もよいが、その違いが分かってからにして欲しい。 

武道とスポーツ。 

稽古と練習。 

〜道との繋がり。 

これを理解してないんだ! 

柔道と書道や華道⇽これも繋がりがあるんだ。 

勿論剣道と書道や華道との繋がりもある。 

同じ〜道だからね。この事をよくよく理解して頂きたい。 

 

 

・一方的に日本擁護をする人は、待てを掛けた後に締め続けたのがおかしい、意識があったのかもしれないのに一本にしたのがおかしいと言い続けるが、それもごまかしで、一方的な日本擁護だと素直に認めることが大事だと思う。 

 

あの局面で永山が自ら逃れることが出来なかった、身動きが出来なかったのは事実なのだから、もしあのまま待てを掛けなかったら永山はいずれ「落ちて」一本負けになっていたのは間違いないのだ。 

 

だから誤審を指摘するのなら、技が掛かっている途中で待てを掛けたことをそもそも問題にすべきなのに、なぜそれを指摘せずに、待ては正しい、と決めつけてその先の判断を誤審だと問題を転嫁しようとするのか。 

 

待ての時点で落ちていなかったのなら、技の途中で待てを掛けた審判の誤審で、正しくはそのまま続行で永山が落ちて負け。 

 

ならば、待ての後に永山に意識があったかどうかなんて問題と言えるのだろうか? 

 

 

・結局、「古流柔術」から講道館柔道が整備されていった歴史はわかったが、「柔道」がいわゆる「JUDO」と呼ばれるようなものに変わっていった経緯はわからずだったな。 

 

柔道が世界に普及していく過程では日本が主導的役割を果たしたと思うが、国際競技として成熟するうち主導権を奪われ、IJFが欧米主体で牛耳られるようになると、どんどん競技の質が変容していったように思う。 

 

しかし日本が散々反対してた道着のカラー化は、対戦相手をわかりやすくする点では良かったと思うがね。 

 

 

・柔道をJUDOにしてしまったのはかつての日本ではないか。IOCに力強く発言権を持たない日本のあり方の方が問題だ。全てIOCの言いなりではないか。世界中にアピール出来る柔道を日本主催で数年に一度開催すればいい。 

 

 

・いやホントにこの通りで、そもそもは現代の総合格闘技的な形態を目指したもの、 

レスリング技なども研究して取り入れた訳で、肩車(変形だったが)が柔道でないとか全く的外れなんだよね 

どうやって有名(普及)にしていくかってスポーツ化を目指した訳で。嘉納の理想とは違ってしまったけど、競技者が増えれば強い人も出るからね 

 

さすがに永山の待ての後絞め続けて一本は問題あるが、それはJUDOどうのじゃなくて審判の質が悪すぎた(まともな柔道経験無いとしか思えない) 

 

 

・昔の柔道漫画(帯ギュ)でコーチが「このままポイント柔道に付き合ったら力や筋肉の質が違う外国人選手に勝てなくなる。日本人は技とスピードで勝負。それしかない」と提言する場面があって、20余年後ほんとそのとおりになって悲しいやらという気持ち。 

指導をおそれて不十分な組み手から不十分な技。 

JUDOはクソゲーに成り下がったけど、もう一度日本人が勝てる柔道思い出してほしいよね。古賀とか谷本みたいな理想持ってる選手はいなくなったのか。 

 

 

 

・自分の言いたいことの前振りとして無理やり永山の試合をはめこんだ感じだな 

 

この試合は柔道とJUDOの違いを示す例として実はあまり相応しくないと思う 

 

永山の試合は、主審が、選手達の動きが停滞していると「待て」をかけた直後に、自ら判断を翻し、“絞め技を放置する”という暴挙に出たというのが実情 

 

本来審判は、たとえ自らかけた「待て」の判断が間違いだと思ったとしても、事故防止の為に絞め技は解除しないといけない 

 

ここは柔道とJUDOの違いではなく、日本人と外国人のスポーツと安全に関する認識の違いだと思う。もしくはこの審判が特異すぎたか、あたり 

 

 

・時代の流れ共にどんどん変遷するのは当然で仕方の無い事です…講道館柔道教範には、奥伝でしっかり前蹴りと下段横蹴りが記され、また正拳と手刀に依る当て身術も伝授されてます。講道館の競技化に異を唱えブラジルに渡り柔術として再興させた人達も…このまま流れるのか、脱して講道館を再興させるのか…? 

 

 

・こういう話題になると必ずと言っていいほど起源まで遡るような記事が出てきますが、そうではなく審判の裁定がおかしいのではないかという事です。 

審判が正確で的確なジャッジが出来ない競技はいらぬ危険が伴います。 

選手も危険を伴うからこそ受け身の練習もする訳です。 

そこで選手任せのジャッジをするような審判がいては競技として成立しなくなってしまいます。 

併せて言えば、ああいう場面に遭遇してしまうと未来の競技人口がみるみる減っていきます。 

親も子にやらせようとは思わなくなってしまいます。 

 

 

・どなたが書かれた記事なのかなと思ったら増田 俊也氏でしたか 

「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」で知られる元・新聞記者で現在は作家さんの方です 

後半のブラジリアン柔術や高専柔道の話でもしや…と思ったらそうでした 

色々とツッコミたい人はいるでしょうけど、JUDOになる前の段階で既に木村政彦が戦っていた頃と比べても変質してしまっていたのは確か 

なので、JUDOもこれから色々と変わっていくんだと思いますよ 

そして日本の柔道関係者がそれを受け入れ、その戦いの舞台に参加したのなら、そこで強くなる術を学ぶしかない 

 

 

・記事の書き方、タイトルの付け方に違和感です。 

それに明確に「大きな勘違い」を指摘してないのでは? 

 

大半が柔道を詳しく知らない一般の人。 

むしろ知らなくて当たり前。 

自分も詳しくないが、柔道がJUDOUになりつつあるのは競技者比率からしたら仕方ないのかな? 

でもルールや審判を育てる事をもっと日本はした方が良い。 

特に審判。個々の審判能力に差がありすぎる。もっと映像や他の審判にも権限与えるべき。 

 

それと審判が和装というのは面白い! 

試合前は正座して礼するのも良い。 

 

ルールは少しずつ変わるのは仕方ないが、審判和装などは取り入れるとオモシロいし、より一般人に受けるのではないかな? 

 

 

・試合の開始と終了時に座礼をするというのは素敵なアイディアだと思うし、わざわざ柔道をやりたいと選ぶ人たちにも好まれそうなのでおそらく世界的にも受け入れられやすいだろうと思う。ただ、解剖学的な骨盤の作りの違いで、モンゴロイド以外の人種が正座をしようとすると、お尻がきちんとかかとの上に乗りにくいというのがあるので、またぞろ「正座が見苦しい」と言われそうな点は気がかりだけど。 

 

 

・ともかく判定が微妙な事が多いし、指導の取らせ合いのような試合はどうかと思う。レスリングの試合を観ていて、とてもクリアなルールだと思った。柔道はレスリングのルールを見習うべきだと思う。 

 

 

・まず指導を無くすか、定義を統一化しないとダメ。 

試合時間の短縮化が狙いなのかわからんが、審判によって、指導のタイミングがばらばら。 

組み合わないから指導は駆け引きでさしょ!立派な戦略ですよ。 

明らかに体力を消耗し、かけ逃げするのはよくないが、指導三本で反則負けにするのも、長く柔道を見ているが、つまらない。 

井上さんや大野さんの柔道は、よかった。 

 

 

・古い考え方かも知れないが、残心と言葉があるように勝利が決まった後でも油断せずに反撃に備え、また相手に敬意を払うべきである。 

剣道のようにガッツポーズ等をしたときは一本取り消しでも良いのでは無いかと思ってる。 

現在の柔道は武道の心技体の心が抜けていないか? 

 

剣道がオリンピック競技にならなくてよかったとさえ思います。 

 

 

・柔道の試合中に死亡事故が起こることはあるか 

答えはイエスである 

しかし今回もし死亡事故になっていたならそれは人的ミスである 

こういう危険な場面では早急に審判は競技者に状況を伝えなければならない 

ダラダラとやる気のない 審判のせいで死亡したのでは選手はやりきれない 

今回は 何事もなかったかのように思えるが後遺症が残っていないか心配である。 

 

 

 

 
 

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