( 201700 )  2024/08/14 16:57:59  
00

堀江貴文氏は、新刊『ホリエモンのニッポン改造論』で日本の学校教育の解体と変革が必要だと語っている。

彼はオンライン授業の導入がメリットしかないと主張し、新しい学校の形を模索している。

学歴偏重主義により、学歴が人材選択時の決定要因とされてきたが、大学は単なるブランドに過ぎず、教育内容に実質がなくなっていると指摘している。

彼は学校ではなく、学びの機会を提供する体験型の教育現場に期待し、行動力やコミュニケーション力を伸ばすことが重要だと述べている。

(要約)

( 201702 )  2024/08/14 16:57:59  
00

Photo by Gettyimages 

 

日本が活力を取り戻すためには、学校教育を解体・変革しなくてはいけない……。そう語るのは、新刊『ホリエモンのニッポン改造論』を発表した堀江貴文氏だ。なかでも「オンライン授業」の導入は、あらゆる面においてメリットしかないという。ホリエモンが思い描く、新たな学校のカタチとは? 存分に語ってもらった。 

 

【写真】「親ガチャ」よりヤバい!「学校の成績が悪い人たち」の“意外すぎる共通点” 

 

Photo by iStock 

 

いろいろと問題を指摘されながら、それでも小・中学校から高校、大学までの「学校」という教育機関が維持されてきた背景には、根強い学歴偏重主義がある。 

 

現時点では、依然として、人材を選ぶ際には「学歴」でフィルタリングすることが多い。だが、こうした学歴の役割も、近い将来、崩壊すると私は考えている。 

 

名門だろうと何だろうと、今や大学は「ブランド」に過ぎない。偏差値の高い有名大学を出たからといって、その人が優秀な人材であるとは限らない。大学とは、いわば、必ずしも実体の伴わない「幻想」と化しているのだ。 

 

そういう意味では、大学はルイ・ヴィトンやエルメスと同じだ。 

 

ハイブランドの価値が失われないのは、もともとブランドビジネスと思ってやっているからだろう。彼らは「ブランド品を持っているというステータス」を売り、それを欲する人が買う。ブランドのステータスなんかよりも、自分に似合うか、機能性は高いかといった点を重視する人は買わない、というシンプルな需要と供給の話である。 

 

同じように、大学も、上位の名門校はブランドビジネスに突き進む可能性がある。そうなれば、名は知れていても教育の中身はないという、教育機関として身も蓋もないことになっていくだろう。 

 

もっとも私は、前々から、そんな身も蓋もなさを感じていた。 

 

最初に実感したのは東大を中退したときだ。親を含む周囲の人たちからは、「せっかく東大に入ったのに、もったいない」とさんざん言われ、心配された。しかし、よくよく考えたら、東大は「卒業したこと」よりも「入学したこと」のほうが大事なのである。 

 

世間では「東大に入学した」というだけで十分ハクがつき、それは中退しようと卒業しようと変わらない。わざわざ時間をかけて卒業しなくても、私はすでに「東大」というブランド価値を手に入れていたわけである。 

 

 

Photo by iStock 

 

大学のブランド価値の本質は「入学すること」にある。しかも、その価値を持つ大学は東大を含め、ごく少数だ。そのことがわかったので、私は東大を中退した。 

 

だが、これは、まさに学歴偏重主義が最盛期の話で、今後は劇的に変わっていくだろう。名門大学はブランドビジネス路線をひた走るかもしれないが、どのみち大学名がブランド価値を失う日が、近いうちに、必ず訪れる。 

 

やがては、「中田敦彦のYouTube大学」で知識教養を身につけたとか、私が作った「ゼロ高等学院」「HIU(堀江貴文イノベーション大学校)」で学んだといった人材のほうが高い価値を見出される時代が来るだろう。 

 

実際、HIUの出身者には、すでにさまざまな事業にチャレンジして、成功を収めている人たちがいる。それは、いわゆる「学校秀才」的に頭がいいというよりも、むしろ、いい意味でバカであり、既成の知識やルールに捉われない発想力と行動力があるタイプだ。 

 

こういう事例は、今後も続々と出てくるだろう。そうなれば、世間の受け止め方も確実に変わる。「大学なんか行かなくていい」と考える人も増えるはずだ。 

 

大学どころか、コロナ禍の影響もあって、小・中学校の不登校率が高まっているという。 

 

といっても、いじめや引きこもりによる不登校ではなく、どちらかというと「学校に行くことには意味がない」と気づいてしまった子どもたちの不登校が増えているようなのだ。 

 

頭のいい子ほど授業はリモートだけで十分だし、スタディサプリといった学習補助アプリを使って、どんどん勉強を進められる。むしろそのほうが楽しい。「だったら学校に行く意味って何?」と気づいてしまったわけだ。 

 

彼ら・彼女らは、普通の学校生活から「あぶれた」のではない。その枠に収まりきらないほどのポテンシャルが「あふれた」のだ。 

 

Photo by iStock 

 

実は、私は、かねて日本の小・中学校はすべて潰れてしまえと思ってきた。健やかな子どもの育成にとって、あまりにも不都合なところが多すぎるからだ。私に子どもがいたら、絶対に日本の小・中学校には通わせたくない。 

 

そこへきて耳目に触れたニュータイプの不登校に、私は、今まで学歴偏重主義のなかで温存されてきた学校とは違う、新しい教育の可能性を見た気がしたのである。 

 

学校という枠組みの中でなくても、学びの機会はいくらでも設けられる。たとえば、日中に子どもを預かるだけでなく、いろいろな種類の体験を子どもにさせる「体験型シッター」のようなサービスはどうだろう。 

 

また、すでに各地にあるインターナショナルスクールも、従来の学校の枠組みを超えた教育現場と言える。もとは日本に住む外国人や帰国子女のためにできた学校だが、最近は国際的な教育機会を求めて、日本で生まれ育った生徒も増えているという。 

 

インターナショナルスクールは、学校教育法の第1条で規定された学校、いわゆる「1条校」ではなく「各種学校」だ。したがってインターに通っている子たちは、公式には「不登校」と同じ扱いになる。 

 

憲法で定められている「義務教育」とは「親が子どもに教育を受けさせる義務」を指し、これは必ずしも「1条校で学ばせること」を意味しない。従来の学校に子どもを縛り付けなくてはいけない法的根拠はないということだ。 

 

従来の学校とは違う教育現場の実例は、まだある。 

 

かのN高等学校は、開校から数年で、兄弟校のS高等学校と合わせて2万7000人を超える生徒数を獲得している(2023年12月末時点)。 

 

私の作ったゼロ高等学院も、N高ほどではないが、確実に生徒数を伸ばしているところだ。オンラインを活用し、座学だけではない体験型の学習を重視した海外水準の教育理念が、じわじわと認知されてきているのを感じる。 

 

 

Photo by iStock 

 

さて、こうした従来の学校とは違う教育現場に期待したいのは、子どもたちの学力のほかに「行動力」と「コミュニケーション力」を伸ばすことだ。 

 

これらの力を磨いておくと、自分の手に負えない危機のときには人に頼れるようになる。 

 

実は、この「人に頼れる力」こそ、今後、ますます重要になってくると思うのだが、日本の義務教育は、まったく正反対のことを教えてきた。人に迷惑をかけるな。人に頼るのは情けないことだ。とにかく自分の力で何とかしろ――今もそうかもしれない。 

 

だが、人は誰にも迷惑をかけずに生きることなどできない。これだけ不確実性の高い時代、複雑化した社会では、なおさらである。人に頼り、迷惑をかけてもいい。いや、もっといえば人に頼り、迷惑をかけたほうがいいのだ。 

 

自分が誰かに頼る、迷惑をかける。その誰かもまた、ほかの誰かに頼り、迷惑をかける。そして自分も誰かに頼られ、迷惑をかけられる。助けられた人はありがたく思い、ひょっとしたら、助けた人は自己承認欲求が満たされることもあるだろう。 

 

とりわけ現代の人間社会は、こうした「持ちつ持たれつ」で成り立っているのだ。 

 

そのことを自覚し、受容しなければ、充実した人生など送りようがないし、自分が生きる社会の発展に貢献することもできない。 

 

従来の学校とは違う教育現場には、従来の学校とは違うロジックと理念がある。 

 

だからこそ、従来の学校ではついぞ子どもたちに授けることのなかった「人に頼れる力」、その基礎である「行動力」と「コミュニケーション力」を伸ばすこともできるのではないかと期待したいのである。 

 

*     *     * 

 

〈堀江貴文「できる子・できない子を1クラスに閉じ込めるのが間違い」…学校という“檻”から子どもたちを解放する方法〉では、堀江貴文氏が考える「子どもを学校という“檻”から解放する」秘策を紹介する。未読の方はご一読いただきたい。 

 

堀江 貴文(実業家) 

 

 

 
 

IMAGE