( 201884 ) 2024/08/15 14:57:03 2 00 「死んでも靖国に行かない」 特攻兵の兄が遺した言葉 妹に打ち明けた敗戦の覚悟 #戦争の記憶毎日新聞 8/15(木) 10:00 配信 https://news.yahoo.co.jp/articles/b08e5dde57ae50e60e75be686cc26ca1a8d66a14 |
( 201887 ) 2024/08/15 14:57:03 0 00 学徒出陣し、「特攻」で戦死した上原良司さんの妹、登志江さん=千葉県松戸市で2023年9月21日
第二次世界大戦下、今から80年前の1944年10月、日本軍は爆弾を搭載した航空機ごと搭乗員が敵艦などに体当たりする特別攻撃隊=特攻を始めた。45年8月の敗戦までの10カ月間でおよそ4000人が命を落とした。その特攻隊員の中で、最も知られている1人が上原良司さんだろう。戦没者の遺稿集「きけ わだつみのこえ」に「明日は自由主義者が一人この世から去って行きます。彼の後姿は淋(さび)しいですが、心中満足で一杯です」などと記した遺書が掲載され、読み継がれてきた。だが、良司さんが家族に「死んでも靖国には行かない」と話していたことや、良司さんを含む3兄弟が戦死していたことはあまり知られていない。5人きょうだいの末っ子で次女の登志江さん(94)に、「上原家の戦争」を振り返ってもらった。【栗原俊雄】
上原家の3兄弟。右から良春さん、背に良司さん、龍男さん=1923年ごろ、父・寅太郎さん撮影(登志江さん提供)
「はっきり覚えているのが、嫌なんですよ。悲しいというか……。あまり考えないように、自分の頭の中ではずっとぼかしながら生きてきました」。昨年9月、千葉県内の自宅で登志江さんは記者にそう話しつつも、亡くなった3人の兄たちや残された家族のことを語り始めてくれた。 良司さんは、長野県七貴村(現池田町)で、開業医だった父の上原寅太郎さんと母与志江さんの3男2女の三男として生まれた。 長男の良春さん、次男の龍男さんは慶応大医学部に進み、良司さんは同大経済学部に進学した。良司さんは「航空機のグラビア写真を見せてくれて『これはすごいんだよ』などと話していました」。また「ハーモニカが好きで。ときおり『わーかき血に』って歌ってもいましたね」。慶応の応援歌「若き血」だ。母と野球の「早慶戦」を観戦し、母は「すごく良かった」と話していたという。志望大学に進んだ若者の喜びが伝わってくる。 上原家の平穏な生活をよそに、日本は戦争を続けていた。37年に始まった日中戦争に続き、41年12月には米英などとの戦争も始めた。龍男さんは海軍軍医となった。43年10月22日。龍男さんが乗艦していた潜水艦「伊182」は南太平洋・ニューヘブリデス諸島方面で米軍に撃沈され、戦死した。
上原良司さん(左)と龍男さん=登志江さん提供
戦争が始まった後、大学など高等教育に在籍する学徒は徴兵を猶予されていた。だが戦況が悪化する中、文系の学徒らが陸海軍に召集され同年12月、陸海軍に入った(学徒出陣)。 良司さんは陸軍だった。地元長野県の松本第50連隊を経て翌年2月、特別操縦見習士官に合格した。その後、熊谷陸軍飛行学校相模教育隊(神奈川県)から館林航空隊(群馬県)と移り、飛行訓練を重ねた。登志江さんは「航空隊に入って、勇ましいな、すごいんだと誇りに思っていました」と振り返る。 軍隊生活では個人の自由より国家、組織の秩序が優先だった。上官の部下に対する理不尽な指導や体罰、精神的いじめがまかり通ってもいた。良司さんが信条とした自由とはほど遠い環境だった。 たとえば44年5月28日。部隊の1の航空用眼鏡が行方不明になった。軍隊では持ち物を失うことは大きなペナルティーを課されることがあった。このため、何らかの理由で失ってしまった者が「戦友」のそれを盗むことがあった。この眼鏡がどうだったかは不明だが、「犯人」探しが始まった。名乗り出る者はいなかった。翌29日、良司さんらは炎天下に10時間以上立たされることになった。同日の「修養反省録」に、良司さんは書いた。「恥辱ノ日」。 「修養反省録」は、良司さんら生徒が訓練の内容や考えたことなどを書き、教官が返事を書くものだ。航空兵としての修練を重ねる一方で、良司さんは軍、上官への憤りもつのらせていたようだ。44年6月27日、記した。「汝(なんじ)、宜(よろ)しく人格者たれ。教育隊に人格者少なきを遺憾とする。人格者なれば、言少くして、教育行はる」 教官に「人格的に問題がある」と指摘しているようなものだ。上官の命令は絶対という軍隊にあっては極めて異例であった。教官は赤字で「貴様は上官を批判する気か。その前に貴様の為(な)すべきことをなせ。学生根性を去れ!」などと書いた。殴り書きのような書き方で、強い怒りが伝わってくる。 「そんなことを書いたり言ったりしたらどうなるか分かっていた。それでも上原君は黙ってなかったですよ」。戦後、良司さんの戦友からそう聞かされた。並外れた勇気を持つ、筋金入りの自由主義者だった。
特攻出撃前の上原良司さん(左端)=1945年5月11日、鹿児島県・知覧基地で撮影(登志江さん提供)
45年4月。良司さんが最後の帰省をした。夕食の時、良司さんは急にぽつりと言った。「この戦争は負けるよ」。登志江さんは「驚きました。日本は絶対勝つと思っていました。最後は神風が吹くと。そう教育されていましたから。びっくりして、雨戸を開けて外をみました。憲兵に聞かれたら大変だと思って。誰かいないかとのぞいたのを記憶しています」。憲兵は国民の反戦思想などを取り締まる役目だった。実際、聞かれたら何をされたか分からない。 良司さんは、さらに2人だけの場でつぶやいた。「死んでも靖国神社には行かないからね。天国へ行くから」 1869年、明治天皇によって「国家のために一命を捧げられたこれらの人々の名を後世に伝え、その御霊を慰めるため」(靖国神社ホームページ)、招魂社が東京九段に創建され、1879年に靖国神社と社号が改められた。戦死者は「祖国に殉じた尊い神霊(みたま)」として靖国神社にまつられた。死を覚悟した兵士たちが「靖国で会おう」と約束することもあった。 戦死者の多くは遺体も遺骨も遺族のもとには戻らなかった。遺族たちは、魂がまつられている靖国に参拝することで心の安らぎを求めた。しかし、良司さんはそこに行くことを拒んだのだ。 帰省から家を出る時、見送る家族に向かって良司さんは叫んだ。「さようなら、と3回。特攻隊のことは知りませんでしたが、母は『もう帰ってこないのでは……』と言った気がします」 1945年5月11日。良司さんは鹿児島・知覧の特攻基地から、爆弾を積んだ戦闘機「飛燕」で沖縄方面に飛び立ち、戦死した。22歳。「5月11日は今でもすごく嫌な日ですよ。特攻は本当にひどい。死刑みたいなものですものね……。(特攻を始めた人が)どんな気持ちだったのか聞いてみたい」。登志江さんはそう話す。
上原家のきょうだいが出征中の父・寅太郎さんに送った写真。左から良春さん、龍男さん、良司さん、清子さん、登志江さん=1938年春撮影(登志江さん提供)
45年夏に戦争は終わった。8月15日。日本政府が連合国による降伏勧告「ポツダム宣言」を受諾する。玉音放送を聞いた登志江さんは「兄たちが死んだのはなんだったんだ」と思った。 この時点で、上原家では長男の良春さんが生きていた。留守家族は陸軍軍医としてビルマ方面に派遣されていた良春さんが帰還することを信じていた。だが、良春さんは敗戦後の45年9月24日に戦病死していた。上原家は兄弟3人をすべて戦争で亡くしてしまったのだ。 長女の清子さん、登志江さんが健在とはいえ両親の悲しみも深かっただろう。それでも「両親は兄たちの話はしませんでした。泣いているところも見たことがありません。一人で泣いていたのか……。家族で『生きていたら』、なんて話したことがありません。つらすぎて、みんなそれに触れたくなかったからでしょうか」。 ただ戦後、母の与志江さんはしばしば靖国神社を訪れた。登志江さんは付き添いで行くことはあったが、自分から進んでは行かなかった。良司さんの「靖国には行かない」という言葉が胸に刻まれていたからだ。登志江さんはしかし、母に良司さんのその言葉を伝えることができなかった。「だって、母は3人がそこにいると思っていたはずですから」
盛夏のスナップ写真。右から登志江さん、良司さん、親戚の青木房子さん、龍男さん、清子さん=1937年8月、良春さん撮影(登志江さん提供)
良司さんは出撃前夜、陸軍報道班員として知覧にいた高木俊朗の求めに応じ、原稿用紙7枚に「所感」を書き残した。 「権力主義全体主義の国家は一時的に隆盛であろうとも必ずや最後には敗れることは明白な事実です」とし、さらに日本の同盟国だったドイツ、イタリアがすでに敗北している事実を引き、「権力主義国家は土台石の壊れた建築物の如(ごと)く次から次へと滅亡しつつあります」とした。「日本必敗」を予言しながら「心中満足で一杯です」と結び特攻に飛び立つこの遺書は、これからも読み継がれていくだろう。 特攻で命を落とした兵士達は「英霊」とたたえられることがある。「若者たちが、家族や国のために命をささげた」などといった美談にされるむきもある。登志江さんは「そういうふうになってほしくないですね」と言う。他方、「新しい戦争」が現実味を増し、政府は備えを進めている。 「戦争は平和な一家をめちゃめちゃにしてしまう。そう考えたら戦争なんてできるわけがない。兄たちはそれぞれにいろんなしたいことがたくさんあったのに、死んでしまいました。若い人がそういうことがないように、精いっぱい人生を楽しめる社会であってほしいと思います」
記者プロフィール
「一年中8月ジャーナリズム」 マスメディアは「戦後○○年」という表現をよく使う。大日本帝国の戦闘は、79年前の夏に終わった。しかし、戦争による被害は終わらない。「戦後」何年たとうと、体験者たちが心身に負った傷は完全には癒えない。79年前に戦死した兄・上原良司さんを思う妹の登志江さんの言葉、「5月11日は今でもすごく嫌な日ですよ。特攻は本当にひどい。死刑みたいなものですものね……」が、「未完の戦争」の有りようを私たちに伝えている。 戦時下、新聞は大日本帝国政府の戦争に協力した。敗戦後の新聞は「二度と戦争に協力しない、戦争のためにペンを握らない、カメラを手にしない、輪転機を回さない」という決意から始まったはずだ。 私は、新聞ジャーナリズムの最大の役目は国家に二度と戦争をさせない事だと思っている。私が「戦争反対」と何百万回言ったところで、影響力は無いだろう。しかし、戦争になれば庶民に被害が長く深く広く及ぶことを具体的に伝えることが、「戦争なんてとんでもない」という意識の広がりにつながり、ひいては戦争抑止力になると信じている。 メディアは毎年8月、集中的に戦争報道を行う。私はそれを一年中やっていることから、「常夏記者」を名乗っている。新聞の最大の役目を果たすために、「常夏ジャーナリズム」を続けたい。
※この記事は、毎日新聞とYahoo!ニュースによる共同連携企画です。
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( 201886 ) 2024/08/15 14:57:03 1 00 この文章群は終戦記念日や特攻隊について、個々の体験や考え、戦争への反省や平和への願いが綴られています。
最後に、過去の戦争から学び、平和を守り続けることの大切さが共通のテーマとして感じられます。
(まとめ) | ( 201888 ) 2024/08/15 14:57:03 0 00 =+=+=+=+= 去年もコメントしましたが、一人でも多くの方に知ってほしいのでまたコメントいたします。
特攻作戦はずっと南の方だけの作戦のイメージがありますが、終戦間際に東北地方、岩手県沖でも特攻作戦がありました。
当時、同県の釜石市へ艦砲射撃(数千人の民間人が亡くなったそうです)が頻発し、それに対する米国艦隊へ向け、岩手県内の旧金ヶ崎飛行場より99式双軽が特攻すべく飛び立ったそうです。
最終的には艦隊を発見できずに福島県沖に墜落してしまい搭乗員は戦死されてしまったそうですが、彼らの思いを考えると胸が痛くなります。
まだ20歳そこそこの青年が、どんな思いで亡くなったとか、あと数日経てば終戦だったのにとか・・・。
今、この瞬間に生きているのは彼らのような勇敢な方々がいたからこそ。
感謝しかありません。
=+=+=+=+= 毎年この時期になると祖父のことを思い出す。 飛行機乗りの教官であった祖父は終戦直前に特攻隊に配属されたが終戦を迎え九死に一生を得たそう。 孫が集まると喜んでお酒を飲み、その度に死地に送り出した部下のことを話しては泣いていた。(子供心にはまたこの話かぁなんて思ってたこともありました汗) 本当は生きるための操縦を教えたかったこと、時代とはいえ部下に鉄拳制裁をした後悔などを聞いた記憶がある。 祖母には、自分が死んだら先に特攻で逝った部下に会う時に顔が思い出せるように、部下の写真を棺に入れるよう頼んでいたそうで、写真には部下の名前や出身地、為人がビッシリ書き込んであった。 じいちゃん、向こうで教え子たちに会えただろうか。死地に送り出したことを謝ってんのかな。怒られてんのかな。会えてたらいいな。毎年思い出してはそう願ってます。
=+=+=+=+= 特攻はなかなか評価が難しくあります。 そもそも航空機の体当たりで空母を撃沈することは難しいですが、何時間か発着艦不能にすることは可能です。 始めて特攻作戦が実行されたレイテ沖海戦では、敵空母が無効化している間に栗田艦隊をレイテに突入させるという狙いでした。 その折はちゃんとした艦爆乗りが特攻し、エースの戦闘機乗りが護衛し、空母が見つからなければ帰投していました。 この特攻作戦にはある程度の妥当性を見ることも可能です。
ですがその後の特攻は、どうにか緩降下爆撃ができるようになったくらいの未熟な搭乗員が、ひどい場合は速度200キロ台の練習機に乗せられ、満足な護衛もなく、目標が見つからなくても帰投は実質的に許されず(帰投すれば上官から「貴様なぜ死なんのだ!」と罵倒される)、敵を倒すのが目的なのか自軍兵士を殺すのが目的なのかわからない状態です。 こちらの特攻作戦に妥当性を見出すのは難しいです。
=+=+=+=+= 社会からのけ者になっている人でなければ、親などの身内、親しい友人などがいます。そういう人の平穏な暮らしのために、団結できると思います。ウクライナは国家としての歴史も短く、理不尽なことに対抗するという中で愛国心も形成されたそうです。白旗を上げたら命の保証があるというならともかく、そうでないなら愛国心以前に私も戦うと思います。
=+=+=+=+= 座右の書としている「きけわだつみのこえ」は私が23歳の時に初めて読みました。 その当時はバブル真っ盛りで、世の中の空気に浮き足立ってた私は頭をハンマーで叩かれた衝撃を受けました。
この方たちに恥じない生き方をしようと、感謝の気持ちとどんな時でも自分は幸福だと勇気付けられて今日の日を過ごしたいと思います。
=+=+=+=+= 主義主張を持っていた人もいれば、素朴に自分の大切な人を守るためだけにと亡くなっていた人もいたのだろう。 でも、共通していえるのは、何の意味もなく亡くなっていくことを強要されたということだ。だからこそ、その思いが哀しいし、痛ましく思う。彼らに生きる道は許されなかった。そして勝ち目などないと分かっていながら機械的に送り出された。上層部の無意味な意地やメンツのために。次はお前たちの番だと。そうならない世界にしなければならない。 靖国に行きたくないと思ったこの方の思いも大切だ。そして靖国に行きたいと思った方たちの思いも間違っていない。 自分は、死後は元素にまで分解されて漂うと考えている信心浅い不届き者なのでどこに祀られようが関係ないが、それでも人々の記憶の中に生き続けるのだとすればありがたいし嬉しい。そう考えれば、靖国という場所もそういう願いが込められて建てられたものなのだろうと思う。
=+=+=+=+= 今でもウクライナなどで戦争の惨劇は再び現実化していることに悲しさしかない。彼らの多くが国を守るためという想いから出兵しているんだろうが、日本国の戦時中の想いと似た思考なんだろうか? 特攻隊の方々の想いとウクライナ兵士の想いって死への覚悟という点で相違はあるんだろうが、根差した想いに違いはないような気がする。
戦争とは人を狂わせることに間違いはなく、改憲を目論む政治には断固反対するしか出来ないが、多くの国民が戦争は絶対しない想いを持ち続けることがとても大切。 なんなら、国土を譲り渡してでも戦争は行うべきではない!
=+=+=+=+= きけわだつみの声は占領軍がABCと資料を等級で区分し、戦争反対に読み取れる資料だけを選別したものです。私の叔父のように自分から志願して、敵の空母と刺し違えてやるなどと言っていた軍人の資料はなかなかメディアに取り上げられません。歴史を風化させない為にもメディアは公平に取り上げてもらいたいものです。
=+=+=+=+= 特攻兵の兄が妹に遺した言葉に深く共感します。戦争の悲惨さと無意味さを改めて考えさせられました。 彼の覚悟と勇気は計り知れないものであり私たちに平和の大切さを教えてくれます。戦争の記憶を風化させず未来の世代に伝えていくことが私たちの使命だと感じます。
=+=+=+=+= 特攻隊を英雄視すべきではないとの意見と彼らへの敬意の念をどう整理すべきか。 まず、彼らが強いられた選択肢の狭さや、戦争そのものの無意味さは軽視できません。一方で、特攻隊員たちは、当時の国を守るという信念や義務感、あるいは圧力の中で、自分の命を捧げたことも事実です。彼らが示した勇気や献身に対して感謝や敬意を払うことは、人間として自然な感情です。しかし特攻作戦自体を称賛することとは区別するべきです。
この問題を整理するには特攻隊を美談にするのではなく、彼らが置かれた状況を理解し、その行動が生まれた背景を正しく評価することが大切です。そして、特攻隊員たちへの感謝や敬意は、戦争の悲劇を繰り返さないための教訓と共に語られるべきです。戦争そのものへの反省と、犠牲者への敬意を両立させることが、この複雑な問題を整理する一つの道です。
=+=+=+=+= 若者が生還の見込みのない作戦に投入された特攻作戦は、悲劇性が強く注目されがちだが、日中戦争から終戦までの間に、特攻で亡くなった方々の百倍以上の将兵が亡くなっていることも忘れてはならない。 参謀や将官の功績のために、無謀な作戦と戦闘で命を失い、傷を負い、戦後も満足な補償を受けられなかった。 昭和50年代までは傷痍軍人が街頭で募金をしていた。 私の祖父は昭和16年に応召し、その後ソ連に抑留され帰国したのは24年。 一切戦争の事は話さず、稀に訪ねてくる戦友と夜遅くまで語り合っていた。 戦争の実体験は語られず、記録も残らず歴史の中に埋もれている。ただ後世の人々は歴史があった事を知るのみ。
=+=+=+=+= 友人の叔父は、特攻隊でした。鹿屋飛行場から終戦前に出撃し、散華しました。その方が婚約者から預かって、形見に残した手鏡の箱と手紙が靖國に展示されていました。その手紙には残された家族や婚約者の幸福を祈る言葉が綴られていました。わずか80年ほど前にあった出来事について私達がしっかり理解して後世に伝えていくことが重要だと思います。
=+=+=+=+= 茨城県阿見町にある予科練平和記念館を先日訪れました。 当時憧れの的の予科練でしたが、やがて多くが特攻隊員として亡くなったそうです。 訓練の様子や兵士たちの日記、人間魚雷回転やゼロ戦の事物大模型などを見ることができます。 この時期、映画や書物、施設を訪れる等して、戦争についていろいろと思いを巡らせる方も多いと思います。 入場料500円のこちらの施設も候補としておすすめします。
=+=+=+=+= 私の父親はシベリアで三年間抑留されました。 まだ生きています。 父親の仲間の中にはあの戦争を肯定する人が沢山います。そうしないと、自分の人生まで否定されたような気がするのでしょう。私はその方々に反対することができません。 私たちの想像や経験を超えた中で生きてこられた方に、また亡くなった方に感謝いたします。 私が高校生の頃、広島で被爆された先生がいました。その先生が最後の授業で「こんなことは話すことではないが」と前置きして広島の惨状について話してくれました。先生も生徒も皆が涙にくれたことがありました。今も鮮烈な記憶です。県下イチニを争う進学校でしたので多くの友が広島大を受験して進学しました。私も合格しましたが他の大学に進みました。広島には原爆投下当時の展示が沢山あります。一度はご覧いただくことを勧めます。 戦争は絶対ダメ、「繰り返しません」ではなく「繰り返させません」です。
=+=+=+=+= 母方の祖父が日中戦争で戦死しました。 母がまだ3才の時です。 当然母の記憶にも無い時の事ですが、今でも家には軍服を着て幼い頃の母と写っている写真があります。 私は子供の頃、戦死した祖父の話をよく母や祖母から聞きました。 時代は違いますが、日露戦争のTVドラマ二百三高地を見て毎週母達は泣いて見ていました。 祖母は他界し母も90才を超えて年々弱ってきてますが、今でも戦争だけは絶対にあってはならないと強く言います。 私達残った家族はこの体験をや言葉を、子供や孫に伝えていきたいです。
=+=+=+=+= 私の祖父は父方、母方ともに兵隊として徴兵され、幸運にも命落とすことなく家族の元に戻り今の家系が続いています。しかし当然親戚には戦死した方もおり、特に祖母の弟にあたる方が戦死し靖国神社に祀られています。もう祖父母ともに亡くなっていますが、幼少期の頃祖母が東京に遊びにきた時靖国神社に行こうという話になり、私は知らなかったのですが、弟さんの名前を見つけた祖母は一人泣いていたそうです。でも孫の前では気丈に振る舞いつつも、二度と戦争は嫌だね…と呟いていたのを記憶しています。 また祖父の妹は東京大空襲にあいましたが、看護学校に入学していたため、奇跡的に戦火に巻き込まれずに済みましたが、口癖はアメリカだけはどんなことあっても許さない、です。それでも兵隊だった祖父から仕送りあったりと戦中の思い出や苦労は脈々と語り継がれている… 様々な思いを語り継ぐ終戦記念日であってほしい…
=+=+=+=+= 毎年こうやって戦争を顧みて平和に思いを馳せて、気持ちを新たにして引きします。とても大切なことだと思う。 それゆえ、中学高校の歴史は近代から重点的に始めて、1次2次の大戦がいかに始まったのか、どのように集結したのかを考察して、現在の戦争に落とし込める、そんな授業が大切なのではと考える。
=+=+=+=+= 20歳程の若者達が片道の燃料と大量の爆薬を積んだ旧型戦闘機で敵艦に突っ込む、、、どんな気持ちだったかは想像を絶します。みんな愛する人達がいて生きたかったはずなのに。 私は今年で40歳になります。妻に子供3人おり幸せです。だからこそ、先人達に想いを馳せ、自分自身が襟を正し、正しく生きようと思います。
=+=+=+=+= 猪瀬さんの昭和16年夏の敗戦を読んで、なぜ勝ち目のない戦争に突き進んでしまったのか考えさせられました。 特攻は困難な戦局の打開ってのもあれば、早期講和の実現という幻影に囚われた指導部がまたしても結論を先延ばしにし続けた結果のようにも感じます。 神風特攻隊って呼び名もありますが、自分達が神風を吹かそうとしてもそんな都合の良い事にはなりません。 日本人の気質には未だに問題先送りが根強くあると思います。 敗戦の日を迎え、現実を良く見て例え苦しくても物事は適宜判断し決断を繰り返し行う事が大切だと思いを新たにしたいと思います。
=+=+=+=+= 物の通りが分かる人にとっては特攻など無駄死でしななかったであろう それを国から顕彰されても嬉しくともなんともない むしろ靖国で一緒にしないでもらいたいというのが本音であろう 特攻犠牲者の追悼は必要だが、我々は決して特攻を美化してはならない 特攻を命じた軍部を糾弾し続けるべきである
=+=+=+=+= 戦争反対でも、もし、他国が侵略戦争で攻めてきたら、ウクライナのように戦う事は必要だと思う。今、ロシアが正に過去の日独伊のような覇権侵略戦争を起こしており、日本が油断を見せたら侵略してくる可能性があるから、仕掛けてこられないような防衛体制は重要と思う。
=+=+=+=+= どの戦争でも、当事国は、国を守るため、国民を守るため、家族を守るため、と主張して国民を戦争に投入します(ロシアも例外ではありません)。戦地に赴いた人たちの中には、それを信じて散っていった方も多かったと思います。この手記を残された方は、旧日本軍があまりに酷い不合理的組織であったので、反発されたのでしょう。しかし、軍隊が合理的組織であったとしても、戦争自体は不合理なものです。世界中の国の市民が皆お互いに友達になり仲良くなれば、戦争が起こらない世の中にならないでしょうか?そうなることを願っています。
=+=+=+=+= 私の生まれ故郷はとある四国の片田舎 幼い頃はよく同県の母方の祖母の実家に海水浴に連れて行ってもらいました。 しっぽのような地形をしている特徴的な場所です。 海が非常に綺麗な場所です。
祖母の実家の裏側、そこがかつて特攻隊の練習場所だったとは、意外と知られていません。 母より「昔、こんなところにまで戦争がやってきて、若い兵隊さんが死ぬための訓練をして、遠い国で死んでいったんだよ。 戦争でみんな散ってしまったんだよ。」と教えられました。
5歳の私が特攻隊を知った時でした。 子供ながらに言葉が見つかりませんでした。
それからすぐ祖母も病気で亡くなり、私が大人になる頃には祖母の姉妹も亡くなり、身内に戦争を知る人はあまりいません。 今ではただの「美しい海」に見えるかもしれませんが私の心にはずっと「戦争の傷跡の残る海」です。
三机湾…もう二度とこのような歴史が繰り返されないようにと思います。
=+=+=+=+= きけわだつみの声読んでみようと、思います。
こういう戦争でつらい経験をされた方が戦後努力されたので今の日本があると思います。
戦争だ亡くなった方の思いみたいのは、しっかり受けとめないといけないと思います。
=+=+=+=+= 私の親父は第13期予備学生兵科3期でした。 横須賀砲術学校から呉鎮赴任を経て、鹿屋串良基地で終戦になりました。 予備学生時代、横須賀砲術学校時代の集合写真にはパラフィン紙を被せていて、全員の名前が記されていて(帽子にも白墨で名前を書いていた)、赤ペンで✕印があり、横には細かい字で、アッツ、サイパン、沖縄とか記されていていました。 同期の戦死した場所です。 復員してから毎年敗戦記念日近くになると、「戦友と話をしてくる。」と靖国神社へ詣でていました。 転勤先からでも年に一度は靖国に詣っていました。 親父が要介護になってからは、私が代参しています。 親父が亡くなる3年前に、実際の戦闘体験を話してくれました。私が書き留めた口述筆記で残してあります。 読み返すと胸が痛くなります。
=+=+=+=+= 何を血迷ったか、当時の日本はナチスと手を結び、ソ連と手を結び、英米を敵に回して敗戦の道へ落ち、8/15終戦後にはソ連の捕虜になりシベリア抑留となった。他人事ではない。彼等ではなく我々が当時生きていればそうなったかもしれないからな。ああ当時は無念であった。為政者の失政により犠牲になり、無念に死んでいった。当時に限ってのことでなく、我々国民は時の為政者により翻弄されるリスクを常に抱えている。靖国神社に祀られる無念の思いを汲みとることが、遺された国民としての責務の一つであるように思う。
=+=+=+=+= 戦争という選択肢は極めて重大かつ影響の大きいものであるため、極力、平和的な解決を図ることは重要と思います。 ただし、理不尽な他国の要求に対して、我々は生命を賭け、例え生命を失っても戦う必要はあるのでしょうか? 過去の歴史において、他国の侵略や不当な要求に屈した結果、国家が消失したり、国民が大きな苦しみを味わった例が多数存在します。 愛する人たちを守るためには、もちろん怖いですが、最後は覚悟を決めるしかないのではないでしょうか。
=+=+=+=+= 旧日本軍の人命軽視は、特攻に始まったことではないですね。
ゼロ戦をはじめとして日本の戦闘機の操縦席には、終戦間際まで軽量化のために防弾ガラスや防弾版はおろか、引火防止装置もなく被弾するとすぐに燃え上がった。
一方、米軍戦闘機には燃料タンクにはゴム製のシーリングが施され火災を防いでいた。さらに被弾して脱出した場合に備えてゴムボートには釣り道具まで備え付けられていて「生き延びよ」という意図が明確な設計であった。
若者が命を懸けてお国を守った特攻作戦も、実質的には強制であり「行きません」という選択肢はなかった。客観的には自殺教唆も同然。そこで靖国という存在が必要となった。命は失っても魂は戻る。
戦後の追及に対して、幹部たちは「会議の中では『やましい沈黙』があった」などと自分の責任を放棄。家族を思いながら南海の海に散華した尊い命に報いるためには、二度と戦争を繰り返さないことしかない。
=+=+=+=+= 戦直後の生まれですが戦時下の話は父母やご近所さん等から嫌と云うほど聞かされてきた。お国の為にという言葉は歳とともに勝手な言葉に過ぎないと今では思っている。極わずかな一部の人のエゴが拡張して多くの民を失うのが戦争である。多くの身内を戦死で失った父母が墓参する姿を見た記憶が余りないのもどこか共通点があるのではと考えてしまう。
=+=+=+=+= 戦中生まれです。母親におんぶされ、工場近くの田舎道を歩いて、急降下してきた敵機に機銃掃射されそうになったが、何事もなく飛び去った話とか、家の庭に焼夷弾が落ちた話とか、幼い頃私が兵隊さんの大将になるが口癖だったとかよく母が話していた。戦後の闇市には浮浪児がたむろし、白衣を着た傷痍軍人がアコーディオンを弾いて募金を募っていた。こんな光景を見て育ったせいか、戦争は他人事ではない。今戦後生まれの政治家が殆どだ。戦争に備えておきたい気持も分かるが、実際の戦争はそれほど生易しいものではない。
=+=+=+=+= 特攻隊員たちは、当時の愚かな政治家や軍隊の上層部の犠牲者だ。彼らは無謀な戦略の結果として、若者たちの命を無駄にした戦犯そのもの。特攻を命じた連中が戦後、何食わぬ顔で生き延びたのを見ると、彼らが本当に責任を取ったのか疑問だ。こんな歴史的事実を直視せず、彼らを美化する風潮には反対だ。戦争で命を奪われた若者たちを悼むなら、まずはその若者を無意味に死に追いやった元凶たちを糾弾すべきだと思う。歴史の反省なくして未来はない。
=+=+=+=+= 30数年前の夏 授業が休講になり涼しい場所で時間潰そうとたまたま遊就館に入りました ちょうど特攻学徒兵の遺書展があり見学したのですが勇ましい言葉が綴られた手紙の中で一つだけ趣の異なる遺書がありました 『お父さん お父さん お父さん…褒めて下さい』この方は今まで父親に褒められた事がなかったのだろうか?自分が特攻で死ぬ事で初めて褒めてもらえると思ったのだろうか?頭をぶん殴られたような衝撃的な内容に人前憚らず泣いてしまいました 授業を受けるよりも勉強になった思い出です
=+=+=+=+= 大正生まれの祖父からは一切兄弟の事は聞かされる事はなく亡くなりました 祖父は海軍で広島から戦地に出て後方だったから生還したらしい 乗った船の名前も語ってはくれませんでした おそらく生還したが凄惨な事で 祖父から記憶から消したかったから 孫にあたる私には聞かせるつもりはなかったんでしょう 語り継ぐのも必要でしょうが 偲ぶだけと言うのも必要だと思います
=+=+=+=+= 美化されがちなものに映画になって有名になった硫黄島の戦いなどもあるけど も、考えないといけないことは特攻や硫黄島の戦いの頃には、日本は国情から見て敗戦が避けられない状態にあったこと。もう負けることがわかっていた時期です。そしてこのことを日本の国情を知る立場にあった人達はわかっていたこと。戦争がもし1944年中に終わってれば空襲による被害もほとんどなかったのです。敗戦を先延ばしにしたことは死者を増やしただけだったということ。
=+=+=+=+= 私は戦没者の中でも、とりわけ非国民の誹りやその他様々な差別を受けた方々、戦時中にも関わらず反戦平和を訴え続けた方々に祈りたいと思います。
終戦記念日は、日本の侵略を受けていた国からすれば解放された日です。 改めて不戦への誓いを確認する日に、互いのナショナリズムを高め、むしろ戦争に近づくような事になっては本末転倒です。
全ての人が、平和を希求してくれますように。
=+=+=+=+= 海外の自爆テロを見て、自らなんて酷い事をするのだろうと思ったりしますが、この季節に特攻隊の記事を見るととても胸が痛みます。 我が子が、戦況と異なる自らの意思や諦めの気持ちで家族に別れを告げる姿を想像すると涙が止まらなくなります。皆が戦う事を拒絶すれば、大切な家族やすべての人が爆撃されてしまう。それなら自分たちが行くしかない。若さゆえの素直さがとても哀しい。 そういう事が二度と起きぬよう、大人がしっかりと国民を守らねばならないと思う。派閥の利権争いとか国会の居眠り議員とか、特攻隊の命の重みを受け留めて政治を行って欲しい。
=+=+=+=+= 私の祖父も軍属経験がありました。お腹には大きな銃槍があり、当時それを観た私は幼いながらに戦争の怖さや、恐怖を感じました。祖父は戦争について質問してもニコニコしているだけで、ほぼ何も語りませんでした。はだしのゲンなどや、偏向した学校教育を信じきっていた私は、きっと国を恨んでいるに違いないと思っていました。 でも今思えば、祖父の書斎に部屋に掲げられた昭和天皇、皇后両陛下の肖像画はずっとそのままで、現在も伯父が管理し掲げられています。 靖国には遠くてなかなか伺えませんが、いつか必ず伺おうと思っています。
=+=+=+=+= いろいろな考えがあると思います。私は戦後生まれですから、戦争は知りません。しかし、終戦記念日には靖国神社に参拝し、亡くなった方々へ、今我々が享受している平和を与えて下さったことに感謝し、手を合わせています。
今、一番知りたいのは、先の大戦の真実です。多くの書籍や研究があり、それらをすべて網羅することは不可能ですが、それでも知り続けないといけない、と思っています。
その中では様々な意見や考えがありますが、いずれもそれなりの理由があります。中には偏った意見やほとんど嘘で固められた話もありますが、それらを排除することなく包括的に考えることが必要だと思います。
=+=+=+=+= 以前は、戦時下の多くの母親達が「お国のために特攻した自分の息子達は立派だった」という感想を、言葉に残している意味がわかりませんでした。 でも、今、自分が息子達を授かり育てて、わかりました。 「我が子は英霊となった」と思わないことには、あまりに救われないから、そう思い込もうとしていたのだと。
人間の持つ最も美しい感情であるはずの愛情を利用して、「母国のため」に戦争で命を落とすことを美しいものとして飾り立てた、当時の指導者等は、やはり許されないと思います。 指導者達の息子達は、がちがちに守られていたでしょうしね。
=+=+=+=+= 靖国神社の意図は明治維新のときから、天皇に忠誠を尽くし死んでいった者を祀ると読んだことがあります。結局、「国の若者は天皇のために死になさい。靖国に祀ってあげますよ。」ってことですよね。靖国を参拝してる政治家だって亡くなった若者を悼んでるのでは無く、天皇のために死んでいく若者が途絶えないことを祈ってるんでしょう。 ただ、今の天皇はそんなこと望んでないと思います。政治家の本音を聞いてみたい。
=+=+=+=+= 今は亡き祖父と初めて自衛隊の観閲式に行った時、防衛大学の学生が陸軍分列行進曲で行進しているのを見た祖父が涙してたから、何でと聞いたら、自らの學徒出陣を思い出し、更に帰らなかった学友を思い出して堪えられずに涙が出たと言っていた。その時、初めて祖父が戦争に行った事を知った。 あの時の祖父の涙を思い出すと、楽しいからと連れて行った自分が恥ずかしい…
=+=+=+=+= 世代によって状況によって感じることが人によってまちまちな気がする。 いわゆる小国民世代は学校の教師が指導要領に基づいて、日本は絶対勝つ!と言う教育をし続けてて、戦後180度変わる方針に不信感を持つのは当然だと思う。 しかしその世代だけで神州不滅とか誰もが本気で全員信じ込んでたかのような時代ではない。むしろ表立っては言えないけど、この国は負ける、負けそうと冷静に判断してる大人がほとんどだと思う。 さも戦時中の世相は当時の人が子どもになればなるほど、思い詰めたような雰囲気が出てるように見える。
=+=+=+=+= 侵略するから戦争になる。 侵略や戦争をさせないために国際法があります。 日本は自分の国を自分で守れないので、敵国に国際法を守らせるしかない。
しかし、敵国が国際法を無視する国なら、日本は憲法改正し戦争をさせないために抑止力を高め、自分の国を侵略から守らなければいけません。 戦争反対と言っているだけではなく、現実的に、どうすれば「新しい戦争」を、させないか日本国民が真剣に考える必要があると思います。
=+=+=+=+= 実際に戦争経験者の方々には様々な想いがあるでしょう。 大変な体験だと思います。
しかし、不戦の為に今の我々が何をすべきかについてロジカルに説いた報道を見た事が無い。 戦争反対を唱えていれば不戦に資するとはとても思えない。
日本が何処の国に侵略なんてしたい国民は居ない。
1. 政治家や外交に携わる役人たちが戦闘になる前に相手国と諍いを収める事が出来るか。武器を持たない政治家がどれだけ喧嘩慣れして、メンチ切り合いで止める事が出来るか 2. その後ろ盾として、ちょっかい出したら手痛いよ、という武力を持っているか。 3. 諜報戦にどれだけ長けているか。 4. 兵站にどれだけ耐えられるか 5. 国民がどれだけ強い意志で国を守る世論を持っているか
誰だって戦争なんてしたく無い、自衛隊員だって。 国を挙げて守る、という意思表示をする事が不戦なんじゃないかと思う。
=+=+=+=+= 靖国神社は「国のために死んだ」ということの慰めや、「たとえ死の危険があろうが国のために戦う」という戦うことへの意義を見出すためにある政治的な宗教である。
それを利用して自己鼓舞や故人の死の意味付けをしたい人はすればいいが、それとは異なる死生観もあるだろうから各自が選択したらいいと思う。 高野山など仏教などには怨親平等という価値観がある。それこそ味方も敵も「生きていた」という意味では同質である。死んでからもなお恨み続けるのではなく敵味方の隔てなくその存在を癒すのである。靖国神社は「合祀する」「しない」という話があるようだが、それは政治的判断であって、本来的癒しは敵味方だとか「祀られるべき」「祀ってはならぬ」という区別がないところが人知を越えた自然の姿なのかもしれないと思う
=+=+=+=+= 以前戦艦大和の沈没地で慰霊を行ったことがある 船から清酒を捧げた時、空は青く輝いていた 祖父も軍艦でフィリピン沖へ終戦間際に殆ど無防備の特攻状態で沈没戦死した 航空機だけでなく終戦時は陸海空も全て特攻を求められて多くが露と消えた 父も最近亡くなったが祖父のことを語ることはなかった 余りにも酷い少年時代は人づてに聞いたことはあるがとても直接聞けなかった 孫が生まれ大変かわいがってくれたのは血がつながっているというだけでなく生きていることがどんなに幸せか噛みしめていたのかも知れない 8/15日本人は決して忘れてはならない 世界で唯一、戦争放棄国家を継続する誓いとともに冥福を祈りたい
=+=+=+=+= 最寄りの戦争だから太平洋戦争ばかりが取りざたさせるがそれ以前の戦争も日本の平和安寧を願って最前線に行った人々はいるだろう。日中戦争、盧溝橋、満州、ノモンハン、日露日清、歴史書から紐解けば子孫から見ても愚かな戦いに強いられてそれでも国家、また家族を思いながら最前線で散った人々がいる。負けた戦争は教訓となり繰り返さないことを念じ、勝った戦争(それでも犠牲者は多大だ)でもたまたま勝っただけかもしれないということを、肝に銘じなければならないとおもう。
=+=+=+=+= 3年前鹿児島の知覧、特攻記念館にいきました。みんな二十歳前後の優秀な若者でした。最後の言葉はお母さんに残したものが多かったと思います。なぜ彼らが死地にいかなければならなかったのか、なぜか涙がでてなりませんでした。戦後79年戦争を放棄したはずの日本が軍備増強に向かっているのが残念でなりません。
=+=+=+=+= 戦後ずいぶん経っていたと思うのですが、上野の地下道の傷痍軍人の姿が目に焼き付いています。 今ならアコーディオンではなく何になるのか分かりませんけど、現代の若者たちが命を失わなくとも手や足を失い、家もなくし、新宿の地下道で奏で、踊る姿を見るようなことだけはあってはならない思います。 現代の戦争は・・・という話をする人がいますけど、ウクライナやガザでは半世紀以上前の戦争と同じ光景が広がっています。
=+=+=+=+= マスコミは少数意見を取り上げるのが仕事。取り上げないと少数意見は表に出てこないから。 つまり、マスコミが取り上げるということは少数意見。 多くの先の大戦の犠牲者は靖国で神と祀られ、参拝した家族と出会えるであろうことを、せめてもの望みとしていた。それでも、国を、日本国民を守ろうとしていた。そういう大多数のすでにものが言えない英霊に支えられているということを忘れてはいけない。
=+=+=+=+= 随分前に靖國へ行き様々な手紙を読みました。 そのうちの一つがいまだに忘れられない。 大まかな内容は「妻と小さな子供がいる兵が国のために特攻に志願するのだが、諸事情から任命に至らず悔し泣きをしていた。するとある日妻が子供を抱いて入水し自ら命を絶った、その遺書には私達の存在で本懐が遂げられないあなたの悔しさがわかると、私達がいなくなれば特攻に任命されるであろうからと。そしてその兵はその後特攻に志願し任命されて見事に散って行った」 これをどう感じるかは人それぞれです。 私はその場で泣きそうになりました。 そして彼らが守った日本国をふざけた連中に決して奪われてはいけないと思いました。
=+=+=+=+= 人間同士が殺しあう。 それが戦争。 しかしながらその指揮官は軍事裁判に掛かる以外は生き延びる。 命を落とすのは若者ばかり。 涙無くしては現実を直視できない。 各々の正義の大義はあるだろうが殺し合いはダメだ。 21世紀で人類は何も学ばなかったのだろうか・・ 今の世界を見ていると本当に人間・・ いや指導者とは愚か者の集まりだと思う。 悲しみを抱いて何十年も生きていく辛さ・・・ 体験者しかわからない。 平和を祈るばかりです。
=+=+=+=+= 「日本必敗」を予言しながら「心中満足で一杯です」と結び特攻に飛び立つこの遺書は、これからも読み継がれていくだろう。
本当にこれが真実なんです。特攻隊員達の死を無駄にするのか、英霊として御霊を慰めるのか。私は、靖国神社も天国も同じ事だと思っています。彼等の絆がこの言葉に有った。 誰でも死を目の前にして万歳と想える心境は、彼等の日本への想いを知らずして理解されないものだと思います。
ただ、我が死に場を得たりとした己に克つ精神力は日本の大楠公の精神を学ぶ者達にしか分からない、本当の日本人の大和心に触れなければ体験しなければ解らない事です。
只々私達が生きているその国土の礎を築いて来たのは紛れも無い先人達です。ここに感謝し、現代を生きて未来を繋ぐ事への責任を担っていると思うのです。
=+=+=+=+= 「権力主義全体主義の国家は一時的に隆盛であろうとも必ずや最後には敗れることは明白な事実です」
ロシア、中国、北朝鮮など、「力による現状変更」を志向する国家は 残念ながら現存しており、 上原良司さんのこの遺言は非常に深い。
日本国民は国家の体制が不条理極まりない特攻を強いるようなものに 再び陥らぬよう不断の努力を続ける必要があり、 それが上原さんのような方々への最大の供養になると思う。
=+=+=+=+= ロシアではウクライナで前線の兵士に事実上の特攻をさせている。 今は、中露北のような独裁国家、共産主義こそが、人の命を軽んじているのだ。 それらの国から、日本を守るために防衛力を増強し、徴兵や特攻を二度としないように米国などと集団的な防衛体制を構築しているのだ。
この防衛体制を進める政府を、あたかも戦争好きのように印象操作し、防衛強化の足かせをはめようとするのであれば、特攻など戦争で亡くなった方々の思いを踏みにじることになると思う。
=+=+=+=+= 骨壺の中身
祖父の弟が海軍の戦闘機乗りで、戦時中ラバウルで戦死したと聞きました。変わり果てた姿で帰国帰宅しましたが、その骨壺の中身は小石一つだったと聞きます。遺体収容もできず、荼毘に付すこともできないような状況だったのでしょうね。
直接は会ったことの無い親族ですが、お盆に先祖の写真を並べると、やはり不戦の誓いを改めて深く思います。
終戦の日でもその他の日でも、やはり靖国で英霊に祈りをささげる気持ちは大事な気がします。
=+=+=+=+= 国を守るために軍事力を増強すべきという意見があります。 そして核を持つべきとも。 断固として反対します。 日本は、いかなる理由があっても他国と争ってはいけません。 資源が無い国だからです。 緊迫した状況になっただけで、全ての物が入って来なくなります。 経済的弱者から影響を受けていきます。 陸続きのウクライナと違い、島国の日本に対しては他国の援助も期待出来ません。 また、核を持っていても実際は打てないという新しい局面もウクライナで分かってきました。 軍事力を強化すべきという方々に問いたい。 超高齢化社会、そしてゆとり教育の若者。 戦えますか?
=+=+=+=+= プライベート・ライアンの映画では三兄弟の残り1人を絶対に死なせてはいけないと必死だ。 ところが、日本軍は三兄弟みんな死んでもいい。生きて帰ってくるなという残酷さ。命を重んじることなどありえない。 特攻隊がその証明、爆弾を積み自爆。それが国のため、天皇陛下万歳と喜んで逝きますと旅立つ。 この馬鹿げた特攻を考えたのは戦後も生きていた。また、上官もおれも後から行く、靖国で会おうと言ったが生き続けた。負けるとわかって、みんな尊い若い命を捧げたのだ。 特攻記念館の遺書などまったくの嘘だ。軍に検閲され書き直されたもの。 本性ではない。 捨てられた遺書には『父さん母さん、なんでこんな戦争の時代に産んでくれたんだ。死にたくない。やりたいことがたくさんあるのに。日本軍のバカ野郎、天皇陛下のバカ野郎』と書かれていたかもしれない。
=+=+=+=+= 特攻は航空機だけではなく、潜水艦、小型船舶、潜水による自爆など様々な手段が考案され、訓練中にも多くの命が失われた。私も特攻関連の施設や遊就館に行き、展示物や遺書を見学し、複雑な思いになった。兵器を開発した技術者や指導者は当然、勝ち目のない戦争とわかっていたはず。人間の命を機械よりも軽く扱ってしまったのはなぜだろうか。一番深い所には「教育」の闇が感じられる。
=+=+=+=+= 国を守るとかどういうことなのか考えたい。家族を守るは理解できる。国は、権力組織の構図と考えると命がけで守るものでもないなと思う。現在の政府与党の権力闘争しかできない政府を、命がけで殺人を犯してまで守るのは馬鹿らしい。他国に侵略されて帰る場所を失い、言葉も取り上げられ、差別に甘んじるのは嫌なので戦うが、これは国を守るということと同じなんだろうか?
=+=+=+=+= 「「戦争なんてとんでもない」という意識の広がりにつながり、ひいては戦争抑止力になると信じている。」 →ウクライナの人たちは戦争したいと信じてたから戦争になった 同じ論理 昨日靖国神社へ行って来ました。純粋我々後世の人間を守るため、文字通り盾になって下さった多くの御霊に感謝しつつ、命のありがたさを実感しました。 こんな日にこんな記事書かなければならない使命感はリスペクトしますけど、少し頭を冷やして当時何ができたか、なすべきだったかを考えてほしいと思います。
=+=+=+=+= きけわだつみの声の本で、飛燕に乗ってる写真の人だと思う。確か慶応生で、自分の考えをしっかりと持った人だったが、「国や軍隊組織の歯車の一つになって爆弾になる」と言いうような遺書を残した人と記憶している。こうした国や組織を批判をしながらも責任感が強くて散っていった人もいると知って衝撃を受けたことがある。早田ひな選手を批判してる人はこうした特攻兵の事を知ってほしいと思う。
=+=+=+=+= 後世の人たちが人生を楽しめるように戦ってくれたと感謝しなければならない。 しかし、争いのない世の中といっても、学校でも社会人でも競争は当たり前の世の中。 その最たるモノが戦争であり、争いたくないといくら願っても、攻めてくる輩は必ずいる。 その時に北斗の拳の某村人らのようにただニコニコして争いませんとだけ言い続けて争わずに済むかどうか… 今一度、いろんな視野から考えるべきかと思います。
=+=+=+=+= 特攻第一号の関大尉が亡くなった時、昭和天皇は「そこまでせねばならなかったか。しかし、よくやった。亡くなった兵士には哀惜の念に耐えない」と述べられました。でも「よくやった」のひと言は余計でしたね。天皇のこのひと言で、特攻をやめられなくなり、4000人もの若者が命を落としたのです。にも関わらず、天皇ご自身は戦争責任を取らず、長寿を全うされました。特攻の話を聞くたびに、何か割り切れないものを感じます。
=+=+=+=+= 10年前ぐらいに亡くなったお爺ちゃんが半年後に特攻隊で出撃する予定だったと聞きました 学徒出陣で高校生の年の頃に志願して海軍に配属されたと言っていました 広島の呉や四国で訓練の日々だったそうです 訓練では常に連帯責任で一人でも脱落すると全員で罰を受ける感じだったそうです 脱落しそうになった人を背におんぶしたり、励ましたりして頑張っていたとよく話を聞きました。 特攻で亡くなるかもしれない事も、日本人のため、家族のためと、当時全く怖いとかそういう感情はなかったと言っていました。 そういう教育で育ったから当たり前に思っていたのでしょうし、日本の歴史、当時の世界情勢からするとそいう教育は必然だったのかもしれません 海軍の歌をよく聞かせてくれました
=+=+=+=+= 特攻兵の方にも色々な考えの方がおられたと思いますが、色々な思いを持ちながら日本の為に命を惜しまず戦い、働かれた方々がおられた上に今の日本があることには違いありません。 この記事に記された事実から私たちが一番心に留めるべきことは、お父様とご兄弟が日本のために戦い、亡くなっていかれたことであるのに、「死んでも靖國に行かない」を記事のトップにあげて強調している事から、靖國神社を否定したい筆者の意図を感じ、不快に思います。 戦争でお亡くなりになり、靖國に祀られている方々にも靖國におられない方々にも、同じように敬意を表し、ご冥福をお祈り致します。
=+=+=+=+= 人生の最も輝く時間を戦争に奪われた当時の若者たちは何を思っていただろうか。 国を守る=愛する家族を守る、戦争とはそういうものだが、同時に誰も幸せにしない。 愛する家族を守るために殺し合うのだ。こんな不毛なことはない。 でも、やらなければやられる、だからやるしかないその状況に追込まれた人間の心境が、平和ぼけした現代の我々に想像できるだろうか。 無駄死にだの、政府のせいだの、あとからは無責任に何とでも言える。 だから今日は静かに、この国を守ってくれた先祖達に感謝の思いを伝えたい。 彼らが過ごすはずだった人生、我々現代の日本人が代わりに精一杯生きるのだ。子孫に、よりよい国にしてバトンタッチするために。
=+=+=+=+= 私は、兵隊の多くは嫌々戦争に行かされて戦死したと思っているので、靖国神社に祀られても何にも嬉しくないんじゃないか?自分が兵隊の立場だったら祀ってほしくないと思うのだけど、それと真逆の価値観の人も居る。 多分、そういう人は全体主義者で、自分が国家の一部であることに喜びを感じる種類の人なのだろうと思う。 それはそれでいい愛国心なのだが、絶対に戦争という形でその愛国心を発揮するのはやめてほしいと思う。
=+=+=+=+= 記事を読ませていただいて、映画「連合艦隊」を思い出した。 ラストシーンで優秀な2人の息子を失った父役の故・森繁久弥さんが、波打ち際で戯れる父なし子の孫を見つめる眼差しに言いしれぬ悲哀を感じたものだ。
当時はこのような家庭が多くあったこと、私自身も平和であることが当たり前と感じている日本人だが、ロシアでウクライナで、そしてガザで、悲しみと怒りの怨嗟の思いを激らせている人たちが大勢いることが切ない。
=+=+=+=+= おばぁちゃんはたった一回しか会った事ないけど、玉音放送も聞こえない明かりもない、電気のない暮らしをしていて、終戦を人伝に知らされた。 慌てて役場に聞きに行き帰ってくる時は潜水艦で撃沈された親父と15近く歳の離れた兄さんは『犬死にだ』と、おばあちゃんが泣き叫んで帰って来たと話していた。終戦一年前の7月22日に撃沈され、松茸狩りの季節にお兄さんの戦死の報が届いたそうです。
役場の人と町の世話役が国民学校帰りの親父を見つけて親父と山道を一緒に帰ったそうで、僕は会った事ない爺ちゃんと、一度だけ会ったばぁちゃんとに名誉の戦死の報を二人から報せたそうです。悲しい気持ちを押し殺してばぁちゃん達は挨拶し、松茸狩りを楽しんでいた一部の上流階級の方は挨拶そこそこに皆帰ってしまったそうで、その日は親父達は母屋に入らず納屋で姉と弟達と哭いたそうです。母屋でもきっとそうだったと思うと親父が良く話してます。
=+=+=+=+= 多くの若者が無慈悲に死んでいった時代。死ななくとも、叔父は一族代表の優等生だったらしいのですが、戦争に行ってからアル中となり廃人のようになってしまったそうです。本当に二度と繰り返してはいけない。 ネットで周辺国などに感情的な発言をする人がいますが、日本が繁栄したのは、様々な策略、謀略、情報に踊らされず、悔しさを我慢して、冷静に頑固に平和主義を続けたからだと思います。
=+=+=+=+= 特攻は決して肯定できる作戦ではない。しかし戦況の悪化に伴って優秀なパイロットも減り、敵を殲滅できる技能を修得するまでに訓練で死んで行く事例が多発した。無駄に命と兵器を失うくらいならとの発想が特攻を産んだと言われている。「死んでこい」特攻とはこう言う命令を言い換えただけだ。これはもう命令の限界を超えている。
=+=+=+=+= 最近の映画では恋愛要素を取り入れて女性向けに特攻隊人気を出そうとしてるけど、ああいう演出で余計特攻隊が格好いいとか勘違いする人が増えると思う。大事なのは、特攻隊がなぜ行われなければならなかったのかその経緯と事実を知る事で二度と繰り返してはならないと理解する事だと思う。
=+=+=+=+= 靖国神社や知覧の特攻平和会館を訪れれば特攻を美化する考えなど生まれるはずもない。戦争の悲惨さと生命の尊さを実感する場所以外の何ものでもない。 だからこそ、靖国神社や知覧の特攻平和会館や長崎・広島は修学旅行で必ず訪れるべき場所であり、どの政党であろうとも日本の政治家であれば普段から参拝しなければならない。 自民党総裁選が行われる予定だが、外圧に左右されず靖国神社に参拝を行う事ができる人間が選ばれて欲しい。
=+=+=+=+= 特攻作戦については戦後間もなく、当時参謀だった人たちが本を書いて、ともすれば美化してしまう流れを作ったそうですね。言ってはアレですが、鎮魂に加えて保身のためだったかとも思います。実際の特攻作戦は知れば知るほど非人道的で、弁護の余地の無いものです。 一方特攻隊員の心情も、私たちの想像よりずっと多様だったのでしょう。当時の大学進学率はわずか1%で、学徒兵は知的エリートです。戦争を軍の宣伝通りに受け止めていなかったことは、生存者の手記や文学からも分かります。「死んでも靖国に行かない」 という言葉には、うなづけるものがあります。 特攻については子供のころから多くの文献を読みましたが、元学徒兵・阿川弘之氏の長編「雲の墓標」をお勧めします。京大生の仲良し3人組が海軍で搭乗員になり特攻に直面し、戦争と軍に多くの疑問を感じながらも懸命に生き、運命が彼らの生死を分けた物語。海軍についても多くが学べます。
=+=+=+=+= 多くの犠牲者を出した世界大戦。 戦争末期にはそれこそ、無謀ともいえる特攻作戦などをして、多くの未来ある若者が逝ってしまいました。 この記事のお兄さんの様に、敗戦が分かっていた多くの人がいても、それを「国民の大勢の声」として上げられなかった、或いは、マスコミ報道や憲兵などによって「正確な情報」ではなく、「都合のいい情報」だけが、国民に流されていたこと、過去の戦争に至った歴史や当時の情報統制等をしっかり、今の時代に生かさないと、同じ過ちを繰り返してしまう恐れがあります。 そして、特攻で逝った方々の思いは、何とか日本を、家族を守りたいからの出撃だったと思いたい。決して、無辜の市民を巻き込む、自爆テロのでは無いと思っています。
=+=+=+=+= 戦争をしてはいけない、ということと、戦争に備える(攻撃・侵略させない)ということは別の事。とにかく戦争反対っていう人は、兵士が戦争に行って死ぬより、侵略されて民間人が殺されるほうがいいと考えているのでしょうか? 殺すより殺されるほうがいいという考え方なんですか?
何より大切なのは戦争が起きないように・巻き込まれないようにすることではないですか? その方法が相手に対抗しうる軍備を持たないという事なんですか? 自分の身内が殺されても相手の兵士を殺さないほうが大事だと?
=+=+=+=+= 余り知られていないかもしれないが、当時の上級将校たちの中にも特攻に批判的な人たちはたくさんいた。平成天皇(現上皇)も皇太子時代に特攻に批判的であったことが知られている。しかし、少数の勇ましい過激な意見が通りやすいのは今も昔も同じだ。「貴様は命が惜しいのか!」と言われれば、当時は何も言えなかった。ポツダム宣言受諾直前まで「一億総特攻の覚悟を持てば勝てる」と叫ぶ愚かな軍人も少なからずいた。あの狂気の時代にこれだけの覚悟を持っていた人でさえも、特攻を拒否できなかったのかと思うと胸が痛む。
=+=+=+=+= 昨年、初めて靖国に参りました。軍人だけでなく、日本軍の為ではなく若者(兵隊さん)のために尽力された民間人の方(看護師・商店主等)も祀られており驚きました。議員の靖国参拝が話題になりますが、あくまでも個人の自由で良いと思います。この記事を拝見し靖国に対する思いは、個々、一人一人違うことを改めてかんじました。
=+=+=+=+= どうして終戦日に向けて、戦死者を無駄死にみたいな記事を書けるのでしょうか、こういう意見も色々あったでしょうがこの方たちの行いが今の日本を作った功労者です。 白旗上げて捕虜になれば良いと言う意見も多く見られますが私の祖父の同期は中国で捕虜と成りシベリア抑留で誰一人日本に帰ってきていません、、、、そう言う時代だったのです、勝つか負けるか生か死の極限状態だったのだと私は思っています。 この記事の様な性善説が成り立つならウクライナはどうなるのでしょう? 今一度過去の戦争と今日本が置かれている危機的状況を考える時では? ロシアや中国に征服されて幸せになれると思って居るのでしょうか?
=+=+=+=+= 特攻兵だけでなく、職業軍人、召集兵にかかわらず、多くの若者が命を祖国に捧げた。 愛国心に溢れ、頭脳明晰で家族を思いやる事のできる立派な若者達を失った事は国家の一番の損失だと思っております。 もう一年、いや半年でも早く戦争が終結していれば、戦後の日本復興はもっと変わっていたかもしれません。
=+=+=+=+= ひるおびでは本日終戦記念の一言もないまま、自衛隊の戦闘機にアナウンサーが乗って訓練に参加したということを伝えていた。その中には、戦争の悲惨さ、繰り返してはならないことを伝えることは一切なく、戦闘機格好いい、自衛隊の役割の重要さのみを伝える意図となっていた。思慮の足りないアナウンサーは最後に、自衛隊のみなさんのすごさとかっこよさを知った。と伝えていた。コメンテーターも自衛隊に乗ったと言って無用な知識をひけらかしていた。これは、政府からこれを伝えろと言われたのか自主的な番組作りかを知りたいところであるが、めぐみの番組は、株投資をひたすらあおったり、自民党よりの田崎を重用するなど政府よりの番組作りとなっている。 今に大本営発表ってやるんじゃねえのか?
=+=+=+=+= 特攻という非人道的な戦いを開発した軍人、特攻で若者を死なせたのに自分たちだけ安全な所で保身に走った教官・司令官。さらに陸軍省・海軍省で戦争を指導した中級幹部も同様です。 戦争や戦闘を忌み嫌うだけではなく、一般の日本国民を死に追いやった職業軍人や彼らに積極的に協力した官僚の戦争責任を改めて問うべきです。
=+=+=+=+= 特攻作戦を美化するわけではなく、古今東西、国のために命を賭した個人の行動や、実際に命を落とした英霊には敬意を表するのはおかしい事ではない。そういうことも言えない空気は逆におかしい。そういう意味で美化はする。他方、遺族の方がおっしゃられるように、国(軍部)主導の元、戦争を起こしたことや、その結果特攻という無慈悲な作戦を敢行した。なので戦争の元凶を糾弾というより、その構造やそこまでに至った経緯、そこから終戦までそのプロセスの中で起こった人間心理をよく理解し、二度とこの悲劇を起こしてはならないという戒めにすることが最も大事。
=+=+=+=+= 「戦争を無くそう」と言うのは簡単である。では、どのようにしたら無くなるのか? 無くす為には、人の話を聞く・嘘偽りを云わない・しっかり自分の意思を伝える・世界中の人が高等教育を受けられる世の中になる事・差別をしないなどなど切りがない。 代々受け継がれていく戦闘教育を受けた人達が、簡単に変わるわけではない。 戦わずして意味も無く声を上げている大勢の人をどうやって改心させるのか? ジャーナリストだというならば、ジャーナリズムの在り様を叩き込んで紙面・カメラに向かって欲しい。
=+=+=+=+= 特攻隊を決して美化・賛美しては行けない。 「神風」とか「英霊」とか、そう賛美しなければ国のために命を落とす(した)ことを納得させられないのだろう。頭の良い人なら、日本はこの戦争に絶対に勝てないと分かっていたはず。 特攻隊は無能な為政者による愚かな判断の犠牲者に他ならない。 誰も死んで良い方々ではなかった。死にたくはなかっただろうし、隊員それぞれに大切に思う人や思われる人がいただろう。洗脳されていたか、そうでなければ仕方なしに行かざるを得なかった。 後世に生きるわたしたちがするべきは特攻隊を賛美することではない。彼らを悼み、過去を反省し、二度と不毛な争いを起こさないことだ。
=+=+=+=+= 話したくないまま亡くなられた方も多いと思う それでも、話してくれる人がいる限り、聞いておかなければならない話だと思う 志があり、大学に進んで、日本を担っていった学徒の人たちが失われた 誰も戦争なんてしたくなかったと思う もっとちゃんと知っていかないといけないと思う
=+=+=+=+= 死後の世界が存在するのか、しないのか、は万国共通人類のなぞですよね。 しかしながら、宗教や思想の世界、オカルト超自然の世界では、何らかの希望を死後の世界に求め、人間の魂に不滅のエネルギーを与えたがるのが一般的な傾向ですし、それを誰も否定出来ないのが、事実です。 今、地球上にはおよそ82億人の人間が生きて活動しているそうです。 有史以来を2024年としたら、累計の人間魂数はどれ程なのでしょう。 特定の思想に、人間の御魂を利用するのは、なんだか、ちっぽけな話なんじゃないのかな、って思います。
=+=+=+=+= 若い命を武器として自殺攻撃に利用することは、いつの時代であっても極めて残酷な行為です。神風特攻隊は、人類の戦争史において最も悲しい、そして最も恥ずべき記録の一つです。それを美談として語り継ぐべきではありません。どの国にも、祖国のために命を捧げる覚悟を持った若者たちは存在しますが、戦争の指導者が勝利のためにこのような狂気の命令を下すことは、完全に反人道的であり、人間性を欠いた野蛮な行為です。飛行機に乗り込んだ若者たちは、恐ろしい戦争の犠牲者に他なりません。今日の日本が法治と民主主義に基づく国家となっているのは、彼らの失敗によるものです。もし彼らが成功していたなら、今日の私たちは皆、戦争機械の一部に過ぎなかったでしょう。
=+=+=+=+= すでに亡くなった私の叔父さんも戦争に行かれたそうです。 私が小学校6年生の頃、戦争学習の一環で「近所のお爺さんお婆さんに戦争の経験を教えてもらいましょう」という課題が出ました。
当時は「学校の授業だから」と思って常識的な事だと認識していましたが、おじさんは「戦争は酷かった」としか喋りませんでした。 ノートとペンを持った私がいるので、「もっと喋るべき」かと思いますが、戦争はドラマや映画とは違うというのを30にまでなってよく分かりました。
某キャスターが「『アメリカ兵を殺してしまった』という実感はありますか?」と真珠湾攻撃をした方に問いかけたことがありますが、とてもそんな尋問のような事はできません。
一級建築士にもなった私の叔父で、いつも家に行くと「おぉOOO来たか」と招いてくれる方です。 誰にも語りたくない事があります。
ただ、それを誰にどのタイミングで話すかはその人が決める事です。
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